現在、出張でニューヨークに来ています。仕事は国連総会の第一委員会に合わせて行われるシンポジウムに出ることなのですが、飛行機の都合で一日余裕があったので、「ウォール街を占拠せよ運動(Occupy Wall Street)」の現場を見に行ってきました。現地からの印象はツイッターでメモ書きを送信しましたが、現地で撮った写真もつけてコメントしたいと思います。
この「占拠運動」の第一印象は、「議論の場」ということでした。とにかく、いろんな人たちが様々なプラカードを掲げていて、好き放題に色々なことを主張していて、それに挑戦する人、共感する人がとにかくよくしゃべっている。「占拠運動」の基本的な路線はアメリカにおける貧富の格差への怒りであり、大企業や投資銀行が救われているのに、人々が救われていないということへの怒りなのですが、現在のシステムに対する不満を持っている人が思い思いに集まって、現状への批判を繰り広げているという点は、想定されているよりも運動の幅が広いということを示しているのと同時に、社会のマージナルな人たちの集合になってしまっているという印象もあり、運動としてどこまで力を持ちえるのか、疑問が残りました。
彼らの主張を見ていると、警察批判や遺伝子組み換え食品反対、共和党批判、オバマ支持と批判、エコロジー運動、戦争反対、ハイチ救済、ネイティブ・アメリカン差別問題、世界平和などなど、とにかくバラバラ。それらをまとめるという方向性もなく、思い思いに主張しているという印象でした。そこで重要になるのがプラカード。プラカードに書かれたメッセージを持っている人たちに対して、議論をふっかけたり、説明を求めたりするような討論の場が自然にできていることはとても面白かったです。以下の写真はいくつかのプラカードの写真です。
こうした状況を見ていると、リベラルなテーマを一堂に集めた、ある種の言説のデパートのような場所というのが、このズコッティ広場の特徴のように思いました。一応の統一感(参加している人たちの雰囲気や大きな意味での価値観)はありつつも、主張していることはバラバラで、それぞれ個人商店のようにやっているという印象でした。
しかし、それでもここに泊まり込み、自分たちの主張を表現し続けようとするエネルギーがどこから来るのか、というのは、今一つよくわかりませんでした。単なる怒りというだけではない、何かもっと信念のようなものを感じました。ということは、その信念を共有できなければ、この運動に外部から参加する人が増えていくということにはならないという気もしました。
これは、言い方を変えると、この「占拠運動」はティーパーティのような政治運動にはならないのではないか、という印象を受けました。ティーパーティの場合、明確な政治的目標があり、それを実現する政治家を支援し、その政治家を当選するために票を集めるという運動を展開したわけですが、この「占拠運動」は、必ずしもそうした政治的な単一のメッセージを訴えているわけでも、政策的なプログラムを提案しているわけでもなく、ただ単に批判をしているという段階にとどまっているという印象が強かったです。それは、個々の信念は強くても、結局、それは個人レベルの価値観でとどまっており、実現しようとする世界と、現実世界の間をつなぐイメージができていないということが問題だと思いました。
しかし、オバマ大統領もこの運動を支持し、私が見ている間に民主党の大物のジェシー・ジャクソン(彼は一応政治を引退したことにはなっていますが)が来ていました。また、民主党の下院院内総務のナンシー・ペローシも運動を支持する(Endorseすると言っていました)といっていて、一応、民主党リベラル派は運動にすり寄っているという印象はありますが、運動の側から積極的に彼らに働き掛けるという感じもなく、ジェシー・ジャクソンが来ている間も、メディアの取材記者は集まっていたようですが、周りの運動参加者は関心を持たず、ほとんど見向きもしていなかったのが印象的でした。
さらに、このズコッティ広場から見ると、ウォール街やグラウンド・ゼロなどがすぐ近くにあり、ビジネスマンや買い物客、観光客など、普通の生活をしている人たちが普通に通り過ぎていき、まったく交わる様子もありませんでした。観光客は(私も含め)この運動を見に来たという人たちがいて、写真を撮ったり、「99%!」と書かれたTシャツなどを買っていましたが、それ以上のコミットメントはしないというか、中に入りづらいような状況で、遠巻きに見ているという印象が強かったです。下の写真の手前を歩いている人たちやフェンスに沿って歩いている人たちは観光客の人たちです。
なので、ここの人たちは自らを99%だと主張しているけれども、結局のところ、ここに集まっている人たちは、強い信念を持って現状のシステムに不満を持つ1%であって、その向こうを歩いているビジネスマンや観光客が99%なのではないか、という気が強くしました。
確かに、この運動が主張する貧富の格差の問題や、銀行を救っても市民を救わない政府に対する怒りというのは多くの人に共有されているのだろうと思います。しかし、それは漠然とした抽象的なイメージだからこそ共有されるのであって、具体的な政策や税制の問題などになると、どこまで一致した議論になるのか、また、その後のアメリカの行方、経済政策などをどうマネージするか、という問題になった瞬間に、議論が停滞し、原理原則・信念の主張を繰り返すような結果になってしまいそうな気がしました。
その点から考えると、この「占拠運動」はティーパーティのような政治的なムーブメントにはならないだろうし、オバマ大統領にも失望している以上、彼以上のリベラルな候補をホワイトハウスや議会に送り込むというのは事実上無理なように思います。
とはいえ、これだけ大きな運動となり、大きく取り上げられ、世間の耳目を集めることには成功したので、この運動を完全に無視するということは実質的に無理だろうという気もしています。なので、この「占拠運動」の社会的な意味は、来年の大統領選、議会選挙において、どれだけ「占拠運動」で訴えられた貧富の格差の問題やウォール街の規制を行うのか、ということが争点となるということだろうと思います。「占拠運動」によって提起された問題が、何らかの形で政治家によって取り上げられ、選挙の争点になるようなことになれば、それだけで「占拠運動」は意味があると思いますし、それが一つの成果になるような気がします。
しかし、残念ながら、今日行われた共和党の大統領候補の討論会では、こうした問題が全く取り上げられず、やや泥仕合のような形になっていたのは残念。来年の選挙がどうなるかはわかりませんが、共和党が「占拠運動」が提起する問題を取り上げない限り、結局、アメリカ国民の中に蓄積されている不満は解消されず、問題は深刻になっていく一方のような印象を持っています。
東日本大震災を受けて、世の中が大きく変わっていく中で、日々のニュースに触れて、いろいろと考えなければならないテーマが出てきました。商業的な出版や学術的な論文の執筆にまでは至らないものの、これからの世の中をどう見ていけばよいのかということを社会科学者として見つめ、分析し、何らかの形で伝達したいという思いで書いています。アイディアだけのものもあるでしょうし、十分に練られていない文章も数多くあると思いますが、いろいろなご批判を受けながら、自分の考えを整理し、練り上げられれば、と考えています。コメントなど大歓迎ですが、基本的に自分のアイディアメモのような位置づけのブログですので、多少のいい加減さはご寛容ください。
2011年10月19日水曜日
2011年10月2日日曜日
Good News and Bad News(その2)
さて、前の記事の続きだが、昨日の閣議決定にはもう一つ大きな決定があった。こちらがBad Newsである。それは「宇宙空間の開発・利用の戦略的な推進体制の構築について(以下、体制決定)」である。
すでに前の記事で述べたように、2008年の宇宙基本法では宇宙政策の政策決定一元化が書かれている。つまり、これまで文科省や経産省などにバラバラについていた宇宙開発(関連)予算を一元化し、一つの意思決定ラインで日本の宇宙政策を戦略的に決定していく仕組みが描かれていたのである。その中心には、総理大臣を本部長とする宇宙開発戦略本部があり、宇宙開発担当大臣を設置するということは定められており、実際に宇宙基本法成立以降、戦略本部と担当大臣は設置されている。しかし、その戦略本部と担当大臣を支える行政機構については「一元化」という表現しか使われておらず、具体的にどのような形で一元化を進めるのかが明示されていない。
というのも、当時、宇宙基本法の共同提案を行った自民党と民主党の間で、この行政機構に関するイメージが共有されておらず、当時野党の民主党は「日本版NASAを作る」と主張し、より集権的で技術開発も政策立案も行う大きな仕組みを提案していたのに対し、自民党は「宇宙開発戦略本部を中心とする行政的な機構」を想定し、現在のJAXAのような技術開発機関は残す方針を示していた。
また、この一元化を実現するためには、それによって不利益をこうむる既得権益をもつ組織を納得させなければならなかった。その組織とは、日本の宇宙開発を主導し、その中心にあり続けた文科省(ないしは旧科技庁)である。
文科省にとって、宇宙開発は単なる既得権益以上の意味を持っているのではないかというのが筆者の見立てである。というのも、1999年の東海村におけるJCO事故をきっかけに、2001年の省庁再編で原子力局は経産省傘下の資源エネルギー庁、原子力安全局を経産省傘下の原子力安全保安院に奪われた旧科技庁にとって、宇宙は残された巨大プロジェクト分野であったからである。仮に宇宙基本法に従って、宇宙分野まで失ってしまえば、旧科技庁が行ってきた事業のほとんどが否定されるような状況になると言う組織的アイデンティティの問題があるからである。
そのため、文科省は宇宙政策の一元化に対して極めて強い抵抗を示し、宇宙基本法で示されているにも関わらず、それが実行されないという「違法状態」が続いている。このような文科省の抵抗によって一元化が進まないことに対し、宇宙政策決定過程の不効率や、「研究開発」のみを所掌する文科省が宇宙予算の大半を握っている状態を続けることで、「開発から利用へ」というシフトがなかなか進まないことが問題とされており、一刻も早い一元化を目指すべく、さまざまな議論がなされてきた。
しかし、今回の体制決定は、そうした議論を無視し、文科省がその既得権益を維持することを閣議決定したものと見ることができる。というのも、この体制決定では、「内閣府に我が国宇宙政策の司令塔機能と準天頂衛星システムの開発・整備・運用等施策実施機能を担当する耐性を構築するために必要な法案」を次期通常国会に提出する、とはされているが、以下のような留保がついている。
これらをまとめて言えば、内閣府には司令塔機能を移すが、JAXAと予算は文科省が独占させていただきます、という話である。つまり、文科省は政策決定の「司令塔機能」(これも行政用語としては今一つ輪郭がはっきりしていない言葉)は渡してもよいが、JAXAに流す予算は渡さない、ということを明示したに等しい。
ここから明らかになることは、(1)次期通常国会で内閣府に宇宙政策に関する部局ができること、(2)その部局は少なくとも準天頂に関しては予算を取ることができること、(3)しかし、それ以外の宇宙開発予算は基本的にこれまで通り文科省とその他の省庁に流れること、という三点である。
これは「一元化」という観点からみれば、ほとんど前進していないと言わざるを得ない。しかし、それでも一歩は一歩である。Bad Newsではあるが、まったく光明が見えない話ではない。
準天頂で可能であったように、最初に研究開発は文科省=JAXAで進め、それが整備・運用、つまり利用の段階に入ってくると、内閣府が担当し、予算を取ってくると言うパターンを作り出すことは可能だ。研究開発はあくまでも文科省が行うが、どのようなプロジェクトを進め、どのような研究開発を進めるべきかを判断するのは、宇宙開発戦略本部であり、内閣府の宇宙政策の司令塔である。その意味では、文科省はこれまでのような宇宙開発の「大半」を担当するのではなく、あくまでも全体の「一部」を担うだけの役所ということになるだろう。
重要なことは、これからの日本の宇宙開発が単に研究開発で終わるのではなく、最終的に利用につながる研究開発を進めるということである。単なる研究開発で終わってしまうのであれば、これまでと変わらない。しかし、新たにできる内閣府の司令塔が、研究開発から利用までの大きなビジョンを描き、その研究開発の部分を文科省が担当すると言う分業体制が確立すれば、宇宙基本法で目指した体制に近づくと言える。
こう考えると、今回の体制決定はそれほど悪いものではないように見えるかもしれない。しかし、それでもBad Newsとしてタイトルをつけたくなるのは、現実の宇宙政策を考える上で、現状の財政的な制約を考えると、文科省と内閣府が麗しく共存することが難しいと思われるからである。
宇宙開発予算はすべての役所に配分されているものを合わせても、3000億円程度の規模である。これは内閣府に司令塔機能ができても、それほど大きくは変わらないどころか、財政状況を考えれば減っていくと見るのが自然であろう。そう考えると、内閣府が利用のプロジェクトを進めれば進めるほど、文科省に回っていく研究開発予算は減っていく。単純なゼロ・サム・ゲームだ。
そうなると、文科省は自らの予算を何とか確保しようと、内閣府で進める利用プロジェクトの足を引っ張り、研究開発プロジェクトを増やそうとしていくインセンティブを持つことになる。そうなると、宇宙基本法が目指した「開発から利用」という一貫した宇宙政策の展開は難しくなり、「開発か利用か」という争いが起きる可能性もある。
しかし、宇宙基本法はそうなった場合の裁定方式もきちんと用意してある。それは、総理大臣を本部長とする宇宙開発戦略本部の存在である。これは総理を本部長とし、すべての閣僚がメンバーとなる、閣議と同等の位置付けにある。そのため、文科省と内閣府の間で「開発か利用か」という争いが生じた時、それを裁定し、日本の宇宙開発がどのような方向性を持って進められるべきなのか、ということを政治が決定することになる。
これは、これまで文科省の役人やJAXAの技術者が中心となって進めてきた宇宙開発の仕組みを大きく変えるものであり、そうした政治的な決定を高いレベルで行うことで、日本の宇宙開発が国家戦略の一部として遂行されるということを意味する。
