前の投稿に対するコメントの返信としてAcceptableリスクについて書き始めたら長くなってしまったので、改めて投稿の形で掲載します。
Acceptableリスクというのは、個人としてどの程度のリスクを受け入れられるか、ということです。たとえば、道を歩いているとき、車にはねられるリスクがある。しかし、そのリスクを恐れて道を歩くことを止めると、どこにも行けなくなります。なので、リスクはあるけれども、道を歩く、という選択をするわけです。これがAcceptableリスクです。しかし、道を歩いていても、できるだけ車にはねられないように努力をすることはできます。歩道を歩き、信号を守り、左右をよく見て歩けば、かなりの程度、車にひかれるリスクは減ります。つまり、ある程度のリスクを想定していても、それを軽減する努力をすることはできます。
原発の場合で言うと、原発は事故を起こし、放射能漏れを起こすリスクがある。しかし、電力は必要だ。だから、ある程度のリスクを背負って原子力発電を続ける、というのがこれまでの原発推進派の政策であり、日本のエネルギー政策であったわけです。しかし、そのAcceptしたはずのリスクを「原発は安全」という神話を作り、あたかもリスクがないような宣伝をしたことは大問題です。こうなると、リスクを想定して、それをAcceptableなものかどうか判断できないような状況を作ります。そのようなことは公共政策としてあってはならないと思います。
「想定内」という言葉は原発を作る側、進める側の論理です。原発を作る側は「原発が事故を起こす」というリスクを軽減するために、さまざまな措置をとるわけです。その措置をとるにあたって、一定の「想定」を設定する必要があります。耐震構造の強度をどの程度にするのか(震度7に耐えられるようにするのか、震度8なのか、震度9なのか)、津波対策はどの程度する必要があるのか(100年に1度の津波なのか、1000年に1度の津波に備えるのか)、といったことです。こうしたリスクを想定し、「震度8に耐えられる構造で、100年に1度の津波に耐えられるようにすればよい」という前提を立てて設計をするわけです。
しかし、問題はこうした「設計上の想定」と「リスクの想定」を一緒にしてしまったことです。設計上の想定というのはものを作る際に、必ず必要になります。もし「震度9の自信と1000年に1度の津波に耐えられるようにする」とした場合、それは今回の震災には耐えられるかもしれませんが、もしそれよりも大きな地震があった場合は耐えられなくなります。つまり、いたちごっこになってしまいます。
なので、この場合、「設計上の想定」として、「震度8と100年に1度の津波」を想定し、そのうえで「それでも震度9とか1000年に1度の津波というのも来る」という「リスクの想定」をする必要があります。その場合、さすがにハードウェア(耐震構造や防潮堤)で守るのは無理なので、「もし震度9や1000年に1度の津波が来た場合のために、避難する場所を確保したり、放射線防護服を用意し、放射能対策特殊部隊を訓練しておく」といった形で対応するしかないと思います。
そのうえで、原発を作る側(推進する側)は「設計上の想定は震度8で100年に1度の津波です。もしそれ以上の震災が起こった場合、皆さんに逃げてもらうように用意します」と言った上で、「それでも原発を作っていいですか」と問いかける必要があります。その際、もちろん「原発を作らなければ、電力は足りなくなりますし、火力発電ばかり進めては二酸化炭素が増えて環境にも悪いです」という話をする必要があります。その中で、「原発を作る側がそれだけやっているのであれば、1000年に1度のリスクであればAcceptableだな」と判断するか、それとも「1000年に1度といっても明日かもしれないから、やっぱりいやだ」と思うかは、きわめて主観的な判断です。
少なくとも、日本の原発政策の最大の問題は、こうしたAcceptableリスクかどうか、ということを明示的に判断できないような状態を作っておいて、リスクを負担する側である国民をだまして原発政策を進めた、というところがあるからです。もちろん、それは意図的にだましていた部分があると思いますが、もうひとつは、自らが自分自身で作った「安全神話」の中で自己暗示にかかり、その自己暗示の結果、「設計上の想定をきちんとやっておけばリスクは回避できる」と思いこんでいた部分がある、というところが日本の原発政策の悲惨なところです。
こうした「設計上の想定」=「リスクの想定」になってしまったことが「想定外」という言葉を生み出し、それが国民にとって「だまされた感」につながっているように思います。本来ならば、すべてのリスクを想定し、それに対処しているはずなのに、そのリスクをきちんと想定しておらず、勝手に「設計上の想定」に合わせてしまっていた、ということが今回の事故で明らかになったのです。これがAcceptableリスクをめぐる、日本の原発政策のひどい部分だと思っています。
私を含め、それを指摘すべき立場の研究者がそうした点を見抜いていなかったということも大きな反省点だと思います。現在、世間は反原発という流れが強くなっていますし、それはそれで当然の反応だと思うのですが、前の投稿でも書いたように、ある種の「放射能ファシズム」のような状況になってしまうことを懸念しています。やはり冷静にリスクを考え、そのうえで、何がAcceptableリスクなのか、という判断をする必要があります。原発は必要だ/不要だという判断を他者に押しつけるような議論ではなく、原発はなぜ必要/不要で、その時のリスクやデメリットは何なのか、ということをきちんと議論できるような環境を作っていくことが大事だと思っています。
(余談ですが、私は喫煙者です。たばこがもたらす健康上のリスクも理解したうえで、そのリスクをAcceptしています。また、受動喫煙のリスクも理解しているつもりです。なので、受動喫煙のリスクをAcceptしない人の前ではたばこは吸いません。人にはそれぞれAcceptableリスクがあり、どこにラインを引くのかは個人の判断でしかないと思っています。逆に、自分の「科学的知識」が正しいとして、私に向かって「たばこを止めろ」と説教するようなこともしてほしくないと思っています。さらに言えば、法律や条例でそれを禁止するというのもどうかな、と思っています。喫煙による健康リスクを知らずに喫煙しているわけではなく、そのリスクを踏まえたうえで、それをAcceptしているので、他者にリスクを発生させないような状況であれば、自分の判断を尊重してもらいたいと思っています。)
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