現在、出張でニューヨークに来ています。仕事は国連総会の第一委員会に合わせて行われるシンポジウムに出ることなのですが、飛行機の都合で一日余裕があったので、「ウォール街を占拠せよ運動(Occupy Wall Street)」の現場を見に行ってきました。現地からの印象はツイッターでメモ書きを送信しましたが、現地で撮った写真もつけてコメントしたいと思います。
この「占拠運動」の第一印象は、「議論の場」ということでした。とにかく、いろんな人たちが様々なプラカードを掲げていて、好き放題に色々なことを主張していて、それに挑戦する人、共感する人がとにかくよくしゃべっている。「占拠運動」の基本的な路線はアメリカにおける貧富の格差への怒りであり、大企業や投資銀行が救われているのに、人々が救われていないということへの怒りなのですが、現在のシステムに対する不満を持っている人が思い思いに集まって、現状への批判を繰り広げているという点は、想定されているよりも運動の幅が広いということを示しているのと同時に、社会のマージナルな人たちの集合になってしまっているという印象もあり、運動としてどこまで力を持ちえるのか、疑問が残りました。
彼らの主張を見ていると、警察批判や遺伝子組み換え食品反対、共和党批判、オバマ支持と批判、エコロジー運動、戦争反対、ハイチ救済、ネイティブ・アメリカン差別問題、世界平和などなど、とにかくバラバラ。それらをまとめるという方向性もなく、思い思いに主張しているという印象でした。そこで重要になるのがプラカード。プラカードに書かれたメッセージを持っている人たちに対して、議論をふっかけたり、説明を求めたりするような討論の場が自然にできていることはとても面白かったです。以下の写真はいくつかのプラカードの写真です。
こうした状況を見ていると、リベラルなテーマを一堂に集めた、ある種の言説のデパートのような場所というのが、このズコッティ広場の特徴のように思いました。一応の統一感(参加している人たちの雰囲気や大きな意味での価値観)はありつつも、主張していることはバラバラで、それぞれ個人商店のようにやっているという印象でした。
しかし、それでもここに泊まり込み、自分たちの主張を表現し続けようとするエネルギーがどこから来るのか、というのは、今一つよくわかりませんでした。単なる怒りというだけではない、何かもっと信念のようなものを感じました。ということは、その信念を共有できなければ、この運動に外部から参加する人が増えていくということにはならないという気もしました。
これは、言い方を変えると、この「占拠運動」はティーパーティのような政治運動にはならないのではないか、という印象を受けました。ティーパーティの場合、明確な政治的目標があり、それを実現する政治家を支援し、その政治家を当選するために票を集めるという運動を展開したわけですが、この「占拠運動」は、必ずしもそうした政治的な単一のメッセージを訴えているわけでも、政策的なプログラムを提案しているわけでもなく、ただ単に批判をしているという段階にとどまっているという印象が強かったです。それは、個々の信念は強くても、結局、それは個人レベルの価値観でとどまっており、実現しようとする世界と、現実世界の間をつなぐイメージができていないということが問題だと思いました。
しかし、オバマ大統領もこの運動を支持し、私が見ている間に民主党の大物のジェシー・ジャクソン(彼は一応政治を引退したことにはなっていますが)が来ていました。また、民主党の下院院内総務のナンシー・ペローシも運動を支持する(Endorseすると言っていました)といっていて、一応、民主党リベラル派は運動にすり寄っているという印象はありますが、運動の側から積極的に彼らに働き掛けるという感じもなく、ジェシー・ジャクソンが来ている間も、メディアの取材記者は集まっていたようですが、周りの運動参加者は関心を持たず、ほとんど見向きもしていなかったのが印象的でした。
さらに、このズコッティ広場から見ると、ウォール街やグラウンド・ゼロなどがすぐ近くにあり、ビジネスマンや買い物客、観光客など、普通の生活をしている人たちが普通に通り過ぎていき、まったく交わる様子もありませんでした。観光客は(私も含め)この運動を見に来たという人たちがいて、写真を撮ったり、「99%!」と書かれたTシャツなどを買っていましたが、それ以上のコミットメントはしないというか、中に入りづらいような状況で、遠巻きに見ているという印象が強かったです。下の写真の手前を歩いている人たちやフェンスに沿って歩いている人たちは観光客の人たちです。
なので、ここの人たちは自らを99%だと主張しているけれども、結局のところ、ここに集まっている人たちは、強い信念を持って現状のシステムに不満を持つ1%であって、その向こうを歩いているビジネスマンや観光客が99%なのではないか、という気が強くしました。
確かに、この運動が主張する貧富の格差の問題や、銀行を救っても市民を救わない政府に対する怒りというのは多くの人に共有されているのだろうと思います。しかし、それは漠然とした抽象的なイメージだからこそ共有されるのであって、具体的な政策や税制の問題などになると、どこまで一致した議論になるのか、また、その後のアメリカの行方、経済政策などをどうマネージするか、という問題になった瞬間に、議論が停滞し、原理原則・信念の主張を繰り返すような結果になってしまいそうな気がしました。
その点から考えると、この「占拠運動」はティーパーティのような政治的なムーブメントにはならないだろうし、オバマ大統領にも失望している以上、彼以上のリベラルな候補をホワイトハウスや議会に送り込むというのは事実上無理なように思います。
とはいえ、これだけ大きな運動となり、大きく取り上げられ、世間の耳目を集めることには成功したので、この運動を完全に無視するということは実質的に無理だろうという気もしています。なので、この「占拠運動」の社会的な意味は、来年の大統領選、議会選挙において、どれだけ「占拠運動」で訴えられた貧富の格差の問題やウォール街の規制を行うのか、ということが争点となるということだろうと思います。「占拠運動」によって提起された問題が、何らかの形で政治家によって取り上げられ、選挙の争点になるようなことになれば、それだけで「占拠運動」は意味があると思いますし、それが一つの成果になるような気がします。
しかし、残念ながら、今日行われた共和党の大統領候補の討論会では、こうした問題が全く取り上げられず、やや泥仕合のような形になっていたのは残念。来年の選挙がどうなるかはわかりませんが、共和党が「占拠運動」が提起する問題を取り上げない限り、結局、アメリカ国民の中に蓄積されている不満は解消されず、問題は深刻になっていく一方のような印象を持っています。
東日本大震災を受けて、世の中が大きく変わっていく中で、日々のニュースに触れて、いろいろと考えなければならないテーマが出てきました。商業的な出版や学術的な論文の執筆にまでは至らないものの、これからの世の中をどう見ていけばよいのかということを社会科学者として見つめ、分析し、何らかの形で伝達したいという思いで書いています。アイディアだけのものもあるでしょうし、十分に練られていない文章も数多くあると思いますが、いろいろなご批判を受けながら、自分の考えを整理し、練り上げられれば、と考えています。コメントなど大歓迎ですが、基本的に自分のアイディアメモのような位置づけのブログですので、多少のいい加減さはご寛容ください。
2011年10月19日水曜日
2011年10月2日日曜日
Good News and Bad News(その2)
さて、前の記事の続きだが、昨日の閣議決定にはもう一つ大きな決定があった。こちらがBad Newsである。それは「宇宙空間の開発・利用の戦略的な推進体制の構築について(以下、体制決定)」である。
すでに前の記事で述べたように、2008年の宇宙基本法では宇宙政策の政策決定一元化が書かれている。つまり、これまで文科省や経産省などにバラバラについていた宇宙開発(関連)予算を一元化し、一つの意思決定ラインで日本の宇宙政策を戦略的に決定していく仕組みが描かれていたのである。その中心には、総理大臣を本部長とする宇宙開発戦略本部があり、宇宙開発担当大臣を設置するということは定められており、実際に宇宙基本法成立以降、戦略本部と担当大臣は設置されている。しかし、その戦略本部と担当大臣を支える行政機構については「一元化」という表現しか使われておらず、具体的にどのような形で一元化を進めるのかが明示されていない。
というのも、当時、宇宙基本法の共同提案を行った自民党と民主党の間で、この行政機構に関するイメージが共有されておらず、当時野党の民主党は「日本版NASAを作る」と主張し、より集権的で技術開発も政策立案も行う大きな仕組みを提案していたのに対し、自民党は「宇宙開発戦略本部を中心とする行政的な機構」を想定し、現在のJAXAのような技術開発機関は残す方針を示していた。
また、この一元化を実現するためには、それによって不利益をこうむる既得権益をもつ組織を納得させなければならなかった。その組織とは、日本の宇宙開発を主導し、その中心にあり続けた文科省(ないしは旧科技庁)である。
文科省にとって、宇宙開発は単なる既得権益以上の意味を持っているのではないかというのが筆者の見立てである。というのも、1999年の東海村におけるJCO事故をきっかけに、2001年の省庁再編で原子力局は経産省傘下の資源エネルギー庁、原子力安全局を経産省傘下の原子力安全保安院に奪われた旧科技庁にとって、宇宙は残された巨大プロジェクト分野であったからである。仮に宇宙基本法に従って、宇宙分野まで失ってしまえば、旧科技庁が行ってきた事業のほとんどが否定されるような状況になると言う組織的アイデンティティの問題があるからである。
そのため、文科省は宇宙政策の一元化に対して極めて強い抵抗を示し、宇宙基本法で示されているにも関わらず、それが実行されないという「違法状態」が続いている。このような文科省の抵抗によって一元化が進まないことに対し、宇宙政策決定過程の不効率や、「研究開発」のみを所掌する文科省が宇宙予算の大半を握っている状態を続けることで、「開発から利用へ」というシフトがなかなか進まないことが問題とされており、一刻も早い一元化を目指すべく、さまざまな議論がなされてきた。
しかし、今回の体制決定は、そうした議論を無視し、文科省がその既得権益を維持することを閣議決定したものと見ることができる。というのも、この体制決定では、「内閣府に我が国宇宙政策の司令塔機能と準天頂衛星システムの開発・整備・運用等施策実施機能を担当する耐性を構築するために必要な法案」を次期通常国会に提出する、とはされているが、以下のような留保がついている。
これらをまとめて言えば、内閣府には司令塔機能を移すが、JAXAと予算は文科省が独占させていただきます、という話である。つまり、文科省は政策決定の「司令塔機能」(これも行政用語としては今一つ輪郭がはっきりしていない言葉)は渡してもよいが、JAXAに流す予算は渡さない、ということを明示したに等しい。
ここから明らかになることは、(1)次期通常国会で内閣府に宇宙政策に関する部局ができること、(2)その部局は少なくとも準天頂に関しては予算を取ることができること、(3)しかし、それ以外の宇宙開発予算は基本的にこれまで通り文科省とその他の省庁に流れること、という三点である。
これは「一元化」という観点からみれば、ほとんど前進していないと言わざるを得ない。しかし、それでも一歩は一歩である。Bad Newsではあるが、まったく光明が見えない話ではない。
準天頂で可能であったように、最初に研究開発は文科省=JAXAで進め、それが整備・運用、つまり利用の段階に入ってくると、内閣府が担当し、予算を取ってくると言うパターンを作り出すことは可能だ。研究開発はあくまでも文科省が行うが、どのようなプロジェクトを進め、どのような研究開発を進めるべきかを判断するのは、宇宙開発戦略本部であり、内閣府の宇宙政策の司令塔である。その意味では、文科省はこれまでのような宇宙開発の「大半」を担当するのではなく、あくまでも全体の「一部」を担うだけの役所ということになるだろう。
重要なことは、これからの日本の宇宙開発が単に研究開発で終わるのではなく、最終的に利用につながる研究開発を進めるということである。単なる研究開発で終わってしまうのであれば、これまでと変わらない。しかし、新たにできる内閣府の司令塔が、研究開発から利用までの大きなビジョンを描き、その研究開発の部分を文科省が担当すると言う分業体制が確立すれば、宇宙基本法で目指した体制に近づくと言える。
こう考えると、今回の体制決定はそれほど悪いものではないように見えるかもしれない。しかし、それでもBad Newsとしてタイトルをつけたくなるのは、現実の宇宙政策を考える上で、現状の財政的な制約を考えると、文科省と内閣府が麗しく共存することが難しいと思われるからである。
宇宙開発予算はすべての役所に配分されているものを合わせても、3000億円程度の規模である。これは内閣府に司令塔機能ができても、それほど大きくは変わらないどころか、財政状況を考えれば減っていくと見るのが自然であろう。そう考えると、内閣府が利用のプロジェクトを進めれば進めるほど、文科省に回っていく研究開発予算は減っていく。単純なゼロ・サム・ゲームだ。
そうなると、文科省は自らの予算を何とか確保しようと、内閣府で進める利用プロジェクトの足を引っ張り、研究開発プロジェクトを増やそうとしていくインセンティブを持つことになる。そうなると、宇宙基本法が目指した「開発から利用」という一貫した宇宙政策の展開は難しくなり、「開発か利用か」という争いが起きる可能性もある。
しかし、宇宙基本法はそうなった場合の裁定方式もきちんと用意してある。それは、総理大臣を本部長とする宇宙開発戦略本部の存在である。これは総理を本部長とし、すべての閣僚がメンバーとなる、閣議と同等の位置付けにある。そのため、文科省と内閣府の間で「開発か利用か」という争いが生じた時、それを裁定し、日本の宇宙開発がどのような方向性を持って進められるべきなのか、ということを政治が決定することになる。
これは、これまで文科省の役人やJAXAの技術者が中心となって進めてきた宇宙開発の仕組みを大きく変えるものであり、そうした政治的な決定を高いレベルで行うことで、日本の宇宙開発が国家戦略の一部として遂行されるということを意味する。
奇しくも、野田総理大臣は自公民三党合意で宇宙基本法を国会に提出する際、民主党の科学技術PTのリーダーとして、民主党を代表して宇宙基本法を推進した方である。そういう人が総理大臣にいる限り、文科省が既得権益の維持を目指して、内閣府の司令塔機能とバトルを繰り返したとしても、政治の力で裁定をし、問題を解決することができるだろう。これまで様々な期待を裏切ってきた民主党であるだけに、なんとも心許ないが。
すでに前の記事で述べたように、2008年の宇宙基本法では宇宙政策の政策決定一元化が書かれている。つまり、これまで文科省や経産省などにバラバラについていた宇宙開発(関連)予算を一元化し、一つの意思決定ラインで日本の宇宙政策を戦略的に決定していく仕組みが描かれていたのである。その中心には、総理大臣を本部長とする宇宙開発戦略本部があり、宇宙開発担当大臣を設置するということは定められており、実際に宇宙基本法成立以降、戦略本部と担当大臣は設置されている。しかし、その戦略本部と担当大臣を支える行政機構については「一元化」という表現しか使われておらず、具体的にどのような形で一元化を進めるのかが明示されていない。
というのも、当時、宇宙基本法の共同提案を行った自民党と民主党の間で、この行政機構に関するイメージが共有されておらず、当時野党の民主党は「日本版NASAを作る」と主張し、より集権的で技術開発も政策立案も行う大きな仕組みを提案していたのに対し、自民党は「宇宙開発戦略本部を中心とする行政的な機構」を想定し、現在のJAXAのような技術開発機関は残す方針を示していた。
また、この一元化を実現するためには、それによって不利益をこうむる既得権益をもつ組織を納得させなければならなかった。その組織とは、日本の宇宙開発を主導し、その中心にあり続けた文科省(ないしは旧科技庁)である。
文科省にとって、宇宙開発は単なる既得権益以上の意味を持っているのではないかというのが筆者の見立てである。というのも、1999年の東海村におけるJCO事故をきっかけに、2001年の省庁再編で原子力局は経産省傘下の資源エネルギー庁、原子力安全局を経産省傘下の原子力安全保安院に奪われた旧科技庁にとって、宇宙は残された巨大プロジェクト分野であったからである。仮に宇宙基本法に従って、宇宙分野まで失ってしまえば、旧科技庁が行ってきた事業のほとんどが否定されるような状況になると言う組織的アイデンティティの問題があるからである。
そのため、文科省は宇宙政策の一元化に対して極めて強い抵抗を示し、宇宙基本法で示されているにも関わらず、それが実行されないという「違法状態」が続いている。このような文科省の抵抗によって一元化が進まないことに対し、宇宙政策決定過程の不効率や、「研究開発」のみを所掌する文科省が宇宙予算の大半を握っている状態を続けることで、「開発から利用へ」というシフトがなかなか進まないことが問題とされており、一刻も早い一元化を目指すべく、さまざまな議論がなされてきた。
しかし、今回の体制決定は、そうした議論を無視し、文科省がその既得権益を維持することを閣議決定したものと見ることができる。というのも、この体制決定では、「内閣府に我が国宇宙政策の司令塔機能と準天頂衛星システムの開発・整備・運用等施策実施機能を担当する耐性を構築するために必要な法案」を次期通常国会に提出する、とはされているが、以下のような留保がついている。
(1)「宇宙庁(仮称)」的な一元化ではない形で実効的な宇宙開発利用体制を構築すること。なお、宇宙庁については、科学技術・イノベーション政策の検討とも連携しつつ、将来的な課題として引き続き検討する。さらに、「独立行政法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)の主務省については、これまでの文部科学省による監督実績及びその予算の大部分を文部科学省が支出していることを尊重しつつ、宇宙開発戦略本部を支える内閣府が司令塔機能の実効性をどのように確保するかについて検討を行う」という文言が入っている。
(2)内閣府の司令塔機能と準天頂衛星システムの開発・整備・運用等実施機能を行政組織のどのレベルで切り分けるかについては中立公正の要請および組織の肥大化防止の要請を踏まえた実効的な宇宙開発利用体制の構築に向け検討を行うこと。
これらをまとめて言えば、内閣府には司令塔機能を移すが、JAXAと予算は文科省が独占させていただきます、という話である。つまり、文科省は政策決定の「司令塔機能」(これも行政用語としては今一つ輪郭がはっきりしていない言葉)は渡してもよいが、JAXAに流す予算は渡さない、ということを明示したに等しい。
ここから明らかになることは、(1)次期通常国会で内閣府に宇宙政策に関する部局ができること、(2)その部局は少なくとも準天頂に関しては予算を取ることができること、(3)しかし、それ以外の宇宙開発予算は基本的にこれまで通り文科省とその他の省庁に流れること、という三点である。
これは「一元化」という観点からみれば、ほとんど前進していないと言わざるを得ない。しかし、それでも一歩は一歩である。Bad Newsではあるが、まったく光明が見えない話ではない。
準天頂で可能であったように、最初に研究開発は文科省=JAXAで進め、それが整備・運用、つまり利用の段階に入ってくると、内閣府が担当し、予算を取ってくると言うパターンを作り出すことは可能だ。研究開発はあくまでも文科省が行うが、どのようなプロジェクトを進め、どのような研究開発を進めるべきかを判断するのは、宇宙開発戦略本部であり、内閣府の宇宙政策の司令塔である。その意味では、文科省はこれまでのような宇宙開発の「大半」を担当するのではなく、あくまでも全体の「一部」を担うだけの役所ということになるだろう。
重要なことは、これからの日本の宇宙開発が単に研究開発で終わるのではなく、最終的に利用につながる研究開発を進めるということである。単なる研究開発で終わってしまうのであれば、これまでと変わらない。しかし、新たにできる内閣府の司令塔が、研究開発から利用までの大きなビジョンを描き、その研究開発の部分を文科省が担当すると言う分業体制が確立すれば、宇宙基本法で目指した体制に近づくと言える。
こう考えると、今回の体制決定はそれほど悪いものではないように見えるかもしれない。しかし、それでもBad Newsとしてタイトルをつけたくなるのは、現実の宇宙政策を考える上で、現状の財政的な制約を考えると、文科省と内閣府が麗しく共存することが難しいと思われるからである。
宇宙開発予算はすべての役所に配分されているものを合わせても、3000億円程度の規模である。これは内閣府に司令塔機能ができても、それほど大きくは変わらないどころか、財政状況を考えれば減っていくと見るのが自然であろう。そう考えると、内閣府が利用のプロジェクトを進めれば進めるほど、文科省に回っていく研究開発予算は減っていく。単純なゼロ・サム・ゲームだ。
そうなると、文科省は自らの予算を何とか確保しようと、内閣府で進める利用プロジェクトの足を引っ張り、研究開発プロジェクトを増やそうとしていくインセンティブを持つことになる。そうなると、宇宙基本法が目指した「開発から利用」という一貫した宇宙政策の展開は難しくなり、「開発か利用か」という争いが起きる可能性もある。
しかし、宇宙基本法はそうなった場合の裁定方式もきちんと用意してある。それは、総理大臣を本部長とする宇宙開発戦略本部の存在である。これは総理を本部長とし、すべての閣僚がメンバーとなる、閣議と同等の位置付けにある。そのため、文科省と内閣府の間で「開発か利用か」という争いが生じた時、それを裁定し、日本の宇宙開発がどのような方向性を持って進められるべきなのか、ということを政治が決定することになる。
これは、これまで文科省の役人やJAXAの技術者が中心となって進めてきた宇宙開発の仕組みを大きく変えるものであり、そうした政治的な決定を高いレベルで行うことで、日本の宇宙開発が国家戦略の一部として遂行されるということを意味する。
奇しくも、野田総理大臣は自公民三党合意で宇宙基本法を国会に提出する際、民主党の科学技術PTのリーダーとして、民主党を代表して宇宙基本法を推進した方である。そういう人が総理大臣にいる限り、文科省が既得権益の維持を目指して、内閣府の司令塔機能とバトルを繰り返したとしても、政治の力で裁定をし、問題を解決することができるだろう。これまで様々な期待を裏切ってきた民主党であるだけに、なんとも心許ないが。
2011年10月1日土曜日
Good News and Bad News(その1)
昨日、野田内閣の閣議で「宇宙空間の開発・利用の戦略的な推進体制の構築について」と「実用準天頂衛星システム事業の推進の基本的な考え方」という二つの決定がなされた。これまで日本の宇宙政策を踏まえて考えると、とても興味深い二つの決定であり、今後の日本の宇宙開発に色々な影響をもたらす可能性のある決定だと考えている。
まず二番目の決定(以下、準天頂決定)から考えてみたい。この準天頂衛星は非常に複雑な歴史を背負ってきたプロジェクトであり、この決定に至るまで、10年以上の歳月を費やしてここに至った、ある意味感慨深いものである。
準天頂衛星は、そもそも2000年に経団連や日本航空宇宙工業会という宇宙産業界のイニシアチブによって始まったプロジェクトであり、当時、欧州で進められていたガリレオプロジェクトにヒントを得て(というか、かなり真似をして)、官民協力プロジェクトとして提案されたものであった。当初、準天頂衛星プロジェクトは、GPSのような測位衛星に、移動体通信や放送サービスを可能にする機材を搭載し、測位は国が、通信放送は民間が行うというかなり野心的なプロジェクトであった。国と民間が共に資金を出し合って衛星を開発、打ち上げ、運用するという計画で、日本で初めての官民協力プロジェクトであり、新たな宇宙開発利用の時代を予感させるものであった。
しかし、欧州のガリレオが進めていた官民協力のメカニズムも、結局、GPSの信号を無料で受信できるという条件の中で、有料の測位信号でビジネスを成立させることが無理、ということが判明し、欧州の民間企業はガリレオプロジェクトから撤退した。それと同じく、日本の準天頂衛星に関しても、測位衛星に通信放送機能を搭載することが技術的に難しいことが判明し、民間が撤退することとなった。
そうなると、準天頂衛星は国の事業部分である測位機能だけが残ることになる。しかし、国(とりわけ国交省)は、民間が始め、民間が金を出すから参加するという姿勢であったのに、いつの間にか、すべてのコストを国が負担し、運用の責任も国が負担するというのは話が違う、といって、準天頂衛星に対するネガティブな姿勢を取るようになった。
ところが、準天頂衛星が実現することを前提にしていた宇宙産業界は、国の消極的な姿勢に対して、さまざまな政治的な働きかけを行い、何とかこのプロジェクトを継続しようと頑張った。その結果、2006年の段階では開発四省(文科省、経産省、国交省、総務省)と内閣府および内閣官房が連帯責任を持ち、文科省が「技術開発」の名目で準天頂衛星3機のうち1機を開発し、残りの2号機、3号機については「民間の事業化判断」に基づいて推進するかどうか決める、という話になった。
元々民間が始めたプロジェクトなのに、民間が撤退し、それでも継続するという流れになっていた準天頂は、ここにきて究極の宙ぶらりん状態になり、それが数年続くことになった。
それが大きく変わったのが2010年9月である。2010年9月に準天頂衛星の初号機「みちびき」が打ち上げられ、その打ち上げが成功したことで、部分的には準天頂衛星システムが動き始めたのである。
そうなると、政府としても3機必要なシステムを1機だけ打ち上げて運用しているという状態に説明がつかなくなってきた。かといって、そもそも国が自分で言い出したわけでもないプロジェクトをどこかの役所が引き受けるということもなく、その宙ぶらりん状態が解消する見込みはほとんどなかった。
しかし、2006年と2010年では一つ大きな違いがあった。それは2008年に自民・公明・民主三党の共同提案による議員立法である宇宙基本法が成立していたことであった。宇宙基本法では、宇宙開発担当大臣が存在し(2010年9月当時は前原国交大臣が兼務)、宇宙開発戦略本部という、これまでにはなかった、国家戦略的な意思決定の場があった(といっても、あまり機能してはいなかったが、その事務局が文科省や経産省から離れて政策立案調査を行うことができた)。
そのため、前原宇宙開発担当大臣がイニシアチブをとり、準天頂衛星を1機だけでとどめるのではなく、きちんとしたシステムとして構築するという政策的方向性が打ち出されることになった。その時のキーワードになったのが「持続可能な測位」である。
欧州がガリレオを進めたのも、中国やロシアやインドがGPSという無料の測位信号を使えるにも関わらず、自らの測位衛星システムを構築しようとしているのは、GPSがアメリカの軍事システムであり、いつ、何時アメリカの都合でGPSが使えなくなるかわからない、アメリカが正確な位置情報を提供し続けるかどうかわからない、というリスクがある、という問題があるからである。つまり、各国とも、GPSに依存せずとも持続的に自分たちで測位ができるようにすることは、国家の責任である、との認識を高めているからである。測位情報(地理空間情報)が社会生活、経済活動の中に深く浸透している現代において、一国の都合でその信号が受けられなくなった場合に発生する社会的な混乱や経済的な損害が非常に大きくなるという懸念(加えて安全保障上の懸念を抱える国もあるだろう)があるから、各国とも自国の測位衛星システムを構築するのである。
そうした流れの中で、日本も自らの測位衛星システムである準天頂衛星システムを構築し、「持続可能な測位」を確立することが重要と判断され、それを実現するための議論が積み重ねられたのである。
前置きが長くなったが、こうした環境の変化と議論の積み重ねにより、昨日、準天頂決議が採択され、閣議決定として「2010年代後半を目処に4機体制を整備する」ことが定められ、さらに「将来的には、持続測位が可能となる7機体制を目指すこととする」という決定がなされた。
2006年の段階では準天頂衛星は3機体制と言われていたが、ここには問題があった。準天頂衛星は日本からみると、ちょうど天頂近く(つまり自分の真上の空)に衛星があるように見えるため、準天頂衛星と呼ばれているが、衛星をこのような位置に配置するためには、特殊な軌道に衛星を乗せる必要がある。また、1機の衛星が準天頂(天頂近く)に滞在できるのは、長くても8時間しかなく、常に準天頂に見えるようにするためには3機が必要(8時間×3機で24時間)だが、衛星はしばしば自らの位置を補正するためにメンテナンスに入るため、3機であれば、衛星から信号を受けられなくなる時間が生じる。そのため、24時間常に信号を受信するためには予備の1機を含む4機体制が必要なのである。
さらに、衛星からの信号で測位をするためには、準天頂に1機だけ見えているだけでは不十分で、自分の位置を割り出すためには4機の衛星から信号を得る必要がある。4機体制の場合、準天頂1機とGPS衛星からの信号とを合わせて自らの位置を割り出すため、GPSが停止した場合は持続的な測位はできない。そのため、常に衛星が4機見えるよう、準天頂衛星4機に加え、静止軌道に同じ信号を出す衛星を3機揃えることで、常に準天頂にある衛星と静止軌道にある衛星からの信号を受けて持続可能な測位を可能にする、ということを意味している。
なので、準天頂決定において「4機体制+将来的に7機体制」という決定がなされたのは、準天頂衛星が将来に向けて持続可能な測位を可能にするシステムとして進められるということを意味しており、その意味では、この閣議決定は極めて重要な意味を持つ。
また、これが決定されたことで、2006年から続いていた宙ぶらりん状態は解消し、新たな宇宙開発の仕組みが生まれることとなった。これまでは開発四省+内閣府と内閣官房といういびつな状況にあり、予算は文科省の研究開発予算しか付けられなかった準天頂衛星であるが、この準天頂決定では「我が国として実用準天頂衛星システムの開発・整備・運用は、準天頂衛星初号機「みちびき」の成果を活用しつつ、内閣府が実施することとし、関連する予算要求を行うものとする」として、内閣府にその開発・整備・運用権限を与えたからである。
これによって、開発四省などから離れ、内閣府が独自で予算要求を行い、衛星の運用にまで至る過程をすべて管理することとなった。これは2006年の状況とは大きく変わった点であり、ようやっと準天頂が居場所を見つけたのである。
また、これによって、これまで宇宙開発の主導権を握ってきた文科省でも、またそのライバルとして独自のプログラムを進めてきた経産省でもなく、内閣府で準天頂衛星を整備・運用することで、その衛星からの信号を他の省庁が利用し、公的なインフラとして準天頂衛星システムを活用することができるようになったのである。
これは2008年の宇宙基本法が目指してきた、「開発から利用へ」という流れを実現する第一歩として記された大きな決定であると同時に、宇宙基本法が進めるべきとしていた、政策決定の一元化に一歩近づくものとして見ることができる。
ここまでがGood Newsである。ちょっと長くなったので、記事を変えてBad Newsを説明したい。
まず二番目の決定(以下、準天頂決定)から考えてみたい。この準天頂衛星は非常に複雑な歴史を背負ってきたプロジェクトであり、この決定に至るまで、10年以上の歳月を費やしてここに至った、ある意味感慨深いものである。
準天頂衛星は、そもそも2000年に経団連や日本航空宇宙工業会という宇宙産業界のイニシアチブによって始まったプロジェクトであり、当時、欧州で進められていたガリレオプロジェクトにヒントを得て(というか、かなり真似をして)、官民協力プロジェクトとして提案されたものであった。当初、準天頂衛星プロジェクトは、GPSのような測位衛星に、移動体通信や放送サービスを可能にする機材を搭載し、測位は国が、通信放送は民間が行うというかなり野心的なプロジェクトであった。国と民間が共に資金を出し合って衛星を開発、打ち上げ、運用するという計画で、日本で初めての官民協力プロジェクトであり、新たな宇宙開発利用の時代を予感させるものであった。
しかし、欧州のガリレオが進めていた官民協力のメカニズムも、結局、GPSの信号を無料で受信できるという条件の中で、有料の測位信号でビジネスを成立させることが無理、ということが判明し、欧州の民間企業はガリレオプロジェクトから撤退した。それと同じく、日本の準天頂衛星に関しても、測位衛星に通信放送機能を搭載することが技術的に難しいことが判明し、民間が撤退することとなった。
そうなると、準天頂衛星は国の事業部分である測位機能だけが残ることになる。しかし、国(とりわけ国交省)は、民間が始め、民間が金を出すから参加するという姿勢であったのに、いつの間にか、すべてのコストを国が負担し、運用の責任も国が負担するというのは話が違う、といって、準天頂衛星に対するネガティブな姿勢を取るようになった。
ところが、準天頂衛星が実現することを前提にしていた宇宙産業界は、国の消極的な姿勢に対して、さまざまな政治的な働きかけを行い、何とかこのプロジェクトを継続しようと頑張った。その結果、2006年の段階では開発四省(文科省、経産省、国交省、総務省)と内閣府および内閣官房が連帯責任を持ち、文科省が「技術開発」の名目で準天頂衛星3機のうち1機を開発し、残りの2号機、3号機については「民間の事業化判断」に基づいて推進するかどうか決める、という話になった。
元々民間が始めたプロジェクトなのに、民間が撤退し、それでも継続するという流れになっていた準天頂は、ここにきて究極の宙ぶらりん状態になり、それが数年続くことになった。
それが大きく変わったのが2010年9月である。2010年9月に準天頂衛星の初号機「みちびき」が打ち上げられ、その打ち上げが成功したことで、部分的には準天頂衛星システムが動き始めたのである。
そうなると、政府としても3機必要なシステムを1機だけ打ち上げて運用しているという状態に説明がつかなくなってきた。かといって、そもそも国が自分で言い出したわけでもないプロジェクトをどこかの役所が引き受けるということもなく、その宙ぶらりん状態が解消する見込みはほとんどなかった。
しかし、2006年と2010年では一つ大きな違いがあった。それは2008年に自民・公明・民主三党の共同提案による議員立法である宇宙基本法が成立していたことであった。宇宙基本法では、宇宙開発担当大臣が存在し(2010年9月当時は前原国交大臣が兼務)、宇宙開発戦略本部という、これまでにはなかった、国家戦略的な意思決定の場があった(といっても、あまり機能してはいなかったが、その事務局が文科省や経産省から離れて政策立案調査を行うことができた)。
そのため、前原宇宙開発担当大臣がイニシアチブをとり、準天頂衛星を1機だけでとどめるのではなく、きちんとしたシステムとして構築するという政策的方向性が打ち出されることになった。その時のキーワードになったのが「持続可能な測位」である。
欧州がガリレオを進めたのも、中国やロシアやインドがGPSという無料の測位信号を使えるにも関わらず、自らの測位衛星システムを構築しようとしているのは、GPSがアメリカの軍事システムであり、いつ、何時アメリカの都合でGPSが使えなくなるかわからない、アメリカが正確な位置情報を提供し続けるかどうかわからない、というリスクがある、という問題があるからである。つまり、各国とも、GPSに依存せずとも持続的に自分たちで測位ができるようにすることは、国家の責任である、との認識を高めているからである。測位情報(地理空間情報)が社会生活、経済活動の中に深く浸透している現代において、一国の都合でその信号が受けられなくなった場合に発生する社会的な混乱や経済的な損害が非常に大きくなるという懸念(加えて安全保障上の懸念を抱える国もあるだろう)があるから、各国とも自国の測位衛星システムを構築するのである。
そうした流れの中で、日本も自らの測位衛星システムである準天頂衛星システムを構築し、「持続可能な測位」を確立することが重要と判断され、それを実現するための議論が積み重ねられたのである。
前置きが長くなったが、こうした環境の変化と議論の積み重ねにより、昨日、準天頂決議が採択され、閣議決定として「2010年代後半を目処に4機体制を整備する」ことが定められ、さらに「将来的には、持続測位が可能となる7機体制を目指すこととする」という決定がなされた。
2006年の段階では準天頂衛星は3機体制と言われていたが、ここには問題があった。準天頂衛星は日本からみると、ちょうど天頂近く(つまり自分の真上の空)に衛星があるように見えるため、準天頂衛星と呼ばれているが、衛星をこのような位置に配置するためには、特殊な軌道に衛星を乗せる必要がある。また、1機の衛星が準天頂(天頂近く)に滞在できるのは、長くても8時間しかなく、常に準天頂に見えるようにするためには3機が必要(8時間×3機で24時間)だが、衛星はしばしば自らの位置を補正するためにメンテナンスに入るため、3機であれば、衛星から信号を受けられなくなる時間が生じる。そのため、24時間常に信号を受信するためには予備の1機を含む4機体制が必要なのである。
さらに、衛星からの信号で測位をするためには、準天頂に1機だけ見えているだけでは不十分で、自分の位置を割り出すためには4機の衛星から信号を得る必要がある。4機体制の場合、準天頂1機とGPS衛星からの信号とを合わせて自らの位置を割り出すため、GPSが停止した場合は持続的な測位はできない。そのため、常に衛星が4機見えるよう、準天頂衛星4機に加え、静止軌道に同じ信号を出す衛星を3機揃えることで、常に準天頂にある衛星と静止軌道にある衛星からの信号を受けて持続可能な測位を可能にする、ということを意味している。
なので、準天頂決定において「4機体制+将来的に7機体制」という決定がなされたのは、準天頂衛星が将来に向けて持続可能な測位を可能にするシステムとして進められるということを意味しており、その意味では、この閣議決定は極めて重要な意味を持つ。
また、これが決定されたことで、2006年から続いていた宙ぶらりん状態は解消し、新たな宇宙開発の仕組みが生まれることとなった。これまでは開発四省+内閣府と内閣官房といういびつな状況にあり、予算は文科省の研究開発予算しか付けられなかった準天頂衛星であるが、この準天頂決定では「我が国として実用準天頂衛星システムの開発・整備・運用は、準天頂衛星初号機「みちびき」の成果を活用しつつ、内閣府が実施することとし、関連する予算要求を行うものとする」として、内閣府にその開発・整備・運用権限を与えたからである。
これによって、開発四省などから離れ、内閣府が独自で予算要求を行い、衛星の運用にまで至る過程をすべて管理することとなった。これは2006年の状況とは大きく変わった点であり、ようやっと準天頂が居場所を見つけたのである。
また、これによって、これまで宇宙開発の主導権を握ってきた文科省でも、またそのライバルとして独自のプログラムを進めてきた経産省でもなく、内閣府で準天頂衛星を整備・運用することで、その衛星からの信号を他の省庁が利用し、公的なインフラとして準天頂衛星システムを活用することができるようになったのである。
これは2008年の宇宙基本法が目指してきた、「開発から利用へ」という流れを実現する第一歩として記された大きな決定であると同時に、宇宙基本法が進めるべきとしていた、政策決定の一元化に一歩近づくものとして見ることができる。
ここまでがGood Newsである。ちょっと長くなったので、記事を変えてBad Newsを説明したい。
2011年9月11日日曜日
ナイーブになった日本とアメリカ
今日は2001年のアメリカ同時多発テロ(9.11)の10周年に当たり、また、東日本大震災(3.11)から半年という節目の日。すでに新聞、テレビなどで多くの特集が組まれ、9.11からの10年の移り変わりや、あのテロの意味を考え直す企画が並び、3.11の震災から現在までの復興の遅れや原発事故の現状などを取り上げるものも多い。
これらの特集などで取り上げられた論点は幅広く、私が改めて繰り返し論じる必要もないほど網羅的である。しかし、何か画竜点睛を欠くというか、全体像のある部分が抜けている感じも受けている。それは、9.11後の世界に顕著に見られ、3.11後には日本でも現実的に感じられる、ある種の社会的変化というか、心情の変化というものである。
これを言葉に表すならば「ナイーブさ」という表現がぴったりくるような心情の変化かもしれないと感じている。
日本では「ナイーブ」というと、繊細である、とか、純粋である、といった意味に取られやすく、ある意味肯定的なニュアンスを含んでいる。しかし、言葉の由来はフランス語のnaif(iはウムラート)という形容詞からきており(女性形になるとnaive、iはウムラート)、英語でもフランス語のスペル、アクセントをそのまま使い、naiveないしはnaivite(eはアクサンテギュ)という表現が使われる。
ここで使われるnaiveという言葉には肯定的な意味は少なく、むしろ「世間知らず」「お人よし」「バカ正直」「浅はかさ」といったような意味で使われる。日本語で「ちょっとナイーブ過ぎる」といった時に使う「弱弱しさ」というのも含まれるだろう。この記事で使う「ナイーブ」というのは、こうした英語、フランス語で使われるようなニュアンスに近いと思ってもらって構わない。
さて、9.11後のアメリカを中心にテロに対する脅威への敏感度が高まり、これまでのテロに対するセキュリティの甘さを反省し、極めて厳しいテロの取り締まりや過剰なまでの警戒感が高まったことは多くの人がアメリカ入国の際に経験したところだろう。しかし、そうした目に見える緊張感だけでなく、外国人、とりわけイスラム教徒に対する偏見や、テロそのものよりも、テロリストと思われる属性を持つ人たちに対する異様なまでの警戒感がアメリカ社会を大変住みにくく、閉塞感のある場所に変えてしまった。
この社会の空気というか雰囲気は、3.11後の日本でも見られる。放射能に対する極端なまでの警戒感や東電、経産省ないしは政府に対する不信感、そして福島県から避難してきた人たちや福島ナンバーの車に対するいわれのない偏見、さらに科学技術やその専門家に対する不信感。こうしたものは9.11後のアメリカにおける閉塞感や住みにくさに通じるものがあると感じている。
テロと放射能の共通点は、(1)目に見えない脅威である、(2)目に見える形で現れた時は命にかかわる問題となっている、(3)予防したくても、目に見えないため、どうやって予防していいかわからない、という三点ある。
これらの共通点を踏まえて考えると、テロと放射能の脅威に直面した社会というのは「ナイーブ」にならざるを得ない。なぜならば、テロの場合、ある人物がテロリストかどうかを判断する絶対的な証拠というのはなかなか見つけ出すことができず、テロリストと確定できるのは、本当にテロを行った瞬間、ないしは、テロを行おうとして爆破スイッチに手をかけた瞬間や飛行機をハイジャックするために凶器を持ちだした瞬間である。しかし、その瞬間を見つけ、テロを食い止めることはかなり困難である。そのため、テロは「未然に予防する」ということが第一となる。
かつては、極左テロ(日本赤軍や赤い旅団など)や民族テロ(IRAやETAなど)集団が、強固な組織を持って、テロを計画し、実行してきた。そのため、ある特定の組織を監視していれば、テロを未然に防ぐことができると考えられていた。
しかし、現代のテロリストは、アルカイダのように極めて緩い連帯しかしていないテロリストグループやノルウェーのテロような単独で行うテロリストすら存在するため、特定の組織を監視しているだけではテロを防ぐことはできない。普段は一般市民として普通に生活していながら、ある日突然テロを起こす、ということだってあり得ることになる。
そうなると、テロを未然に防ぐためには、テロリストと推測できるような疑わしい行為や思想を持っている人たちを監視し、そうした監視を続ける中で、テロリストとしての可能性が高くなっていった段階(つまり、明らかにテロを計画していると判断できるような状況になった段階)で逮捕するということしか未然に防ぐ方法はない。
そのためには、テロリストと推測できるような疑わしい行為や思想を持っている人たちを一通り検査し、テロリストになりそうなのかどうか、ということを判断していかなければならない。しかし、その「疑わしい行為や思想」というものの実体が明確ではないため、かなり広範囲で網をかけ、疑わしい人物を割り出していかなければならない。
そのための方法として、空港における全身スキャンや指紋による身元確認などを行い、大量の農薬を購入した人(農薬は爆発物に転用できる)や、高度な科学技術を学ぼうとする外国人に一通りの疑いをかけるようになる。そしてテロリストが誰かということを絞り込んでいくのだ。
しかし、こうした人物の情報を収集することは一般市民には到底できない。そのため、彼らはより簡単に隣人がテロリストかどうかを判断する基準を作ってしまう。それが「イスラム教徒かどうか」ということなのだ。もちろん、イスラム教徒=テロリストという考え方は全く間違っている。私の知り合いでも数多くのイスラム教徒がいるが、テロリストになるどころか、テロという行為に対して強い怒りを持っている人たちが圧倒的である。にもかかわらず、「明日、私の街でテロが起きるかもしれない」という恐怖にさらされている人々は、そうならないようにするための自衛策として、何とか「テロリストになりそうな人」を見つけ出し、テロリストになりそうな人がいないので、明日はテロは起きないだろう、という安心感を得たいという気になる。
こうした市民が自らの守ろうとするために「イスラム教徒=テロリスト」のような、単純化され、簡便であり、同時にある種の説得力を持つ(9.11のテロリストはすべてイスラム教徒であった)図式で世界を見、自分の社会を理解しようとするのである。それが結果として、現実とは異なる、ゆがんだ世界観を助長し、その世界観に基づいてテロリストを恐れるのである。
こうした図式は3.11後の日本における放射能に対する意識とも共通するところがあると考えている。確かに、原発の事故は起こり、その事故の対応や政府の発表などが後手に回り、加えて多くの専門家が「原発事故は大きな問題にはならない」「ただちに健康に害はもたらさない」「多少の放射能なら大丈夫」といった発言をしていた。
しかし、現実は、政府や専門家は混乱した中で情報を十分に受け取らない中での拙速な判断をしていたことが明らかになっており、その判断を下すための十分な情報が事態の混乱の中で伝わらなかったのか、あるいは原子力事業の将来を考えて、不都合な情報を出さなかったといったことが加わり、市民の政府や東電や専門家に対する不信感は頂点を極めている。
こうした過去の対応に対する批判とは別に、日々の生活を守ろうとする人々にとって、放射能の問題はアメリカにおけるテロの問題と同じように、自分たちの生活に深くかかわる問題として対応しなければならないにもかかわらず、放射線防護学などの分野はあまりにも専門的すぎていて、市民のレベルでは判断できない状況にある。
また、科学者や政府に対する不信感から、政府が出す放射線の数値などに対する信頼感を持たず、自己防衛のためにガイガーカウンターなどを購入し、自宅の周辺や通学路などの放射線の値を測定して安心感を得ようとしている。
しかし、放射能は外部被曝だけでなく、内部被曝の問題もあり、飲料水や食品の放射線も測定しなければならない、となるとかなり難しい問題になる。というのも、食品などが含む放射線は、専門的な機械にかけて分析しなければならないからである。また、放射線を測定するための時間もかかり、市場に出回る食品のすべてに放射線検査をかけることも実質的に不可能である。
そのため、福島県産の食品を避けるという行動が一般的に見られるようになり、また、地方によっては放射能の汚染が広範囲に広がっているという認識を持っているため、東日本全域の食品などを避けようとする傾向を持つ(あごひげ海賊団というサイトに面白い画像が掲載されていたので、紹介しておく)。
これが京都における大文字の送り火に岩手県の松を使うことに極端に反応した市民による抗議を受けて、その使用をやめたことや、福岡における福島県支援のためのショップが一部の市民からの抗議によって出店中止にならざるを得なくなった原因と考えている。
こうした不安感は、一般市民の間で様々な形で受容されていき、場合によっては合理的でない偏見や警戒感を生み出している。それがしばしば福島ナンバーの車に対する暴力であったり、福島県出身者に対する差別であったりする。これらの差別や偏見は全く科学的な根拠を持たず、市民の自己防衛という言い訳も成り立たない話であるが、それでも「目に見えない脅威」であるということから発する、自己防衛が極端な形になって現れている点は、9.11のケースと共通しているようにも思える。
