2011年7月19日火曜日

なぜ宇宙開発に関する論説はいつも無責任な議論ばかりなのだろうか

本日の読売新聞の『論点』で有馬朗人先生が「日本の技術 防災に生かせ」という論稿を寄せられていた。有馬先生は東大学長と科学技術庁長官を経験された偉大な技術者であり、国際的、国内的な評価も非常に高い先生である。政治も役所もアカデミアも熟知されている先生であるからこそ、新聞を開けた時には期待が高まった。

しかし、この論稿を読んだ感想は「残念」の一言である。これまで新聞に掲載された宇宙開発関連の記事や論説についてコメントしてきたが、「またか」という印象が強い。こちらもウェブには記事が掲載されていないので、著作権を侵害しない範囲で引用しながら議論していきたい。

有馬先生の論稿はまずシャトル後の宇宙開発ということから始まる。これは今月に書かれた宇宙関連の記事のほとんど共通した論調である。私の住む北海道の有力地方紙である北海道新聞でも「シャトル退役 宇宙開発 日本の役割は」(7月19日社説)という社説が掲載されている。なぜ北海道新聞が北海道での宇宙開発に一切触れず、国の宇宙開発だけを論じているのかは、若干疑問が残るが、それは今回の本論ではないので、これ以上は触れない(なお、北海道の宇宙開発については、拙稿「北大HOPSマガジン【北海道から何を発信するか】北海道発の宇宙開発に注目!」:WEBRONZAをご参照ください)。

さて、有馬先生の論稿だが、シャトルはさまざまな実験ができることを強調し、シャトルは退役しても宇宙ステーションは残るので大事にしなければならないと主張する。その理由は「こんな人工構造物はない」から。「こんなものは他にないから大事にしろ」というのは気持ちとしてはわかる。マチュピチュや姫路城のように、歴史的遺産も「他にはないのだから大事にする」ということで保護されている。つまり、他にはないから大事にするというのは遺跡とか博物館のレベルの話であり、それに巨額の費用をかけて維持するということの意義は見出せない。宇宙ステーションは運用を止めれば、残念ながら大気圏に突入し、燃え尽きてしまう運命にある。なので、大事にしていても、その大事にすべき価値が何なのかが明確でない以上、大事にする理由がよくわからない。

その費用について、有馬先生は年間400億円のコストがかかることを熟知していながら、そのコストは高すぎるわけではなく、「子供たちに宇宙に行ける希望を与えるためにも、このくらいの投資をしてもいいのではないか」とおっしゃっている。残念ながら、宇宙ステーションの運用は2020年までと決まっており、子供たちが大人になる前に運用を止めて大気圏に突入し、灰になることが決まっている。子供たちが行くことができない宇宙ステーションを、年間400億円もかけて維持する意味はない、となると、何のための予算なのか、きっちり説明する必要が出てくるだろう。

ただでさえ、日本の公的債務が1000兆円になろうとしており、ただでさえ、震災からの復興に数十兆円かかるとされている時代にあって、年間400億円は小さくない数字である。子供たちがどう頑張ってもたどりつくことのできない宇宙ステーションを「子供たちに希望を与えるため」に、国の借金を増やし、被災地の支援に回すことだってできたはずの400億円を費やすことの意味が私には理解できない。

続いて、有馬先生は宇宙実験で結果が出ていないという批判に対して、「研究とはそういうものだ」として成果が出なくても実験を続けるべきだ、と主張される。しかし、宇宙ステーションを使った実験の数はどんどん減っており、JAXAが予定していた数に達していない。それは、宇宙ステーションが使いにくい実験装置であるだけでなく、宇宙ステーションに行かなくてもさまざまな方法で実験をするということが可能になっているからである。研究が即座に成果を出すものとは、私も思っていない。しかし、科学者にとって役に立たない、実験に使いにくい装置を巨額の費用をかけて維持するという意義もよくわからない。問題は成果が出ないことではなく、成果を出すまでの時間とコストがかかりすぎ、本当に継続的な実験や研究ができないような環境を作ってしまったことにある。宇宙ステーションがあるから実験をやれ、といっても、科学者にとって迷惑なことである。最初から使いづらく、リスクが多く、コストが高い宇宙ステーションを無理やり「実験施設」として位置付け、予算をつけてきたことのツケを今払っているということを理解すべきである。

