2011年5月29日日曜日

Acceptableリスクについて

前の投稿に対するコメントの返信としてAcceptableリスクについて書き始めたら長くなってしまったので、改めて投稿の形で掲載します。

Acceptableリスクというのは、個人としてどの程度のリスクを受け入れられるか、ということです。たとえば、道を歩いているとき、車にはねられるリスクがある。しかし、そのリスクを恐れて道を歩くことを止めると、どこにも行けなくなります。なので、リスクはあるけれども、道を歩く、という選択をするわけです。これがAcceptableリスクです。しかし、道を歩いていても、できるだけ車にはねられないように努力をすることはできます。歩道を歩き、信号を守り、左右をよく見て歩けば、かなりの程度、車にひかれるリスクは減ります。つまり、ある程度のリスクを想定していても、それを軽減する努力をすることはできます。


 原発の場合で言うと、原発は事故を起こし、放射能漏れを起こすリスクがある。しかし、電力は必要だ。だから、ある程度のリスクを背負って原子力発電を続ける、というのがこれまでの原発推進派の政策であり、日本のエネルギー政策であったわけです。しかし、そのAcceptしたはずのリスクを「原発は安全」という神話を作り、あたかもリスクがないような宣伝をしたことは大問題です。こうなると、リスクを想定して、それをAcceptableなものかどうか判断できないような状況を作ります。そのようなことは公共政策としてあってはならないと思います。

 「想定内」という言葉は原発を作る側、進める側の論理です。原発を作る側は「原発が事故を起こす」というリスクを軽減するために、さまざまな措置をとるわけです。その措置をとるにあたって、一定の「想定」を設定する必要があります。耐震構造の強度をどの程度にするのか(震度7に耐えられるようにするのか、震度8なのか、震度9なのか)、津波対策はどの程度する必要があるのか(100年に1度の津波なのか、1000年に1度の津波に備えるのか)、といったことです。こうしたリスクを想定し、「震度8に耐えられる構造で、100年に1度の津波に耐えられるようにすればよい」という前提を立てて設計をするわけです。

 しかし、問題はこうした「設計上の想定」と「リスクの想定」を一緒にしてしまったことです。設計上の想定というのはものを作る際に、必ず必要になります。もし「震度9の自信と1000年に1度の津波に耐えられるようにする」とした場合、それは今回の震災には耐えられるかもしれませんが、もしそれよりも大きな地震があった場合は耐えられなくなります。つまり、いたちごっこになってしまいます。

 なので、この場合、「設計上の想定」として、「震度8と100年に1度の津波」を想定し、そのうえで「それでも震度9とか1000年に1度の津波というのも来る」という「リスクの想定」をする必要があります。その場合、さすがにハードウェア(耐震構造や防潮堤)で守るのは無理なので、「もし震度9や1000年に1度の津波が来た場合のために、避難する場所を確保したり、放射線防護服を用意し、放射能対策特殊部隊を訓練しておく」といった形で対応するしかないと思います。
 
そのうえで、原発を作る側(推進する側)は「設計上の想定は震度8で100年に1度の津波です。もしそれ以上の震災が起こった場合、皆さんに逃げてもらうように用意します」と言った上で、「それでも原発を作っていいですか」と問いかける必要があります。その際、もちろん「原発を作らなければ、電力は足りなくなりますし、火力発電ばかり進めては二酸化炭素が増えて環境にも悪いです」という話をする必要があります。その中で、「原発を作る側がそれだけやっているのであれば、1000年に1度のリスクであればAcceptableだな」と判断するか、それとも「1000年に1度といっても明日かもしれないから、やっぱりいやだ」と思うかは、きわめて主観的な判断です。
 
少なくとも、日本の原発政策の最大の問題は、こうしたAcceptableリスクかどうか、ということを明示的に判断できないような状態を作っておいて、リスクを負担する側である国民をだまして原発政策を進めた、というところがあるからです。もちろん、それは意図的にだましていた部分があると思いますが、もうひとつは、自らが自分自身で作った「安全神話」の中で自己暗示にかかり、その自己暗示の結果、「設計上の想定をきちんとやっておけばリスクは回避できる」と思いこんでいた部分がある、というところが日本の原発政策の悲惨なところです。
 
こうした「設計上の想定」=「リスクの想定」になってしまったことが「想定外」という言葉を生み出し、それが国民にとって「だまされた感」につながっているように思います。本来ならば、すべてのリスクを想定し、それに対処しているはずなのに、そのリスクをきちんと想定しておらず、勝手に「設計上の想定」に合わせてしまっていた、ということが今回の事故で明らかになったのです。これがAcceptableリスクをめぐる、日本の原発政策のひどい部分だと思っています。
 
私を含め、それを指摘すべき立場の研究者がそうした点を見抜いていなかったということも大きな反省点だと思います。現在、世間は反原発という流れが強くなっていますし、それはそれで当然の反応だと思うのですが、前の投稿でも書いたように、ある種の「放射能ファシズム」のような状況になってしまうことを懸念しています。やはり冷静にリスクを考え、そのうえで、何がAcceptableリスクなのか、という判断をする必要があります。原発は必要だ/不要だという判断を他者に押しつけるような議論ではなく、原発はなぜ必要/不要で、その時のリスクやデメリットは何なのか、ということをきちんと議論できるような環境を作っていくことが大事だと思っています。
 
(余談ですが、私は喫煙者です。たばこがもたらす健康上のリスクも理解したうえで、そのリスクをAcceptしています。また、受動喫煙のリスクも理解しているつもりです。なので、受動喫煙のリスクをAcceptしない人の前ではたばこは吸いません。人にはそれぞれAcceptableリスクがあり、どこにラインを引くのかは個人の判断でしかないと思っています。逆に、自分の「科学的知識」が正しいとして、私に向かって「たばこを止めろ」と説教するようなこともしてほしくないと思っています。さらに言えば、法律や条例でそれを禁止するというのもどうかな、と思っています。喫煙による健康リスクを知らずに喫煙しているわけではなく、そのリスクを踏まえたうえで、それをAcceptしているので、他者にリスクを発生させないような状況であれば、自分の判断を尊重してもらいたいと思っています。)

2011年5月28日土曜日

「年間1ミリシーベルト」で安心できるのか?

昨日、文部科学省が学校での児童・生徒の年間被曝量を1ミリシーベルト以下に抑えることを目指す方針を打ち出した(朝日新聞の記事)。この決定自体にもいろいろ問題があるが、この決定に至るまでの過程にも疑問が残るものが多かった。いくつか気がついた点を指摘しておきたい。

まず、果たして年間1ミリシーベルトという数値は現実的なのか、という問題がある。確かに、放射線防護の観点からすると、年間1ミリシーベルトの被曝は一般公衆の上限値であり、それが一つの参照基準となるであろう。しかし、原発事故が収まっていない中で、年間1ミリシーベルトという数値を実現するのはかなり困難である。それを公的に「目指す」と発表してよいものなのか、疑問が残る。

実は平時における年間1ミリシーベルトという数値は大変厳しい数値である。放射線量は気候や地形によっても大きく影響されるが、何よりも自然界に放射線を射出する能力(放射能)を持つ物質はいくつもある。温泉の成分であるラジウムやカリウムなども放射能がある。また、大気で遮られているとはいえ、宇宙から降り注ぐ放射線も地上に到達する。こうした自然界にある放射能で被曝する量は、実に年間2.4ミリシーベルトなのである。もちろん、これは地域や気候によって違いがあるため、世界全体の平均の数値なのだが、年間1ミリシーベルトという数値はかなり厳しい設定であることがわかるだろう。

もちろん、放射線被曝は少なければ少ないほどよい。しかし、いつの間にか「年間1ミリシーベルト」が独り歩きしてしまい、それがどの程度の意味をもつものなのか、どのような健康リスクを生み出すものなのか、ほとんど考えられることなく、「年間20ミリシーベルトは高すぎる」「文科省は子供のことを考えていないのか」といった批判が巻き起こり、その批判に押される形で、文科省は現実的にかなり実現可能性の低い「年間1ミリシーベルトを目指す」ということになった。

ここに第二の問題点があるのだが、この目標はあくまでも「目指す」という努力目標である。そこには法的な強制力も、政策的な手当てもない(ただ、文科省は土壌改良の予算を計上すると言っている)。さらに言えば、この目標は「学校内での被曝」ということに限られている。学校内での生徒の滞在時間のうち、室内(放射性物質は室内では少ないため被曝量が減る)に滞在する時間を除く時間を計算し、それを登校日数で掛け算することで、年間1ミリシーベルトという数字を実現するという話になっている。

しかし、重要な問題は子供がどの程度被曝するのか、という問題であり、学校内だけでなく、学校外での被曝も考えなければならない。しかし、世間およびメディアは、文科省の新たな目標設定で溜飲を下げているような印象を持つ。もちろん、福島県内の子供を持つ親は登校時や下校後の外遊びを控えたりして可能な限りの放射線防護の措置をとるだろうと思われる。しかし、文科省がひとたび「年間1ミリシーベルトを目指す」といった瞬間、なんだか突然問題が解決したかのような雰囲気になるのは、いささか驚きがあった。

2チャンネルやツイッターなどの匿名性の高いサイバー空間では、今回の文科省の決定を「英断」とか、「福島の母の愛の勝利」といったイメージでとらえる言説が出来上がっている。これにはかなり不安を覚えた。すでに述べたように、年間1ミリシーベルトという数値は現実性の低い数値であり、文科省の設定も努力目標の設定となっており、さらに「学校内」という限定された設定であるので、結果として年間1ミリシーベルトを実現することができない可能性を含んでいるだけでなく、子供の健康リスクについての解決にはなっていないにも関わらず、すでに原発事故がなくなった可能ような騒ぎになったことに不安を覚えたのである。

その背景には、まず小佐古内閣官房参与が涙ながらに「20ミリシーベルトは高すぎる。1ミリシーベルトに近づけるべき」といった発言をしたことが根底にあるように思われる。ここで初めて、多くの人が「20ミリシーベルトは子供にとっては高い数値」という認識を持ち、「1ミリシーベルトにしなければいけない」という意識を持つようになったと思われる。

確かに、子供の放射線被曝に関しては、その影響がどのように出るのかということは明白ではなく、チェルノブイリ事故の時も、子供の甲状腺ガンが異常に多くなったため、子供への放射性ヨウ素の蓄積は大きなリスクになるということは確かである。しかし、本当に年間20ミリシーベルトが高いのかどうかは、科学的に立証する方法がない。あくまでも、「子供はリスクが高い」というところからの推測でしかない。もちろん、そのリスクがある限り、予防的な措置はとられるべきである。しかし、涙ながらに記者会見し、内閣官房参与を辞めるというニュースを見れば、多くの人が「専門家が言っているのだから、絶対にまずい」と感じたに違いない。それが結果として、「年間1ミリシーベルトでなければならない」という固定観念に変わっていったのだろうと思われる。

しかし、すでに5月1日のブログ(「リスク管理とは何か」)で述べたように、この小佐古参与の辞任劇はやや政治的なにおいのするものであり、科学的な確証がはっきりしない問題について、極端に断定的な表現を使っていた点で、科学者としての不誠実さを感じるものであった。つまり、彼は本当に「年間20ミリシーベルト」が高すぎるということを信じていたとしても、表現の仕方やメッセージの伝え方を見ると、現在の菅内閣を貶めるための演技のように見えた。

しかし、彼のメッセージは強烈であった。「専門家が言っているんだから、年間1ミリシーベルトでなければならない」という固定観念が独り歩きし、それが福島県を中心とする人たちを動かし、文部科学省の前で抗議行動をさせ、その圧力をもって、文科省は現実的には大変困難な「努力目標」を設定するという流れが出来上がった。

その結果、何が生まれたのか。それは福島県民以上に、全国的に広がった安心感である。とりあえず専門家が年間1ミリシーベルトと言い、文科省が年間1ミリシーベルトを目指すと言ったのだから、それで問題は解決した、という安心感である。しかし、これは「虚構の安心感」としか言いようがないものである。すでに述べたように、まず文科省は努力目標しか設定せず、それが達成されることは難しいだけでなく、今でも原発事故は収束しておらず、放射能は拡散しているからである。なので、文科省がどう頑張ろうと、福島第一原発が放射性物質を撒き散らしている限り、放射線の累積量は増えていくしかない。その現実をあたかもなかったかのように考えるのは虚構でしかない。