奇しくも、野田総理大臣は自公民三党合意で宇宙基本法を国会に提出する際、民主党の科学技術PTのリーダーとして、民主党を代表して宇宙基本法を推進した方である。そういう人が総理大臣にいる限り、文科省が既得権益の維持を目指して、内閣府の司令塔機能とバトルを繰り返したとしても、政治の力で裁定をし、問題を解決することができるだろう。これまで様々な期待を裏切ってきた民主党であるだけに、なんとも心許ないが。
すでに前の記事で述べたように、2008年の宇宙基本法では宇宙政策の政策決定一元化が書かれている。つまり、これまで文科省や経産省などにバラバラについていた宇宙開発(関連)予算を一元化し、一つの意思決定ラインで日本の宇宙政策を戦略的に決定していく仕組みが描かれていたのである。その中心には、総理大臣を本部長とする宇宙開発戦略本部があり、宇宙開発担当大臣を設置するということは定められており、実際に宇宙基本法成立以降、戦略本部と担当大臣は設置されている。しかし、その戦略本部と担当大臣を支える行政機構については「一元化」という表現しか使われておらず、具体的にどのような形で一元化を進めるのかが明示されていない。
というのも、当時、宇宙基本法の共同提案を行った自民党と民主党の間で、この行政機構に関するイメージが共有されておらず、当時野党の民主党は「日本版NASAを作る」と主張し、より集権的で技術開発も政策立案も行う大きな仕組みを提案していたのに対し、自民党は「宇宙開発戦略本部を中心とする行政的な機構」を想定し、現在のJAXAのような技術開発機関は残す方針を示していた。
また、この一元化を実現するためには、それによって不利益をこうむる既得権益をもつ組織を納得させなければならなかった。その組織とは、日本の宇宙開発を主導し、その中心にあり続けた文科省(ないしは旧科技庁)である。
文科省にとって、宇宙開発は単なる既得権益以上の意味を持っているのではないかというのが筆者の見立てである。というのも、1999年の東海村におけるJCO事故をきっかけに、2001年の省庁再編で原子力局は経産省傘下の資源エネルギー庁、原子力安全局を経産省傘下の原子力安全保安院に奪われた旧科技庁にとって、宇宙は残された巨大プロジェクト分野であったからである。仮に宇宙基本法に従って、宇宙分野まで失ってしまえば、旧科技庁が行ってきた事業のほとんどが否定されるような状況になると言う組織的アイデンティティの問題があるからである。
そのため、文科省は宇宙政策の一元化に対して極めて強い抵抗を示し、宇宙基本法で示されているにも関わらず、それが実行されないという「違法状態」が続いている。このような文科省の抵抗によって一元化が進まないことに対し、宇宙政策決定過程の不効率や、「研究開発」のみを所掌する文科省が宇宙予算の大半を握っている状態を続けることで、「開発から利用へ」というシフトがなかなか進まないことが問題とされており、一刻も早い一元化を目指すべく、さまざまな議論がなされてきた。
しかし、今回の体制決定は、そうした議論を無視し、文科省がその既得権益を維持することを閣議決定したものと見ることができる。というのも、この体制決定では、「内閣府に我が国宇宙政策の司令塔機能と準天頂衛星システムの開発・整備・運用等施策実施機能を担当する耐性を構築するために必要な法案」を次期通常国会に提出する、とはされているが、以下のような留保がついている。
(1)「宇宙庁(仮称)」的な一元化ではない形で実効的な宇宙開発利用体制を構築すること。なお、宇宙庁については、科学技術・イノベーション政策の検討とも連携しつつ、将来的な課題として引き続き検討する。さらに、「独立行政法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)の主務省については、これまでの文部科学省による監督実績及びその予算の大部分を文部科学省が支出していることを尊重しつつ、宇宙開発戦略本部を支える内閣府が司令塔機能の実効性をどのように確保するかについて検討を行う」という文言が入っている。
(2)内閣府の司令塔機能と準天頂衛星システムの開発・整備・運用等実施機能を行政組織のどのレベルで切り分けるかについては中立公正の要請および組織の肥大化防止の要請を踏まえた実効的な宇宙開発利用体制の構築に向け検討を行うこと。
これらをまとめて言えば、内閣府には司令塔機能を移すが、JAXAと予算は文科省が独占させていただきます、という話である。つまり、文科省は政策決定の「司令塔機能」(これも行政用語としては今一つ輪郭がはっきりしていない言葉)は渡してもよいが、JAXAに流す予算は渡さない、ということを明示したに等しい。
ここから明らかになることは、(1)次期通常国会で内閣府に宇宙政策に関する部局ができること、(2)その部局は少なくとも準天頂に関しては予算を取ることができること、(3)しかし、それ以外の宇宙開発予算は基本的にこれまで通り文科省とその他の省庁に流れること、という三点である。
これは「一元化」という観点からみれば、ほとんど前進していないと言わざるを得ない。しかし、それでも一歩は一歩である。Bad Newsではあるが、まったく光明が見えない話ではない。
準天頂で可能であったように、最初に研究開発は文科省=JAXAで進め、それが整備・運用、つまり利用の段階に入ってくると、内閣府が担当し、予算を取ってくると言うパターンを作り出すことは可能だ。研究開発はあくまでも文科省が行うが、どのようなプロジェクトを進め、どのような研究開発を進めるべきかを判断するのは、宇宙開発戦略本部であり、内閣府の宇宙政策の司令塔である。その意味では、文科省はこれまでのような宇宙開発の「大半」を担当するのではなく、あくまでも全体の「一部」を担うだけの役所ということになるだろう。
重要なことは、これからの日本の宇宙開発が単に研究開発で終わるのではなく、最終的に利用につながる研究開発を進めるということである。単なる研究開発で終わってしまうのであれば、これまでと変わらない。しかし、新たにできる内閣府の司令塔が、研究開発から利用までの大きなビジョンを描き、その研究開発の部分を文科省が担当すると言う分業体制が確立すれば、宇宙基本法で目指した体制に近づくと言える。
こう考えると、今回の体制決定はそれほど悪いものではないように見えるかもしれない。しかし、それでもBad Newsとしてタイトルをつけたくなるのは、現実の宇宙政策を考える上で、現状の財政的な制約を考えると、文科省と内閣府が麗しく共存することが難しいと思われるからである。
宇宙開発予算はすべての役所に配分されているものを合わせても、3000億円程度の規模である。これは内閣府に司令塔機能ができても、それほど大きくは変わらないどころか、財政状況を考えれば減っていくと見るのが自然であろう。そう考えると、内閣府が利用のプロジェクトを進めれば進めるほど、文科省に回っていく研究開発予算は減っていく。単純なゼロ・サム・ゲームだ。
そうなると、文科省は自らの予算を何とか確保しようと、内閣府で進める利用プロジェクトの足を引っ張り、研究開発プロジェクトを増やそうとしていくインセンティブを持つことになる。そうなると、宇宙基本法が目指した「開発から利用」という一貫した宇宙政策の展開は難しくなり、「開発か利用か」という争いが起きる可能性もある。
しかし、宇宙基本法はそうなった場合の裁定方式もきちんと用意してある。それは、総理大臣を本部長とする宇宙開発戦略本部の存在である。これは総理を本部長とし、すべての閣僚がメンバーとなる、閣議と同等の位置付けにある。そのため、文科省と内閣府の間で「開発か利用か」という争いが生じた時、それを裁定し、日本の宇宙開発がどのような方向性を持って進められるべきなのか、ということを政治が決定することになる。
これは、これまで文科省の役人やJAXAの技術者が中心となって進めてきた宇宙開発の仕組みを大きく変えるものであり、そうした政治的な決定を高いレベルで行うことで、日本の宇宙開発が国家戦略の一部として遂行されるということを意味する。
奇しくも、野田総理大臣は自公民三党合意で宇宙基本法を国会に提出する際、民主党の科学技術PTのリーダーとして、民主党を代表して宇宙基本法を推進した方である。そういう人が総理大臣にいる限り、文科省が既得権益の維持を目指して、内閣府の司令塔機能とバトルを繰り返したとしても、政治の力で裁定をし、問題を解決することができるだろう。これまで様々な期待を裏切ってきた民主党であるだけに、なんとも心許ないが。
2011年10月1日土曜日
Good News and Bad News(その1)
昨日、野田内閣の閣議で「宇宙空間の開発・利用の戦略的な推進体制の構築について」と「実用準天頂衛星システム事業の推進の基本的な考え方」という二つの決定がなされた。これまで日本の宇宙政策を踏まえて考えると、とても興味深い二つの決定であり、今後の日本の宇宙開発に色々な影響をもたらす可能性のある決定だと考えている。
まず二番目の決定(以下、準天頂決定)から考えてみたい。この準天頂衛星は非常に複雑な歴史を背負ってきたプロジェクトであり、この決定に至るまで、10年以上の歳月を費やしてここに至った、ある意味感慨深いものである。
準天頂衛星は、そもそも2000年に経団連や日本航空宇宙工業会という宇宙産業界のイニシアチブによって始まったプロジェクトであり、当時、欧州で進められていたガリレオプロジェクトにヒントを得て(というか、かなり真似をして)、官民協力プロジェクトとして提案されたものであった。当初、準天頂衛星プロジェクトは、GPSのような測位衛星に、移動体通信や放送サービスを可能にする機材を搭載し、測位は国が、通信放送は民間が行うというかなり野心的なプロジェクトであった。国と民間が共に資金を出し合って衛星を開発、打ち上げ、運用するという計画で、日本で初めての官民協力プロジェクトであり、新たな宇宙開発利用の時代を予感させるものであった。
しかし、欧州のガリレオが進めていた官民協力のメカニズムも、結局、GPSの信号を無料で受信できるという条件の中で、有料の測位信号でビジネスを成立させることが無理、ということが判明し、欧州の民間企業はガリレオプロジェクトから撤退した。それと同じく、日本の準天頂衛星に関しても、測位衛星に通信放送機能を搭載することが技術的に難しいことが判明し、民間が撤退することとなった。
そうなると、準天頂衛星は国の事業部分である測位機能だけが残ることになる。しかし、国(とりわけ国交省)は、民間が始め、民間が金を出すから参加するという姿勢であったのに、いつの間にか、すべてのコストを国が負担し、運用の責任も国が負担するというのは話が違う、といって、準天頂衛星に対するネガティブな姿勢を取るようになった。
ところが、準天頂衛星が実現することを前提にしていた宇宙産業界は、国の消極的な姿勢に対して、さまざまな政治的な働きかけを行い、何とかこのプロジェクトを継続しようと頑張った。その結果、2006年の段階では開発四省(文科省、経産省、国交省、総務省)と内閣府および内閣官房が連帯責任を持ち、文科省が「技術開発」の名目で準天頂衛星3機のうち1機を開発し、残りの2号機、3号機については「民間の事業化判断」に基づいて推進するかどうか決める、という話になった。
元々民間が始めたプロジェクトなのに、民間が撤退し、それでも継続するという流れになっていた準天頂は、ここにきて究極の宙ぶらりん状態になり、それが数年続くことになった。
それが大きく変わったのが2010年9月である。2010年9月に準天頂衛星の初号機「みちびき」が打ち上げられ、その打ち上げが成功したことで、部分的には準天頂衛星システムが動き始めたのである。
そうなると、政府としても3機必要なシステムを1機だけ打ち上げて運用しているという状態に説明がつかなくなってきた。かといって、そもそも国が自分で言い出したわけでもないプロジェクトをどこかの役所が引き受けるということもなく、その宙ぶらりん状態が解消する見込みはほとんどなかった。
しかし、2006年と2010年では一つ大きな違いがあった。それは2008年に自民・公明・民主三党の共同提案による議員立法である宇宙基本法が成立していたことであった。宇宙基本法では、宇宙開発担当大臣が存在し(2010年9月当時は前原国交大臣が兼務)、宇宙開発戦略本部という、これまでにはなかった、国家戦略的な意思決定の場があった(といっても、あまり機能してはいなかったが、その事務局が文科省や経産省から離れて政策立案調査を行うことができた)。
そのため、前原宇宙開発担当大臣がイニシアチブをとり、準天頂衛星を1機だけでとどめるのではなく、きちんとしたシステムとして構築するという政策的方向性が打ち出されることになった。その時のキーワードになったのが「持続可能な測位」である。
欧州がガリレオを進めたのも、中国やロシアやインドがGPSという無料の測位信号を使えるにも関わらず、自らの測位衛星システムを構築しようとしているのは、GPSがアメリカの軍事システムであり、いつ、何時アメリカの都合でGPSが使えなくなるかわからない、アメリカが正確な位置情報を提供し続けるかどうかわからない、というリスクがある、という問題があるからである。つまり、各国とも、GPSに依存せずとも持続的に自分たちで測位ができるようにすることは、国家の責任である、との認識を高めているからである。測位情報(地理空間情報)が社会生活、経済活動の中に深く浸透している現代において、一国の都合でその信号が受けられなくなった場合に発生する社会的な混乱や経済的な損害が非常に大きくなるという懸念(加えて安全保障上の懸念を抱える国もあるだろう)があるから、各国とも自国の測位衛星システムを構築するのである。
そうした流れの中で、日本も自らの測位衛星システムである準天頂衛星システムを構築し、「持続可能な測位」を確立することが重要と判断され、それを実現するための議論が積み重ねられたのである。
前置きが長くなったが、こうした環境の変化と議論の積み重ねにより、昨日、準天頂決議が採択され、閣議決定として「2010年代後半を目処に4機体制を整備する」ことが定められ、さらに「将来的には、持続測位が可能となる7機体制を目指すこととする」という決定がなされた。
2006年の段階では準天頂衛星は3機体制と言われていたが、ここには問題があった。準天頂衛星は日本からみると、ちょうど天頂近く(つまり自分の真上の空)に衛星があるように見えるため、準天頂衛星と呼ばれているが、衛星をこのような位置に配置するためには、特殊な軌道に衛星を乗せる必要がある。また、1機の衛星が準天頂(天頂近く)に滞在できるのは、長くても8時間しかなく、常に準天頂に見えるようにするためには3機が必要(8時間×3機で24時間)だが、衛星はしばしば自らの位置を補正するためにメンテナンスに入るため、3機であれば、衛星から信号を受けられなくなる時間が生じる。そのため、24時間常に信号を受信するためには予備の1機を含む4機体制が必要なのである。