さらに、科学に対する不信感から、こうした社会的な問題だけでなく、個人の自己防衛が行き過ぎているというケースも見られる。たとえばホメオパシーやコメのとぎ汁などを使った「放射能解毒作用」のような似非科学が一部の人に受け入れられ、それが実際には健康を害するものであっても、こうした放射能への恐怖から、自分や自分の子供を守ろうとして、わらをもすがる思いで似非科学にはまり込んでしまう人たちも見受けられる(放射能を解毒するという似非科学については、片瀬さんという理学博士の書いたものがまとまっているので紹介しておく)。
このように、9.11後と3.11後のアメリカと日本で見られるようになった、社会的な変化は、一言でいえば、社会が「ナイーブ」になったということであろう。確かにテロリストを見抜くことも、放射能を避けることも、一般市民には簡単にできないことである。そのため、自分たちの住む町にテロが起きないためには、自分たちの子供が将来ガンにならないためには、可能な限りの手を打とうとする。しかし、そのための手段は限られているため、どうしても手近で簡単な方法を取らざるをえなくなる。それが、ある種の図式(イスラム教徒=テロリストであったり、東日本産食品=放射性廃棄物)に陥ってしまう。
こうした単純化された図式が生み出す副産物は、その図式に当てはめて「リスクがゼロになる状態」を追求するために、この世の中には他にもたくさんリスクがある、ということが見失われてしまうことである。たとえばイスラム教徒でなくてもテロリストになる可能性はあるし、東日本産の食品でなくても、添加物や農薬などで健康を害する可能性だってある。しかし、そうしたリスクを不問にしながら、一部のリスクだけを過剰に取り上げて、そのリスクをゼロにしようとすることで、非常に高いストレスをため込み、社会全体がギスギスしたものとなっていく結果をもたらしているような印象を受けている。
では、テロや放射能のリスクに対して、どう対処すれば良いのか。「ナイーブ」でない対処の仕方はあるのか、ということを最後に考えておきたい。私が個人的に心を打たれたのは、2005年7月7日のロンドン同時多発テロの後のイギリス人の人たちとのやり取りであった。彼らは「かつてIRAがテロをやっていた時もあるので、それに恐れてはいけない」「テロよりも交通事故で死ぬ人の方が多い」「テロに恐れることこそ、テロリストの思うつぼ」といった反応を示していた。私はこうした言葉が最も力強いものに感じた。同じことは読売新聞に同僚の遠藤乾氏が書いたことにも共通する。
要するに、大事なことはテロや放射能のリスクを「正しく怖がること」だと考えている。「正しく怖がる」というのは、本当にどの程度のリスクがあるのか、そのリスクは実際に害が及ぶほどのものなのか、そしてそのリスクを上回るベネフィットがあるのか、ということを考える必要がある、ということである。たとえば、イスラム教徒であるだけではリスクが高いとは言えない。東日本産の食品であるだけではリスクが高いとはいえない。ゆえに単純にそうした図式だけで自己防衛をしようとすることは社会的に正当化されるべきではない。
しかし、たとえばイスラム教徒の隣人と生活することになった場合、彼らが本当にテロリストでないかどうかというのは、ある程度付き合っていけば、判断できる場合もある。東日本産の食品を買う場合、それが放射能を帯びたものなのかどうかということは、現時点ではある程度のサンプリングが行われ、多分大丈夫というレベルのものが市場に出回っていると考えるべきだろう。
しかし、それでも、すべてのリスクを見通すことはできない。仲良くなった隣人が突如テロリストに変わる可能性もある(これはイスラム教徒でなくてもありうる)。たまたま購入した食品が放射線が高い可能性もある(これは東日本産に限らない)。そうしたリスクは確率論的にはかなり低く、それを恐れていては、まともな社会関係や消費生活を送ることが難しくなってしまう。逆に、できるだけリスクを避けようとするために、テロを恐れ、放射能を恐れすぎることで抱えるストレスや社会関係の悪化が結果的にはより悪い効果を生み出す可能性すらある。
ゆえに、私は、こうした「ナイーブ」な反応を避け、できるだけ「正しく怖がる」ようにし、一定程度の「Acceptableリスク(受容可能なリスク)」を考え、普通の生活をするようにしていきたい。そして社会全体が「ナイーブ」になっていることを受けとめながら、その「ナイーブさ」を理解しつつ、社会を見ていきたいと考えている。
9.11や3.11はすでに過去の出来事となった。あれから10年がたち、6ヶ月が経った。それによって日米の社会は大きく変わり、社会は「ナイーブさ」を増していった。そういう社会が今後どうなっていくのか、それが世界の他の部分にどのような影響を及ぼしていくのか。日米社会が「ナイーブ」になっているということを踏まえてみていくと、ティーパーティの問題や、政治家の失言を捉えるマスコミの対応などもよりよく理解できるのではないかと考えている。
これらの特集などで取り上げられた論点は幅広く、私が改めて繰り返し論じる必要もないほど網羅的である。しかし、何か画竜点睛を欠くというか、全体像のある部分が抜けている感じも受けている。それは、9.11後の世界に顕著に見られ、3.11後には日本でも現実的に感じられる、ある種の社会的変化というか、心情の変化というものである。
これを言葉に表すならば「ナイーブさ」という表現がぴったりくるような心情の変化かもしれないと感じている。
日本では「ナイーブ」というと、繊細である、とか、純粋である、といった意味に取られやすく、ある意味肯定的なニュアンスを含んでいる。しかし、言葉の由来はフランス語のnaif(iはウムラート)という形容詞からきており(女性形になるとnaive、iはウムラート)、英語でもフランス語のスペル、アクセントをそのまま使い、naiveないしはnaivite(eはアクサンテギュ)という表現が使われる。
ここで使われるnaiveという言葉には肯定的な意味は少なく、むしろ「世間知らず」「お人よし」「バカ正直」「浅はかさ」といったような意味で使われる。日本語で「ちょっとナイーブ過ぎる」といった時に使う「弱弱しさ」というのも含まれるだろう。この記事で使う「ナイーブ」というのは、こうした英語、フランス語で使われるようなニュアンスに近いと思ってもらって構わない。
さて、9.11後のアメリカを中心にテロに対する脅威への敏感度が高まり、これまでのテロに対するセキュリティの甘さを反省し、極めて厳しいテロの取り締まりや過剰なまでの警戒感が高まったことは多くの人がアメリカ入国の際に経験したところだろう。しかし、そうした目に見える緊張感だけでなく、外国人、とりわけイスラム教徒に対する偏見や、テロそのものよりも、テロリストと思われる属性を持つ人たちに対する異様なまでの警戒感がアメリカ社会を大変住みにくく、閉塞感のある場所に変えてしまった。
この社会の空気というか雰囲気は、3.11後の日本でも見られる。放射能に対する極端なまでの警戒感や東電、経産省ないしは政府に対する不信感、そして福島県から避難してきた人たちや福島ナンバーの車に対するいわれのない偏見、さらに科学技術やその専門家に対する不信感。こうしたものは9.11後のアメリカにおける閉塞感や住みにくさに通じるものがあると感じている。
テロと放射能の共通点は、(1)目に見えない脅威である、(2)目に見える形で現れた時は命にかかわる問題となっている、(3)予防したくても、目に見えないため、どうやって予防していいかわからない、という三点ある。
これらの共通点を踏まえて考えると、テロと放射能の脅威に直面した社会というのは「ナイーブ」にならざるを得ない。なぜならば、テロの場合、ある人物がテロリストかどうかを判断する絶対的な証拠というのはなかなか見つけ出すことができず、テロリストと確定できるのは、本当にテロを行った瞬間、ないしは、テロを行おうとして爆破スイッチに手をかけた瞬間や飛行機をハイジャックするために凶器を持ちだした瞬間である。しかし、その瞬間を見つけ、テロを食い止めることはかなり困難である。そのため、テロは「未然に予防する」ということが第一となる。
かつては、極左テロ(日本赤軍や赤い旅団など)や民族テロ(IRAやETAなど)集団が、強固な組織を持って、テロを計画し、実行してきた。そのため、ある特定の組織を監視していれば、テロを未然に防ぐことができると考えられていた。
しかし、現代のテロリストは、アルカイダのように極めて緩い連帯しかしていないテロリストグループやノルウェーのテロような単独で行うテロリストすら存在するため、特定の組織を監視しているだけではテロを防ぐことはできない。普段は一般市民として普通に生活していながら、ある日突然テロを起こす、ということだってあり得ることになる。
そうなると、テロを未然に防ぐためには、テロリストと推測できるような疑わしい行為や思想を持っている人たちを監視し、そうした監視を続ける中で、テロリストとしての可能性が高くなっていった段階(つまり、明らかにテロを計画していると判断できるような状況になった段階)で逮捕するということしか未然に防ぐ方法はない。
そのためには、テロリストと推測できるような疑わしい行為や思想を持っている人たちを一通り検査し、テロリストになりそうなのかどうか、ということを判断していかなければならない。しかし、その「疑わしい行為や思想」というものの実体が明確ではないため、かなり広範囲で網をかけ、疑わしい人物を割り出していかなければならない。
そのための方法として、空港における全身スキャンや指紋による身元確認などを行い、大量の農薬を購入した人(農薬は爆発物に転用できる)や、高度な科学技術を学ぼうとする外国人に一通りの疑いをかけるようになる。そしてテロリストが誰かということを絞り込んでいくのだ。
しかし、こうした人物の情報を収集することは一般市民には到底できない。そのため、彼らはより簡単に隣人がテロリストかどうかを判断する基準を作ってしまう。それが「イスラム教徒かどうか」ということなのだ。もちろん、イスラム教徒=テロリストという考え方は全く間違っている。私の知り合いでも数多くのイスラム教徒がいるが、テロリストになるどころか、テロという行為に対して強い怒りを持っている人たちが圧倒的である。にもかかわらず、「明日、私の街でテロが起きるかもしれない」という恐怖にさらされている人々は、そうならないようにするための自衛策として、何とか「テロリストになりそうな人」を見つけ出し、テロリストになりそうな人がいないので、明日はテロは起きないだろう、という安心感を得たいという気になる。
こうした市民が自らの守ろうとするために「イスラム教徒=テロリスト」のような、単純化され、簡便であり、同時にある種の説得力を持つ(9.11のテロリストはすべてイスラム教徒であった)図式で世界を見、自分の社会を理解しようとするのである。それが結果として、現実とは異なる、ゆがんだ世界観を助長し、その世界観に基づいてテロリストを恐れるのである。
こうした図式は3.11後の日本における放射能に対する意識とも共通するところがあると考えている。確かに、原発の事故は起こり、その事故の対応や政府の発表などが後手に回り、加えて多くの専門家が「原発事故は大きな問題にはならない」「ただちに健康に害はもたらさない」「多少の放射能なら大丈夫」といった発言をしていた。
しかし、現実は、政府や専門家は混乱した中で情報を十分に受け取らない中での拙速な判断をしていたことが明らかになっており、その判断を下すための十分な情報が事態の混乱の中で伝わらなかったのか、あるいは原子力事業の将来を考えて、不都合な情報を出さなかったといったことが加わり、市民の政府や東電や専門家に対する不信感は頂点を極めている。
こうした過去の対応に対する批判とは別に、日々の生活を守ろうとする人々にとって、放射能の問題はアメリカにおけるテロの問題と同じように、自分たちの生活に深くかかわる問題として対応しなければならないにもかかわらず、放射線防護学などの分野はあまりにも専門的すぎていて、市民のレベルでは判断できない状況にある。
また、科学者や政府に対する不信感から、政府が出す放射線の数値などに対する信頼感を持たず、自己防衛のためにガイガーカウンターなどを購入し、自宅の周辺や通学路などの放射線の値を測定して安心感を得ようとしている。
しかし、放射能は外部被曝だけでなく、内部被曝の問題もあり、飲料水や食品の放射線も測定しなければならない、となるとかなり難しい問題になる。というのも、食品などが含む放射線は、専門的な機械にかけて分析しなければならないからである。また、放射線を測定するための時間もかかり、市場に出回る食品のすべてに放射線検査をかけることも実質的に不可能である。
そのため、福島県産の食品を避けるという行動が一般的に見られるようになり、また、地方によっては放射能の汚染が広範囲に広がっているという認識を持っているため、東日本全域の食品などを避けようとする傾向を持つ(あごひげ海賊団というサイトに面白い画像が掲載されていたので、紹介しておく)。
これが京都における大文字の送り火に岩手県の松を使うことに極端に反応した市民による抗議を受けて、その使用をやめたことや、福岡における福島県支援のためのショップが一部の市民からの抗議によって出店中止にならざるを得なくなった原因と考えている。
こうした不安感は、一般市民の間で様々な形で受容されていき、場合によっては合理的でない偏見や警戒感を生み出している。それがしばしば福島ナンバーの車に対する暴力であったり、福島県出身者に対する差別であったりする。これらの差別や偏見は全く科学的な根拠を持たず、市民の自己防衛という言い訳も成り立たない話であるが、それでも「目に見えない脅威」であるということから発する、自己防衛が極端な形になって現れている点は、9.11のケースと共通しているようにも思える。
さらに、科学に対する不信感から、こうした社会的な問題だけでなく、個人の自己防衛が行き過ぎているというケースも見られる。たとえばホメオパシーやコメのとぎ汁などを使った「放射能解毒作用」のような似非科学が一部の人に受け入れられ、それが実際には健康を害するものであっても、こうした放射能への恐怖から、自分や自分の子供を守ろうとして、わらをもすがる思いで似非科学にはまり込んでしまう人たちも見受けられる(放射能を解毒するという似非科学については、片瀬さんという理学博士の書いたものがまとまっているので紹介しておく)。
このように、9.11後と3.11後のアメリカと日本で見られるようになった、社会的な変化は、一言でいえば、社会が「ナイーブ」になったということであろう。確かにテロリストを見抜くことも、放射能を避けることも、一般市民には簡単にできないことである。そのため、自分たちの住む町にテロが起きないためには、自分たちの子供が将来ガンにならないためには、可能な限りの手を打とうとする。しかし、そのための手段は限られているため、どうしても手近で簡単な方法を取らざるをえなくなる。それが、ある種の図式(イスラム教徒=テロリストであったり、東日本産食品=放射性廃棄物)に陥ってしまう。
こうした単純化された図式が生み出す副産物は、その図式に当てはめて「リスクがゼロになる状態」を追求するために、この世の中には他にもたくさんリスクがある、ということが見失われてしまうことである。たとえばイスラム教徒でなくてもテロリストになる可能性はあるし、東日本産の食品でなくても、添加物や農薬などで健康を害する可能性だってある。しかし、そうしたリスクを不問にしながら、一部のリスクだけを過剰に取り上げて、そのリスクをゼロにしようとすることで、非常に高いストレスをため込み、社会全体がギスギスしたものとなっていく結果をもたらしているような印象を受けている。
では、テロや放射能のリスクに対して、どう対処すれば良いのか。「ナイーブ」でない対処の仕方はあるのか、ということを最後に考えておきたい。私が個人的に心を打たれたのは、2005年7月7日のロンドン同時多発テロの後のイギリス人の人たちとのやり取りであった。彼らは「かつてIRAがテロをやっていた時もあるので、それに恐れてはいけない」「テロよりも交通事故で死ぬ人の方が多い」「テロに恐れることこそ、テロリストの思うつぼ」といった反応を示していた。私はこうした言葉が最も力強いものに感じた。同じことは読売新聞に同僚の遠藤乾氏が書いたことにも共通する。
要するに、大事なことはテロや放射能のリスクを「正しく怖がること」だと考えている。「正しく怖がる」というのは、本当にどの程度のリスクがあるのか、そのリスクは実際に害が及ぶほどのものなのか、そしてそのリスクを上回るベネフィットがあるのか、ということを考える必要がある、ということである。たとえば、イスラム教徒であるだけではリスクが高いとは言えない。東日本産の食品であるだけではリスクが高いとはいえない。ゆえに単純にそうした図式だけで自己防衛をしようとすることは社会的に正当化されるべきではない。
しかし、たとえばイスラム教徒の隣人と生活することになった場合、彼らが本当にテロリストでないかどうかというのは、ある程度付き合っていけば、判断できる場合もある。東日本産の食品を買う場合、それが放射能を帯びたものなのかどうかということは、現時点ではある程度のサンプリングが行われ、多分大丈夫というレベルのものが市場に出回っていると考えるべきだろう。
しかし、それでも、すべてのリスクを見通すことはできない。仲良くなった隣人が突如テロリストに変わる可能性もある(これはイスラム教徒でなくてもありうる)。たまたま購入した食品が放射線が高い可能性もある(これは東日本産に限らない)。そうしたリスクは確率論的にはかなり低く、それを恐れていては、まともな社会関係や消費生活を送ることが難しくなってしまう。逆に、できるだけリスクを避けようとするために、テロを恐れ、放射能を恐れすぎることで抱えるストレスや社会関係の悪化が結果的にはより悪い効果を生み出す可能性すらある。
ゆえに、私は、こうした「ナイーブ」な反応を避け、できるだけ「正しく怖がる」ようにし、一定程度の「Acceptableリスク(受容可能なリスク)」を考え、普通の生活をするようにしていきたい。そして社会全体が「ナイーブ」になっていることを受けとめながら、その「ナイーブさ」を理解しつつ、社会を見ていきたいと考えている。
9.11や3.11はすでに過去の出来事となった。あれから10年がたち、6ヶ月が経った。それによって日米の社会は大きく変わり、社会は「ナイーブさ」を増していった。そういう社会が今後どうなっていくのか、それが世界の他の部分にどのような影響を及ぼしていくのか。日米社会が「ナイーブ」になっているということを踏まえてみていくと、ティーパーティの問題や、政治家の失言を捉えるマスコミの対応などもよりよく理解できるのではないかと考えている。
2011年9月9日金曜日
武器輸出三原則について
ツイッター上で武器輸出三原則における「武器」とは何か、ということで@kankimuraさんとやり取りしていたのですが、やや込み入った複雑な話になってしまうので、ブログで説明させてもらいたいと思います。
まず、武器輸出三原則ですが、1967年に佐藤栄作内閣が定めたもので、それは以下の三つの原則によって成り立っています。なお、これは1967年4月21日の国会答弁で出されたもので、質問主意書のように閣議決定を経たものではない形で出されました(のちに閣議了解事項)。
しかし、この三つの原則は三木政権の時に「平和国家としての立場」から、以下の原則に読み替える、ということになりました。
つまり、この考え方によると、共産主義国、国連によって武器禁輸が課されている国、紛争当事国には武器の輸出を「禁止する」という原則があり、そのうえで、それ以外の地域に対しては武器の輸出を「慎む」となっています。また、武器製造関連設備も含めて「武器」とする、ということになっています。
では、この「武器」とは何を意味するのか、という定義の問題が出てきます。それは以下のように定義されます。
まず一般論として:
(1)武器輸出三原別における「武器」とは、「軍隊が使用するものであって、直接戦闘の用に供されるもの」をいい、具体的には、輸出貿易管理令別表第1の第197の項から第205の項までに掲げるもののうちこの定義に相当するものが「武器」である。
(2)自衛隊法上の「武器」については、「火器、火薬類、刀剣類その他直接人を殺傷し、又は武力闘争の手段として物を破壊することを目的とする機械、器具、装置等」であると解している。なお、本来的に、火器等をとう載し、そのもの自体が直接人の殺傷又は武力闘争の手段としての物の破壊を目的として行動する護衛艦、戦闘機、戦車のようなものは、右の武器に当たると考える。(出典:経産省HP)
となっています。ここでの要件は「軍隊が使う」という使用者が規定され、「直接戦闘の用に供される」という使用目的が規定されています。で、その具体的なリストとして外為法輸出貿易管理令別表第1の第197-205項までのアイテムを指します。
また、それ以外の「武器」の定義として自衛隊法における「武器」の定義も援用し、外為法輸出管理令別表のアイテム以外のものもカバーしています。
さらに「「武器輸出三原則」上の「武器」には輸出貿易管理令別表第1に「部分品」又は「附属品」が規定されている場合は、その「部分品」又は「附属品」も含まれる。」ということにもなっており、この「部分品」ないしは「附属品」という範囲は定めがないので、ちょっとややこしいのですが、上記のように定義される「武器」に直接かかわる部品や付属品(たとえば戦車のキャタピラと大砲の砲身とか)を指すということになっています。
ここまでは、私がツイートした「大型武器の輸出はしてこなかった」ということの意味です。
ここでちょっとややこしいのが「平成3年11月の輸出貿易管理令の一部改正により、1-(3)の「第109の項」及び2-(1)の「第197の項から第205の項」は、「第1の項」に変わっております。」という注です。経産省のHPで見ていただくとわかるのですが、別表第1の「第1の項」というのは「武器」となっていて、その中には「銃砲・銃砲弾」という項目があるのです。
これを見ると、ライフルなども「武器」のカテゴリーの中に含まれる、ということになってしまい、これが混乱の元になっています。
つまり、一方で「軍隊が使う」「直接戦闘の用に供される」という規定だけで判断すると、狩猟用のライフルなどの輸出は可能という判断が可能であり、逆に「別表第1の第1の項」という要件で見れば狩猟用であってもライフルの輸出はできない、ということになります。
この点は、武器輸出三原則が持っている矛盾なのですが、具体的に解決する措置が取られることもなく、矛盾した状況のまま現在に至っています。政府としては、「別表第1の第1の項」という規定で判断しているようですが、政府がすべての輸出品を検査しているわけではないので、輸出者が「軍隊が使う」「直接戦闘の用に供される」という基準だけで判断すると、外国に輸出してしまう、という可能性が高くなる、ということになります。
それ以外にも、武器輸出三原則はいろいろな矛盾を孕んでいるのですが、それについては、また別の機会に議論したいと思います。
まず、武器輸出三原則ですが、1967年に佐藤栄作内閣が定めたもので、それは以下の三つの原則によって成り立っています。なお、これは1967年4月21日の国会答弁で出されたもので、質問主意書のように閣議決定を経たものではない形で出されました(のちに閣議了解事項)。
(1)共産圏諸国向けの場合
(2)国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
(3)国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合
しかし、この三つの原則は三木政権の時に「平和国家としての立場」から、以下の原則に読み替える、ということになりました。
(1)三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない。
(2)三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」の輸出を慎むものとする。
(3)武器製造関連設備の輸出については、「武器」に準じて取り扱うものとする。
つまり、この考え方によると、共産主義国、国連によって武器禁輸が課されている国、紛争当事国には武器の輸出を「禁止する」という原則があり、そのうえで、それ以外の地域に対しては武器の輸出を「慎む」となっています。また、武器製造関連設備も含めて「武器」とする、ということになっています。
では、この「武器」とは何を意味するのか、という定義の問題が出てきます。それは以下のように定義されます。
まず一般論として:
(1)武器輸出三原別における「武器」とは、「軍隊が使用するものであって、直接戦闘の用に供されるもの」をいい、具体的には、輸出貿易管理令別表第1の第197の項から第205の項までに掲げるもののうちこの定義に相当するものが「武器」である。
(2)自衛隊法上の「武器」については、「火器、火薬類、刀剣類その他直接人を殺傷し、又は武力闘争の手段として物を破壊することを目的とする機械、器具、装置等」であると解している。なお、本来的に、火器等をとう載し、そのもの自体が直接人の殺傷又は武力闘争の手段としての物の破壊を目的として行動する護衛艦、戦闘機、戦車のようなものは、右の武器に当たると考える。(出典:経産省HP)
となっています。ここでの要件は「軍隊が使う」という使用者が規定され、「直接戦闘の用に供される」という使用目的が規定されています。で、その具体的なリストとして外為法輸出貿易管理令別表第1の第197-205項までのアイテムを指します。
また、それ以外の「武器」の定義として自衛隊法における「武器」の定義も援用し、外為法輸出管理令別表のアイテム以外のものもカバーしています。
さらに「「武器輸出三原則」上の「武器」には輸出貿易管理令別表第1に「部分品」又は「附属品」が規定されている場合は、その「部分品」又は「附属品」も含まれる。」ということにもなっており、この「部分品」ないしは「附属品」という範囲は定めがないので、ちょっとややこしいのですが、上記のように定義される「武器」に直接かかわる部品や付属品(たとえば戦車のキャタピラと大砲の砲身とか)を指すということになっています。
ここまでは、私がツイートした「大型武器の輸出はしてこなかった」ということの意味です。
ここでちょっとややこしいのが「平成3年11月の輸出貿易管理令の一部改正により、1-(3)の「第109の項」及び2-(1)の「第197の項から第205の項」は、「第1の項」に変わっております。」という注です。経産省のHPで見ていただくとわかるのですが、別表第1の「第1の項」というのは「武器」となっていて、その中には「銃砲・銃砲弾」という項目があるのです。
これを見ると、ライフルなども「武器」のカテゴリーの中に含まれる、ということになってしまい、これが混乱の元になっています。
つまり、一方で「軍隊が使う」「直接戦闘の用に供される」という規定だけで判断すると、狩猟用のライフルなどの輸出は可能という判断が可能であり、逆に「別表第1の第1の項」という要件で見れば狩猟用であってもライフルの輸出はできない、ということになります。
この点は、武器輸出三原則が持っている矛盾なのですが、具体的に解決する措置が取られることもなく、矛盾した状況のまま現在に至っています。政府としては、「別表第1の第1の項」という規定で判断しているようですが、政府がすべての輸出品を検査しているわけではないので、輸出者が「軍隊が使う」「直接戦闘の用に供される」という基準だけで判断すると、外国に輸出してしまう、という可能性が高くなる、ということになります。
それ以外にも、武器輸出三原則はいろいろな矛盾を孕んでいるのですが、それについては、また別の機会に議論したいと思います。
2011年8月14日日曜日
イギリスの暴動はなぜ起こったのか
8月6日から起こった、イギリスにおける暴動は、日本でも様々な形で報道され、ツイッターなどでも大きな話題となったが、それがなぜ起こったのか、そして一体あの暴動が何を意味したのか、ということは必ずしも明確になっていない。そこで、さまざまな報道から推測される、暴動の原因を挙げてみて、それらを評価しながら、この暴動は何だったのかを検討してみたい。
まず、暴動に参加したのは、主として10代の若年層を中心とする若い世代であり、ほとんどが貧困層であったとはいえ、人種的なまとまりが合ったわけでもなく、また政治的なバックグラウンドが共通していたわけでもない。つまり、暴動に参加した個人を見ていても、どのような動機でこの暴動に参加したのか、ということが明白ではない。それゆえ、何らかの社会構造や社会集団の属性に依拠して分析することが極めて困難であり、すっきりした答えを出すことが難しいのが、今回の暴動の特徴である。
イギリスにおいても、今回の暴動をどのようにとらえるべきかについては、大きな振幅があり、まとまった答えは出されていない。こうした暴動の原因を考えることは、将来、同じようなことが繰り返されないためにも重要なことであるが、その原因が明確にできない以上、再発を防止することは極めて困難となる。ここでは、考えられうる暴動の要因を挙げて検討してみる。
・社会的排除
今回暴動に参加した若者たちは、白人層も含め、社会的に排除された人たちであり、教育を十分受けず、就職をしようにも住んでいる地域や学歴によって社会からすでに排除されている状況にあった。イギリスにおける階級社会の文化、とりわけ『ハマータウンの野郎ども 』で描かれたUnderclass(低階級)のlads(野郎ども)やchav(コンビニでたむろするヤンキーといったイメージの悪ガキ)によって引き起こされたものであり、社会的なアウトローによるものであった。
かれらは日々、社会から排除されているという認識を持ち、就職や行政サービスに対しても、一定の不信感を持っている。実際、彼らが社会から排除されていることによって、教育を受けることの意味も理解できず、将来に希望を持つこともできない、という状況にある。こうした背景は今回の暴動を引き起こす大きな社会構造上の原因であったと考えることができる。ただし、今回の暴動に参加した人々すべてが社会的に排除されている人たちというわけではなく、普通の生活を営んでいる人たちも多くいたことを説明することは難しい。
・母子家庭
今回の暴動の多くは男性であったが、イギリスにおける母子家庭で育つ低所得者層の男性の数は極めて多い。離婚率が高く、社会的なモラルが形成されていないという以上に、男性の成人としてのロールモデルとして父親が存在していないという状況がある。こうした母子家庭で育った子供たちはギャング文化に染まりやすく、また、母親が働きに出ているため、十分な親の監視が行き届いていないという状況もある。
また、こうした問題は、これまでイギリス社会の中で上流階級から労働者階級まで共通していた「親の権威」を失わせる結果となっていった。体罰に対する社会的な厳しい目もあり、親が子供をしつけることが難しくなったことや、子供が親の言うことを聞かなくなり、一種のモラルハザードが生まれているという指摘もしばしばなされている。こうした親の権威の喪失が結果として、歯止めのかからない暴動を生み出してしまった結果につながっている。
・緊縮財政
キャメロン政権の緊縮財政は必ずしも直接的な原因や雇用に直結する問題ではないが、今回暴動が起きた地域におけるユース・センター の閉鎖というのは一つの問題として取り上げることが出来る。このユース・センターとは、家庭に居場所のない若者たちが集まる集会所であり、ここでゲームをしたり、地域の若者たちと共同作業をすることで社会的なまとまりを作っていくことが出来る場所であった。実際、ギャングなどの集団を作り上げる母体となることもあったが、多くのユース・センターはむしろ犯罪に走りそうになる若者をとどまらせる効果があった。また、しばしばここでは上級生が下級生の面倒をみるとか、ユース・センターの職員が親代わりとなって悩みの相談に乗ると言った、社会的に重要な役割を担うこともあった。しかし、緊縮財政によって、こうした場所が失われることが暴動の引き金になったともいえよう。しかし、これはあくまでも遠因でしかない。
・警察の不在と不信感
今回の暴動の直接の引き金になったトットナムにおけるダガン氏射殺事件は、警察が抱えている人種差別的体質を露わにしたものと見られていた。これまでも、警察が人種差別的な対応をしたり、警察幹部が人種差別的な発言をしたことが報じられており、その意味での警察に対する不信感は根強かった。ゆえに、ダガン氏射殺の後、人種差別反対の集会が執り行われたのであるが、そこでも警察が失態を犯したことで、カリブ海出身者(イギリスにおける黒人)層が強く反発したことが一つのきっかけとなった。
しかし、こうした警察の対応は一過性のものではないことに注目する必要がある。これまでも1993年のスティーブン・ローレンス(黒人)事件のように、マイノリティに対する警察の対応がずさんであり、また、今回暴動が起こった低所得者層の人々が住む地域における犯罪に対し、警察が十分に対処してこなかったという背景がある。これは警察自身が、これらの地域を危険地帯と見なし、犯罪が起こっても積極的に介入しなかったり、小規模な犯罪であっても過剰に介入する等、ある種の偏見に基づく対応をしてきたと見られていた。そのため、警察に対する不信感は根強く、トットナムでの事件が人種問題ではなく、階級・階層の問題として捉えられるようになった。
・人種差別
今回の暴動を巡る報道で、暴動の主体を「移民系」や「黒人・ムスリム」といった人種的なカテゴリーに落とし込んで説明するものが多くみられたが、これはほとんどと言ってよいほど間違いである。まず、今回の暴動に参加したのは、特定の人種的なプロファイルが存在せず、年齢的なプロファイルや所得層のプロファイルは共通していても、黒人(カリブ系)、白人(アングロサクソンとは限らない)、アジア系(インド・パキスタン系)など、幅広く混ざり合った人種構成となっており、特定の人種に還元することはできない。
にもかかわらず、人種をベースにした議論が展開された背景には、1991年のアメリカで起きたロドニー・キング事件を発端とする暴動(黒人が中心となり、韓国系移民との人種間暴動に発展)や、2005年のフランスにおける郊外暴動(マグレブ系の移民が中心)などのケースに準拠して理解しようとした結果と思われる。しかし、そうした人種的なプロファイルが成立しない以上、こうした報道は適切ではないと言える。
・ギャング文化
今回の暴動を説明するに当たり、一定の説明能力をもっていたのは、低所得者層におけるギャング文化である。現地ではChav(チャヴ)と呼ばれる、ギャングとも愚連隊ともつかぬグループが一定数存在しており、低所得者層のコミュニティの中で麻薬取引など違法行為によって高額の資産をもち、金ぴかのネックレスや高級車を乗り回し、そのコミュニティにおけるリーダーとしての存在感をもっている。彼らは警察との関係も持ち、その地位を安定させることで、地域の若年層からの尊敬と信頼を集めている。こうしたギャングを中心とするコミュニティが出来上がり、学校に行かない子供たちや10代の若者が彼らを尊敬し、模倣することで、ギャング文化が蔓延している。
こうしたギャング文化が、今回の暴動では重要な意味をもっていた。警察の介入が不十分と見るや否や、ギャングのリーダーが煽る形で警察に対抗し、それを「格好いい」と認識した若い人たちが彼らに追随し、さらには家電製品や貴金属などを強奪することで、ギャングのメンバーと同じような姿恰好をすることができる、ということで商店を襲撃するようになった。興味深いのは、今回の暴動で破壊の対象になったのは、洋服、貴金属、携帯電話、家電、酒屋、食料品店などに集中しており、本屋などはほとんど無傷であった、という点である。つまり彼らは無差別に略奪していたわけではなく、選択的に自分たちの文化にあった商品をもつ商店だけを狙ったということが言える。こうした傾向を理解するためには、ギャング文化に注目する必要があるだろう。
・機会主義
今回の暴動を考える上で重要なのは、暴動が何らかの組織によって系統だって行われたわけではなく、自然発生的に散発的であったということである。ギャングは存在するとしても、彼らが持っているネットワークは極めて限られた範囲でしかなく、ある種のマフィアのような組織として構成されているわけではない。そのため、一つのグループが暴動を始めると、他のグループも模倣してそれに追随し、秩序が失われていくと、ギャングのメンバーではない一般の人々までもが「商店からタダで物を手に入れることが出来る」と見て、その暴動に参加するようになった。そうした暴動に便乗するような動きが暴動の規模をさらに拡大し、加えて他の都市においても、ロンドンでの秩序の喪失と政府・警察の対応が遅れていることを見越して、これを機会に、と便乗してイングランド各地に拡散していった。
・集団心理
暴動の規模が大きくなったのは機会主義とともに、集団心理が働いたことが大きい。とりわけ、暴動に積極的に加わるつもりがなかった傍観者であっても、大量の商品が略奪され、警察が十分な対応を見せていないという状態を見ていると、自分も同じように商品を持ち去ることへの抵抗がなくなり、「この際だからもらっていこう」といった反応を見せている。そうした集団心理の働きは、本来ならばこうした暴動とは無縁の人々までもが暴動の参加者として当事者となり、暴動の規模を大きくしていったことで、さらなる集団心理が働くという循環が生まれたものと思われる。
こうした集団心理のパターンについて、きちんと説明がなされているわけではないが、逮捕された人々(往々にして逃げ遅れた傍観者/当事者の人々)が裁判や警察の取り調べで明らかにしているところを見ると、実際に何らかの目的があって暴動や略奪に参画したというよりは、「なんとなく」という雰囲気があったことは確かである。
・夏休み
今回の暴動の一つの特徴は、10代の若年層が中心であり、小学生のような小さな子供までが暴動に参加していたことである。これはすでに論じたギャング文化が小学生のレベルにまで浸透しており、子供たちの行動の規範となっていたことを示している。また、すでに述べたように、こうした子供たちを管理すべき親の世代がほとんどと言ってよいほど子供の管理が出来ていないという状況をも示している。
こうしたシングルマザーの家庭では、夏休みは悪夢の時期である。子供たちを管理することもできず、かといって母親が働かないわけにはいかない。そのため、子供たちは親のいない家で時間を過ごすこととなり、必然的に親の管理が行き届かなくなり、地域のChavと呼ばれる「悪ガキ」とかかわる時間が長くなっていく。そのため、小学生くらいの子供たちにもそうしたギャング文化が浸透していき、今回のような暴動が起こったことで、暇を持て余している子供たちは興味本位であることも含め、こうした暴動に関与するようになったのである。
・まとめ
いろいろと要因を挙げてみたが、これがすべてだと断定することは難しい。しかし、一つだけはっきり言えることは、どれか一つの要因に当てはめて今回の暴動を理解することは極めて困難であり、こうした複合的な要因によって暴動が発生し、拡大し、そして収束した、ということである。
ここから言えることは、今回の暴動の原因が明確でないがゆえに、どうやって暴動が再発することを止めるのか、という方法について、明確な処方箋を出すことができず、結局、警察の増員により事態が収束してしまったがゆえに、問題の根本が明らかにされず、それに対する対応策を出すこともなく、これまで通りの社会が続いていくことになってしまった、ということであろう。つまり、問題は根本的な解決を見ることなく、先送りされたのである。ということは、将来にわたって、こうした問題が再度起こりうる可能性は高く、今後のイギリス社会は不穏で不安げな空気を抱え込んだまま、事態が悪化しないことを祈り続けるしかないのであろう。
まず、暴動に参加したのは、主として10代の若年層を中心とする若い世代であり、ほとんどが貧困層であったとはいえ、人種的なまとまりが合ったわけでもなく、また政治的なバックグラウンドが共通していたわけでもない。つまり、暴動に参加した個人を見ていても、どのような動機でこの暴動に参加したのか、ということが明白ではない。それゆえ、何らかの社会構造や社会集団の属性に依拠して分析することが極めて困難であり、すっきりした答えを出すことが難しいのが、今回の暴動の特徴である。
イギリスにおいても、今回の暴動をどのようにとらえるべきかについては、大きな振幅があり、まとまった答えは出されていない。こうした暴動の原因を考えることは、将来、同じようなことが繰り返されないためにも重要なことであるが、その原因が明確にできない以上、再発を防止することは極めて困難となる。ここでは、考えられうる暴動の要因を挙げて検討してみる。
・社会的排除
今回暴動に参加した若者たちは、白人層も含め、社会的に排除された人たちであり、教育を十分受けず、就職をしようにも住んでいる地域や学歴によって社会からすでに排除されている状況にあった。イギリスにおける階級社会の文化、とりわけ『ハマータウンの野郎ども 』で描かれたUnderclass(低階級)のlads(野郎ども)やchav(コンビニでたむろするヤンキーといったイメージの悪ガキ)によって引き起こされたものであり、社会的なアウトローによるものであった。
かれらは日々、社会から排除されているという認識を持ち、就職や行政サービスに対しても、一定の不信感を持っている。実際、彼らが社会から排除されていることによって、教育を受けることの意味も理解できず、将来に希望を持つこともできない、という状況にある。こうした背景は今回の暴動を引き起こす大きな社会構造上の原因であったと考えることができる。ただし、今回の暴動に参加した人々すべてが社会的に排除されている人たちというわけではなく、普通の生活を営んでいる人たちも多くいたことを説明することは難しい。
・母子家庭
今回の暴動の多くは男性であったが、イギリスにおける母子家庭で育つ低所得者層の男性の数は極めて多い。離婚率が高く、社会的なモラルが形成されていないという以上に、男性の成人としてのロールモデルとして父親が存在していないという状況がある。こうした母子家庭で育った子供たちはギャング文化に染まりやすく、また、母親が働きに出ているため、十分な親の監視が行き届いていないという状況もある。
また、こうした問題は、これまでイギリス社会の中で上流階級から労働者階級まで共通していた「親の権威」を失わせる結果となっていった。体罰に対する社会的な厳しい目もあり、親が子供をしつけることが難しくなったことや、子供が親の言うことを聞かなくなり、一種のモラルハザードが生まれているという指摘もしばしばなされている。こうした親の権威の喪失が結果として、歯止めのかからない暴動を生み出してしまった結果につながっている。
・緊縮財政
キャメロン政権の緊縮財政は必ずしも直接的な原因や雇用に直結する問題ではないが、今回暴動が起きた地域におけるユース・センター の閉鎖というのは一つの問題として取り上げることが出来る。このユース・センターとは、家庭に居場所のない若者たちが集まる集会所であり、ここでゲームをしたり、地域の若者たちと共同作業をすることで社会的なまとまりを作っていくことが出来る場所であった。実際、ギャングなどの集団を作り上げる母体となることもあったが、多くのユース・センターはむしろ犯罪に走りそうになる若者をとどまらせる効果があった。また、しばしばここでは上級生が下級生の面倒をみるとか、ユース・センターの職員が親代わりとなって悩みの相談に乗ると言った、社会的に重要な役割を担うこともあった。しかし、緊縮財政によって、こうした場所が失われることが暴動の引き金になったともいえよう。しかし、これはあくまでも遠因でしかない。
・警察の不在と不信感
今回の暴動の直接の引き金になったトットナムにおけるダガン氏射殺事件は、警察が抱えている人種差別的体質を露わにしたものと見られていた。これまでも、警察が人種差別的な対応をしたり、警察幹部が人種差別的な発言をしたことが報じられており、その意味での警察に対する不信感は根強かった。ゆえに、ダガン氏射殺の後、人種差別反対の集会が執り行われたのであるが、そこでも警察が失態を犯したことで、カリブ海出身者(イギリスにおける黒人)層が強く反発したことが一つのきっかけとなった。
しかし、こうした警察の対応は一過性のものではないことに注目する必要がある。これまでも1993年のスティーブン・ローレンス(黒人)事件のように、マイノリティに対する警察の対応がずさんであり、また、今回暴動が起こった低所得者層の人々が住む地域における犯罪に対し、警察が十分に対処してこなかったという背景がある。これは警察自身が、これらの地域を危険地帯と見なし、犯罪が起こっても積極的に介入しなかったり、小規模な犯罪であっても過剰に介入する等、ある種の偏見に基づく対応をしてきたと見られていた。そのため、警察に対する不信感は根強く、トットナムでの事件が人種問題ではなく、階級・階層の問題として捉えられるようになった。
・人種差別
今回の暴動を巡る報道で、暴動の主体を「移民系」や「黒人・ムスリム」といった人種的なカテゴリーに落とし込んで説明するものが多くみられたが、これはほとんどと言ってよいほど間違いである。まず、今回の暴動に参加したのは、特定の人種的なプロファイルが存在せず、年齢的なプロファイルや所得層のプロファイルは共通していても、黒人(カリブ系)、白人(アングロサクソンとは限らない)、アジア系(インド・パキスタン系)など、幅広く混ざり合った人種構成となっており、特定の人種に還元することはできない。
にもかかわらず、人種をベースにした議論が展開された背景には、1991年のアメリカで起きたロドニー・キング事件を発端とする暴動(黒人が中心となり、韓国系移民との人種間暴動に発展)や、2005年のフランスにおける郊外暴動(マグレブ系の移民が中心)などのケースに準拠して理解しようとした結果と思われる。しかし、そうした人種的なプロファイルが成立しない以上、こうした報道は適切ではないと言える。
・ギャング文化
今回の暴動を説明するに当たり、一定の説明能力をもっていたのは、低所得者層におけるギャング文化である。現地ではChav(チャヴ)と呼ばれる、ギャングとも愚連隊ともつかぬグループが一定数存在しており、低所得者層のコミュニティの中で麻薬取引など違法行為によって高額の資産をもち、金ぴかのネックレスや高級車を乗り回し、そのコミュニティにおけるリーダーとしての存在感をもっている。彼らは警察との関係も持ち、その地位を安定させることで、地域の若年層からの尊敬と信頼を集めている。こうしたギャングを中心とするコミュニティが出来上がり、学校に行かない子供たちや10代の若者が彼らを尊敬し、模倣することで、ギャング文化が蔓延している。
こうしたギャング文化が、今回の暴動では重要な意味をもっていた。警察の介入が不十分と見るや否や、ギャングのリーダーが煽る形で警察に対抗し、それを「格好いい」と認識した若い人たちが彼らに追随し、さらには家電製品や貴金属などを強奪することで、ギャングのメンバーと同じような姿恰好をすることができる、ということで商店を襲撃するようになった。興味深いのは、今回の暴動で破壊の対象になったのは、洋服、貴金属、携帯電話、家電、酒屋、食料品店などに集中しており、本屋などはほとんど無傷であった、という点である。つまり彼らは無差別に略奪していたわけではなく、選択的に自分たちの文化にあった商品をもつ商店だけを狙ったということが言える。こうした傾向を理解するためには、ギャング文化に注目する必要があるだろう。
・機会主義
今回の暴動を考える上で重要なのは、暴動が何らかの組織によって系統だって行われたわけではなく、自然発生的に散発的であったということである。ギャングは存在するとしても、彼らが持っているネットワークは極めて限られた範囲でしかなく、ある種のマフィアのような組織として構成されているわけではない。そのため、一つのグループが暴動を始めると、他のグループも模倣してそれに追随し、秩序が失われていくと、ギャングのメンバーではない一般の人々までもが「商店からタダで物を手に入れることが出来る」と見て、その暴動に参加するようになった。そうした暴動に便乗するような動きが暴動の規模をさらに拡大し、加えて他の都市においても、ロンドンでの秩序の喪失と政府・警察の対応が遅れていることを見越して、これを機会に、と便乗してイングランド各地に拡散していった。
・集団心理
暴動の規模が大きくなったのは機会主義とともに、集団心理が働いたことが大きい。とりわけ、暴動に積極的に加わるつもりがなかった傍観者であっても、大量の商品が略奪され、警察が十分な対応を見せていないという状態を見ていると、自分も同じように商品を持ち去ることへの抵抗がなくなり、「この際だからもらっていこう」といった反応を見せている。そうした集団心理の働きは、本来ならばこうした暴動とは無縁の人々までもが暴動の参加者として当事者となり、暴動の規模を大きくしていったことで、さらなる集団心理が働くという循環が生まれたものと思われる。
こうした集団心理のパターンについて、きちんと説明がなされているわけではないが、逮捕された人々(往々にして逃げ遅れた傍観者/当事者の人々)が裁判や警察の取り調べで明らかにしているところを見ると、実際に何らかの目的があって暴動や略奪に参画したというよりは、「なんとなく」という雰囲気があったことは確かである。
・夏休み
今回の暴動の一つの特徴は、10代の若年層が中心であり、小学生のような小さな子供までが暴動に参加していたことである。これはすでに論じたギャング文化が小学生のレベルにまで浸透しており、子供たちの行動の規範となっていたことを示している。また、すでに述べたように、こうした子供たちを管理すべき親の世代がほとんどと言ってよいほど子供の管理が出来ていないという状況をも示している。
