2011年5月28日土曜日

「年間1ミリシーベルト」で安心できるのか?

昨日、文部科学省が学校での児童・生徒の年間被曝量を1ミリシーベルト以下に抑えることを目指す方針を打ち出した(朝日新聞の記事)。この決定自体にもいろいろ問題があるが、この決定に至るまでの過程にも疑問が残るものが多かった。いくつか気がついた点を指摘しておきたい。

まず、果たして年間1ミリシーベルトという数値は現実的なのか、という問題がある。確かに、放射線防護の観点からすると、年間1ミリシーベルトの被曝は一般公衆の上限値であり、それが一つの参照基準となるであろう。しかし、原発事故が収まっていない中で、年間1ミリシーベルトという数値を実現するのはかなり困難である。それを公的に「目指す」と発表してよいものなのか、疑問が残る。

実は平時における年間1ミリシーベルトという数値は大変厳しい数値である。放射線量は気候や地形によっても大きく影響されるが、何よりも自然界に放射線を射出する能力(放射能)を持つ物質はいくつもある。温泉の成分であるラジウムやカリウムなども放射能がある。また、大気で遮られているとはいえ、宇宙から降り注ぐ放射線も地上に到達する。こうした自然界にある放射能で被曝する量は、実に年間2.4ミリシーベルトなのである。もちろん、これは地域や気候によって違いがあるため、世界全体の平均の数値なのだが、年間1ミリシーベルトという数値はかなり厳しい設定であることがわかるだろう。

もちろん、放射線被曝は少なければ少ないほどよい。しかし、いつの間にか「年間1ミリシーベルト」が独り歩きしてしまい、それがどの程度の意味をもつものなのか、どのような健康リスクを生み出すものなのか、ほとんど考えられることなく、「年間20ミリシーベルトは高すぎる」「文科省は子供のことを考えていないのか」といった批判が巻き起こり、その批判に押される形で、文科省は現実的にかなり実現可能性の低い「年間1ミリシーベルトを目指す」ということになった。

ここに第二の問題点があるのだが、この目標はあくまでも「目指す」という努力目標である。そこには法的な強制力も、政策的な手当てもない(ただ、文科省は土壌改良の予算を計上すると言っている)。さらに言えば、この目標は「学校内での被曝」ということに限られている。学校内での生徒の滞在時間のうち、室内(放射性物質は室内では少ないため被曝量が減る)に滞在する時間を除く時間を計算し、それを登校日数で掛け算することで、年間1ミリシーベルトという数字を実現するという話になっている。

しかし、重要な問題は子供がどの程度被曝するのか、という問題であり、学校内だけでなく、学校外での被曝も考えなければならない。しかし、世間およびメディアは、文科省の新たな目標設定で溜飲を下げているような印象を持つ。もちろん、福島県内の子供を持つ親は登校時や下校後の外遊びを控えたりして可能な限りの放射線防護の措置をとるだろうと思われる。しかし、文科省がひとたび「年間1ミリシーベルトを目指す」といった瞬間、なんだか突然問題が解決したかのような雰囲気になるのは、いささか驚きがあった。

2チャンネルやツイッターなどの匿名性の高いサイバー空間では、今回の文科省の決定を「英断」とか、「福島の母の愛の勝利」といったイメージでとらえる言説が出来上がっている。これにはかなり不安を覚えた。すでに述べたように、年間1ミリシーベルトという数値は現実性の低い数値であり、文科省の設定も努力目標の設定となっており、さらに「学校内」という限定された設定であるので、結果として年間1ミリシーベルトを実現することができない可能性を含んでいるだけでなく、子供の健康リスクについての解決にはなっていないにも関わらず、すでに原発事故がなくなった可能ような騒ぎになったことに不安を覚えたのである。

その背景には、まず小佐古内閣官房参与が涙ながらに「20ミリシーベルトは高すぎる。1ミリシーベルトに近づけるべき」といった発言をしたことが根底にあるように思われる。ここで初めて、多くの人が「20ミリシーベルトは子供にとっては高い数値」という認識を持ち、「1ミリシーベルトにしなければいけない」という意識を持つようになったと思われる。

