2012年3月23日金曜日

原子力安全委員会における「公開」について

本日、原子力安全委員会が原子力安全・保安院から提出された大飯原発3,4号機のストレステストの結果を了承した。定例ではなく臨時会合として開かれたが、かかった時間は5分。書かれた文書を読み上げるだけの会議であった。すでに非公式に議論が進められ、委員の間でコンセンサスが取れていたから、臨時会合はあくまでも公式な手続きにのっとって、公開の場で採択しなければならないので、それを行っただけなのだろう。

このストレステストの問題、安全委員会の役割など、いろいろな問題点はあるが、まずはこの「公開」の意味を考えてみたい。

これまで日本の原子力政策は「自主・民主・公開」の原則のもとに行われてきたことになっている。これは、日本が原子力の平和利用を始めるにあたって、原子力の軍事的利用を認めない、その歯止めとして導入された概念であり、同時に外国の技術ではなく、自らの技術で原子力開発をするという推進側の理念でもあった。

この「自主・民主・公開」の理念は素晴らしい。しかし、理念が素晴らしくても、「原子力ムラ」は立派に成長し、様々なトラブル隠しがあり、史上最悪と言われる事故が起こった。この理念があったからこのようなことが起こった、というつもりはないが、このような理念が空虚であったということを証明することは難しくないだろう。

ここで理念が役に立たなかったということを議論しても仕方がない。しかし、「なぜ」理念が役に立たなかったのか、「どうすればよかったのか」ということは考えておく必要があるだろう。

まず「自主」であるが、これは曲がりなりにも成功している。政府は一貫して原子力を推進し、様々な失敗、とりわけ核燃料サイクルに関連する技術の自主開発にはいまだに成功していないが、それでも商業炉の建設ということだけ見れば、自主技術の開発が進められてきた。この点は今回の議論の焦点ではないので、とりあえず置いておく(問題がないわけではないのでいずれ取り上げたい)。

次の問題は「民主」である。科学技術を民主的にコントロールするという理念は非常に重要で、崇高な概念だ。それを実現しようとして科学技術社会論(STS)などの分野も発達している。しかし、私は個人的に科学技術を「民主的」にコントロールできると考えるのは無理があるように思っている。

というのも、圧倒的な技術的専門的知識の格差があるからである。私は文系出身者で技術的なことがわかるわけではない。なのに、宇宙開発や原子力安全の問題を勉強している。しかし、技術的なことはわからないことが多い。多すぎる。本当にそれは適切な技術なのか、それは安全な技術なのかを判断する基準も知識もない。ゆえに、一生懸命勉強している。

しかし、これを市民がすべて行うことはほとんど無理だと思う。基礎的な知識だけでも理解することは大変難しい。そうなると技術的な知見に基づいた「民主的」なコントロールは大変困難である。

ただ、「自主・民主・公開」の原則における「民主」というのは必ずしも、市民が専門的技術的知見に基づく判断をすることを想定しているわけではなく、それは国会が良識を発揮して、原発に賛成、反対を含め、建設的に批判する知見を持つ人たちを含めて決定していく、という意味を持っていた。しかし、そうしたことを国会が行ったということは寡聞にして聞かない。むしろ、「原子力ムラ」を構成し、ともに利益を共有する存在として政治家は存在していた。そんな中で「民主」の理念が実現できるとも思えない。

また「公開」の原則も、理念としては良いかもしれないが、現実的には実現の難しい問題である。原子力技術や原子力発電所は、軍事的に応用可能な技術であり、それを一般に公開することは、他国(たとえばイランや北朝鮮)に軍事技術をただで教えるようなものになってしまうし、また、テロリストに攻撃する余地を与えることになってしまう。そのため「公開」にはおのずから限界がある。

さらに大きな問題は「公開」を前提にすると、様々なものが地下に隠れてしまう、ということである。私は一時、国連の様々な会議を見る機会があったが、国連というのは第二次大戦の反省から「秘密外交」ではなく、「公開外交」を行うため、オープンな場で会議を進めるということを理念としてきた。なので、我々もテレビで国連総会の様子を見ることができるし、会議での発言は議事録で見ることができる。

しかし、実は国連安保理は「公式チェンバー(会議室)」の隣に「非公式チェンバー」というものがあり、ここにはプレスも入れないだけでなく、国連加盟国であっても安保理のメンバー(15ヶ国)でないと入ることができない。我々がテレビで見る馬蹄形に並べられたテーブルで行われている国連安保理の採決は公式チェンバーの映像だが、あれは安保理の議論の最後、採決の時にしか使われない。それ以外の本質的な議論は非公式チェンバーですべて行われる。

本日の原子力安全委員会の5分間の臨時会合を見て思い出したのは、この安保理での決定プロセスである。「公開」を理念として謳っても、結局、本質的な議論を表でやることは難しく、「公開」を義務付けたところで、議論は見えないところで行われる。

そうなると「公開」を前提にして、人々が情報を受け取り、それに基づいて判断するという「民主」という概念は成立することが難しくなる。東京電力が提供した原発事故マニュアルも、結局、保安上の理由に加えて、知的所有権という理由から真っ黒に塗りつぶされて提出された。本来ならば、こうした事故の責任を取って、すべての情報を提供し、何が問題だったのかを検証する手続きに全面的に協力すべき東京電力は、これまでの形式的「公開」と地下に潜った情報公開(つまり原子力ムラの中でしか情報共有しないという姿勢)という態度を変えなかった。そこから東京電力の誠意も責任も感じることはできないが、それはともかく、原子力基本法を作った段階での「自主・民主・公開」の概念がこれほどまでに形骸化していたということを象徴する事例といえよう。