こうしたシングルマザーの家庭では、夏休みは悪夢の時期である。子供たちを管理することもできず、かといって母親が働かないわけにはいかない。そのため、子供たちは親のいない家で時間を過ごすこととなり、必然的に親の管理が行き届かなくなり、地域のChavと呼ばれる「悪ガキ」とかかわる時間が長くなっていく。そのため、小学生くらいの子供たちにもそうしたギャング文化が浸透していき、今回のような暴動が起こったことで、暇を持て余している子供たちは興味本位であることも含め、こうした暴動に関与するようになったのである。
・まとめ
いろいろと要因を挙げてみたが、これがすべてだと断定することは難しい。しかし、一つだけはっきり言えることは、どれか一つの要因に当てはめて今回の暴動を理解することは極めて困難であり、こうした複合的な要因によって暴動が発生し、拡大し、そして収束した、ということである。
ここから言えることは、今回の暴動の原因が明確でないがゆえに、どうやって暴動が再発することを止めるのか、という方法について、明確な処方箋を出すことができず、結局、警察の増員により事態が収束してしまったがゆえに、問題の根本が明らかにされず、それに対する対応策を出すこともなく、これまで通りの社会が続いていくことになってしまった、ということであろう。つまり、問題は根本的な解決を見ることなく、先送りされたのである。ということは、将来にわたって、こうした問題が再度起こりうる可能性は高く、今後のイギリス社会は不穏で不安げな空気を抱え込んだまま、事態が悪化しないことを祈り続けるしかないのであろう。
2011年7月19日火曜日
なぜ宇宙開発に関する論説はいつも無責任な議論ばかりなのだろうか
本日の読売新聞の『論点』で有馬朗人先生が「日本の技術 防災に生かせ」という論稿を寄せられていた。有馬先生は東大学長と科学技術庁長官を経験された偉大な技術者であり、国際的、国内的な評価も非常に高い先生である。政治も役所もアカデミアも熟知されている先生であるからこそ、新聞を開けた時には期待が高まった。
しかし、この論稿を読んだ感想は「残念」の一言である。これまで新聞に掲載された宇宙開発関連の記事や論説についてコメントしてきたが、「またか」という印象が強い。こちらもウェブには記事が掲載されていないので、著作権を侵害しない範囲で引用しながら議論していきたい。
有馬先生の論稿はまずシャトル後の宇宙開発ということから始まる。これは今月に書かれた宇宙関連の記事のほとんど共通した論調である。私の住む北海道の有力地方紙である北海道新聞でも「シャトル退役 宇宙開発 日本の役割は」(7月19日社説)という社説が掲載されている。なぜ北海道新聞が北海道での宇宙開発に一切触れず、国の宇宙開発だけを論じているのかは、若干疑問が残るが、それは今回の本論ではないので、これ以上は触れない(なお、北海道の宇宙開発については、拙稿「北大HOPSマガジン【北海道から何を発信するか】北海道発の宇宙開発に注目!」:WEBRONZAをご参照ください)。
さて、有馬先生の論稿だが、シャトルはさまざまな実験ができることを強調し、シャトルは退役しても宇宙ステーションは残るので大事にしなければならないと主張する。その理由は「こんな人工構造物はない」から。「こんなものは他にないから大事にしろ」というのは気持ちとしてはわかる。マチュピチュや姫路城のように、歴史的遺産も「他にはないのだから大事にする」ということで保護されている。つまり、他にはないから大事にするというのは遺跡とか博物館のレベルの話であり、それに巨額の費用をかけて維持するということの意義は見出せない。宇宙ステーションは運用を止めれば、残念ながら大気圏に突入し、燃え尽きてしまう運命にある。なので、大事にしていても、その大事にすべき価値が何なのかが明確でない以上、大事にする理由がよくわからない。
その費用について、有馬先生は年間400億円のコストがかかることを熟知していながら、そのコストは高すぎるわけではなく、「子供たちに宇宙に行ける希望を与えるためにも、このくらいの投資をしてもいいのではないか」とおっしゃっている。残念ながら、宇宙ステーションの運用は2020年までと決まっており、子供たちが大人になる前に運用を止めて大気圏に突入し、灰になることが決まっている。子供たちが行くことができない宇宙ステーションを、年間400億円もかけて維持する意味はない、となると、何のための予算なのか、きっちり説明する必要が出てくるだろう。
ただでさえ、日本の公的債務が1000兆円になろうとしており、ただでさえ、震災からの復興に数十兆円かかるとされている時代にあって、年間400億円は小さくない数字である。子供たちがどう頑張ってもたどりつくことのできない宇宙ステーションを「子供たちに希望を与えるため」に、国の借金を増やし、被災地の支援に回すことだってできたはずの400億円を費やすことの意味が私には理解できない。
続いて、有馬先生は宇宙実験で結果が出ていないという批判に対して、「研究とはそういうものだ」として成果が出なくても実験を続けるべきだ、と主張される。しかし、宇宙ステーションを使った実験の数はどんどん減っており、JAXAが予定していた数に達していない。それは、宇宙ステーションが使いにくい実験装置であるだけでなく、宇宙ステーションに行かなくてもさまざまな方法で実験をするということが可能になっているからである。研究が即座に成果を出すものとは、私も思っていない。しかし、科学者にとって役に立たない、実験に使いにくい装置を巨額の費用をかけて維持するという意義もよくわからない。問題は成果が出ないことではなく、成果を出すまでの時間とコストがかかりすぎ、本当に継続的な実験や研究ができないような環境を作ってしまったことにある。宇宙ステーションがあるから実験をやれ、といっても、科学者にとって迷惑なことである。最初から使いづらく、リスクが多く、コストが高い宇宙ステーションを無理やり「実験施設」として位置付け、予算をつけてきたことのツケを今払っているということを理解すべきである。
有馬先生の議論は、他のいくつかの論稿と同様に、突然急展開する。宇宙ステーションでの実験を続け、「継続は力だ」とおっしゃった、その直後の段落から、宇宙技術と防災の話が始まる。さまざまな地球規模の問題を解決するために衛星技術を磨くことが重要だと主張されている。この点については、このブログで繰り返し述べてきたように、まったくその通りだと思う。
ただ、この有馬先生の論稿が他のものと異なるのは、宇宙基本法の成立に伴い、「平和利用原則」の解釈が変わったことを的確に理解されており、それを肯定的に捉えている点である。これまで宇宙基本法をめぐる解釈がおかしいという点については、何度かこのブログで書いてきたが(たとえば「川口淳一郎先生の宇宙基本法の誤解」)、有馬先生は衛星技術が高まれば、「いずれ安全保障にも役立つ」と指摘しており、災害対策のための宇宙利用は重要であると論じている。
そして、最後に宇宙開発を引っ張ってきたアメリカの力が弱まり、日本も目標を描けずにいる、と指摘している。これが現在の宇宙開発戦略本部が日本の宇宙開発の方向性を出せていない、という点を指摘しているのであれば、その通りであろう。日本がどのような宇宙開発を進めていくのかという全体的な方針は、2009年の宇宙基本計画で一応は示されたが、それが民主党政権に変わったことで、その方向性が見失われた状態であり、何度もコロコロと宇宙開発担当大臣が変わることで、落ち着いて戦略的なビジョンを描けていない、というのもその通りであろう。
有馬先生は事業仕訳などでロマンや情熱を持って新しいことをやろうという機運が失われてきたことを嘆いておられる。その点には同意するが、しかし、同時にこの論稿の前半部分で述べられた年間400億円の支出を、行ける可能性もない子供たちの期待を維持するために、宇宙ステーションにかけるという議論と重ねて考えると、有馬先生の議論は途端に脆弱なものに見える。
つまり、ここで展開されている議論には財政の問題についてまったくと言ってよいほど考察がない、ということなのである。宇宙開発の予算が年間2500億円程度であり、国家予算からみればそれほど大きくない額とはいえ、日本の破たん気味の財政状況を考えると、ロマンや情熱という精神論だけでは解決できない問題がそこにはある。そのことをまったく無視して科学技術政策を論じることは、国家財政が破たんしても夢やロマンを追いかけるべき、という無責任な議論に見えてしまう。
国民の税金を使ってやる以上、国民に還元されない宇宙開発は正当化できない。災害対策や安全保障は値段をつけることはできないが、少なくとも国民の福祉厚生(Welfare)を向上させるためのものとして期待することはできる。情熱やロマンも同じく値段が付けられないものであるが、それが国民のWelfareを向上させることになるのだろうか?10年後には灰になってしまう宇宙ステーションを「子供たちに希望を与えるため」という理屈で400億円も投入することが国民のWelfareを向上させることになるのだろうか。
国家には優先順位があるべきであり、税金の使い方はその優先順位に沿って議論されるべきである。有馬先生の論稿の後半にあるように、災害対策は、東日本大震災を経験した日本にとって、圧倒的に高いプライオリティである。しかし、それが宇宙ステーションを無理やり維持することと同列で語られることがおかしいのである。限られた予算を何に使うのか。宇宙開発を語るものは、社会的責任を持って、政策的プライオリティを考えて語らなければならないのである。
しかし、この論稿を読んだ感想は「残念」の一言である。これまで新聞に掲載された宇宙開発関連の記事や論説についてコメントしてきたが、「またか」という印象が強い。こちらもウェブには記事が掲載されていないので、著作権を侵害しない範囲で引用しながら議論していきたい。
有馬先生の論稿はまずシャトル後の宇宙開発ということから始まる。これは今月に書かれた宇宙関連の記事のほとんど共通した論調である。私の住む北海道の有力地方紙である北海道新聞でも「シャトル退役 宇宙開発 日本の役割は」(7月19日社説)という社説が掲載されている。なぜ北海道新聞が北海道での宇宙開発に一切触れず、国の宇宙開発だけを論じているのかは、若干疑問が残るが、それは今回の本論ではないので、これ以上は触れない(なお、北海道の宇宙開発については、拙稿「北大HOPSマガジン【北海道から何を発信するか】北海道発の宇宙開発に注目!」:WEBRONZAをご参照ください)。
さて、有馬先生の論稿だが、シャトルはさまざまな実験ができることを強調し、シャトルは退役しても宇宙ステーションは残るので大事にしなければならないと主張する。その理由は「こんな人工構造物はない」から。「こんなものは他にないから大事にしろ」というのは気持ちとしてはわかる。マチュピチュや姫路城のように、歴史的遺産も「他にはないのだから大事にする」ということで保護されている。つまり、他にはないから大事にするというのは遺跡とか博物館のレベルの話であり、それに巨額の費用をかけて維持するということの意義は見出せない。宇宙ステーションは運用を止めれば、残念ながら大気圏に突入し、燃え尽きてしまう運命にある。なので、大事にしていても、その大事にすべき価値が何なのかが明確でない以上、大事にする理由がよくわからない。
その費用について、有馬先生は年間400億円のコストがかかることを熟知していながら、そのコストは高すぎるわけではなく、「子供たちに宇宙に行ける希望を与えるためにも、このくらいの投資をしてもいいのではないか」とおっしゃっている。残念ながら、宇宙ステーションの運用は2020年までと決まっており、子供たちが大人になる前に運用を止めて大気圏に突入し、灰になることが決まっている。子供たちが行くことができない宇宙ステーションを、年間400億円もかけて維持する意味はない、となると、何のための予算なのか、きっちり説明する必要が出てくるだろう。
ただでさえ、日本の公的債務が1000兆円になろうとしており、ただでさえ、震災からの復興に数十兆円かかるとされている時代にあって、年間400億円は小さくない数字である。子供たちがどう頑張ってもたどりつくことのできない宇宙ステーションを「子供たちに希望を与えるため」に、国の借金を増やし、被災地の支援に回すことだってできたはずの400億円を費やすことの意味が私には理解できない。
続いて、有馬先生は宇宙実験で結果が出ていないという批判に対して、「研究とはそういうものだ」として成果が出なくても実験を続けるべきだ、と主張される。しかし、宇宙ステーションを使った実験の数はどんどん減っており、JAXAが予定していた数に達していない。それは、宇宙ステーションが使いにくい実験装置であるだけでなく、宇宙ステーションに行かなくてもさまざまな方法で実験をするということが可能になっているからである。研究が即座に成果を出すものとは、私も思っていない。しかし、科学者にとって役に立たない、実験に使いにくい装置を巨額の費用をかけて維持するという意義もよくわからない。問題は成果が出ないことではなく、成果を出すまでの時間とコストがかかりすぎ、本当に継続的な実験や研究ができないような環境を作ってしまったことにある。宇宙ステーションがあるから実験をやれ、といっても、科学者にとって迷惑なことである。最初から使いづらく、リスクが多く、コストが高い宇宙ステーションを無理やり「実験施設」として位置付け、予算をつけてきたことのツケを今払っているということを理解すべきである。
有馬先生の議論は、他のいくつかの論稿と同様に、突然急展開する。宇宙ステーションでの実験を続け、「継続は力だ」とおっしゃった、その直後の段落から、宇宙技術と防災の話が始まる。さまざまな地球規模の問題を解決するために衛星技術を磨くことが重要だと主張されている。この点については、このブログで繰り返し述べてきたように、まったくその通りだと思う。
ただ、この有馬先生の論稿が他のものと異なるのは、宇宙基本法の成立に伴い、「平和利用原則」の解釈が変わったことを的確に理解されており、それを肯定的に捉えている点である。これまで宇宙基本法をめぐる解釈がおかしいという点については、何度かこのブログで書いてきたが(たとえば「川口淳一郎先生の宇宙基本法の誤解」)、有馬先生は衛星技術が高まれば、「いずれ安全保障にも役立つ」と指摘しており、災害対策のための宇宙利用は重要であると論じている。
そして、最後に宇宙開発を引っ張ってきたアメリカの力が弱まり、日本も目標を描けずにいる、と指摘している。これが現在の宇宙開発戦略本部が日本の宇宙開発の方向性を出せていない、という点を指摘しているのであれば、その通りであろう。日本がどのような宇宙開発を進めていくのかという全体的な方針は、2009年の宇宙基本計画で一応は示されたが、それが民主党政権に変わったことで、その方向性が見失われた状態であり、何度もコロコロと宇宙開発担当大臣が変わることで、落ち着いて戦略的なビジョンを描けていない、というのもその通りであろう。
有馬先生は事業仕訳などでロマンや情熱を持って新しいことをやろうという機運が失われてきたことを嘆いておられる。その点には同意するが、しかし、同時にこの論稿の前半部分で述べられた年間400億円の支出を、行ける可能性もない子供たちの期待を維持するために、宇宙ステーションにかけるという議論と重ねて考えると、有馬先生の議論は途端に脆弱なものに見える。
つまり、ここで展開されている議論には財政の問題についてまったくと言ってよいほど考察がない、ということなのである。宇宙開発の予算が年間2500億円程度であり、国家予算からみればそれほど大きくない額とはいえ、日本の破たん気味の財政状況を考えると、ロマンや情熱という精神論だけでは解決できない問題がそこにはある。そのことをまったく無視して科学技術政策を論じることは、国家財政が破たんしても夢やロマンを追いかけるべき、という無責任な議論に見えてしまう。
国民の税金を使ってやる以上、国民に還元されない宇宙開発は正当化できない。災害対策や安全保障は値段をつけることはできないが、少なくとも国民の福祉厚生(Welfare)を向上させるためのものとして期待することはできる。情熱やロマンも同じく値段が付けられないものであるが、それが国民のWelfareを向上させることになるのだろうか?10年後には灰になってしまう宇宙ステーションを「子供たちに希望を与えるため」という理屈で400億円も投入することが国民のWelfareを向上させることになるのだろうか。
国家には優先順位があるべきであり、税金の使い方はその優先順位に沿って議論されるべきである。有馬先生の論稿の後半にあるように、災害対策は、東日本大震災を経験した日本にとって、圧倒的に高いプライオリティである。しかし、それが宇宙ステーションを無理やり維持することと同列で語られることがおかしいのである。限られた予算を何に使うのか。宇宙開発を語るものは、社会的責任を持って、政策的プライオリティを考えて語らなければならないのである。
2011年7月13日水曜日
平成23年版科学技術白書の不気味さ
先日、公表された平成23年版科学技術白書を読んで、不気味さと吐き気を強く感じ、とりあえずこの気持ち悪さを記録にとどめておこうと思い、ブログを書いている。
この白書で明記されているように、福島原発の事故はこれまでの科学技術政策のあり方を厳しく問い直し、抜本的な見直しが必要であることは疑いない。にもかかわらず、全体を通して受ける印象は「本当に文科省(旧科技庁部分)はそのことを理解しているのか?」ということであった。
確かに、きちんと反省しているところもある。たとえば第一章の9ページで
また、第一章11ページでは
ここで、不気味さが顔を出してくる。これまでの科学技術コミュニケーションは多くの論者が明らかにしているように、「科学技術は複雑で難しく、一般の人には理解できない」という前提に立ち、「わかっている専門家が優しい言葉で説明すればわかってくれるはず」という期待が込められている。
しかし、今回の震災と原発事故で明らかになったのは、まさにこの逆だったのではないだろうか。確かに、放射能に関する技術的、科学的理解が十分ではないため、社会に大きな混乱が起きていることは確かだが、それ以上に問題なのは、「専門家」と言われる人たちがさまざまな意見と立場をもち、それらの立場に立って発言したため、「何が正しいのかわからない」という状況が生まれた、ということであった。つまり、科学技術、とりわけ社会の支持を必要とする科学技術は、しばしば専門家の間でもさまざまな意見があり、彼らの見解や彼らが「科学的データ」として示すものが、矛盾したり対立したりする、ということを、この科学技術白書は完全に無視しているのである。
これはすなわち、意見が分かれる問題であり、社会的な支持を必要としている科学技術に関して、「文科省の立場」に立って発信してくれる専門家(しばしば「御用学者」として非難される対象ともなる)を重用し、その立場に立った意見や見解を「政府の正しい見解」として発信し、十分な知識をもたない一般市民を啓蒙する、といった姿勢を変えていないのである。
この点は第一章、12ページの記述にも表れる。
さらに、科学技術コミュニケーションを論じる第二章の冒頭では以下のように述べられている。
なぜ、ここで言わなくてもよい「一丸となって」という表現を使うのか。私はこの神経を永遠に理解できないのだが、要は、リスクがあり、個々人が異なる意見や見解をもっていることとは関係なく、「科学的」で「客観的」なデータを提供し、きちんと科学技術コミュニケーションをとれば、無知蒙昧な市民はきっと文科省の言う通りになるだろう、というような意識が見え隠れするのである。
一応、この白書ではこうした問題点が指摘されていることは認識している。56ページに以下のようなことが書かれている。
その本質とは何か。それは、文科省が科学技術の生産者側、つまり研究者や技術者の側を向いており、科学技術の消費者、つまりリスクを引き受けなければいけない側の市民の側に立っていないからである。これは経産省が電力会社の側に立って原発を再稼働させようとさまざまな形で画策するのと、構図としては同じである。
文科省は科学技術を振興するための予算をとるため、科学技術の生産者の側に立ち、彼らの利益を代弁するとともに、不確実性があり、リスクを伴う科学技術であっても、それを推進するためには、それを「安全神話」で包み込み、それを市民に飲み込ませようとする姿勢から離れられないからである。そして、数多くの研究者や技術者が、そうした「○○ムラ」に安住し、文科省と技術者とそれにかかわる産業との癒着を起こしている、という点が、この問題の本質である。
ゆえに彼らはいまだに「国民の理解と信頼と支持」を得るため、何らかの「神話」を作って、それを市民に飲み込ませることを考えるのである。しかし、市民は無知でも蒙昧でもない。専門家の中には文科省の「公式の神話」に乗らずに、別の立場や見解から発信する人たちもいる(原子力政策では明確にその存在が認識されるようになった)。市民はそういう人たちの意見も「専門家」の意見として聞き、それが文科省の「公式の神話」と異なる場合、何が正しいのかわからなくなり、混乱するのである。
それを「双方向コミュニケーション活動」や「科学技術を分かりやすく親しみやすい形で人々に伝え、対話を深めるアウトリーチ活動の推進、成人に身につけて欲しい科学技術リテラシー像の策定」(55ページ)といった小手先の活動で何とかしようとしているところに不気味さを感じるだけでなく、卑しさすら感じる。なお、断わっておくが、文科省の「公式の神話」が間違いだとか、異なる立場の専門家が正しい、というつもりはない。科学技術の見解は多様であり、一つの見解にまとめることを権力的に行うべきではない、と主張しているのである。
このように、白書は一貫して「社会」「国民」との関係に重点を置き、政策立案についても、「熟議」を重ねていることをアピールし、NPO法人などを通じて国民との対話の場が作られていることも強調している。これらの試みが悪いと言うつもりはないが、政策立案で市民の意見を参考にします、というのは、ある意味で当たり前の話であり、それ以上のことが述べられていない、ということが問題である。
つまり、科学技術と産業との関係、科学技術と安全保障との関係(もちろん原子力などは非核三原則がある、ということで終わってしまうのだが、安全保障上のリスク、たとえば核テロの問題などは含まれていくべき)、科学技術と国際関係の問題(たとえば、国際競争力や国際協力)など、科学技術の「政策立案」においては、さまざまな角度から議論されるべき問題があり、それは単に国民との対話や熟議という範疇では収まらない話である。しかし、社会に支持され、国民に理解される政策を標榜するのであれば、科学技術がただ単に科学技術という世界に閉じこもったものではなく、まさに「社会および公共のための政策」(99ページ)であるということを踏まえた議論が必要である。
しかし、この白書では、そうした問題はすべて捨象され、抽象的な「社会」や「公共」という言葉に回収されてしまっている。本来ならば、こうした問題を具体的に論じ、その中で、科学技術政策を国民がどうとらえるのか、ということを論じるべきである。しかし、そうしないのは、「社会」や「公共」のための科学技術という議論を始めると、さまざまな意見や見解が噴出し、それをまとめて「一丸となって」政策を推進するのが困難になるからではないかと思われる。確かに、文科省設置法では、文科省の所掌は研究開発や科学技術の振興であり、「社会」や「公共」のための政策をやることではない。ゆえに、法律に制約されている分、そうした具体的な議論ができない、ということもあるだろう。しかし、そうだとしても「社会および公共のための政策」というのであれば、その中身を精査する必要があり、それをしなければ「社会および公共のため」というお題目は空虚なものでしかなくなる。その辺の認識が極めて弱いのも、この白書の特徴と言えよう。
さらに理解ができないのは、第四期科学技術基本計画の策定に向けた議論の中で出てきた、「客観的根拠(エビデンス)に基づく政策の企画立案や、その評価及び検証の結果を政策に反映するため、『科学技術イノベーション政策のための科学』を推進する」という目標である(文部科学省の資料)。
第一に、政策の企画立案をするときに客観的根拠をもたない、ということがあるのか、という疑問である。客観的根拠をもたない政策立案をしてきた過去があるから、こうした目標が設定されるのだろうと思われるのだが、いったい何を言いたいのか、いまだにわからない。さまざまな資料を読む限り、ここでいう「客観的根拠」というのは、社会経済的なデータを踏まえ、社会に役立つ科学技術イノベーションをせよ、ということなのだろうということは、おぼろげながらにわかるのだが、そうしたことをやってこなかったこと自体がショッキングであり、これまで社会経済のことなど考えずに科学技術政策を行ってきた、ということはスキャンダルですらある。
また、社会経済のデータといっても、かなり恣意的に選択することが可能であり、果たしてその「客観性」をいかにして担保するのか、ということについては明確にされていない。一体何をもって「客観的」というのか、また、社会経済のデータといっても無数にあり、それをどう科学技術イノベーション政策に含めていこうとするのか、はなはだ疑問である。
第二に、「科学技術イノベーション政策のための科学」という表現に気持ち悪さを感じる。科学技術とイノベーションは必ずしも一致しないことはよく知られている。イノベーションとはシュンペーターの定義によれば「新しい価値の創造」であり、必ずしも新しい技術によってもたらされるものではない(もちろん新しい技術が新しい価値を創造することは大いにある)。なので、「科学技術イノベーション」という単語自体も無理やり感があり、あまりほめられた用語法ではない。
さらに、その「科学技術イノベーション」を導き出すための「政策」がある、ということが措定されている。まあ、政策的な措置、つまり予算をイノベーションを起こしそうな科学技術に投入するという判断をする、ということは理解できる。しかし、その後に続く、「政策のための科学」となるとわけがわからなくなる。
「科学技術イノベーション政策のための科学」というと、オセロではないが、みんな「科学」になってしまい、果たしてこの最後の「科学」が何を意味しているのかは明示的ではない。仮にこの最後の「科学」を「社会科学」として見ると、案外座りは良い。「科学技術イノベーション政策のための社会科学」となると、イノベーションを起こしそうな科学技術は何かを政策的に判断するための政治学、経済学、社会学などなどをやるべきだ、という議論がある。これは宇宙政策などをやっている私としては、ちょっと自分の利益にもなるかもしれない、という期待が持てる(まあ、これだけ科学技術政策を批判しているのだから、私に何らかのメリットが回ってくることは当初から期待していないが)。
しかし、社会科学を「客観的根拠」に基づく政策立案を行うための「科学」とするのは、結構しんどい。というのも、社会科学自体が多様で、論争的な科学であり、往々にして「客観的根拠」を「主観的な判断」で分析、理解していく科学だからである。社会科学が科学たりえるのか、というのは永遠の課題であるが、無理やり科学っぽさを出そうとして、社会科学を形式化させていったアメリカの政治学などが、結果的にどん詰まりな状態になっているのを見るにつけ(このあたりの評価も人によって大きく分かれる)、社会科学を「客観的根拠」に基づく政策立案のための道具として使うのは、なかなか難しいと思われる。
ずいぶん長い記事になってしまったが、私が感じた科学技術白書がもつ不気味さ、日本の科学技術政策がもつ、ある種の政策規範、政策イメージの問題を理解してもらえれば幸いである。そして、福島原発事故を起こした日本の科学技術政策の問題の本質は、科学技術政策が「政策」として持つ権力性と、それによる「公式の神話」の必要性、さらには、多様な意見や見解を抹殺し、「一丸となって」科学技術政策を進めるための、「客観的根拠」に基づく政策という擬制をまとって、市民に向かって「科学技術コミュニケーション」を展開することであり、文科省はそれに気が付いていない、ということに対する懸念を共有してもらえれば幸いである。
この白書で明記されているように、福島原発の事故はこれまでの科学技術政策のあり方を厳しく問い直し、抜本的な見直しが必要であることは疑いない。にもかかわらず、全体を通して受ける印象は「本当に文科省(旧科技庁部分)はそのことを理解しているのか?」ということであった。
確かに、きちんと反省しているところもある。たとえば第一章の9ページで
緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムについては、放出源情報を得ることができずに大気中の放射性物質の濃度等の変化を定量的に予測するという本来の機能を発揮できなかった。放出源情報の推定や推定結果を基にした積算線量の試算、モニタリングの調査区域の設定の参考に用いられるなど様々な形で補完的に活用されたが、その活用の体制や公表の在り方にも課題を残したといったことを書いているのは評価できる(果たしてこの反省がどう活かされるかは別問題だが)。
また、第一章11ページでは
本白書第1部では、「社会とともに創り進める科学技術」という特集テーマの下、科学技術に対する国民の理解と信頼と支持を得ることができるよう関係者が進めてきている科学技術コミュニケーション活動の現状と課題について示している。しかし、こうした関係者の思いとは裏腹に、特に今回の原子力発電所事故により、国民の理解と信頼と支持という点で大きな課題を突き付けられることとなった。と問題点があるということは認識しているようである。そのため、この白書では、科学技術コミュニケーションが重要であり、社会に支持される科学技術となるべきである、ということが強く主張されている。
事故に関するコミュニケーションでは、透明性、正確性、迅速性が重要であるが、事故発生の当初の段階では、自治体への通報の遅れを含めて適時かつ的確な情報の提供が進まず、事故に関するコミュニケーションに課題を残した。
ここで、不気味さが顔を出してくる。これまでの科学技術コミュニケーションは多くの論者が明らかにしているように、「科学技術は複雑で難しく、一般の人には理解できない」という前提に立ち、「わかっている専門家が優しい言葉で説明すればわかってくれるはず」という期待が込められている。
しかし、今回の震災と原発事故で明らかになったのは、まさにこの逆だったのではないだろうか。確かに、放射能に関する技術的、科学的理解が十分ではないため、社会に大きな混乱が起きていることは確かだが、それ以上に問題なのは、「専門家」と言われる人たちがさまざまな意見と立場をもち、それらの立場に立って発言したため、「何が正しいのかわからない」という状況が生まれた、ということであった。つまり、科学技術、とりわけ社会の支持を必要とする科学技術は、しばしば専門家の間でもさまざまな意見があり、彼らの見解や彼らが「科学的データ」として示すものが、矛盾したり対立したりする、ということを、この科学技術白書は完全に無視しているのである。
これはすなわち、意見が分かれる問題であり、社会的な支持を必要としている科学技術に関して、「文科省の立場」に立って発信してくれる専門家(しばしば「御用学者」として非難される対象ともなる)を重用し、その立場に立った意見や見解を「政府の正しい見解」として発信し、十分な知識をもたない一般市民を啓蒙する、といった姿勢を変えていないのである。
この点は第一章、12ページの記述にも表れる。
研究者・技術者、政策担当者は、各々の専門分野にとらわれない俯瞰的な視点で議論を深め、科学技術のもたらすリスクの科学的な評価や社会・国民生活への影響評価を行うことにより、適切なリスク評価とリスク管理に基づくより良い科学技術マネジメントの実現を図っていく必要があるつまり、専門家が、それぞれの専門の立場ではなく「俯瞰的な視点」、すなわち政府の視点で議論を深め、「より良い科学技術マネジメントの実現」、すなわち文科省の都合のよい政策を実現していこうとする姿勢に読めてくる。
さらに、科学技術コミュニケーションを論じる第二章の冒頭では以下のように述べられている。
このような中で、科学技術イノベーション政策を国民の理解と信頼と支持を得て、一丸となって推進していくためには、科学技術に関する情報の公開、共有と、それに基づくコミュニケーションが不可欠である。(55ページ)すでに述べたように、科学技術の見解はさまざまであり、リスクをどう認識するのか、何をAcceptableリスクとしてみなすのか、というのは市民の個人的な主観によるものである(この点についてはすでに別のブログ記事で論じた)。にもかかわらず、ここで「国民の理解と信頼と支持を得て、一丸となって推進していく」と措定されているのは、大変不気味である。つまり、元々、国民の中で意見や見解が分かれるような科学技術であっても、「一丸となって推進」するために、多少の操作や情報隠しはやむを得ない、というような発想をもっていたらとんでもない話である。
なぜ、ここで言わなくてもよい「一丸となって」という表現を使うのか。私はこの神経を永遠に理解できないのだが、要は、リスクがあり、個々人が異なる意見や見解をもっていることとは関係なく、「科学的」で「客観的」なデータを提供し、きちんと科学技術コミュニケーションをとれば、無知蒙昧な市民はきっと文科省の言う通りになるだろう、というような意識が見え隠れするのである。
一応、この白書ではこうした問題点が指摘されていることは認識している。56ページに以下のようなことが書かれている。
これまで、政府は、国民に自らの取組について理解を求めるといった一方向のコミュニケーションになりがちであったと指摘されている。今後求められる科学技術に対する国民の理解と信頼と支持という地平にどのようにたどり着くのか、双方向コミュニケーション活動の一層の拡大等、対応すべき課題は多い。しかし、問題点が指摘されている、と言いながら、「対応すべき課題は多い」といって、解決を提示していない。なぜならば、文科省自身が問題点が指摘されていることには気づいていても、その問題の本質が理解できていないからである。
その本質とは何か。それは、文科省が科学技術の生産者側、つまり研究者や技術者の側を向いており、科学技術の消費者、つまりリスクを引き受けなければいけない側の市民の側に立っていないからである。これは経産省が電力会社の側に立って原発を再稼働させようとさまざまな形で画策するのと、構図としては同じである。
文科省は科学技術を振興するための予算をとるため、科学技術の生産者の側に立ち、彼らの利益を代弁するとともに、不確実性があり、リスクを伴う科学技術であっても、それを推進するためには、それを「安全神話」で包み込み、それを市民に飲み込ませようとする姿勢から離れられないからである。そして、数多くの研究者や技術者が、そうした「○○ムラ」に安住し、文科省と技術者とそれにかかわる産業との癒着を起こしている、という点が、この問題の本質である。
ゆえに彼らはいまだに「国民の理解と信頼と支持」を得るため、何らかの「神話」を作って、それを市民に飲み込ませることを考えるのである。しかし、市民は無知でも蒙昧でもない。専門家の中には文科省の「公式の神話」に乗らずに、別の立場や見解から発信する人たちもいる(原子力政策では明確にその存在が認識されるようになった)。市民はそういう人たちの意見も「専門家」の意見として聞き、それが文科省の「公式の神話」と異なる場合、何が正しいのかわからなくなり、混乱するのである。
それを「双方向コミュニケーション活動」や「科学技術を分かりやすく親しみやすい形で人々に伝え、対話を深めるアウトリーチ活動の推進、成人に身につけて欲しい科学技術リテラシー像の策定」(55ページ)といった小手先の活動で何とかしようとしているところに不気味さを感じるだけでなく、卑しさすら感じる。なお、断わっておくが、文科省の「公式の神話」が間違いだとか、異なる立場の専門家が正しい、というつもりはない。科学技術の見解は多様であり、一つの見解にまとめることを権力的に行うべきではない、と主張しているのである。
このように、白書は一貫して「社会」「国民」との関係に重点を置き、政策立案についても、「熟議」を重ねていることをアピールし、NPO法人などを通じて国民との対話の場が作られていることも強調している。これらの試みが悪いと言うつもりはないが、政策立案で市民の意見を参考にします、というのは、ある意味で当たり前の話であり、それ以上のことが述べられていない、ということが問題である。
つまり、科学技術と産業との関係、科学技術と安全保障との関係(もちろん原子力などは非核三原則がある、ということで終わってしまうのだが、安全保障上のリスク、たとえば核テロの問題などは含まれていくべき)、科学技術と国際関係の問題(たとえば、国際競争力や国際協力)など、科学技術の「政策立案」においては、さまざまな角度から議論されるべき問題があり、それは単に国民との対話や熟議という範疇では収まらない話である。しかし、社会に支持され、国民に理解される政策を標榜するのであれば、科学技術がただ単に科学技術という世界に閉じこもったものではなく、まさに「社会および公共のための政策」(99ページ)であるということを踏まえた議論が必要である。
しかし、この白書では、そうした問題はすべて捨象され、抽象的な「社会」や「公共」という言葉に回収されてしまっている。本来ならば、こうした問題を具体的に論じ、その中で、科学技術政策を国民がどうとらえるのか、ということを論じるべきである。しかし、そうしないのは、「社会」や「公共」のための科学技術という議論を始めると、さまざまな意見や見解が噴出し、それをまとめて「一丸となって」政策を推進するのが困難になるからではないかと思われる。確かに、文科省設置法では、文科省の所掌は研究開発や科学技術の振興であり、「社会」や「公共」のための政策をやることではない。ゆえに、法律に制約されている分、そうした具体的な議論ができない、ということもあるだろう。しかし、そうだとしても「社会および公共のための政策」というのであれば、その中身を精査する必要があり、それをしなければ「社会および公共のため」というお題目は空虚なものでしかなくなる。その辺の認識が極めて弱いのも、この白書の特徴と言えよう。
さらに理解ができないのは、第四期科学技術基本計画の策定に向けた議論の中で出てきた、「客観的根拠(エビデンス)に基づく政策の企画立案や、その評価及び検証の結果を政策に反映するため、『科学技術イノベーション政策のための科学』を推進する」という目標である(文部科学省の資料)。
第一に、政策の企画立案をするときに客観的根拠をもたない、ということがあるのか、という疑問である。客観的根拠をもたない政策立案をしてきた過去があるから、こうした目標が設定されるのだろうと思われるのだが、いったい何を言いたいのか、いまだにわからない。さまざまな資料を読む限り、ここでいう「客観的根拠」というのは、社会経済的なデータを踏まえ、社会に役立つ科学技術イノベーションをせよ、ということなのだろうということは、おぼろげながらにわかるのだが、そうしたことをやってこなかったこと自体がショッキングであり、これまで社会経済のことなど考えずに科学技術政策を行ってきた、ということはスキャンダルですらある。
また、社会経済のデータといっても、かなり恣意的に選択することが可能であり、果たしてその「客観性」をいかにして担保するのか、ということについては明確にされていない。一体何をもって「客観的」というのか、また、社会経済のデータといっても無数にあり、それをどう科学技術イノベーション政策に含めていこうとするのか、はなはだ疑問である。
第二に、「科学技術イノベーション政策のための科学」という表現に気持ち悪さを感じる。科学技術とイノベーションは必ずしも一致しないことはよく知られている。イノベーションとはシュンペーターの定義によれば「新しい価値の創造」であり、必ずしも新しい技術によってもたらされるものではない(もちろん新しい技術が新しい価値を創造することは大いにある)。なので、「科学技術イノベーション」という単語自体も無理やり感があり、あまりほめられた用語法ではない。
さらに、その「科学技術イノベーション」を導き出すための「政策」がある、ということが措定されている。まあ、政策的な措置、つまり予算をイノベーションを起こしそうな科学技術に投入するという判断をする、ということは理解できる。しかし、その後に続く、「政策のための科学」となるとわけがわからなくなる。
「科学技術イノベーション政策のための科学」というと、オセロではないが、みんな「科学」になってしまい、果たしてこの最後の「科学」が何を意味しているのかは明示的ではない。仮にこの最後の「科学」を「社会科学」として見ると、案外座りは良い。「科学技術イノベーション政策のための社会科学」となると、イノベーションを起こしそうな科学技術は何かを政策的に判断するための政治学、経済学、社会学などなどをやるべきだ、という議論がある。これは宇宙政策などをやっている私としては、ちょっと自分の利益にもなるかもしれない、という期待が持てる(まあ、これだけ科学技術政策を批判しているのだから、私に何らかのメリットが回ってくることは当初から期待していないが)。
しかし、社会科学を「客観的根拠」に基づく政策立案を行うための「科学」とするのは、結構しんどい。というのも、社会科学自体が多様で、論争的な科学であり、往々にして「客観的根拠」を「主観的な判断」で分析、理解していく科学だからである。社会科学が科学たりえるのか、というのは永遠の課題であるが、無理やり科学っぽさを出そうとして、社会科学を形式化させていったアメリカの政治学などが、結果的にどん詰まりな状態になっているのを見るにつけ(このあたりの評価も人によって大きく分かれる)、社会科学を「客観的根拠」に基づく政策立案のための道具として使うのは、なかなか難しいと思われる。
ずいぶん長い記事になってしまったが、私が感じた科学技術白書がもつ不気味さ、日本の科学技術政策がもつ、ある種の政策規範、政策イメージの問題を理解してもらえれば幸いである。そして、福島原発事故を起こした日本の科学技術政策の問題の本質は、科学技術政策が「政策」として持つ権力性と、それによる「公式の神話」の必要性、さらには、多様な意見や見解を抹殺し、「一丸となって」科学技術政策を進めるための、「客観的根拠」に基づく政策という擬制をまとって、市民に向かって「科学技術コミュニケーション」を展開することであり、文科省はそれに気が付いていない、ということに対する懸念を共有してもらえれば幸いである。
川口淳一郎先生の宇宙基本法の誤解
今日の読売新聞の朝刊の『論点』で、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャーの川口淳一郎先生の議論が掲載されていたが、残念ながらオンラインで公開されていないので、著作権を侵害しない程度に引用しながら話を進めていきたい。
川口先生はもう知らない人がいないほどの有名人になってしまい、今や国民的ヒーローなので、なかなかコメントしづらいところもあるが、彼とは国際宇宙アカデミー(International Academy of Astronautics)の会員同士で、毎年食事のテーブルが一緒になるので、許していただけるかな、と期待しながらコメントしたい。
川口先生の議論はシャトル後の宇宙開発は「新世界につながるような輸送機を目指すべき」という論点から始まる。これはロケットと飛行機の中間みたいな存在で、第二次大戦後には構想としては存在しており、1980年代にはドイツやイギリスで本格的に開発をしようという段階にまで至ったが、まだ実現していない技術である。
このような新型の輸送機は、これまで宇宙開発の考え方とは決定的に異なるものであり、是非とも進めるべきである。これまでの宇宙開発は、スペースシャトルに代表されるように、A地点から出発してA地点に帰ってくる、というものであった。宇宙ステーションを建設し、そこに人が滞在することになって、ようやっとA地点から出発し、宇宙ステーションに滞在して、A地点にもどってくるという仕組みになったが、これも本質的にはあまり違いがない。つまり、A地点からA地点にもどってくる乗り物でしかない、ということなのである。
地球上でA地点からA地点に帰ってくるものは、観覧車やジェットコースターといった遊園地の乗り物が典型であろう。つまり「乗っていることが楽しい」という乗り物である。これは乗っている人のエンターテイメントとしては良いが、それ自体が生み出す付加価値はあまり大きくない。言いかえれば、飛行機のようにA地点からB地点に「移動」し、B地点において何らかの行動(たとえば観光やビジネス)をするという付加価値を高めるようなことにはなっていない。
しかし、川口先生の提案しているロケットと飛行機の相の子のような輸送機であれば、A地点からB地点に移動するということを目的としているため、それを観光で利用する人、ビジネスで利用する人に大きな付加価値を提供する。これまで12時間かかっていた大陸間飛行を1-2時間で済むようになるのだから、それは人々の考え方や世界観をも変えるものになるだろう。
ただし、一つ留保をつけておきたいのは、かつてコンコルドという超音速旅客機が同じような付加価値を目指して開発されたが、結果的に経済性や騒音対策など、さまざまな問題を抱えて事業としては失敗した。ロケットと飛行機の相の子のような輸送機も同じ轍を踏まないとは言い切れないので、そうした教訓をしっかり踏まえておく必要があるだろう。
さて、川口先生の議論は、突如、日本の宇宙開発は「大きな誤解をしている」という議論に突入し、宇宙基本法の「考え方に少し疑問がある」と論じている。宇宙基本法では技術開発中心から利用中心にシフトするということは「悪いとは思わない」が、「宇宙開発が最も宇宙開発らしいのは、新たな空間、つまり人類のフロンティアを開拓することだ」と述べている。
ここに猛烈な違和感を感じる。というのも、先に論じたロケットと飛行機の相の子は、技術的なフロンティアを目指すものではあるが、その技術自体は「利用中心」のものである。A地点からB地点まで移動するための手段として新しい輸送機を開発するということは、空間的なフロンティア(火星に行くとか小惑星を探査する)ということとは何の関係もない。
つまり、川口先生は、自ら「政府の宇宙開発が議論すべきことはそういう(新しい輸送機-引用者註)ことだ」とおっしゃっているのに、自らの発言を否定するように、「利用中心」では宇宙開発らしくない、もっと「開拓」せよ、とおっしゃっているのである。
さらに、気になるのは、宇宙基本法をきちんと読めば、川口先生のおっしゃる「(宇宙)空間の開拓」を止めろとか、重要でない、という設定になっていない。むしろ、宇宙空間の開拓はどんどんやれ、という法律になっている。
宇宙基本法の第五条では、「宇宙開発利用は、宇宙に係る知識の集積が人類にとっての知的資産であることにかんがみ、先端的な宇宙開発利用の推進及び宇宙科学の振興等により、人類の宇宙への夢の実現及び人類社会の発展に資するよう行われなければならない」と書いてある。この条文の中には「利用のために宇宙空間の開拓を止めろ」というニュアンスは一切含まれていない。むしろ素直に読めば、宇宙基本法は新しい技術に挑戦し、人類の夢の実現や人類社会の発展に資することをやれ、と書いてある。
川口先生は「宇宙開発とは即物的利用だけではない」とおっしゃっているが、それはその通りで、それは宇宙基本法に書いてある。この第五条をまったく無視してお話をされているのか、それとも、この第五条をご存じないのか、それとも、何らかの理由で、この第五条に書かれていることを信じていないのか、どれかであろう。
勝手な解釈をすれば、川口先生はきちんと法律を読まないまま、印象論だけで議論されているのではないか、という疑念がぬぐえない。国民的ヒーローである川口先生に向かってこういうのも気が引けるが、やはり、川口先生ほどの影響力のある方が、世界でも有数の発行部数を誇る読売新聞で、きちんと法律を読まずに印象論だけで語られることは、ちょっといただけない。宇宙基本法を批判するとしても、せめて法律に書かれていることに基づいて議論するべきなのではないだろうか。
川口先生は、論稿の結論部で「大事なのはバランスだ」とおっしゃっている。これはその通りで、まったく異論はない。利用中心のプログラム(たとえば準天頂衛星)と、宇宙空間を開拓し、人類の宇宙の夢を実現しようとするプログラム(たとえば「はやぶさ」)とは別物である。後者については、保守的にならず、研究者、技術者の自由度を高めて創造的な活動を進めることが前提となっている。つまり、利用する宇宙開発を進めつつ、宇宙を開拓し、人類の夢の実現を目指すプログラムもバランスよくやる、というのが宇宙基本法の考え方なのである。
ゆえに川口先生のように影響力のある方が、きちんと宇宙基本法の考え方を理解し、その影響力と社会への訴求力を用いて、宇宙基本法第五条に基づいて、自らがベストと思われるプログラムをどんどん進め、「保守的」になることなく、宇宙空間の開拓を進めていってほしいと願っている。
川口先生はもう知らない人がいないほどの有名人になってしまい、今や国民的ヒーローなので、なかなかコメントしづらいところもあるが、彼とは国際宇宙アカデミー(International Academy of Astronautics)の会員同士で、毎年食事のテーブルが一緒になるので、許していただけるかな、と期待しながらコメントしたい。
