本日の読売新聞の『論点』で有馬朗人先生が「日本の技術 防災に生かせ」という論稿を寄せられていた。有馬先生は東大学長と科学技術庁長官を経験された偉大な技術者であり、国際的、国内的な評価も非常に高い先生である。政治も役所もアカデミアも熟知されている先生であるからこそ、新聞を開けた時には期待が高まった。
しかし、この論稿を読んだ感想は「残念」の一言である。これまで新聞に掲載された宇宙開発関連の記事や論説についてコメントしてきたが、「またか」という印象が強い。こちらもウェブには記事が掲載されていないので、著作権を侵害しない範囲で引用しながら議論していきたい。
有馬先生の論稿はまずシャトル後の宇宙開発ということから始まる。これは今月に書かれた宇宙関連の記事のほとんど共通した論調である。私の住む北海道の有力地方紙である北海道新聞でも「シャトル退役 宇宙開発 日本の役割は」(7月19日社説)という社説が掲載されている。なぜ北海道新聞が北海道での宇宙開発に一切触れず、国の宇宙開発だけを論じているのかは、若干疑問が残るが、それは今回の本論ではないので、これ以上は触れない(なお、北海道の宇宙開発については、拙稿「北大HOPSマガジン【北海道から何を発信するか】北海道発の宇宙開発に注目!」:WEBRONZAをご参照ください)。
さて、有馬先生の論稿だが、シャトルはさまざまな実験ができることを強調し、シャトルは退役しても宇宙ステーションは残るので大事にしなければならないと主張する。その理由は「こんな人工構造物はない」から。「こんなものは他にないから大事にしろ」というのは気持ちとしてはわかる。マチュピチュや姫路城のように、歴史的遺産も「他にはないのだから大事にする」ということで保護されている。つまり、他にはないから大事にするというのは遺跡とか博物館のレベルの話であり、それに巨額の費用をかけて維持するということの意義は見出せない。宇宙ステーションは運用を止めれば、残念ながら大気圏に突入し、燃え尽きてしまう運命にある。なので、大事にしていても、その大事にすべき価値が何なのかが明確でない以上、大事にする理由がよくわからない。
その費用について、有馬先生は年間400億円のコストがかかることを熟知していながら、そのコストは高すぎるわけではなく、「子供たちに宇宙に行ける希望を与えるためにも、このくらいの投資をしてもいいのではないか」とおっしゃっている。残念ながら、宇宙ステーションの運用は2020年までと決まっており、子供たちが大人になる前に運用を止めて大気圏に突入し、灰になることが決まっている。子供たちが行くことができない宇宙ステーションを、年間400億円もかけて維持する意味はない、となると、何のための予算なのか、きっちり説明する必要が出てくるだろう。
ただでさえ、日本の公的債務が1000兆円になろうとしており、ただでさえ、震災からの復興に数十兆円かかるとされている時代にあって、年間400億円は小さくない数字である。子供たちがどう頑張ってもたどりつくことのできない宇宙ステーションを「子供たちに希望を与えるため」に、国の借金を増やし、被災地の支援に回すことだってできたはずの400億円を費やすことの意味が私には理解できない。
続いて、有馬先生は宇宙実験で結果が出ていないという批判に対して、「研究とはそういうものだ」として成果が出なくても実験を続けるべきだ、と主張される。しかし、宇宙ステーションを使った実験の数はどんどん減っており、JAXAが予定していた数に達していない。それは、宇宙ステーションが使いにくい実験装置であるだけでなく、宇宙ステーションに行かなくてもさまざまな方法で実験をするということが可能になっているからである。研究が即座に成果を出すものとは、私も思っていない。しかし、科学者にとって役に立たない、実験に使いにくい装置を巨額の費用をかけて維持するという意義もよくわからない。問題は成果が出ないことではなく、成果を出すまでの時間とコストがかかりすぎ、本当に継続的な実験や研究ができないような環境を作ってしまったことにある。宇宙ステーションがあるから実験をやれ、といっても、科学者にとって迷惑なことである。最初から使いづらく、リスクが多く、コストが高い宇宙ステーションを無理やり「実験施設」として位置付け、予算をつけてきたことのツケを今払っているということを理解すべきである。
有馬先生の議論は、他のいくつかの論稿と同様に、突然急展開する。宇宙ステーションでの実験を続け、「継続は力だ」とおっしゃった、その直後の段落から、宇宙技術と防災の話が始まる。さまざまな地球規模の問題を解決するために衛星技術を磨くことが重要だと主張されている。この点については、このブログで繰り返し述べてきたように、まったくその通りだと思う。
ただ、この有馬先生の論稿が他のものと異なるのは、宇宙基本法の成立に伴い、「平和利用原則」の解釈が変わったことを的確に理解されており、それを肯定的に捉えている点である。これまで宇宙基本法をめぐる解釈がおかしいという点については、何度かこのブログで書いてきたが(たとえば「川口淳一郎先生の宇宙基本法の誤解」)、有馬先生は衛星技術が高まれば、「いずれ安全保障にも役立つ」と指摘しており、災害対策のための宇宙利用は重要であると論じている。