さらに、衛星からの信号で測位をするためには、準天頂に1機だけ見えているだけでは不十分で、自分の位置を割り出すためには4機の衛星から信号を得る必要がある。4機体制の場合、準天頂1機とGPS衛星からの信号とを合わせて自らの位置を割り出すため、GPSが停止した場合は持続的な測位はできない。そのため、常に衛星が4機見えるよう、準天頂衛星4機に加え、静止軌道に同じ信号を出す衛星を3機揃えることで、常に準天頂にある衛星と静止軌道にある衛星からの信号を受けて持続可能な測位を可能にする、ということを意味している。
なので、準天頂決定において「4機体制+将来的に7機体制」という決定がなされたのは、準天頂衛星が将来に向けて持続可能な測位を可能にするシステムとして進められるということを意味しており、その意味では、この閣議決定は極めて重要な意味を持つ。
また、これが決定されたことで、2006年から続いていた宙ぶらりん状態は解消し、新たな宇宙開発の仕組みが生まれることとなった。これまでは開発四省+内閣府と内閣官房といういびつな状況にあり、予算は文科省の研究開発予算しか付けられなかった準天頂衛星であるが、この準天頂決定では「我が国として実用準天頂衛星システムの開発・整備・運用は、準天頂衛星初号機「みちびき」の成果を活用しつつ、内閣府が実施することとし、関連する予算要求を行うものとする」として、内閣府にその開発・整備・運用権限を与えたからである。
これによって、開発四省などから離れ、内閣府が独自で予算要求を行い、衛星の運用にまで至る過程をすべて管理することとなった。これは2006年の状況とは大きく変わった点であり、ようやっと準天頂が居場所を見つけたのである。
また、これによって、これまで宇宙開発の主導権を握ってきた文科省でも、またそのライバルとして独自のプログラムを進めてきた経産省でもなく、内閣府で準天頂衛星を整備・運用することで、その衛星からの信号を他の省庁が利用し、公的なインフラとして準天頂衛星システムを活用することができるようになったのである。
これは2008年の宇宙基本法が目指してきた、「開発から利用へ」という流れを実現する第一歩として記された大きな決定であると同時に、宇宙基本法が進めるべきとしていた、政策決定の一元化に一歩近づくものとして見ることができる。
ここまでがGood Newsである。ちょっと長くなったので、記事を変えてBad Newsを説明したい。
まず二番目の決定(以下、準天頂決定)から考えてみたい。この準天頂衛星は非常に複雑な歴史を背負ってきたプロジェクトであり、この決定に至るまで、10年以上の歳月を費やしてここに至った、ある意味感慨深いものである。
準天頂衛星は、そもそも2000年に経団連や日本航空宇宙工業会という宇宙産業界のイニシアチブによって始まったプロジェクトであり、当時、欧州で進められていたガリレオプロジェクトにヒントを得て(というか、かなり真似をして)、官民協力プロジェクトとして提案されたものであった。当初、準天頂衛星プロジェクトは、GPSのような測位衛星に、移動体通信や放送サービスを可能にする機材を搭載し、測位は国が、通信放送は民間が行うというかなり野心的なプロジェクトであった。国と民間が共に資金を出し合って衛星を開発、打ち上げ、運用するという計画で、日本で初めての官民協力プロジェクトであり、新たな宇宙開発利用の時代を予感させるものであった。
しかし、欧州のガリレオが進めていた官民協力のメカニズムも、結局、GPSの信号を無料で受信できるという条件の中で、有料の測位信号でビジネスを成立させることが無理、ということが判明し、欧州の民間企業はガリレオプロジェクトから撤退した。それと同じく、日本の準天頂衛星に関しても、測位衛星に通信放送機能を搭載することが技術的に難しいことが判明し、民間が撤退することとなった。
そうなると、準天頂衛星は国の事業部分である測位機能だけが残ることになる。しかし、国(とりわけ国交省)は、民間が始め、民間が金を出すから参加するという姿勢であったのに、いつの間にか、すべてのコストを国が負担し、運用の責任も国が負担するというのは話が違う、といって、準天頂衛星に対するネガティブな姿勢を取るようになった。
ところが、準天頂衛星が実現することを前提にしていた宇宙産業界は、国の消極的な姿勢に対して、さまざまな政治的な働きかけを行い、何とかこのプロジェクトを継続しようと頑張った。その結果、2006年の段階では開発四省(文科省、経産省、国交省、総務省)と内閣府および内閣官房が連帯責任を持ち、文科省が「技術開発」の名目で準天頂衛星3機のうち1機を開発し、残りの2号機、3号機については「民間の事業化判断」に基づいて推進するかどうか決める、という話になった。
元々民間が始めたプロジェクトなのに、民間が撤退し、それでも継続するという流れになっていた準天頂は、ここにきて究極の宙ぶらりん状態になり、それが数年続くことになった。
それが大きく変わったのが2010年9月である。2010年9月に準天頂衛星の初号機「みちびき」が打ち上げられ、その打ち上げが成功したことで、部分的には準天頂衛星システムが動き始めたのである。
そうなると、政府としても3機必要なシステムを1機だけ打ち上げて運用しているという状態に説明がつかなくなってきた。かといって、そもそも国が自分で言い出したわけでもないプロジェクトをどこかの役所が引き受けるということもなく、その宙ぶらりん状態が解消する見込みはほとんどなかった。
しかし、2006年と2010年では一つ大きな違いがあった。それは2008年に自民・公明・民主三党の共同提案による議員立法である宇宙基本法が成立していたことであった。宇宙基本法では、宇宙開発担当大臣が存在し(2010年9月当時は前原国交大臣が兼務)、宇宙開発戦略本部という、これまでにはなかった、国家戦略的な意思決定の場があった(といっても、あまり機能してはいなかったが、その事務局が文科省や経産省から離れて政策立案調査を行うことができた)。
そのため、前原宇宙開発担当大臣がイニシアチブをとり、準天頂衛星を1機だけでとどめるのではなく、きちんとしたシステムとして構築するという政策的方向性が打ち出されることになった。その時のキーワードになったのが「持続可能な測位」である。
欧州がガリレオを進めたのも、中国やロシアやインドがGPSという無料の測位信号を使えるにも関わらず、自らの測位衛星システムを構築しようとしているのは、GPSがアメリカの軍事システムであり、いつ、何時アメリカの都合でGPSが使えなくなるかわからない、アメリカが正確な位置情報を提供し続けるかどうかわからない、というリスクがある、という問題があるからである。つまり、各国とも、GPSに依存せずとも持続的に自分たちで測位ができるようにすることは、国家の責任である、との認識を高めているからである。測位情報(地理空間情報)が社会生活、経済活動の中に深く浸透している現代において、一国の都合でその信号が受けられなくなった場合に発生する社会的な混乱や経済的な損害が非常に大きくなるという懸念(加えて安全保障上の懸念を抱える国もあるだろう)があるから、各国とも自国の測位衛星システムを構築するのである。
そうした流れの中で、日本も自らの測位衛星システムである準天頂衛星システムを構築し、「持続可能な測位」を確立することが重要と判断され、それを実現するための議論が積み重ねられたのである。
前置きが長くなったが、こうした環境の変化と議論の積み重ねにより、昨日、準天頂決議が採択され、閣議決定として「2010年代後半を目処に4機体制を整備する」ことが定められ、さらに「将来的には、持続測位が可能となる7機体制を目指すこととする」という決定がなされた。
2006年の段階では準天頂衛星は3機体制と言われていたが、ここには問題があった。準天頂衛星は日本からみると、ちょうど天頂近く(つまり自分の真上の空)に衛星があるように見えるため、準天頂衛星と呼ばれているが、衛星をこのような位置に配置するためには、特殊な軌道に衛星を乗せる必要がある。また、1機の衛星が準天頂(天頂近く)に滞在できるのは、長くても8時間しかなく、常に準天頂に見えるようにするためには3機が必要(8時間×3機で24時間)だが、衛星はしばしば自らの位置を補正するためにメンテナンスに入るため、3機であれば、衛星から信号を受けられなくなる時間が生じる。そのため、24時間常に信号を受信するためには予備の1機を含む4機体制が必要なのである。
さらに、衛星からの信号で測位をするためには、準天頂に1機だけ見えているだけでは不十分で、自分の位置を割り出すためには4機の衛星から信号を得る必要がある。4機体制の場合、準天頂1機とGPS衛星からの信号とを合わせて自らの位置を割り出すため、GPSが停止した場合は持続的な測位はできない。そのため、常に衛星が4機見えるよう、準天頂衛星4機に加え、静止軌道に同じ信号を出す衛星を3機揃えることで、常に準天頂にある衛星と静止軌道にある衛星からの信号を受けて持続可能な測位を可能にする、ということを意味している。
なので、準天頂決定において「4機体制+将来的に7機体制」という決定がなされたのは、準天頂衛星が将来に向けて持続可能な測位を可能にするシステムとして進められるということを意味しており、その意味では、この閣議決定は極めて重要な意味を持つ。
また、これが決定されたことで、2006年から続いていた宙ぶらりん状態は解消し、新たな宇宙開発の仕組みが生まれることとなった。これまでは開発四省+内閣府と内閣官房といういびつな状況にあり、予算は文科省の研究開発予算しか付けられなかった準天頂衛星であるが、この準天頂決定では「我が国として実用準天頂衛星システムの開発・整備・運用は、準天頂衛星初号機「みちびき」の成果を活用しつつ、内閣府が実施することとし、関連する予算要求を行うものとする」として、内閣府にその開発・整備・運用権限を与えたからである。
これによって、開発四省などから離れ、内閣府が独自で予算要求を行い、衛星の運用にまで至る過程をすべて管理することとなった。これは2006年の状況とは大きく変わった点であり、ようやっと準天頂が居場所を見つけたのである。
また、これによって、これまで宇宙開発の主導権を握ってきた文科省でも、またそのライバルとして独自のプログラムを進めてきた経産省でもなく、内閣府で準天頂衛星を整備・運用することで、その衛星からの信号を他の省庁が利用し、公的なインフラとして準天頂衛星システムを活用することができるようになったのである。
これは2008年の宇宙基本法が目指してきた、「開発から利用へ」という流れを実現する第一歩として記された大きな決定であると同時に、宇宙基本法が進めるべきとしていた、政策決定の一元化に一歩近づくものとして見ることができる。
ここまでがGood Newsである。ちょっと長くなったので、記事を変えてBad Newsを説明したい。
2011年9月11日日曜日
ナイーブになった日本とアメリカ
今日は2001年のアメリカ同時多発テロ(9.11)の10周年に当たり、また、東日本大震災(3.11)から半年という節目の日。すでに新聞、テレビなどで多くの特集が組まれ、9.11からの10年の移り変わりや、あのテロの意味を考え直す企画が並び、3.11の震災から現在までの復興の遅れや原発事故の現状などを取り上げるものも多い。
これらの特集などで取り上げられた論点は幅広く、私が改めて繰り返し論じる必要もないほど網羅的である。しかし、何か画竜点睛を欠くというか、全体像のある部分が抜けている感じも受けている。それは、9.11後の世界に顕著に見られ、3.11後には日本でも現実的に感じられる、ある種の社会的変化というか、心情の変化というものである。
これを言葉に表すならば「ナイーブさ」という表現がぴったりくるような心情の変化かもしれないと感じている。
日本では「ナイーブ」というと、繊細である、とか、純粋である、といった意味に取られやすく、ある意味肯定的なニュアンスを含んでいる。しかし、言葉の由来はフランス語のnaif(iはウムラート)という形容詞からきており(女性形になるとnaive、iはウムラート)、英語でもフランス語のスペル、アクセントをそのまま使い、naiveないしはnaivite(eはアクサンテギュ)という表現が使われる。
ここで使われるnaiveという言葉には肯定的な意味は少なく、むしろ「世間知らず」「お人よし」「バカ正直」「浅はかさ」といったような意味で使われる。日本語で「ちょっとナイーブ過ぎる」といった時に使う「弱弱しさ」というのも含まれるだろう。この記事で使う「ナイーブ」というのは、こうした英語、フランス語で使われるようなニュアンスに近いと思ってもらって構わない。
さて、9.11後のアメリカを中心にテロに対する脅威への敏感度が高まり、これまでのテロに対するセキュリティの甘さを反省し、極めて厳しいテロの取り締まりや過剰なまでの警戒感が高まったことは多くの人がアメリカ入国の際に経験したところだろう。しかし、そうした目に見える緊張感だけでなく、外国人、とりわけイスラム教徒に対する偏見や、テロそのものよりも、テロリストと思われる属性を持つ人たちに対する異様なまでの警戒感がアメリカ社会を大変住みにくく、閉塞感のある場所に変えてしまった。
この社会の空気というか雰囲気は、3.11後の日本でも見られる。放射能に対する極端なまでの警戒感や東電、経産省ないしは政府に対する不信感、そして福島県から避難してきた人たちや福島ナンバーの車に対するいわれのない偏見、さらに科学技術やその専門家に対する不信感。こうしたものは9.11後のアメリカにおける閉塞感や住みにくさに通じるものがあると感じている。
テロと放射能の共通点は、(1)目に見えない脅威である、(2)目に見える形で現れた時は命にかかわる問題となっている、(3)予防したくても、目に見えないため、どうやって予防していいかわからない、という三点ある。
これらの共通点を踏まえて考えると、テロと放射能の脅威に直面した社会というのは「ナイーブ」にならざるを得ない。なぜならば、テロの場合、ある人物がテロリストかどうかを判断する絶対的な証拠というのはなかなか見つけ出すことができず、テロリストと確定できるのは、本当にテロを行った瞬間、ないしは、テロを行おうとして爆破スイッチに手をかけた瞬間や飛行機をハイジャックするために凶器を持ちだした瞬間である。しかし、その瞬間を見つけ、テロを食い止めることはかなり困難である。そのため、テロは「未然に予防する」ということが第一となる。