川口先生の議論はシャトル後の宇宙開発は「新世界につながるような輸送機を目指すべき」という論点から始まる。これはロケットと飛行機の中間みたいな存在で、第二次大戦後には構想としては存在しており、1980年代にはドイツやイギリスで本格的に開発をしようという段階にまで至ったが、まだ実現していない技術である。
このような新型の輸送機は、これまで宇宙開発の考え方とは決定的に異なるものであり、是非とも進めるべきである。これまでの宇宙開発は、スペースシャトルに代表されるように、A地点から出発してA地点に帰ってくる、というものであった。宇宙ステーションを建設し、そこに人が滞在することになって、ようやっとA地点から出発し、宇宙ステーションに滞在して、A地点にもどってくるという仕組みになったが、これも本質的にはあまり違いがない。つまり、A地点からA地点にもどってくる乗り物でしかない、ということなのである。
地球上でA地点からA地点に帰ってくるものは、観覧車やジェットコースターといった遊園地の乗り物が典型であろう。つまり「乗っていることが楽しい」という乗り物である。これは乗っている人のエンターテイメントとしては良いが、それ自体が生み出す付加価値はあまり大きくない。言いかえれば、飛行機のようにA地点からB地点に「移動」し、B地点において何らかの行動(たとえば観光やビジネス)をするという付加価値を高めるようなことにはなっていない。
しかし、川口先生の提案しているロケットと飛行機の相の子のような輸送機であれば、A地点からB地点に移動するということを目的としているため、それを観光で利用する人、ビジネスで利用する人に大きな付加価値を提供する。これまで12時間かかっていた大陸間飛行を1-2時間で済むようになるのだから、それは人々の考え方や世界観をも変えるものになるだろう。
ただし、一つ留保をつけておきたいのは、かつてコンコルドという超音速旅客機が同じような付加価値を目指して開発されたが、結果的に経済性や騒音対策など、さまざまな問題を抱えて事業としては失敗した。ロケットと飛行機の相の子のような輸送機も同じ轍を踏まないとは言い切れないので、そうした教訓をしっかり踏まえておく必要があるだろう。
さて、川口先生の議論は、突如、日本の宇宙開発は「大きな誤解をしている」という議論に突入し、宇宙基本法の「考え方に少し疑問がある」と論じている。宇宙基本法では技術開発中心から利用中心にシフトするということは「悪いとは思わない」が、「宇宙開発が最も宇宙開発らしいのは、新たな空間、つまり人類のフロンティアを開拓することだ」と述べている。
ここに猛烈な違和感を感じる。というのも、先に論じたロケットと飛行機の相の子は、技術的なフロンティアを目指すものではあるが、その技術自体は「利用中心」のものである。A地点からB地点まで移動するための手段として新しい輸送機を開発するということは、空間的なフロンティア(火星に行くとか小惑星を探査する)ということとは何の関係もない。
つまり、川口先生は、自ら「政府の宇宙開発が議論すべきことはそういう(新しい輸送機-引用者註)ことだ」とおっしゃっているのに、自らの発言を否定するように、「利用中心」では宇宙開発らしくない、もっと「開拓」せよ、とおっしゃっているのである。
さらに、気になるのは、宇宙基本法をきちんと読めば、川口先生のおっしゃる「(宇宙)空間の開拓」を止めろとか、重要でない、という設定になっていない。むしろ、宇宙空間の開拓はどんどんやれ、という法律になっている。
宇宙基本法の第五条では、「宇宙開発利用は、宇宙に係る知識の集積が人類にとっての知的資産であることにかんがみ、先端的な宇宙開発利用の推進及び宇宙科学の振興等により、人類の宇宙への夢の実現及び人類社会の発展に資するよう行われなければならない」と書いてある。この条文の中には「利用のために宇宙空間の開拓を止めろ」というニュアンスは一切含まれていない。むしろ素直に読めば、宇宙基本法は新しい技術に挑戦し、人類の夢の実現や人類社会の発展に資することをやれ、と書いてある。
川口先生は「宇宙開発とは即物的利用だけではない」とおっしゃっているが、それはその通りで、それは宇宙基本法に書いてある。この第五条をまったく無視してお話をされているのか、それとも、この第五条をご存じないのか、それとも、何らかの理由で、この第五条に書かれていることを信じていないのか、どれかであろう。
勝手な解釈をすれば、川口先生はきちんと法律を読まないまま、印象論だけで議論されているのではないか、という疑念がぬぐえない。国民的ヒーローである川口先生に向かってこういうのも気が引けるが、やはり、川口先生ほどの影響力のある方が、世界でも有数の発行部数を誇る読売新聞で、きちんと法律を読まずに印象論だけで語られることは、ちょっといただけない。宇宙基本法を批判するとしても、せめて法律に書かれていることに基づいて議論するべきなのではないだろうか。
川口先生は、論稿の結論部で「大事なのはバランスだ」とおっしゃっている。これはその通りで、まったく異論はない。利用中心のプログラム(たとえば準天頂衛星)と、宇宙空間を開拓し、人類の宇宙の夢を実現しようとするプログラム(たとえば「はやぶさ」)とは別物である。後者については、保守的にならず、研究者、技術者の自由度を高めて創造的な活動を進めることが前提となっている。つまり、利用する宇宙開発を進めつつ、宇宙を開拓し、人類の夢の実現を目指すプログラムもバランスよくやる、というのが宇宙基本法の考え方なのである。
ゆえに川口先生のように影響力のある方が、きちんと宇宙基本法の考え方を理解し、その影響力と社会への訴求力を用いて、宇宙基本法第五条に基づいて、自らがベストと思われるプログラムをどんどん進め、「保守的」になることなく、宇宙空間の開拓を進めていってほしいと願っている。
2011年7月10日日曜日
「ストレステスト」は国際的な監視の下で行うべし
先週、菅首相が突然のように言い出した「ストレステスト」。これをめぐって大きな騒ぎになった。佐賀県の玄海原発の再開を巡って、原子力保安院の責任者である海江田経産大臣が「国が責任をもって」原発再開に伴う安全を保証する、という話をし、それを立地自治体である玄海町が受け入れ、佐賀県知事も受け入れることで原発再開にあと一歩という段階にまで至った。しかし、そこで突如として菅首相が国会答弁で、これまでの安全基準では不十分であり、「ストレステスト」を行うということを発言したため、結局、玄海原発が再開できるのかどうか、閣内で意思統一ができているのかどうか、政府の「思いつき」で原子力政策を進めてよいのかどうか、など、さまざまな論点が挙げられている。一方では、首相の思いつきで重要な政策決定が行われていることに対する不信感や、政治的なリーダーシップの欠如を避難する議論が多いが、他方で、ストレステストによって原発の安全性をより高いレベルで確保するのだから、菅首相の判断は正しいと擁護する議論もある。
ここで問題にしたいのは、いったい「ストレステスト」とは何なのか、そして、海江田大臣が口にした「国の責任で」ということが何を意味しているのか、ということについて考えてみたい。
まず、菅首相が発言した「ストレステスト」の具体的な中身については、まだ何も決まっていない。これまでの政府発表を踏まえれば、EUのストレステストをモデルにしながら、日本の実情に合ったものにする、とのことである。では、EUのストレステストとはどのようなものなのだろうか。
EUが採用しているストレステストは欧州原子力安全規制グループ(European Nuclear Safety Regultors Group: ENSREG)の中の西欧原子力規制連盟(Western European Nuclear Regulators Association: WENRA)が福島原発事故が起こってから10日後に提案したものである。EUは即座にストレステストを実施することに合意し、すでに5月には詳細な検査項目が定められ、6月からテストが始められている。最終的にこのテストは2012年の4月に完了することが目指されているが、その間も各国の原発は稼働している。
というのも、すでに日本でも報じられている通り、EUのストレステストは、基本的にはシミュレーションであり、原発を止めて機械的に検査をするのではなく、さまざまな極限状態を想定し、そこで想定される物理的、制度的なストレスにどの程度耐えられるのか、ということを検査するものである。仮に、この検査で安全性に疑問が出たとしても、それは何らかの罰則の対象や稼働停止につながるのではなく、あくまでもそうした命令を出すのは各国の規制当局であり、EUはその規制当局が判断するための材料を提供すると言う立場である。
このストレステストでは、以下の項目が検討されることになっている。これもすでに報道されているので詳細は割愛し、EUのウェブページ(英語)にあるので、こちらを参考にしてほしい。基本的には、地震や洪水が起こった際、電源喪失や冷却機能の喪失が起こったことを想定し、その際に、原発施設や危機対応の制度がきちんと機能するかどうか、どの程度の余裕があるのかを検査することになっている。
また、原発テロなどについては、安全保障上の懸念があるため、ENSREGなどで扱わず、各国の規制当局が個別に対応するということになっている。これについては、原発に対して最も厳しい態度をとっているオーストリアが強硬に主張してテロや航空機の衝突といった「意図された破壊」に対する備えも取らなければならない、ということが定められている。
しかし、これはあくまでも「机上の空論」である。どのような災害を想定するのか、どのような事故を想定するのかによって、ストレステストは「操作可能」になっている。そのため、各国の規制当局(その国の「原子力ムラ」の一部となっている場合もある)が甘い設定をすることを防止するため、EUのストレステストで重視されているのがピアレビューである。
日本の議論で最も欠けているのは、このピアレビューの問題だと考えている。というのも、ピアレビューを実施することによって、一国の規制当局が自国の原子力産業や電力会社に甘いハードルを設定することを難しくさせるからである。EUは市場統合が進んでいるとはいえ、原子力の分野や電力市場の統合はまだ不完全である。原子力に関しては、日本でも有名になったフランスのアレバ社の株の90%は政府が保有する実質的な国有会社であり、政府と原子力関連企業との関係は密接である。また、電力に関しては、自由化を認めているイギリスのような国もあるが、いまだに国営の電力会社が独占しているフランスのような国もある。そのため、一国の規制当局が自国のストレステストだけをやると、甘い結果を出す政府が出てくる可能性があるため、ENSREGや他国の規制当局がレビューすることで、いい加減なテストができないということと、ストレステストに関する情報の透明性を確保するということを徹底することで、各国の「原子力ムラ」の好きなようにはさせない、という決意が見える。
というのも、この背景には、金融部門のストレステストの失敗の経験がある。リーマン・ショックによって欧州も大きな衝撃を受け、EUの加盟国ではないがアイスランドが破たんし、イギリスやアイルランド、そして欧州大陸の大銀行も大きなダメージを受けた。さらに、ギリシャが政権交代を機に財政破たんしたことを明らかにすると、ギリシャ国債を大量に保有する欧州の銀行が多数あったため、欧州の金融システムの危機が叫ばれるようになった。そのため、2010年に主要銀行91行の健全性をテストするということで「ストレステスト」を実施し、そのうち7行のみが不合格とする検査内容を発表した。
しかし、このストレステストは大きな疑問を残すテストであり、本当にこれで銀行の健全性が証明されたことにはならない、ということが明らかにされている。たとえば、ギリシャ国債を保有している銀行(ドイツやフランスに多い)は、その時価で評価するのではなく、もしギリシャ国債を満期まで保有し続けるとすれば、それは健全債務として扱う、という条件が付いている。これは、ギリシャの財政が破たんせず、満期が来たらギリシャはきちんと国債を償還できるということを前提としているが、すでに明らかになっているように、ギリシャが本当にデフォルト(リスケジュール)せず、債務をきちんと履行できるのかについては、大きな疑問がある。
要するに、EUが行った金融のストレステストは、表向き欧州の金融システムは健全だ、ということを宣伝するために「操作され」ていたといっても過言ではないだろう。この教訓があるからこそ、EUの原発のストレステストでは、各国が都合の良い形で操作することなくテストを行えるような仕組みを作るということに腐心したのである。
ここで、金融のストレステストと、原発のストレステストの原理的な違いを抑えておく必要がある。というのも、EU域内では金融システムは密接に連動しているだけでなく、すべての国が「欧州の金融システムは健全である」ことを証明したいと言うインセンティブをもっている。そのため、EU全体で行い、一国レベルではなく、EUレベルで基準を設定したストレステストであっても、すべての銀行に甘い設定になったのである。
それに対し、EU各国の原発への姿勢は大きく異なる。すでに述べたオーストリアや「脱原発」を決めたドイツなど、明白に原発から距離を置く国もあれば、フランスや中東欧諸国のように原発に依存する国々もある。つまり、金融の時とは異なり、EUのすべての国が一致した利害をもっているわけではない、という点が大きな違いである。そのため、ピアレビューという、異なる利害をもった国々が、原発事故が起きた場合の自国への影響などを考えながらレビューをするということが、検査を甘くさせない抑止力になっているのである。
さて、翻って日本のストレステストは、こうした抑止力をもっているのだろうか。現時点で、まだ詳細が明らかになっていないだけに、簡単に断定することはできないが、これまでの議論を見ている限り、どうやらノーである。日本のストレステストの基準の設定を行うのは、どうやら原子力保安院と原子力安全委員会ということになりそうだが、これらの組織はいずれも「前科」がある。彼らはこれまで「日本の原発は安全」と言い続け、「安全神話」を作り上げてきたが、実際はそうではなかったということは福島原発の事故が証明している。つまり、保安院や原子力安全委員会、もっといえば日本政府がこれまで作ってきた安全基準の延長としてのストレステストでしかない。
すでに「原子力ムラ」としての排他的な専門家集団を作り出し(保安院に関しては、経産省の出身者が多いため、原子力の専門家と言えない人も多い)、原発を推進する立場からの監督を行ってきたとみられてきた原子力保安院や原子力安全委員会が設計したストレステストは、欧州における金融のストレステストのようなものになりかねない恐れがある。
では、どうしたら良いのか。一言でいえば、日本でもピアレビュー、もっといえば、外国の規制当局やIAEAに全面的に情報を開示し、そのうえでストレステストを実施することである。日本の政府機関、規制当局が行うストレステストの抑止力を高めるためにも、こうした国際的な監視は必要であろう。あたかも、独裁国家が始めて行う民主主義的選挙のように、日本の原発の安全検査も、外国の監視を受け入れるのが最適な選択だと思われる(残念ながらそのような議論は管見の限り見受けられない)。
そこで、ややこしい話になるのが、海江田大臣が発言した「国が責任をもって」というセリフである。すでに信頼感をなくし、原発管理の正当性すら疑われかねない政府が、どのように責任をもって原発の安全を保証できるのか。これまで「安全神話」を作り、原発は大丈夫だと言ってきた、その同じ口で、玄海原発は安全だ、国が保証すると言ったところで、本当に福島原発のような事故が起きないと信じることができるのだろうか。
しかも、「国が責任をもつ」ということは、外国に依存しない、ということも意味する。最終的な責任(アメリカでいうところのThe buck stops here)を国が取るということは、他の誰にもその責任を委譲しない、ということを意味する。実際のところ、「国が責任をとる」といっても、どのような責任をとるのか、福島原発の賠償についても法案が通っていないような状況で、もし玄海原発に何かが起こった時、国はきちんと賠償できるのか、SPEEDiのデータは開示するのか、適切な避難指示はできるのか、という疑問を立地自治体は考えるわけだが、福島でそれができていないのに、どうして玄海原発で「国が責任をもって」それが実施できるのか、ということは明らかにされていない。
経産省、保安院が何としてでも原発を再開し、電力を安定供給させたい、という意図をもっていることは理解できるし、安全が確保されるのであれば、将来的な脱原発を目指すとしても、現時点では、既存の原発を再開させるという選択肢が一つの選択肢として存在することは認めたい。しかし、国が空虚な「責任」を主張し、立地自治体の住民から信用されず、しかも永田町のつまらない政争や権力争いや役所の縦割りや政官のごたごたなどで日替わりメニューのように原子力政策がコロコロ変わる中で、安心して既存原発の再開をすべきだ、と主張する気にはならない。
そのためにも、「国の責任」などという、見栄と虚勢を捨て去り、政府が立地自治体の住民のみならず、国民から信頼されなくなっていることを真摯に受け止め、自らの能力の不足とこれまでの原子力政策を猛省し、国際機関や外国規制当局の力を借りて、日本の原子力政策を根本から見直すこと、そして最終的に、既存原発をどこまで動かし、いつ脱原発を成し遂げるかという工程表を作ることが重要なことである。福島の住民のみならず、多くの人々の生活を傷つけ、人々の心を傷つけた政府の責任の取り方は、こうあるべきである。
ここで問題にしたいのは、いったい「ストレステスト」とは何なのか、そして、海江田大臣が口にした「国の責任で」ということが何を意味しているのか、ということについて考えてみたい。
まず、菅首相が発言した「ストレステスト」の具体的な中身については、まだ何も決まっていない。これまでの政府発表を踏まえれば、EUのストレステストをモデルにしながら、日本の実情に合ったものにする、とのことである。では、EUのストレステストとはどのようなものなのだろうか。
EUが採用しているストレステストは欧州原子力安全規制グループ(European Nuclear Safety Regultors Group: ENSREG)の中の西欧原子力規制連盟(Western European Nuclear Regulators Association: WENRA)が福島原発事故が起こってから10日後に提案したものである。EUは即座にストレステストを実施することに合意し、すでに5月には詳細な検査項目が定められ、6月からテストが始められている。最終的にこのテストは2012年の4月に完了することが目指されているが、その間も各国の原発は稼働している。
というのも、すでに日本でも報じられている通り、EUのストレステストは、基本的にはシミュレーションであり、原発を止めて機械的に検査をするのではなく、さまざまな極限状態を想定し、そこで想定される物理的、制度的なストレスにどの程度耐えられるのか、ということを検査するものである。仮に、この検査で安全性に疑問が出たとしても、それは何らかの罰則の対象や稼働停止につながるのではなく、あくまでもそうした命令を出すのは各国の規制当局であり、EUはその規制当局が判断するための材料を提供すると言う立場である。
このストレステストでは、以下の項目が検討されることになっている。これもすでに報道されているので詳細は割愛し、EUのウェブページ(英語)にあるので、こちらを参考にしてほしい。基本的には、地震や洪水が起こった際、電源喪失や冷却機能の喪失が起こったことを想定し、その際に、原発施設や危機対応の制度がきちんと機能するかどうか、どの程度の余裕があるのかを検査することになっている。
また、原発テロなどについては、安全保障上の懸念があるため、ENSREGなどで扱わず、各国の規制当局が個別に対応するということになっている。これについては、原発に対して最も厳しい態度をとっているオーストリアが強硬に主張してテロや航空機の衝突といった「意図された破壊」に対する備えも取らなければならない、ということが定められている。
しかし、これはあくまでも「机上の空論」である。どのような災害を想定するのか、どのような事故を想定するのかによって、ストレステストは「操作可能」になっている。そのため、各国の規制当局(その国の「原子力ムラ」の一部となっている場合もある)が甘い設定をすることを防止するため、EUのストレステストで重視されているのがピアレビューである。
日本の議論で最も欠けているのは、このピアレビューの問題だと考えている。というのも、ピアレビューを実施することによって、一国の規制当局が自国の原子力産業や電力会社に甘いハードルを設定することを難しくさせるからである。EUは市場統合が進んでいるとはいえ、原子力の分野や電力市場の統合はまだ不完全である。原子力に関しては、日本でも有名になったフランスのアレバ社の株の90%は政府が保有する実質的な国有会社であり、政府と原子力関連企業との関係は密接である。また、電力に関しては、自由化を認めているイギリスのような国もあるが、いまだに国営の電力会社が独占しているフランスのような国もある。そのため、一国の規制当局が自国のストレステストだけをやると、甘い結果を出す政府が出てくる可能性があるため、ENSREGや他国の規制当局がレビューすることで、いい加減なテストができないということと、ストレステストに関する情報の透明性を確保するということを徹底することで、各国の「原子力ムラ」の好きなようにはさせない、という決意が見える。
というのも、この背景には、金融部門のストレステストの失敗の経験がある。リーマン・ショックによって欧州も大きな衝撃を受け、EUの加盟国ではないがアイスランドが破たんし、イギリスやアイルランド、そして欧州大陸の大銀行も大きなダメージを受けた。さらに、ギリシャが政権交代を機に財政破たんしたことを明らかにすると、ギリシャ国債を大量に保有する欧州の銀行が多数あったため、欧州の金融システムの危機が叫ばれるようになった。そのため、2010年に主要銀行91行の健全性をテストするということで「ストレステスト」を実施し、そのうち7行のみが不合格とする検査内容を発表した。
しかし、このストレステストは大きな疑問を残すテストであり、本当にこれで銀行の健全性が証明されたことにはならない、ということが明らかにされている。たとえば、ギリシャ国債を保有している銀行(ドイツやフランスに多い)は、その時価で評価するのではなく、もしギリシャ国債を満期まで保有し続けるとすれば、それは健全債務として扱う、という条件が付いている。これは、ギリシャの財政が破たんせず、満期が来たらギリシャはきちんと国債を償還できるということを前提としているが、すでに明らかになっているように、ギリシャが本当にデフォルト(リスケジュール)せず、債務をきちんと履行できるのかについては、大きな疑問がある。
要するに、EUが行った金融のストレステストは、表向き欧州の金融システムは健全だ、ということを宣伝するために「操作され」ていたといっても過言ではないだろう。この教訓があるからこそ、EUの原発のストレステストでは、各国が都合の良い形で操作することなくテストを行えるような仕組みを作るということに腐心したのである。
ここで、金融のストレステストと、原発のストレステストの原理的な違いを抑えておく必要がある。というのも、EU域内では金融システムは密接に連動しているだけでなく、すべての国が「欧州の金融システムは健全である」ことを証明したいと言うインセンティブをもっている。そのため、EU全体で行い、一国レベルではなく、EUレベルで基準を設定したストレステストであっても、すべての銀行に甘い設定になったのである。
それに対し、EU各国の原発への姿勢は大きく異なる。すでに述べたオーストリアや「脱原発」を決めたドイツなど、明白に原発から距離を置く国もあれば、フランスや中東欧諸国のように原発に依存する国々もある。つまり、金融の時とは異なり、EUのすべての国が一致した利害をもっているわけではない、という点が大きな違いである。そのため、ピアレビューという、異なる利害をもった国々が、原発事故が起きた場合の自国への影響などを考えながらレビューをするということが、検査を甘くさせない抑止力になっているのである。
さて、翻って日本のストレステストは、こうした抑止力をもっているのだろうか。現時点で、まだ詳細が明らかになっていないだけに、簡単に断定することはできないが、これまでの議論を見ている限り、どうやらノーである。日本のストレステストの基準の設定を行うのは、どうやら原子力保安院と原子力安全委員会ということになりそうだが、これらの組織はいずれも「前科」がある。彼らはこれまで「日本の原発は安全」と言い続け、「安全神話」を作り上げてきたが、実際はそうではなかったということは福島原発の事故が証明している。つまり、保安院や原子力安全委員会、もっといえば日本政府がこれまで作ってきた安全基準の延長としてのストレステストでしかない。
すでに「原子力ムラ」としての排他的な専門家集団を作り出し(保安院に関しては、経産省の出身者が多いため、原子力の専門家と言えない人も多い)、原発を推進する立場からの監督を行ってきたとみられてきた原子力保安院や原子力安全委員会が設計したストレステストは、欧州における金融のストレステストのようなものになりかねない恐れがある。
では、どうしたら良いのか。一言でいえば、日本でもピアレビュー、もっといえば、外国の規制当局やIAEAに全面的に情報を開示し、そのうえでストレステストを実施することである。日本の政府機関、規制当局が行うストレステストの抑止力を高めるためにも、こうした国際的な監視は必要であろう。あたかも、独裁国家が始めて行う民主主義的選挙のように、日本の原発の安全検査も、外国の監視を受け入れるのが最適な選択だと思われる(残念ながらそのような議論は管見の限り見受けられない)。
そこで、ややこしい話になるのが、海江田大臣が発言した「国が責任をもって」というセリフである。すでに信頼感をなくし、原発管理の正当性すら疑われかねない政府が、どのように責任をもって原発の安全を保証できるのか。これまで「安全神話」を作り、原発は大丈夫だと言ってきた、その同じ口で、玄海原発は安全だ、国が保証すると言ったところで、本当に福島原発のような事故が起きないと信じることができるのだろうか。
しかも、「国が責任をもつ」ということは、外国に依存しない、ということも意味する。最終的な責任(アメリカでいうところのThe buck stops here)を国が取るということは、他の誰にもその責任を委譲しない、ということを意味する。実際のところ、「国が責任をとる」といっても、どのような責任をとるのか、福島原発の賠償についても法案が通っていないような状況で、もし玄海原発に何かが起こった時、国はきちんと賠償できるのか、SPEEDiのデータは開示するのか、適切な避難指示はできるのか、という疑問を立地自治体は考えるわけだが、福島でそれができていないのに、どうして玄海原発で「国が責任をもって」それが実施できるのか、ということは明らかにされていない。
経産省、保安院が何としてでも原発を再開し、電力を安定供給させたい、という意図をもっていることは理解できるし、安全が確保されるのであれば、将来的な脱原発を目指すとしても、現時点では、既存の原発を再開させるという選択肢が一つの選択肢として存在することは認めたい。しかし、国が空虚な「責任」を主張し、立地自治体の住民から信用されず、しかも永田町のつまらない政争や権力争いや役所の縦割りや政官のごたごたなどで日替わりメニューのように原子力政策がコロコロ変わる中で、安心して既存原発の再開をすべきだ、と主張する気にはならない。
そのためにも、「国の責任」などという、見栄と虚勢を捨て去り、政府が立地自治体の住民のみならず、国民から信頼されなくなっていることを真摯に受け止め、自らの能力の不足とこれまでの原子力政策を猛省し、国際機関や外国規制当局の力を借りて、日本の原子力政策を根本から見直すこと、そして最終的に、既存原発をどこまで動かし、いつ脱原発を成し遂げるかという工程表を作ることが重要なことである。福島の住民のみならず、多くの人々の生活を傷つけ、人々の心を傷つけた政府の責任の取り方は、こうあるべきである。
2011年7月4日月曜日
My revolutionと科学技術
このタイトルは別に"My Revolution"という曲をうたった渡辺美里さんや、作詞家の川村真澄さん、作曲家の小室哲也さんが科学技術の専門家だとか、この曲が何らかの科学技術的知見と関係があるということを言いたいわけではない。ただ、ふとこの曲が頭に浮かんだ時、なぜ原子力推進派が、そのリスク・危険性・事故が起こった時のコストを承知しながらも、原子力を推進したのか、ということに通ずるものがある、ということを感じたので、少しそれを考えてみたい。
"My Revolution"(断わっておくが、私はこの曲が好きである。カラオケなどには滅多に行かないが、この曲なら人前で歌うこともいとわない)の歌詞はこちらのページで読むことができる。1960-70年代生まれの人なら、たぶん歌詞を見なくても口ずさむことができるだろう。著作権上、どこまで引用してよいかわからないが、特にここで重要なフレーズとして以下の部分だけ抜き出しておこう。
そう、これまで科学技術は常に「夢」という単語とセットになっていたのだ。「夢」である限り、そこにチャレンジをすることが認められ(許され)、「夢」を追い求めている姿は耽美的であり、「かっこいい」とされてきたのだ。「夢」であるからこそ、失敗することも想定されており、「夢」であるから成功することの偉大さが生まれてくるのである。
そして、「夢」を追いかけるなら、たやすく泣いてはいけないのである。あらゆる批判や罵詈雑言を浴びても、「夢」である限り、それを追い求めることは正当化され、そして批判されることの「Fears」があっても、それを押しのける勇気をもって走りだすことができるのである。
さらに、この"My Revolution"という曲は、直訳すれば「私の革命」ということであり、一種の現状打破を奨励する曲となっている。そのため「明日を乱す」ことが推奨されている。乱すということが何を意味しているかは、この曲の中では明示的ではないが、少なくとも、今日とは違う明日をもたらすことが良いこととされている。その革命を実現することこそが「夢」であり、今日、反原発運動が高まっていても、明日を乱し、新しい世界がやってくれば「夢」を実現することが正当化される日がくる、という風に読み取ることができる。
私は必ずしも原子力の専門家ではなく、宇宙開発について政策的な側面から勉強してきた立場であるため、原子力に携わる人たちが果たしてこのように考えているのか、ということについては直感的には分からない。しかし、宇宙開発に携わる人たちとの付き合いを通じて感じるのは、彼らが、まさに上記のような「夢」を追いかけることへの執念というか、自己正当化というか、世界観をもっており、私のような政治学を勉強しているような門外漢が何か言おうとも、それは「Sweet pain」くらいにしか感じず、私の言うことなど全く気にせず「明日を乱す」ために「走りだせる」人たちなのだ、ということである。
そう思った時、日本における原子力政策や宇宙政策の根深さというか、安定性というか、批判に対する抵抗力の強さを感じたのである。これは、一方で継続的な研究開発を必要とし、多くの研究者や技術者の能力を総動員して一つの技術を開発していくというためには必要なことであり、高く評価されるべき規範である。しかし、他方で、自らの「夢」を実現することが目的化し、それが社会へのインプリケーションや原発事故のような大惨事を招くことから目を遠ざけ、他者の批判に耳を貸さなくなるということの表れでもある。まさに「○○ムラ」と揶揄される世界では、「夢」の実現のために「走りだせる」人たちが、「一人の夜はつらい」がゆえに、手を携えて「明日を乱す」ために努力してきたのである。
もし宇宙政策における私の直感が正しく、それが原子力政策にも応用できると考えると、これから「脱原発」を進めようとする人たちも大変な苦労に直面するだろう。「○○ムラ」が単なる「利益共同体」ではなく、「私の革命」を進めるための連帯組織であるとするなら、単に利益の問題ではなく、信念の問題となる。多少、予算が減ろうとも、多少、賠償金を払おうとも、その信念の共同体が揺るがない限り、「脱原発」は成立しない。つまり、「脱原発」を進めるためには、巨大科学技術が「夢」であることを止めなければならないのである。
すでに福島第一原発の事故を目の当たりにし、日々ガイガーカウンターとにらめっこしている人たちにとって、原子力は「夢のエネルギー」どころか「悪夢のエネルギー」でしかない。しかし、これまで原子力政策を推進してきた人たちにとって「悪夢」になっているかどうかは定かではない。
過去にドイツやイタリアの「脱原発」について、過大評価をすべきではないというコラムをこのブログでも書いてきたが、少なくとも、日本と比べれば、これらの国々において、原発が「悪夢だ」と思う人が多くなってきていることは事実であろうし、また、ドイツやイタリアの「原子力ムラ」に「夢」という価値観や"My Revolution"のような技術者を後押しするような曲がない、ということも言えるだろう。
このように考えると、日本における科学技術政策のあり方、そして科学技術をめぐる価値規範のあり方について、しっかりと考察をしなければ、おいそれと「脱原発」が進むともいえないであろうし、場合によっては、「夢」を追いかける人たちが、その勢いを取り戻してくる可能性もある。それを十分認識したうえで、これからの科学技術政策、エネルギー政策を考えていく必要があるのではないだろうか。
改めて断わっておきますが、ここで書いた内容は"My Revolution"という曲とは全く関係なく、ただ、私が強引にこじつけて議論を展開するための触媒として使っているだけです。この曲のファンの皆様の気分を害することがあったとしたら、伏してお詫び申し上げます。
"My Revolution"(断わっておくが、私はこの曲が好きである。カラオケなどには滅多に行かないが、この曲なら人前で歌うこともいとわない)の歌詞はこちらのページで読むことができる。1960-70年代生まれの人なら、たぶん歌詞を見なくても口ずさむことができるだろう。著作権上、どこまで引用してよいかわからないが、特にここで重要なフレーズとして以下の部分だけ抜き出しておこう。
夢を追いかけるならこの歌詞を思い浮かべた時、「原子力は夢のエネルギー」と「宇宙開発は人類の夢」というフレーズが同時に思い起こされ、ある種の連関があるのではないか、とふと思ったのである。
たやすく泣いちゃだめさ
君が教えてくれた
My Fears My Dreams 走りだせる
そう、これまで科学技術は常に「夢」という単語とセットになっていたのだ。「夢」である限り、そこにチャレンジをすることが認められ(許され)、「夢」を追い求めている姿は耽美的であり、「かっこいい」とされてきたのだ。「夢」であるからこそ、失敗することも想定されており、「夢」であるから成功することの偉大さが生まれてくるのである。
そして、「夢」を追いかけるなら、たやすく泣いてはいけないのである。あらゆる批判や罵詈雑言を浴びても、「夢」である限り、それを追い求めることは正当化され、そして批判されることの「Fears」があっても、それを押しのける勇気をもって走りだすことができるのである。
さらに、この"My Revolution"という曲は、直訳すれば「私の革命」ということであり、一種の現状打破を奨励する曲となっている。そのため「明日を乱す」ことが推奨されている。乱すということが何を意味しているかは、この曲の中では明示的ではないが、少なくとも、今日とは違う明日をもたらすことが良いこととされている。その革命を実現することこそが「夢」であり、今日、反原発運動が高まっていても、明日を乱し、新しい世界がやってくれば「夢」を実現することが正当化される日がくる、という風に読み取ることができる。
私は必ずしも原子力の専門家ではなく、宇宙開発について政策的な側面から勉強してきた立場であるため、原子力に携わる人たちが果たしてこのように考えているのか、ということについては直感的には分からない。しかし、宇宙開発に携わる人たちとの付き合いを通じて感じるのは、彼らが、まさに上記のような「夢」を追いかけることへの執念というか、自己正当化というか、世界観をもっており、私のような政治学を勉強しているような門外漢が何か言おうとも、それは「Sweet pain」くらいにしか感じず、私の言うことなど全く気にせず「明日を乱す」ために「走りだせる」人たちなのだ、ということである。
そう思った時、日本における原子力政策や宇宙政策の根深さというか、安定性というか、批判に対する抵抗力の強さを感じたのである。これは、一方で継続的な研究開発を必要とし、多くの研究者や技術者の能力を総動員して一つの技術を開発していくというためには必要なことであり、高く評価されるべき規範である。しかし、他方で、自らの「夢」を実現することが目的化し、それが社会へのインプリケーションや原発事故のような大惨事を招くことから目を遠ざけ、他者の批判に耳を貸さなくなるということの表れでもある。まさに「○○ムラ」と揶揄される世界では、「夢」の実現のために「走りだせる」人たちが、「一人の夜はつらい」がゆえに、手を携えて「明日を乱す」ために努力してきたのである。
もし宇宙政策における私の直感が正しく、それが原子力政策にも応用できると考えると、これから「脱原発」を進めようとする人たちも大変な苦労に直面するだろう。「○○ムラ」が単なる「利益共同体」ではなく、「私の革命」を進めるための連帯組織であるとするなら、単に利益の問題ではなく、信念の問題となる。多少、予算が減ろうとも、多少、賠償金を払おうとも、その信念の共同体が揺るがない限り、「脱原発」は成立しない。つまり、「脱原発」を進めるためには、巨大科学技術が「夢」であることを止めなければならないのである。
すでに福島第一原発の事故を目の当たりにし、日々ガイガーカウンターとにらめっこしている人たちにとって、原子力は「夢のエネルギー」どころか「悪夢のエネルギー」でしかない。しかし、これまで原子力政策を推進してきた人たちにとって「悪夢」になっているかどうかは定かではない。
過去にドイツやイタリアの「脱原発」について、過大評価をすべきではないというコラムをこのブログでも書いてきたが、少なくとも、日本と比べれば、これらの国々において、原発が「悪夢だ」と思う人が多くなってきていることは事実であろうし、また、ドイツやイタリアの「原子力ムラ」に「夢」という価値観や"My Revolution"のような技術者を後押しするような曲がない、ということも言えるだろう。
このように考えると、日本における科学技術政策のあり方、そして科学技術をめぐる価値規範のあり方について、しっかりと考察をしなければ、おいそれと「脱原発」が進むともいえないであろうし、場合によっては、「夢」を追いかける人たちが、その勢いを取り戻してくる可能性もある。それを十分認識したうえで、これからの科学技術政策、エネルギー政策を考えていく必要があるのではないだろうか。
改めて断わっておきますが、ここで書いた内容は"My Revolution"という曲とは全く関係なく、ただ、私が強引にこじつけて議論を展開するための触媒として使っているだけです。この曲のファンの皆様の気分を害することがあったとしたら、伏してお詫び申し上げます。
2011年6月27日月曜日
役に立った宇宙システムと役に立たなかった宇宙システム
以下の文章は、震災直後に書いた文章で、ある場所に掲載するつもりで書いたものです。ただ、この記事はそこで掲載するには適切ではないとされ、また、他の雑誌にも掲載しようとしたところ、このテーマを取り上げるつもりはないと言われたものです。掲載できなかったものを再利用するのは必ずしも本意ではありませんが、人の目に触れないというのも残念なので、ブログに掲載することにしました。
====以下、未掲載原稿(4月14日脱稿)====
言葉を失うような凄惨な光景。住む場所も、愛する人も失い、途方にくれながらも生き抜こうとする人々。大津波から逃げ延びた人々は避難所に集い、必死で家族や友人の安否を確認しようとしている。3月11日に発生した東日本大震災は自然のすさまじい力の前に、人間は無力であることが思い知らされた。しかし、人間は完全に無力ではない。これだけの災害にあい、地上系のインフラが壊滅的な打撃を受けたが、人間の手で作り上げた宇宙システムは、震災の影響を受けることなく被災地にサービスを提供したのである。
通常、大規模災害において注目されるのは地球観測衛星による画像提供である(注:脱稿した時点では「だいち」は電源停止状態ではなかった。地球観測衛星に関してはブログの別の記事を参照)。しかし、今回の震災でより重要性が際立ったのが通信衛星インフラであった。地上の携帯電話基地局や固定電話ネットワークが壊滅的な打撃を受けた地域では、安否を知らせ、必要な支援を要請するために衛星電話が唯一のライフラインとして機能した。今回、主として使われたのは商業的なサービスで既に実績のあるNTT DocomoのN-Starという衛星(Widestarというサービスを提供)であり、JAXAの衛星ではなかった。
既にJAXAはWINDS(きずな)とETS-VIII(きく8号)を運用しており、高速インターネット接続、ブロードバンド通信を可能にする宇宙インフラがあったにもかかわらず、それが十分に活用されなかった。このような災害にもっとも適した能力を持っている衛星が使われなかったのはなぜなのだろうか。
JAXAは2006年にはETS-VIIIを使って災害情報収集のデモンストレーションを行い、2008年および2009年にWINDSを用いた災害時の大容量衛星通信の実証を行っている。にもかかわらず、今回の震災ではWINDSは盛岡市の岩手県庁と釜石市を結ぶだけにとどまっており、ETS-VIIIは大船渡市・大槌町とつくば宇宙センターを結ぶだけになっている。
この最大の問題は地上の可搬型通信機の数が限られ(WINDS、ETS-VIIIとも3台しかない)、多地点通信を可能にする能力を持つ衛星であるにもかかわらず、地上設備の不足で衛星が活かされていないということである。つまり、JAXAの衛星は技術実証が目的であり、実際に大災害が起こったときに衛星を活用することが目的とされていなかったため、地上の可搬型通信機を準備していなかったのである。
当然ながら、なぜ、可搬型通信機を準備していなかったのか?という疑問がわいてくる。なので、JAXAの広報に問い合わせてみると「当機構は研究開発機関であり、防災担当機関ではないため」との返事が返ってきた。確かにJAXAの存在を法的に規定する宇宙航空研究開発機構法という法律の第四条では以下のように書かれている。
ここで言いたいのは研究開発がいけないとか、無駄だということではない。重要なことは、研究開発は「何のための技術なのか」ということを考えずにやれば無駄になる、ということである。ここで取り上げたWINDSやETS-VIIIは技術的にもコンセプトとしても優れた衛星であり、それを作り出したJAXAは評価されるべきである。しかし、これらの衛星が本当に評価されるのは、それがきちんと社会のために何らかの貢献をし、とりわけ今回の震災のように衛星通信が唯一の通信手段であるような状態において、被災地や被災者、消防、警察、自衛隊の役に立つということで評価されるべきである。にもかかわらず、「防災機関ではない」という理由、「研究開発機関だから」という理由で、そうした利用について、きちんと対応しないのは、税金の無駄遣いとしか言えない。
もちろんJAXAの側にも言い分はあるだろう。可搬型通信機は一台あたり数百万から数千万円かかると言われている。ただ、それは研究開発のための実験だからそうした値段になっているのであり、大量生産し、実際に各自治体に設置すると言ったことを進めていれば、一台あたりの単価はもっと下がっていたはずである。なので、値段だけで問題を矮小化することは議論をすり替えているともいえる。もちろん、単価が安くなっても予算がつかなければ意味がない。また、JAXAは「研究開発」が任務であるため、「利用」のための予算をつけることが難しいということもあるだろう。しかし、そのためには、たとえば総務省や警察庁、防衛省といった他の利用官庁と協力し、これらの地上設備の整備にかかる予算をとることはできたはずである(もちろん財務省が必ず首を縦に振るとは言えないが・・・)。
というのも、すでに述べたように、JAXAはこれまでコンスタントにWINDSやETS-VIIIを使った防災訓練を展開しているのである。2005年にはその前年に起こった中越地震をベースに、新潟県長岡市で通信衛星を使った震災対応の訓練を行っており(JAXAプレスリリース)、2006年にはETS-VIIIを使って高知県や三重県を結んだ防災訓練が行われている(JAXAホームページ)。2008年および2009年にWINDSを用いた災害時の大容量衛星通信の実証を行っている。また、JAXAは中央防災会議やアジア防災センターなどと連携をして、防災に関する宇宙システムの役割について、さまざまな制度的連携をとってきた。このように、JAXAは「かつては」こうした試みを行っていたのである。
しかし、なぜ今回の震災でJAXAは十分機能せず、「研究開発機関だから」やらない、という姿勢を見せたのか。それは、JAXAの制度的問題がある。もともと、2005-9年にJAXAが積極的に防災に関与し、さまざまな試みを進めたのは、JAXAの宇宙利用本部のスタッフがそれに熱心であったからである。この時期は、アジアレベルで「センチネル・アジア」と呼ばれる、地域レベルでの災害時の地球観測データの提供枠組みが日本のイニシアチブで作られた時期でもあり、JAXAが防災や社会貢献ということに熱心であった時期であった。しかし、それから数年たつと、JAXAの中での人事異動が起こり、一時期盛り上がった防災への意識などが受け継がれなかった結果、いつの間にか「デフォルト」の状態である「研究開発機関だから」というロジックが復活してしまったのである。
ここから明らかになることは、宇宙は利用されて初めて意味をなすものであり、それをJAXAに任せていてもなかなか実現しない、ということである。いかに素晴らしい衛星であっても、地上で役に立たなければただの宇宙ゴミでしかない。素晴らしい衛星には、相応の地上設備、運用体制、そして利用のためのプランニングが必要である。
「宇宙基本法」が目指した利用中心の宇宙開発と国民の安全保障の確保とは、今回の震災のような事態において、宇宙を利用し、1人でも多くの人を救い、多くの人に希望を与えることを意味しているのである。宇宙開発に携わるものとして、それを忘れてはならない。
====以下、未掲載原稿(4月14日脱稿)====
言葉を失うような凄惨な光景。住む場所も、愛する人も失い、途方にくれながらも生き抜こうとする人々。大津波から逃げ延びた人々は避難所に集い、必死で家族や友人の安否を確認しようとしている。3月11日に発生した東日本大震災は自然のすさまじい力の前に、人間は無力であることが思い知らされた。しかし、人間は完全に無力ではない。これだけの災害にあい、地上系のインフラが壊滅的な打撃を受けたが、人間の手で作り上げた宇宙システムは、震災の影響を受けることなく被災地にサービスを提供したのである。
通常、大規模災害において注目されるのは地球観測衛星による画像提供である(注:脱稿した時点では「だいち」は電源停止状態ではなかった。地球観測衛星に関してはブログの別の記事を参照)。しかし、今回の震災でより重要性が際立ったのが通信衛星インフラであった。地上の携帯電話基地局や固定電話ネットワークが壊滅的な打撃を受けた地域では、安否を知らせ、必要な支援を要請するために衛星電話が唯一のライフラインとして機能した。今回、主として使われたのは商業的なサービスで既に実績のあるNTT DocomoのN-Starという衛星(Widestarというサービスを提供)であり、JAXAの衛星ではなかった。
既にJAXAはWINDS(きずな)とETS-VIII(きく8号)を運用しており、高速インターネット接続、ブロードバンド通信を可能にする宇宙インフラがあったにもかかわらず、それが十分に活用されなかった。このような災害にもっとも適した能力を持っている衛星が使われなかったのはなぜなのだろうか。
JAXAは2006年にはETS-VIIIを使って災害情報収集のデモンストレーションを行い、2008年および2009年にWINDSを用いた災害時の大容量衛星通信の実証を行っている。にもかかわらず、今回の震災ではWINDSは盛岡市の岩手県庁と釜石市を結ぶだけにとどまっており、ETS-VIIIは大船渡市・大槌町とつくば宇宙センターを結ぶだけになっている。
この最大の問題は地上の可搬型通信機の数が限られ(WINDS、ETS-VIIIとも3台しかない)、多地点通信を可能にする能力を持つ衛星であるにもかかわらず、地上設備の不足で衛星が活かされていないということである。つまり、JAXAの衛星は技術実証が目的であり、実際に大災害が起こったときに衛星を活用することが目的とされていなかったため、地上の可搬型通信機を準備していなかったのである。
