2011年7月4日月曜日

My revolutionと科学技術

このタイトルは別に"My Revolution"という曲をうたった渡辺美里さんや、作詞家の川村真澄さん、作曲家の小室哲也さんが科学技術の専門家だとか、この曲が何らかの科学技術的知見と関係があるということを言いたいわけではない。ただ、ふとこの曲が頭に浮かんだ時、なぜ原子力推進派が、そのリスク・危険性・事故が起こった時のコストを承知しながらも、原子力を推進したのか、ということに通ずるものがある、ということを感じたので、少しそれを考えてみたい。

"My Revolution"(断わっておくが、私はこの曲が好きである。カラオケなどには滅多に行かないが、この曲なら人前で歌うこともいとわない)の歌詞はこちらのページで読むことができる。1960-70年代生まれの人なら、たぶん歌詞を見なくても口ずさむことができるだろう。著作権上、どこまで引用してよいかわからないが、特にここで重要なフレーズとして以下の部分だけ抜き出しておこう。
夢を追いかけるなら
たやすく泣いちゃだめさ
君が教えてくれた
My Fears My Dreams 走りだせる
この歌詞を思い浮かべた時、「原子力は夢のエネルギー」と「宇宙開発は人類の夢」というフレーズが同時に思い起こされ、ある種の連関があるのではないか、とふと思ったのである。

そう、これまで科学技術は常に「夢」という単語とセットになっていたのだ。「夢」である限り、そこにチャレンジをすることが認められ(許され)、「夢」を追い求めている姿は耽美的であり、「かっこいい」とされてきたのだ。「夢」であるからこそ、失敗することも想定されており、「夢」であるから成功することの偉大さが生まれてくるのである。

そして、「夢」を追いかけるなら、たやすく泣いてはいけないのである。あらゆる批判や罵詈雑言を浴びても、「夢」である限り、それを追い求めることは正当化され、そして批判されることの「Fears」があっても、それを押しのける勇気をもって走りだすことができるのである。

さらに、この"My Revolution"という曲は、直訳すれば「私の革命」ということであり、一種の現状打破を奨励する曲となっている。そのため「明日を乱す」ことが推奨されている。乱すということが何を意味しているかは、この曲の中では明示的ではないが、少なくとも、今日とは違う明日をもたらすことが良いこととされている。その革命を実現することこそが「夢」であり、今日、反原発運動が高まっていても、明日を乱し、新しい世界がやってくれば「夢」を実現することが正当化される日がくる、という風に読み取ることができる。

私は必ずしも原子力の専門家ではなく、宇宙開発について政策的な側面から勉強してきた立場であるため、原子力に携わる人たちが果たしてこのように考えているのか、ということについては直感的には分からない。しかし、宇宙開発に携わる人たちとの付き合いを通じて感じるのは、彼らが、まさに上記のような「夢」を追いかけることへの執念というか、自己正当化というか、世界観をもっており、私のような政治学を勉強しているような門外漢が何か言おうとも、それは「Sweet pain」くらいにしか感じず、私の言うことなど全く気にせず「明日を乱す」ために「走りだせる」人たちなのだ、ということである。

そう思った時、日本における原子力政策や宇宙政策の根深さというか、安定性というか、批判に対する抵抗力の強さを感じたのである。これは、一方で継続的な研究開発を必要とし、多くの研究者や技術者の能力を総動員して一つの技術を開発していくというためには必要なことであり、高く評価されるべき規範である。しかし、他方で、自らの「夢」を実現することが目的化し、それが社会へのインプリケーションや原発事故のような大惨事を招くことから目を遠ざけ、他者の批判に耳を貸さなくなるということの表れでもある。まさに「○○ムラ」と揶揄される世界では、「夢」の実現のために「走りだせる」人たちが、「一人の夜はつらい」がゆえに、手を携えて「明日を乱す」ために努力してきたのである。

もし宇宙政策における私の直感が正しく、それが原子力政策にも応用できると考えると、これから「脱原発」を進めようとする人たちも大変な苦労に直面するだろう。「○○ムラ」が単なる「利益共同体」ではなく、「私の革命」を進めるための連帯組織であるとするなら、単に利益の問題ではなく、信念の問題となる。多少、予算が減ろうとも、多少、賠償金を払おうとも、その信念の共同体が揺るがない限り、「脱原発」は成立しない。つまり、「脱原発」を進めるためには、巨大科学技術が「夢」であることを止めなければならないのである。

すでに福島第一原発の事故を目の当たりにし、日々ガイガーカウンターとにらめっこしている人たちにとって、原子力は「夢のエネルギー」どころか「悪夢のエネルギー」でしかない。しかし、これまで原子力政策を推進してきた人たちにとって「悪夢」になっているかどうかは定かではない。

過去にドイツイタリアの「脱原発」について、過大評価をすべきではないというコラムをこのブログでも書いてきたが、少なくとも、日本と比べれば、これらの国々において、原発が「悪夢だ」と思う人が多くなってきていることは事実であろうし、また、ドイツやイタリアの「原子力ムラ」に「夢」という価値観や"My Revolution"のような技術者を後押しするような曲がない、ということも言えるだろう。

このように考えると、日本における科学技術政策のあり方、そして科学技術をめぐる価値規範のあり方について、しっかりと考察をしなければ、おいそれと「脱原発」が進むともいえないであろうし、場合によっては、「夢」を追いかける人たちが、その勢いを取り戻してくる可能性もある。それを十分認識したうえで、これからの科学技術政策、エネルギー政策を考えていく必要があるのではないだろうか。

改めて断わっておきますが、ここで書いた内容は"My Revolution"という曲とは全く関係なく、ただ、私が強引にこじつけて議論を展開するための触媒として使っているだけです。この曲のファンの皆様の気分を害することがあったとしたら、伏してお詫び申し上げます。

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