2011年7月13日水曜日

平成23年版科学技術白書の不気味さ

先日、公表された平成23年版科学技術白書を読んで、不気味さと吐き気を強く感じ、とりあえずこの気持ち悪さを記録にとどめておこうと思い、ブログを書いている。

この白書で明記されているように、福島原発の事故はこれまでの科学技術政策のあり方を厳しく問い直し、抜本的な見直しが必要であることは疑いない。にもかかわらず、全体を通して受ける印象は「本当に文科省(旧科技庁部分)はそのことを理解しているのか?」ということであった。

確かに、きちんと反省しているところもある。たとえば第一章の9ページで
緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムについては、放出源情報を得ることができずに大気中の放射性物質の濃度等の変化を定量的に予測するという本来の機能を発揮できなかった。放出源情報の推定や推定結果を基にした積算線量の試算、モニタリングの調査区域の設定の参考に用いられるなど様々な形で補完的に活用されたが、その活用の体制や公表の在り方にも課題を残した
といったことを書いているのは評価できる(果たしてこの反省がどう活かされるかは別問題だが)。

また、第一章11ページでは
本白書第1部では、「社会とともに創り進める科学技術」という特集テーマの下、科学技術に対する国民の理解と信頼と支持を得ることができるよう関係者が進めてきている科学技術コミュニケーション活動の現状と課題について示している。しかし、こうした関係者の思いとは裏腹に、特に今回の原子力発電所事故により、国民の理解と信頼と支持という点で大きな課題を突き付けられることとなった。
 事故に関するコミュニケーションでは、透明性、正確性、迅速性が重要であるが、事故発生の当初の段階では、自治体への通報の遅れを含めて適時かつ的確な情報の提供が進まず、事故に関するコミュニケーションに課題を残した。
と問題点があるということは認識しているようである。そのため、この白書では、科学技術コミュニケーションが重要であり、社会に支持される科学技術となるべきである、ということが強く主張されている。

ここで、不気味さが顔を出してくる。これまでの科学技術コミュニケーションは多くの論者が明らかにしているように、「科学技術は複雑で難しく、一般の人には理解できない」という前提に立ち、「わかっている専門家が優しい言葉で説明すればわかってくれるはず」という期待が込められている。

しかし、今回の震災と原発事故で明らかになったのは、まさにこの逆だったのではないだろうか。確かに、放射能に関する技術的、科学的理解が十分ではないため、社会に大きな混乱が起きていることは確かだが、それ以上に問題なのは、「専門家」と言われる人たちがさまざまな意見と立場をもち、それらの立場に立って発言したため、「何が正しいのかわからない」という状況が生まれた、ということであった。つまり、科学技術、とりわけ社会の支持を必要とする科学技術は、しばしば専門家の間でもさまざまな意見があり、彼らの見解や彼らが「科学的データ」として示すものが、矛盾したり対立したりする、ということを、この科学技術白書は完全に無視しているのである。

これはすなわち、意見が分かれる問題であり、社会的な支持を必要としている科学技術に関して、「文科省の立場」に立って発信してくれる専門家(しばしば「御用学者」として非難される対象ともなる)を重用し、その立場に立った意見や見解を「政府の正しい見解」として発信し、十分な知識をもたない一般市民を啓蒙する、といった姿勢を変えていないのである。

この点は第一章、12ページの記述にも表れる。
研究者・技術者、政策担当者は、各々の専門分野にとらわれない俯瞰的な視点で議論を深め、科学技術のもたらすリスクの科学的な評価や社会・国民生活への影響評価を行うことにより、適切なリスク評価とリスク管理に基づくより良い科学技術マネジメントの実現を図っていく必要がある
つまり、専門家が、それぞれの専門の立場ではなく「俯瞰的な視点」、すなわち政府の視点で議論を深め、「より良い科学技術マネジメントの実現」、すなわち文科省の都合のよい政策を実現していこうとする姿勢に読めてくる。

さらに、科学技術コミュニケーションを論じる第二章の冒頭では以下のように述べられている。
このような中で、科学技術イノベーション政策を国民の理解と信頼と支持を得て、一丸となって推進していくためには、科学技術に関する情報の公開、共有と、それに基づくコミュニケーションが不可欠である。(55ページ)
すでに述べたように、科学技術の見解はさまざまであり、リスクをどう認識するのか、何をAcceptableリスクとしてみなすのか、というのは市民の個人的な主観によるものである(この点についてはすでに別のブログ記事で論じた)。にもかかわらず、ここで「国民の理解と信頼と支持を得て、一丸となって推進していく」と措定されているのは、大変不気味である。つまり、元々、国民の中で意見や見解が分かれるような科学技術であっても、「一丸となって推進」するために、多少の操作や情報隠しはやむを得ない、というような発想をもっていたらとんでもない話である。