当然ながら、なぜ、可搬型通信機を準備していなかったのか?という疑問がわいてくる。なので、JAXAの広報に問い合わせてみると「当機構は研究開発機関であり、防災担当機関ではないため」との返事が返ってきた。確かにJAXAの存在を法的に規定する宇宙航空研究開発機構法という法律の第四条では以下のように書かれている。
第四条 独立行政法人宇宙航空研究開発機構(以下「機構」という。)は、大学との共同等による宇宙科学に関する学術研究、宇宙科学技術(宇宙に関する科学技術をいう。以下同じ。)に関する基礎研究及び宇宙に関する基盤的研究開発並びに人工衛星等の開発、打上げ、追跡及び運用並びにこれらに関連する業務を、平和の目的に限り、総合的かつ計画的に行うとともに、航空科学技術に関する基礎研究及び航空に関する基盤的研究開発並びにこれらに関連する業務を総合的に行うことにより、大学等における学術研究の発展、宇宙科学技術及び航空科学技術の水準の向上並びに宇宙の開発及び利用の促進を図ることを目的とする。(出典:http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H14/H14HO161.html)ここには「防災」の文字はなく、JAXAの機構としての目的を「学術研究」「基礎研究」「開発、打ち上げ、追跡、運用」「研究開発」をするとしか書いていない。つまり、JAXAという組織は、新しい技術を開発するための研究開発を行う機関であり、それ以外のことはやらなくてもよい、という解釈が可能となる。言い方を変えれば、自分たちがやりたい研究だけやっていれば、後は社会がどうなろうと気にしなくてよい機関、ということになる。ただし、この条項の最後に 「宇宙の開発及び利用の促進を図ることを目的とする」とあるので、「利用してください」とお願いするところまでは法律に書かれた目的となっている。
ここで言いたいのは研究開発がいけないとか、無駄だということではない。重要なことは、研究開発は「何のための技術なのか」ということを考えずにやれば無駄になる、ということである。ここで取り上げたWINDSやETS-VIIIは技術的にもコンセプトとしても優れた衛星であり、それを作り出したJAXAは評価されるべきである。しかし、これらの衛星が本当に評価されるのは、それがきちんと社会のために何らかの貢献をし、とりわけ今回の震災のように衛星通信が唯一の通信手段であるような状態において、被災地や被災者、消防、警察、自衛隊の役に立つということで評価されるべきである。にもかかわらず、「防災機関ではない」という理由、「研究開発機関だから」という理由で、そうした利用について、きちんと対応しないのは、税金の無駄遣いとしか言えない。
もちろんJAXAの側にも言い分はあるだろう。可搬型通信機は一台あたり数百万から数千万円かかると言われている。ただ、それは研究開発のための実験だからそうした値段になっているのであり、大量生産し、実際に各自治体に設置すると言ったことを進めていれば、一台あたりの単価はもっと下がっていたはずである。なので、値段だけで問題を矮小化することは議論をすり替えているともいえる。もちろん、単価が安くなっても予算がつかなければ意味がない。また、JAXAは「研究開発」が任務であるため、「利用」のための予算をつけることが難しいということもあるだろう。しかし、そのためには、たとえば総務省や警察庁、防衛省といった他の利用官庁と協力し、これらの地上設備の整備にかかる予算をとることはできたはずである(もちろん財務省が必ず首を縦に振るとは言えないが・・・)。
というのも、すでに述べたように、JAXAはこれまでコンスタントにWINDSやETS-VIIIを使った防災訓練を展開しているのである。2005年にはその前年に起こった中越地震をベースに、新潟県長岡市で通信衛星を使った震災対応の訓練を行っており(JAXAプレスリリース)、2006年にはETS-VIIIを使って高知県や三重県を結んだ防災訓練が行われている(JAXAホームページ)。2008年および2009年にWINDSを用いた災害時の大容量衛星通信の実証を行っている。また、JAXAは中央防災会議やアジア防災センターなどと連携をして、防災に関する宇宙システムの役割について、さまざまな制度的連携をとってきた。このように、JAXAは「かつては」こうした試みを行っていたのである。
しかし、なぜ今回の震災でJAXAは十分機能せず、「研究開発機関だから」やらない、という姿勢を見せたのか。それは、JAXAの制度的問題がある。もともと、2005-9年にJAXAが積極的に防災に関与し、さまざまな試みを進めたのは、JAXAの宇宙利用本部のスタッフがそれに熱心であったからである。この時期は、アジアレベルで「センチネル・アジア」と呼ばれる、地域レベルでの災害時の地球観測データの提供枠組みが日本のイニシアチブで作られた時期でもあり、JAXAが防災や社会貢献ということに熱心であった時期であった。しかし、それから数年たつと、JAXAの中での人事異動が起こり、一時期盛り上がった防災への意識などが受け継がれなかった結果、いつの間にか「デフォルト」の状態である「研究開発機関だから」というロジックが復活してしまったのである。
ここから明らかになることは、宇宙は利用されて初めて意味をなすものであり、それをJAXAに任せていてもなかなか実現しない、ということである。いかに素晴らしい衛星であっても、地上で役に立たなければただの宇宙ゴミでしかない。素晴らしい衛星には、相応の地上設備、運用体制、そして利用のためのプランニングが必要である。
「宇宙基本法」が目指した利用中心の宇宙開発と国民の安全保障の確保とは、今回の震災のような事態において、宇宙を利用し、1人でも多くの人を救い、多くの人に希望を与えることを意味しているのである。宇宙開発に携わるものとして、それを忘れてはならない。
2011年6月22日水曜日
ドイツの「脱原発」をめぐるつじつま合わせ
前のブログでイタリアの「脱原発」を取り上げたので、今度はドイツの「脱原発」について、いくつか思うところをまとめてみたい。
イタリアと並んでドイツが脱原発に踏み切ったことは世界に衝撃を与えただけでなく、日本でも「ドイツが脱原発したのだから、日本もするべきだ」という議論が巻き起こっている。私は将来的に脱原発を目指すべきと考えているが、今回のドイツの「脱原発」が果たしてどこまで参考になるのか、また、そのドイツが「脱原発」に失敗するリスクはないのかをあまりきちんと議論せずに、「ドイツがやっているから日本も」という議論を建てる気にはあまりならない。
イタリアと違い、ドイツは現在でも17基の原発を動かしている(イタリアは1987年以来、一つも動かしていない)。ドイツにおける発電量のうち、原発が占める割合は28%。これは日本以上の原発依存率だ。このドイツが2022年(つまり10年後)までに原発をすべて停止するという決定をしたのだから、これはやはり衝撃だ。
そもそもの問題として、ドイツの「脱原発」は既定路線であった、ということを思い出すことが大事である。2002年に社会民主党(SPD)と緑の党の連立政権が制定した「脱原発法」ですでに2020年代までに原発をすべて停止し、再生可能エネルギーの割合を30%に高めるとしている。メルケル政権は、この法律の執行延期を政策として掲げ、既存の原発の停止時期を遅らせるという方針をとっていたが、脱原発法を廃案にするということはしていない。なので、ドイツは、2002年の法律に戻った、というのが正確な理解であるべきだ。言い方を変えれば、ドイツは突然脱原発をしたわけではなく、これまで国家の方針としてもっていた脱原発を再確認したということになるだろう。これは日本の状況とは大きく異なる。
にも関わらず、ドイツの「脱原発」が大きな話題となるのは、CDUを中心とするメルケル政権が基本的には産業界よりの政策をとっているということが前提にある。つまり、産業界は2002年の脱原発法を毛嫌いしており、原発がなくなることで電力の安定供給が失われたり、電力価格が高騰することを懸念しているということを意味している。メルケル政権は、その意を受けて原発停止を延期したのだ。
ここにドイツの持つ根本的な矛盾がある。一方では国民レベルでの脱原発や環境意識の高さがある。すでにあちこちで議論されているが、ドイツの環境問題は1968年の学園紛争で頑張っていた「団塊の世代」の人たちが、1980年代前半の中距離核ミサイル(INF)配備をめぐって反核運動を展開し、1986年のチェルノブイリ事故によって反原発運動へと発展、さらに旧東ドイツを含む旧共産圏の環境問題にも関心を高め、「黒い森」の保全運動など、高い環境意識をもって活動してきた。それが緑の党という政党を生み出し、国民的な政党にまで発展しようとしている。ドイツの街を歩いていてもごみの分別や環境保護に関する意識の高さは随所にうかがえる。
しかし、同時にドイツは先進国でも有数の工業国であり、輸出大国である。多くの先進国がサービス産業化するなかで、日本と並んで製造業の輸出割合が大きいのがドイツである。当然、こうした産業には電力の安定供給が不可欠であり、また、コスト競争力をめぐる問題が大きなテーマとなる。そのため、電力料金の値上げはドイツ産業にとって大きなハードルになる。すでにドイツ産業は中東欧諸国への工場の移転などで製造業の衰退を経験しており、近年になって中国向けの輸出を中心とする製造業(特に機械産業)の成長で経済的には安定した成長を享受しているが、それが滞れば、ドイツ経済も危なくなるとの意識も高い。
なので、メルケル政権は脱原発とドイツの産業基盤の維持を同時に達成させなければならず、そのための調整(悪く言えばつじつま合わせ)が必要になる。そこでいくつか気になる点が出てきている。
第一に、この「脱原発」路線を決定するためのラウンドテーブルが公開の場で行われ、反原発運動のNGOから電力会社まで、25人の人たちが集まり、議論をした結果決定した、というコンセンサスづくりである。日本でもこの会議のことは紹介されており、これをもって「熟議の結果」と報じているケースも多いが、私が見る限り、このラウンドテーブルはそれぞれの立場で言いっぱなしの状態であったとしか見えない。そもそも11時間の討議とはいえ、これだけの人数がいると、まとまることはあり得ないわけで、メルケル政権の「脱原発」はすでに既定路線であり、それを公開の場で議論したという程度にすぎない。これを「熟議」と持ち上げるのはいささか疑問が残る。その証拠に、ドイツ産業連盟(BDI)は「脱原発」決定に強い不満を示しており、ドイツ国内にコンセンサスがないことを示した。
第二に、2022年までの過程がかなり楽観的な予測に基づいているという点である。ドイツは現在電力を輸出しているが、それは原発で作った電気に加え、再生可能エネルギーでの発電量が増えたことで、電力輸出が可能となる。つまり、原発を止めれば電力の輸出は困難となる可能性が高いが、それでもメルケル政権は、電力の輸出によって得た資金を再生可能エネルギーへの投資や送電線網の整備に充てるという。これはかなり矛盾した政策だ。また、ドイツはEUの排出権取引で、温室効果ガスの排出を減らした分を外国に売り、それによって収入を得ているが、原発を停止させる代わりにガス、石油などの火力発電を強化すると言っている。これは必然的に温室効果ガスの排出を増大させるため、排出権取引市場においても、ドイツは売る側ではなく、買う側に回る可能性がある。そうなると、排出権取引によって得た収入を再生可能エネルギーに回すという青写真も困難となる。
この排出権取引についても一言言っておきたい。確かにドイツは環境先進国であり、すでに発電量の16%以上を再生可能エネルギーで賄っている。また排ガス規制などEU全体の規制もドイツが引き上げている部分があり、その点で、ドイツが温室効果ガスを削減する先頭に立っていることを否定するつもりはない。しかし、ドイツは排出権の基準設定で大変有利な立場にあるということも覚えておく必要があるだろう。現在の排出権取引の基準年は1990年。これは東西ドイツが再統一した年である。つまり、この時は東ドイツの大変効率の悪い石炭や石油の発電所や、環境にまったく配慮しない工場から出る温室効果ガスがたっぷりあった時代である。当然、これらの非効率な工場や発電所はドイツ統一後、ほとんどが廃止となっており、現在は稼働していないか、取り壊されている。つまり、1990年を基準にすると、当時の東西ドイツを合わせた温室効果ガスの排出量はべらぼうに大きく、そこから減らすことはとても簡単なことなのである。ゆえに、ドイツは1990年を基準に40%の削減と言っているが、その40%のかなりの部分は東ドイツの滅茶苦茶な排出分を減らすことで達成できる(といっても40%はなかなか厳しい数字で、ドイツの誠実さが表れていると思うが)。
第三に、火力発電、とりわけドイツの場合は天然ガスによる発電が増加することになるが、これはドイツの脆弱性ないしは欧州全体の脆弱性に影響が及ぶ話となるだろう。これはすでに比較政治学会で報告した内容にかぶるので、改めて書くのはちょっとしんどいが(今年度の終わりに『年報公共政策学』という紀要に載る予定の文章なので、改めてそちらをご覧ください)、簡単に言うと、ドイツの天然ガスは日本のように液化天然ガスとして輸入されているわけではなく(ドイツはほとんど国内で天然ガスをとることはできない)、ロシアからパイプラインを通って液化されていない(つまり気体のままの)ガスを輸入している。なので、ドイツが「脱原発」を推し進め、火力発電を増やすとなれば、当然天然ガスの需要は伸びることとなり、その供給元はロシアということになる。そのため、ロシアはドイツに対して絶対的に有利な立場となり、ロシアの国営ガス会社であるガスプロムはさまざまな形でドイツとの駆け引きを行っている。もちろん、ドイツはこうした脆弱性を理解しており、ロシア以外からもガスを供給できるよう、EU全体でロシアを経由しないガスパイプライン建設などを進めてはいるが、その完成も当面先であるため、ロシアへの依存度の高さは変わらない。ロシアも大切なお客さんであるドイツに無理をすることは考えにくいが、ドイツに限らず日本も天然ガスの需要が高まっており、アメリカでシェールガスの開発が進んでいったんは値下がりした天然ガスも徐々に値段が上がってきている。こうした状況を踏まえ、「脱原発」を進めるドイツの発電コストが増大することは必至であろう。そうなると、上述した「楽観的な」見通しと合わせて、ドイツの「脱原発」が産業界や国民生活に与える影響は、予想よりも大きいと考えられる。
第四に、ドイツが「脱原発」に進むことで、最終的に電力不足に陥り(特にドイツの再生可能エネルギーの主力は太陽光と風力なので発電量が不安定)、外国から電気を買わなければいけない状況になる、ということが問題となる。すでに知られているように、EU域内の送電網はかなりの程度、国境を越えた接続がなされ(日本のように国内でも周波数が違うため送電できないというアホな状況はない)、フランスやチェコから電力を輸入することが可能となる。しかし、すでに知られているように、フランスもチェコも原発大国であり、ドイツは自国で原発をとめたとしても他国の原発で生産した電気を買うという矛盾に直面する。
この点で、大きく問題になるのは二点ある。そのひとつは倫理的な問題である。ドイツにおける「脱原発」の動きは、国民の感情的な反原発意識からして、ドイツ国内で原発がなくなり、原発によって発電された電気を使っていないという「安心感」を担保するためにも、外国から輸入する電気は原発で使われていないということを証明する必要がある。それが見事に表れているのが、ドイツ政策当局者の次のような発言である。
この理屈はかなり怪しげである。まず第一に原子力発電所というのは定期点検に入っているもの以外は常にフル稼働状態となる。というのも、電力需要に応じて発電量を増減することが難しい発電方法だからである。すでに良く知られている通り、原子力発電所の発電は制御棒を入れて核分裂をおこし、そこから生まれた熱によって水を過熱させ、その蒸気でタービンを回す(これは沸騰水型と加圧水型で多少異なるが原理は同じく水を沸騰させること)。また制御棒を入れても急速に核燃料が冷えるわけではないので沸騰は続き、その間、水蒸気は出続ける(タービンを止めることは可能)。なので、柔軟に電気を作ったり止めたりすることが難しく、通常原子力発電というのは発電量の基礎部分(ベースロード)をなす(下図参照。フランスが100%原発で発電できないのも、原発が需要に合わせて変動できないため)。つまり、フランスの原子力発電がフル稼働しているからといって、その分がドイツに来てない、という論理はおかしな論理である。
また、電気に色が付いているわけではないため、フランス国内を経由した場合、どうしたって電気はフランス国内で発電した電気を買うわけで、その電気は原発で発電されたものが混じっているのが当然のことである。しかし、このドイツの政策担当者は「フランスの原発で作った電気は使っていない」という主張をし、ドイツ国内の反原発世論への配慮をしようとしている。これは、かなり怪しい。
もうひとつの問題は原発事故のリスクに対する考え方である。仏独国境にはフランス側にフェッセンハイムという原発があり、その原発が仮に事故を起こせば、ドイツに原発がまったくなくても、ドイツ国内に放射性物質が飛散する可能性は非常に高くなる。しかし、ドイツは正面切ってフランスに脱原発を求めることはなく(市民レベルで独仏国民が連携して反原発運動を展開しているが、フランス側では十分な盛り上がりにはなっていない)、あくまでもフランスの原発政策はフランスが決定するという姿勢を見せている。
これは統合が進んだEUとはいえ、各国のエネルギー政策はそれぞれの国家の運営に重大な問題として理解されており、他国の政策に干渉することはできない、という前提があるからである。したがって、ドイツはいかに自国の中の原発がなくし、原発事故のリスクが減ったとしても、他国で原発事故が起こることを未然に防げるわけではない。さらに言えば、ドイツの東側には旧共産主義時代に原発を建設したチェコやスロヴァキア、ハンガリーがあり、ポーランドも新たに6基の原発を建設しようとしている。フランスだけでなく、チェコからも電力を輸入しているドイツとしては、こうした国々で原発によって生産された電気を輸入しているということは、国内の反原発世論に矛盾する結果となり、結果的に「脱原発」のつじつまが合わなくなってきている。
EUのエネルギー政策について、もうひとつコメントしておくと、現在、EU域内では電力の自由化が進んでいる。将来的にはEU加盟国すべてで電力の自由化を進め、たとえばドイツの電力会社がフランスで電力を供給する(日本でいえば東京電力が大阪で電力を供給する)ことを可能にしようとしている。まだEU全域ではそれは実現していないが、電力自由化をすでに進めているイギリスなどでは、すでにドイツの電力会社であるE.ONが主要な電力会社として業務を行っている。つまり、ドイツの電力会社はすでに多国籍化しつつあり、ドイツ国内で原発停止になっても何とかやっていけるよう、収入源の多元化を進めている。この点は日本と大きく違う点であり、十分に理解しておきたいところだ。
以上、ドイツの「脱原発」路線が抱える矛盾と、それをめぐるつじつま合わせがうまくいきそうもない、という分析をしてみた。個人としてはドイツの「英断」を評価し、将来的な脱原発を目指すモデルとなってほしい気は十分にあるが、やや拙速であるとともに、「脱原発」が引き起こす矛盾を無理やり隠そうとしている点が気になる。原発推進派が事故情報を隠したりすることは言語道断であり、許されることではないが、同時に「脱原発」派が現実をきちんと分析せず、矛盾を隠して前に進もうとすることも望ましいことではない。ゆえに、本稿が脱原発を求める人たちの冷静な議論を進めるため、また矛盾を隠すことなく議論をするための材料となってもらえれば幸いである。
イタリアと並んでドイツが脱原発に踏み切ったことは世界に衝撃を与えただけでなく、日本でも「ドイツが脱原発したのだから、日本もするべきだ」という議論が巻き起こっている。私は将来的に脱原発を目指すべきと考えているが、今回のドイツの「脱原発」が果たしてどこまで参考になるのか、また、そのドイツが「脱原発」に失敗するリスクはないのかをあまりきちんと議論せずに、「ドイツがやっているから日本も」という議論を建てる気にはあまりならない。
イタリアと違い、ドイツは現在でも17基の原発を動かしている(イタリアは1987年以来、一つも動かしていない)。ドイツにおける発電量のうち、原発が占める割合は28%。これは日本以上の原発依存率だ。このドイツが2022年(つまり10年後)までに原発をすべて停止するという決定をしたのだから、これはやはり衝撃だ。
そもそもの問題として、ドイツの「脱原発」は既定路線であった、ということを思い出すことが大事である。2002年に社会民主党(SPD)と緑の党の連立政権が制定した「脱原発法」ですでに2020年代までに原発をすべて停止し、再生可能エネルギーの割合を30%に高めるとしている。メルケル政権は、この法律の執行延期を政策として掲げ、既存の原発の停止時期を遅らせるという方針をとっていたが、脱原発法を廃案にするということはしていない。なので、ドイツは、2002年の法律に戻った、というのが正確な理解であるべきだ。言い方を変えれば、ドイツは突然脱原発をしたわけではなく、これまで国家の方針としてもっていた脱原発を再確認したということになるだろう。これは日本の状況とは大きく異なる。
にも関わらず、ドイツの「脱原発」が大きな話題となるのは、CDUを中心とするメルケル政権が基本的には産業界よりの政策をとっているということが前提にある。つまり、産業界は2002年の脱原発法を毛嫌いしており、原発がなくなることで電力の安定供給が失われたり、電力価格が高騰することを懸念しているということを意味している。メルケル政権は、その意を受けて原発停止を延期したのだ。
ここにドイツの持つ根本的な矛盾がある。一方では国民レベルでの脱原発や環境意識の高さがある。すでにあちこちで議論されているが、ドイツの環境問題は1968年の学園紛争で頑張っていた「団塊の世代」の人たちが、1980年代前半の中距離核ミサイル(INF)配備をめぐって反核運動を展開し、1986年のチェルノブイリ事故によって反原発運動へと発展、さらに旧東ドイツを含む旧共産圏の環境問題にも関心を高め、「黒い森」の保全運動など、高い環境意識をもって活動してきた。それが緑の党という政党を生み出し、国民的な政党にまで発展しようとしている。ドイツの街を歩いていてもごみの分別や環境保護に関する意識の高さは随所にうかがえる。
しかし、同時にドイツは先進国でも有数の工業国であり、輸出大国である。多くの先進国がサービス産業化するなかで、日本と並んで製造業の輸出割合が大きいのがドイツである。当然、こうした産業には電力の安定供給が不可欠であり、また、コスト競争力をめぐる問題が大きなテーマとなる。そのため、電力料金の値上げはドイツ産業にとって大きなハードルになる。すでにドイツ産業は中東欧諸国への工場の移転などで製造業の衰退を経験しており、近年になって中国向けの輸出を中心とする製造業(特に機械産業)の成長で経済的には安定した成長を享受しているが、それが滞れば、ドイツ経済も危なくなるとの意識も高い。
なので、メルケル政権は脱原発とドイツの産業基盤の維持を同時に達成させなければならず、そのための調整(悪く言えばつじつま合わせ)が必要になる。そこでいくつか気になる点が出てきている。
第一に、この「脱原発」路線を決定するためのラウンドテーブルが公開の場で行われ、反原発運動のNGOから電力会社まで、25人の人たちが集まり、議論をした結果決定した、というコンセンサスづくりである。日本でもこの会議のことは紹介されており、これをもって「熟議の結果」と報じているケースも多いが、私が見る限り、このラウンドテーブルはそれぞれの立場で言いっぱなしの状態であったとしか見えない。そもそも11時間の討議とはいえ、これだけの人数がいると、まとまることはあり得ないわけで、メルケル政権の「脱原発」はすでに既定路線であり、それを公開の場で議論したという程度にすぎない。これを「熟議」と持ち上げるのはいささか疑問が残る。その証拠に、ドイツ産業連盟(BDI)は「脱原発」決定に強い不満を示しており、ドイツ国内にコンセンサスがないことを示した。
第二に、2022年までの過程がかなり楽観的な予測に基づいているという点である。ドイツは現在電力を輸出しているが、それは原発で作った電気に加え、再生可能エネルギーでの発電量が増えたことで、電力輸出が可能となる。つまり、原発を止めれば電力の輸出は困難となる可能性が高いが、それでもメルケル政権は、電力の輸出によって得た資金を再生可能エネルギーへの投資や送電線網の整備に充てるという。これはかなり矛盾した政策だ。また、ドイツはEUの排出権取引で、温室効果ガスの排出を減らした分を外国に売り、それによって収入を得ているが、原発を停止させる代わりにガス、石油などの火力発電を強化すると言っている。これは必然的に温室効果ガスの排出を増大させるため、排出権取引市場においても、ドイツは売る側ではなく、買う側に回る可能性がある。そうなると、排出権取引によって得た収入を再生可能エネルギーに回すという青写真も困難となる。
この排出権取引についても一言言っておきたい。確かにドイツは環境先進国であり、すでに発電量の16%以上を再生可能エネルギーで賄っている。また排ガス規制などEU全体の規制もドイツが引き上げている部分があり、その点で、ドイツが温室効果ガスを削減する先頭に立っていることを否定するつもりはない。しかし、ドイツは排出権の基準設定で大変有利な立場にあるということも覚えておく必要があるだろう。現在の排出権取引の基準年は1990年。これは東西ドイツが再統一した年である。つまり、この時は東ドイツの大変効率の悪い石炭や石油の発電所や、環境にまったく配慮しない工場から出る温室効果ガスがたっぷりあった時代である。当然、これらの非効率な工場や発電所はドイツ統一後、ほとんどが廃止となっており、現在は稼働していないか、取り壊されている。つまり、1990年を基準にすると、当時の東西ドイツを合わせた温室効果ガスの排出量はべらぼうに大きく、そこから減らすことはとても簡単なことなのである。ゆえに、ドイツは1990年を基準に40%の削減と言っているが、その40%のかなりの部分は東ドイツの滅茶苦茶な排出分を減らすことで達成できる(といっても40%はなかなか厳しい数字で、ドイツの誠実さが表れていると思うが)。
第三に、火力発電、とりわけドイツの場合は天然ガスによる発電が増加することになるが、これはドイツの脆弱性ないしは欧州全体の脆弱性に影響が及ぶ話となるだろう。これはすでに比較政治学会で報告した内容にかぶるので、改めて書くのはちょっとしんどいが(今年度の終わりに『年報公共政策学』という紀要に載る予定の文章なので、改めてそちらをご覧ください)、簡単に言うと、ドイツの天然ガスは日本のように液化天然ガスとして輸入されているわけではなく(ドイツはほとんど国内で天然ガスをとることはできない)、ロシアからパイプラインを通って液化されていない(つまり気体のままの)ガスを輸入している。なので、ドイツが「脱原発」を推し進め、火力発電を増やすとなれば、当然天然ガスの需要は伸びることとなり、その供給元はロシアということになる。そのため、ロシアはドイツに対して絶対的に有利な立場となり、ロシアの国営ガス会社であるガスプロムはさまざまな形でドイツとの駆け引きを行っている。もちろん、ドイツはこうした脆弱性を理解しており、ロシア以外からもガスを供給できるよう、EU全体でロシアを経由しないガスパイプライン建設などを進めてはいるが、その完成も当面先であるため、ロシアへの依存度の高さは変わらない。ロシアも大切なお客さんであるドイツに無理をすることは考えにくいが、ドイツに限らず日本も天然ガスの需要が高まっており、アメリカでシェールガスの開発が進んでいったんは値下がりした天然ガスも徐々に値段が上がってきている。こうした状況を踏まえ、「脱原発」を進めるドイツの発電コストが増大することは必至であろう。そうなると、上述した「楽観的な」見通しと合わせて、ドイツの「脱原発」が産業界や国民生活に与える影響は、予想よりも大きいと考えられる。
第四に、ドイツが「脱原発」に進むことで、最終的に電力不足に陥り(特にドイツの再生可能エネルギーの主力は太陽光と風力なので発電量が不安定)、外国から電気を買わなければいけない状況になる、ということが問題となる。すでに知られているように、EU域内の送電網はかなりの程度、国境を越えた接続がなされ(日本のように国内でも周波数が違うため送電できないというアホな状況はない)、フランスやチェコから電力を輸入することが可能となる。しかし、すでに知られているように、フランスもチェコも原発大国であり、ドイツは自国で原発をとめたとしても他国の原発で生産した電気を買うという矛盾に直面する。
この点で、大きく問題になるのは二点ある。そのひとつは倫理的な問題である。ドイツにおける「脱原発」の動きは、国民の感情的な反原発意識からして、ドイツ国内で原発がなくなり、原発によって発電された電気を使っていないという「安心感」を担保するためにも、外国から輸入する電気は原発で使われていないということを証明する必要がある。それが見事に表れているのが、ドイツ政策当局者の次のような発言である。
我々は7つの原子力発電所を停止し、フランスから電力を輸入しました。しかし、フランスの原子力発電所は既に最大レベルで稼働していたので、より多くの電気を発電するということはありせんでした。従って我々が輸入したものはおそらく、確信を持って言えないのですが、オランダで石炭から発電した電力であると思います。当時ドイツとオランダの間の送電網は最大の容量に達していたので、フランスを経由する必要がありました。(出典はこちら)
この理屈はかなり怪しげである。まず第一に原子力発電所というのは定期点検に入っているもの以外は常にフル稼働状態となる。というのも、電力需要に応じて発電量を増減することが難しい発電方法だからである。すでに良く知られている通り、原子力発電所の発電は制御棒を入れて核分裂をおこし、そこから生まれた熱によって水を過熱させ、その蒸気でタービンを回す(これは沸騰水型と加圧水型で多少異なるが原理は同じく水を沸騰させること)。また制御棒を入れても急速に核燃料が冷えるわけではないので沸騰は続き、その間、水蒸気は出続ける(タービンを止めることは可能)。なので、柔軟に電気を作ったり止めたりすることが難しく、通常原子力発電というのは発電量の基礎部分(ベースロード)をなす(下図参照。フランスが100%原発で発電できないのも、原発が需要に合わせて変動できないため)。つまり、フランスの原子力発電がフル稼働しているからといって、その分がドイツに来てない、という論理はおかしな論理である。
(出典はこちら)
また、電気に色が付いているわけではないため、フランス国内を経由した場合、どうしたって電気はフランス国内で発電した電気を買うわけで、その電気は原発で発電されたものが混じっているのが当然のことである。しかし、このドイツの政策担当者は「フランスの原発で作った電気は使っていない」という主張をし、ドイツ国内の反原発世論への配慮をしようとしている。これは、かなり怪しい。
もうひとつの問題は原発事故のリスクに対する考え方である。仏独国境にはフランス側にフェッセンハイムという原発があり、その原発が仮に事故を起こせば、ドイツに原発がまったくなくても、ドイツ国内に放射性物質が飛散する可能性は非常に高くなる。しかし、ドイツは正面切ってフランスに脱原発を求めることはなく(市民レベルで独仏国民が連携して反原発運動を展開しているが、フランス側では十分な盛り上がりにはなっていない)、あくまでもフランスの原発政策はフランスが決定するという姿勢を見せている。
これは統合が進んだEUとはいえ、各国のエネルギー政策はそれぞれの国家の運営に重大な問題として理解されており、他国の政策に干渉することはできない、という前提があるからである。したがって、ドイツはいかに自国の中の原発がなくし、原発事故のリスクが減ったとしても、他国で原発事故が起こることを未然に防げるわけではない。さらに言えば、ドイツの東側には旧共産主義時代に原発を建設したチェコやスロヴァキア、ハンガリーがあり、ポーランドも新たに6基の原発を建設しようとしている。フランスだけでなく、チェコからも電力を輸入しているドイツとしては、こうした国々で原発によって生産された電気を輸入しているということは、国内の反原発世論に矛盾する結果となり、結果的に「脱原発」のつじつまが合わなくなってきている。
EUのエネルギー政策について、もうひとつコメントしておくと、現在、EU域内では電力の自由化が進んでいる。将来的にはEU加盟国すべてで電力の自由化を進め、たとえばドイツの電力会社がフランスで電力を供給する(日本でいえば東京電力が大阪で電力を供給する)ことを可能にしようとしている。まだEU全域ではそれは実現していないが、電力自由化をすでに進めているイギリスなどでは、すでにドイツの電力会社であるE.ONが主要な電力会社として業務を行っている。つまり、ドイツの電力会社はすでに多国籍化しつつあり、ドイツ国内で原発停止になっても何とかやっていけるよう、収入源の多元化を進めている。この点は日本と大きく違う点であり、十分に理解しておきたいところだ。
以上、ドイツの「脱原発」路線が抱える矛盾と、それをめぐるつじつま合わせがうまくいきそうもない、という分析をしてみた。個人としてはドイツの「英断」を評価し、将来的な脱原発を目指すモデルとなってほしい気は十分にあるが、やや拙速であるとともに、「脱原発」が引き起こす矛盾を無理やり隠そうとしている点が気になる。原発推進派が事故情報を隠したりすることは言語道断であり、許されることではないが、同時に「脱原発」派が現実をきちんと分析せず、矛盾を隠して前に進もうとすることも望ましいことではない。ゆえに、本稿が脱原発を求める人たちの冷静な議論を進めるため、また矛盾を隠すことなく議論をするための材料となってもらえれば幸いである。
2011年6月14日火曜日
イタリアは本当に「脱原発」するのか?(6月14日12:00修正)
現在、イタリアで原発を巡る国民投票が行われている。日本でも多く取り上げられ、ドイツに続いてイタリアも脱原発路線に進んでいることを受け、「21世紀の日独伊三国脱原発同盟」のような話も出てきている。なんとなく、脱原発の話を日独伊三国同盟にひっかけて議論をするのは気が進まないというか、センスがないような感じもするが、まあ、それは置いておこう。
このイタリアの国民投票をめぐる日本での報道は、「脱原発」カラーに染め上げられているが、このイタリアの国民投票は実は原発の話ばかりをしているわけではない。同時に「水道民営化」「水道事業に関する料金値上げ」「国の要職者の政治訴追の可否」という四つの問題についての投票が行われている。確かに原発問題は一つの大きなイシューだが、イタリア政治で一番問題になるのは、実は四番目の要職者の訴追の問題だ。
ここは重要なポイントであるが、今回のイタリアにおける国民投票は福島原発の事故を受けて行ったわけではなく、2011年1月からすでに準備されていたものであった。ベルルスコーニ首相の原発再稼働政策については、福島原発事故以前からイタリア国内では問題視されていたため、国民投票となったのである。しかし、1月の時点では、今回の国民投票が政府要職者の政治訴追の可否に関する問題が最も重要なイシューとして考えられており、原発の問題は水道民営化などとならぶ公益事業のあり方を巡る問題として見られていた。つまり、必ずしも重要なイシューとして国民投票にかけられたということではない、ということである。
この政府要職者の政治訴追が重要なイシューになったことは、改めて説明するまでもないだろう。イタリアはベルルスコーニ首相が未成年の女性を買春した問題や脱税疑惑で刑事訴追されており、ベルルスコーニが自ら作った、政治的要職者の免責を議会が葬ったため、国民投票に訴えかけて、その免責を再度勝ち取ろうとしている。日本でも政権に固執する首相への批判が高まっているが、イタリアのそれはレベルが違う。刑事事件になっていても、国民投票にかけてでも政権に居座ろうとする根性は見上げたものだが、ほめられたものではない。
また、イタリアの「脱原発」路線という表現にもやや違和感がある。というのも、イタリアでは稼働している原発は一つもない(G8で唯一原発がない)。そのため、すでに「脱原発」しているのである。今回国民投票で問われているのは、ベルルスコーニ首相が提案した、チェルノブイリ事故以来、停止している原発を再稼働させ、新たに原発を建設するという計画に対する投票である。つまり、すでに脱原発しているイタリアが、原発推進に動こうとしようとするのを止める、ということである。
ただ、イタリアはすでに電気料金がヨーロッパで一番高く、火力発電を継続するとしても、石油の輸入先であるリビア(イタリアの原油輸入量の23%がリビアから)が内戦で混乱しており、石油の供給が不安定になっている状態である。今後、どのようなエネルギー政策を展開するのか、しっかりした展望がないなかで、原発の再稼働を封印したイタリアに残されている選択肢は少ない。
果たして、イタリア国民が電気代の上昇を受け入れる覚悟で原発再稼働拒否を選択したのか、それとも、イタリアにおける原発稼働は拒否しつつも、フランスから電力を購入するということで「自国だけは原発がない」という状態に満足しようとしているのか、明らかではない。少なくとも、今回明らかになったことは、福島第一原発の事故が原発の危険性への意識を高め、それが電気料金の上昇や、フランスの原発への依存を高める結果となるとしても、目の前の原発が再稼働し、新しく目の前に原発ができることを拒否したということであろう。
これは言い方を換えれば、イタリアにおける国民投票の選択は、必ずしも冷静な議論や科学的な分析評価や、選択の帰結に関する熟慮の結果ということではなく、あくまでも感情的、感覚的な判断をしたということであろう。考えてみれば、イタリアが1987年に原発をすべて停止し、「脱原発」を決定したのもチェルノブイリ事故があったからであり、それに対する反射的な対応であった。しかし、資源価格が高騰し、イタリアの電気料金が上がってきたため、原発再稼働をベルルスコーニが提起し、東日本大震災までは、それなりに現実的な政策として論じられてきた。しかし、日本での原発事故の結果、再度、反射的な反応をし、原発再稼働を止めるという結論に達したのである。そこには冷静で科学的な熟慮があったとは言い難い。
しかし、政治は理屈だけで動くものではなく、恐怖や不安といった心理や感情によっても動くものである。ゆえに、イタリアの「脱原発」という選択が間違っているわけでも、おかしいわけでもない。ただ、こうした感情的な判断によって政策を動かす結果、その後に国民にとって「不都合な真実」(たとえば電気料金の値上げや近隣諸国での原発事故)が起こったとしても、それに対しては文句を言うことはできない、ということである。感情的であれ、計算づくであれ、それがイタリア国民の下した判断なのだから。
このイタリアの国民投票をめぐる日本での報道は、「脱原発」カラーに染め上げられているが、このイタリアの国民投票は実は原発の話ばかりをしているわけではない。同時に「水道民営化」「水道事業に関する料金値上げ」「国の要職者の政治訴追の可否」という四つの問題についての投票が行われている。確かに原発問題は一つの大きなイシューだが、イタリア政治で一番問題になるのは、実は四番目の要職者の訴追の問題だ。
ここは重要なポイントであるが、今回のイタリアにおける国民投票は福島原発の事故を受けて行ったわけではなく、2011年1月からすでに準備されていたものであった。ベルルスコーニ首相の原発再稼働政策については、福島原発事故以前からイタリア国内では問題視されていたため、国民投票となったのである。しかし、1月の時点では、今回の国民投票が政府要職者の政治訴追の可否に関する問題が最も重要なイシューとして考えられており、原発の問題は水道民営化などとならぶ公益事業のあり方を巡る問題として見られていた。つまり、必ずしも重要なイシューとして国民投票にかけられたということではない、ということである。
この政府要職者の政治訴追が重要なイシューになったことは、改めて説明するまでもないだろう。イタリアはベルルスコーニ首相が未成年の女性を買春した問題や脱税疑惑で刑事訴追されており、ベルルスコーニが自ら作った、政治的要職者の免責を議会が葬ったため、国民投票に訴えかけて、その免責を再度勝ち取ろうとしている。日本でも政権に固執する首相への批判が高まっているが、イタリアのそれはレベルが違う。刑事事件になっていても、国民投票にかけてでも政権に居座ろうとする根性は見上げたものだが、ほめられたものではない。
また、イタリアの「脱原発」路線という表現にもやや違和感がある。というのも、イタリアでは稼働している原発は一つもない(G8で唯一原発がない)。そのため、すでに「脱原発」しているのである。今回国民投票で問われているのは、ベルルスコーニ首相が提案した、チェルノブイリ事故以来、停止している原発を再稼働させ、新たに原発を建設するという計画に対する投票である。つまり、すでに脱原発しているイタリアが、原発推進に動こうとしようとするのを止める、ということである。
ただ、イタリアはすでに電気料金がヨーロッパで一番高く、火力発電を継続するとしても、石油の輸入先であるリビア(イタリアの原油輸入量の23%がリビアから)が内戦で混乱しており、石油の供給が不安定になっている状態である。今後、どのようなエネルギー政策を展開するのか、しっかりした展望がないなかで、原発の再稼働を封印したイタリアに残されている選択肢は少ない。
果たして、イタリア国民が電気代の上昇を受け入れる覚悟で原発再稼働拒否を選択したのか、それとも、イタリアにおける原発稼働は拒否しつつも、フランスから電力を購入するということで「自国だけは原発がない」という状態に満足しようとしているのか、明らかではない。少なくとも、今回明らかになったことは、福島第一原発の事故が原発の危険性への意識を高め、それが電気料金の上昇や、フランスの原発への依存を高める結果となるとしても、目の前の原発が再稼働し、新しく目の前に原発ができることを拒否したということであろう。
これは言い方を換えれば、イタリアにおける国民投票の選択は、必ずしも冷静な議論や科学的な分析評価や、選択の帰結に関する熟慮の結果ということではなく、あくまでも感情的、感覚的な判断をしたということであろう。考えてみれば、イタリアが1987年に原発をすべて停止し、「脱原発」を決定したのもチェルノブイリ事故があったからであり、それに対する反射的な対応であった。しかし、資源価格が高騰し、イタリアの電気料金が上がってきたため、原発再稼働をベルルスコーニが提起し、東日本大震災までは、それなりに現実的な政策として論じられてきた。しかし、日本での原発事故の結果、再度、反射的な反応をし、原発再稼働を止めるという結論に達したのである。そこには冷静で科学的な熟慮があったとは言い難い。
しかし、政治は理屈だけで動くものではなく、恐怖や不安といった心理や感情によっても動くものである。ゆえに、イタリアの「脱原発」という選択が間違っているわけでも、おかしいわけでもない。ただ、こうした感情的な判断によって政策を動かす結果、その後に国民にとって「不都合な真実」(たとえば電気料金の値上げや近隣諸国での原発事故)が起こったとしても、それに対しては文句を言うことはできない、ということである。感情的であれ、計算づくであれ、それがイタリア国民の下した判断なのだから。
2011年6月12日日曜日
北大は有人宇宙開発の中心?
前のブログ投稿で紹介させていただいたように、6月10日の毎日新聞の「論点」に拙稿が掲載されました。もともとは4月12日のガガーリンによる初の有人宇宙飛行から50年を記念した特集になるはずだったのですが、東日本大震災から一カ月ということで、紙面の構成が大きく変わってしまい、6月10日まで延期という形になっていました。ちょうど古川さんが宇宙ステーションに向かって飛び立った時期でもあったので、それなりに意味のあるタイミングにはなりましたが。
他の寄稿者を知らなかったのですが、毛利衛さん、伊藤献一さんと並んで掲載されたので、ちょっとびっくり。毛利さんはご存知の通り、日本で二番目の宇宙飛行士(一番目は秋山豊寛さん、元TBS記者)で、知らない人は少ないと思います。伊藤さんは北大の工学部の名誉教授で、現在は北大が進めている小型ロケットを事業化しようとするHASTICというNPOの理事長をされています。私は北大勤務、伊藤先生は北大名誉教授、そして毛利さんは北海道の余市で生まれ、北大理学部出身。この毎日新聞の特集は、有人宇宙飛行と北海道を意図的に結び付けようとしているのか?とちょっとうがった見方をしたくなりました。北海道の人間としてはうれしいところですが、他の地域の人が見たら引いてしまうのでは?とちょっと心配。
また、この特集で驚いたのは、意外にも毛利さんの議論が有人宇宙飛行推進一辺倒ではなかった、という点です。最初から「有人宇宙開発が今後、同じように日本社会を豊かにするために必要だろうか」という問題提起をし、「この50年を区切りとして、世界にとって有人宇宙開発は新しい段階に突入しなければならないと思う」と述べ、社会が有人宇宙飛行の「大義」を共有するか、宇宙観光ビジネスへの道を進むかの二つの道しかない、と論じたうえで、日本は「単独での有人宇宙開発には向いていない」と断じている。その理由として、有人宇宙開発の意義が社会で理解されていないからだと述べる。ただ、「人類が持続するために国際協力で行う有人宇宙開発への挑戦には、日本人の生命を賭してでも一緒に参加する志が社会になければならない」としている。
これまでJAXAが発信する「有人宇宙飛行は夢や希望だ」といったフワフワした言説に飽き飽きしていたところに、JAXAの宇宙飛行士であった毛利さんから、日本には有人宇宙飛行を支える社会的な大義がないという話が出てくるとは想定していなかった。その意味では大きなサプライズである。有人宇宙飛行全体を否定しているわけではないとしても、これまでの日本の有人宇宙飛行のあり方に一石を投じる文章であり、うれしく思った。ただ、この文章が、これまで「有人宇宙飛行のアイコン」としてJAXAのPRをしてきた「毛利宇宙飛行士」という立場とどう整合性をつけているのか、ちょっと気になるところ。すでにJAXAの職員ではないとはいえ、JAXAが有人宇宙飛行のPRのトーンを変更したというメッセージと受け止めるべきなのかどうか、思案している。
伊藤さんの論稿は、国に依存せずにロケット開発を進めるHASTICならでは、という議論になっており、興味深い。「宇宙開発はすべて国家の責任で推進し、国が目的を定め安全を保証するという神話から脱却する」という新しい視点を強調する。伊藤さんも「有人宇宙飛行を進めるにあたって、大きなリスクを伴うことを是とする文化の醸成が必要」と述べ、有人宇宙飛行には社会的な支持がなければいけないという認識を示している。また「現状の研究開発の延長上では新たな大義を有人宇宙開発に設けることは難しい」と暗に研究開発機関であるJAXAが有人宇宙飛行を推進することを批判している。結論として「手の届く宇宙」にする必要があると訴え、低コストによる打ち上げを目指すHASTICの目的に重ね合わせた有人宇宙飛行論を展開している。ただ、最後には「有人宇宙飛行は(中略)エンターテイメントであり、難しい大義は必要ない。楽しいから宇宙へ行く。思い切った原点復帰がいま必要だ」と論じ、やや矛盾した結論となっている。
毛利、伊藤両氏の議論に共通するのは、有人宇宙飛行は社会的な支持と、リスクを許容する文化が必要という点であり、そうした支持と新しい文化は努力すれば獲得できるというニュアンスをもって話をしている点である。実は、日本の宇宙開発の歴史の中では、常にこの社会的支持と宇宙への挑戦とその失敗を受け入れる文化が必要という議論がずっとなされており、それ自体は新しいものではない。しかし、過去40年間同じことを言い続け、結局、社会的支持も盛り上がらず、新しい文化も生まれていない点から考えると、そうした社会的変化を期待することは難しい。言いかえれば、毛利氏の議論を踏まえて言えば、そうした社会的変化が起きなければ、結局、日本は有人宇宙開発をする意義は持てない、ということになるだろう。
すでにスペースシャトルの打ち上げはあと一回となり、2020年には宇宙ステーションの運用が終了しようとしている。アメリカも有人宇宙開発の方向性を見失っており、官民を挙げて宇宙開発の新たな方向性を模索する研究が進められている。日本と同様、独自の有人宇宙ロケットをもたないヨーロッパも、宇宙ステーションの運用終了をにらんだ新たな戦略の組み立ての議論を始めている。中国は独自の有人宇宙飛行計画を続けつつ、アメリカの方針転換を受けて、中国の戦略的目標の再定義の議論を始めている。しかし、日本でそうした議論を進めようという機運は見られない。
東日本大震災の復旧・復興と、厳しくなる一方の財政状況の中で、日本が取ることができる選択肢の幅は少ない。日本が有人宇宙飛行の議論を進めないということは、もうすでに有人宇宙飛行を諦めた、ということなのだろうか?それとも、真剣に有人宇宙飛行を進めようという意思が政府にもJAXAにもないということなのだろうか?いずれにしても、日本が有人宇宙開発を止めることになれば、これまでの投資は何だったのか、という問いに答えなければならなくなる。誰かその答えを用意しているのだろうか?