にも関わらず、文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」と言った瞬間、多くの人が安心できたのはなぜだろうか。そのひとつには「政府への不信感」と裏腹の関係になっている「お上への信頼感」のように思う。通常、「政府」と「お上」は同義語として扱われるが、政権交代による「政治主導」により、「政府」=内閣ないしは政権と「お上」=超越的な権威との違いが次第にできてきたのではないかと考えている。この間、菅内閣の情報発信や政府発表の訂正など、おおよそ信頼感とは程遠い稚拙な情報発信しかできず、危機管理や危機対応をする能力が欠如していることが明白になっているところ。また、東京電力や保安院に対しても不信感が高まっており、その意味では彼らも「政府」の中に含まれている。しかし、他方で何らかの判断基準や意思決定をする存在は必要であり、賠償や復興には「お上」の力が必要である。そのため、「政府」は信用できないけれども、超越的な存在である「お上」がきちんと判断してくれれば、それで問題が解決できる、という依存がそこにはあるように思われる。今回は、たまたま「天の声」を発してくれる「お上」が小佐古前内閣官房参与であり、その「お上」のご宣託を受けて、「年間1ミリシーベルトを目指す」という文科省も、晴れて「お上」の仲間入りをしたので、とりあえずそれを信じようとする心理が働いているように思う。

もうひとつは「求めていたものが得られた満足感」なのだろうと思う。これまで、何が正しいのかわからない、という不安と不信感の中で、「お上」である専門家が泣きながら「年間1ミリシーベルト」というご宣託を下したのだから、それを「政府」が認め、受け入れたということで、「やっぱりご宣託が正しかった」という安心感や、「何だ、やろうと思えばやれるんじゃん」という満足感を得たことが大きいのではないかと考える。

さらに、「わからないことをわかった気になった」という心理、つまり「Acceptableリスク」になった、という心理が働いたように思える。人間はさまざまなリスクのある社会に生きている。道を歩けば交通事故に合うかもしれず、食品添加物を食べれば体調が悪くなるかもしれず、スポーツをすればけがをするかもしれない。しかし、そういうリスクを人間は一定程度受容している。その受容の程度は人によって大きく違う。この点については、また別の機会できちんと論じたいが、要は、文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」という保証を与えることで、一応の安心感を得、その程度のリスクであれば受容できるという気になった、という点が大きい。実際は年間1ミリシーベルトを上回る可能性もあるが、その可能性に目をつぶることで、安心感が出てきたといえるであろう。言い方を変えれば、もし年間1ミリシーベルトにならなければ、また文科省を非難すればよいという判断ができるようになったのである。こうした責任の移転(なすりつけ、英語で言うとBlame shifting)が起こることで、人間は安心感を得るものなのだと考えられる。

もうひとつ挙げるとすれば「遠隔地当事者の満足」ということがあるだろう。「年間1ミリシーベルト」をめぐる議論は福島県で実際に放射線被曝に直面している人たちだけの問題ではなくなっている。メディアを通じ、全国的な問題として関心を集め、そして全国的に不安が広がっていた。また、これらの人々が、直接放射線被曝の問題に直面しなくとも、ツイッターなどを通じて「当事者」としての意見を発信し、そこで一種の言論空間を作っていくことになった。これはベネティクト・アンダーソンの『想像の共同体』で出てくる「遠隔地ナショナリズム」の現代版として「遠隔地当事者意識」とでも名付けられるものであり、福島県の人々が直面している問題を共有し、共感し、そしてそこから「遠隔地当事者」としての関与を始めていく。そうなると、直接の放射線被曝の問題には直面していないため、本当にリスクが回避できるという保証もないのに、それで安心してしまうという心理が働いたのではないかと考えられる。また、こうした「遠隔地当事者」が安心し、満足することで、全国的に盛り上がった文科省への非難は止み、その結果、このイシューはイシューとしての価値を失ってしまったため、文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」と言った瞬間、福島県の人たちの声も聞こえなくなってしまったのである。

このような理由から、「虚構の安心感」が成立しているが、しかし、それはあくまでも虚構でしかなく、現実から目をそらし、とりあえず何とか安心したいという群集心理が働いているように思う。このような危機の状態において、その群集心理が働くことは不可思議ではないし、それなりの理解もする。しかし、こうした群集心理を増幅する形でメディアがニュースを報じ、本当のリスク、本当に心配しなければいけないことが覆い隠されてしまっていることが妙に気になる。

また、こうした群集心理が、ツイッターや2チャンネルといった匿名性が高く、感情的な議論が支配的になりがちな言論空間において、さらに増幅され、そうした不信感や不安感、怒りや憎しみ、決めつけと他者批判が蔓延しているのを見ると、非常に不気味なものを感じる。直感的に、こうした不安な状況がメディアによって増幅され、さらにツイッターなどで再増幅されることで、いつの間にか「年間1ミリシーベルト」は「ご宣託」となり、小佐古氏は「神(ツイッターや2チャンネルのボキャブラリーとしては「凄い人」という意味らしい)」としての権威をもつようになり、それに反対する政府の決定や、それを疑う者に対する排除の論理が働くようになる姿を見ると、なんとなく「放射能ファシズム」みたいなものが立ち現われてきているような不気味さすら感じる。大事なことは、冷静にものを考え、わからないことはわからないと割り切り、無理やり答えを求めないこと、そしてどのようにリスクと付き合うのか、何を「Acceptableリスク」とするのかを考えておくことなのだろうと思う。

2011年5月26日木曜日

吉田所長とジャック・バウアー

普段は一日一本だけブログに投稿するのですが、今日はもうひとつ気になる話題があるので、こちらは少し余談気味に書いてみたいと思います。

実は、あまり表に出して言っていることではないのですが、私はアメリカのドラマ『24』という番組の日本語版制作スタッフとして翻訳監修を担当していました。監修なので翻訳家さんの原稿をチェックするという仕事で、大したことはしていないのですが、何にせよアメリカで放送してすぐの素材を見ることができるという役得にひかれてシーズン1からラストシーズンまで翻訳監修をやらせてもらいました。

『24』についてはご存知の方も多いかと思いますが、アメリカのCTU(Counter Terrorism Unit:テロ対策ユニット)という架空の組織に属しているジャック・バウアーというエージェントが主人公のドラマで、1時間番組で1時間の出来事を描くというリアルタイム・ドラマです。24回もののシリーズなので、24時間分、つまり、テロが起こる、ないしは計画されてから24時間で解決するというドラマです。ドラマの作りもしっかりしており、ハリウッド映画顔負けの予算がかかっていて、エンターテイメントとしては優れたドラマです。

この『24』の主人公であるジャック・バウアー(キーファー・サザーランドが演じている)の特徴は(1)上司の言うことを聞かない(時には大統領の命令ですら、おかしいと思えば無視する)、(2)国家のために自分をささげる、(3)必ず批判や懲罰の対象となるがそれを恐れない、(4)与えられた条件はかなり悲惨、(5)シーズンに1度は死にかける、(6)最後はなんだかんだ言って問題を解決し、アメリカないしは世界を救う、というところだと思います。

シーズン1からラストシーズンまで、延々と『24』に付き合ったので、かなりジャック・バウアーの行動様式や考え方(キャラクターとしての設定という意味ですが)は馴染んでいますが、今回の福島原発の事故の現場でがんばっている吉田所長の置かれている立場とジャック・バウアーとの類似性が高いということに気がつきました。

すでに先ほどのブログでも書きましたが、東電幹部が官邸の「空気」を読んで、海水注入を控えるように決定したにも関わらず、海水注入を継続する必要を判断し、独断でそれを継続し、結果的に東電から処分を受けるということになったあたりは、ジャック・バウアーの特徴である(1)上司の言うことを聞かない、(2)自分をささげる、(3)批判や懲罰を恐れない、(4)与えられた条件は悲惨という四つの項目に当てはまり、幸いなことに(5)の死にかけるというのは避けてほしいと思いますが、現場が現場なだけに、ちょっと心配で、(6)の問題解決を導いてくれることは、ちょっと難しいところですが、ぜひ期待したいところです。

ちょっと話はずれますが、現在、小惑星イトカワから帰還した「はやぶさ」をめぐる映画が3本も同時に作成されています。確かに「はやぶさ」は感動的なストーリーですが、さすがに3本も映画にすることはないだろう・・・、と思います。むしろ、東電の吉田所長こそ『24』のジャック・バウアー並みの主役級の活躍をしているわけで、彼のことこそ映画にすべきだろうと思います。

いずれにしても、『24』のように都合よく問題が解決してくれるとは思いますが、こういう時にはジャック・バウアーのようなヒーローが必要なのだろうと思います。といっても、現場の判断が常に正しいとは思いませんし(『踊る大捜査線シリーズ』も『24』的ですね)、きちんと責任を取るべきなのは政治家であり、東電幹部ではありますが、アホな上司や政治家に責任をとるという自覚と覚悟がない以上、ヒーロー待望論になってしまうのも仕方がないでしょうね。

ちなみに『24』は9.11同時多発テロの前にシーズン1の放送が始まったという点で、同時代的に面白かったのですが、興味深かったのは、イラク戦争開戦前夜のアメリカ国内で放送された『24』の番宣CMで、「In the time like this, we need some one like him」というコピーとともにキーファー・サザーランド演じるジャック・バウアーが炎をくぐって歩いてくるシーンがあったことで、このCMをたまたま出張中に見て大変感動した記憶があります。『24』はテロリストを拷問したり、かなり法と規範を無視するといった、眉をしかめるところも多く、批判も多くありますが、ブッシュJr.政権時代のアメリカの空気を色濃く反映したドラマだったこともあり、かなり多くの人から支持されていたのではないかと思います。

恐るべき忖度政治

日本語には外国語に訳しにくい言葉がいくつもある。そのひとつが「忖度」だろう。日本語の意味も正確に記述するのが難しいが、辞書的にいえば「他者の気持ちを推し量ること」とか「慮る(これも意味が今一つ分かりにくい)」ということであろう。平たく言えば「(相手の)空気を読む」ということだ。英語に直せばsurmiseか、guess one's thinkingといったところになるだろう。

ただ、この「忖度」という行為は、現代日本政治の最重要なアクションなのかもしれない、と感じている。そう思うのは5月26日の東京電力と統合対策室の記者会見で武藤東京電力副社長が言った一言があまりにもショッキングだったからである。

それは、「海水注入に向けて努力していたが、官邸の中の(首相の了解が得られていないという)空気が伝えられたので中断を決めた。IAEA(国際原子力機関)の調査団が来ており、事実関係を明らかにするため、聞き取り調査し、所長から報告があった」という発言であった(引用元:毎日新聞)。

ここ数日世間を騒がせていた「海水の注水中止」をめぐる「誰が言った、言わない問題」の根っこには「首相の了解が得られていない『空気』があった」。『空気』で判断し、『空気』で行動していたのである。ニュース速報やテレビなどではここに注目した議論はほとんどなく、発言の訂正が繰り返されることに対する不満や不信感に注目が当たっていたし、ツイッターなどでも、東電の指示に従わず海水注入を続けた吉田所長を処分するという東電幹部の判断に対する批判と揶揄がほとんどであるように思われる。

しかし、何を差し置いても恐ろしいのは、首相の指示が明示的にあったわけではなく、連絡役として官邸に詰めていた東電のリエゾン(武黒前副社長と思われる)が「感じていた」「空気」で判断していたということである。こうなると、いったい誰に責任があり、誰の判断が働いたのか、まったくわからなくなる。そうなれば指揮命令系統が混乱するだけでなく、その「空気」を読み間違えていたらどうなるのか、といった問題が発生する。

こうした危機に直面した状況で、相手のことを慮り、最高意思決定者の「心の中を推し量る」資格を東電のリエゾンは持っているのだろうか。結果的に現場の吉田所長の独断(この場合は英断と言うべきだろう)で海水注入は続けられたし、結果的にすでに燃料棒が溶解している状態だったのだから、海水注入が続けられたとしても状況はそれほど大きく変わったとは言えないと思われるが、それでも、もしこの「首相の空気を読」んだ結果、大事故につながっていたとしたら、いったい誰が責任をとることになるのだろうか。首相?リエゾン(武黒)?東電幹部?彼らは一体どんな責任をとることができるのだろうか?辞職?給料返上?被災者と一緒に避難所生活?