なぜ、ここで言わなくてもよい「一丸となって」という表現を使うのか。私はこの神経を永遠に理解できないのだが、要は、リスクがあり、個々人が異なる意見や見解をもっていることとは関係なく、「科学的」で「客観的」なデータを提供し、きちんと科学技術コミュニケーションをとれば、無知蒙昧な市民はきっと文科省の言う通りになるだろう、というような意識が見え隠れするのである。

一応、この白書ではこうした問題点が指摘されていることは認識している。56ページに以下のようなことが書かれている。
これまで、政府は、国民に自らの取組について理解を求めるといった一方向のコミュニケーションになりがちであったと指摘されている。今後求められる科学技術に対する国民の理解と信頼と支持という地平にどのようにたどり着くのか、双方向コミュニケーション活動の一層の拡大等、対応すべき課題は多い。
しかし、問題点が指摘されている、と言いながら、「対応すべき課題は多い」といって、解決を提示していない。なぜならば、文科省自身が問題点が指摘されていることには気づいていても、その問題の本質が理解できていないからである。

その本質とは何か。それは、文科省が科学技術の生産者側、つまり研究者や技術者の側を向いており、科学技術の消費者、つまりリスクを引き受けなければいけない側の市民の側に立っていないからである。これは経産省が電力会社の側に立って原発を再稼働させようとさまざまな形で画策するのと、構図としては同じである。

文科省は科学技術を振興するための予算をとるため、科学技術の生産者の側に立ち、彼らの利益を代弁するとともに、不確実性があり、リスクを伴う科学技術であっても、それを推進するためには、それを「安全神話」で包み込み、それを市民に飲み込ませようとする姿勢から離れられないからである。そして、数多くの研究者や技術者が、そうした「○○ムラ」に安住し、文科省と技術者とそれにかかわる産業との癒着を起こしている、という点が、この問題の本質である。

ゆえに彼らはいまだに「国民の理解と信頼と支持」を得るため、何らかの「神話」を作って、それを市民に飲み込ませることを考えるのである。しかし、市民は無知でも蒙昧でもない。専門家の中には文科省の「公式の神話」に乗らずに、別の立場や見解から発信する人たちもいる(原子力政策では明確にその存在が認識されるようになった)。市民はそういう人たちの意見も「専門家」の意見として聞き、それが文科省の「公式の神話」と異なる場合、何が正しいのかわからなくなり、混乱するのである。

それを「双方向コミュニケーション活動」や「科学技術を分かりやすく親しみやすい形で人々に伝え、対話を深めるアウトリーチ活動の推進、成人に身につけて欲しい科学技術リテラシー像の策定」(55ページ)といった小手先の活動で何とかしようとしているところに不気味さを感じるだけでなく、卑しさすら感じる。なお、断わっておくが、文科省の「公式の神話」が間違いだとか、異なる立場の専門家が正しい、というつもりはない。科学技術の見解は多様であり、一つの見解にまとめることを権力的に行うべきではない、と主張しているのである。

このように、白書は一貫して「社会」「国民」との関係に重点を置き、政策立案についても、「熟議」を重ねていることをアピールし、NPO法人などを通じて国民との対話の場が作られていることも強調している。これらの試みが悪いと言うつもりはないが、政策立案で市民の意見を参考にします、というのは、ある意味で当たり前の話であり、それ以上のことが述べられていない、ということが問題である。

つまり、科学技術と産業との関係、科学技術と安全保障との関係(もちろん原子力などは非核三原則がある、ということで終わってしまうのだが、安全保障上のリスク、たとえば核テロの問題などは含まれていくべき)、科学技術と国際関係の問題(たとえば、国際競争力や国際協力)など、科学技術の「政策立案」においては、さまざまな角度から議論されるべき問題があり、それは単に国民との対話や熟議という範疇では収まらない話である。しかし、社会に支持され、国民に理解される政策を標榜するのであれば、科学技術がただ単に科学技術という世界に閉じこもったものではなく、まさに「社会および公共のための政策」(99ページ)であるということを踏まえた議論が必要である。

しかし、この白書では、そうした問題はすべて捨象され、抽象的な「社会」や「公共」という言葉に回収されてしまっている。本来ならば、こうした問題を具体的に論じ、その中で、科学技術政策を国民がどうとらえるのか、ということを論じるべきである。しかし、そうしないのは、「社会」や「公共」のための科学技術という議論を始めると、さまざまな意見や見解が噴出し、それをまとめて「一丸となって」政策を推進するのが困難になるからではないかと思われる。確かに、文科省設置法では、文科省の所掌は研究開発や科学技術の振興であり、「社会」や「公共」のための政策をやることではない。ゆえに、法律に制約されている分、そうした具体的な議論ができない、ということもあるだろう。しかし、そうだとしても「社会および公共のための政策」というのであれば、その中身を精査する必要があり、それをしなければ「社会および公共のため」というお題目は空虚なものでしかなくなる。その辺の認識が極めて弱いのも、この白書の特徴と言えよう。