他の寄稿者を知らなかったのですが、毛利衛さん、伊藤献一さんと並んで掲載されたので、ちょっとびっくり。毛利さんはご存知の通り、日本で二番目の宇宙飛行士(一番目は秋山豊寛さん、元TBS記者)で、知らない人は少ないと思います。伊藤さんは北大の工学部の名誉教授で、現在は北大が進めている小型ロケットを事業化しようとするHASTICというNPOの理事長をされています。私は北大勤務、伊藤先生は北大名誉教授、そして毛利さんは北海道の余市で生まれ、北大理学部出身。この毎日新聞の特集は、有人宇宙飛行と北海道を意図的に結び付けようとしているのか?とちょっとうがった見方をしたくなりました。北海道の人間としてはうれしいところですが、他の地域の人が見たら引いてしまうのでは?とちょっと心配。
また、この特集で驚いたのは、意外にも毛利さんの議論が有人宇宙飛行推進一辺倒ではなかった、という点です。最初から「有人宇宙開発が今後、同じように日本社会を豊かにするために必要だろうか」という問題提起をし、「この50年を区切りとして、世界にとって有人宇宙開発は新しい段階に突入しなければならないと思う」と述べ、社会が有人宇宙飛行の「大義」を共有するか、宇宙観光ビジネスへの道を進むかの二つの道しかない、と論じたうえで、日本は「単独での有人宇宙開発には向いていない」と断じている。その理由として、有人宇宙開発の意義が社会で理解されていないからだと述べる。ただ、「人類が持続するために国際協力で行う有人宇宙開発への挑戦には、日本人の生命を賭してでも一緒に参加する志が社会になければならない」としている。
これまでJAXAが発信する「有人宇宙飛行は夢や希望だ」といったフワフワした言説に飽き飽きしていたところに、JAXAの宇宙飛行士であった毛利さんから、日本には有人宇宙飛行を支える社会的な大義がないという話が出てくるとは想定していなかった。その意味では大きなサプライズである。有人宇宙飛行全体を否定しているわけではないとしても、これまでの日本の有人宇宙飛行のあり方に一石を投じる文章であり、うれしく思った。ただ、この文章が、これまで「有人宇宙飛行のアイコン」としてJAXAのPRをしてきた「毛利宇宙飛行士」という立場とどう整合性をつけているのか、ちょっと気になるところ。すでにJAXAの職員ではないとはいえ、JAXAが有人宇宙飛行のPRのトーンを変更したというメッセージと受け止めるべきなのかどうか、思案している。
伊藤さんの論稿は、国に依存せずにロケット開発を進めるHASTICならでは、という議論になっており、興味深い。「宇宙開発はすべて国家の責任で推進し、国が目的を定め安全を保証するという神話から脱却する」という新しい視点を強調する。伊藤さんも「有人宇宙飛行を進めるにあたって、大きなリスクを伴うことを是とする文化の醸成が必要」と述べ、有人宇宙飛行には社会的な支持がなければいけないという認識を示している。また「現状の研究開発の延長上では新たな大義を有人宇宙開発に設けることは難しい」と暗に研究開発機関であるJAXAが有人宇宙飛行を推進することを批判している。結論として「手の届く宇宙」にする必要があると訴え、低コストによる打ち上げを目指すHASTICの目的に重ね合わせた有人宇宙飛行論を展開している。ただ、最後には「有人宇宙飛行は(中略)エンターテイメントであり、難しい大義は必要ない。楽しいから宇宙へ行く。思い切った原点復帰がいま必要だ」と論じ、やや矛盾した結論となっている。
毛利、伊藤両氏の議論に共通するのは、有人宇宙飛行は社会的な支持と、リスクを許容する文化が必要という点であり、そうした支持と新しい文化は努力すれば獲得できるというニュアンスをもって話をしている点である。実は、日本の宇宙開発の歴史の中では、常にこの社会的支持と宇宙への挑戦とその失敗を受け入れる文化が必要という議論がずっとなされており、それ自体は新しいものではない。しかし、過去40年間同じことを言い続け、結局、社会的支持も盛り上がらず、新しい文化も生まれていない点から考えると、そうした社会的変化を期待することは難しい。言いかえれば、毛利氏の議論を踏まえて言えば、そうした社会的変化が起きなければ、結局、日本は有人宇宙開発をする意義は持てない、ということになるだろう。
すでにスペースシャトルの打ち上げはあと一回となり、2020年には宇宙ステーションの運用が終了しようとしている。アメリカも有人宇宙開発の方向性を見失っており、官民を挙げて宇宙開発の新たな方向性を模索する研究が進められている。日本と同様、独自の有人宇宙ロケットをもたないヨーロッパも、宇宙ステーションの運用終了をにらんだ新たな戦略の組み立ての議論を始めている。中国は独自の有人宇宙飛行計画を続けつつ、アメリカの方針転換を受けて、中国の戦略的目標の再定義の議論を始めている。しかし、日本でそうした議論を進めようという機運は見られない。
東日本大震災の復旧・復興と、厳しくなる一方の財政状況の中で、日本が取ることができる選択肢の幅は少ない。日本が有人宇宙飛行の議論を進めないということは、もうすでに有人宇宙飛行を諦めた、ということなのだろうか?それとも、真剣に有人宇宙飛行を進めようという意思が政府にもJAXAにもないということなのだろうか?いずれにしても、日本が有人宇宙開発を止めることになれば、これまでの投資は何だったのか、という問いに答えなければならなくなる。誰かその答えを用意しているのだろうか?
2011年6月8日水曜日
こんな時に宇宙に行っている場合だろうか
本日、古川飛行士を乗せたソユーズが無事打ち上げられた。それ自体はめでたい話であり、失敗するよりは良いニュースである。しかし、ちょっと気になったのは、主要メディアだけでなく、ツイッターなどの空間でも、古川飛行士の打ち上げを喜ぶ声ばかりで、「この時期に、国家予算=国民の税金を使って宇宙に行く」ことを意味を取り上げる話がどこにも出てこないのはかなり気になる。
ソユーズを有人で打ち上げると4億ルーブル(約11億5千万円)の費用がかかる。もちろん、それ以外にも訓練などにかかる費用はたくさん付随しており、古川飛行士自身が宇宙飛行士として選抜されてからずっとかかっている費用もある。過去の支出について、あれこれ議論をし始めるとキリがないが、少なくとも、これから170日間古川飛行士は国際宇宙ステーションに滞在する費用もかかる。JAXAの予算を見ても、個別の飛行士にかかる経費が明示的に出てくるわけではないため、正確な費用を算出することは難しいが、古川飛行士の滞在中にかかる費用は数十億の単位になるだろう。
一方、地上では「税と社会福祉の一体化改革」で消費税を10%にするだとか、第二次補正予算にいくらかかるとか、被災地の復興のための増税だとかが議論されている。そんな時期に、震災復興にはあまり貢献しなさそうな宇宙ステーションに行く意味はどこまであるのだろうか?そのために、数十億円という安からぬ費用を国家予算で支出することに、どれだけの正義があるのだろうか?
多分、PR活動の得意な文科省、JAXAは宇宙から古川飛行士のメッセージを被災地に向けて流し続けるだろう。有人宇宙飛行は夢であり、希望であり、未来である、という手垢のついたメッセージが繰り返されることは想像に難くない。
これまで、日本はTBSの記者として会社が費用を負担してくれた秋山さんを除く、6人(毛利、向井、若田、土井、野口、山崎飛行士)は全てJAXAの職員として訓練を受け、国家予算で宇宙に行っている。彼らはいずれも理系の大学教育を受け(文系は宇宙飛行士にはなれない)、厳しい選抜を潜り抜けたエリートである。被災地の子供たちが宇宙飛行士からのメッセージを受け、懸命に勉強し、理系の大学に入り、一流の人材になろうという希望を持つことは素晴らしいことである。子供がプロ野球やサッカー選手にあこがれて練習に励むように、宇宙飛行士にあこがれて勉強に励むことを否定するつもりはない。
しかし、そのためのコストとして、国家予算で一回のフライトと宇宙ステーションへの滞在に数十億円かけることが果たして被災地のためになるのか、と考えると、疑問が残る。もちろん、日本の宇宙開発は被災地のためにやっているわけではない。しかし、何のために有人宇宙飛行をやっているのか、はっきりしているわけではない。日本が有人宇宙飛行事業を行うことが、日本の経済を成長させるわけでも、日本の技術力を国際的に優位にさせるわけでも(すでに有人技術を持っている国は米中ロがあり、日本の技術は二番煎じ)、日本が抱える課題を解決するわけでもない。正直なところ、私も長いこと宇宙開発の勉強をしているが、日本が有人宇宙飛行をやることを意義をしっかり、説得力のある理由で説明してくれた人は誰もいない。
こうした、目的もはっきりしないような有人宇宙事業を延々と続けていること自体に意味を見出せないだけでなく、震災復興でいくらでも予算が必要な時期に宇宙に行っている場合なのだろうか?この疑問がずっと解けないまま、一日が過ぎていく・・・。
(追伸)6月10日の毎日新聞朝刊の「論点」に拙稿が掲載される予定です。このブログの記事とは内容は異なっていますが、基本的には同じトーンの記述になっています。
ソユーズを有人で打ち上げると4億ルーブル(約11億5千万円)の費用がかかる。もちろん、それ以外にも訓練などにかかる費用はたくさん付随しており、古川飛行士自身が宇宙飛行士として選抜されてからずっとかかっている費用もある。過去の支出について、あれこれ議論をし始めるとキリがないが、少なくとも、これから170日間古川飛行士は国際宇宙ステーションに滞在する費用もかかる。JAXAの予算を見ても、個別の飛行士にかかる経費が明示的に出てくるわけではないため、正確な費用を算出することは難しいが、古川飛行士の滞在中にかかる費用は数十億の単位になるだろう。
一方、地上では「税と社会福祉の一体化改革」で消費税を10%にするだとか、第二次補正予算にいくらかかるとか、被災地の復興のための増税だとかが議論されている。そんな時期に、震災復興にはあまり貢献しなさそうな宇宙ステーションに行く意味はどこまであるのだろうか?そのために、数十億円という安からぬ費用を国家予算で支出することに、どれだけの正義があるのだろうか?
多分、PR活動の得意な文科省、JAXAは宇宙から古川飛行士のメッセージを被災地に向けて流し続けるだろう。有人宇宙飛行は夢であり、希望であり、未来である、という手垢のついたメッセージが繰り返されることは想像に難くない。
これまで、日本はTBSの記者として会社が費用を負担してくれた秋山さんを除く、6人(毛利、向井、若田、土井、野口、山崎飛行士)は全てJAXAの職員として訓練を受け、国家予算で宇宙に行っている。彼らはいずれも理系の大学教育を受け(文系は宇宙飛行士にはなれない)、厳しい選抜を潜り抜けたエリートである。被災地の子供たちが宇宙飛行士からのメッセージを受け、懸命に勉強し、理系の大学に入り、一流の人材になろうという希望を持つことは素晴らしいことである。子供がプロ野球やサッカー選手にあこがれて練習に励むように、宇宙飛行士にあこがれて勉強に励むことを否定するつもりはない。
しかし、そのためのコストとして、国家予算で一回のフライトと宇宙ステーションへの滞在に数十億円かけることが果たして被災地のためになるのか、と考えると、疑問が残る。もちろん、日本の宇宙開発は被災地のためにやっているわけではない。しかし、何のために有人宇宙飛行をやっているのか、はっきりしているわけではない。日本が有人宇宙飛行事業を行うことが、日本の経済を成長させるわけでも、日本の技術力を国際的に優位にさせるわけでも(すでに有人技術を持っている国は米中ロがあり、日本の技術は二番煎じ)、日本が抱える課題を解決するわけでもない。正直なところ、私も長いこと宇宙開発の勉強をしているが、日本が有人宇宙飛行をやることを意義をしっかり、説得力のある理由で説明してくれた人は誰もいない。
こうした、目的もはっきりしないような有人宇宙事業を延々と続けていること自体に意味を見出せないだけでなく、震災復興でいくらでも予算が必要な時期に宇宙に行っている場合なのだろうか?この疑問がずっと解けないまま、一日が過ぎていく・・・。
(追伸)6月10日の毎日新聞朝刊の「論点」に拙稿が掲載される予定です。このブログの記事とは内容は異なっていますが、基本的には同じトーンの記述になっています。
2011年6月7日火曜日
補論:20ミリシーベルトは高すぎるか?
以前、ブログ(「年間1ミリシーベルト」で安心できるのか?)で以下のようなことを書いたのだが、ちょっと気になったので、もう少し正確に議論をしておきたく、ここで若干の補完をしたい。
まず、原発で働く作業員がなぜ年間18ミリシーベルトなのか、というと、彼らは長い期間(十年~数十年単位)原発に関わる仕事をする=放射線被曝の恐れが常にある仕事をする、という前提がある。そのため、一年間では18ミリシーベルトであっても、十年、二十年と仕事を続けていけば、当然のことながら累積被曝線量は増えていく。そうなると、低被曝線量であっても人体に影響の出るレベルになっていく。「年間18ミリシーベルト」とはいっても、一年経ったらリセットされるわけではない。そのため、一年で18ミリシーベルト、二年で36ミリシーベルト・・・と加算されていく。
放射線は細胞を突然変異させるリスクがあり、低線量の被曝であっても、細胞が突然変異して悪性腫瘍(ないしは癌や白血病)になる可能性がある。特に、細胞分裂の活発な子供はそうした突然変異が生まれる確率が高くなる。そのため、大人であっても、年間18ミリシーベルトを何年も浴び続ければ、その分、細胞が突然変異する可能性が高くなる。
では、子供が「年間20ミリシーベルト」の被曝をするとどうなるのか、ということだが、これは実は原発事故がどの程度続くか、ということによって変わってくる。現状では、放射線量が高い(年間換算して20ミリシーベルトくらい)場所が「ホットスポット」として話題になっているが、原発事故が続く限り、福島県内や茨城、千葉県の放射線量の高い地域には継続的に放射性物質が飛来する可能性があり、その意味では、継続的に被曝が続き、それによって細胞の突然変異が起こる確率が高くなる。
つまり、原発事故が早期に収束すれば、今後、福島第一原発周辺の避難指定区域や計画的避難区域以外の福島県内や茨城、千葉県の線量の高い場所でも、土壌の改良などによって蓄積された放射性物質を除去することで、それほど問題にはならない。
しかし、原発事故が収束せず、今後長期にわたって放射性物質が放出されるような状況が継続するようであれば、現時点で土壌改良をしたところで、また新たに放射性物質が降り、土壌に蓄積されるようなことになれば、それはリスクを高めることになる。原発作業員のように、長期にわたって低線量の被曝をすることを前提として考えなければならなくなる。そうなると「年間20ミリシーベルト」はかなり高い数値に思える。特に、原発作業員は大人であり、細胞分裂が不活発な人であることを前提にすると、子供が数年にわたって被曝するという前提に立てば、「年間20ミリシーベルト」は高いのである。
文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」といい、一回限りの土壌改良作業をするくらいでは、現時点では必ずしも効果的とはいえない。原発事故はまだ解決していないのである。これから考えなければいけないのは、果たしてこの原発事故がどのくらい続くのか、そして収束した後もどの程度放射性物質が残るのか、そしてその核種(放射性ヨウ素やセシウムなど)が何であり、その半減期(放射能が半分になる期間。放射性ヨウ素は8日間なので、80日たてばほとんど存在しなくなる)がどの程度になるか、ということである。
ただ、原発事故が続く限り、放射性物質がガンガン降ってくるというわけでもない。というのも、現在、福島県内や茨城、千葉県内で見られる放射性物質のほとんどは、福島第一原発の1、3、4号機の水素爆発によって巻き上げられたものが多く、そうした爆発による放射性物質の飛散ということは今のところ想定されていないからである。福島第一原発の格納容器は「メルトスルー」の可能性、つまり、溶けた核燃料が格納容器を突き破っている可能性も出てきているので、放射性物質は外部に漏れ続けているが、それが広範囲に拡散することになるかどうかは定かではなく、さまざまな気象条件や、今後の事故の展開によっても変わりうる。現時点では、悪いながらも安定した状態にあるので、すぐに大量の放射性物質が飛び散るとは考えにくい。
また、既に書いたように、年間20ミリシーベルトといっても、子供にどのような影響が及ぶのかについては、正確な科学的知見がない。なので、確実なことは、年間20ミリシーベルトも数年被曝することになれば、リスクが高まることだけであり、それが必ずがんや白血病につながるとは限らない。あくまでも確率論的なものでしかない。
ただ、はっきりしていることは一つある。それは文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」といってもそれを実現することは困難であり、原発事故が続く限り、リスクは常に高まっているということである(といっても急激に高まるわけではなく、ダラダラ高まっていくのだが)。また、「年間20ミリシーベルトまで許容する」という評価をした文科省は、事故が継続していることを前提にせず、単にICRPが認めているからという安易な理由で判断していた、ということである。
確かに、子供の放射線被曝に関しては、その影響がどのように出るのかということは明白ではなく、チェルノブイリ事故の時も、子供の甲状腺ガンが異常に多くなったため、子供への放射性ヨウ素の蓄積は大きなリスクになるということは確かである。しかし、本当に年間20ミリシーベルトが高いのかどうかは、科学的に立証する方法がない。あくまでも、「子供はリスクが高い」というところからの推測でしかない。もちろん、そのリスクがある限り、予防的な措置はとられるべきである。子供にとって、年間20ミリシーベルトという数値は、基本的には高いと考えるべきである。多分、それをはっきり見て取れるのは、原発で働く作業員の平時の許容被曝線量が年間18ミリシーベルトであるということから推察してもわかるだろう。原発で働く人であっても年間18ミリシーベルトなのに、子供に年間20ミリシーベルトとは!と驚く数字かもしれない。しかし、これは放射線とは何か、ということの基本を理解したうえで議論しなければいけないものである。
まず、原発で働く作業員がなぜ年間18ミリシーベルトなのか、というと、彼らは長い期間(十年~数十年単位)原発に関わる仕事をする=放射線被曝の恐れが常にある仕事をする、という前提がある。そのため、一年間では18ミリシーベルトであっても、十年、二十年と仕事を続けていけば、当然のことながら累積被曝線量は増えていく。そうなると、低被曝線量であっても人体に影響の出るレベルになっていく。「年間18ミリシーベルト」とはいっても、一年経ったらリセットされるわけではない。そのため、一年で18ミリシーベルト、二年で36ミリシーベルト・・・と加算されていく。
放射線は細胞を突然変異させるリスクがあり、低線量の被曝であっても、細胞が突然変異して悪性腫瘍(ないしは癌や白血病)になる可能性がある。特に、細胞分裂の活発な子供はそうした突然変異が生まれる確率が高くなる。そのため、大人であっても、年間18ミリシーベルトを何年も浴び続ければ、その分、細胞が突然変異する可能性が高くなる。
では、子供が「年間20ミリシーベルト」の被曝をするとどうなるのか、ということだが、これは実は原発事故がどの程度続くか、ということによって変わってくる。現状では、放射線量が高い(年間換算して20ミリシーベルトくらい)場所が「ホットスポット」として話題になっているが、原発事故が続く限り、福島県内や茨城、千葉県の放射線量の高い地域には継続的に放射性物質が飛来する可能性があり、その意味では、継続的に被曝が続き、それによって細胞の突然変異が起こる確率が高くなる。
つまり、原発事故が早期に収束すれば、今後、福島第一原発周辺の避難指定区域や計画的避難区域以外の福島県内や茨城、千葉県の線量の高い場所でも、土壌の改良などによって蓄積された放射性物質を除去することで、それほど問題にはならない。
しかし、原発事故が収束せず、今後長期にわたって放射性物質が放出されるような状況が継続するようであれば、現時点で土壌改良をしたところで、また新たに放射性物質が降り、土壌に蓄積されるようなことになれば、それはリスクを高めることになる。原発作業員のように、長期にわたって低線量の被曝をすることを前提として考えなければならなくなる。そうなると「年間20ミリシーベルト」はかなり高い数値に思える。特に、原発作業員は大人であり、細胞分裂が不活発な人であることを前提にすると、子供が数年にわたって被曝するという前提に立てば、「年間20ミリシーベルト」は高いのである。
文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」といい、一回限りの土壌改良作業をするくらいでは、現時点では必ずしも効果的とはいえない。原発事故はまだ解決していないのである。これから考えなければいけないのは、果たしてこの原発事故がどのくらい続くのか、そして収束した後もどの程度放射性物質が残るのか、そしてその核種(放射性ヨウ素やセシウムなど)が何であり、その半減期(放射能が半分になる期間。放射性ヨウ素は8日間なので、80日たてばほとんど存在しなくなる)がどの程度になるか、ということである。
ただ、原発事故が続く限り、放射性物質がガンガン降ってくるというわけでもない。というのも、現在、福島県内や茨城、千葉県内で見られる放射性物質のほとんどは、福島第一原発の1、3、4号機の水素爆発によって巻き上げられたものが多く、そうした爆発による放射性物質の飛散ということは今のところ想定されていないからである。福島第一原発の格納容器は「メルトスルー」の可能性、つまり、溶けた核燃料が格納容器を突き破っている可能性も出てきているので、放射性物質は外部に漏れ続けているが、それが広範囲に拡散することになるかどうかは定かではなく、さまざまな気象条件や、今後の事故の展開によっても変わりうる。現時点では、悪いながらも安定した状態にあるので、すぐに大量の放射性物質が飛び散るとは考えにくい。
また、既に書いたように、年間20ミリシーベルトといっても、子供にどのような影響が及ぶのかについては、正確な科学的知見がない。なので、確実なことは、年間20ミリシーベルトも数年被曝することになれば、リスクが高まることだけであり、それが必ずがんや白血病につながるとは限らない。あくまでも確率論的なものでしかない。
ただ、はっきりしていることは一つある。それは文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」といってもそれを実現することは困難であり、原発事故が続く限り、リスクは常に高まっているということである(といっても急激に高まるわけではなく、ダラダラ高まっていくのだが)。また、「年間20ミリシーベルトまで許容する」という評価をした文科省は、事故が継続していることを前提にせず、単にICRPが認めているからという安易な理由で判断していた、ということである。
2011年6月4日土曜日
ガラパゴス化した政治
ここ数日、不信任案をめぐる一連の騒動で、ブログを書くどころか、何かを考えることすら嫌になっていた。すでに前の投稿(「日本の政治はTwilight Zone」)で、足元の定まらない感覚は何なのか、少し考えてみたが、今度は日本の政治が世界との関係の中で、どう位置付けられるべきなのか、少し考えてみたい。
ここでキーワードにしたいのが「ガラパゴス化」である。この言葉は野村総研が『ガラパゴス化する日本』という本を出し、流行語となった言葉であるが、この言葉は政治の世界にも十分当てはまるように思える。
元々野村総研の議論では、日本の携帯電話などの製品が、日本国内市場特有の高度なニーズに基づいて研究開発、製造されており、そのニーズがグローバル市場のニーズとかけ離れているため、結果的に国内市場でしか通用しない製品が蔓延し、機能や製品の質・水準は高いにも関わらず、グローバル市場ではまったく競争力をもたない状況になっていることを説明している。
この定義からすると、政治の世界を「ガラパゴス化」というにはちょっと違和感がある。というのも、出発点である、国内市場の「高度なニーズ」がなく、日本の政治「製品」が質的に高度であるとは言えないからである。つまり、日本の政治が国際的に通用しないのは、日本の政治が特殊だからというよりも、その質が低いからである。
しかし、別の角度から「ガラパゴス」ということを考えると、日本政治を説明するキーワードとして、必ずしも不適切ではない、という気もしている。少し敷衍してみよう。
第一に、外界から遮断され、独自の論理で政治が動いているという点は「ガラパゴス」的であろう。もともと『ガラパゴス化する日本』の中でも、日本の市場がグローバル市場から遮断されているという点から議論をスタートさせており、その点では、日本の政治が国際的な流れから遮断されているということを「ガラパゴス化」の議論の出発点にすることはできるだろう。
こう書くと「どんな国であっても、主権国家という枠組みの中で政治をやっているのだから、政治はガラパゴス化するものである」という指摘があるかもしれない。それはその通りで、アメリカの政治も中国の政治も、あらゆる政治はガラパゴスである。しかし、日本の特殊性は、外国の動向や国際的なプレゼンスを完全に無視し、自らの特殊な論理で行動することで、他国にはまったく理解できないような状況になっている、という点で、よりガラパゴスっぽい。
国によって違いはあるが、今日の政治は外国からの視線や市場からの視線を無視して、自分勝手な論理で意思決定をすることが困難になっている。というのも、もし外国から理解できないような意思決定を行えば、それだけで批判の対象になり、市場から罰せられる(たとえば国債の価格低下など)。しかし、日本は日米同盟という枠組みの中で、アメリカから文句は言われても、おおっぴらに批判されることが少ないということがあり、また日本の側でもアメリカの言うことを聞いていれば、少なくとも国際社会で正面切って批判されることが少ない、ということを経験的に分かっているところがある。また、市場に対しても、日本はいまだに世界一の対外資産をもっており、膨大な国債もそのほとんどが国内で消化されているため、グローバル市場からの罰が届きにくい。つまり、日本はほかの国に比べても、外界からの遮断の度合いが高い。なので、ガラパゴス化しやすいのである。
第二に、ガラパゴスであると書いて、ピンと来ることがある。それは政治家の多くが世襲議員だ、ということだ。日本という国家が外界から遮断されているだけでなく、永田町という世界が閉じられた世界であり、その中で、独自の生態系がはぐくまれ、特殊な進化を遂げていると言えよう。これによって、永田町というガラパゴスで生まれ育った種は、その外に出ると途端に生存能力を失うため、できるだけ長くガラパゴスの中に閉じこもっていようとする。そのため、生き残るためには、種が分裂して新たな種を生み出したり(自民党から分離し、民主党が生まれる)、その新しい種がほかの種と交配する(民主党に旧社会党や民社党などが合流)などして生き残ろうとする。その際、外界から隔離されているため、新たな天敵に襲われる心配がないため、外敵と戦う能力がなくても(つまり、外国の政治家と渡り合うための交渉力や弁論能力)生き残っていける。結果として、自然界では考えられないような存在になってしまう。
第三に、外来種(たとえば松下政経塾出身者)が入ってきても、ガラパゴスの楽園の論理にはまり込み、在来種との交配が進み、ガラパゴスの秩序が維持され、独自の進化を遂げているという点である。ガラパゴスの中では、本来ならば外来種が弱者である旧来種の政治家を食いつくしてしまうところが、逆に外来種が旧来種と交配しないと生きていけない状況になるため(小選挙区制のため、既存の政党に入り込まないと選挙に勝てないため)、外来種がガラパゴスの論理に取り込まれ、いつの間にか旧来種と共存するようになり、ガラパゴスの秩序が安定する。
第四に、ガラパゴスの秩序は適者生存の論理が徹底しており、ガラパゴスの秩序に適合しない種は排除されていく。 たとえば小泉純一郎という政治家はガラパゴスの中で生まれた突然変異であるが、その突然変異がガラパゴスの種の保存のために有益であるうちは活用するが、そうした突然変異がガラパゴスの秩序を乱すほど影響力をもつようになると、自然に古い秩序が回復し、「小泉新自由主義は格差を拡大させ、日本をダメにした」といった論理が蔓延し、その突然変異を排除するような動きとなる。
ゆえにガラパゴスの秩序に適合したものが生存するという仕組みになっており、そこには外敵と戦う能力(交渉力や論理的な説明能力など)よりは、秩序に適合し、秩序に適合しないものを排除する能力(たとえば足を引っ張る、相手のスキャンダルを暴露するなど)が重要な能力となる。
今回の不信任案を巡る騒動も、不信任を提出した自民党や公明党は「首相の人間性に問題がある」という情緒的で、おおよそ合理的とは思えない理屈だけしかなく、ただ単に民主党の支持率が下がり、菅政権に対する国民の不満が高まっているという状況に悪ノリした権力闘争でしかない。また、民主党内で造反しようとした小沢派と呼ばれる人たちは、「菅政権では原発事故は収束せず、がれきも撤去されていない」ということを理由に不信任案に同調しようとした。しかし、常識的に考えればわかるが、ここで首相が変わったところで原発から汚染水がなくなるわけでも、メルトダウンした燃料が元に戻るわけでもない。ここでも権力闘争をしかけるという状況の悪ノリである。さらに、最初は不信任案に同調するとしながら、中途半端な口約束だけで不信任案の反対に回り、そのあと「ペテン師だ」「ウソをついた」といっているレベルになると、もう論理や合理性という言葉とはかけ離れたTwilight Zoneである。このような、永田町の外で理解できないような論理しか通用せず、外国からみても全く理解ができないような政治の世界は、間違いなくガラパゴス化していると言えるだろう。
このガラパゴス化から抜け出すためには、日本の政治が、少なくとも永田町や日本というコンテキストでのみ認められる論理で動くのではなく、グローバルに理解できるような論理で動く必要がある。グローバルに理解できる論理というのは、一言でいえば合理的に説明がつく論理である。なぜ震災復興の途中で、原発事故の最中に不信任案を提出し、それに同調するようなことになるのか、不信任をして解散総選挙をやれば問題が解決するのか、菅政権が総辞職すれば問題が解決するのか、ということをきちんと論理的に説明する必要がある。「菅さんじゃだめだ」という論理ではなく、「菅さんではなく、○○であれば問題を~~のようにして解決できる」という論理で行動しなければ、おおよそ永田町の外の人間には理解できない。そういうものなしに、永田町という狭い世界の中で権力闘争をやっているだけでは、ガラパゴス状態から脱却することはできない。
こうしたガラパゴス状況から脱却するためには、今のガラパゴスに巣食う旧来種を排除するだけでは不十分である。旧来種が作り出したガラパゴスの秩序を破壊し、世界に通じる論理で政治を行う外来種を永田町に送り込み、その外来種が旧来型のガラパゴスの秩序に染まる前に、旧来種を駆逐するしかない。幸いなことに、ガラパゴスを陸続きにし、外来種を送り込む方法ははっきりしている。それは民主主義であり、選挙である。
ここでキーワードにしたいのが「ガラパゴス化」である。この言葉は野村総研が『ガラパゴス化する日本』という本を出し、流行語となった言葉であるが、この言葉は政治の世界にも十分当てはまるように思える。
元々野村総研の議論では、日本の携帯電話などの製品が、日本国内市場特有の高度なニーズに基づいて研究開発、製造されており、そのニーズがグローバル市場のニーズとかけ離れているため、結果的に国内市場でしか通用しない製品が蔓延し、機能や製品の質・水準は高いにも関わらず、グローバル市場ではまったく競争力をもたない状況になっていることを説明している。
この定義からすると、政治の世界を「ガラパゴス化」というにはちょっと違和感がある。というのも、出発点である、国内市場の「高度なニーズ」がなく、日本の政治「製品」が質的に高度であるとは言えないからである。つまり、日本の政治が国際的に通用しないのは、日本の政治が特殊だからというよりも、その質が低いからである。
しかし、別の角度から「ガラパゴス」ということを考えると、日本政治を説明するキーワードとして、必ずしも不適切ではない、という気もしている。少し敷衍してみよう。
第一に、外界から遮断され、独自の論理で政治が動いているという点は「ガラパゴス」的であろう。もともと『ガラパゴス化する日本』の中でも、日本の市場がグローバル市場から遮断されているという点から議論をスタートさせており、その点では、日本の政治が国際的な流れから遮断されているということを「ガラパゴス化」の議論の出発点にすることはできるだろう。
こう書くと「どんな国であっても、主権国家という枠組みの中で政治をやっているのだから、政治はガラパゴス化するものである」という指摘があるかもしれない。それはその通りで、アメリカの政治も中国の政治も、あらゆる政治はガラパゴスである。しかし、日本の特殊性は、外国の動向や国際的なプレゼンスを完全に無視し、自らの特殊な論理で行動することで、他国にはまったく理解できないような状況になっている、という点で、よりガラパゴスっぽい。
国によって違いはあるが、今日の政治は外国からの視線や市場からの視線を無視して、自分勝手な論理で意思決定をすることが困難になっている。というのも、もし外国から理解できないような意思決定を行えば、それだけで批判の対象になり、市場から罰せられる(たとえば国債の価格低下など)。しかし、日本は日米同盟という枠組みの中で、アメリカから文句は言われても、おおっぴらに批判されることが少ないということがあり、また日本の側でもアメリカの言うことを聞いていれば、少なくとも国際社会で正面切って批判されることが少ない、ということを経験的に分かっているところがある。また、市場に対しても、日本はいまだに世界一の対外資産をもっており、膨大な国債もそのほとんどが国内で消化されているため、グローバル市場からの罰が届きにくい。つまり、日本はほかの国に比べても、外界からの遮断の度合いが高い。なので、ガラパゴス化しやすいのである。
第二に、ガラパゴスであると書いて、ピンと来ることがある。それは政治家の多くが世襲議員だ、ということだ。日本という国家が外界から遮断されているだけでなく、永田町という世界が閉じられた世界であり、その中で、独自の生態系がはぐくまれ、特殊な進化を遂げていると言えよう。これによって、永田町というガラパゴスで生まれ育った種は、その外に出ると途端に生存能力を失うため、できるだけ長くガラパゴスの中に閉じこもっていようとする。そのため、生き残るためには、種が分裂して新たな種を生み出したり(自民党から分離し、民主党が生まれる)、その新しい種がほかの種と交配する(民主党に旧社会党や民社党などが合流)などして生き残ろうとする。その際、外界から隔離されているため、新たな天敵に襲われる心配がないため、外敵と戦う能力がなくても(つまり、外国の政治家と渡り合うための交渉力や弁論能力)生き残っていける。結果として、自然界では考えられないような存在になってしまう。
第三に、外来種(たとえば松下政経塾出身者)が入ってきても、ガラパゴスの楽園の論理にはまり込み、在来種との交配が進み、ガラパゴスの秩序が維持され、独自の進化を遂げているという点である。ガラパゴスの中では、本来ならば外来種が弱者である旧来種の政治家を食いつくしてしまうところが、逆に外来種が旧来種と交配しないと生きていけない状況になるため(小選挙区制のため、既存の政党に入り込まないと選挙に勝てないため)、外来種がガラパゴスの論理に取り込まれ、いつの間にか旧来種と共存するようになり、ガラパゴスの秩序が安定する。
第四に、ガラパゴスの秩序は適者生存の論理が徹底しており、ガラパゴスの秩序に適合しない種は排除されていく。 たとえば小泉純一郎という政治家はガラパゴスの中で生まれた突然変異であるが、その突然変異がガラパゴスの種の保存のために有益であるうちは活用するが、そうした突然変異がガラパゴスの秩序を乱すほど影響力をもつようになると、自然に古い秩序が回復し、「小泉新自由主義は格差を拡大させ、日本をダメにした」といった論理が蔓延し、その突然変異を排除するような動きとなる。
ゆえにガラパゴスの秩序に適合したものが生存するという仕組みになっており、そこには外敵と戦う能力(交渉力や論理的な説明能力など)よりは、秩序に適合し、秩序に適合しないものを排除する能力(たとえば足を引っ張る、相手のスキャンダルを暴露するなど)が重要な能力となる。
今回の不信任案を巡る騒動も、不信任を提出した自民党や公明党は「首相の人間性に問題がある」という情緒的で、おおよそ合理的とは思えない理屈だけしかなく、ただ単に民主党の支持率が下がり、菅政権に対する国民の不満が高まっているという状況に悪ノリした権力闘争でしかない。また、民主党内で造反しようとした小沢派と呼ばれる人たちは、「菅政権では原発事故は収束せず、がれきも撤去されていない」ということを理由に不信任案に同調しようとした。しかし、常識的に考えればわかるが、ここで首相が変わったところで原発から汚染水がなくなるわけでも、メルトダウンした燃料が元に戻るわけでもない。ここでも権力闘争をしかけるという状況の悪ノリである。さらに、最初は不信任案に同調するとしながら、中途半端な口約束だけで不信任案の反対に回り、そのあと「ペテン師だ」「ウソをついた」といっているレベルになると、もう論理や合理性という言葉とはかけ離れたTwilight Zoneである。このような、永田町の外で理解できないような論理しか通用せず、外国からみても全く理解ができないような政治の世界は、間違いなくガラパゴス化していると言えるだろう。
このガラパゴス化から抜け出すためには、日本の政治が、少なくとも永田町や日本というコンテキストでのみ認められる論理で動くのではなく、グローバルに理解できるような論理で動く必要がある。グローバルに理解できる論理というのは、一言でいえば合理的に説明がつく論理である。なぜ震災復興の途中で、原発事故の最中に不信任案を提出し、それに同調するようなことになるのか、不信任をして解散総選挙をやれば問題が解決するのか、菅政権が総辞職すれば問題が解決するのか、ということをきちんと論理的に説明する必要がある。「菅さんじゃだめだ」という論理ではなく、「菅さんではなく、○○であれば問題を~~のようにして解決できる」という論理で行動しなければ、おおよそ永田町の外の人間には理解できない。そういうものなしに、永田町という狭い世界の中で権力闘争をやっているだけでは、ガラパゴス状態から脱却することはできない。
こうしたガラパゴス状況から脱却するためには、今のガラパゴスに巣食う旧来種を排除するだけでは不十分である。旧来種が作り出したガラパゴスの秩序を破壊し、世界に通じる論理で政治を行う外来種を永田町に送り込み、その外来種が旧来型のガラパゴスの秩序に染まる前に、旧来種を駆逐するしかない。幸いなことに、ガラパゴスを陸続きにし、外来種を送り込む方法ははっきりしている。それは民主主義であり、選挙である。
日本の政治はTwilight Zone
かつてアメリカで「Twilight Zone」というSFドラマがあった。日本では『未知の世界』とか『ミステリー・ゾーン』という名前で放送され、円谷プロの『ウルトラQ』や、今でも放送されている『世にも不思議な物語』のモデルになったドラマである。
日本の政治は、まさにTwilight Zoneに入っているような錯覚を覚える。Twilight Zoneが人気を博したポイントは、現実の生活風景の中に、一つだけ現実にはあり得ない条件が挿入され、それによって、人間の理解を超えた出来事が起こっていくという点にある。見慣れた風景が突如、違うものになり、「常識」が通用しなくなり、日常生活の平衡感覚を失うことで不条理なめまいを覚えるというのが、このTwilight Zoneの持ち味であった。
Twilight Zoneというのは、文字通り「黄昏時の時間帯」という意味である。日本では「逢魔時(おおまがとき、大過時とも書く)」とも呼ばれる、この日没前の時間帯は不思議な魔力があり、普段では起きないような出来事が起こる、という意味が込められている。
ここ数日の日本の政治(と呼べるような代物ではないが)で起こっていたこと、もしくは、ここ数年の日本の政治で起こっていた出来事は、ずっとTwilight Zoneに入っていた状態だったのではないかと感じている。「一定のメドが経ったら辞任する」「二次補正予算が通れば辞任する」「そんな期限を設けてはいない」「ペテン師だ」云々カンヌン・・・。官僚の世界でも「隠すつもりはないが国民に公表することは考えなかった」「官邸の空気を読んで海水注入を止めた」・・・。もう、論評する気にもなれない。
とりあえず誰が嘘をついたとか、何が正しいかとか、そういうことを判断する気力さえ失うような状況で、何をコメントしてよいかもわからない状況に漂っている浮遊感だけが残る。この不思議な感覚はTwilight Zoneのようだ、と感じている。
その感覚はどこから来るのか、と考えているうちに、Twilight Zoneへの入り口を開いたのは、あの「Trust me」という言葉だったのではないだろうか、と思うようになった。
曲がりなりにも政治学を勉強する人間として、これまで言葉の大切さというのは痛切に感じてきた。政治で使われる言葉がどのような現実を示し、どのような行動を表象しているのかを考え、そこから行為者の意図や思惑、利害などを推量し、そこから論理を組み立てていくというのが政治学の学び方だろうと思う。自然科学とは異なり、政治の営みを分析するには、表に出てくる「言葉」が最も重要であり、その「言葉」を手がかりに、どのような意図と認識と利害をもって意思決定がなされていくのかを見ていくのが政治学だと考えていた。
しかし、その「言葉」があまりにもいい加減で、何を表象しているのかがまったく明らかにならなくなり、その「言葉」からは類推できないような現実が現れてくると、政治学者はまったくの無力となる。それは自然科学にとって太陽が西から上がってくるとか、酸素と水素を化合すると二酸化炭素が出てくるような驚きである。そのような驚きというか無力感を痛烈に感じたのは、やはりあの「Trust me」だった。
もちろん、これまで政治の世界では「ウソ」とも「方便」ともとれる言葉は無数にあった。しかし、なぜそこでウソをつくのか、なぜそんな方便を使うのか、ということが、なんとなくではあってもわかるような使いかたをしていた。たとえば、中曽根政権時代の衆参同日選挙で「売上税は導入しない」と言いながら消費税の論議をしたり、「米は一粒たりとも輸入しない」と言いながらウルグアイ・ラウンドでコメのミニマムアクセスを受け入れたり、といった類の話は、十分政治学的に説明のつく「ウソ」であった。政治学者もバカではないので、言葉を額面通り受け取ったりはしない。
しかし、鳩山の「Trust me」だけは、どうしても「ウソ」でしかなく、そこに利害や意図や目的があってウソをついているのではなく、何の根拠や見通しや戦略や利害や駆け引きなしにウソをついていた。ということになると、政治学的に理解することが不可能になってくる。
しかも、そうした「ウソ」をさらなる「ウソ」で塗り固め、結局、沖縄の問題はどうにも解決できないような状況に陥ってしまい、彼は首相を辞めることとなった。しかし、その時に「首相経験者は影響力を行使してはならない」と自ら述べ、政治家を引退すると言いながら、結局、次の選挙で出馬し、まだ国会議員をやっているだけでなく(この点で北海道9区の有権者にも責任はある)、自らの言に反して力いっぱい影響力を行使しようとした。しかも、その企てが失敗すると、「あいつはペテン師だ」「先方はウソをついている」などと言う。もう、政治学者はお手上げだ。
今日も永田町には国会議事堂が立ち、「内閣」と呼ばれるものは存在し、「国会議員」と呼ばれる、国の税金で雇っている人たちがいる。また、「政党」と名のつく集団があり、政党助成金なるお金が国民の税金から投入されている。こうした日常の風景の中で、本来、自分の言葉に責任をもち、「言ったことは実現する、ないしは実現するよう最大限努力する」ことを職業とする政治家が、その自覚を失い、「言った」「言わない」「ウソをついた」「ウソはついていない」という政治家として使うべきではない言葉しかしゃべらなくなった時、この国はTwilight Zoneに入り込み、そしてそこから出られなくなってしまうのだろう。Twilight Zoneに入ってしまった以上、我々は平衡感覚を失ったまま、吐き気をもよおしながら、この「人類の知らない第五次元」を漂うしかないのだろうか。
日本の政治は、まさにTwilight Zoneに入っているような錯覚を覚える。Twilight Zoneが人気を博したポイントは、現実の生活風景の中に、一つだけ現実にはあり得ない条件が挿入され、それによって、人間の理解を超えた出来事が起こっていくという点にある。見慣れた風景が突如、違うものになり、「常識」が通用しなくなり、日常生活の平衡感覚を失うことで不条理なめまいを覚えるというのが、このTwilight Zoneの持ち味であった。
Twilight Zoneというのは、文字通り「黄昏時の時間帯」という意味である。日本では「逢魔時(おおまがとき、大過時とも書く)」とも呼ばれる、この日没前の時間帯は不思議な魔力があり、普段では起きないような出来事が起こる、という意味が込められている。
ここ数日の日本の政治(と呼べるような代物ではないが)で起こっていたこと、もしくは、ここ数年の日本の政治で起こっていた出来事は、ずっとTwilight Zoneに入っていた状態だったのではないかと感じている。「一定のメドが経ったら辞任する」「二次補正予算が通れば辞任する」「そんな期限を設けてはいない」「ペテン師だ」云々カンヌン・・・。官僚の世界でも「隠すつもりはないが国民に公表することは考えなかった」「官邸の空気を読んで海水注入を止めた」・・・。もう、論評する気にもなれない。
とりあえず誰が嘘をついたとか、何が正しいかとか、そういうことを判断する気力さえ失うような状況で、何をコメントしてよいかもわからない状況に漂っている浮遊感だけが残る。この不思議な感覚はTwilight Zoneのようだ、と感じている。
その感覚はどこから来るのか、と考えているうちに、Twilight Zoneへの入り口を開いたのは、あの「Trust me」という言葉だったのではないだろうか、と思うようになった。
曲がりなりにも政治学を勉強する人間として、これまで言葉の大切さというのは痛切に感じてきた。政治で使われる言葉がどのような現実を示し、どのような行動を表象しているのかを考え、そこから行為者の意図や思惑、利害などを推量し、そこから論理を組み立てていくというのが政治学の学び方だろうと思う。自然科学とは異なり、政治の営みを分析するには、表に出てくる「言葉」が最も重要であり、その「言葉」を手がかりに、どのような意図と認識と利害をもって意思決定がなされていくのかを見ていくのが政治学だと考えていた。
しかし、その「言葉」があまりにもいい加減で、何を表象しているのかがまったく明らかにならなくなり、その「言葉」からは類推できないような現実が現れてくると、政治学者はまったくの無力となる。それは自然科学にとって太陽が西から上がってくるとか、酸素と水素を化合すると二酸化炭素が出てくるような驚きである。そのような驚きというか無力感を痛烈に感じたのは、やはりあの「Trust me」だった。
もちろん、これまで政治の世界では「ウソ」とも「方便」ともとれる言葉は無数にあった。しかし、なぜそこでウソをつくのか、なぜそんな方便を使うのか、ということが、なんとなくではあってもわかるような使いかたをしていた。たとえば、中曽根政権時代の衆参同日選挙で「売上税は導入しない」と言いながら消費税の論議をしたり、「米は一粒たりとも輸入しない」と言いながらウルグアイ・ラウンドでコメのミニマムアクセスを受け入れたり、といった類の話は、十分政治学的に説明のつく「ウソ」であった。政治学者もバカではないので、言葉を額面通り受け取ったりはしない。
しかし、鳩山の「Trust me」だけは、どうしても「ウソ」でしかなく、そこに利害や意図や目的があってウソをついているのではなく、何の根拠や見通しや戦略や利害や駆け引きなしにウソをついていた。ということになると、政治学的に理解することが不可能になってくる。
しかも、そうした「ウソ」をさらなる「ウソ」で塗り固め、結局、沖縄の問題はどうにも解決できないような状況に陥ってしまい、彼は首相を辞めることとなった。しかし、その時に「首相経験者は影響力を行使してはならない」と自ら述べ、政治家を引退すると言いながら、結局、次の選挙で出馬し、まだ国会議員をやっているだけでなく(この点で北海道9区の有権者にも責任はある)、自らの言に反して力いっぱい影響力を行使しようとした。しかも、その企てが失敗すると、「あいつはペテン師だ」「先方はウソをついている」などと言う。もう、政治学者はお手上げだ。
