2012年3月7日水曜日

私にとっての3.11

あと数日で東日本大震災から一年。振り返れば、この一年は私にとっても大きな変化の年であった。中でも財団法人日本再建イニシアチブ(以下、財団)の福島原発事故独立検証委員会(以下、民間事故調)の作業部会(ワーキンググループ:WG)に参加したことは大きな変化であった。

ちょうど一週間前に民間事故調の報告書が公表され、メディアでも大きく取り上げられ、市販されることとなった報告書の予約注文も予想を超えるものとなっており、報告書の執筆にかかわったものとしてはうれしい限りだが、同時に様々な批判も寄せられている。

それらを踏まえて、私自身が何を考え、どのように民間事故調の調査にかかわったのかを記しておきたい。とりあえず、ここでは、一年前の3月11日から民間事故調のお誘いを受けるまでのところを記し、民間事故調に参加してからの分は別のブログ記事として書いておく。

【3月11日:その日】

ちょうど1年前の3月11日、私は国際問題研究所が主催するシンポジウムで報告するため、東京都内のホテルの会議場にいた。そのシンポジウムが始まってほどなく、あの大地震が建物を揺らした。さすがにホテルの地下の会議場であったため、被害らしいものはなかったが、ガラスが割れるなどの危険があるため、シンポジウムは私の出番が来る前に中止となり、その場で解散することとなった。

かなり堅牢な建物の地下にいたこともあり、地震の大きさを感じることはあっても、その被害がどの程度のものになるのかは予想がつかなかった。シンポジウムが中止になったため、時間を持て余した私を含む出席者は控室でインターネット経由での情報収集をしながら、呑気におしゃべりをしていた。発災直後はネット上に流れてくる情報も限られており、何が起こっているか、正確なところは理解できなかった。

その後、控室を出てみると、大勢の人がホテルのロビーに集まり、タクシー乗り場には長い列ができていた。鉄道も地下鉄もすべて止まっており、再開の見込みは立っていないということで、多くの人が車や徒歩で帰ろうとしていたが、ホテルにとどまる人も多かった。

この時、初めてテレビを見て、事態の深刻さに気が付いた。あまりのショックに1-2時間はテレビの前を離れることができなかった。人間の作った文明や技術をあざ笑うかのように津波がすべてを乗り越え、すべてを飲み込んでいった。私たちが呑気におしゃべりをしている間に世界が変わってしまったような気がした。

【阪神淡路大震災の経験】

震災の被害をテレビで見るにつれ、いやでも思い出されたのが阪神淡路大震災の記憶であった。私はあの時大学院生で、京都の公立高校で宿直のバイトをやっていたのだが、京都でも震度5であり、強烈な揺れを経験した。そのあと、テレビでゲームのスコアが上がっていくように死傷者の数が表示され、何もできない自分の無力さを感じていた。当時、友人も多く神戸周辺に住んでいたこともあり、発災から3日後には西宮北口まで鉄道が通るようになったので、京都から支援物資をもってボランティアらしきものをやっていた。あの時に見た、崩壊した建物やその下敷きになったご遺体のことが思い出され、胸が苦しくなった。阪神淡路大震災も、東日本大震災も、直接被害にあう場所にいたわけではないが、その揺れを感じ、恐怖と悲しみを想像できるくらいの距離にいたことになる。といっても、実際の被害にあった人達と比べられるわけもなく、その中途半端さがもやもやした気持ちを残すという点で、阪神淡路大震災と東日本大震災の経験が重なったというだけである。

【3月12日:原発事故】

翌日の3月12日は東京大学での国際ワークショップの予定が入っていたが、あれだけの震災の後に開催されるかどうかわからなかった。それでもとりあえず行ってみると、外国からのゲストも来ており、ワークショップは開催されることとなった。しかし、朝から菅首相が福島第一原発に行くなど、原発の問題が抜き差しならない状況になっていると思い、ワークショップの最中もスマホをいじりながら限られた情報を得ようとしていた。しかし、首相が出ていくほどの事態であるにも関わらず、ほとんど情報が出てこないことにイライラしていた。そのワークショップが終わるころ、枝野官房長官による「爆発的事象」という記者会見があり、原発事故が深刻なものだという認識はあった。

しかし、私は原子力の専門でもなんでもなく、何が起こっているのかを理解することは難しかった。テレビに出てくる解説者や官邸、保安院、東電などの記者会見を見ていても、さっぱり要領を得なかった。明らかに危機時におけるコミュニケーションが破たんしていると感じざるを得なかった。

【翌週:パリ出張】

福島第一原発の1、3、4号機で水素爆発が起き、大量の放射性物質がまき散らされている中、3月17日からフランスに出張に行った。その出張中にフランス首相府での会議に招かれ報告をすることになっていたが、首相府の建物の中にあるモニターがすべてNHK Worldを流しており、外国でも福島原発事故に対する関心が強く、その行く末に注目していた。日本にいると、そんなことは感じなかったが、地震・津波だけならローカルな災害であっただろうが、原発事故はグローバルな災害であるということを強く認識した。

また、パリでは、原発の問題についてあれこれと聞かれることが多かった。これまで科学技術政策をやっているとは言っても、宇宙政策が中心であり、原子力については科技庁(文科省)と通産省(経産省)が絡む「Big Science」として比較できる対象であったので、その範囲で勉強はしてきたが、さすがに今回の事故がなぜ起こり、どうなっていくのかは見当がつかなかった。

【3月中に考えたこと】

そんな中で、仮にも科学技術政策を研究対象とし、日本の科学技術行政について批判的に考え、提言をするべき立場にある自分が、この原発事故について、全く何もやってこなかったこと、全く何も具体的な提案をしてきていないことを強く意識させられた。もちろん、私もスーパーマンではないので、あらゆることについて提言するわけでも、きちんと分析できるわけでもない。しかし、宇宙政策の問題に取り組んでいた時に感じた「当事者による利益共同体」、いわゆる「宇宙ムラ」のようなものは、原子力ではより強く存在し、「原子力ムラ」が成立していることは明らかであった。だとすれば、私が宇宙政策に取り組んだ時の経験、つまり、複雑で高度な技術分野であるがゆえに、技術者がヘゲモニーを握り、そこにメーカーや産業界、官僚機構が絡み合っている状況を分析し、理解してきたことは、この原発事故を分析する上でも役に立つのではないかと考えるようになった。

とはいえ、自分一人で何かをやりだすのは難しい。原子力関係の知人がいないわけではないが、彼らはすでに事故対応で手いっぱいである。自分で勉強することはある程度できても、それが具体的な問題設定となり、政策を変えていくところまでに昇華させるためには、技術的な問題や法制度的な問題を含め、多くの人との議論を重ね、「建設的批判」として認知される水準となる研究成果を出さなければならない。そのための手段もネットワークもない中で、たまたま声をかけられたのが、民間事故調での調査であった。(続く)

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