こうした「空気を読む」忖度政治がまかり通るのは、これまでの原子力ムラの行動様式が「腹芸」や「みなまで言うな」的なコミュニケーションで成り立っていたからであろう。彼らは利害を共にする政治家や官僚、自治体幹部などと、はっきりとものを言わず、お互い忖度しあいながら意思決定をしてきた。それがこうした危機の真っただ中にあっても、無意識のうちに出てきたのである。こういう状態は、グレハム・アリソンが書いた『決定の本質』の第二モデルにぴったり当てはまる。アリソンの第二モデルとは、簡単にいえば、官僚や政策決定者は危機の時にあってもSOP(Standard Operational Procedure:標準行動手続き)に従って行動する、というものである。つまり、東電の幹部もこうしたSOPにとらわれ、明示的な意思決定と指揮命令に従わなければならない、という認識にならなかったのであろう。

これまでも「原子力ムラ」の世界を批判し、その滅茶苦茶ぶりは知っていたつもりであるが、今回の武藤副社長による一言にはかなり衝撃を受けた。まだまだ自分の修行不足を感じる。

2011年5月24日火曜日

「大震災と宇宙技術」というにはちょっと足りない

本日付の読売新聞の解説ページで、解説委員の知野恵子さんの「大震災と宇宙技術」という記事が掲載されていた。残念ながらオンラインの記事にはなっていないようなので、リンクを張ることはできませんが、ちょっと気になったので取り上げておきたいと思います。

大手の新聞では、宇宙関連の記者・解説委員は多くが科学部系の出身で、朝日だと辻篤子さん、日経新聞は滝順一さん、NHKだと室山哲也さんなどが知られていますが、必ずしも宇宙を中心に仕事をされているというわけではなく、科学技術全般をカバーしている中で宇宙を取り扱うという立ち位置であるのに対し、知野さんは科学技術全般も見ていますが、宇宙が得意な解説委員の方で、業界では一目置かれる存在となっています。

しばしば、文科省寄りとも思える記事が出るかと思えば、火の出るような文科省のプロジェクト批判をすることもあり、その意味では大変興味深い記事が多く、わざわざ読売新聞を購読しているのも、知野さんの記事が出るから、ということが一つの理由になっています。

さて、その知野さんが書かれた記事ですが、今回の記事は半分納得、半分不満足という感じでした。納得したのは、日本の衛星の影が薄いという点です。これはすでに「情報収集衛星は震災の役には立たない」など、過去のブログの記事で書かせてもらったトーンと同じですが、知野さんのコメントはさらに厳しく、測量会社のパスコ(地図作成の大手)はドイツのTerra SAR-Xを使ったことや、福島原発の画像がアメリカのWorld Viewという衛星を使ったということを指摘しています。

また、JAXAの衛星に継続性がないということも、すでに指摘した点で、「だいち(ALOS)」の後継機がない問題だけが指摘されていますが、それ以上に問題なのは、過去の地球観測衛星が搭載しているセンサーに一貫性がなく、継続したデータを取得できないことがありますが、この点は知野さんは指摘されていないですが、同じく継続性の問題としてあります。

知野さんの結論では、「どんな災害を想定して衛星を使うのかや観測能力などについて国の方針を検討すべきだ」というメッセージが出されています。これも納得です。現在、私がメンバーとなっている内閣官房宇宙開発戦略本部専門調査会準天頂衛星推進検討ワーキンググループ(長い!)と並行して、地球観測衛星推進検討ワーキンググループがありますが、まだ十分が議論が進んでおらず、何を議論するのかということもきちんと定まっていない感じです。今回の震災を一つのベンチマークとしてどのような地球観測衛星戦略を作るかを考える時期に来ていると思うのですが、なかなか動きがないように見えます。4月に入って第三回目の地球観測WGが開催され、そこでWGの検討課題が整理されていますが(会合資料)、非常に多岐にわたっている半面、議論の焦点が絞られていないような印象を受けています。また、震災との関連があまり前面に出てきていないところもちょっと気になっています。その意味では知野さんの記事が指摘していることは適切だと思われます。

ただ、逆に知野さんの記事で気になることもいくつかあります。一つは「だいち」の分解能(解像度)が低く、「画像が粗い」という点です。これはすでにブログで指摘したことですが、分解能と観測幅の関係があり、用途によって分解能は低くても観測幅が必要な場合と、観測幅が狭くても分解能が高い画像が必要な場合があります。そのため、衛星は「ベストミックス」が必要で、分解能が高ければよいというのはかなり単純な議論です。なので、その点は残念です。

また、知野さんの議論で気になる点は地球観測にしか焦点が当たっていない点です。紙幅の問題もあるとは思いますが、今回の震災で重要な役割を果たした「宇宙技術」は地球観測衛星ではなく、むしろ通信衛星だったと思います。この点もすでにブログで書いた点ですが、地上系の通信網が断絶した場合、通信衛星しかライフラインを支えることができなかったのですが、その点を指摘することが重要なのではないかと考えています。その点で不満足です。

また、情報収集衛星にこだわっている点も若干不満が残りました。こちらもその理由はすでにブログで述べましたが、情報収集衛星はこうした災害にはあまり役に立たない衛星で、農水省や国交省などのユーザーとなる官庁がタスキング(どこの地点を撮像してほしいといったリクエスト)をかけるルートが確立されていないため、情報収集衛星の画像を救助や復興に使えないような状況にあるため、官庁が使っていないのは当然なのです。もちろん、それが「建前」と合致していないという指摘は正しいですし、ジャーナリストとしては情報収集衛星の実態を暴きたいという意図が働くため、情報収集衛星を取り上げるのは良くわかりますが、しかし、情報収集衛星が使われていないということをことさら取り上げても、あまり生産的な議論ではないような気がしています。

こういう混乱を避けるためにも、情報収集衛星はストレートに偵察衛星だと言うべきであり、それを下手にごまかそうとするから、つまらない議論がずっと続くという不幸が終わらないように思っています。まあ、それで世の中が回っているので、たぶん誰も変えようとはしないのでしょうけどね。

いずれにしても、日本における宇宙開発を巡る報道、分析はまだまだ層が薄く、十分にカバーされているとは言えない状態です。まあ、社会の中で宇宙開発が占める位置を考えれば、それは仕方のないことなのかもしれませんが、残念な感じもします。人口が1億2千万いる国家で、宇宙開発の主要国でありながら、ジャーナリストや研究者の層が薄いというのは、なんとも寂しい限りです。

2011年5月22日日曜日

北京雑感

今週の水曜日から土曜日まで北京に出張に出ていました。今回は中国科学院行政管理学院という研究所が主催する「宇宙政策と宇宙法に関するシンポジウム」という会議に出席していました。下の写真はその会議をやった建物です。なんとも中国らしさを感じない建物でした・・・。



中国に滞在中、ホテルや会議室からネットにアクセスすることがかなり難しく、TwitterやFacebook、ブログには一切アクセスができませんでした。なので、ブログの更新もできなかったのですが・・・。それでも日本から持っていったiPhoneからはアクセスできたので、メールやTwitterなども読むことはできたのですが、非常にフラストレーションがたまる状況でした。

こうした状況は、当然ながら中国共産党が中東などで起きた「フェイスブック革命」を恐れ、ソーシャル・ネットワークを遮断しているから生まれているのですが、確かにフェイスブックは使えなくても、中国独自のソーシャル・ネットワークのツールは広く使われているようで、人人網などはかなりポピュラーなようです。また、テレビのニュースなどを見ても、中東の民主化運動なども報道されており、思ったよりも窮屈な感じがしなかったというのが正直な印象でした。

確かに、外国の民主化勢力が中国国内に働き掛けて、急激に民主化運動などが高まっていくということについては相当な警戒をしているようですが、中国国内で徐々に表現の自由を認めていくという方向性を感じています。しかし、その認め方は極めて保守的で、共産党政権の支配を脅かすようなことは認められていないし、大規模な集会を促すようなものも認められていないようです。しかし、完全な言論封殺をしているというよりは、ある程度ガス抜きというか、発言の自由を認めさせることで不満を解消している部分はあるのかな、という印象はあります。やはり外から見ていると、どのような「塩梅」でコントロールしているのかがわからないので、現地に行って見る必要はありますね。

また、今回の出張で非常に印象的だったのは、これまで中国の政府関係者や研究者が、こうした国際会議ではかなりおとなしく(言語の問題もあるかとは思いますが)、何を考えているのかよくわからない、ということが多かったのですが、今回はそうではなかった、ということです。特にこれまでタブーだった2007年の衛星破壊実験や中国の軍事宇宙利用などに関しても、これまでは議題として取り上げるだけでも文句を言ってきたのに、今回は積極的に議論に参加し、政府の擁護をするのではなく、冷静に議論していたというのがとても印象的でした。

この辺も、中国の国内における空気の変化を感じました。その背景に何があるのか、私なりに考えてみたのですが、大きな要因になっているのは、中国がこれまで抱えていた、日本を含む諸外国に対するコンプレックスが薄くなり、大国としての自信を高めてきたことがあるのではないか、と思うようになりました。これまでは、中国のやっていることを取り上げて議論をするだけで、中国が非難されているという被害者意識というか、過剰反応をしていたように思うのですが、中国が名実ともに、自他共に大国として認められるようになってきたことで、少し心に余裕ができたというか、自分たちのやっていることを冷静に分析し、それをよりよくしていくための助言として諸外国からの意見を聞いているという雰囲気がありました。これはとてもポジティブな変化だ、という印象を受けました。

日本には中国に滞在経験がある人も多く、中国との関係も深いだけに、こうした変化にも敏感であるべきだと思うのですが、しばしば感情的な議論が先行し、中国で進んでいる変化を見落とす恐れもあるような気がしています。事実、私も中国のことは報道や文献からしか知りえなかったため、出発前に持っていた印象と、実際に数日間滞在した後の印象は少なからず違うものとなりました。

やはり「社会科学者」としてものを考えていく立場にある人間として、こうした経験や自分の目で見て判断することの重要性はあるな、という印象を持っています。もちろん、自分の目で見ることができるものは限られており、それがすべてではないことを自覚する必要はありますが、しかし、報道や文献からだけでは受け取れない「空気感」のようなものは大事だな、と強く感じています。

2011年5月17日火曜日

情報収集衛星は震災の役には立たない

本日(といっても投稿する段階では昨日)の朝日新聞で「情報収集衛星―震災で役立っているか」という社説が出た。結論から言うと、かなり素人っぽい議論(私も技術は素人だが)で、かなり残念な気分となった。やや揚げ足取りになるかもしれないが、この社説を踏まえて情報収集衛星の役割についてコメントしたい。

この社説では、まず情報収集衛星が「我が国の安全の確保、大規模災害への対応その他の内閣の重要政策に関する画像情報の収集」という目的に設定されている、ということが問題視されている。

情報収集衛星の導入の過程については、日経新聞の春原記者が書いた、『誕生 国産スパイ衛星 独自情報網と日米同盟』というルポルタージュが優れているが、これを見るまでもなく、情報収集衛星は1998年の北朝鮮によるテポドンの打ち上げがきっかけとなっている。この時、日本は事前にアメリカからの情報が得られず、結局、情報を自前で入手することが重要であると認識して、偵察衛星の導入に踏み切った。

しかし、当時日本には1969年の「宇宙の平和利用原則」を定めた国会決議があり、その決議に従って、防衛庁(当時)が衛星を運用することは認められなかった。そのため、「多目的衛星」という「建前」を作ったが、そうすると今度は1990年の日米衛星調達合意に抵触するという状況が生まれた。この日米衛星調達合意というのは、日米貿易摩擦が盛んになった1980年代に、アメリカが日本の「不公正貿易」を修正するため、随意契約で調達していた政府調達市場を国際的に解放することを求めた結果結ばれた合意である。これにより、「実用衛星」であれば、国際的に調達しなければならず、日本は偵察衛星の仕様を国際的に公開し、外国の衛星を導入させられる可能性が高まった。