今日も永田町には国会議事堂が立ち、「内閣」と呼ばれるものは存在し、「国会議員」と呼ばれる、国の税金で雇っている人たちがいる。また、「政党」と名のつく集団があり、政党助成金なるお金が国民の税金から投入されている。こうした日常の風景の中で、本来、自分の言葉に責任をもち、「言ったことは実現する、ないしは実現するよう最大限努力する」ことを職業とする政治家が、その自覚を失い、「言った」「言わない」「ウソをついた」「ウソはついていない」という政治家として使うべきではない言葉しかしゃべらなくなった時、この国はTwilight Zoneに入り込み、そしてそこから出られなくなってしまうのだろう。Twilight Zoneに入ってしまった以上、我々は平衡感覚を失ったまま、吐き気をもよおしながら、この「人類の知らない第五次元」を漂うしかないのだろうか。
2011年5月29日日曜日
Acceptableリスクについて
前の投稿に対するコメントの返信としてAcceptableリスクについて書き始めたら長くなってしまったので、改めて投稿の形で掲載します。
Acceptableリスクというのは、個人としてどの程度のリスクを受け入れられるか、ということです。たとえば、道を歩いているとき、車にはねられるリスクがある。しかし、そのリスクを恐れて道を歩くことを止めると、どこにも行けなくなります。なので、リスクはあるけれども、道を歩く、という選択をするわけです。これがAcceptableリスクです。しかし、道を歩いていても、できるだけ車にはねられないように努力をすることはできます。歩道を歩き、信号を守り、左右をよく見て歩けば、かなりの程度、車にひかれるリスクは減ります。つまり、ある程度のリスクを想定していても、それを軽減する努力をすることはできます。
原発の場合で言うと、原発は事故を起こし、放射能漏れを起こすリスクがある。しかし、電力は必要だ。だから、ある程度のリスクを背負って原子力発電を続ける、というのがこれまでの原発推進派の政策であり、日本のエネルギー政策であったわけです。しかし、そのAcceptしたはずのリスクを「原発は安全」という神話を作り、あたかもリスクがないような宣伝をしたことは大問題です。こうなると、リスクを想定して、それをAcceptableなものかどうか判断できないような状況を作ります。そのようなことは公共政策としてあってはならないと思います。
「想定内」という言葉は原発を作る側、進める側の論理です。原発を作る側は「原発が事故を起こす」というリスクを軽減するために、さまざまな措置をとるわけです。その措置をとるにあたって、一定の「想定」を設定する必要があります。耐震構造の強度をどの程度にするのか(震度7に耐えられるようにするのか、震度8なのか、震度9なのか)、津波対策はどの程度する必要があるのか(100年に1度の津波なのか、1000年に1度の津波に備えるのか)、といったことです。こうしたリスクを想定し、「震度8に耐えられる構造で、100年に1度の津波に耐えられるようにすればよい」という前提を立てて設計をするわけです。
しかし、問題はこうした「設計上の想定」と「リスクの想定」を一緒にしてしまったことです。設計上の想定というのはものを作る際に、必ず必要になります。もし「震度9の自信と1000年に1度の津波に耐えられるようにする」とした場合、それは今回の震災には耐えられるかもしれませんが、もしそれよりも大きな地震があった場合は耐えられなくなります。つまり、いたちごっこになってしまいます。
なので、この場合、「設計上の想定」として、「震度8と100年に1度の津波」を想定し、そのうえで「それでも震度9とか1000年に1度の津波というのも来る」という「リスクの想定」をする必要があります。その場合、さすがにハードウェア(耐震構造や防潮堤)で守るのは無理なので、「もし震度9や1000年に1度の津波が来た場合のために、避難する場所を確保したり、放射線防護服を用意し、放射能対策特殊部隊を訓練しておく」といった形で対応するしかないと思います。
そのうえで、原発を作る側(推進する側)は「設計上の想定は震度8で100年に1度の津波です。もしそれ以上の震災が起こった場合、皆さんに逃げてもらうように用意します」と言った上で、「それでも原発を作っていいですか」と問いかける必要があります。その際、もちろん「原発を作らなければ、電力は足りなくなりますし、火力発電ばかり進めては二酸化炭素が増えて環境にも悪いです」という話をする必要があります。その中で、「原発を作る側がそれだけやっているのであれば、1000年に1度のリスクであればAcceptableだな」と判断するか、それとも「1000年に1度といっても明日かもしれないから、やっぱりいやだ」と思うかは、きわめて主観的な判断です。
少なくとも、日本の原発政策の最大の問題は、こうしたAcceptableリスクかどうか、ということを明示的に判断できないような状態を作っておいて、リスクを負担する側である国民をだまして原発政策を進めた、というところがあるからです。もちろん、それは意図的にだましていた部分があると思いますが、もうひとつは、自らが自分自身で作った「安全神話」の中で自己暗示にかかり、その自己暗示の結果、「設計上の想定をきちんとやっておけばリスクは回避できる」と思いこんでいた部分がある、というところが日本の原発政策の悲惨なところです。
こうした「設計上の想定」=「リスクの想定」になってしまったことが「想定外」という言葉を生み出し、それが国民にとって「だまされた感」につながっているように思います。本来ならば、すべてのリスクを想定し、それに対処しているはずなのに、そのリスクをきちんと想定しておらず、勝手に「設計上の想定」に合わせてしまっていた、ということが今回の事故で明らかになったのです。これがAcceptableリスクをめぐる、日本の原発政策のひどい部分だと思っています。
私を含め、それを指摘すべき立場の研究者がそうした点を見抜いていなかったということも大きな反省点だと思います。現在、世間は反原発という流れが強くなっていますし、それはそれで当然の反応だと思うのですが、前の投稿でも書いたように、ある種の「放射能ファシズム」のような状況になってしまうことを懸念しています。やはり冷静にリスクを考え、そのうえで、何がAcceptableリスクなのか、という判断をする必要があります。原発は必要だ/不要だという判断を他者に押しつけるような議論ではなく、原発はなぜ必要/不要で、その時のリスクやデメリットは何なのか、ということをきちんと議論できるような環境を作っていくことが大事だと思っています。
(余談ですが、私は喫煙者です。たばこがもたらす健康上のリスクも理解したうえで、そのリスクをAcceptしています。また、受動喫煙のリスクも理解しているつもりです。なので、受動喫煙のリスクをAcceptしない人の前ではたばこは吸いません。人にはそれぞれAcceptableリスクがあり、どこにラインを引くのかは個人の判断でしかないと思っています。逆に、自分の「科学的知識」が正しいとして、私に向かって「たばこを止めろ」と説教するようなこともしてほしくないと思っています。さらに言えば、法律や条例でそれを禁止するというのもどうかな、と思っています。喫煙による健康リスクを知らずに喫煙しているわけではなく、そのリスクを踏まえたうえで、それをAcceptしているので、他者にリスクを発生させないような状況であれば、自分の判断を尊重してもらいたいと思っています。)
Acceptableリスクというのは、個人としてどの程度のリスクを受け入れられるか、ということです。たとえば、道を歩いているとき、車にはねられるリスクがある。しかし、そのリスクを恐れて道を歩くことを止めると、どこにも行けなくなります。なので、リスクはあるけれども、道を歩く、という選択をするわけです。これがAcceptableリスクです。しかし、道を歩いていても、できるだけ車にはねられないように努力をすることはできます。歩道を歩き、信号を守り、左右をよく見て歩けば、かなりの程度、車にひかれるリスクは減ります。つまり、ある程度のリスクを想定していても、それを軽減する努力をすることはできます。
原発の場合で言うと、原発は事故を起こし、放射能漏れを起こすリスクがある。しかし、電力は必要だ。だから、ある程度のリスクを背負って原子力発電を続ける、というのがこれまでの原発推進派の政策であり、日本のエネルギー政策であったわけです。しかし、そのAcceptしたはずのリスクを「原発は安全」という神話を作り、あたかもリスクがないような宣伝をしたことは大問題です。こうなると、リスクを想定して、それをAcceptableなものかどうか判断できないような状況を作ります。そのようなことは公共政策としてあってはならないと思います。
「想定内」という言葉は原発を作る側、進める側の論理です。原発を作る側は「原発が事故を起こす」というリスクを軽減するために、さまざまな措置をとるわけです。その措置をとるにあたって、一定の「想定」を設定する必要があります。耐震構造の強度をどの程度にするのか(震度7に耐えられるようにするのか、震度8なのか、震度9なのか)、津波対策はどの程度する必要があるのか(100年に1度の津波なのか、1000年に1度の津波に備えるのか)、といったことです。こうしたリスクを想定し、「震度8に耐えられる構造で、100年に1度の津波に耐えられるようにすればよい」という前提を立てて設計をするわけです。
しかし、問題はこうした「設計上の想定」と「リスクの想定」を一緒にしてしまったことです。設計上の想定というのはものを作る際に、必ず必要になります。もし「震度9の自信と1000年に1度の津波に耐えられるようにする」とした場合、それは今回の震災には耐えられるかもしれませんが、もしそれよりも大きな地震があった場合は耐えられなくなります。つまり、いたちごっこになってしまいます。
なので、この場合、「設計上の想定」として、「震度8と100年に1度の津波」を想定し、そのうえで「それでも震度9とか1000年に1度の津波というのも来る」という「リスクの想定」をする必要があります。その場合、さすがにハードウェア(耐震構造や防潮堤)で守るのは無理なので、「もし震度9や1000年に1度の津波が来た場合のために、避難する場所を確保したり、放射線防護服を用意し、放射能対策特殊部隊を訓練しておく」といった形で対応するしかないと思います。
そのうえで、原発を作る側(推進する側)は「設計上の想定は震度8で100年に1度の津波です。もしそれ以上の震災が起こった場合、皆さんに逃げてもらうように用意します」と言った上で、「それでも原発を作っていいですか」と問いかける必要があります。その際、もちろん「原発を作らなければ、電力は足りなくなりますし、火力発電ばかり進めては二酸化炭素が増えて環境にも悪いです」という話をする必要があります。その中で、「原発を作る側がそれだけやっているのであれば、1000年に1度のリスクであればAcceptableだな」と判断するか、それとも「1000年に1度といっても明日かもしれないから、やっぱりいやだ」と思うかは、きわめて主観的な判断です。
少なくとも、日本の原発政策の最大の問題は、こうしたAcceptableリスクかどうか、ということを明示的に判断できないような状態を作っておいて、リスクを負担する側である国民をだまして原発政策を進めた、というところがあるからです。もちろん、それは意図的にだましていた部分があると思いますが、もうひとつは、自らが自分自身で作った「安全神話」の中で自己暗示にかかり、その自己暗示の結果、「設計上の想定をきちんとやっておけばリスクは回避できる」と思いこんでいた部分がある、というところが日本の原発政策の悲惨なところです。
こうした「設計上の想定」=「リスクの想定」になってしまったことが「想定外」という言葉を生み出し、それが国民にとって「だまされた感」につながっているように思います。本来ならば、すべてのリスクを想定し、それに対処しているはずなのに、そのリスクをきちんと想定しておらず、勝手に「設計上の想定」に合わせてしまっていた、ということが今回の事故で明らかになったのです。これがAcceptableリスクをめぐる、日本の原発政策のひどい部分だと思っています。
私を含め、それを指摘すべき立場の研究者がそうした点を見抜いていなかったということも大きな反省点だと思います。現在、世間は反原発という流れが強くなっていますし、それはそれで当然の反応だと思うのですが、前の投稿でも書いたように、ある種の「放射能ファシズム」のような状況になってしまうことを懸念しています。やはり冷静にリスクを考え、そのうえで、何がAcceptableリスクなのか、という判断をする必要があります。原発は必要だ/不要だという判断を他者に押しつけるような議論ではなく、原発はなぜ必要/不要で、その時のリスクやデメリットは何なのか、ということをきちんと議論できるような環境を作っていくことが大事だと思っています。
(余談ですが、私は喫煙者です。たばこがもたらす健康上のリスクも理解したうえで、そのリスクをAcceptしています。また、受動喫煙のリスクも理解しているつもりです。なので、受動喫煙のリスクをAcceptしない人の前ではたばこは吸いません。人にはそれぞれAcceptableリスクがあり、どこにラインを引くのかは個人の判断でしかないと思っています。逆に、自分の「科学的知識」が正しいとして、私に向かって「たばこを止めろ」と説教するようなこともしてほしくないと思っています。さらに言えば、法律や条例でそれを禁止するというのもどうかな、と思っています。喫煙による健康リスクを知らずに喫煙しているわけではなく、そのリスクを踏まえたうえで、それをAcceptしているので、他者にリスクを発生させないような状況であれば、自分の判断を尊重してもらいたいと思っています。)
2011年5月28日土曜日
「年間1ミリシーベルト」で安心できるのか?
昨日、文部科学省が学校での児童・生徒の年間被曝量を1ミリシーベルト以下に抑えることを目指す方針を打ち出した(朝日新聞の記事)。この決定自体にもいろいろ問題があるが、この決定に至るまでの過程にも疑問が残るものが多かった。いくつか気がついた点を指摘しておきたい。
まず、果たして年間1ミリシーベルトという数値は現実的なのか、という問題がある。確かに、放射線防護の観点からすると、年間1ミリシーベルトの被曝は一般公衆の上限値であり、それが一つの参照基準となるであろう。しかし、原発事故が収まっていない中で、年間1ミリシーベルトという数値を実現するのはかなり困難である。それを公的に「目指す」と発表してよいものなのか、疑問が残る。
実は平時における年間1ミリシーベルトという数値は大変厳しい数値である。放射線量は気候や地形によっても大きく影響されるが、何よりも自然界に放射線を射出する能力(放射能)を持つ物質はいくつもある。温泉の成分であるラジウムやカリウムなども放射能がある。また、大気で遮られているとはいえ、宇宙から降り注ぐ放射線も地上に到達する。こうした自然界にある放射能で被曝する量は、実に年間2.4ミリシーベルトなのである。もちろん、これは地域や気候によって違いがあるため、世界全体の平均の数値なのだが、年間1ミリシーベルトという数値はかなり厳しい設定であることがわかるだろう。
もちろん、放射線被曝は少なければ少ないほどよい。しかし、いつの間にか「年間1ミリシーベルト」が独り歩きしてしまい、それがどの程度の意味をもつものなのか、どのような健康リスクを生み出すものなのか、ほとんど考えられることなく、「年間20ミリシーベルトは高すぎる」「文科省は子供のことを考えていないのか」といった批判が巻き起こり、その批判に押される形で、文科省は現実的にかなり実現可能性の低い「年間1ミリシーベルトを目指す」ということになった。
ここに第二の問題点があるのだが、この目標はあくまでも「目指す」という努力目標である。そこには法的な強制力も、政策的な手当てもない(ただ、文科省は土壌改良の予算を計上すると言っている)。さらに言えば、この目標は「学校内での被曝」ということに限られている。学校内での生徒の滞在時間のうち、室内(放射性物質は室内では少ないため被曝量が減る)に滞在する時間を除く時間を計算し、それを登校日数で掛け算することで、年間1ミリシーベルトという数字を実現するという話になっている。
しかし、重要な問題は子供がどの程度被曝するのか、という問題であり、学校内だけでなく、学校外での被曝も考えなければならない。しかし、世間およびメディアは、文科省の新たな目標設定で溜飲を下げているような印象を持つ。もちろん、福島県内の子供を持つ親は登校時や下校後の外遊びを控えたりして可能な限りの放射線防護の措置をとるだろうと思われる。しかし、文科省がひとたび「年間1ミリシーベルトを目指す」といった瞬間、なんだか突然問題が解決したかのような雰囲気になるのは、いささか驚きがあった。
2チャンネルやツイッターなどの匿名性の高いサイバー空間では、今回の文科省の決定を「英断」とか、「福島の母の愛の勝利」といったイメージでとらえる言説が出来上がっている。これにはかなり不安を覚えた。すでに述べたように、年間1ミリシーベルトという数値は現実性の低い数値であり、文科省の設定も努力目標の設定となっており、さらに「学校内」という限定された設定であるので、結果として年間1ミリシーベルトを実現することができない可能性を含んでいるだけでなく、子供の健康リスクについての解決にはなっていないにも関わらず、すでに原発事故がなくなった可能ような騒ぎになったことに不安を覚えたのである。
その背景には、まず小佐古内閣官房参与が涙ながらに「20ミリシーベルトは高すぎる。1ミリシーベルトに近づけるべき」といった発言をしたことが根底にあるように思われる。ここで初めて、多くの人が「20ミリシーベルトは子供にとっては高い数値」という認識を持ち、「1ミリシーベルトにしなければいけない」という意識を持つようになったと思われる。
確かに、子供の放射線被曝に関しては、その影響がどのように出るのかということは明白ではなく、チェルノブイリ事故の時も、子供の甲状腺ガンが異常に多くなったため、子供への放射性ヨウ素の蓄積は大きなリスクになるということは確かである。しかし、本当に年間20ミリシーベルトが高いのかどうかは、科学的に立証する方法がない。あくまでも、「子供はリスクが高い」というところからの推測でしかない。もちろん、そのリスクがある限り、予防的な措置はとられるべきである。しかし、涙ながらに記者会見し、内閣官房参与を辞めるというニュースを見れば、多くの人が「専門家が言っているのだから、絶対にまずい」と感じたに違いない。それが結果として、「年間1ミリシーベルトでなければならない」という固定観念に変わっていったのだろうと思われる。
しかし、すでに5月1日のブログ(「リスク管理とは何か」)で述べたように、この小佐古参与の辞任劇はやや政治的なにおいのするものであり、科学的な確証がはっきりしない問題について、極端に断定的な表現を使っていた点で、科学者としての不誠実さを感じるものであった。つまり、彼は本当に「年間20ミリシーベルト」が高すぎるということを信じていたとしても、表現の仕方やメッセージの伝え方を見ると、現在の菅内閣を貶めるための演技のように見えた。
しかし、彼のメッセージは強烈であった。「専門家が言っているんだから、年間1ミリシーベルトでなければならない」という固定観念が独り歩きし、それが福島県を中心とする人たちを動かし、文部科学省の前で抗議行動をさせ、その圧力をもって、文科省は現実的には大変困難な「努力目標」を設定するという流れが出来上がった。
その結果、何が生まれたのか。それは福島県民以上に、全国的に広がった安心感である。とりあえず専門家が年間1ミリシーベルトと言い、文科省が年間1ミリシーベルトを目指すと言ったのだから、それで問題は解決した、という安心感である。しかし、これは「虚構の安心感」としか言いようがないものである。すでに述べたように、まず文科省は努力目標しか設定せず、それが達成されることは難しいだけでなく、今でも原発事故は収束しておらず、放射能は拡散しているからである。なので、文科省がどう頑張ろうと、福島第一原発が放射性物質を撒き散らしている限り、放射線の累積量は増えていくしかない。その現実をあたかもなかったかのように考えるのは虚構でしかない。
にも関わらず、文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」と言った瞬間、多くの人が安心できたのはなぜだろうか。そのひとつには「政府への不信感」と裏腹の関係になっている「お上への信頼感」のように思う。通常、「政府」と「お上」は同義語として扱われるが、政権交代による「政治主導」により、「政府」=内閣ないしは政権と「お上」=超越的な権威との違いが次第にできてきたのではないかと考えている。この間、菅内閣の情報発信や政府発表の訂正など、おおよそ信頼感とは程遠い稚拙な情報発信しかできず、危機管理や危機対応をする能力が欠如していることが明白になっているところ。また、東京電力や保安院に対しても不信感が高まっており、その意味では彼らも「政府」の中に含まれている。しかし、他方で何らかの判断基準や意思決定をする存在は必要であり、賠償や復興には「お上」の力が必要である。そのため、「政府」は信用できないけれども、超越的な存在である「お上」がきちんと判断してくれれば、それで問題が解決できる、という依存がそこにはあるように思われる。今回は、たまたま「天の声」を発してくれる「お上」が小佐古前内閣官房参与であり、その「お上」のご宣託を受けて、「年間1ミリシーベルトを目指す」という文科省も、晴れて「お上」の仲間入りをしたので、とりあえずそれを信じようとする心理が働いているように思う。
もうひとつは「求めていたものが得られた満足感」なのだろうと思う。これまで、何が正しいのかわからない、という不安と不信感の中で、「お上」である専門家が泣きながら「年間1ミリシーベルト」というご宣託を下したのだから、それを「政府」が認め、受け入れたということで、「やっぱりご宣託が正しかった」という安心感や、「何だ、やろうと思えばやれるんじゃん」という満足感を得たことが大きいのではないかと考える。
さらに、「わからないことをわかった気になった」という心理、つまり「Acceptableリスク」になった、という心理が働いたように思える。人間はさまざまなリスクのある社会に生きている。道を歩けば交通事故に合うかもしれず、食品添加物を食べれば体調が悪くなるかもしれず、スポーツをすればけがをするかもしれない。しかし、そういうリスクを人間は一定程度受容している。その受容の程度は人によって大きく違う。この点については、また別の機会できちんと論じたいが、要は、文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」という保証を与えることで、一応の安心感を得、その程度のリスクであれば受容できるという気になった、という点が大きい。実際は年間1ミリシーベルトを上回る可能性もあるが、その可能性に目をつぶることで、安心感が出てきたといえるであろう。言い方を変えれば、もし年間1ミリシーベルトにならなければ、また文科省を非難すればよいという判断ができるようになったのである。こうした責任の移転(なすりつけ、英語で言うとBlame shifting)が起こることで、人間は安心感を得るものなのだと考えられる。
もうひとつ挙げるとすれば「遠隔地当事者の満足」ということがあるだろう。「年間1ミリシーベルト」をめぐる議論は福島県で実際に放射線被曝に直面している人たちだけの問題ではなくなっている。メディアを通じ、全国的な問題として関心を集め、そして全国的に不安が広がっていた。また、これらの人々が、直接放射線被曝の問題に直面しなくとも、ツイッターなどを通じて「当事者」としての意見を発信し、そこで一種の言論空間を作っていくことになった。これはベネティクト・アンダーソンの『想像の共同体』で出てくる「遠隔地ナショナリズム」の現代版として「遠隔地当事者意識」とでも名付けられるものであり、福島県の人々が直面している問題を共有し、共感し、そしてそこから「遠隔地当事者」としての関与を始めていく。そうなると、直接の放射線被曝の問題には直面していないため、本当にリスクが回避できるという保証もないのに、それで安心してしまうという心理が働いたのではないかと考えられる。また、こうした「遠隔地当事者」が安心し、満足することで、全国的に盛り上がった文科省への非難は止み、その結果、このイシューはイシューとしての価値を失ってしまったため、文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」と言った瞬間、福島県の人たちの声も聞こえなくなってしまったのである。
このような理由から、「虚構の安心感」が成立しているが、しかし、それはあくまでも虚構でしかなく、現実から目をそらし、とりあえず何とか安心したいという群集心理が働いているように思う。このような危機の状態において、その群集心理が働くことは不可思議ではないし、それなりの理解もする。しかし、こうした群集心理を増幅する形でメディアがニュースを報じ、本当のリスク、本当に心配しなければいけないことが覆い隠されてしまっていることが妙に気になる。
また、こうした群集心理が、ツイッターや2チャンネルといった匿名性が高く、感情的な議論が支配的になりがちな言論空間において、さらに増幅され、そうした不信感や不安感、怒りや憎しみ、決めつけと他者批判が蔓延しているのを見ると、非常に不気味なものを感じる。直感的に、こうした不安な状況がメディアによって増幅され、さらにツイッターなどで再増幅されることで、いつの間にか「年間1ミリシーベルト」は「ご宣託」となり、小佐古氏は「神(ツイッターや2チャンネルのボキャブラリーとしては「凄い人」という意味らしい)」としての権威をもつようになり、それに反対する政府の決定や、それを疑う者に対する排除の論理が働くようになる姿を見ると、なんとなく「放射能ファシズム」みたいなものが立ち現われてきているような不気味さすら感じる。大事なことは、冷静にものを考え、わからないことはわからないと割り切り、無理やり答えを求めないこと、そしてどのようにリスクと付き合うのか、何を「Acceptableリスク」とするのかを考えておくことなのだろうと思う。
まず、果たして年間1ミリシーベルトという数値は現実的なのか、という問題がある。確かに、放射線防護の観点からすると、年間1ミリシーベルトの被曝は一般公衆の上限値であり、それが一つの参照基準となるであろう。しかし、原発事故が収まっていない中で、年間1ミリシーベルトという数値を実現するのはかなり困難である。それを公的に「目指す」と発表してよいものなのか、疑問が残る。
実は平時における年間1ミリシーベルトという数値は大変厳しい数値である。放射線量は気候や地形によっても大きく影響されるが、何よりも自然界に放射線を射出する能力(放射能)を持つ物質はいくつもある。温泉の成分であるラジウムやカリウムなども放射能がある。また、大気で遮られているとはいえ、宇宙から降り注ぐ放射線も地上に到達する。こうした自然界にある放射能で被曝する量は、実に年間2.4ミリシーベルトなのである。もちろん、これは地域や気候によって違いがあるため、世界全体の平均の数値なのだが、年間1ミリシーベルトという数値はかなり厳しい設定であることがわかるだろう。
もちろん、放射線被曝は少なければ少ないほどよい。しかし、いつの間にか「年間1ミリシーベルト」が独り歩きしてしまい、それがどの程度の意味をもつものなのか、どのような健康リスクを生み出すものなのか、ほとんど考えられることなく、「年間20ミリシーベルトは高すぎる」「文科省は子供のことを考えていないのか」といった批判が巻き起こり、その批判に押される形で、文科省は現実的にかなり実現可能性の低い「年間1ミリシーベルトを目指す」ということになった。
ここに第二の問題点があるのだが、この目標はあくまでも「目指す」という努力目標である。そこには法的な強制力も、政策的な手当てもない(ただ、文科省は土壌改良の予算を計上すると言っている)。さらに言えば、この目標は「学校内での被曝」ということに限られている。学校内での生徒の滞在時間のうち、室内(放射性物質は室内では少ないため被曝量が減る)に滞在する時間を除く時間を計算し、それを登校日数で掛け算することで、年間1ミリシーベルトという数字を実現するという話になっている。
しかし、重要な問題は子供がどの程度被曝するのか、という問題であり、学校内だけでなく、学校外での被曝も考えなければならない。しかし、世間およびメディアは、文科省の新たな目標設定で溜飲を下げているような印象を持つ。もちろん、福島県内の子供を持つ親は登校時や下校後の外遊びを控えたりして可能な限りの放射線防護の措置をとるだろうと思われる。しかし、文科省がひとたび「年間1ミリシーベルトを目指す」といった瞬間、なんだか突然問題が解決したかのような雰囲気になるのは、いささか驚きがあった。
2チャンネルやツイッターなどの匿名性の高いサイバー空間では、今回の文科省の決定を「英断」とか、「福島の母の愛の勝利」といったイメージでとらえる言説が出来上がっている。これにはかなり不安を覚えた。すでに述べたように、年間1ミリシーベルトという数値は現実性の低い数値であり、文科省の設定も努力目標の設定となっており、さらに「学校内」という限定された設定であるので、結果として年間1ミリシーベルトを実現することができない可能性を含んでいるだけでなく、子供の健康リスクについての解決にはなっていないにも関わらず、すでに原発事故がなくなった可能ような騒ぎになったことに不安を覚えたのである。
その背景には、まず小佐古内閣官房参与が涙ながらに「20ミリシーベルトは高すぎる。1ミリシーベルトに近づけるべき」といった発言をしたことが根底にあるように思われる。ここで初めて、多くの人が「20ミリシーベルトは子供にとっては高い数値」という認識を持ち、「1ミリシーベルトにしなければいけない」という意識を持つようになったと思われる。
確かに、子供の放射線被曝に関しては、その影響がどのように出るのかということは明白ではなく、チェルノブイリ事故の時も、子供の甲状腺ガンが異常に多くなったため、子供への放射性ヨウ素の蓄積は大きなリスクになるということは確かである。しかし、本当に年間20ミリシーベルトが高いのかどうかは、科学的に立証する方法がない。あくまでも、「子供はリスクが高い」というところからの推測でしかない。もちろん、そのリスクがある限り、予防的な措置はとられるべきである。しかし、涙ながらに記者会見し、内閣官房参与を辞めるというニュースを見れば、多くの人が「専門家が言っているのだから、絶対にまずい」と感じたに違いない。それが結果として、「年間1ミリシーベルトでなければならない」という固定観念に変わっていったのだろうと思われる。
しかし、すでに5月1日のブログ(「リスク管理とは何か」)で述べたように、この小佐古参与の辞任劇はやや政治的なにおいのするものであり、科学的な確証がはっきりしない問題について、極端に断定的な表現を使っていた点で、科学者としての不誠実さを感じるものであった。つまり、彼は本当に「年間20ミリシーベルト」が高すぎるということを信じていたとしても、表現の仕方やメッセージの伝え方を見ると、現在の菅内閣を貶めるための演技のように見えた。
しかし、彼のメッセージは強烈であった。「専門家が言っているんだから、年間1ミリシーベルトでなければならない」という固定観念が独り歩きし、それが福島県を中心とする人たちを動かし、文部科学省の前で抗議行動をさせ、その圧力をもって、文科省は現実的には大変困難な「努力目標」を設定するという流れが出来上がった。
その結果、何が生まれたのか。それは福島県民以上に、全国的に広がった安心感である。とりあえず専門家が年間1ミリシーベルトと言い、文科省が年間1ミリシーベルトを目指すと言ったのだから、それで問題は解決した、という安心感である。しかし、これは「虚構の安心感」としか言いようがないものである。すでに述べたように、まず文科省は努力目標しか設定せず、それが達成されることは難しいだけでなく、今でも原発事故は収束しておらず、放射能は拡散しているからである。なので、文科省がどう頑張ろうと、福島第一原発が放射性物質を撒き散らしている限り、放射線の累積量は増えていくしかない。その現実をあたかもなかったかのように考えるのは虚構でしかない。
にも関わらず、文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」と言った瞬間、多くの人が安心できたのはなぜだろうか。そのひとつには「政府への不信感」と裏腹の関係になっている「お上への信頼感」のように思う。通常、「政府」と「お上」は同義語として扱われるが、政権交代による「政治主導」により、「政府」=内閣ないしは政権と「お上」=超越的な権威との違いが次第にできてきたのではないかと考えている。この間、菅内閣の情報発信や政府発表の訂正など、おおよそ信頼感とは程遠い稚拙な情報発信しかできず、危機管理や危機対応をする能力が欠如していることが明白になっているところ。また、東京電力や保安院に対しても不信感が高まっており、その意味では彼らも「政府」の中に含まれている。しかし、他方で何らかの判断基準や意思決定をする存在は必要であり、賠償や復興には「お上」の力が必要である。そのため、「政府」は信用できないけれども、超越的な存在である「お上」がきちんと判断してくれれば、それで問題が解決できる、という依存がそこにはあるように思われる。今回は、たまたま「天の声」を発してくれる「お上」が小佐古前内閣官房参与であり、その「お上」のご宣託を受けて、「年間1ミリシーベルトを目指す」という文科省も、晴れて「お上」の仲間入りをしたので、とりあえずそれを信じようとする心理が働いているように思う。
もうひとつは「求めていたものが得られた満足感」なのだろうと思う。これまで、何が正しいのかわからない、という不安と不信感の中で、「お上」である専門家が泣きながら「年間1ミリシーベルト」というご宣託を下したのだから、それを「政府」が認め、受け入れたということで、「やっぱりご宣託が正しかった」という安心感や、「何だ、やろうと思えばやれるんじゃん」という満足感を得たことが大きいのではないかと考える。
さらに、「わからないことをわかった気になった」という心理、つまり「Acceptableリスク」になった、という心理が働いたように思える。人間はさまざまなリスクのある社会に生きている。道を歩けば交通事故に合うかもしれず、食品添加物を食べれば体調が悪くなるかもしれず、スポーツをすればけがをするかもしれない。しかし、そういうリスクを人間は一定程度受容している。その受容の程度は人によって大きく違う。この点については、また別の機会できちんと論じたいが、要は、文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」という保証を与えることで、一応の安心感を得、その程度のリスクであれば受容できるという気になった、という点が大きい。実際は年間1ミリシーベルトを上回る可能性もあるが、その可能性に目をつぶることで、安心感が出てきたといえるであろう。言い方を変えれば、もし年間1ミリシーベルトにならなければ、また文科省を非難すればよいという判断ができるようになったのである。こうした責任の移転(なすりつけ、英語で言うとBlame shifting)が起こることで、人間は安心感を得るものなのだと考えられる。
もうひとつ挙げるとすれば「遠隔地当事者の満足」ということがあるだろう。「年間1ミリシーベルト」をめぐる議論は福島県で実際に放射線被曝に直面している人たちだけの問題ではなくなっている。メディアを通じ、全国的な問題として関心を集め、そして全国的に不安が広がっていた。また、これらの人々が、直接放射線被曝の問題に直面しなくとも、ツイッターなどを通じて「当事者」としての意見を発信し、そこで一種の言論空間を作っていくことになった。これはベネティクト・アンダーソンの『想像の共同体』で出てくる「遠隔地ナショナリズム」の現代版として「遠隔地当事者意識」とでも名付けられるものであり、福島県の人々が直面している問題を共有し、共感し、そしてそこから「遠隔地当事者」としての関与を始めていく。そうなると、直接の放射線被曝の問題には直面していないため、本当にリスクが回避できるという保証もないのに、それで安心してしまうという心理が働いたのではないかと考えられる。また、こうした「遠隔地当事者」が安心し、満足することで、全国的に盛り上がった文科省への非難は止み、その結果、このイシューはイシューとしての価値を失ってしまったため、文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」と言った瞬間、福島県の人たちの声も聞こえなくなってしまったのである。
このような理由から、「虚構の安心感」が成立しているが、しかし、それはあくまでも虚構でしかなく、現実から目をそらし、とりあえず何とか安心したいという群集心理が働いているように思う。このような危機の状態において、その群集心理が働くことは不可思議ではないし、それなりの理解もする。しかし、こうした群集心理を増幅する形でメディアがニュースを報じ、本当のリスク、本当に心配しなければいけないことが覆い隠されてしまっていることが妙に気になる。
また、こうした群集心理が、ツイッターや2チャンネルといった匿名性が高く、感情的な議論が支配的になりがちな言論空間において、さらに増幅され、そうした不信感や不安感、怒りや憎しみ、決めつけと他者批判が蔓延しているのを見ると、非常に不気味なものを感じる。直感的に、こうした不安な状況がメディアによって増幅され、さらにツイッターなどで再増幅されることで、いつの間にか「年間1ミリシーベルト」は「ご宣託」となり、小佐古氏は「神(ツイッターや2チャンネルのボキャブラリーとしては「凄い人」という意味らしい)」としての権威をもつようになり、それに反対する政府の決定や、それを疑う者に対する排除の論理が働くようになる姿を見ると、なんとなく「放射能ファシズム」みたいなものが立ち現われてきているような不気味さすら感じる。大事なことは、冷静にものを考え、わからないことはわからないと割り切り、無理やり答えを求めないこと、そしてどのようにリスクと付き合うのか、何を「Acceptableリスク」とするのかを考えておくことなのだろうと思う。
2011年5月26日木曜日
吉田所長とジャック・バウアー
普段は一日一本だけブログに投稿するのですが、今日はもうひとつ気になる話題があるので、こちらは少し余談気味に書いてみたいと思います。
実は、あまり表に出して言っていることではないのですが、私はアメリカのドラマ『24』という番組の日本語版制作スタッフとして翻訳監修を担当していました。監修なので翻訳家さんの原稿をチェックするという仕事で、大したことはしていないのですが、何にせよアメリカで放送してすぐの素材を見ることができるという役得にひかれてシーズン1からラストシーズンまで翻訳監修をやらせてもらいました。
『24』についてはご存知の方も多いかと思いますが、アメリカのCTU(Counter Terrorism Unit:テロ対策ユニット)という架空の組織に属しているジャック・バウアーというエージェントが主人公のドラマで、1時間番組で1時間の出来事を描くというリアルタイム・ドラマです。24回もののシリーズなので、24時間分、つまり、テロが起こる、ないしは計画されてから24時間で解決するというドラマです。ドラマの作りもしっかりしており、ハリウッド映画顔負けの予算がかかっていて、エンターテイメントとしては優れたドラマです。
この『24』の主人公であるジャック・バウアー(キーファー・サザーランドが演じている)の特徴は(1)上司の言うことを聞かない(時には大統領の命令ですら、おかしいと思えば無視する)、(2)国家のために自分をささげる、(3)必ず批判や懲罰の対象となるがそれを恐れない、(4)与えられた条件はかなり悲惨、(5)シーズンに1度は死にかける、(6)最後はなんだかんだ言って問題を解決し、アメリカないしは世界を救う、というところだと思います。
シーズン1からラストシーズンまで、延々と『24』に付き合ったので、かなりジャック・バウアーの行動様式や考え方(キャラクターとしての設定という意味ですが)は馴染んでいますが、今回の福島原発の事故の現場でがんばっている吉田所長の置かれている立場とジャック・バウアーとの類似性が高いということに気がつきました。
すでに先ほどのブログでも書きましたが、東電幹部が官邸の「空気」を読んで、海水注入を控えるように決定したにも関わらず、海水注入を継続する必要を判断し、独断でそれを継続し、結果的に東電から処分を受けるということになったあたりは、ジャック・バウアーの特徴である(1)上司の言うことを聞かない、(2)自分をささげる、(3)批判や懲罰を恐れない、(4)与えられた条件は悲惨という四つの項目に当てはまり、幸いなことに(5)の死にかけるというのは避けてほしいと思いますが、現場が現場なだけに、ちょっと心配で、(6)の問題解決を導いてくれることは、ちょっと難しいところですが、ぜひ期待したいところです。
ちょっと話はずれますが、現在、小惑星イトカワから帰還した「はやぶさ」をめぐる映画が3本も同時に作成されています。確かに「はやぶさ」は感動的なストーリーですが、さすがに3本も映画にすることはないだろう・・・、と思います。むしろ、東電の吉田所長こそ『24』のジャック・バウアー並みの主役級の活躍をしているわけで、彼のことこそ映画にすべきだろうと思います。
いずれにしても、『24』のように都合よく問題が解決してくれるとは思いますが、こういう時にはジャック・バウアーのようなヒーローが必要なのだろうと思います。といっても、現場の判断が常に正しいとは思いませんし(『踊る大捜査線シリーズ』も『24』的ですね)、きちんと責任を取るべきなのは政治家であり、東電幹部ではありますが、アホな上司や政治家に責任をとるという自覚と覚悟がない以上、ヒーロー待望論になってしまうのも仕方がないでしょうね。
ちなみに『24』は9.11同時多発テロの前にシーズン1の放送が始まったという点で、同時代的に面白かったのですが、興味深かったのは、イラク戦争開戦前夜のアメリカ国内で放送された『24』の番宣CMで、「In the time like this, we need some one like him」というコピーとともにキーファー・サザーランド演じるジャック・バウアーが炎をくぐって歩いてくるシーンがあったことで、このCMをたまたま出張中に見て大変感動した記憶があります。『24』はテロリストを拷問したり、かなり法と規範を無視するといった、眉をしかめるところも多く、批判も多くありますが、ブッシュJr.政権時代のアメリカの空気を色濃く反映したドラマだったこともあり、かなり多くの人から支持されていたのではないかと思います。
実は、あまり表に出して言っていることではないのですが、私はアメリカのドラマ『24』という番組の日本語版制作スタッフとして翻訳監修を担当していました。監修なので翻訳家さんの原稿をチェックするという仕事で、大したことはしていないのですが、何にせよアメリカで放送してすぐの素材を見ることができるという役得にひかれてシーズン1からラストシーズンまで翻訳監修をやらせてもらいました。
『24』についてはご存知の方も多いかと思いますが、アメリカのCTU(Counter Terrorism Unit:テロ対策ユニット)という架空の組織に属しているジャック・バウアーというエージェントが主人公のドラマで、1時間番組で1時間の出来事を描くというリアルタイム・ドラマです。24回もののシリーズなので、24時間分、つまり、テロが起こる、ないしは計画されてから24時間で解決するというドラマです。ドラマの作りもしっかりしており、ハリウッド映画顔負けの予算がかかっていて、エンターテイメントとしては優れたドラマです。
この『24』の主人公であるジャック・バウアー(キーファー・サザーランドが演じている)の特徴は(1)上司の言うことを聞かない(時には大統領の命令ですら、おかしいと思えば無視する)、(2)国家のために自分をささげる、(3)必ず批判や懲罰の対象となるがそれを恐れない、(4)与えられた条件はかなり悲惨、(5)シーズンに1度は死にかける、(6)最後はなんだかんだ言って問題を解決し、アメリカないしは世界を救う、というところだと思います。
シーズン1からラストシーズンまで、延々と『24』に付き合ったので、かなりジャック・バウアーの行動様式や考え方(キャラクターとしての設定という意味ですが)は馴染んでいますが、今回の福島原発の事故の現場でがんばっている吉田所長の置かれている立場とジャック・バウアーとの類似性が高いということに気がつきました。
すでに先ほどのブログでも書きましたが、東電幹部が官邸の「空気」を読んで、海水注入を控えるように決定したにも関わらず、海水注入を継続する必要を判断し、独断でそれを継続し、結果的に東電から処分を受けるということになったあたりは、ジャック・バウアーの特徴である(1)上司の言うことを聞かない、(2)自分をささげる、(3)批判や懲罰を恐れない、(4)与えられた条件は悲惨という四つの項目に当てはまり、幸いなことに(5)の死にかけるというのは避けてほしいと思いますが、現場が現場なだけに、ちょっと心配で、(6)の問題解決を導いてくれることは、ちょっと難しいところですが、ぜひ期待したいところです。
ちょっと話はずれますが、現在、小惑星イトカワから帰還した「はやぶさ」をめぐる映画が3本も同時に作成されています。確かに「はやぶさ」は感動的なストーリーですが、さすがに3本も映画にすることはないだろう・・・、と思います。むしろ、東電の吉田所長こそ『24』のジャック・バウアー並みの主役級の活躍をしているわけで、彼のことこそ映画にすべきだろうと思います。
いずれにしても、『24』のように都合よく問題が解決してくれるとは思いますが、こういう時にはジャック・バウアーのようなヒーローが必要なのだろうと思います。といっても、現場の判断が常に正しいとは思いませんし(『踊る大捜査線シリーズ』も『24』的ですね)、きちんと責任を取るべきなのは政治家であり、東電幹部ではありますが、アホな上司や政治家に責任をとるという自覚と覚悟がない以上、ヒーロー待望論になってしまうのも仕方がないでしょうね。
ちなみに『24』は9.11同時多発テロの前にシーズン1の放送が始まったという点で、同時代的に面白かったのですが、興味深かったのは、イラク戦争開戦前夜のアメリカ国内で放送された『24』の番宣CMで、「In the time like this, we need some one like him」というコピーとともにキーファー・サザーランド演じるジャック・バウアーが炎をくぐって歩いてくるシーンがあったことで、このCMをたまたま出張中に見て大変感動した記憶があります。『24』はテロリストを拷問したり、かなり法と規範を無視するといった、眉をしかめるところも多く、批判も多くありますが、ブッシュJr.政権時代のアメリカの空気を色濃く反映したドラマだったこともあり、かなり多くの人から支持されていたのではないかと思います。
恐るべき忖度政治
日本語には外国語に訳しにくい言葉がいくつもある。そのひとつが「忖度」だろう。日本語の意味も正確に記述するのが難しいが、辞書的にいえば「他者の気持ちを推し量ること」とか「慮る(これも意味が今一つ分かりにくい)」ということであろう。平たく言えば「(相手の)空気を読む」ということだ。英語に直せばsurmiseか、guess one's thinkingといったところになるだろう。
ただ、この「忖度」という行為は、現代日本政治の最重要なアクションなのかもしれない、と感じている。そう思うのは5月26日の東京電力と統合対策室の記者会見で武藤東京電力副社長が言った一言があまりにもショッキングだったからである。
それは、「海水注入に向けて努力していたが、官邸の中の(首相の了解が得られていないという)空気が伝えられたので中断を決めた。IAEA(国際原子力機関)の調査団が来ており、事実関係を明らかにするため、聞き取り調査し、所長から報告があった」という発言であった(引用元:毎日新聞)。
ここ数日世間を騒がせていた「海水の注水中止」をめぐる「誰が言った、言わない問題」の根っこには「首相の了解が得られていない『空気』があった」。『空気』で判断し、『空気』で行動していたのである。ニュース速報やテレビなどではここに注目した議論はほとんどなく、発言の訂正が繰り返されることに対する不満や不信感に注目が当たっていたし、ツイッターなどでも、東電の指示に従わず海水注入を続けた吉田所長を処分するという東電幹部の判断に対する批判と揶揄がほとんどであるように思われる。
しかし、何を差し置いても恐ろしいのは、首相の指示が明示的にあったわけではなく、連絡役として官邸に詰めていた東電のリエゾン(武黒前副社長と思われる)が「感じていた」「空気」で判断していたということである。こうなると、いったい誰に責任があり、誰の判断が働いたのか、まったくわからなくなる。そうなれば指揮命令系統が混乱するだけでなく、その「空気」を読み間違えていたらどうなるのか、といった問題が発生する。
こうした危機に直面した状況で、相手のことを慮り、最高意思決定者の「心の中を推し量る」資格を東電のリエゾンは持っているのだろうか。結果的に現場の吉田所長の独断(この場合は英断と言うべきだろう)で海水注入は続けられたし、結果的にすでに燃料棒が溶解している状態だったのだから、海水注入が続けられたとしても状況はそれほど大きく変わったとは言えないと思われるが、それでも、もしこの「首相の空気を読」んだ結果、大事故につながっていたとしたら、いったい誰が責任をとることになるのだろうか。首相?リエゾン(武黒)?東電幹部?彼らは一体どんな責任をとることができるのだろうか?辞職?給料返上?被災者と一緒に避難所生活?