さらに理解ができないのは、第四期科学技術基本計画の策定に向けた議論の中で出てきた、「客観的根拠(エビデンス)に基づく政策の企画立案や、その評価及び検証の結果を政策に反映するため、『科学技術イノベーション政策のための科学』を推進する」という目標である(文部科学省の資料)。

第一に、政策の企画立案をするときに客観的根拠をもたない、ということがあるのか、という疑問である。客観的根拠をもたない政策立案をしてきた過去があるから、こうした目標が設定されるのだろうと思われるのだが、いったい何を言いたいのか、いまだにわからない。さまざまな資料を読む限り、ここでいう「客観的根拠」というのは、社会経済的なデータを踏まえ、社会に役立つ科学技術イノベーションをせよ、ということなのだろうということは、おぼろげながらにわかるのだが、そうしたことをやってこなかったこと自体がショッキングであり、これまで社会経済のことなど考えずに科学技術政策を行ってきた、ということはスキャンダルですらある。

また、社会経済のデータといっても、かなり恣意的に選択することが可能であり、果たしてその「客観性」をいかにして担保するのか、ということについては明確にされていない。一体何をもって「客観的」というのか、また、社会経済のデータといっても無数にあり、それをどう科学技術イノベーション政策に含めていこうとするのか、はなはだ疑問である。

第二に、「科学技術イノベーション政策のための科学」という表現に気持ち悪さを感じる。科学技術とイノベーションは必ずしも一致しないことはよく知られている。イノベーションとはシュンペーターの定義によれば「新しい価値の創造」であり、必ずしも新しい技術によってもたらされるものではない(もちろん新しい技術が新しい価値を創造することは大いにある)。なので、「科学技術イノベーション」という単語自体も無理やり感があり、あまりほめられた用語法ではない。

さらに、その「科学技術イノベーション」を導き出すための「政策」がある、ということが措定されている。まあ、政策的な措置、つまり予算をイノベーションを起こしそうな科学技術に投入するという判断をする、ということは理解できる。しかし、その後に続く、「政策のための科学」となるとわけがわからなくなる。

「科学技術イノベーション政策のための科学」というと、オセロではないが、みんな「科学」になってしまい、果たしてこの最後の「科学」が何を意味しているのかは明示的ではない。仮にこの最後の「科学」を「社会科学」として見ると、案外座りは良い。「科学技術イノベーション政策のための社会科学」となると、イノベーションを起こしそうな科学技術は何かを政策的に判断するための政治学、経済学、社会学などなどをやるべきだ、という議論がある。これは宇宙政策などをやっている私としては、ちょっと自分の利益にもなるかもしれない、という期待が持てる(まあ、これだけ科学技術政策を批判しているのだから、私に何らかのメリットが回ってくることは当初から期待していないが)。

しかし、社会科学を「客観的根拠」に基づく政策立案を行うための「科学」とするのは、結構しんどい。というのも、社会科学自体が多様で、論争的な科学であり、往々にして「客観的根拠」を「主観的な判断」で分析、理解していく科学だからである。社会科学が科学たりえるのか、というのは永遠の課題であるが、無理やり科学っぽさを出そうとして、社会科学を形式化させていったアメリカの政治学などが、結果的にどん詰まりな状態になっているのを見るにつけ(このあたりの評価も人によって大きく分かれる)、社会科学を「客観的根拠」に基づく政策立案のための道具として使うのは、なかなか難しいと思われる。

ずいぶん長い記事になってしまったが、私が感じた科学技術白書がもつ不気味さ、日本の科学技術政策がもつ、ある種の政策規範、政策イメージの問題を理解してもらえれば幸いである。そして、福島原発事故を起こした日本の科学技術政策の問題の本質は、科学技術政策が「政策」として持つ権力性と、それによる「公式の神話」の必要性、さらには、多様な意見や見解を抹殺し、「一丸となって」科学技術政策を進めるための、「客観的根拠」に基づく政策という擬制をまとって、市民に向かって「科学技術コミュニケーション」を展開することであり、文科省はそれに気が付いていない、ということに対する懸念を共有してもらえれば幸いである。

3 件のコメント:

  1. 先生・・・blogの出だし・・・強力すぎ。

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  2. nos_k_spさん、コメントありがとうございます。ブログですので、気兼ねなく正直な気持ちを書きました。これだけ多くの人を傷つけ、不安に陥れても現実に気がつかない日本の在り方に不気味さと吐き気を覚えています。福島から避難した人たち、放射能に怯える日々を過ごしている人たちと比べれば、私の不快感など大した問題ではありません。

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  3. ぜひこちらへの投稿をよろしくお願いいたします。
    日本の科学を考える 投稿募集
    http://scienceinjapan.org/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%81%AE%E5%8B%9F%E9%9B%86

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