その結果、防衛庁でもなく、「実用衛星」でもない衛星として「危機管理衛星」という新しいカテゴリーを生み出し、内閣情報調査室が運用する危機管理のための衛星という位置づけにすることで、商業的な「実用衛星」でもなく、また防衛庁が運用するわけでもない衛星、という位置づけを生み出したのである。

その結果、「建前」として、朝日新聞が書いたような「我が国の安全の確保、大規模災害への対応その他の内閣の重要政策に関する画像情報の収集」が情報収集衛星の目的となったのである(この点については拙著をご参考ください)。なので、このような歴史的経緯があるため、情報収集衛星を「建前」どおりに運用するような体制ができていない、という現実がある。

確かに、大規模災害の時に、日本が持っているアセット(宇宙資産)は活用されるべきである。しかし、もともと偵察目的に持っている情報収集衛星を動かすよりも、むしろ、以前のブログで書いたように、防災を目的とし、防災訓練までやっていたJAXAの衛星が使えなかった方が問題なのではないだろうか。なぜ朝日新聞はそうしたJAXAの問題を指摘せず、情報収集衛星だけを取り上げたのか、疑問は大きく残る。

確かに朝日は最初から情報収集衛星の導入は「宇宙の平和利用原則」に反するという立場をとり、断続的に情報収集衛星を批判してきたので、その一環であることは理解できる。しかし、そうしたイデオロギー的な立場から、現実の問題が見えなくなっているのではないか、と強く懸念する。

というのも、情報収集衛星は「建前」として大規模災害などに資する、とされているが、技術的にみると、情報収集衛星はこのような大規模災害には向かない衛星であることが分かる。これはJAXAのホームページにしっかり書かれている。ちょっと引用しておこう。

「一般に、観測センサの分解能を上げれば細部まで見えますが、扱うデータ量も膨大なものとなり、広い地域を一度に観測することは難しくなります。陸域観測を行う衛星の設計では、衛星の用途に応じて分解能と観測幅、データ伝送性能の総合的なバランスが考慮されています。

 一般的な偵察衛星(軍事衛星)は、非常に高分解能のカメラを搭載しており、低い高度から対象とする地点をピンポイントで撮影する機能に特化しています。従って細かいところまではっきりと識別できる反面、広い地域をくまなく観測するような用途には不向きです。また、撮影対象地点がどこかということを事前に調べておく必要があります。

 一方でALOSは地図作成をミッションとしているため、回帰日数の46日間で全世界を隙間なく観測し、その全て観測データを地上に伝送することが可能です。
 ALOSの観測データは、膨大なデータを効率よく地上に伝送する大容量のデータレコーダとデータ中継衛星を駆使することで、全世界のデータベースとして蓄積される予定になっています。」
(出典:http://alos.jaxa.jp/1/faq-06.html

つまり、偵察衛星として設計された情報収集衛星は、カメラでいえば望遠レンズのようなもので、ピンポイントの地点の撮影で詳細な画像を得ることはできるが、大きな画を撮ることはできない。逆に、震災直後に機能停止したALOS(だいち)は幅広く地形を観測し、大量のデータを転送することが出来る。これを技術的に言うと衛星が搭載するセンサーの「観測幅(Swath Width)」が広いとか狭い、といういい方をするが、ALOSはPRISMというパンクロ・センサー(白黒写真を撮るセンサー)で最大70kmの観測幅、AVNIR-2という可視近赤外センサー(簡単にいえば高性能な赤外線センサー)で70kmの観測幅、PALSARというレーダー(電波を反射させて画像を取得するセンサー)では、最大で250kmの観測幅を取ることが出来る。今回の震災のように広範囲にわたる災害が起き、県庁や地方自治体が被害の全容を把握し、震災後に変形した地形を理解するためには、こうした観測幅の広い衛星が必要である。

逆に、情報収集衛星の観測幅はどのくらいのものか。情報収集衛星の諸元は現在では公開されていないため、正確なことはわからないが、実は情報収集衛星が導入されるときに宇宙開発委員会などの公開の場で情報収集衛星に関する議論がなされたことがあり、その時の資料によれば、光学衛星(カメラのように画像を取る衛星)で10-20km、レーダーで10kmの観測幅が想定されている。つまり、ALOSに搭載されているセンサーよりもはるかに狭い地域しか撮像できず、ピンポイントの情報(たとえば福島第一原発の状況)を得るためには情報収集衛星は役に立つであろうが、東北各地の地方自治体が災害対応を進めていくうえでは極めて使いにくいデータしか収集することが出来ない。

なので、朝日新聞の社説で「文字通りの大規模災害だから津波の状況など、まさに宇宙からの情報収集が役立ちそうだ」というあたりは、かなり子供っぽい発想のようにも思われるし、「宇宙からの詳しい画像があれば、何百キロにも及ぶ海岸地帯のどこがどのように被災したか、たちどころにわかる。建物や道路などの現状も見てとれる」というのは、すでに述べたように、情報収集衛星ではなかなか難しい。しかも「たちどころにわかる」というのはウソである。衛星は約90分で地球を一周するが、地球が自転するために衛星が戻ってくる場所が少しずつずれるため、一つの衛星は2日に1回の割合でしか同じ地点(東北地方は南北に長いので、一度通ると2日後まで戻ってこれない)に戻れない。現在、情報収集衛星は、本来の4機体制から、2機のレーダー衛星の故障により、2機の光学衛星しか使えない状況である。なので、二つの衛星を組み合わせても、1日1回、しかも90分で地球を一周するので、東北地方の上空にいられるのは、どう頑張っても15分程度である。つまり、1日のうち15分しか見えないのである。なので災害が起きても、最悪の場合、翌日まで画像を撮ることができない。

また、朝日新聞は「今後の復旧作業に向けても、画像は有用なはずだ」ともいうが、これもすでに述べたとおり、観測幅の広いセンサーでないと、復旧に必要な広域的な地理情報を得ることができない。また、AVNIRのような赤外線センサーも搭載していないため、情報収集衛星から得られるデータではわからないことも多い(たとえば土壌の塩害の程度など)。

さらに、朝日新聞は「多くの国民が目にしたのは、米国の商業衛星が撮影した、解像度50センチの驚くほど鮮明な画像だ。政府や研究機関ももっぱらこれを購入している」と述べているが、これもやや誤解に基づくものと感じる。国民が目にした画像というのは福島第一原発の事故直後の衛星画像のことであろう。米国の商業衛星を運用する会社の人にも知り合いがいるので話を聞いているが、震災が起こった直後にアメリカ、ヨーロッパ、イスラエルなどが保有している商業衛星の運用会社は一斉に東北、福島上空の画像を取るよう指示を出したという。というのも、こうした画像が高い値段で売れることが分かっているからである。原発の事故では地上や航空機による接近が難しいため、衛星画像が重要な役割を果たす。しかし、数日もすれば、無人偵察機や遠方からの望遠撮影によって、それなりの画像は入手できるようになる。そのため、商業衛星の運用会社は紛争や事故などがあると、即座にそこに衛星を向け、画像を取るようにしている。この即応性が彼らの商売の命だからである。そのため、彼らがあっという間に原発の画像を撮像し、それを公開したことで国民の目に触れたのである。しかし、覚えておいた方がよいことは、今、宮城県でも岩手県でも、主要な自治体の会議室には、外国の商業衛星が撮影した画像は貼られていない。その代わり、JAXAのALOSが機能停止寸前で撮像した東北地方の大きな画像が貼ってある。朝日新聞は、是非それを現場で見てほしい。災害復興にピンポイントしか撮像できない衛星画像は必要ないのである。

なお、こうした情報収集衛星への批判は朝日新聞に限ったことではない。自ら「宇宙政策提言をめざすシンクタンク」と定義する「宙の会」というウェブ上の宇宙政策フォーラムにおいても、同様の議論がみられる(この「宙の会」の幹事会になぜか私も入っているので、あまり批判をする立場にはないのだが・・・)。ここでは2011年3月26日27日4月22日の三回に分けて、白子悟朗氏(元NEC技術士)が「今こそ、情報収集衛星の姿を!」という議論を展開しているが、ここでの議論も朝日新聞の社説と大筋で議論の方向性は違わないので、改めて取り上げないが、こうした情報収集衛星への批判は根強くあることだけは確かである。それは技術者であっても(NECは情報収集衛星の開発の主契約会社ではなかったが)同じようにみているのである。

情報収集衛星は、「建前」では大規模災害などにも使う、ということになっているが、衛星の設計自体が大規模災害に向かない作りになっている。確かに「建前」であっても、民主主義国家において、政府が「大規模災害に使う」と言えば、それをやっていないことは適切ではなく、批判されるべきことである。しかし、先にも述べたように、この「建前」が導入された経緯は、極めて厳格で現状に合わない「宇宙の平和利用原則」決議があり、他方でアメリカから押し付けられた日米衛星調達合意があるなかで生まれた苦肉の策というか、方便であるということも念頭に置いておく必要があるだろう。

つまり、大事なことは、情報収集衛星が「建前」通りに使われていないことを問題にするのではなく、正々堂々と衛星を使って日本を平和にする、ということを目的とした衛星を作ればよいのである。そのために、2008年に宇宙基本法が制定され、そこでは第二条で「宇宙開発利用は(略)日本国憲法の平和主義の理念にのっとり、行われるものとする」としたうえで、第三条で「宇宙開発利用は、国民生活の向上、安全で安心して暮らせる社会の形成、災害、貧困その他の人間の生存及び生活に対する様々な脅威の除去、国際社会の平和及び安全の確保並びに我が国の安全保障に資するよう行われなければならない」という文言を入れたのである。このように、現在の日本の宇宙開発では、日本国憲法の平和主義の理念を尊重しながら、国際社会の平和と安全の確保ならびに日本の安全保障のために使っていく、ということになっているのである(宇宙基本法の条文)。

ここでもう一つ解説を入れておく必要があるのが、日本国憲法の平和主義に則り、国際の平和と安全および日本の安全保障のために衛星を使うという意味である。日本国憲法は、その第九条第一項で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」としている。私は憲法学者ではないので、法解釈を論ずるつもりはないが、この条文を素直に読めば、国際紛争、つまり外国との摩擦や対立関係が生まれた場合でも、武力によってそれを解決しない、ということを意味している。つまり、国際紛争(たとえば尖閣諸島の問題など)は必ず起きるのであるが、それを武力を使わずに解決するということは、話し合いで解決する、ということになる。となると、相手が何を考え、どのような準備をし、日本との関係をどうしようとしているのかを知った上で交渉をする必要がある。対立関係にある相手に対し、手ぶらで何も考えずに交渉に向かっては、結局相手にやり込められるだけであり、国際紛争の解決どころか、日本が一方的に譲歩する、ないしは相手の言いなりにならざるを得ない状況になる。つまり、日本が外交交渉で国際紛争を解決しようとするならば、その交渉に万全を期し、必ず成功させるための準備をする必要がある。その準備とは、相手のことを知り、相手の機先を制することにあるだろう。そのためには、情報を収集する必要があるのであり、他国の情報を収集する手段として、国境を越えて画像を取得できる衛星は有効な手段なのである。

つまり、日本が憲法の平和主義に則りながら、自らの安全保障を確保するためには、外交交渉で負けないための情報収集が必要なのである。そのための情報収集衛星である。にも関わらず、どういうイデオロギーか知らないが、実際に衛星の機能や役割も理解しないまま、情報収集衛星を盲目的に批判するような議論を展開する人たちがいる。他者の価値観にあれこれ言うつもりはないが、少なくとも冷静に現実を見た議論が展開されることを望む。

2011年5月16日月曜日

国際公共財としての原発事故

東京電力は福島第一原発の1号機は16時間以上「空だき」状態であったことが明らかになってきた。この背景には、1号機の水位計が復活し、ようやっと正確なデータを得ることができるようになったことがある(毎日新聞の記事)。これで確固たるデータを基にした状況判断ができるようなった。