かつては、極左テロ(日本赤軍や赤い旅団など)や民族テロ(IRAやETAなど)集団が、強固な組織を持って、テロを計画し、実行してきた。そのため、ある特定の組織を監視していれば、テロを未然に防ぐことができると考えられていた。
しかし、現代のテロリストは、アルカイダのように極めて緩い連帯しかしていないテロリストグループやノルウェーのテロような単独で行うテロリストすら存在するため、特定の組織を監視しているだけではテロを防ぐことはできない。普段は一般市民として普通に生活していながら、ある日突然テロを起こす、ということだってあり得ることになる。
そうなると、テロを未然に防ぐためには、テロリストと推測できるような疑わしい行為や思想を持っている人たちを監視し、そうした監視を続ける中で、テロリストとしての可能性が高くなっていった段階(つまり、明らかにテロを計画していると判断できるような状況になった段階)で逮捕するということしか未然に防ぐ方法はない。
そのためには、テロリストと推測できるような疑わしい行為や思想を持っている人たちを一通り検査し、テロリストになりそうなのかどうか、ということを判断していかなければならない。しかし、その「疑わしい行為や思想」というものの実体が明確ではないため、かなり広範囲で網をかけ、疑わしい人物を割り出していかなければならない。
そのための方法として、空港における全身スキャンや指紋による身元確認などを行い、大量の農薬を購入した人(農薬は爆発物に転用できる)や、高度な科学技術を学ぼうとする外国人に一通りの疑いをかけるようになる。そしてテロリストが誰かということを絞り込んでいくのだ。
しかし、こうした人物の情報を収集することは一般市民には到底できない。そのため、彼らはより簡単に隣人がテロリストかどうかを判断する基準を作ってしまう。それが「イスラム教徒かどうか」ということなのだ。もちろん、イスラム教徒=テロリストという考え方は全く間違っている。私の知り合いでも数多くのイスラム教徒がいるが、テロリストになるどころか、テロという行為に対して強い怒りを持っている人たちが圧倒的である。にもかかわらず、「明日、私の街でテロが起きるかもしれない」という恐怖にさらされている人々は、そうならないようにするための自衛策として、何とか「テロリストになりそうな人」を見つけ出し、テロリストになりそうな人がいないので、明日はテロは起きないだろう、という安心感を得たいという気になる。
こうした市民が自らの守ろうとするために「イスラム教徒=テロリスト」のような、単純化され、簡便であり、同時にある種の説得力を持つ(9.11のテロリストはすべてイスラム教徒であった)図式で世界を見、自分の社会を理解しようとするのである。それが結果として、現実とは異なる、ゆがんだ世界観を助長し、その世界観に基づいてテロリストを恐れるのである。
こうした図式は3.11後の日本における放射能に対する意識とも共通するところがあると考えている。確かに、原発の事故は起こり、その事故の対応や政府の発表などが後手に回り、加えて多くの専門家が「原発事故は大きな問題にはならない」「ただちに健康に害はもたらさない」「多少の放射能なら大丈夫」といった発言をしていた。
しかし、現実は、政府や専門家は混乱した中で情報を十分に受け取らない中での拙速な判断をしていたことが明らかになっており、その判断を下すための十分な情報が事態の混乱の中で伝わらなかったのか、あるいは原子力事業の将来を考えて、不都合な情報を出さなかったといったことが加わり、市民の政府や東電や専門家に対する不信感は頂点を極めている。
こうした過去の対応に対する批判とは別に、日々の生活を守ろうとする人々にとって、放射能の問題はアメリカにおけるテロの問題と同じように、自分たちの生活に深くかかわる問題として対応しなければならないにもかかわらず、放射線防護学などの分野はあまりにも専門的すぎていて、市民のレベルでは判断できない状況にある。
また、科学者や政府に対する不信感から、政府が出す放射線の数値などに対する信頼感を持たず、自己防衛のためにガイガーカウンターなどを購入し、自宅の周辺や通学路などの放射線の値を測定して安心感を得ようとしている。
しかし、放射能は外部被曝だけでなく、内部被曝の問題もあり、飲料水や食品の放射線も測定しなければならない、となるとかなり難しい問題になる。というのも、食品などが含む放射線は、専門的な機械にかけて分析しなければならないからである。また、放射線を測定するための時間もかかり、市場に出回る食品のすべてに放射線検査をかけることも実質的に不可能である。
そのため、福島県産の食品を避けるという行動が一般的に見られるようになり、また、地方によっては放射能の汚染が広範囲に広がっているという認識を持っているため、東日本全域の食品などを避けようとする傾向を持つ(あごひげ海賊団というサイトに面白い画像が掲載されていたので、紹介しておく)。
これが京都における大文字の送り火に岩手県の松を使うことに極端に反応した市民による抗議を受けて、その使用をやめたことや、福岡における福島県支援のためのショップが一部の市民からの抗議によって出店中止にならざるを得なくなった原因と考えている。
こうした不安感は、一般市民の間で様々な形で受容されていき、場合によっては合理的でない偏見や警戒感を生み出している。それがしばしば福島ナンバーの車に対する暴力であったり、福島県出身者に対する差別であったりする。これらの差別や偏見は全く科学的な根拠を持たず、市民の自己防衛という言い訳も成り立たない話であるが、それでも「目に見えない脅威」であるということから発する、自己防衛が極端な形になって現れている点は、9.11のケースと共通しているようにも思える。
さらに、科学に対する不信感から、こうした社会的な問題だけでなく、個人の自己防衛が行き過ぎているというケースも見られる。たとえばホメオパシーやコメのとぎ汁などを使った「放射能解毒作用」のような似非科学が一部の人に受け入れられ、それが実際には健康を害するものであっても、こうした放射能への恐怖から、自分や自分の子供を守ろうとして、わらをもすがる思いで似非科学にはまり込んでしまう人たちも見受けられる(放射能を解毒するという似非科学については、片瀬さんという理学博士の書いたものがまとまっているので紹介しておく)。
このように、9.11後と3.11後のアメリカと日本で見られるようになった、社会的な変化は、一言でいえば、社会が「ナイーブ」になったということであろう。確かにテロリストを見抜くことも、放射能を避けることも、一般市民には簡単にできないことである。そのため、自分たちの住む町にテロが起きないためには、自分たちの子供が将来ガンにならないためには、可能な限りの手を打とうとする。しかし、そのための手段は限られているため、どうしても手近で簡単な方法を取らざるをえなくなる。それが、ある種の図式(イスラム教徒=テロリストであったり、東日本産食品=放射性廃棄物)に陥ってしまう。
こうした単純化された図式が生み出す副産物は、その図式に当てはめて「リスクがゼロになる状態」を追求するために、この世の中には他にもたくさんリスクがある、ということが見失われてしまうことである。たとえばイスラム教徒でなくてもテロリストになる可能性はあるし、東日本産の食品でなくても、添加物や農薬などで健康を害する可能性だってある。しかし、そうしたリスクを不問にしながら、一部のリスクだけを過剰に取り上げて、そのリスクをゼロにしようとすることで、非常に高いストレスをため込み、社会全体がギスギスしたものとなっていく結果をもたらしているような印象を受けている。
では、テロや放射能のリスクに対して、どう対処すれば良いのか。「ナイーブ」でない対処の仕方はあるのか、ということを最後に考えておきたい。私が個人的に心を打たれたのは、2005年7月7日のロンドン同時多発テロの後のイギリス人の人たちとのやり取りであった。彼らは「かつてIRAがテロをやっていた時もあるので、それに恐れてはいけない」「テロよりも交通事故で死ぬ人の方が多い」「テロに恐れることこそ、テロリストの思うつぼ」といった反応を示していた。私はこうした言葉が最も力強いものに感じた。同じことは読売新聞に同僚の遠藤乾氏が書いたことにも共通する。
要するに、大事なことはテロや放射能のリスクを「正しく怖がること」だと考えている。「正しく怖がる」というのは、本当にどの程度のリスクがあるのか、そのリスクは実際に害が及ぶほどのものなのか、そしてそのリスクを上回るベネフィットがあるのか、ということを考える必要がある、ということである。たとえば、イスラム教徒であるだけではリスクが高いとは言えない。東日本産の食品であるだけではリスクが高いとはいえない。ゆえに単純にそうした図式だけで自己防衛をしようとすることは社会的に正当化されるべきではない。
しかし、たとえばイスラム教徒の隣人と生活することになった場合、彼らが本当にテロリストでないかどうかというのは、ある程度付き合っていけば、判断できる場合もある。東日本産の食品を買う場合、それが放射能を帯びたものなのかどうかということは、現時点ではある程度のサンプリングが行われ、多分大丈夫というレベルのものが市場に出回っていると考えるべきだろう。
しかし、それでも、すべてのリスクを見通すことはできない。仲良くなった隣人が突如テロリストに変わる可能性もある(これはイスラム教徒でなくてもありうる)。たまたま購入した食品が放射線が高い可能性もある(これは東日本産に限らない)。そうしたリスクは確率論的にはかなり低く、それを恐れていては、まともな社会関係や消費生活を送ることが難しくなってしまう。逆に、できるだけリスクを避けようとするために、テロを恐れ、放射能を恐れすぎることで抱えるストレスや社会関係の悪化が結果的にはより悪い効果を生み出す可能性すらある。
ゆえに、私は、こうした「ナイーブ」な反応を避け、できるだけ「正しく怖がる」ようにし、一定程度の「Acceptableリスク(受容可能なリスク)」を考え、普通の生活をするようにしていきたい。そして社会全体が「ナイーブ」になっていることを受けとめながら、その「ナイーブさ」を理解しつつ、社会を見ていきたいと考えている。
9.11や3.11はすでに過去の出来事となった。あれから10年がたち、6ヶ月が経った。それによって日米の社会は大きく変わり、社会は「ナイーブさ」を増していった。そういう社会が今後どうなっていくのか、それが世界の他の部分にどのような影響を及ぼしていくのか。日米社会が「ナイーブ」になっているということを踏まえてみていくと、ティーパーティの問題や、政治家の失言を捉えるマスコミの対応などもよりよく理解できるのではないかと考えている。
これらの特集などで取り上げられた論点は幅広く、私が改めて繰り返し論じる必要もないほど網羅的である。しかし、何か画竜点睛を欠くというか、全体像のある部分が抜けている感じも受けている。それは、9.11後の世界に顕著に見られ、3.11後には日本でも現実的に感じられる、ある種の社会的変化というか、心情の変化というものである。
これを言葉に表すならば「ナイーブさ」という表現がぴったりくるような心情の変化かもしれないと感じている。
日本では「ナイーブ」というと、繊細である、とか、純粋である、といった意味に取られやすく、ある意味肯定的なニュアンスを含んでいる。しかし、言葉の由来はフランス語のnaif(iはウムラート)という形容詞からきており(女性形になるとnaive、iはウムラート)、英語でもフランス語のスペル、アクセントをそのまま使い、naiveないしはnaivite(eはアクサンテギュ)という表現が使われる。
ここで使われるnaiveという言葉には肯定的な意味は少なく、むしろ「世間知らず」「お人よし」「バカ正直」「浅はかさ」といったような意味で使われる。日本語で「ちょっとナイーブ過ぎる」といった時に使う「弱弱しさ」というのも含まれるだろう。この記事で使う「ナイーブ」というのは、こうした英語、フランス語で使われるようなニュアンスに近いと思ってもらって構わない。
さて、9.11後のアメリカを中心にテロに対する脅威への敏感度が高まり、これまでのテロに対するセキュリティの甘さを反省し、極めて厳しいテロの取り締まりや過剰なまでの警戒感が高まったことは多くの人がアメリカ入国の際に経験したところだろう。しかし、そうした目に見える緊張感だけでなく、外国人、とりわけイスラム教徒に対する偏見や、テロそのものよりも、テロリストと思われる属性を持つ人たちに対する異様なまでの警戒感がアメリカ社会を大変住みにくく、閉塞感のある場所に変えてしまった。
この社会の空気というか雰囲気は、3.11後の日本でも見られる。放射能に対する極端なまでの警戒感や東電、経産省ないしは政府に対する不信感、そして福島県から避難してきた人たちや福島ナンバーの車に対するいわれのない偏見、さらに科学技術やその専門家に対する不信感。こうしたものは9.11後のアメリカにおける閉塞感や住みにくさに通じるものがあると感じている。
テロと放射能の共通点は、(1)目に見えない脅威である、(2)目に見える形で現れた時は命にかかわる問題となっている、(3)予防したくても、目に見えないため、どうやって予防していいかわからない、という三点ある。
これらの共通点を踏まえて考えると、テロと放射能の脅威に直面した社会というのは「ナイーブ」にならざるを得ない。なぜならば、テロの場合、ある人物がテロリストかどうかを判断する絶対的な証拠というのはなかなか見つけ出すことができず、テロリストと確定できるのは、本当にテロを行った瞬間、ないしは、テロを行おうとして爆破スイッチに手をかけた瞬間や飛行機をハイジャックするために凶器を持ちだした瞬間である。しかし、その瞬間を見つけ、テロを食い止めることはかなり困難である。そのため、テロは「未然に予防する」ということが第一となる。
かつては、極左テロ(日本赤軍や赤い旅団など)や民族テロ(IRAやETAなど)集団が、強固な組織を持って、テロを計画し、実行してきた。そのため、ある特定の組織を監視していれば、テロを未然に防ぐことができると考えられていた。
しかし、現代のテロリストは、アルカイダのように極めて緩い連帯しかしていないテロリストグループやノルウェーのテロような単独で行うテロリストすら存在するため、特定の組織を監視しているだけではテロを防ぐことはできない。普段は一般市民として普通に生活していながら、ある日突然テロを起こす、ということだってあり得ることになる。