では、どうすればよかったのか。「自主・民主・公開」といった形骸化した理念などなかった方が良かったのか。

いや、そうではない。この理念は間違っていないのだ。何が間違っていたかといえば、こうした原則を作ったことで安心し、その理念が形骸化していくことを食い止める努力をしてこなかったことである。「自主」はともかく、「民主」と「公開」については、一般市民である我々も、政治家も、電力会社も、原子力技術者も、みんなこの理念にコミットし、それを守ろうとする意志を示せば実現できたはずである。しかし、原子力を推進することを国中を上げて支援した1950年代、激しい反原発運動が生まれた1970年代、そして様々なトラブルが発覚し、原子力政策が強く批判された1990年代と、様々な局面で、この理念は忘れられ、形骸化されていった。

特に重要だと思うのは、原子力の導入を決めた1950年代に政府が強引に進めていく原子力政策に対して、それを食い止めることができず、メディアも世論も原子力推進に向かっていく中で、ごくわずかな科学者や技術者しか批判的な勢力として存在せず、原子力推進の流れの中で、建設的批判を行う存在が無視されてしまったことがある。その結果、1970年代に反原発運動が活発化した時も、原子力推進によって強固に構築された制度的枠組みと「原子力ムラ」と国民の無関心に立ち向かうため、過激な言説や「何が何でも反対」という立場を貫かざるを得なくなった。それは、結局、反原発運動が一定の支持を集めることには成功しても、原子力政策の大きな流れに掉させる状況にはならなかった。また、過激な言説を導入することで、「賛成か反対か」という二元論に陥ってしまい、建設的な批判をすることが難しい状況になった。

その結果、反原発派に対抗するために、原子力推進派は「公開」の原則を形骸化させ、どんどん情報は地下に潜るようになり(といっても原子力委員会や原子力安全委員会の文書は公開され続けるが)、結局、あずかり知らないところで物事が決まるという状況が常態化し、「民主」的コントロールをするということがほぼ不可能になったのである。

今日の原子力安全委員会の臨時会合が5分しか開かれず、それに起こった傍聴者が野次を飛ばしたり、机を乗り越えて意見を言おうとしている姿を見て、「結局、何も変わっていないんじゃないか」と思わざるを得なかった。これまでの「賛成か反対か」という議論を乗り越えることができず、反対を騒ぎ立てれば立てるほど、「公開」の場で行われる議論が形骸化され、ほとんどが地下に潜ってしまうという構図が何も変わっていないのである。

今必要なことは、感情的に原発に反対し、何が何でも原発の再稼働を止めるということなのだろうか。確かに、今回の原子力安全委員会の決定には納得できず、何度聞いても班目委員長の説明は理解ができない。再稼働をするという判断を誰がするのかという責任の所在も曖昧なままだし、きちんとした安全規制の再検討がなされたとも言い難い。しかし、だからと言って、感情的な反原発を叫ぶだけでもよいのだろうか。

私は、今必要なことは建設的な批判をする集団を作っていくことなのではないかと思っている。すでに述べたが、「民主」的コントロールをするには、専門的技術的知識に大きな格差がある中で、感情的な反対をしても、「原子力ムラ」に訴える力は弱いのではないかと考えている。きちんと建設的な批判ができる場を作り、原子力政策をどのようにしていくのか、様々なオプションを示しながら、冷静に議論できるようになるのが一番望ましい。

そのためにも、情報の「公開」は絶対に必要である。その「公開」ができないような状況になるのは一番避けたいことである。そのためにも、感情的な反原発をぶつける場として「公開」の場を利用するのではなく、この理念をテコにして「原子力ムラ」の中から情報をどんどん引き出し、それに基づいて議論をするということができれば、今後の原子力政策を考える一助となるだろう。

そのためにも、単なる会議の「公開」にとどまらず、政治的・法的・制度的に情報の「公開」を保証し、建設的な議論ができる場を設けるのが政治の責任といえよう。そうしたことなしに素人である政治家が「政治的判断」を振りかざして原発再稼働に向かっていくことは最も望ましいことではない。

【追記】

敢えて本文では書かなかったが、この記事を書く動機は、民間事故調での検証作業で、保安院も東電も積極的に情報を提供してこなかったことが背景にある。本来ならば「公開」の原則に基づいて情報提供をするのが筋であり、また、事故を起こした当事者として、検証される立場としての責任であり、将来に向けての原子力安全を考えるための貢献という意識が全く見られなかったのはなぜか、という疑問から出発したため、ストレステストや安全規制の問題よりも、「公開」の問題について書いてみた。ご理解いただければ幸いである。

3 件のコメント:

  1. 社会科学者の時評というブログよりも、こちらのブログの方がレベルが高い。

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  2. ありがとうございます。これからも評価していただけるようなブログにしていきたいと思います。よろしくお願いします。

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  3. はじめまして。「建設的な批判をする集団を作っていくこと」がどの分野においても大切なことを実感しています。この「批判」には「対案」が必要なのですが、仰る通り、技術的に理解が難しいことが足かせになっています。それでも「対案」を示さない限り「原子力ムラ」の主張が通るのが現実ではないでしょうか。今後のご活躍を祈念しております。

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