これは言い方を変えれば、これまでの東電や政府機関が発表してきた内容は、基本的にデータに基づかない推測でしかなかった、ということである。確かに常識的に考えれば、地震によって計器が正常に作動しているという保証はなく、あれだけ大量の水を注入しているのに、その水がどこに行ったのかもわかっていなかったはずである。

しかし、こうしたことが伝えられていなかったのはなぜなのだろう。むしろ、我々が接していた情報は一体何に基づいて報道されていたものなのだろう。そう考えると、これまで我々が接していた情報は単なる「当て推量」だったのではないか、という気になってくる。

確かに、メディアも世論も外国政府も産業界も、みんな事故の状況の説明を求め、東電や保安院は限られたデータの中で何らかの「推測」をしなければならなかったのだろう。また、専門的な「○ミリシーベルト」といった原子炉の外から計測できる数値を可能な限り出し、できる限りの透明性を図ったものの、外国メディアなどからは「単なるデータだけでなく、それを整理して解説してほしい(英語ではContextulizeしろ、という単語を使っていた)という要望が出ていた。

そのため、きわめて限られたデータの中で「推測」をし、現在何が起こっているかということをわかる範囲で説明していたものと思われる。しかし、ここで重要な問題は、報道する側が、かなりの程度、東電や保安院から流れる情報をダダ漏れのように報道し、そこに疑問や批判を挟まなかったことにあるように思える。

このような事故の場合、重要なデータが得られていないため、東電や保安院の説明はどうしても「推測」、いや実際には「あてずっぽう」なものにならざるを得ないだろう。本来ならば、こうした事故の時でもきちんとデータをとれるような設計をしておくべきであるが、それを今から言っても仕方がないので、現時点ではわかる範囲のデータから「あてずっぽう」な話をするしかない。しかし、それを「政府発表」「東電発表」とし、あたかも「事実」であるかのように報じてきた側には一定の責任があるだろう。私はずっと「どうしてこんなに注水しているのに、水があふれてこないのだろう」ということに疑問を持っていたが、その疑問に答えるような解説、説明、報道記事は見かけたことがなかった。私のような素人でも想像がつくような問題をなぜメディアは取り上げなかったのか。どうしてもそこが解せない。

これが上杉隆氏のような論調であれば、「記者クラブ制度が悪い」という話になっていくのだろうが、事態はもう少し深刻なような気がする。それは、報道する側が「政府の言うこと、東電の言うことは事実に違いない」という思い込みが働いているような気がするからである。もちろん、記者の側には一次データがないのだから、政府や東電が提供するデータを信用するしかないのだが、そのデータが不完全なものであり、他の解釈が可能、ということは大いにあり得るはずなのに、それについてはほとんど問われていない、ということが気になる。

震災直後から東電の記者会見や保安院の記者会見などがテレビで生中継されることがあり、可能な限り見ていたが、それを見る限り、記者から出る質問は「これからどうなる」とか「誰に責任がある」というたぐいの質問が多く、東電や保安院の「推測/あてずっぽう」とは違う解釈もあり得る可能性を示唆するような質問は多くなかったように記憶している。その結果、東電や政府が出している「あてずっぽう」が、いつの間にか「事実」として独り歩きし、その「事実」に基づいて「工程表」が作られ、将来に向けての対応が進められている。

結局、何が言いたいかというと、一つは、記者や世論の間にある、政府や東電の「無謬性」に対する信頼は、あれだけの事故が起こっても変わらないのだな、ということと、もうひとつは、日本のマスコミが持つ「批判精神」の欠如である。批判精神というのは、単に文句を言うとか、他者を追い詰めるということではない。批判精神というのは、「事実」と思われることに疑問を持ち、それに対して、異なる「事実」の可能性、解釈を提示し、それをぶつけていくことで、「真実」を見出そうとする行為であると考えている。言いかえれば、批判するという作業は建設的な議論をすることであり、自分が「事実」と思われることに対する「対案」を用意することだと思う。

その点について、もう一つ気になる話が、IAEAの閣僚会議に向けて、日本政府が用意している報告書の話である(北海道新聞の記事)。これは事故直後の緊急対応が妥当であったと評価し、政府や東電の取り組みが前向きであるということを評価する内容となっているようである。少なくともこの記事の中身だけ見ると、この報告書はかなり国内世論や国際世論と評価が異なっているように思われる。また、かなり自己正当化というか、自己弁護がすぎるように感じている。まあ、政府が出す報告書であるから、政府の対応を否定するようなものが出てくることは期待できない。なので、このように自己弁護するものが出てくるのはある程度想定内のことであろう。

しかし、この記事を読んで気になったのは、事故後(Post accident)の対応が良い、悪いという評価は確かに重要であるが、もっと重要なことは、事故前(Pre accident)の対応がどうであったのか、ということである。諸外国においては、原発事故に対するさまざまな準備がなされており、事故のシナリオに基づいたマニュアルや、事故に対応するための装備が準備されている。日本にはそうした「事故前」の準備がまったくできていなかった。それは、これまで議論してきたように「安全神話」があり、事故が起こることを想定すること自体がタブー化されていたことに原因があった。

本来ならば、IAEAに提出すべき報告書には、こうした「事故前」の準備の欠如が、「事故後」の対応を遅らせ、迅速な対応ができなかった原因である、ということを真摯に認め、それを教訓として国際社会に提示することである。諸外国においては、さまざまな準備があるとはいえ、実際にこれだけのシビアなアクシデントを体験したのは、チェルノブイリのソ連(ウクライナ)を除けば日本だけである。つまり、この経験を国際公共財として提供することが、日本としての義務であり、国際社会から白い目で見られ始めている日本の立場を回復する手段と考えるべきである。間違っても、自己正当化や自己弁護でこの機会を逸してはならない。

2011年5月15日日曜日

忘れてしまう能力

近代の仕組みというのは、強い個人を前提としている。つまり民主主義にしても、資本主義にしても、法体系にしても、個人が判断し、自らがリスクを背負い、自分の行動の責任を問うことが前提となっている。原発の問題にしても、きちんと情報を明らかにし、透明性を高め、その情報をもとに個人が判断して行動することが求められている。

しかし、普通の人は原発のことも、放射線のことも、技術のこともよくわからない。なので、必然的に専門家の意見に依存するしかないし、その判断を国や政府機関に委ねるしかない。しかし、専門家は多数いて、それぞれが異なる意見を表明し、それが「透明性」をもって表に出てくるので、いったい誰の意見が正しく、誰の意見が間違っているのかを判断することができない。

そのため、何が危険で何が危険でないのかを、国や政府機関に判断してもらうしかない。それが正しいか正しくないかを見極める力がなければ、「一番信頼できそうなもの」の意見に従うのが一般的な反応であろう。

しかし、問題は、その国や政府機関が情報を隠したり、誠意をもって説明しなかったり、「自主避難」のように個人の判断にゆだねるような指示を出したりすることで、一般の人の不信感というか、戸惑いがあるのだろうと思う。

そこで国が何らかの形で判断をすれば、そこに国の責任が生じる。国は権力機構であり、その指示は強制力を伴う。そのため、何らかの判断をし、指示を出せば、それによって生じる結果に責任を持つことになる。たとえば、強制的な避難指示を出せば、その避難によって生じる損害を賠償する責任が生じる。それは、国にとっては負担となり、そうした責任を取らない、取りたがらないという反応になりがちで、よほど確証がないことは判断することを避けようとするだろう。それゆえに「役所仕事」のような官僚主義的、前例主義的な対応になっていくものと考えられる。

ただ、現在の民主党政権はかなり「無節操」に国の責任を強調する。浜岡原発にしても、震災復興にしても、首相自ら、官房長官自ら「国の責任において行う」という発言を連発する。個人が背負いきれないリスクを国が取るということを否定するつもりはないが、国が判断基準を示し、一般の人々の判断材料になるだけの理由や根拠を示しているのか、といわれると、やや怪しい気がすることがしばしばである。むしろ「思いつき」で国の責任を口にしているような印象さえ受ける。

こうした姿勢は、結果として判断をする能力のない一般の人々が、自らリスクを取って判断するしかない、という状態に追い込み、それが戸惑いを生む、という循環が起きる。今回の福島第一原発の事故は、そうした問題があからさまになったケースであろう。

ここで重要になるのは、国がきちんと信頼されているという状態でなければならない、ということである。国がきちんと専門的な知識を持ち、それに基づいて判断し、きちんと結果を出していくことに信頼感があれば、現在のような混乱や不安は起きてこないであろう。しかし、現在、国が出している基準というのは、良くわからない「暫定基準値」や「ただちに健康被害がない」というような基準であり、それが何を意味しているのか、どのように判断してよいのか、という一般の人にわかるような判断基準になっていない。その結果、不安が払しょくされていかないのである。

他方、政府は「データを出せば国民がパニックになる」と考えてデータの出し渋りや、情報隠しと思われるようなことを行い、国民に判断させることを控えさせるようなことをしてきた。そして、それが批判されると、今度は専門的なデータ(何ミリシーベルトなど)をダダ漏れさせ、そのデータを踏まえて勝手に判断しろと言わんばかりの対応をしている。

こうなると、人々は国への信頼感を失い、何を信じてよいかわからない状態になる。それゆえ、流言飛語や口コミ、デマなどに依存する可能性が高くなる。それは外国に向けても同じことであり、日本政府の言うことが信頼されなければ、変な風評被害が拡大することとなる。関東大震災の後に朝鮮人虐殺が起こったのも、そうした背景があったものと想像する。

さらに恐ろしいことは、こうした国への信頼感が失われ、何を信じてよいかわからないような状態になると、変なナショナリズム、ポピュリズム、原理主義などなどが流行りだす可能性がある。まだ日本ではそうした兆候がみられるわけではないが、人々が不安になり、国のことを信頼できなくなるようになると、どんないい加減なことであろうと、自信を持って強硬に主張するような人が妙にカリスマ化し、フォロワーが増えていくような状況が生まれる可能性はある。そうならないようにするためにも、専門的な知識がなく、不安になっている人々に向けて、信頼を得られるようなメッセージを出すことがリーダーに求められるのだろうと思う。

しかし、残念ながら、そうしたことができていない。それがゆえに、多くの人が不安のまま日々を過ごし、何とかリスクを小さくしようとして買いだめなどをしたりする。しかし、人間の能力としてさらに凄いことは、そうしたリスクを「なかったことにする」「忘れてしまう」「無視する」ということができる、ということである。毎日、リスクにおびえて生活することはしんどい。だから、それを忘れてしまうことで、つまり自分をごまかすことで、日々の生活を安定させようとする働きが起きる。そうなると、怖いことは考えない、そんなことを考えるとまた不安になる、ということから、思考停止というか、考えること自体を止めてしまう。

実は、日本の戦後65年というのは、ずっとこの連続だったのではないか、という気がする。原発のリスクも、「もんじゅ」の事故も、地下鉄サリン事件も、テポドンが飛んできたことも、「唯一の被爆国」であることも、みんな一通り忘れてしまうこと、考えないようにすることで、日々の生活を平穏に過ごしてきたのではないだろうか。そう考えると、しんどいことではあるが、常にこうしたリスクを意識し、怖いことを考えながら、不安を抱えながら生活すること、つまり、近代の仕組みにのっとって「強い個人」になることが、問題を解決していく唯一の方法なのだろう。もうひとつの方法は、国が信頼感を取り戻すことなのだが、こちらにはあまり期待していない。

2011年5月14日土曜日

投稿の喪失(嘉手納統合案はアメリカの「請求書」と心得るべし)

24時間ほど前、「嘉手納統合案はアメリカの「請求書」と心得るべし」というタイトルで長めの文章を書いたのですが、サイトの不具合で原稿が消滅してしまいました。バックアップを取っていなかったので、改めて書き直す元気もなく、がっかりです。

要点だけ改めてまとめておくと、嘉手納統合案を出したレビン、マケイン、ウェッブはいずれも議会の大物。日本政府は「立法府の発言だから」といって、当面出方を見るような姿勢を見せていますが、この提案はオバマ大統領と近いウェッブ議員が記者会見を行ったところを見ても、ホワイトハウスとのすり合わせをしていると考えるのが妥当。なのに、日本は「現行案のみ」という立場を明らかにしているので、ちょっとセンスが悪いかな、という気がしています。