そうなると、テロを未然に防ぐためには、テロリストと推測できるような疑わしい行為や思想を持っている人たちを監視し、そうした監視を続ける中で、テロリストとしての可能性が高くなっていった段階(つまり、明らかにテロを計画していると判断できるような状況になった段階)で逮捕するということしか未然に防ぐ方法はない。
そのためには、テロリストと推測できるような疑わしい行為や思想を持っている人たちを一通り検査し、テロリストになりそうなのかどうか、ということを判断していかなければならない。しかし、その「疑わしい行為や思想」というものの実体が明確ではないため、かなり広範囲で網をかけ、疑わしい人物を割り出していかなければならない。
そのための方法として、空港における全身スキャンや指紋による身元確認などを行い、大量の農薬を購入した人(農薬は爆発物に転用できる)や、高度な科学技術を学ぼうとする外国人に一通りの疑いをかけるようになる。そしてテロリストが誰かということを絞り込んでいくのだ。
しかし、こうした人物の情報を収集することは一般市民には到底できない。そのため、彼らはより簡単に隣人がテロリストかどうかを判断する基準を作ってしまう。それが「イスラム教徒かどうか」ということなのだ。もちろん、イスラム教徒=テロリストという考え方は全く間違っている。私の知り合いでも数多くのイスラム教徒がいるが、テロリストになるどころか、テロという行為に対して強い怒りを持っている人たちが圧倒的である。にもかかわらず、「明日、私の街でテロが起きるかもしれない」という恐怖にさらされている人々は、そうならないようにするための自衛策として、何とか「テロリストになりそうな人」を見つけ出し、テロリストになりそうな人がいないので、明日はテロは起きないだろう、という安心感を得たいという気になる。
こうした市民が自らの守ろうとするために「イスラム教徒=テロリスト」のような、単純化され、簡便であり、同時にある種の説得力を持つ(9.11のテロリストはすべてイスラム教徒であった)図式で世界を見、自分の社会を理解しようとするのである。それが結果として、現実とは異なる、ゆがんだ世界観を助長し、その世界観に基づいてテロリストを恐れるのである。
こうした図式は3.11後の日本における放射能に対する意識とも共通するところがあると考えている。確かに、原発の事故は起こり、その事故の対応や政府の発表などが後手に回り、加えて多くの専門家が「原発事故は大きな問題にはならない」「ただちに健康に害はもたらさない」「多少の放射能なら大丈夫」といった発言をしていた。
しかし、現実は、政府や専門家は混乱した中で情報を十分に受け取らない中での拙速な判断をしていたことが明らかになっており、その判断を下すための十分な情報が事態の混乱の中で伝わらなかったのか、あるいは原子力事業の将来を考えて、不都合な情報を出さなかったといったことが加わり、市民の政府や東電や専門家に対する不信感は頂点を極めている。
こうした過去の対応に対する批判とは別に、日々の生活を守ろうとする人々にとって、放射能の問題はアメリカにおけるテロの問題と同じように、自分たちの生活に深くかかわる問題として対応しなければならないにもかかわらず、放射線防護学などの分野はあまりにも専門的すぎていて、市民のレベルでは判断できない状況にある。
また、科学者や政府に対する不信感から、政府が出す放射線の数値などに対する信頼感を持たず、自己防衛のためにガイガーカウンターなどを購入し、自宅の周辺や通学路などの放射線の値を測定して安心感を得ようとしている。
しかし、放射能は外部被曝だけでなく、内部被曝の問題もあり、飲料水や食品の放射線も測定しなければならない、となるとかなり難しい問題になる。というのも、食品などが含む放射線は、専門的な機械にかけて分析しなければならないからである。また、放射線を測定するための時間もかかり、市場に出回る食品のすべてに放射線検査をかけることも実質的に不可能である。
そのため、福島県産の食品を避けるという行動が一般的に見られるようになり、また、地方によっては放射能の汚染が広範囲に広がっているという認識を持っているため、東日本全域の食品などを避けようとする傾向を持つ(あごひげ海賊団というサイトに面白い画像が掲載されていたので、紹介しておく)。
これが京都における大文字の送り火に岩手県の松を使うことに極端に反応した市民による抗議を受けて、その使用をやめたことや、福岡における福島県支援のためのショップが一部の市民からの抗議によって出店中止にならざるを得なくなった原因と考えている。
こうした不安感は、一般市民の間で様々な形で受容されていき、場合によっては合理的でない偏見や警戒感を生み出している。それがしばしば福島ナンバーの車に対する暴力であったり、福島県出身者に対する差別であったりする。これらの差別や偏見は全く科学的な根拠を持たず、市民の自己防衛という言い訳も成り立たない話であるが、それでも「目に見えない脅威」であるということから発する、自己防衛が極端な形になって現れている点は、9.11のケースと共通しているようにも思える。
さらに、科学に対する不信感から、こうした社会的な問題だけでなく、個人の自己防衛が行き過ぎているというケースも見られる。たとえばホメオパシーやコメのとぎ汁などを使った「放射能解毒作用」のような似非科学が一部の人に受け入れられ、それが実際には健康を害するものであっても、こうした放射能への恐怖から、自分や自分の子供を守ろうとして、わらをもすがる思いで似非科学にはまり込んでしまう人たちも見受けられる(放射能を解毒するという似非科学については、片瀬さんという理学博士の書いたものがまとまっているので紹介しておく)。
このように、9.11後と3.11後のアメリカと日本で見られるようになった、社会的な変化は、一言でいえば、社会が「ナイーブ」になったということであろう。確かにテロリストを見抜くことも、放射能を避けることも、一般市民には簡単にできないことである。そのため、自分たちの住む町にテロが起きないためには、自分たちの子供が将来ガンにならないためには、可能な限りの手を打とうとする。しかし、そのための手段は限られているため、どうしても手近で簡単な方法を取らざるをえなくなる。それが、ある種の図式(イスラム教徒=テロリストであったり、東日本産食品=放射性廃棄物)に陥ってしまう。
こうした単純化された図式が生み出す副産物は、その図式に当てはめて「リスクがゼロになる状態」を追求するために、この世の中には他にもたくさんリスクがある、ということが見失われてしまうことである。たとえばイスラム教徒でなくてもテロリストになる可能性はあるし、東日本産の食品でなくても、添加物や農薬などで健康を害する可能性だってある。しかし、そうしたリスクを不問にしながら、一部のリスクだけを過剰に取り上げて、そのリスクをゼロにしようとすることで、非常に高いストレスをため込み、社会全体がギスギスしたものとなっていく結果をもたらしているような印象を受けている。
では、テロや放射能のリスクに対して、どう対処すれば良いのか。「ナイーブ」でない対処の仕方はあるのか、ということを最後に考えておきたい。私が個人的に心を打たれたのは、2005年7月7日のロンドン同時多発テロの後のイギリス人の人たちとのやり取りであった。彼らは「かつてIRAがテロをやっていた時もあるので、それに恐れてはいけない」「テロよりも交通事故で死ぬ人の方が多い」「テロに恐れることこそ、テロリストの思うつぼ」といった反応を示していた。私はこうした言葉が最も力強いものに感じた。同じことは読売新聞に同僚の遠藤乾氏が書いたことにも共通する。
要するに、大事なことはテロや放射能のリスクを「正しく怖がること」だと考えている。「正しく怖がる」というのは、本当にどの程度のリスクがあるのか、そのリスクは実際に害が及ぶほどのものなのか、そしてそのリスクを上回るベネフィットがあるのか、ということを考える必要がある、ということである。たとえば、イスラム教徒であるだけではリスクが高いとは言えない。東日本産の食品であるだけではリスクが高いとはいえない。ゆえに単純にそうした図式だけで自己防衛をしようとすることは社会的に正当化されるべきではない。
しかし、たとえばイスラム教徒の隣人と生活することになった場合、彼らが本当にテロリストでないかどうかというのは、ある程度付き合っていけば、判断できる場合もある。東日本産の食品を買う場合、それが放射能を帯びたものなのかどうかということは、現時点ではある程度のサンプリングが行われ、多分大丈夫というレベルのものが市場に出回っていると考えるべきだろう。
しかし、それでも、すべてのリスクを見通すことはできない。仲良くなった隣人が突如テロリストに変わる可能性もある(これはイスラム教徒でなくてもありうる)。たまたま購入した食品が放射線が高い可能性もある(これは東日本産に限らない)。そうしたリスクは確率論的にはかなり低く、それを恐れていては、まともな社会関係や消費生活を送ることが難しくなってしまう。逆に、できるだけリスクを避けようとするために、テロを恐れ、放射能を恐れすぎることで抱えるストレスや社会関係の悪化が結果的にはより悪い効果を生み出す可能性すらある。
ゆえに、私は、こうした「ナイーブ」な反応を避け、できるだけ「正しく怖がる」ようにし、一定程度の「Acceptableリスク(受容可能なリスク)」を考え、普通の生活をするようにしていきたい。そして社会全体が「ナイーブ」になっていることを受けとめながら、その「ナイーブさ」を理解しつつ、社会を見ていきたいと考えている。
9.11や3.11はすでに過去の出来事となった。あれから10年がたち、6ヶ月が経った。それによって日米の社会は大きく変わり、社会は「ナイーブさ」を増していった。そういう社会が今後どうなっていくのか、それが世界の他の部分にどのような影響を及ぼしていくのか。日米社会が「ナイーブ」になっているということを踏まえてみていくと、ティーパーティの問題や、政治家の失言を捉えるマスコミの対応などもよりよく理解できるのではないかと考えている。
2011年9月9日金曜日
武器輸出三原則について
ツイッター上で武器輸出三原則における「武器」とは何か、ということで@kankimuraさんとやり取りしていたのですが、やや込み入った複雑な話になってしまうので、ブログで説明させてもらいたいと思います。
まず、武器輸出三原則ですが、1967年に佐藤栄作内閣が定めたもので、それは以下の三つの原則によって成り立っています。なお、これは1967年4月21日の国会答弁で出されたもので、質問主意書のように閣議決定を経たものではない形で出されました(のちに閣議了解事項)。
しかし、この三つの原則は三木政権の時に「平和国家としての立場」から、以下の原則に読み替える、ということになりました。
つまり、この考え方によると、共産主義国、国連によって武器禁輸が課されている国、紛争当事国には武器の輸出を「禁止する」という原則があり、そのうえで、それ以外の地域に対しては武器の輸出を「慎む」となっています。また、武器製造関連設備も含めて「武器」とする、ということになっています。
では、この「武器」とは何を意味するのか、という定義の問題が出てきます。それは以下のように定義されます。
まず一般論として:
(1)武器輸出三原別における「武器」とは、「軍隊が使用するものであって、直接戦闘の用に供されるもの」をいい、具体的には、輸出貿易管理令別表第1の第197の項から第205の項までに掲げるもののうちこの定義に相当するものが「武器」である。
(2)自衛隊法上の「武器」については、「火器、火薬類、刀剣類その他直接人を殺傷し、又は武力闘争の手段として物を破壊することを目的とする機械、器具、装置等」であると解している。なお、本来的に、火器等をとう載し、そのもの自体が直接人の殺傷又は武力闘争の手段としての物の破壊を目的として行動する護衛艦、戦闘機、戦車のようなものは、右の武器に当たると考える。(出典:経産省HP)
となっています。ここでの要件は「軍隊が使う」という使用者が規定され、「直接戦闘の用に供される」という使用目的が規定されています。で、その具体的なリストとして外為法輸出貿易管理令別表第1の第197-205項までのアイテムを指します。
また、それ以外の「武器」の定義として自衛隊法における「武器」の定義も援用し、外為法輸出管理令別表のアイテム以外のものもカバーしています。
さらに「「武器輸出三原則」上の「武器」には輸出貿易管理令別表第1に「部分品」又は「附属品」が規定されている場合は、その「部分品」又は「附属品」も含まれる。」ということにもなっており、この「部分品」ないしは「附属品」という範囲は定めがないので、ちょっとややこしいのですが、上記のように定義される「武器」に直接かかわる部品や付属品(たとえば戦車のキャタピラと大砲の砲身とか)を指すということになっています。
ここまでは、私がツイートした「大型武器の輸出はしてこなかった」ということの意味です。
ここでちょっとややこしいのが「平成3年11月の輸出貿易管理令の一部改正により、1-(3)の「第109の項」及び2-(1)の「第197の項から第205の項」は、「第1の項」に変わっております。」という注です。経産省のHPで見ていただくとわかるのですが、別表第1の「第1の項」というのは「武器」となっていて、その中には「銃砲・銃砲弾」という項目があるのです。
これを見ると、ライフルなども「武器」のカテゴリーの中に含まれる、ということになってしまい、これが混乱の元になっています。
つまり、一方で「軍隊が使う」「直接戦闘の用に供される」という規定だけで判断すると、狩猟用のライフルなどの輸出は可能という判断が可能であり、逆に「別表第1の第1の項」という要件で見れば狩猟用であってもライフルの輸出はできない、ということになります。
この点は、武器輸出三原則が持っている矛盾なのですが、具体的に解決する措置が取られることもなく、矛盾した状況のまま現在に至っています。政府としては、「別表第1の第1の項」という規定で判断しているようですが、政府がすべての輸出品を検査しているわけではないので、輸出者が「軍隊が使う」「直接戦闘の用に供される」という基準だけで判断すると、外国に輸出してしまう、という可能性が高くなる、ということになります。
それ以外にも、武器輸出三原則はいろいろな矛盾を孕んでいるのですが、それについては、また別の機会に議論したいと思います。
まず、武器輸出三原則ですが、1967年に佐藤栄作内閣が定めたもので、それは以下の三つの原則によって成り立っています。なお、これは1967年4月21日の国会答弁で出されたもので、質問主意書のように閣議決定を経たものではない形で出されました(のちに閣議了解事項)。