こうした「空気を読む」忖度政治がまかり通るのは、これまでの原子力ムラの行動様式が「腹芸」や「みなまで言うな」的なコミュニケーションで成り立っていたからであろう。彼らは利害を共にする政治家や官僚、自治体幹部などと、はっきりとものを言わず、お互い忖度しあいながら意思決定をしてきた。それがこうした危機の真っただ中にあっても、無意識のうちに出てきたのである。こういう状態は、グレハム・アリソンが書いた『決定の本質』の第二モデルにぴったり当てはまる。アリソンの第二モデルとは、簡単にいえば、官僚や政策決定者は危機の時にあってもSOP(Standard Operational Procedure:標準行動手続き)に従って行動する、というものである。つまり、東電の幹部もこうしたSOPにとらわれ、明示的な意思決定と指揮命令に従わなければならない、という認識にならなかったのであろう。
これまでも「原子力ムラ」の世界を批判し、その滅茶苦茶ぶりは知っていたつもりであるが、今回の武藤副社長による一言にはかなり衝撃を受けた。まだまだ自分の修行不足を感じる。
ただ、この「忖度」という行為は、現代日本政治の最重要なアクションなのかもしれない、と感じている。そう思うのは5月26日の東京電力と統合対策室の記者会見で武藤東京電力副社長が言った一言があまりにもショッキングだったからである。
それは、「海水注入に向けて努力していたが、官邸の中の(首相の了解が得られていないという)空気が伝えられたので中断を決めた。IAEA(国際原子力機関)の調査団が来ており、事実関係を明らかにするため、聞き取り調査し、所長から報告があった」という発言であった(引用元:毎日新聞)。
ここ数日世間を騒がせていた「海水の注水中止」をめぐる「誰が言った、言わない問題」の根っこには「首相の了解が得られていない『空気』があった」。『空気』で判断し、『空気』で行動していたのである。ニュース速報やテレビなどではここに注目した議論はほとんどなく、発言の訂正が繰り返されることに対する不満や不信感に注目が当たっていたし、ツイッターなどでも、東電の指示に従わず海水注入を続けた吉田所長を処分するという東電幹部の判断に対する批判と揶揄がほとんどであるように思われる。
しかし、何を差し置いても恐ろしいのは、首相の指示が明示的にあったわけではなく、連絡役として官邸に詰めていた東電のリエゾン(武黒前副社長と思われる)が「感じていた」「空気」で判断していたということである。こうなると、いったい誰に責任があり、誰の判断が働いたのか、まったくわからなくなる。そうなれば指揮命令系統が混乱するだけでなく、その「空気」を読み間違えていたらどうなるのか、といった問題が発生する。
こうした危機に直面した状況で、相手のことを慮り、最高意思決定者の「心の中を推し量る」資格を東電のリエゾンは持っているのだろうか。結果的に現場の吉田所長の独断(この場合は英断と言うべきだろう)で海水注入は続けられたし、結果的にすでに燃料棒が溶解している状態だったのだから、海水注入が続けられたとしても状況はそれほど大きく変わったとは言えないと思われるが、それでも、もしこの「首相の空気を読」んだ結果、大事故につながっていたとしたら、いったい誰が責任をとることになるのだろうか。首相?リエゾン(武黒)?東電幹部?彼らは一体どんな責任をとることができるのだろうか?辞職?給料返上?被災者と一緒に避難所生活?
こうした「空気を読む」忖度政治がまかり通るのは、これまでの原子力ムラの行動様式が「腹芸」や「みなまで言うな」的なコミュニケーションで成り立っていたからであろう。彼らは利害を共にする政治家や官僚、自治体幹部などと、はっきりとものを言わず、お互い忖度しあいながら意思決定をしてきた。それがこうした危機の真っただ中にあっても、無意識のうちに出てきたのである。こういう状態は、グレハム・アリソンが書いた『決定の本質』の第二モデルにぴったり当てはまる。アリソンの第二モデルとは、簡単にいえば、官僚や政策決定者は危機の時にあってもSOP(Standard Operational Procedure:標準行動手続き)に従って行動する、というものである。つまり、東電の幹部もこうしたSOPにとらわれ、明示的な意思決定と指揮命令に従わなければならない、という認識にならなかったのであろう。
これまでも「原子力ムラ」の世界を批判し、その滅茶苦茶ぶりは知っていたつもりであるが、今回の武藤副社長による一言にはかなり衝撃を受けた。まだまだ自分の修行不足を感じる。
2011年5月24日火曜日
「大震災と宇宙技術」というにはちょっと足りない
本日付の読売新聞の解説ページで、解説委員の知野恵子さんの「大震災と宇宙技術」という記事が掲載されていた。残念ながらオンラインの記事にはなっていないようなので、リンクを張ることはできませんが、ちょっと気になったので取り上げておきたいと思います。
大手の新聞では、宇宙関連の記者・解説委員は多くが科学部系の出身で、朝日だと辻篤子さん、日経新聞は滝順一さん、NHKだと室山哲也さんなどが知られていますが、必ずしも宇宙を中心に仕事をされているというわけではなく、科学技術全般をカバーしている中で宇宙を取り扱うという立ち位置であるのに対し、知野さんは科学技術全般も見ていますが、宇宙が得意な解説委員の方で、業界では一目置かれる存在となっています。
しばしば、文科省寄りとも思える記事が出るかと思えば、火の出るような文科省のプロジェクト批判をすることもあり、その意味では大変興味深い記事が多く、わざわざ読売新聞を購読しているのも、知野さんの記事が出るから、ということが一つの理由になっています。
さて、その知野さんが書かれた記事ですが、今回の記事は半分納得、半分不満足という感じでした。納得したのは、日本の衛星の影が薄いという点です。これはすでに「情報収集衛星は震災の役には立たない」など、過去のブログの記事で書かせてもらったトーンと同じですが、知野さんのコメントはさらに厳しく、測量会社のパスコ(地図作成の大手)はドイツのTerra SAR-Xを使ったことや、福島原発の画像がアメリカのWorld Viewという衛星を使ったということを指摘しています。
また、JAXAの衛星に継続性がないということも、すでに指摘した点で、「だいち(ALOS)」の後継機がない問題だけが指摘されていますが、それ以上に問題なのは、過去の地球観測衛星が搭載しているセンサーに一貫性がなく、継続したデータを取得できないことがありますが、この点は知野さんは指摘されていないですが、同じく継続性の問題としてあります。
知野さんの結論では、「どんな災害を想定して衛星を使うのかや観測能力などについて国の方針を検討すべきだ」というメッセージが出されています。これも納得です。現在、私がメンバーとなっている内閣官房宇宙開発戦略本部専門調査会準天頂衛星推進検討ワーキンググループ(長い!)と並行して、地球観測衛星推進検討ワーキンググループがありますが、まだ十分が議論が進んでおらず、何を議論するのかということもきちんと定まっていない感じです。今回の震災を一つのベンチマークとしてどのような地球観測衛星戦略を作るかを考える時期に来ていると思うのですが、なかなか動きがないように見えます。4月に入って第三回目の地球観測WGが開催され、そこでWGの検討課題が整理されていますが(会合資料)、非常に多岐にわたっている半面、議論の焦点が絞られていないような印象を受けています。また、震災との関連があまり前面に出てきていないところもちょっと気になっています。その意味では知野さんの記事が指摘していることは適切だと思われます。
ただ、逆に知野さんの記事で気になることもいくつかあります。一つは「だいち」の分解能(解像度)が低く、「画像が粗い」という点です。これはすでにブログで指摘したことですが、分解能と観測幅の関係があり、用途によって分解能は低くても観測幅が必要な場合と、観測幅が狭くても分解能が高い画像が必要な場合があります。そのため、衛星は「ベストミックス」が必要で、分解能が高ければよいというのはかなり単純な議論です。なので、その点は残念です。
また、知野さんの議論で気になる点は地球観測にしか焦点が当たっていない点です。紙幅の問題もあるとは思いますが、今回の震災で重要な役割を果たした「宇宙技術」は地球観測衛星ではなく、むしろ通信衛星だったと思います。この点もすでにブログで書いた点ですが、地上系の通信網が断絶した場合、通信衛星しかライフラインを支えることができなかったのですが、その点を指摘することが重要なのではないかと考えています。その点で不満足です。
また、情報収集衛星にこだわっている点も若干不満が残りました。こちらもその理由はすでにブログで述べましたが、情報収集衛星はこうした災害にはあまり役に立たない衛星で、農水省や国交省などのユーザーとなる官庁がタスキング(どこの地点を撮像してほしいといったリクエスト)をかけるルートが確立されていないため、情報収集衛星の画像を救助や復興に使えないような状況にあるため、官庁が使っていないのは当然なのです。もちろん、それが「建前」と合致していないという指摘は正しいですし、ジャーナリストとしては情報収集衛星の実態を暴きたいという意図が働くため、情報収集衛星を取り上げるのは良くわかりますが、しかし、情報収集衛星が使われていないということをことさら取り上げても、あまり生産的な議論ではないような気がしています。
こういう混乱を避けるためにも、情報収集衛星はストレートに偵察衛星だと言うべきであり、それを下手にごまかそうとするから、つまらない議論がずっと続くという不幸が終わらないように思っています。まあ、それで世の中が回っているので、たぶん誰も変えようとはしないのでしょうけどね。
いずれにしても、日本における宇宙開発を巡る報道、分析はまだまだ層が薄く、十分にカバーされているとは言えない状態です。まあ、社会の中で宇宙開発が占める位置を考えれば、それは仕方のないことなのかもしれませんが、残念な感じもします。人口が1億2千万いる国家で、宇宙開発の主要国でありながら、ジャーナリストや研究者の層が薄いというのは、なんとも寂しい限りです。
大手の新聞では、宇宙関連の記者・解説委員は多くが科学部系の出身で、朝日だと辻篤子さん、日経新聞は滝順一さん、NHKだと室山哲也さんなどが知られていますが、必ずしも宇宙を中心に仕事をされているというわけではなく、科学技術全般をカバーしている中で宇宙を取り扱うという立ち位置であるのに対し、知野さんは科学技術全般も見ていますが、宇宙が得意な解説委員の方で、業界では一目置かれる存在となっています。
しばしば、文科省寄りとも思える記事が出るかと思えば、火の出るような文科省のプロジェクト批判をすることもあり、その意味では大変興味深い記事が多く、わざわざ読売新聞を購読しているのも、知野さんの記事が出るから、ということが一つの理由になっています。
さて、その知野さんが書かれた記事ですが、今回の記事は半分納得、半分不満足という感じでした。納得したのは、日本の衛星の影が薄いという点です。これはすでに「情報収集衛星は震災の役には立たない」など、過去のブログの記事で書かせてもらったトーンと同じですが、知野さんのコメントはさらに厳しく、測量会社のパスコ(地図作成の大手)はドイツのTerra SAR-Xを使ったことや、福島原発の画像がアメリカのWorld Viewという衛星を使ったということを指摘しています。
また、JAXAの衛星に継続性がないということも、すでに指摘した点で、「だいち(ALOS)」の後継機がない問題だけが指摘されていますが、それ以上に問題なのは、過去の地球観測衛星が搭載しているセンサーに一貫性がなく、継続したデータを取得できないことがありますが、この点は知野さんは指摘されていないですが、同じく継続性の問題としてあります。
知野さんの結論では、「どんな災害を想定して衛星を使うのかや観測能力などについて国の方針を検討すべきだ」というメッセージが出されています。これも納得です。現在、私がメンバーとなっている内閣官房宇宙開発戦略本部専門調査会準天頂衛星推進検討ワーキンググループ(長い!)と並行して、地球観測衛星推進検討ワーキンググループがありますが、まだ十分が議論が進んでおらず、何を議論するのかということもきちんと定まっていない感じです。今回の震災を一つのベンチマークとしてどのような地球観測衛星戦略を作るかを考える時期に来ていると思うのですが、なかなか動きがないように見えます。4月に入って第三回目の地球観測WGが開催され、そこでWGの検討課題が整理されていますが(会合資料)、非常に多岐にわたっている半面、議論の焦点が絞られていないような印象を受けています。また、震災との関連があまり前面に出てきていないところもちょっと気になっています。その意味では知野さんの記事が指摘していることは適切だと思われます。
ただ、逆に知野さんの記事で気になることもいくつかあります。一つは「だいち」の分解能(解像度)が低く、「画像が粗い」という点です。これはすでにブログで指摘したことですが、分解能と観測幅の関係があり、用途によって分解能は低くても観測幅が必要な場合と、観測幅が狭くても分解能が高い画像が必要な場合があります。そのため、衛星は「ベストミックス」が必要で、分解能が高ければよいというのはかなり単純な議論です。なので、その点は残念です。
また、知野さんの議論で気になる点は地球観測にしか焦点が当たっていない点です。紙幅の問題もあるとは思いますが、今回の震災で重要な役割を果たした「宇宙技術」は地球観測衛星ではなく、むしろ通信衛星だったと思います。この点もすでにブログで書いた点ですが、地上系の通信網が断絶した場合、通信衛星しかライフラインを支えることができなかったのですが、その点を指摘することが重要なのではないかと考えています。その点で不満足です。
また、情報収集衛星にこだわっている点も若干不満が残りました。こちらもその理由はすでにブログで述べましたが、情報収集衛星はこうした災害にはあまり役に立たない衛星で、農水省や国交省などのユーザーとなる官庁がタスキング(どこの地点を撮像してほしいといったリクエスト)をかけるルートが確立されていないため、情報収集衛星の画像を救助や復興に使えないような状況にあるため、官庁が使っていないのは当然なのです。もちろん、それが「建前」と合致していないという指摘は正しいですし、ジャーナリストとしては情報収集衛星の実態を暴きたいという意図が働くため、情報収集衛星を取り上げるのは良くわかりますが、しかし、情報収集衛星が使われていないということをことさら取り上げても、あまり生産的な議論ではないような気がしています。
こういう混乱を避けるためにも、情報収集衛星はストレートに偵察衛星だと言うべきであり、それを下手にごまかそうとするから、つまらない議論がずっと続くという不幸が終わらないように思っています。まあ、それで世の中が回っているので、たぶん誰も変えようとはしないのでしょうけどね。
いずれにしても、日本における宇宙開発を巡る報道、分析はまだまだ層が薄く、十分にカバーされているとは言えない状態です。まあ、社会の中で宇宙開発が占める位置を考えれば、それは仕方のないことなのかもしれませんが、残念な感じもします。人口が1億2千万いる国家で、宇宙開発の主要国でありながら、ジャーナリストや研究者の層が薄いというのは、なんとも寂しい限りです。
2011年5月22日日曜日
北京雑感
今週の水曜日から土曜日まで北京に出張に出ていました。今回は中国科学院行政管理学院という研究所が主催する「宇宙政策と宇宙法に関するシンポジウム」という会議に出席していました。下の写真はその会議をやった建物です。なんとも中国らしさを感じない建物でした・・・。
中国に滞在中、ホテルや会議室からネットにアクセスすることがかなり難しく、TwitterやFacebook、ブログには一切アクセスができませんでした。なので、ブログの更新もできなかったのですが・・・。それでも日本から持っていったiPhoneからはアクセスできたので、メールやTwitterなども読むことはできたのですが、非常にフラストレーションがたまる状況でした。
こうした状況は、当然ながら中国共産党が中東などで起きた「フェイスブック革命」を恐れ、ソーシャル・ネットワークを遮断しているから生まれているのですが、確かにフェイスブックは使えなくても、中国独自のソーシャル・ネットワークのツールは広く使われているようで、人人網などはかなりポピュラーなようです。また、テレビのニュースなどを見ても、中東の民主化運動なども報道されており、思ったよりも窮屈な感じがしなかったというのが正直な印象でした。
確かに、外国の民主化勢力が中国国内に働き掛けて、急激に民主化運動などが高まっていくということについては相当な警戒をしているようですが、中国国内で徐々に表現の自由を認めていくという方向性を感じています。しかし、その認め方は極めて保守的で、共産党政権の支配を脅かすようなことは認められていないし、大規模な集会を促すようなものも認められていないようです。しかし、完全な言論封殺をしているというよりは、ある程度ガス抜きというか、発言の自由を認めさせることで不満を解消している部分はあるのかな、という印象はあります。やはり外から見ていると、どのような「塩梅」でコントロールしているのかがわからないので、現地に行って見る必要はありますね。
また、今回の出張で非常に印象的だったのは、これまで中国の政府関係者や研究者が、こうした国際会議ではかなりおとなしく(言語の問題もあるかとは思いますが)、何を考えているのかよくわからない、ということが多かったのですが、今回はそうではなかった、ということです。特にこれまでタブーだった2007年の衛星破壊実験や中国の軍事宇宙利用などに関しても、これまでは議題として取り上げるだけでも文句を言ってきたのに、今回は積極的に議論に参加し、政府の擁護をするのではなく、冷静に議論していたというのがとても印象的でした。
この辺も、中国の国内における空気の変化を感じました。その背景に何があるのか、私なりに考えてみたのですが、大きな要因になっているのは、中国がこれまで抱えていた、日本を含む諸外国に対するコンプレックスが薄くなり、大国としての自信を高めてきたことがあるのではないか、と思うようになりました。これまでは、中国のやっていることを取り上げて議論をするだけで、中国が非難されているという被害者意識というか、過剰反応をしていたように思うのですが、中国が名実ともに、自他共に大国として認められるようになってきたことで、少し心に余裕ができたというか、自分たちのやっていることを冷静に分析し、それをよりよくしていくための助言として諸外国からの意見を聞いているという雰囲気がありました。これはとてもポジティブな変化だ、という印象を受けました。
日本には中国に滞在経験がある人も多く、中国との関係も深いだけに、こうした変化にも敏感であるべきだと思うのですが、しばしば感情的な議論が先行し、中国で進んでいる変化を見落とす恐れもあるような気がしています。事実、私も中国のことは報道や文献からしか知りえなかったため、出発前に持っていた印象と、実際に数日間滞在した後の印象は少なからず違うものとなりました。
やはり「社会科学者」としてものを考えていく立場にある人間として、こうした経験や自分の目で見て判断することの重要性はあるな、という印象を持っています。もちろん、自分の目で見ることができるものは限られており、それがすべてではないことを自覚する必要はありますが、しかし、報道や文献からだけでは受け取れない「空気感」のようなものは大事だな、と強く感じています。
2011年5月17日火曜日
情報収集衛星は震災の役には立たない
本日(といっても投稿する段階では昨日)の朝日新聞で「情報収集衛星―震災で役立っているか」という社説が出た。結論から言うと、かなり素人っぽい議論(私も技術は素人だが)で、かなり残念な気分となった。やや揚げ足取りになるかもしれないが、この社説を踏まえて情報収集衛星の役割についてコメントしたい。
この社説では、まず情報収集衛星が「我が国の安全の確保、大規模災害への対応その他の内閣の重要政策に関する画像情報の収集」という目的に設定されている、ということが問題視されている。
情報収集衛星の導入の過程については、日経新聞の春原記者が書いた、『誕生 国産スパイ衛星 独自情報網と日米同盟』というルポルタージュが優れているが、これを見るまでもなく、情報収集衛星は1998年の北朝鮮によるテポドンの打ち上げがきっかけとなっている。この時、日本は事前にアメリカからの情報が得られず、結局、情報を自前で入手することが重要であると認識して、偵察衛星の導入に踏み切った。
しかし、当時日本には1969年の「宇宙の平和利用原則」を定めた国会決議があり、その決議に従って、防衛庁(当時)が衛星を運用することは認められなかった。そのため、「多目的衛星」という「建前」を作ったが、そうすると今度は1990年の日米衛星調達合意に抵触するという状況が生まれた。この日米衛星調達合意というのは、日米貿易摩擦が盛んになった1980年代に、アメリカが日本の「不公正貿易」を修正するため、随意契約で調達していた政府調達市場を国際的に解放することを求めた結果結ばれた合意である。これにより、「実用衛星」であれば、国際的に調達しなければならず、日本は偵察衛星の仕様を国際的に公開し、外国の衛星を導入させられる可能性が高まった。
その結果、防衛庁でもなく、「実用衛星」でもない衛星として「危機管理衛星」という新しいカテゴリーを生み出し、内閣情報調査室が運用する危機管理のための衛星という位置づけにすることで、商業的な「実用衛星」でもなく、また防衛庁が運用するわけでもない衛星、という位置づけを生み出したのである。
その結果、「建前」として、朝日新聞が書いたような「我が国の安全の確保、大規模災害への対応その他の内閣の重要政策に関する画像情報の収集」が情報収集衛星の目的となったのである(この点については拙著をご参考ください)。なので、このような歴史的経緯があるため、情報収集衛星を「建前」どおりに運用するような体制ができていない、という現実がある。
確かに、大規模災害の時に、日本が持っているアセット(宇宙資産)は活用されるべきである。しかし、もともと偵察目的に持っている情報収集衛星を動かすよりも、むしろ、以前のブログで書いたように、防災を目的とし、防災訓練までやっていたJAXAの衛星が使えなかった方が問題なのではないだろうか。なぜ朝日新聞はそうしたJAXAの問題を指摘せず、情報収集衛星だけを取り上げたのか、疑問は大きく残る。
確かに朝日は最初から情報収集衛星の導入は「宇宙の平和利用原則」に反するという立場をとり、断続的に情報収集衛星を批判してきたので、その一環であることは理解できる。しかし、そうしたイデオロギー的な立場から、現実の問題が見えなくなっているのではないか、と強く懸念する。
というのも、情報収集衛星は「建前」として大規模災害などに資する、とされているが、技術的にみると、情報収集衛星はこのような大規模災害には向かない衛星であることが分かる。これはJAXAのホームページにしっかり書かれている。ちょっと引用しておこう。
つまり、偵察衛星として設計された情報収集衛星は、カメラでいえば望遠レンズのようなもので、ピンポイントの地点の撮影で詳細な画像を得ることはできるが、大きな画を撮ることはできない。逆に、震災直後に機能停止したALOS(だいち)は幅広く地形を観測し、大量のデータを転送することが出来る。これを技術的に言うと衛星が搭載するセンサーの「観測幅(Swath Width)」が広いとか狭い、といういい方をするが、ALOSはPRISMというパンクロ・センサー(白黒写真を撮るセンサー)で最大70kmの観測幅、AVNIR-2という可視近赤外センサー(簡単にいえば高性能な赤外線センサー)で70kmの観測幅、PALSARというレーダー(電波を反射させて画像を取得するセンサー)では、最大で250kmの観測幅を取ることが出来る。今回の震災のように広範囲にわたる災害が起き、県庁や地方自治体が被害の全容を把握し、震災後に変形した地形を理解するためには、こうした観測幅の広い衛星が必要である。
逆に、情報収集衛星の観測幅はどのくらいのものか。情報収集衛星の諸元は現在では公開されていないため、正確なことはわからないが、実は情報収集衛星が導入されるときに宇宙開発委員会などの公開の場で情報収集衛星に関する議論がなされたことがあり、その時の資料によれば、光学衛星(カメラのように画像を取る衛星)で10-20km、レーダーで10kmの観測幅が想定されている。つまり、ALOSに搭載されているセンサーよりもはるかに狭い地域しか撮像できず、ピンポイントの情報(たとえば福島第一原発の状況)を得るためには情報収集衛星は役に立つであろうが、東北各地の地方自治体が災害対応を進めていくうえでは極めて使いにくいデータしか収集することが出来ない。
なので、朝日新聞の社説で「文字通りの大規模災害だから津波の状況など、まさに宇宙からの情報収集が役立ちそうだ」というあたりは、かなり子供っぽい発想のようにも思われるし、「宇宙からの詳しい画像があれば、何百キロにも及ぶ海岸地帯のどこがどのように被災したか、たちどころにわかる。建物や道路などの現状も見てとれる」というのは、すでに述べたように、情報収集衛星ではなかなか難しい。しかも「たちどころにわかる」というのはウソである。衛星は約90分で地球を一周するが、地球が自転するために衛星が戻ってくる場所が少しずつずれるため、一つの衛星は2日に1回の割合でしか同じ地点(東北地方は南北に長いので、一度通ると2日後まで戻ってこれない)に戻れない。現在、情報収集衛星は、本来の4機体制から、2機のレーダー衛星の故障により、2機の光学衛星しか使えない状況である。なので、二つの衛星を組み合わせても、1日1回、しかも90分で地球を一周するので、東北地方の上空にいられるのは、どう頑張っても15分程度である。つまり、1日のうち15分しか見えないのである。なので災害が起きても、最悪の場合、翌日まで画像を撮ることができない。
また、朝日新聞は「今後の復旧作業に向けても、画像は有用なはずだ」ともいうが、これもすでに述べたとおり、観測幅の広いセンサーでないと、復旧に必要な広域的な地理情報を得ることができない。また、AVNIRのような赤外線センサーも搭載していないため、情報収集衛星から得られるデータではわからないことも多い(たとえば土壌の塩害の程度など)。
さらに、朝日新聞は「多くの国民が目にしたのは、米国の商業衛星が撮影した、解像度50センチの驚くほど鮮明な画像だ。政府や研究機関ももっぱらこれを購入している」と述べているが、これもやや誤解に基づくものと感じる。国民が目にした画像というのは福島第一原発の事故直後の衛星画像のことであろう。米国の商業衛星を運用する会社の人にも知り合いがいるので話を聞いているが、震災が起こった直後にアメリカ、ヨーロッパ、イスラエルなどが保有している商業衛星の運用会社は一斉に東北、福島上空の画像を取るよう指示を出したという。というのも、こうした画像が高い値段で売れることが分かっているからである。原発の事故では地上や航空機による接近が難しいため、衛星画像が重要な役割を果たす。しかし、数日もすれば、無人偵察機や遠方からの望遠撮影によって、それなりの画像は入手できるようになる。そのため、商業衛星の運用会社は紛争や事故などがあると、即座にそこに衛星を向け、画像を取るようにしている。この即応性が彼らの商売の命だからである。そのため、彼らがあっという間に原発の画像を撮像し、それを公開したことで国民の目に触れたのである。しかし、覚えておいた方がよいことは、今、宮城県でも岩手県でも、主要な自治体の会議室には、外国の商業衛星が撮影した画像は貼られていない。その代わり、JAXAのALOSが機能停止寸前で撮像した東北地方の大きな画像が貼ってある。朝日新聞は、是非それを現場で見てほしい。災害復興にピンポイントしか撮像できない衛星画像は必要ないのである。
なお、こうした情報収集衛星への批判は朝日新聞に限ったことではない。自ら「宇宙政策提言をめざすシンクタンク」と定義する「宙の会」というウェブ上の宇宙政策フォーラムにおいても、同様の議論がみられる(この「宙の会」の幹事会になぜか私も入っているので、あまり批判をする立場にはないのだが・・・)。ここでは2011年3月26日、27日、4月22日の三回に分けて、白子悟朗氏(元NEC技術士)が「今こそ、情報収集衛星の姿を!」という議論を展開しているが、ここでの議論も朝日新聞の社説と大筋で議論の方向性は違わないので、改めて取り上げないが、こうした情報収集衛星への批判は根強くあることだけは確かである。それは技術者であっても(NECは情報収集衛星の開発の主契約会社ではなかったが)同じようにみているのである。
情報収集衛星は、「建前」では大規模災害などにも使う、ということになっているが、衛星の設計自体が大規模災害に向かない作りになっている。確かに「建前」であっても、民主主義国家において、政府が「大規模災害に使う」と言えば、それをやっていないことは適切ではなく、批判されるべきことである。しかし、先にも述べたように、この「建前」が導入された経緯は、極めて厳格で現状に合わない「宇宙の平和利用原則」決議があり、他方でアメリカから押し付けられた日米衛星調達合意があるなかで生まれた苦肉の策というか、方便であるということも念頭に置いておく必要があるだろう。
つまり、大事なことは、情報収集衛星が「建前」通りに使われていないことを問題にするのではなく、正々堂々と衛星を使って日本を平和にする、ということを目的とした衛星を作ればよいのである。そのために、2008年に宇宙基本法が制定され、そこでは第二条で「宇宙開発利用は(略)日本国憲法の平和主義の理念にのっとり、行われるものとする」としたうえで、第三条で「宇宙開発利用は、国民生活の向上、安全で安心して暮らせる社会の形成、災害、貧困その他の人間の生存及び生活に対する様々な脅威の除去、国際社会の平和及び安全の確保並びに我が国の安全保障に資するよう行われなければならない」という文言を入れたのである。このように、現在の日本の宇宙開発では、日本国憲法の平和主義の理念を尊重しながら、国際社会の平和と安全の確保ならびに日本の安全保障のために使っていく、ということになっているのである(宇宙基本法の条文)。
ここでもう一つ解説を入れておく必要があるのが、日本国憲法の平和主義に則り、国際の平和と安全および日本の安全保障のために衛星を使うという意味である。日本国憲法は、その第九条第一項で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」としている。私は憲法学者ではないので、法解釈を論ずるつもりはないが、この条文を素直に読めば、国際紛争、つまり外国との摩擦や対立関係が生まれた場合でも、武力によってそれを解決しない、ということを意味している。つまり、国際紛争(たとえば尖閣諸島の問題など)は必ず起きるのであるが、それを武力を使わずに解決するということは、話し合いで解決する、ということになる。となると、相手が何を考え、どのような準備をし、日本との関係をどうしようとしているのかを知った上で交渉をする必要がある。対立関係にある相手に対し、手ぶらで何も考えずに交渉に向かっては、結局相手にやり込められるだけであり、国際紛争の解決どころか、日本が一方的に譲歩する、ないしは相手の言いなりにならざるを得ない状況になる。つまり、日本が外交交渉で国際紛争を解決しようとするならば、その交渉に万全を期し、必ず成功させるための準備をする必要がある。その準備とは、相手のことを知り、相手の機先を制することにあるだろう。そのためには、情報を収集する必要があるのであり、他国の情報を収集する手段として、国境を越えて画像を取得できる衛星は有効な手段なのである。
つまり、日本が憲法の平和主義に則りながら、自らの安全保障を確保するためには、外交交渉で負けないための情報収集が必要なのである。そのための情報収集衛星である。にも関わらず、どういうイデオロギーか知らないが、実際に衛星の機能や役割も理解しないまま、情報収集衛星を盲目的に批判するような議論を展開する人たちがいる。他者の価値観にあれこれ言うつもりはないが、少なくとも冷静に現実を見た議論が展開されることを望む。
この社説では、まず情報収集衛星が「我が国の安全の確保、大規模災害への対応その他の内閣の重要政策に関する画像情報の収集」という目的に設定されている、ということが問題視されている。
情報収集衛星の導入の過程については、日経新聞の春原記者が書いた、『誕生 国産スパイ衛星 独自情報網と日米同盟』というルポルタージュが優れているが、これを見るまでもなく、情報収集衛星は1998年の北朝鮮によるテポドンの打ち上げがきっかけとなっている。この時、日本は事前にアメリカからの情報が得られず、結局、情報を自前で入手することが重要であると認識して、偵察衛星の導入に踏み切った。
しかし、当時日本には1969年の「宇宙の平和利用原則」を定めた国会決議があり、その決議に従って、防衛庁(当時)が衛星を運用することは認められなかった。そのため、「多目的衛星」という「建前」を作ったが、そうすると今度は1990年の日米衛星調達合意に抵触するという状況が生まれた。この日米衛星調達合意というのは、日米貿易摩擦が盛んになった1980年代に、アメリカが日本の「不公正貿易」を修正するため、随意契約で調達していた政府調達市場を国際的に解放することを求めた結果結ばれた合意である。これにより、「実用衛星」であれば、国際的に調達しなければならず、日本は偵察衛星の仕様を国際的に公開し、外国の衛星を導入させられる可能性が高まった。
その結果、防衛庁でもなく、「実用衛星」でもない衛星として「危機管理衛星」という新しいカテゴリーを生み出し、内閣情報調査室が運用する危機管理のための衛星という位置づけにすることで、商業的な「実用衛星」でもなく、また防衛庁が運用するわけでもない衛星、という位置づけを生み出したのである。
その結果、「建前」として、朝日新聞が書いたような「我が国の安全の確保、大規模災害への対応その他の内閣の重要政策に関する画像情報の収集」が情報収集衛星の目的となったのである(この点については拙著をご参考ください)。なので、このような歴史的経緯があるため、情報収集衛星を「建前」どおりに運用するような体制ができていない、という現実がある。
確かに、大規模災害の時に、日本が持っているアセット(宇宙資産)は活用されるべきである。しかし、もともと偵察目的に持っている情報収集衛星を動かすよりも、むしろ、以前のブログで書いたように、防災を目的とし、防災訓練までやっていたJAXAの衛星が使えなかった方が問題なのではないだろうか。なぜ朝日新聞はそうしたJAXAの問題を指摘せず、情報収集衛星だけを取り上げたのか、疑問は大きく残る。
確かに朝日は最初から情報収集衛星の導入は「宇宙の平和利用原則」に反するという立場をとり、断続的に情報収集衛星を批判してきたので、その一環であることは理解できる。しかし、そうしたイデオロギー的な立場から、現実の問題が見えなくなっているのではないか、と強く懸念する。
というのも、情報収集衛星は「建前」として大規模災害などに資する、とされているが、技術的にみると、情報収集衛星はこのような大規模災害には向かない衛星であることが分かる。これはJAXAのホームページにしっかり書かれている。ちょっと引用しておこう。
「一般に、観測センサの分解能を上げれば細部まで見えますが、扱うデータ量も膨大なものとなり、広い地域を一度に観測することは難しくなります。陸域観測を行う衛星の設計では、衛星の用途に応じて分解能と観測幅、データ伝送性能の総合的なバランスが考慮されています。(出典:http://alos.jaxa.jp/1/faq-06.html)
一般的な偵察衛星(軍事衛星)は、非常に高分解能のカメラを搭載しており、低い高度から対象とする地点をピンポイントで撮影する機能に特化しています。従って細かいところまではっきりと識別できる反面、広い地域をくまなく観測するような用途には不向きです。また、撮影対象地点がどこかということを事前に調べておく必要があります。
一方でALOSは地図作成をミッションとしているため、回帰日数の46日間で全世界を隙間なく観測し、その全て観測データを地上に伝送することが可能です。
ALOSの観測データは、膨大なデータを効率よく地上に伝送する大容量のデータレコーダとデータ中継衛星を駆使することで、全世界のデータベースとして蓄積される予定になっています。」
つまり、偵察衛星として設計された情報収集衛星は、カメラでいえば望遠レンズのようなもので、ピンポイントの地点の撮影で詳細な画像を得ることはできるが、大きな画を撮ることはできない。逆に、震災直後に機能停止したALOS(だいち)は幅広く地形を観測し、大量のデータを転送することが出来る。これを技術的に言うと衛星が搭載するセンサーの「観測幅(Swath Width)」が広いとか狭い、といういい方をするが、ALOSはPRISMというパンクロ・センサー(白黒写真を撮るセンサー)で最大70kmの観測幅、AVNIR-2という可視近赤外センサー(簡単にいえば高性能な赤外線センサー)で70kmの観測幅、PALSARというレーダー(電波を反射させて画像を取得するセンサー)では、最大で250kmの観測幅を取ることが出来る。今回の震災のように広範囲にわたる災害が起き、県庁や地方自治体が被害の全容を把握し、震災後に変形した地形を理解するためには、こうした観測幅の広い衛星が必要である。
逆に、情報収集衛星の観測幅はどのくらいのものか。情報収集衛星の諸元は現在では公開されていないため、正確なことはわからないが、実は情報収集衛星が導入されるときに宇宙開発委員会などの公開の場で情報収集衛星に関する議論がなされたことがあり、その時の資料によれば、光学衛星(カメラのように画像を取る衛星)で10-20km、レーダーで10kmの観測幅が想定されている。つまり、ALOSに搭載されているセンサーよりもはるかに狭い地域しか撮像できず、ピンポイントの情報(たとえば福島第一原発の状況)を得るためには情報収集衛星は役に立つであろうが、東北各地の地方自治体が災害対応を進めていくうえでは極めて使いにくいデータしか収集することが出来ない。
なので、朝日新聞の社説で「文字通りの大規模災害だから津波の状況など、まさに宇宙からの情報収集が役立ちそうだ」というあたりは、かなり子供っぽい発想のようにも思われるし、「宇宙からの詳しい画像があれば、何百キロにも及ぶ海岸地帯のどこがどのように被災したか、たちどころにわかる。建物や道路などの現状も見てとれる」というのは、すでに述べたように、情報収集衛星ではなかなか難しい。しかも「たちどころにわかる」というのはウソである。衛星は約90分で地球を一周するが、地球が自転するために衛星が戻ってくる場所が少しずつずれるため、一つの衛星は2日に1回の割合でしか同じ地点(東北地方は南北に長いので、一度通ると2日後まで戻ってこれない)に戻れない。現在、情報収集衛星は、本来の4機体制から、2機のレーダー衛星の故障により、2機の光学衛星しか使えない状況である。なので、二つの衛星を組み合わせても、1日1回、しかも90分で地球を一周するので、東北地方の上空にいられるのは、どう頑張っても15分程度である。つまり、1日のうち15分しか見えないのである。なので災害が起きても、最悪の場合、翌日まで画像を撮ることができない。
また、朝日新聞は「今後の復旧作業に向けても、画像は有用なはずだ」ともいうが、これもすでに述べたとおり、観測幅の広いセンサーでないと、復旧に必要な広域的な地理情報を得ることができない。また、AVNIRのような赤外線センサーも搭載していないため、情報収集衛星から得られるデータではわからないことも多い(たとえば土壌の塩害の程度など)。
さらに、朝日新聞は「多くの国民が目にしたのは、米国の商業衛星が撮影した、解像度50センチの驚くほど鮮明な画像だ。政府や研究機関ももっぱらこれを購入している」と述べているが、これもやや誤解に基づくものと感じる。国民が目にした画像というのは福島第一原発の事故直後の衛星画像のことであろう。米国の商業衛星を運用する会社の人にも知り合いがいるので話を聞いているが、震災が起こった直後にアメリカ、ヨーロッパ、イスラエルなどが保有している商業衛星の運用会社は一斉に東北、福島上空の画像を取るよう指示を出したという。というのも、こうした画像が高い値段で売れることが分かっているからである。原発の事故では地上や航空機による接近が難しいため、衛星画像が重要な役割を果たす。しかし、数日もすれば、無人偵察機や遠方からの望遠撮影によって、それなりの画像は入手できるようになる。そのため、商業衛星の運用会社は紛争や事故などがあると、即座にそこに衛星を向け、画像を取るようにしている。この即応性が彼らの商売の命だからである。そのため、彼らがあっという間に原発の画像を撮像し、それを公開したことで国民の目に触れたのである。しかし、覚えておいた方がよいことは、今、宮城県でも岩手県でも、主要な自治体の会議室には、外国の商業衛星が撮影した画像は貼られていない。その代わり、JAXAのALOSが機能停止寸前で撮像した東北地方の大きな画像が貼ってある。朝日新聞は、是非それを現場で見てほしい。災害復興にピンポイントしか撮像できない衛星画像は必要ないのである。
なお、こうした情報収集衛星への批判は朝日新聞に限ったことではない。自ら「宇宙政策提言をめざすシンクタンク」と定義する「宙の会」というウェブ上の宇宙政策フォーラムにおいても、同様の議論がみられる(この「宙の会」の幹事会になぜか私も入っているので、あまり批判をする立場にはないのだが・・・)。ここでは2011年3月26日、27日、4月22日の三回に分けて、白子悟朗氏(元NEC技術士)が「今こそ、情報収集衛星の姿を!」という議論を展開しているが、ここでの議論も朝日新聞の社説と大筋で議論の方向性は違わないので、改めて取り上げないが、こうした情報収集衛星への批判は根強くあることだけは確かである。それは技術者であっても(NECは情報収集衛星の開発の主契約会社ではなかったが)同じようにみているのである。
情報収集衛星は、「建前」では大規模災害などにも使う、ということになっているが、衛星の設計自体が大規模災害に向かない作りになっている。確かに「建前」であっても、民主主義国家において、政府が「大規模災害に使う」と言えば、それをやっていないことは適切ではなく、批判されるべきことである。しかし、先にも述べたように、この「建前」が導入された経緯は、極めて厳格で現状に合わない「宇宙の平和利用原則」決議があり、他方でアメリカから押し付けられた日米衛星調達合意があるなかで生まれた苦肉の策というか、方便であるということも念頭に置いておく必要があるだろう。
つまり、大事なことは、情報収集衛星が「建前」通りに使われていないことを問題にするのではなく、正々堂々と衛星を使って日本を平和にする、ということを目的とした衛星を作ればよいのである。そのために、2008年に宇宙基本法が制定され、そこでは第二条で「宇宙開発利用は(略)日本国憲法の平和主義の理念にのっとり、行われるものとする」としたうえで、第三条で「宇宙開発利用は、国民生活の向上、安全で安心して暮らせる社会の形成、災害、貧困その他の人間の生存及び生活に対する様々な脅威の除去、国際社会の平和及び安全の確保並びに我が国の安全保障に資するよう行われなければならない」という文言を入れたのである。このように、現在の日本の宇宙開発では、日本国憲法の平和主義の理念を尊重しながら、国際社会の平和と安全の確保ならびに日本の安全保障のために使っていく、ということになっているのである(宇宙基本法の条文)。
ここでもう一つ解説を入れておく必要があるのが、日本国憲法の平和主義に則り、国際の平和と安全および日本の安全保障のために衛星を使うという意味である。日本国憲法は、その第九条第一項で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」としている。私は憲法学者ではないので、法解釈を論ずるつもりはないが、この条文を素直に読めば、国際紛争、つまり外国との摩擦や対立関係が生まれた場合でも、武力によってそれを解決しない、ということを意味している。つまり、国際紛争(たとえば尖閣諸島の問題など)は必ず起きるのであるが、それを武力を使わずに解決するということは、話し合いで解決する、ということになる。となると、相手が何を考え、どのような準備をし、日本との関係をどうしようとしているのかを知った上で交渉をする必要がある。対立関係にある相手に対し、手ぶらで何も考えずに交渉に向かっては、結局相手にやり込められるだけであり、国際紛争の解決どころか、日本が一方的に譲歩する、ないしは相手の言いなりにならざるを得ない状況になる。つまり、日本が外交交渉で国際紛争を解決しようとするならば、その交渉に万全を期し、必ず成功させるための準備をする必要がある。その準備とは、相手のことを知り、相手の機先を制することにあるだろう。そのためには、情報を収集する必要があるのであり、他国の情報を収集する手段として、国境を越えて画像を取得できる衛星は有効な手段なのである。
つまり、日本が憲法の平和主義に則りながら、自らの安全保障を確保するためには、外交交渉で負けないための情報収集が必要なのである。そのための情報収集衛星である。にも関わらず、どういうイデオロギーか知らないが、実際に衛星の機能や役割も理解しないまま、情報収集衛星を盲目的に批判するような議論を展開する人たちがいる。他者の価値観にあれこれ言うつもりはないが、少なくとも冷静に現実を見た議論が展開されることを望む。