今回の嘉手納統合案については、原則賛成。沖縄の問題は生煮えの議論をしてはいけないと思っているが、基本的な考え方としては「消去法的選択」しかないと考えている。優先順位から言うと、まず最悪のシナリオは普天間の固定化。辺野古にしても嘉手納統合案にしても、地元が反対する限り、普天間は必ず残る。それだけは避けるべきである。

次に消去法の対象となるのは県外移設。何といっても沖縄の米軍基地の問題は日本の問題であると同時に、アメリカの問題でもある。動く主体であるアメリカが反対する限り、何も起こらない。アメリカが納得する提案をしなければならないが、グアムにすべて海兵隊の部隊を移すことはアメリカにとって何のメリットもないだけでなく、デメリットばかりである(財政支出も含めて)。なので、県外、国外という選択肢は極めて弱く、結果的に沖縄県内での移設という選択肢しかなくなる。元の文章では、鳩山発言についていろいろと文句をつけ、民主党の「思いつきの大英断」の馬鹿らしさを書いていたが、それは繰り返さない。

消去法で沖縄県内の移設ということになると、候補になりうるのが現行案の辺野古ということになるが、ここも選択肢としてはかなり厳しい。名護市長選以降、現実味がなくなった話であろう。これも鳩山発言で条件が変わってしまったため、2009年以前であれば選択肢としてはありえたが、現在ではもう無理と判断するしかない。

なので、嘉手納統合案は消去法的にいうと一番ハードルが低いと感じている。というのも、これまで嘉手納統合案を否定する理由として乱暴にまとめると(1)空軍と海兵隊が基地をシェアすることを嫌っている、(2)嘉手納町が騒音問題で反対している、(3)沖縄県民感情として県内移設に反対している、ということになろう。

このうち、(3)については、どうしようもない状況なので、(2)と合わせて地元が納得いくオファーをするしかないであろう。それは騒音の軽減など、すでに仲井真知事が条件を出しているが、それらの条件が出てくるということは、事態が前進する芽があるということである。

また、今回は(1)の問題がクリアできそうな予感がある。というのも、そもそも嘉手納案を否定してきたのは米軍であるが、上院軍事委員会の重鎮が嘉手納統合案を提案しているということは、軍のレベルで反対できるような状況ではなくなった、ということが言える。今のところ、ホワイトハウスからのメッセージはなく、ペンタゴンなどは当面現行案を重視するという立場をとっているが、それも不変のものではない。なので、嘉手納統合案の大きなネックであった(1)が解決すれば、その分ハードルは下がる。

普天間の問題を何とか解決するために、ベストの策でないことは明らかだが、Lesser evilという選択で考えていくと嘉手納統合案は有力であろう。

しかし、もうひとつ嘉手納統合案が有力だと思う理由がある。それは、東日本大震災で米軍が「トモダチ作戦」を展開し、アフガニスタン、イラク、リビアと紛争を抱えているにも関わらず、2万の兵力を出し、空母一隻を出して救援活動をしたことは、何にも代えがたい支援であった。これはアメリカの善意からでたものであるが、同時に、それは「タダ」ではない。アメリカとしては、救助、復興支援をした善意の見返りとして、日本の善意を求めている。この「請求書」をきちんと支払わなければ、日米関係はどうしようもない問題に直面することになるだろう。この場合の「請求書」はもちろん普天間問題の解決である。この時期に嘉手納統合案が出されたのも、そういうニュアンスで受け取るべきである。

したがって、日本政府はアメリカの善意にこたえるべく、何としてでも普天間問題を解決しなければならず、今回の嘉手納統合案はそのためのサジェスチョンとして見るべきである。議員の提案だから関係ない、というのはアメリカの政府の構造から言っておかしな話である。日本では「政府=行政府」というイメージがあるが、アメリカでは「政府=行政、立法、司法府」を指す。軍事委員会の委員長と重鎮、そして東アジア太平洋州小委員会の委員長が連名で提案した嘉手納統合案を日本政府が一顧だにしないというようなことがあれば、議会は日米関係に影響を与えるようなさまざまなことをやってのける権限を持っている。なので、この「請求書」を無視するということはあり得ない選択である。

果たして民主党政権はアメリカの意図をくみ取ることができるか、それにこたえることができるか。この問題の解決いかんでは、日本の将来を大きく左右する問題にもなりかねない。

2011年5月13日金曜日

嘉手納統合案はアメリカの「請求書」と心得るべし

ある意味、唐突な感じも受けたが、アメリカ議会の軍事委員会の重鎮である民主党のレビン、共和党のマケイン、そして東アジア太平洋小委員長の民主党のウェブによる普天間基地の嘉手納基地への統合案が提案された(朝日新聞の記事)。

個人的には、この案は最善ではないとしても、もっとも現実的な判断だと考えている。沖縄の米軍基地問題は専門ではないので、あまり深入りしたことは言えないが、とりあえず、この問題を私なりに整理してみたい。

沖縄の問題を考えるのは、どうしても消去法的考え方で整理せざるを得ない。というのも、「理想の解決」をいくら声高に叫んでも、それが現実的な選択として有効でないなら、結局鳩山さんと同じ轍を踏むことになるからである。

なので、まず消去法として考えていくのは沖縄からの米軍基地の完全なる撤退である。もちろん、それは不可能ではない。しかし、現実的とも思えない。米軍再編を進める中で、これだけ巨大なインフラを持つ沖縄を手放す選択をアメリカがするとは思えないからである。米軍再編のポイントは、一言でいえば、バラバラになっている米軍の能力を集約し、効率化するということである。そのためには、大きなところにまとめる、という話になり、西太平洋ではグアムと沖縄、ということになる。また、目の前の中国のことを考えれば、米軍にとって沖縄の重要性は冷戦期以上に高まっているともいえよう。なので、「最低でも県外、国外」というオプションは現実的とは思えない。

では、米軍基地が沖縄に残るということを踏まえて考えると、沖縄と日本にとって最も悪い選択肢は何か、と考えると、普天間の固定化である。「世界一危険な基地」といわれる普天間が存続されることは全く望ましいとは思えない。すでにリスクが高く、沖縄の人々の生活を傷つけているだけでなく、普天間が「悪の米軍」というイメージの象徴になってしまっているレピュテーション・リスクも大きい。したがって、現状維持という選択肢も消去法的に消さなければならない。

普天間の固定化を避けるためには、必ずどこかに普天間の能力を移転させなければならない。辺野古や嘉手納に移すに反対することは、すなわち普天間の固定化につながる(少なくとも、動けない間は暫定的に使い続け、それがいつ終わるか分からない状態になる)。なので、どこかに移すという選択肢しかない、というのが現状であり、第一の消去法的議論から出された結論として、アメリカの意向を無視して決定することができない(むしろ動く主体はアメリカなので、アメリカが納得しない限り、海兵隊は普天間を使い続ける)ので、アメリカが沖縄に基地を維持するということであれば、普天間以外の沖縄県内という選択肢しかなくなってくる。

その中で、現実的な選択肢として残っていたのが辺野古のキャンプ・シュワブに移転させる選択肢である。しかし、これもSACO合意、2006年の合意がありながらも、結局、強い反対に合って、前に進まない状態になっている。この点についてはさまざまな議論がなされており、改めて私がそれを論じても仕方がないので、ここでは割愛するが、少なくとも辺野古に作るということには多少の合理性はあったと思う。海兵隊のキャンプに隣接している飛行場であれば、即応性を問われる海兵隊としては無駄な時間をかけずに出動することができるので、米軍としてもAcceptableであると思われる。日本政府(東京)としても普天間が移設されるということであれば、何らかの手柄になる。沖縄の現地にも補助金や公共事業が発生し、経済的なプラスがある。その意味では、少なくともSACO合意の段階では、何らかの合理性(かなり無理をした結論ではあったと思うが)が成立していたように思える。

しかし、鳩山発言が飛び出し、民主党政権が成立し、そこで新しい未来、つまり米軍基地のない沖縄を想定することができる、という希望が生まれてしまい、そこから状況は大きく変化した。すでに述べたように、沖縄における米軍基地の問題は、日米沖の政治的現実性ではなく、沖縄の現実の問題としての米軍基地問題という議論になってしまい、米軍基地の撤退を求める沖縄と、沖縄から離れることを考えていない米軍、そしてその間を無責任に行き来し、問題を解決できない民主党政権、という構図が出来上がってしまった。それを立証するかのように、ウィキリークスの記事が流れ、民主党政権の無責任さが際立ってしまったため、さらに問題を解決することが難しくなった(ウィキリークスの記事:朝日新聞の特集ページ)。その結果、辺野古への移設は現実的に実現不可能な状況になってしまった(それまでも十分、移設は不可能に近かったと思うが)。

そんな中で、アメリカのサイドから嘉手納統合案が出された意味は大きい。提案したのが大物であるレビン、マケインであるというだけでなく、オバマと関係の深いウェブも提案者として入っており、間違いなくホワイトハウスとすり合わせをしたうえでの提案とみるべきであろう。つまり、行政府の人間が嘉手納統合案を発表するということは、さまざまな意味で差支えがあるため、立法府の人間、しかもかなりのニュースバリューのある人たちが提案するという形にすることで日本に向けてメッセージを送っているものと考えられる。

この提案が、このタイミングで出てきたのは、いろいろな意味があるだろう。一つは、2010年の中間選挙で共和党、とりわけティーパーティーと呼ばれる減税主義者、財政均衡主義者、財政支出削減派の圧力が高まったことがある。米軍再編に伴う様々な支出が困難となり、できるだけ財政支出(軍事支出)を削るという圧力があるなかで、普天間移設の問題を放置しておくわけにはいかない、という状況になってきたことがあるだろう。

しかし、もっと重要なのは、アメリカが日本に対して「請求書」を突き付けてきた、というニュアンスだろう。震災後、米軍はアフガニスタン、イラク、リビアの問題を抱えながら、2万人の部隊と空母を日本に送り、「トモダチ作戦」を展開した。日本人として、この支援を忘れるわけにはいかないが、同時に、これは「無料」ではない。アメリカももちろん善意で派遣していると信じているが、同時に、日本の善意を期待していることも確かだと考えている。つまり、アメリカは日本が今アメリカに対してできる感謝と誠意を見せることを求めていると考えられるのである。

そのため、嘉手納統合案をレビン、マケイン、ウェブが提案し、日本に決断を迫っているのである。とりあえずの日本の対応は、枝野官房長官が「日米合意を遵守する」というものであり、アメリカの意図をきちんと理解しているような発言ではなかったように思われるが、これから大使館やさまざまなチャンネルを使って、アメリカとやり取りしていく中で、アメリカの真意を理解し、その対応に迫られることになるだろう。

嘉手納統合案はこれまで何度も出てきては消えていた案であった。そのひとつの理由は、新しく箱モノを作るわけではないため、うまみが少ない、ということがあるだろう。嘉手納基地を訪れたことがある人はわかると思うが、きわめて広大な敷地があり、新たに建物を建てるといったことはあっても、大規模な開発ではないため、公共事業に伴う利権はあまり発生しない。そのため、嘉手納統合案に熱心にならない政治家もいるだろう。

しかし、嘉手納統合案を阻んでいたのは、米軍内部の問題である。嘉手納は空軍の基地であり、普天間は海兵隊の基地である。空軍が自分たちの場所に海兵隊が来ることをきわめて嫌がっていて、それが嘉手納案を葬っていた理由の一つでもあった。日本からみるとあまりピンとこないかもしれないが、アメリカの四軍(陸、海、空、海兵隊)の関係はあまり良くない、というか、お互いライバル視しており、自分たちの基地、自分たちのテリトリーを荒らされることを好まない。そのため、無駄な重複が多く、米軍再編はそうした重複を減らし、統合運用(陸軍と海軍といった異なる軍種を一つの指揮系統の中で運用すること)を進めていく、という方向性を示している。この統合運用はあくまでも運用、つまり戦地や訓練の時に他の軍種と合わせて行動することを意味しており、彼らの寝床である基地を統合するというところまでは行っていない。それだけに、嘉手納統合案はかなり「アバンギャルド」な案なのである。