(1)共産圏諸国向けの場合
(2)国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
(3)国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合
しかし、この三つの原則は三木政権の時に「平和国家としての立場」から、以下の原則に読み替える、ということになりました。
(1)三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない。
(2)三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」の輸出を慎むものとする。
(3)武器製造関連設備の輸出については、「武器」に準じて取り扱うものとする。
つまり、この考え方によると、共産主義国、国連によって武器禁輸が課されている国、紛争当事国には武器の輸出を「禁止する」という原則があり、そのうえで、それ以外の地域に対しては武器の輸出を「慎む」となっています。また、武器製造関連設備も含めて「武器」とする、ということになっています。
では、この「武器」とは何を意味するのか、という定義の問題が出てきます。それは以下のように定義されます。
まず一般論として:
(1)武器輸出三原別における「武器」とは、「軍隊が使用するものであって、直接戦闘の用に供されるもの」をいい、具体的には、輸出貿易管理令別表第1の第197の項から第205の項までに掲げるもののうちこの定義に相当するものが「武器」である。
(2)自衛隊法上の「武器」については、「火器、火薬類、刀剣類その他直接人を殺傷し、又は武力闘争の手段として物を破壊することを目的とする機械、器具、装置等」であると解している。なお、本来的に、火器等をとう載し、そのもの自体が直接人の殺傷又は武力闘争の手段としての物の破壊を目的として行動する護衛艦、戦闘機、戦車のようなものは、右の武器に当たると考える。(出典:経産省HP)
となっています。ここでの要件は「軍隊が使う」という使用者が規定され、「直接戦闘の用に供される」という使用目的が規定されています。で、その具体的なリストとして外為法輸出貿易管理令別表第1の第197-205項までのアイテムを指します。
また、それ以外の「武器」の定義として自衛隊法における「武器」の定義も援用し、外為法輸出管理令別表のアイテム以外のものもカバーしています。
さらに「「武器輸出三原則」上の「武器」には輸出貿易管理令別表第1に「部分品」又は「附属品」が規定されている場合は、その「部分品」又は「附属品」も含まれる。」ということにもなっており、この「部分品」ないしは「附属品」という範囲は定めがないので、ちょっとややこしいのですが、上記のように定義される「武器」に直接かかわる部品や付属品(たとえば戦車のキャタピラと大砲の砲身とか)を指すということになっています。
ここまでは、私がツイートした「大型武器の輸出はしてこなかった」ということの意味です。
ここでちょっとややこしいのが「平成3年11月の輸出貿易管理令の一部改正により、1-(3)の「第109の項」及び2-(1)の「第197の項から第205の項」は、「第1の項」に変わっております。」という注です。経産省のHPで見ていただくとわかるのですが、別表第1の「第1の項」というのは「武器」となっていて、その中には「銃砲・銃砲弾」という項目があるのです。
これを見ると、ライフルなども「武器」のカテゴリーの中に含まれる、ということになってしまい、これが混乱の元になっています。
つまり、一方で「軍隊が使う」「直接戦闘の用に供される」という規定だけで判断すると、狩猟用のライフルなどの輸出は可能という判断が可能であり、逆に「別表第1の第1の項」という要件で見れば狩猟用であってもライフルの輸出はできない、ということになります。
この点は、武器輸出三原則が持っている矛盾なのですが、具体的に解決する措置が取られることもなく、矛盾した状況のまま現在に至っています。政府としては、「別表第1の第1の項」という規定で判断しているようですが、政府がすべての輸出品を検査しているわけではないので、輸出者が「軍隊が使う」「直接戦闘の用に供される」という基準だけで判断すると、外国に輸出してしまう、という可能性が高くなる、ということになります。
それ以外にも、武器輸出三原則はいろいろな矛盾を孕んでいるのですが、それについては、また別の機会に議論したいと思います。
2011年8月14日日曜日
イギリスの暴動はなぜ起こったのか
8月6日から起こった、イギリスにおける暴動は、日本でも様々な形で報道され、ツイッターなどでも大きな話題となったが、それがなぜ起こったのか、そして一体あの暴動が何を意味したのか、ということは必ずしも明確になっていない。そこで、さまざまな報道から推測される、暴動の原因を挙げてみて、それらを評価しながら、この暴動は何だったのかを検討してみたい。
まず、暴動に参加したのは、主として10代の若年層を中心とする若い世代であり、ほとんどが貧困層であったとはいえ、人種的なまとまりが合ったわけでもなく、また政治的なバックグラウンドが共通していたわけでもない。つまり、暴動に参加した個人を見ていても、どのような動機でこの暴動に参加したのか、ということが明白ではない。それゆえ、何らかの社会構造や社会集団の属性に依拠して分析することが極めて困難であり、すっきりした答えを出すことが難しいのが、今回の暴動の特徴である。
イギリスにおいても、今回の暴動をどのようにとらえるべきかについては、大きな振幅があり、まとまった答えは出されていない。こうした暴動の原因を考えることは、将来、同じようなことが繰り返されないためにも重要なことであるが、その原因が明確にできない以上、再発を防止することは極めて困難となる。ここでは、考えられうる暴動の要因を挙げて検討してみる。
・社会的排除
今回暴動に参加した若者たちは、白人層も含め、社会的に排除された人たちであり、教育を十分受けず、就職をしようにも住んでいる地域や学歴によって社会からすでに排除されている状況にあった。イギリスにおける階級社会の文化、とりわけ『ハマータウンの野郎ども 』で描かれたUnderclass(低階級)のlads(野郎ども)やchav(コンビニでたむろするヤンキーといったイメージの悪ガキ)によって引き起こされたものであり、社会的なアウトローによるものであった。
かれらは日々、社会から排除されているという認識を持ち、就職や行政サービスに対しても、一定の不信感を持っている。実際、彼らが社会から排除されていることによって、教育を受けることの意味も理解できず、将来に希望を持つこともできない、という状況にある。こうした背景は今回の暴動を引き起こす大きな社会構造上の原因であったと考えることができる。ただし、今回の暴動に参加した人々すべてが社会的に排除されている人たちというわけではなく、普通の生活を営んでいる人たちも多くいたことを説明することは難しい。
・母子家庭
今回の暴動の多くは男性であったが、イギリスにおける母子家庭で育つ低所得者層の男性の数は極めて多い。離婚率が高く、社会的なモラルが形成されていないという以上に、男性の成人としてのロールモデルとして父親が存在していないという状況がある。こうした母子家庭で育った子供たちはギャング文化に染まりやすく、また、母親が働きに出ているため、十分な親の監視が行き届いていないという状況もある。
また、こうした問題は、これまでイギリス社会の中で上流階級から労働者階級まで共通していた「親の権威」を失わせる結果となっていった。体罰に対する社会的な厳しい目もあり、親が子供をしつけることが難しくなったことや、子供が親の言うことを聞かなくなり、一種のモラルハザードが生まれているという指摘もしばしばなされている。こうした親の権威の喪失が結果として、歯止めのかからない暴動を生み出してしまった結果につながっている。
・緊縮財政
キャメロン政権の緊縮財政は必ずしも直接的な原因や雇用に直結する問題ではないが、今回暴動が起きた地域におけるユース・センター の閉鎖というのは一つの問題として取り上げることが出来る。このユース・センターとは、家庭に居場所のない若者たちが集まる集会所であり、ここでゲームをしたり、地域の若者たちと共同作業をすることで社会的なまとまりを作っていくことが出来る場所であった。実際、ギャングなどの集団を作り上げる母体となることもあったが、多くのユース・センターはむしろ犯罪に走りそうになる若者をとどまらせる効果があった。また、しばしばここでは上級生が下級生の面倒をみるとか、ユース・センターの職員が親代わりとなって悩みの相談に乗ると言った、社会的に重要な役割を担うこともあった。しかし、緊縮財政によって、こうした場所が失われることが暴動の引き金になったともいえよう。しかし、これはあくまでも遠因でしかない。
・警察の不在と不信感
今回の暴動の直接の引き金になったトットナムにおけるダガン氏射殺事件は、警察が抱えている人種差別的体質を露わにしたものと見られていた。これまでも、警察が人種差別的な対応をしたり、警察幹部が人種差別的な発言をしたことが報じられており、その意味での警察に対する不信感は根強かった。ゆえに、ダガン氏射殺の後、人種差別反対の集会が執り行われたのであるが、そこでも警察が失態を犯したことで、カリブ海出身者(イギリスにおける黒人)層が強く反発したことが一つのきっかけとなった。
しかし、こうした警察の対応は一過性のものではないことに注目する必要がある。これまでも1993年のスティーブン・ローレンス(黒人)事件のように、マイノリティに対する警察の対応がずさんであり、また、今回暴動が起こった低所得者層の人々が住む地域における犯罪に対し、警察が十分に対処してこなかったという背景がある。これは警察自身が、これらの地域を危険地帯と見なし、犯罪が起こっても積極的に介入しなかったり、小規模な犯罪であっても過剰に介入する等、ある種の偏見に基づく対応をしてきたと見られていた。そのため、警察に対する不信感は根強く、トットナムでの事件が人種問題ではなく、階級・階層の問題として捉えられるようになった。
・人種差別
今回の暴動を巡る報道で、暴動の主体を「移民系」や「黒人・ムスリム」といった人種的なカテゴリーに落とし込んで説明するものが多くみられたが、これはほとんどと言ってよいほど間違いである。まず、今回の暴動に参加したのは、特定の人種的なプロファイルが存在せず、年齢的なプロファイルや所得層のプロファイルは共通していても、黒人(カリブ系)、白人(アングロサクソンとは限らない)、アジア系(インド・パキスタン系)など、幅広く混ざり合った人種構成となっており、特定の人種に還元することはできない。
にもかかわらず、人種をベースにした議論が展開された背景には、1991年のアメリカで起きたロドニー・キング事件を発端とする暴動(黒人が中心となり、韓国系移民との人種間暴動に発展)や、2005年のフランスにおける郊外暴動(マグレブ系の移民が中心)などのケースに準拠して理解しようとした結果と思われる。しかし、そうした人種的なプロファイルが成立しない以上、こうした報道は適切ではないと言える。
・ギャング文化
今回の暴動を説明するに当たり、一定の説明能力をもっていたのは、低所得者層におけるギャング文化である。現地ではChav(チャヴ)と呼ばれる、ギャングとも愚連隊ともつかぬグループが一定数存在しており、低所得者層のコミュニティの中で麻薬取引など違法行為によって高額の資産をもち、金ぴかのネックレスや高級車を乗り回し、そのコミュニティにおけるリーダーとしての存在感をもっている。彼らは警察との関係も持ち、その地位を安定させることで、地域の若年層からの尊敬と信頼を集めている。こうしたギャングを中心とするコミュニティが出来上がり、学校に行かない子供たちや10代の若者が彼らを尊敬し、模倣することで、ギャング文化が蔓延している。
こうしたギャング文化が、今回の暴動では重要な意味をもっていた。警察の介入が不十分と見るや否や、ギャングのリーダーが煽る形で警察に対抗し、それを「格好いい」と認識した若い人たちが彼らに追随し、さらには家電製品や貴金属などを強奪することで、ギャングのメンバーと同じような姿恰好をすることができる、ということで商店を襲撃するようになった。興味深いのは、今回の暴動で破壊の対象になったのは、洋服、貴金属、携帯電話、家電、酒屋、食料品店などに集中しており、本屋などはほとんど無傷であった、という点である。つまり彼らは無差別に略奪していたわけではなく、選択的に自分たちの文化にあった商品をもつ商店だけを狙ったということが言える。こうした傾向を理解するためには、ギャング文化に注目する必要があるだろう。
・機会主義
今回の暴動を考える上で重要なのは、暴動が何らかの組織によって系統だって行われたわけではなく、自然発生的に散発的であったということである。ギャングは存在するとしても、彼らが持っているネットワークは極めて限られた範囲でしかなく、ある種のマフィアのような組織として構成されているわけではない。そのため、一つのグループが暴動を始めると、他のグループも模倣してそれに追随し、秩序が失われていくと、ギャングのメンバーではない一般の人々までもが「商店からタダで物を手に入れることが出来る」と見て、その暴動に参加するようになった。そうした暴動に便乗するような動きが暴動の規模をさらに拡大し、加えて他の都市においても、ロンドンでの秩序の喪失と政府・警察の対応が遅れていることを見越して、これを機会に、と便乗してイングランド各地に拡散していった。
・集団心理
暴動の規模が大きくなったのは機会主義とともに、集団心理が働いたことが大きい。とりわけ、暴動に積極的に加わるつもりがなかった傍観者であっても、大量の商品が略奪され、警察が十分な対応を見せていないという状態を見ていると、自分も同じように商品を持ち去ることへの抵抗がなくなり、「この際だからもらっていこう」といった反応を見せている。そうした集団心理の働きは、本来ならばこうした暴動とは無縁の人々までもが暴動の参加者として当事者となり、暴動の規模を大きくしていったことで、さらなる集団心理が働くという循環が生まれたものと思われる。
こうした集団心理のパターンについて、きちんと説明がなされているわけではないが、逮捕された人々(往々にして逃げ遅れた傍観者/当事者の人々)が裁判や警察の取り調べで明らかにしているところを見ると、実際に何らかの目的があって暴動や略奪に参画したというよりは、「なんとなく」という雰囲気があったことは確かである。