確かに、子供の放射線被曝に関しては、その影響がどのように出るのかということは明白ではなく、チェルノブイリ事故の時も、子供の甲状腺ガンが異常に多くなったため、子供への放射性ヨウ素の蓄積は大きなリスクになるということは確かである。しかし、本当に年間20ミリシーベルトが高いのかどうかは、科学的に立証する方法がない。あくまでも、「子供はリスクが高い」というところからの推測でしかない。もちろん、そのリスクがある限り、予防的な措置はとられるべきである。しかし、涙ながらに記者会見し、内閣官房参与を辞めるというニュースを見れば、多くの人が「専門家が言っているのだから、絶対にまずい」と感じたに違いない。それが結果として、「年間1ミリシーベルトでなければならない」という固定観念に変わっていったのだろうと思われる。

しかし、すでに5月1日のブログ(「リスク管理とは何か」)で述べたように、この小佐古参与の辞任劇はやや政治的なにおいのするものであり、科学的な確証がはっきりしない問題について、極端に断定的な表現を使っていた点で、科学者としての不誠実さを感じるものであった。つまり、彼は本当に「年間20ミリシーベルト」が高すぎるということを信じていたとしても、表現の仕方やメッセージの伝え方を見ると、現在の菅内閣を貶めるための演技のように見えた。

しかし、彼のメッセージは強烈であった。「専門家が言っているんだから、年間1ミリシーベルトでなければならない」という固定観念が独り歩きし、それが福島県を中心とする人たちを動かし、文部科学省の前で抗議行動をさせ、その圧力をもって、文科省は現実的には大変困難な「努力目標」を設定するという流れが出来上がった。

その結果、何が生まれたのか。それは福島県民以上に、全国的に広がった安心感である。とりあえず専門家が年間1ミリシーベルトと言い、文科省が年間1ミリシーベルトを目指すと言ったのだから、それで問題は解決した、という安心感である。しかし、これは「虚構の安心感」としか言いようがないものである。すでに述べたように、まず文科省は努力目標しか設定せず、それが達成されることは難しいだけでなく、今でも原発事故は収束しておらず、放射能は拡散しているからである。なので、文科省がどう頑張ろうと、福島第一原発が放射性物質を撒き散らしている限り、放射線の累積量は増えていくしかない。その現実をあたかもなかったかのように考えるのは虚構でしかない。

にも関わらず、文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」と言った瞬間、多くの人が安心できたのはなぜだろうか。そのひとつには「政府への不信感」と裏腹の関係になっている「お上への信頼感」のように思う。通常、「政府」と「お上」は同義語として扱われるが、政権交代による「政治主導」により、「政府」=内閣ないしは政権と「お上」=超越的な権威との違いが次第にできてきたのではないかと考えている。この間、菅内閣の情報発信や政府発表の訂正など、おおよそ信頼感とは程遠い稚拙な情報発信しかできず、危機管理や危機対応をする能力が欠如していることが明白になっているところ。また、東京電力や保安院に対しても不信感が高まっており、その意味では彼らも「政府」の中に含まれている。しかし、他方で何らかの判断基準や意思決定をする存在は必要であり、賠償や復興には「お上」の力が必要である。そのため、「政府」は信用できないけれども、超越的な存在である「お上」がきちんと判断してくれれば、それで問題が解決できる、という依存がそこにはあるように思われる。今回は、たまたま「天の声」を発してくれる「お上」が小佐古前内閣官房参与であり、その「お上」のご宣託を受けて、「年間1ミリシーベルトを目指す」という文科省も、晴れて「お上」の仲間入りをしたので、とりあえずそれを信じようとする心理が働いているように思う。

もうひとつは「求めていたものが得られた満足感」なのだろうと思う。これまで、何が正しいのかわからない、という不安と不信感の中で、「お上」である専門家が泣きながら「年間1ミリシーベルト」というご宣託を下したのだから、それを「政府」が認め、受け入れたということで、「やっぱりご宣託が正しかった」という安心感や、「何だ、やろうと思えばやれるんじゃん」という満足感を得たことが大きいのではないかと考える。