しかし、大きな目で見れば、日米関係の問題を解決する上で、米軍内のごちゃごちゃした関係はあまり大きな問題にならない。そのため、嘉手納に統合するというのは、アメリカサイドががんばれば、実現可能性は高い、と考えることができる案だったのである。

もちろん、日本にも嘉手納統合に反対する人たちはいる。地元の嘉手納町は徹頭徹尾反対している。それは当然のことであろう。しかし、嘉手納に反対し続ければ普天間が残る。嘉手納の人々に苦労をかけることが良いのか、普天間を残すことが良いのか。民主党政権はこの「悪魔の選択」をしなければならない状況に追い込まれている。しかし、この「悪魔の選択」を回避する方法はない。東日本大震災であれだけの善意を見せたアメリカに対して、何も答えないことは、日本の将来をかなり危うくする。ゆえに、いよいよ、決着をつけなければいけない時がきたのである。

2011年5月11日水曜日

なぜ日本は原子力を始めたのか

福島原発の事故以来、原子力政策について様々な議論がなされているが、どうも腑に落ちないというか、誰もはっきり説明していないことがあるような気がしてならない。それは、「なぜ被爆国である日本が、地震多発国である日本が、原子力をやっているのか」ということである。

この話を考えるにあたり、頭を1950年代初頭に戻す必要がある。第二次大戦直後には唯一の核技術=原子力技術の保有国であったアメリカは、当然のことながら、原爆という決定的な兵器となる技術を独占しようとしていた。しかし、1949年にはソ連が原爆実験に成功した。ここから話が大きく展開する。

ソ連の核技術=原子力技術を何とか管理しないと、第三次世界大戦は核戦争となり、世界は破滅するという恐怖が生まれた。そのひとつの答えが「核技術の国際管理」であった。これを提唱したのが、アイゼンハワー政権であり、「Atoms for Peace(核の平和利用)」というコンセプトで、核技術を「平和利用」である発電と、「軍事利用」である核兵器と二つに分け、「平和利用」に限ってどの国でも原子力技術を持つことを認めることを推奨し、世界に広がった核技術を国際機関(これがのちにIAEA、国際原子力機関となる)によって管理し、ソ連の核も含めて国際的に管理する、という仕組みを作ろうとした。

これに乗っかる形で日本に原子力を導入しようとしたのが、当時若手の政治家であった中曽根康弘とその友人であった正力松太郎(読売新聞社主)であった。そこで、日本は日米原子力協定を結び、総理府に原子力局を作る(のちに科学技術庁となる)。中曽根、正力といった名前を見ればある程度想像がつくであろうが、日本が原子力を導入するのは「平和利用」だけに限って利用するということだけが目的ではなかったといえよう。彼らは「Atoms for Peace」を絶好のチャンスととらえ、「平和利用」を前面に押し出し、日本が核技術を手にすることで、実際に「軍事利用」せずとも、「潜在的な抑止力」を手に入れることができる、と考えたと思われる。

ところが、この日米原子力協定が結ばれた1955年というのは、ビキニ環礁の水爆実験で第五福竜丸が被曝した事件と同じ年である。なので、この年に原子力基本法が定められ、そこでは「民主、自主、公開」という原則を付し、密室で「平和利用」の技術を「軍事利用」できないように歯止めをかけようとしたのである。

当然、「平和利用」であっても、原子力を導入することに反対する勢力は強かった。1950年代というと、1960年安保に向かっていく、左翼運動のもっとも盛り上がっていた時期であり、原子力の導入を阻止するという意味では一番チャンスがあったように思われる。しかし、それは結果的に実現せず、原子力の導入はその後ずるずると続き、現在にいたっている。

その背景には、当時の高度経済成長期において、増大する電力需要を賄うためには、外国に依存する石油による火力発電だけでは十分ではなく、独自のエネルギーを持つ必要がある、という認識が強かったからであった。また、当時の「科学技術」に対する絶対的な信念というか、日本の経済成長を支えるものは科学技術であるという無条件の承認があったように思われる。当時、「平和利用」としての原子力技術の目標は高速増殖炉(現在、トラブル続きで動いていない「もんじゅ」で実験されている)であり、この当時「夢のエネルギー」と言われていた(今でもそう言っている人は多い)。1964年にオリンピックを開催し、東海道新幹線が「夢の超特急」と呼ばれ、首都高が整備されている時代、原子力に対しても、ある種の盲目的な信頼があったと思われる。

そうした一般の認識が、反原発の運動を制約し、反原発がある種の「イデオロギー的ゲットー」に閉じ込められてしまったことに問題がある。これまで述べてきたように、こうしてイデオロギー的なコーナーに追い込まれた反原発運動は、より純化し、原発推進派と対話することができなくなっていった。その結果、原子力の導入が「多数決」によって進められ、イデオロギー的に純化した反原発運動が自己主張をしても多数決の数の力の前に無力化され、現実的な政策論議をすることができなくなっていってしまった。

こうした歴史的な流れがあって、現在の福島第一原発に至っている。そこには「被爆国」や「地震多発国」である日本で原子力をやることのまともな議論がなかったことを示している。こうした歴史的なコンテキストが、後々の原子力の政策論議の欠如をもたらし、外国からみると理解できないような原子力政策を紡ぎだしていったのである。

2011年5月8日日曜日

エコはどうなる?電気自動車はどうなる?

一昨日、菅首相は唐突に中部電力の浜岡原発の停止を要請することを発表した。大地震が発生する確率の高い場所にある原発を停止するというのはリスク管理の考え方からすれば当然のことなので、その決定自体は違和感もなく、納得のいくものである。一部には「大英断」という評価をする向きもあるが、これは英断というよりも「常識」の部類に入る話であろう。

それはともかく、福島第一原発の事故以降、気になっていることが一つある。それは、原発による発電がなくなり、休眠中の火力発電所の再開やガスタービン発電などの導入が積極的に行われている点である。揚水発電なども導入される予定だが、この揚水発電も、もともとは火力発電所で作られた電気を、使用の少ない夜間に使って水をポンプでくみ上げ、電力需要の高い時間帯に水を落としてタービンを回して発電するというものだから、電気エネルギーを使って位置エネルギーを獲得しているだけであり、火力発電の量が減るわけではない。

となると、これまで地球温暖化の「悪者」として見られてきた火力発電が、今後の電力供給の中心になっていくということになる。果たして、それはどういう問題を抱えることになるのだろうか。

第一に、民主党政権が掲げた「1990年に比べて温室効果ガスを25%削減する」という公約は確実に破棄されることになるだろう。すでに京都議定書の第一約束期間(2012年まで)に6%の温室効果ガス削減を約束しているにも関わらず、現時点で1990年に比べて7%も増えている(つまり差引13%も約束を破っている)ことを考えると、25%という数字は現実的ではない。さらに、民主党政権が目指してきた目標を達成するためには、原子力発電を圧倒的に進めていくという政策が柱としてありました。エネルギー基本計画では2020年までに9基、2030年までに14基の原子炉の新規建設が計画されており、再生可能エネルギー(太陽光発電など)は2020年までに10%程度にするとは言っていますが、基本的には原発に寄りかかった計画になっています(平成22年度エネルギー基本計画)。しかし、すでに被災して停止している福島第一、第二、女川原発に加え、浜岡原発の停止は明らかに原発に依存した温室効果ガスの削減にマイナスになっているほか、不足している電力を火力発電によってカバーするということになると、温室効果ガスの排出はさらに増加することになり、とてもではありませんが、25%削減などは不可能になります。

これは日本だけの問題だけでなく、世界的にそうした問題に直面しています。ドイツやイタリアだけでなく、世界的に反原発の運動が進んでいくと、原発を止める代わりに火力発電を推進するという話になっていくので、結果として温室効果ガスはどんどん排出され、温暖化は進むということになるでしょう。まあ、要は原発のリスクをとるか、温暖化のリスクをとるか、ということになってくるわけですが、その温暖化のリスクのほうがリスクとして小さい(または意識しにくい)ので、後回しになっているということなのだろうと思います。

さて、そうなると、どのようなエネルギー政策を進めるべきか、という問題がこれから出てくると思います。一つは無理やりにでも原発を推進し、温暖化を止めようという動きがあり得ます。アメリカのオバマ政権やフランスはそうした立場をとっています。つまり、今回の福島第一原発の問題は日本の問題であり、自分の国ではそうしたリスクは大きくないと考えている場合、こういう判断になるのだと思います。もうひとつは、再生可能エネルギーの割合をどんどん増やしていくべきだ、という考え方です。これは一番「正しい」議論ではありますが、再生可能エネルギーのコストはいまだに高く、それを実用に足るレベルに引き下げるまで国家が補助し続けるというのはかなりの財政負担になります。それができる国というのは極めて限られており、再生可能エネルギーを積極的に使っているアイスランド(火山があるので地熱発電が盛ん)やデンマーク(風力発電が盛ん)といった、比較的小さな国や人口が少ない国では可能であっても、日本のような国では難しいだろうと思います。三つ目の考え方は、電力の消費を極力少なくしていくということです。すでに東京電力管内では、かなり節電の努力がなされ、明るすぎた東京の街がかなり暗くなったり、エスカレーターが止まっていたりする光景はすでに見慣れてきた感があります。これでもまだまだ電力消費が減ったとは言い難いところはありますが、火力発電を減らし、再生可能エネルギーだけで何とかなるほどの省エネというのは非常に大変だろうと思います。

この点から敷衍して考えると、電気自動車がどうなるのか、ということについても気になっています。これまで電気自動車(EV)は地球温暖化のホープとして見られており、ガソリンを燃焼しないので、温室効果ガスを発生させない、ということが期待されていたわけですが、その基本には、「原発で発電した電気を使った電気自動車であれば、発電のCO2もガソリン燃焼のCO2も発生しない」という考え方があったのだと思います。

しかし、結局、車を走らせるエネルギーが火力発電によって作られたものであるとすれば、結果的にCO2の排出にはそれほど大きな効果がないのではないか、という問題が出てきます(実際はガソリン燃焼の分が大きかったので、それが減る分は大きいのですが)。それ以上に問題となるのは、電力不足の中で、電気自動車を走らせるための電気が十分得られるのか、ということがあります。電気自動車の普及がまだ進んでいないこともあり、電気自動車向けの電力需要はそれほど大きくないので、大きな問題にはなっていませんが、電気自動車が普及していくと、この辺もどうなっていくのか、気になるところです。

ただ、スマートグリッドといわれる、新たな電力需給管理の仕組みでは、電気自動車を「大きな蓄電池」として考え、太陽光発電などで生んだ電気を自動車の中にため込み、夜はそこから電気を取り出して使う、といったことが考えられてきました。そうなると、電気自動車は大きな蓄電池という位置づけとなり、新しい電力事情の中で、新しい役割を担うことになります。ただ、残念ながら、現在の電気自動車は電気をため込むことはできても、ためた電気を引き出す仕組みというのが整っていないので、そこをどうするのか、という技術的な課題が生まれてきます。

いずれにしても、当面は火力発電に依存する限り、温暖化問題は脇に追いやられていくことは間違いないでしょう。その間、再生可能エネルギーへのシフトを進めると同時に、スマートグリッドを実用化し、電気自動車を「大きな蓄電池」として活かしながら、節電が当たり前となるようなライフスタイルを確立していく、ということが求められるのだろうと思います。

残念ながら、菅首相が浜岡原発を停止するという発言をした時、こうしたビジョンを持って話をしていたとはちょっと考えにくく、なんとなく目の前に浜岡原発の問題があるから、それについてとりあえず停止を要請した、という風にしか見えませんでした。浜岡原発を止めることには異論はありませんが、それにしても、近視眼的というか、場当たり的というか、ビジョンのなさというか、そういうところが目に付いてしまい、良いニュースであるのにもかかわらず、残念な思いです。

2011年5月5日木曜日

不気味な沈黙

昨日の朝日新聞でウィキリークスが暴露した米国公電の記事が掲載された(朝日新聞の特集コーナー)。自民党政権の末期と民主党政権の初期(つまり麻生政権と鳩山政権)を中心とした駐東京米国大使館からの公電が主なものであり、沖縄・普天間基地に関するものや、民主党政権に関するものが解説されている。