・夏休み
今回の暴動の一つの特徴は、10代の若年層が中心であり、小学生のような小さな子供までが暴動に参加していたことである。これはすでに論じたギャング文化が小学生のレベルにまで浸透しており、子供たちの行動の規範となっていたことを示している。また、すでに述べたように、こうした子供たちを管理すべき親の世代がほとんどと言ってよいほど子供の管理が出来ていないという状況をも示している。
こうしたシングルマザーの家庭では、夏休みは悪夢の時期である。子供たちを管理することもできず、かといって母親が働かないわけにはいかない。そのため、子供たちは親のいない家で時間を過ごすこととなり、必然的に親の管理が行き届かなくなり、地域のChavと呼ばれる「悪ガキ」とかかわる時間が長くなっていく。そのため、小学生くらいの子供たちにもそうしたギャング文化が浸透していき、今回のような暴動が起こったことで、暇を持て余している子供たちは興味本位であることも含め、こうした暴動に関与するようになったのである。
・まとめ
いろいろと要因を挙げてみたが、これがすべてだと断定することは難しい。しかし、一つだけはっきり言えることは、どれか一つの要因に当てはめて今回の暴動を理解することは極めて困難であり、こうした複合的な要因によって暴動が発生し、拡大し、そして収束した、ということである。
ここから言えることは、今回の暴動の原因が明確でないがゆえに、どうやって暴動が再発することを止めるのか、という方法について、明確な処方箋を出すことができず、結局、警察の増員により事態が収束してしまったがゆえに、問題の根本が明らかにされず、それに対する対応策を出すこともなく、これまで通りの社会が続いていくことになってしまった、ということであろう。つまり、問題は根本的な解決を見ることなく、先送りされたのである。ということは、将来にわたって、こうした問題が再度起こりうる可能性は高く、今後のイギリス社会は不穏で不安げな空気を抱え込んだまま、事態が悪化しないことを祈り続けるしかないのであろう。
まず、暴動に参加したのは、主として10代の若年層を中心とする若い世代であり、ほとんどが貧困層であったとはいえ、人種的なまとまりが合ったわけでもなく、また政治的なバックグラウンドが共通していたわけでもない。つまり、暴動に参加した個人を見ていても、どのような動機でこの暴動に参加したのか、ということが明白ではない。それゆえ、何らかの社会構造や社会集団の属性に依拠して分析することが極めて困難であり、すっきりした答えを出すことが難しいのが、今回の暴動の特徴である。
イギリスにおいても、今回の暴動をどのようにとらえるべきかについては、大きな振幅があり、まとまった答えは出されていない。こうした暴動の原因を考えることは、将来、同じようなことが繰り返されないためにも重要なことであるが、その原因が明確にできない以上、再発を防止することは極めて困難となる。ここでは、考えられうる暴動の要因を挙げて検討してみる。
・社会的排除
今回暴動に参加した若者たちは、白人層も含め、社会的に排除された人たちであり、教育を十分受けず、就職をしようにも住んでいる地域や学歴によって社会からすでに排除されている状況にあった。イギリスにおける階級社会の文化、とりわけ『ハマータウンの野郎ども 』で描かれたUnderclass(低階級)のlads(野郎ども)やchav(コンビニでたむろするヤンキーといったイメージの悪ガキ)によって引き起こされたものであり、社会的なアウトローによるものであった。
かれらは日々、社会から排除されているという認識を持ち、就職や行政サービスに対しても、一定の不信感を持っている。実際、彼らが社会から排除されていることによって、教育を受けることの意味も理解できず、将来に希望を持つこともできない、という状況にある。こうした背景は今回の暴動を引き起こす大きな社会構造上の原因であったと考えることができる。ただし、今回の暴動に参加した人々すべてが社会的に排除されている人たちというわけではなく、普通の生活を営んでいる人たちも多くいたことを説明することは難しい。
・母子家庭
今回の暴動の多くは男性であったが、イギリスにおける母子家庭で育つ低所得者層の男性の数は極めて多い。離婚率が高く、社会的なモラルが形成されていないという以上に、男性の成人としてのロールモデルとして父親が存在していないという状況がある。こうした母子家庭で育った子供たちはギャング文化に染まりやすく、また、母親が働きに出ているため、十分な親の監視が行き届いていないという状況もある。
また、こうした問題は、これまでイギリス社会の中で上流階級から労働者階級まで共通していた「親の権威」を失わせる結果となっていった。体罰に対する社会的な厳しい目もあり、親が子供をしつけることが難しくなったことや、子供が親の言うことを聞かなくなり、一種のモラルハザードが生まれているという指摘もしばしばなされている。こうした親の権威の喪失が結果として、歯止めのかからない暴動を生み出してしまった結果につながっている。
・緊縮財政
キャメロン政権の緊縮財政は必ずしも直接的な原因や雇用に直結する問題ではないが、今回暴動が起きた地域におけるユース・センター の閉鎖というのは一つの問題として取り上げることが出来る。このユース・センターとは、家庭に居場所のない若者たちが集まる集会所であり、ここでゲームをしたり、地域の若者たちと共同作業をすることで社会的なまとまりを作っていくことが出来る場所であった。実際、ギャングなどの集団を作り上げる母体となることもあったが、多くのユース・センターはむしろ犯罪に走りそうになる若者をとどまらせる効果があった。また、しばしばここでは上級生が下級生の面倒をみるとか、ユース・センターの職員が親代わりとなって悩みの相談に乗ると言った、社会的に重要な役割を担うこともあった。しかし、緊縮財政によって、こうした場所が失われることが暴動の引き金になったともいえよう。しかし、これはあくまでも遠因でしかない。
・警察の不在と不信感
今回の暴動の直接の引き金になったトットナムにおけるダガン氏射殺事件は、警察が抱えている人種差別的体質を露わにしたものと見られていた。これまでも、警察が人種差別的な対応をしたり、警察幹部が人種差別的な発言をしたことが報じられており、その意味での警察に対する不信感は根強かった。ゆえに、ダガン氏射殺の後、人種差別反対の集会が執り行われたのであるが、そこでも警察が失態を犯したことで、カリブ海出身者(イギリスにおける黒人)層が強く反発したことが一つのきっかけとなった。
しかし、こうした警察の対応は一過性のものではないことに注目する必要がある。これまでも1993年のスティーブン・ローレンス(黒人)事件のように、マイノリティに対する警察の対応がずさんであり、また、今回暴動が起こった低所得者層の人々が住む地域における犯罪に対し、警察が十分に対処してこなかったという背景がある。これは警察自身が、これらの地域を危険地帯と見なし、犯罪が起こっても積極的に介入しなかったり、小規模な犯罪であっても過剰に介入する等、ある種の偏見に基づく対応をしてきたと見られていた。そのため、警察に対する不信感は根強く、トットナムでの事件が人種問題ではなく、階級・階層の問題として捉えられるようになった。
・人種差別
今回の暴動を巡る報道で、暴動の主体を「移民系」や「黒人・ムスリム」といった人種的なカテゴリーに落とし込んで説明するものが多くみられたが、これはほとんどと言ってよいほど間違いである。まず、今回の暴動に参加したのは、特定の人種的なプロファイルが存在せず、年齢的なプロファイルや所得層のプロファイルは共通していても、黒人(カリブ系)、白人(アングロサクソンとは限らない)、アジア系(インド・パキスタン系)など、幅広く混ざり合った人種構成となっており、特定の人種に還元することはできない。
にもかかわらず、人種をベースにした議論が展開された背景には、1991年のアメリカで起きたロドニー・キング事件を発端とする暴動(黒人が中心となり、韓国系移民との人種間暴動に発展)や、2005年のフランスにおける郊外暴動(マグレブ系の移民が中心)などのケースに準拠して理解しようとした結果と思われる。しかし、そうした人種的なプロファイルが成立しない以上、こうした報道は適切ではないと言える。
・ギャング文化
今回の暴動を説明するに当たり、一定の説明能力をもっていたのは、低所得者層におけるギャング文化である。現地ではChav(チャヴ)と呼ばれる、ギャングとも愚連隊ともつかぬグループが一定数存在しており、低所得者層のコミュニティの中で麻薬取引など違法行為によって高額の資産をもち、金ぴかのネックレスや高級車を乗り回し、そのコミュニティにおけるリーダーとしての存在感をもっている。彼らは警察との関係も持ち、その地位を安定させることで、地域の若年層からの尊敬と信頼を集めている。こうしたギャングを中心とするコミュニティが出来上がり、学校に行かない子供たちや10代の若者が彼らを尊敬し、模倣することで、ギャング文化が蔓延している。
こうしたギャング文化が、今回の暴動では重要な意味をもっていた。警察の介入が不十分と見るや否や、ギャングのリーダーが煽る形で警察に対抗し、それを「格好いい」と認識した若い人たちが彼らに追随し、さらには家電製品や貴金属などを強奪することで、ギャングのメンバーと同じような姿恰好をすることができる、ということで商店を襲撃するようになった。興味深いのは、今回の暴動で破壊の対象になったのは、洋服、貴金属、携帯電話、家電、酒屋、食料品店などに集中しており、本屋などはほとんど無傷であった、という点である。つまり彼らは無差別に略奪していたわけではなく、選択的に自分たちの文化にあった商品をもつ商店だけを狙ったということが言える。こうした傾向を理解するためには、ギャング文化に注目する必要があるだろう。
・機会主義
今回の暴動を考える上で重要なのは、暴動が何らかの組織によって系統だって行われたわけではなく、自然発生的に散発的であったということである。ギャングは存在するとしても、彼らが持っているネットワークは極めて限られた範囲でしかなく、ある種のマフィアのような組織として構成されているわけではない。そのため、一つのグループが暴動を始めると、他のグループも模倣してそれに追随し、秩序が失われていくと、ギャングのメンバーではない一般の人々までもが「商店からタダで物を手に入れることが出来る」と見て、その暴動に参加するようになった。そうした暴動に便乗するような動きが暴動の規模をさらに拡大し、加えて他の都市においても、ロンドンでの秩序の喪失と政府・警察の対応が遅れていることを見越して、これを機会に、と便乗してイングランド各地に拡散していった。
・集団心理
暴動の規模が大きくなったのは機会主義とともに、集団心理が働いたことが大きい。とりわけ、暴動に積極的に加わるつもりがなかった傍観者であっても、大量の商品が略奪され、警察が十分な対応を見せていないという状態を見ていると、自分も同じように商品を持ち去ることへの抵抗がなくなり、「この際だからもらっていこう」といった反応を見せている。そうした集団心理の働きは、本来ならばこうした暴動とは無縁の人々までもが暴動の参加者として当事者となり、暴動の規模を大きくしていったことで、さらなる集団心理が働くという循環が生まれたものと思われる。
こうした集団心理のパターンについて、きちんと説明がなされているわけではないが、逮捕された人々(往々にして逃げ遅れた傍観者/当事者の人々)が裁判や警察の取り調べで明らかにしているところを見ると、実際に何らかの目的があって暴動や略奪に参画したというよりは、「なんとなく」という雰囲気があったことは確かである。
・夏休み
今回の暴動の一つの特徴は、10代の若年層が中心であり、小学生のような小さな子供までが暴動に参加していたことである。これはすでに論じたギャング文化が小学生のレベルにまで浸透しており、子供たちの行動の規範となっていたことを示している。また、すでに述べたように、こうした子供たちを管理すべき親の世代がほとんどと言ってよいほど子供の管理が出来ていないという状況をも示している。
こうしたシングルマザーの家庭では、夏休みは悪夢の時期である。子供たちを管理することもできず、かといって母親が働かないわけにはいかない。そのため、子供たちは親のいない家で時間を過ごすこととなり、必然的に親の管理が行き届かなくなり、地域のChavと呼ばれる「悪ガキ」とかかわる時間が長くなっていく。そのため、小学生くらいの子供たちにもそうしたギャング文化が浸透していき、今回のような暴動が起こったことで、暇を持て余している子供たちは興味本位であることも含め、こうした暴動に関与するようになったのである。
・まとめ
いろいろと要因を挙げてみたが、これがすべてだと断定することは難しい。しかし、一つだけはっきり言えることは、どれか一つの要因に当てはめて今回の暴動を理解することは極めて困難であり、こうした複合的な要因によって暴動が発生し、拡大し、そして収束した、ということである。
ここから言えることは、今回の暴動の原因が明確でないがゆえに、どうやって暴動が再発することを止めるのか、という方法について、明確な処方箋を出すことができず、結局、警察の増員により事態が収束してしまったがゆえに、問題の根本が明らかにされず、それに対する対応策を出すこともなく、これまで通りの社会が続いていくことになってしまった、ということであろう。つまり、問題は根本的な解決を見ることなく、先送りされたのである。ということは、将来にわたって、こうした問題が再度起こりうる可能性は高く、今後のイギリス社会は不穏で不安げな空気を抱え込んだまま、事態が悪化しないことを祈り続けるしかないのであろう。
2011年7月19日火曜日
なぜ宇宙開発に関する論説はいつも無責任な議論ばかりなのだろうか
本日の読売新聞の『論点』で有馬朗人先生が「日本の技術 防災に生かせ」という論稿を寄せられていた。有馬先生は東大学長と科学技術庁長官を経験された偉大な技術者であり、国際的、国内的な評価も非常に高い先生である。政治も役所もアカデミアも熟知されている先生であるからこそ、新聞を開けた時には期待が高まった。
しかし、この論稿を読んだ感想は「残念」の一言である。これまで新聞に掲載された宇宙開発関連の記事や論説についてコメントしてきたが、「またか」という印象が強い。こちらもウェブには記事が掲載されていないので、著作権を侵害しない範囲で引用しながら議論していきたい。