さらに、「わからないことをわかった気になった」という心理、つまり「Acceptableリスク」になった、という心理が働いたように思える。人間はさまざまなリスクのある社会に生きている。道を歩けば交通事故に合うかもしれず、食品添加物を食べれば体調が悪くなるかもしれず、スポーツをすればけがをするかもしれない。しかし、そういうリスクを人間は一定程度受容している。その受容の程度は人によって大きく違う。この点については、また別の機会できちんと論じたいが、要は、文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」という保証を与えることで、一応の安心感を得、その程度のリスクであれば受容できるという気になった、という点が大きい。実際は年間1ミリシーベルトを上回る可能性もあるが、その可能性に目をつぶることで、安心感が出てきたといえるであろう。言い方を変えれば、もし年間1ミリシーベルトにならなければ、また文科省を非難すればよいという判断ができるようになったのである。こうした責任の移転(なすりつけ、英語で言うとBlame shifting)が起こることで、人間は安心感を得るものなのだと考えられる。

もうひとつ挙げるとすれば「遠隔地当事者の満足」ということがあるだろう。「年間1ミリシーベルト」をめぐる議論は福島県で実際に放射線被曝に直面している人たちだけの問題ではなくなっている。メディアを通じ、全国的な問題として関心を集め、そして全国的に不安が広がっていた。また、これらの人々が、直接放射線被曝の問題に直面しなくとも、ツイッターなどを通じて「当事者」としての意見を発信し、そこで一種の言論空間を作っていくことになった。これはベネティクト・アンダーソンの『想像の共同体』で出てくる「遠隔地ナショナリズム」の現代版として「遠隔地当事者意識」とでも名付けられるものであり、福島県の人々が直面している問題を共有し、共感し、そしてそこから「遠隔地当事者」としての関与を始めていく。そうなると、直接の放射線被曝の問題には直面していないため、本当にリスクが回避できるという保証もないのに、それで安心してしまうという心理が働いたのではないかと考えられる。また、こうした「遠隔地当事者」が安心し、満足することで、全国的に盛り上がった文科省への非難は止み、その結果、このイシューはイシューとしての価値を失ってしまったため、文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」と言った瞬間、福島県の人たちの声も聞こえなくなってしまったのである。

このような理由から、「虚構の安心感」が成立しているが、しかし、それはあくまでも虚構でしかなく、現実から目をそらし、とりあえず何とか安心したいという群集心理が働いているように思う。このような危機の状態において、その群集心理が働くことは不可思議ではないし、それなりの理解もする。しかし、こうした群集心理を増幅する形でメディアがニュースを報じ、本当のリスク、本当に心配しなければいけないことが覆い隠されてしまっていることが妙に気になる。

また、こうした群集心理が、ツイッターや2チャンネルといった匿名性が高く、感情的な議論が支配的になりがちな言論空間において、さらに増幅され、そうした不信感や不安感、怒りや憎しみ、決めつけと他者批判が蔓延しているのを見ると、非常に不気味なものを感じる。直感的に、こうした不安な状況がメディアによって増幅され、さらにツイッターなどで再増幅されることで、いつの間にか「年間1ミリシーベルト」は「ご宣託」となり、小佐古氏は「神(ツイッターや2チャンネルのボキャブラリーとしては「凄い人」という意味らしい)」としての権威をもつようになり、それに反対する政府の決定や、それを疑う者に対する排除の論理が働くようになる姿を見ると、なんとなく「放射能ファシズム」みたいなものが立ち現われてきているような不気味さすら感じる。大事なことは、冷静にものを考え、わからないことはわからないと割り切り、無理やり答えを求めないこと、そしてどのようにリスクと付き合うのか、何を「Acceptableリスク」とするのかを考えておくことなのだろうと思う。

2 件のコメント:

  1. 社会学的なことに触れる機会が少ないので、興味深く読ませて頂きました。『Acceptableリスク』・・・想定内ってことかなぁ~。

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  2. コメントありがとうございます。返信が長くなってしまったので、新たな投稿として掲載しておきます。

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