いずれ出てくるものだろうと思っていたので、ウィキリークスの公電が出てきたことには驚かなかった。公電の中身についても、ある程度想像できる範囲の話であり、その意味ではスクープ感はあまり強くなかった。民主党政権の発言がバラバラでブレまくっていることは、すでに良く知られていたことだし、自民党政権時代に何とか密約で問題を解決しようとしてきたのも、かなり想像できる。嘉手納統合案も早いうちから岡田外務大臣(当時)が明らかにしていたので、珍しいというものではなかった。

ただ、今回の朝日新聞の報道に対し、驚きというか、気になることが何点かある。そのひとつは、朝日新聞が原文を紹介していない、ということである。ウェブには日本語訳は出ているが、原文へのリンクなどがまったくない。ウィキリークスと協力する欧米のメディアはウェブ版では必ず原文を載せている。朝日新聞の翻訳能力を信頼するとしても、やはり原文を掲載しなければ、朝日新聞の解釈の入った情報だけで議論せねばならず、どうも居心地が悪い。

もうひとつ、気になる点は、ほとんどのメディアが朝日新聞の「スクープ」をスルーしていることである。確かに、他社の特ダネを後追いするのもなんだし、現在進行中の話ではないので、後追いをする必要はないとしても、どうもこの沈黙が不気味だ。特に、朝日新聞系列のテレビ朝日でほとんど扱われておらず、『報道ステーション』でも一言も触れられていなかった点は疑問が残る。翌日(今日)の新聞でも読売新聞が記事にしていたが、日経新聞は一切触れていなかった(それ以外の新聞は確認していないが、ウェブ版で見る限り毎日新聞は比較的詳細にフォローしているが、産経新聞は一切触れていない)。

ウィキリークスの情報をどう見るかについては、いまだに論争があり、それを丸ごと信頼するのにもためらいがある。しかし、こうした記事が出たことで、日米関係や沖縄問題がどう変化するか、ということについては検討する価値があると思われる。しかし、記事そのものが「朝日新聞の勝手にやっていること」というところに閉じ込められてしまうと、議論がゆがんだものになってしまいそうな気がする。

なんとなく、今回朝日新聞が抜いたウィキリークスの公電そのものを無視し、なかったことにしてしまおうという流れができているような気がする。確かに、震災関連のニュースやオサマ・ビン・ラディンの殺害など、ニュースの価値の高い話は無数にあり、この時期に朝日新聞がウィキリークスの記事を出すのもよくわからないが、なかったことにしてしまうような記事ではないような気がしている。少なくとも、将来、日米関係を研究する歴史家が30年後にやるであろう仕事を、今できる、ということだけでも意味があるような気がする。歴史家の人たちからの声が聞きたいところだが、その第一人者は復興構想会議でお忙しそうなので、いずれ誰かが発言するのではないかと期待している。

2011年5月3日火曜日

テロと放射能

オサマ・ビン・ラディンが殺害された。世界中のメディアで大騒ぎになっているが、どうも違和感がある。確かに彼はアルカイーダのリーダーと目されていて、資金源でもあったといわれているが、彼を殺害したところで、非常に分散的で、自律的な組織であるアルカイーダが機能を失うとは思えない。

ビン・ラディンは確かにテロリストの世界ではアイコンとして機能していたであろう。それだからこそ、アメリカがビン・ラディンを殺害したということは、そのアイコンを殺したこととなり、テロリストの復讐があるかもしれない、ということも理解できる。となると、ビン・ラディンを殺害することはテロのリスクを高めた、ということになるのではないだろうか。そうなると、果たしてビン・ラディンを殺害することは適切な判断だったのだろうか?

また、今回のビン・ラディン殺害の方法にも問題がある。各種報道を見ていると、どうやらアメリカは海軍の特殊部隊であるSEALsを投入したとみられるが、パキスタン政府に対しては事後的に報告したとのこと。これは国際法から見て違法といわざるを得ない。アメリカの理屈からすれば、パキスタン政府はテロリストを暗黙のうちにかくまっており、事前に通報すればビン・ラディンが逃げてしまう危険性があった(過去にもそういうことはあったらしい)ため、やむを得ず事後報告となったが、それがもたらす法的、道義的な問題からは逃れられないだろう。

つまり、アメリカが気に入らない人物であれば、他国の主権を侵害してでも殺害することが認められる、というロジックがまかり通ってしまう。実際、先日、リビアの空爆によってカダフィの息子が殺されたということも報じられているが、これも国連安保理を厳密に解釈する限り、認められない殺害行為であり、国際法の違反に問われる可能性もある。

確かにテロは国際的な問題であり、ビン・ラディンは多くの国(特に西側諸国)にとって10年来の仇敵である。ゆえに、一般論としては彼を追跡し、殺害することは正義のようにも思える。しかし、きちんとしたロジックに基づかず、「みんなの敵だから」という理由でビン・ラディンを殺害することを無条件で認めるわけにはいかないだろう。何らかの形で形式的にでも合法性を担保する仕組みがなければ国際秩序を維持することはより一層難しくなる。

さて、このオサマ・ビン・ラディンの殺害がテロのリスクをどれだけ高めるのか、という点について、若干の疑問を持たざるを得ない。というのも、イスラム原理主義者やアルカイーダによるテロは国際的なニュースとなり、我々の目に付きやすいが、実際、欧州などでテロリストとして摘発されているのは、アルカイーダとは関係のない単独行動犯であったり、バスク地方の独立を主張するETAのテロリストだったりする。つまり、アルカイーダによるテロのリスクよりも、他のグループや個人によるテロのリスクのほうが高いのである。アメリカにおいても、Home-grownテロと呼ばれる、自国のテロリスト(かつてのユナ・ボマーのような存在)がおり、彼らのテロのリスクのほうが高い。

なのに、ビン・ラディンを一つの象徴として祭り上げ、あたかもビン・ラディンを倒せばテロのリスクが低まるようなイメージを作ってしまったアメリカの罪は重い。この問題は、すでに論じてきた放射線被ばくのリスクの話と若干似ている。何か「恐怖の対象」となる存在があり、その「恐怖の対象」に対しては過剰に反応するにもかかわらず、それが強調されてしまうあまり、他のより高いリスクが隠されてしまう、ということである。

放射能と同様、テロも目に見えない恐怖であり、それだけに不安が煽られる。しかし、そこばかりに注目していると、他のものが見えなくなってきて、それが結局盲点となり、いざ問題が起こるまで気がつかない(ないしは気にしない)ままでいる、ということになりかねない。危機管理というのは常にあらゆることを「想定」し、もし何かが起こった時にどう対処するかを考えておくことが基本だが、アルカイーダにせよ、放射能にせよ、一つのことに集中しすぎて、それが解決されれば万事OKという発想にだけはならないほうがよい。

2011年5月1日日曜日

リスク管理とは何か

今回の原発事故で大きく問題になるのが放射線被ばくへの不安、恐怖である。確かに放射線は目に見えず、どの程度の放射線を浴びているのかガイガーカウンターがなければわからないというだけに、不安や恐怖が増幅されるのは仕方がないだろう。

しかし、昨日のブログ投稿でも述べたが、放射線はすべて悪ではない。自然界にはすでに放射線が存在し、宇宙飛行士などは毎日1ミリシーベルトの被曝をしている。4ヶ月間宇宙ステーションに滞在した若田さんは90ミリシーベルト、これから6ヶ月間滞在する古川さんは180ミリシーベルトの被曝がすでに予定されている。

とはいえ、これだけの放射線を浴びても、すぐに健康に被害がでるわけではない。100ミリシーベルトの放射線を浴びても、がんになる確率は0.5%しか上がらず、1000ミリシーベルト=1シーベルトでも5%増えるだけである。

これだけ聞くと「やっぱり危ないじゃないか」と思う人もいるかもしれない。しかし、すでに喫煙によるがんの発生確率は吸わない人の確率(60%)よりもはるかに低い。この点について、産経新聞の図がわかりやすいので転載しておく。http://sankei.jp.msn.com/images/news/110501/dst11050107010003-p1.jpg


ようするに、我々は放射線のリスクよりもはるかにリスクの多い社会に住んでおり、いくつかの場合(たとえば喫煙)、自ら進んでそのリスクを取っている。もちろん、喫煙は自分で選んだ結果であり、そのためにがんを発症しても、それは自己責任であるが、原発の事故は自分の責任ではないので、同じように語ることは難しい。しかし、それでも原子力発電を容認し、原発で作った電気を使っている以上、まったく責任がないともいえない。

少なくとも、この図から言えることは、放射線のリスクは段階的であり、放射線が「ある・ない」という二元論ではない、ということだ。どのくらいの放射線を浴びれば、どのくらいのリスクが上がるのか、ということを示しているということは、放射線の量が問題であり、また、そのリスクの増加を受け入れるかどうか、ということになる。

たとえば、原発が絶対に許せず、少しの放射線の増加も受け入れられず、原発を使う電気も使いたくない、というのであれば、原発を持たない沖縄電力管内に引っ越すという選択をするか、何らかの運動をして原発をなくすという努力をすることもできよう。

しかし、すでに日本はさまざまな理由から原発を容認し、その開発と利用を進めてきた。それを知ってか知らずかは別として受け入れてきた多くの人は、そのリスクと向き合う必要がある。現在の福島原発の事故によって放出されている放射線の量は致命的な量ではない。かといって、自然界に存在する放射線の量よりは多い。そういう「グレーゾーン」の中で、放射線の線量が増えたら、どのくらい健康リスクが高まるか、ということを考えて行動するしかない。

個人的な話をすれば、私は喫煙者であり、かつ医者には「肥満気味と言われている身なので、100ミリシーベルトや200ミリシーベルトという数字にはあまり驚かない。また、飛行機に乗れば、東京-ニューヨーク間の片道フライトで200マイクロシーベルトの被曝をする。私は年に10回ほど海外出張があるため、普通の人より2ミリシーベルトは多く被曝しているが、それはたばこを多少減らせば関係なくなる程度の被曝量でしかない。

いずれにしても、大事なことは、リスクを「ある・ない」という二分法で考えることや、目に見えないからといって、放射線と聞いただけで恐怖や不安に陥ることを避ける、ということである。放射線に限らず、あらゆるリスクは「確率」で決まってくる。正しいデータを踏まえて、そのデータが何を意味しているかを理解し、そこから自分が負っているリスクを計算し、自らの行動を決める。それが現代社会で生きる人間に課せられた義務というか宿命なのだ。そこから逃げてしまうと、非科学的なヒステリーに陥り、不必要な不安と恐怖に身を削ることになるだけとなり、現代社会で生きることがしんどくなってしまう。なので、面倒であっても、リスクを「確率」で計算し、それを考えながら、正しくリスク管理をしていくことが重要なのである。

そのリスク管理とは具体的にはどういうものか。一つは上述したように、正しい知識と情報を踏まえて、状況を判断することが大事である。次に、その確率を自分にとって受け入れられるものかどうか、判断する必要がある。私の場合、100ミリシーベルトや200ミリシーベルトという数字は、自分ががんになる確率をそれほど上げない(というか、すでに猛烈に上げているので、この際大きな差を生まない)と判断し、あまり気にしないことにしている。しかし、気になるレベルのリスクの高まりと判断したら、リスクを軽減するための行動をとるだろう。つまり、放射線量の少ない場所に移住するといったことである。そうして自分のリスク管理をしていくこととなる。

また、リスク管理を考える際、決してやってはいけないことは、リスクがゼロになる、ということを期待することだ。どんな場合でもリスクは存在する。赤信号で停止していたからといって、信号無視をしたほかの車が突っ込んでくる可能性もある。つまり、そこにリスクが存在する限り、あらゆることが「想定内」でなければならない。さまざまな「悪いこと」を想定し、それによって発生する「悪い結果」を想定しながら、それに向かって対処を考えておく必要がある。

しばしば、そこで問題になるのが、リスクを「ゼロ」にするために堤防を高くしたり、建物を頑丈にするといった、リスク対策である。これは大きな間違いだと考えているが、それはまた別の機会に。