有馬先生の論稿はまずシャトル後の宇宙開発ということから始まる。これは今月に書かれた宇宙関連の記事のほとんど共通した論調である。私の住む北海道の有力地方紙である北海道新聞でも「シャトル退役 宇宙開発 日本の役割は」(7月19日社説)という社説が掲載されている。なぜ北海道新聞が北海道での宇宙開発に一切触れず、国の宇宙開発だけを論じているのかは、若干疑問が残るが、それは今回の本論ではないので、これ以上は触れない(なお、北海道の宇宙開発については、拙稿「北大HOPSマガジン【北海道から何を発信するか】北海道発の宇宙開発に注目!」:WEBRONZAをご参照ください)。
さて、有馬先生の論稿だが、シャトルはさまざまな実験ができることを強調し、シャトルは退役しても宇宙ステーションは残るので大事にしなければならないと主張する。その理由は「こんな人工構造物はない」から。「こんなものは他にないから大事にしろ」というのは気持ちとしてはわかる。マチュピチュや姫路城のように、歴史的遺産も「他にはないのだから大事にする」ということで保護されている。つまり、他にはないから大事にするというのは遺跡とか博物館のレベルの話であり、それに巨額の費用をかけて維持するということの意義は見出せない。宇宙ステーションは運用を止めれば、残念ながら大気圏に突入し、燃え尽きてしまう運命にある。なので、大事にしていても、その大事にすべき価値が何なのかが明確でない以上、大事にする理由がよくわからない。
その費用について、有馬先生は年間400億円のコストがかかることを熟知していながら、そのコストは高すぎるわけではなく、「子供たちに宇宙に行ける希望を与えるためにも、このくらいの投資をしてもいいのではないか」とおっしゃっている。残念ながら、宇宙ステーションの運用は2020年までと決まっており、子供たちが大人になる前に運用を止めて大気圏に突入し、灰になることが決まっている。子供たちが行くことができない宇宙ステーションを、年間400億円もかけて維持する意味はない、となると、何のための予算なのか、きっちり説明する必要が出てくるだろう。
ただでさえ、日本の公的債務が1000兆円になろうとしており、ただでさえ、震災からの復興に数十兆円かかるとされている時代にあって、年間400億円は小さくない数字である。子供たちがどう頑張ってもたどりつくことのできない宇宙ステーションを「子供たちに希望を与えるため」に、国の借金を増やし、被災地の支援に回すことだってできたはずの400億円を費やすことの意味が私には理解できない。
続いて、有馬先生は宇宙実験で結果が出ていないという批判に対して、「研究とはそういうものだ」として成果が出なくても実験を続けるべきだ、と主張される。しかし、宇宙ステーションを使った実験の数はどんどん減っており、JAXAが予定していた数に達していない。それは、宇宙ステーションが使いにくい実験装置であるだけでなく、宇宙ステーションに行かなくてもさまざまな方法で実験をするということが可能になっているからである。研究が即座に成果を出すものとは、私も思っていない。しかし、科学者にとって役に立たない、実験に使いにくい装置を巨額の費用をかけて維持するという意義もよくわからない。問題は成果が出ないことではなく、成果を出すまでの時間とコストがかかりすぎ、本当に継続的な実験や研究ができないような環境を作ってしまったことにある。宇宙ステーションがあるから実験をやれ、といっても、科学者にとって迷惑なことである。最初から使いづらく、リスクが多く、コストが高い宇宙ステーションを無理やり「実験施設」として位置付け、予算をつけてきたことのツケを今払っているということを理解すべきである。
有馬先生の議論は、他のいくつかの論稿と同様に、突然急展開する。宇宙ステーションでの実験を続け、「継続は力だ」とおっしゃった、その直後の段落から、宇宙技術と防災の話が始まる。さまざまな地球規模の問題を解決するために衛星技術を磨くことが重要だと主張されている。この点については、このブログで繰り返し述べてきたように、まったくその通りだと思う。
ただ、この有馬先生の論稿が他のものと異なるのは、宇宙基本法の成立に伴い、「平和利用原則」の解釈が変わったことを的確に理解されており、それを肯定的に捉えている点である。これまで宇宙基本法をめぐる解釈がおかしいという点については、何度かこのブログで書いてきたが(たとえば「川口淳一郎先生の宇宙基本法の誤解」)、有馬先生は衛星技術が高まれば、「いずれ安全保障にも役立つ」と指摘しており、災害対策のための宇宙利用は重要であると論じている。
そして、最後に宇宙開発を引っ張ってきたアメリカの力が弱まり、日本も目標を描けずにいる、と指摘している。これが現在の宇宙開発戦略本部が日本の宇宙開発の方向性を出せていない、という点を指摘しているのであれば、その通りであろう。日本がどのような宇宙開発を進めていくのかという全体的な方針は、2009年の宇宙基本計画で一応は示されたが、それが民主党政権に変わったことで、その方向性が見失われた状態であり、何度もコロコロと宇宙開発担当大臣が変わることで、落ち着いて戦略的なビジョンを描けていない、というのもその通りであろう。
有馬先生は事業仕訳などでロマンや情熱を持って新しいことをやろうという機運が失われてきたことを嘆いておられる。その点には同意するが、しかし、同時にこの論稿の前半部分で述べられた年間400億円の支出を、行ける可能性もない子供たちの期待を維持するために、宇宙ステーションにかけるという議論と重ねて考えると、有馬先生の議論は途端に脆弱なものに見える。
つまり、ここで展開されている議論には財政の問題についてまったくと言ってよいほど考察がない、ということなのである。宇宙開発の予算が年間2500億円程度であり、国家予算からみればそれほど大きくない額とはいえ、日本の破たん気味の財政状況を考えると、ロマンや情熱という精神論だけでは解決できない問題がそこにはある。そのことをまったく無視して科学技術政策を論じることは、国家財政が破たんしても夢やロマンを追いかけるべき、という無責任な議論に見えてしまう。
国民の税金を使ってやる以上、国民に還元されない宇宙開発は正当化できない。災害対策や安全保障は値段をつけることはできないが、少なくとも国民の福祉厚生(Welfare)を向上させるためのものとして期待することはできる。情熱やロマンも同じく値段が付けられないものであるが、それが国民のWelfareを向上させることになるのだろうか?10年後には灰になってしまう宇宙ステーションを「子供たちに希望を与えるため」という理屈で400億円も投入することが国民のWelfareを向上させることになるのだろうか。
国家には優先順位があるべきであり、税金の使い方はその優先順位に沿って議論されるべきである。有馬先生の論稿の後半にあるように、災害対策は、東日本大震災を経験した日本にとって、圧倒的に高いプライオリティである。しかし、それが宇宙ステーションを無理やり維持することと同列で語られることがおかしいのである。限られた予算を何に使うのか。宇宙開発を語るものは、社会的責任を持って、政策的プライオリティを考えて語らなければならないのである。
しかし、この論稿を読んだ感想は「残念」の一言である。これまで新聞に掲載された宇宙開発関連の記事や論説についてコメントしてきたが、「またか」という印象が強い。こちらもウェブには記事が掲載されていないので、著作権を侵害しない範囲で引用しながら議論していきたい。
有馬先生の論稿はまずシャトル後の宇宙開発ということから始まる。これは今月に書かれた宇宙関連の記事のほとんど共通した論調である。私の住む北海道の有力地方紙である北海道新聞でも「シャトル退役 宇宙開発 日本の役割は」(7月19日社説)という社説が掲載されている。なぜ北海道新聞が北海道での宇宙開発に一切触れず、国の宇宙開発だけを論じているのかは、若干疑問が残るが、それは今回の本論ではないので、これ以上は触れない(なお、北海道の宇宙開発については、拙稿「北大HOPSマガジン【北海道から何を発信するか】北海道発の宇宙開発に注目!」:WEBRONZAをご参照ください)。
さて、有馬先生の論稿だが、シャトルはさまざまな実験ができることを強調し、シャトルは退役しても宇宙ステーションは残るので大事にしなければならないと主張する。その理由は「こんな人工構造物はない」から。「こんなものは他にないから大事にしろ」というのは気持ちとしてはわかる。マチュピチュや姫路城のように、歴史的遺産も「他にはないのだから大事にする」ということで保護されている。つまり、他にはないから大事にするというのは遺跡とか博物館のレベルの話であり、それに巨額の費用をかけて維持するということの意義は見出せない。宇宙ステーションは運用を止めれば、残念ながら大気圏に突入し、燃え尽きてしまう運命にある。なので、大事にしていても、その大事にすべき価値が何なのかが明確でない以上、大事にする理由がよくわからない。
その費用について、有馬先生は年間400億円のコストがかかることを熟知していながら、そのコストは高すぎるわけではなく、「子供たちに宇宙に行ける希望を与えるためにも、このくらいの投資をしてもいいのではないか」とおっしゃっている。残念ながら、宇宙ステーションの運用は2020年までと決まっており、子供たちが大人になる前に運用を止めて大気圏に突入し、灰になることが決まっている。子供たちが行くことができない宇宙ステーションを、年間400億円もかけて維持する意味はない、となると、何のための予算なのか、きっちり説明する必要が出てくるだろう。
ただでさえ、日本の公的債務が1000兆円になろうとしており、ただでさえ、震災からの復興に数十兆円かかるとされている時代にあって、年間400億円は小さくない数字である。子供たちがどう頑張ってもたどりつくことのできない宇宙ステーションを「子供たちに希望を与えるため」に、国の借金を増やし、被災地の支援に回すことだってできたはずの400億円を費やすことの意味が私には理解できない。
続いて、有馬先生は宇宙実験で結果が出ていないという批判に対して、「研究とはそういうものだ」として成果が出なくても実験を続けるべきだ、と主張される。しかし、宇宙ステーションを使った実験の数はどんどん減っており、JAXAが予定していた数に達していない。それは、宇宙ステーションが使いにくい実験装置であるだけでなく、宇宙ステーションに行かなくてもさまざまな方法で実験をするということが可能になっているからである。研究が即座に成果を出すものとは、私も思っていない。しかし、科学者にとって役に立たない、実験に使いにくい装置を巨額の費用をかけて維持するという意義もよくわからない。問題は成果が出ないことではなく、成果を出すまでの時間とコストがかかりすぎ、本当に継続的な実験や研究ができないような環境を作ってしまったことにある。宇宙ステーションがあるから実験をやれ、といっても、科学者にとって迷惑なことである。最初から使いづらく、リスクが多く、コストが高い宇宙ステーションを無理やり「実験施設」として位置付け、予算をつけてきたことのツケを今払っているということを理解すべきである。
有馬先生の議論は、他のいくつかの論稿と同様に、突然急展開する。宇宙ステーションでの実験を続け、「継続は力だ」とおっしゃった、その直後の段落から、宇宙技術と防災の話が始まる。さまざまな地球規模の問題を解決するために衛星技術を磨くことが重要だと主張されている。この点については、このブログで繰り返し述べてきたように、まったくその通りだと思う。
ただ、この有馬先生の論稿が他のものと異なるのは、宇宙基本法の成立に伴い、「平和利用原則」の解釈が変わったことを的確に理解されており、それを肯定的に捉えている点である。これまで宇宙基本法をめぐる解釈がおかしいという点については、何度かこのブログで書いてきたが(たとえば「川口淳一郎先生の宇宙基本法の誤解」)、有馬先生は衛星技術が高まれば、「いずれ安全保障にも役立つ」と指摘しており、災害対策のための宇宙利用は重要であると論じている。
そして、最後に宇宙開発を引っ張ってきたアメリカの力が弱まり、日本も目標を描けずにいる、と指摘している。これが現在の宇宙開発戦略本部が日本の宇宙開発の方向性を出せていない、という点を指摘しているのであれば、その通りであろう。日本がどのような宇宙開発を進めていくのかという全体的な方針は、2009年の宇宙基本計画で一応は示されたが、それが民主党政権に変わったことで、その方向性が見失われた状態であり、何度もコロコロと宇宙開発担当大臣が変わることで、落ち着いて戦略的なビジョンを描けていない、というのもその通りであろう。
有馬先生は事業仕訳などでロマンや情熱を持って新しいことをやろうという機運が失われてきたことを嘆いておられる。その点には同意するが、しかし、同時にこの論稿の前半部分で述べられた年間400億円の支出を、行ける可能性もない子供たちの期待を維持するために、宇宙ステーションにかけるという議論と重ねて考えると、有馬先生の議論は途端に脆弱なものに見える。
つまり、ここで展開されている議論には財政の問題についてまったくと言ってよいほど考察がない、ということなのである。宇宙開発の予算が年間2500億円程度であり、国家予算からみればそれほど大きくない額とはいえ、日本の破たん気味の財政状況を考えると、ロマンや情熱という精神論だけでは解決できない問題がそこにはある。そのことをまったく無視して科学技術政策を論じることは、国家財政が破たんしても夢やロマンを追いかけるべき、という無責任な議論に見えてしまう。
国民の税金を使ってやる以上、国民に還元されない宇宙開発は正当化できない。災害対策や安全保障は値段をつけることはできないが、少なくとも国民の福祉厚生(Welfare)を向上させるためのものとして期待することはできる。情熱やロマンも同じく値段が付けられないものであるが、それが国民のWelfareを向上させることになるのだろうか?10年後には灰になってしまう宇宙ステーションを「子供たちに希望を与えるため」という理屈で400億円も投入することが国民のWelfareを向上させることになるのだろうか。
国家には優先順位があるべきであり、税金の使い方はその優先順位に沿って議論されるべきである。有馬先生の論稿の後半にあるように、災害対策は、東日本大震災を経験した日本にとって、圧倒的に高いプライオリティである。しかし、それが宇宙ステーションを無理やり維持することと同列で語られることがおかしいのである。限られた予算を何に使うのか。宇宙開発を語るものは、社会的責任を持って、政策的プライオリティを考えて語らなければならないのである。
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