有馬先生の議論は、他のいくつかの論稿と同様に、突然急展開する。宇宙ステーションでの実験を続け、「継続は力だ」とおっしゃった、その直後の段落から、宇宙技術と防災の話が始まる。さまざまな地球規模の問題を解決するために衛星技術を磨くことが重要だと主張されている。この点については、このブログで繰り返し述べてきたように、まったくその通りだと思う。

ただ、この有馬先生の論稿が他のものと異なるのは、宇宙基本法の成立に伴い、「平和利用原則」の解釈が変わったことを的確に理解されており、それを肯定的に捉えている点である。これまで宇宙基本法をめぐる解釈がおかしいという点については、何度かこのブログで書いてきたが(たとえば「川口淳一郎先生の宇宙基本法の誤解」)、有馬先生は衛星技術が高まれば、「いずれ安全保障にも役立つ」と指摘しており、災害対策のための宇宙利用は重要であると論じている。

そして、最後に宇宙開発を引っ張ってきたアメリカの力が弱まり、日本も目標を描けずにいる、と指摘している。これが現在の宇宙開発戦略本部が日本の宇宙開発の方向性を出せていない、という点を指摘しているのであれば、その通りであろう。日本がどのような宇宙開発を進めていくのかという全体的な方針は、2009年の宇宙基本計画で一応は示されたが、それが民主党政権に変わったことで、その方向性が見失われた状態であり、何度もコロコロと宇宙開発担当大臣が変わることで、落ち着いて戦略的なビジョンを描けていない、というのもその通りであろう。

有馬先生は事業仕訳などでロマンや情熱を持って新しいことをやろうという機運が失われてきたことを嘆いておられる。その点には同意するが、しかし、同時にこの論稿の前半部分で述べられた年間400億円の支出を、行ける可能性もない子供たちの期待を維持するために、宇宙ステーションにかけるという議論と重ねて考えると、有馬先生の議論は途端に脆弱なものに見える。

つまり、ここで展開されている議論には財政の問題についてまったくと言ってよいほど考察がない、ということなのである。宇宙開発の予算が年間2500億円程度であり、国家予算からみればそれほど大きくない額とはいえ、日本の破たん気味の財政状況を考えると、ロマンや情熱という精神論だけでは解決できない問題がそこにはある。そのことをまったく無視して科学技術政策を論じることは、国家財政が破たんしても夢やロマンを追いかけるべき、という無責任な議論に見えてしまう。

国民の税金を使ってやる以上、国民に還元されない宇宙開発は正当化できない。災害対策や安全保障は値段をつけることはできないが、少なくとも国民の福祉厚生(Welfare)を向上させるためのものとして期待することはできる。情熱やロマンも同じく値段が付けられないものであるが、それが国民のWelfareを向上させることになるのだろうか?10年後には灰になってしまう宇宙ステーションを「子供たちに希望を与えるため」という理屈で400億円も投入することが国民のWelfareを向上させることになるのだろうか。

国家には優先順位があるべきであり、税金の使い方はその優先順位に沿って議論されるべきである。有馬先生の論稿の後半にあるように、災害対策は、東日本大震災を経験した日本にとって、圧倒的に高いプライオリティである。しかし、それが宇宙ステーションを無理やり維持することと同列で語られることがおかしいのである。限られた予算を何に使うのか。宇宙開発を語るものは、社会的責任を持って、政策的プライオリティを考えて語らなければならないのである。

2 件のコメント:

  1. 拝読しました。
    主張に、同意します。

    人類がその史上始めて国籍を超えて生み出した半恒久的な宇宙建造物であるISSは、象徴的な存在であることは間違いありません。

    ただ、その有益性が参加しているどの国にとってもソフトパワー以外の何者でもない状況では、その費用対効果から考えた時に、その巨額な維持費の拠出をどの国もこれ以上正当化しえないでしょう。

    宇宙開発委員会の特別部会の中で語られたISSの意義性についても、有馬先生の論を裏付けるには至っていません。
    http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/uchuu/015/003/gijiroku/attach/1294101.htm

    夢やロマンでいえば、ISSを国連に付託して、その維持費を国連が拠出することで人類にとっての象徴的な存在で在り続けさせることも道ですが、そうなるとこれまでISSの開発や運営に費用負担してきた諸国が黙ってはいないと思います。

    結局、20年までの延命はやむなしとしても、その後はかつてミールが辿ったのと同じ道を歩ませる以外には無いと思います。

    とはいえ。
    恒久的に、人類が宇宙に橋頭堡を必要としない訳ではなく。
    近い将来、月や小惑星の資源を有用に利活用するための宇宙港であれ、宇宙太陽光発電であれ、技術的に目処がついた段階で計画的に再度トライしていくことこそが、人類には必要なのだと思います。

    ただそれは、ISSへのアクセシビリティや現地の空間特性を活かした研究開発への途が進んでからのものとなるのでしょう。
    総括すれば、人類にとってISSはまだ早すぎたプロメテウスの火だったのだと思います。

    末尾となりますが、「宇宙開発と国際政治」とても興味深く読ませていただいております。また、twitterの呟きも興味深く読ませていただいております。これからの日本の宇宙開発の発展に向けた、より一層のご活躍を期待しております。

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  2. MOLTAさん、

    大変ご丁寧なコメント、ならびに拙著を読んでいただき、ありがとうございます。プロフを見ると「宇宙好き」と書かれているのですが、往々にして私の書いたものは「宇宙大好き!」という人には不評で、厳しいご意見も頂いておりますが、宇宙好きの方にもご理解いただいていると思うと、ちょっとホッとします。

    おっしゃられていることはよくわかります。私も将来に向けての有人宇宙活動を全面的に否定しているつもりはありません。ただ、政府が行う宇宙開発は、政府が行っているすべての事業の中でどのような位置付けにあり、どの程度のプライオリティをつけられるべきなのか、ということを考える必要がある、ということを言いたいだけなのです。おっしゃる通り、人類にとっての有人宇宙飛行はまだ早すぎる試みだったのかもしれません。

    ただ、過去に行ったことを変えることはできませんし、すでに獲得した技術を無駄にする必要もないと思います。その点で、私は現在アメリカで進んでいる民間企業による有人宇宙事業に関心を持っています。政府が税金を使って有人宇宙事業を行うことの正当性は相当怪しいと思いますが、これまでの有人宇宙技術を使って商業的に事業を展開することは十分意味があり、その中で、長期的には人類が宇宙に進出する何らかの意味や正当性を獲得し、「ただ宇宙に行く」という以上の価値が生まれるのだとすれば、民間で開発された技術を活かしていければ良いのではないかと考えています。

    現在の民間企業による有人宇宙開発は弾道飛行によるサブオービタル体験を除けば、基本的には宇宙ステーションへの輸送を前提としているため、彼らの収入源は国家予算(NASA予算)からの支出となります。これは形を変えた税金による有人宇宙開発だとは思うのですが、それでも過渡期の事業としては適切なものだと思いますし、民間企業が有人宇宙事業の経験を積み、将来的な人類の進出のための技術蓄積と開発を進める原資として考えれば、十分意味のある投資だと考えています。

    なので、有馬先生の議論はどうも納得がいかないですが、現在アメリカが進めている民間への有人宇宙事業の移管ということには期待したいと考えています。

    長くなってしまいましたが、また、今後ともいろいろなご意見を頂ければと思います。Twitterでもぼちぼち呟いていきますので、お気づきのことがあれば、是非ご意見をお寄せください。今後ともよろしくお願いいたします。

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