そして、最後に宇宙開発を引っ張ってきたアメリカの力が弱まり、日本も目標を描けずにいる、と指摘している。これが現在の宇宙開発戦略本部が日本の宇宙開発の方向性を出せていない、という点を指摘しているのであれば、その通りであろう。日本がどのような宇宙開発を進めていくのかという全体的な方針は、2009年の宇宙基本計画で一応は示されたが、それが民主党政権に変わったことで、その方向性が見失われた状態であり、何度もコロコロと宇宙開発担当大臣が変わることで、落ち着いて戦略的なビジョンを描けていない、というのもその通りであろう。
有馬先生は事業仕訳などでロマンや情熱を持って新しいことをやろうという機運が失われてきたことを嘆いておられる。その点には同意するが、しかし、同時にこの論稿の前半部分で述べられた年間400億円の支出を、行ける可能性もない子供たちの期待を維持するために、宇宙ステーションにかけるという議論と重ねて考えると、有馬先生の議論は途端に脆弱なものに見える。
つまり、ここで展開されている議論には財政の問題についてまったくと言ってよいほど考察がない、ということなのである。宇宙開発の予算が年間2500億円程度であり、国家予算からみればそれほど大きくない額とはいえ、日本の破たん気味の財政状況を考えると、ロマンや情熱という精神論だけでは解決できない問題がそこにはある。そのことをまったく無視して科学技術政策を論じることは、国家財政が破たんしても夢やロマンを追いかけるべき、という無責任な議論に見えてしまう。
国民の税金を使ってやる以上、国民に還元されない宇宙開発は正当化できない。災害対策や安全保障は値段をつけることはできないが、少なくとも国民の福祉厚生(Welfare)を向上させるためのものとして期待することはできる。情熱やロマンも同じく値段が付けられないものであるが、それが国民のWelfareを向上させることになるのだろうか?10年後には灰になってしまう宇宙ステーションを「子供たちに希望を与えるため」という理屈で400億円も投入することが国民のWelfareを向上させることになるのだろうか。
国家には優先順位があるべきであり、税金の使い方はその優先順位に沿って議論されるべきである。有馬先生の論稿の後半にあるように、災害対策は、東日本大震災を経験した日本にとって、圧倒的に高いプライオリティである。しかし、それが宇宙ステーションを無理やり維持することと同列で語られることがおかしいのである。限られた予算を何に使うのか。宇宙開発を語るものは、社会的責任を持って、政策的プライオリティを考えて語らなければならないのである。
東日本大震災を受けて、世の中が大きく変わっていく中で、日々のニュースに触れて、いろいろと考えなければならないテーマが出てきました。商業的な出版や学術的な論文の執筆にまでは至らないものの、これからの世の中をどう見ていけばよいのかということを社会科学者として見つめ、分析し、何らかの形で伝達したいという思いで書いています。アイディアだけのものもあるでしょうし、十分に練られていない文章も数多くあると思いますが、いろいろなご批判を受けながら、自分の考えを整理し、練り上げられれば、と考えています。コメントなど大歓迎ですが、基本的に自分のアイディアメモのような位置づけのブログですので、多少のいい加減さはご寛容ください。
2011年7月19日火曜日
2011年7月13日水曜日
平成23年版科学技術白書の不気味さ
先日、公表された平成23年版科学技術白書を読んで、不気味さと吐き気を強く感じ、とりあえずこの気持ち悪さを記録にとどめておこうと思い、ブログを書いている。
この白書で明記されているように、福島原発の事故はこれまでの科学技術政策のあり方を厳しく問い直し、抜本的な見直しが必要であることは疑いない。にもかかわらず、全体を通して受ける印象は「本当に文科省(旧科技庁部分)はそのことを理解しているのか?」ということであった。
確かに、きちんと反省しているところもある。たとえば第一章の9ページで
また、第一章11ページでは
ここで、不気味さが顔を出してくる。これまでの科学技術コミュニケーションは多くの論者が明らかにしているように、「科学技術は複雑で難しく、一般の人には理解できない」という前提に立ち、「わかっている専門家が優しい言葉で説明すればわかってくれるはず」という期待が込められている。
しかし、今回の震災と原発事故で明らかになったのは、まさにこの逆だったのではないだろうか。確かに、放射能に関する技術的、科学的理解が十分ではないため、社会に大きな混乱が起きていることは確かだが、それ以上に問題なのは、「専門家」と言われる人たちがさまざまな意見と立場をもち、それらの立場に立って発言したため、「何が正しいのかわからない」という状況が生まれた、ということであった。つまり、科学技術、とりわけ社会の支持を必要とする科学技術は、しばしば専門家の間でもさまざまな意見があり、彼らの見解や彼らが「科学的データ」として示すものが、矛盾したり対立したりする、ということを、この科学技術白書は完全に無視しているのである。
これはすなわち、意見が分かれる問題であり、社会的な支持を必要としている科学技術に関して、「文科省の立場」に立って発信してくれる専門家(しばしば「御用学者」として非難される対象ともなる)を重用し、その立場に立った意見や見解を「政府の正しい見解」として発信し、十分な知識をもたない一般市民を啓蒙する、といった姿勢を変えていないのである。
この点は第一章、12ページの記述にも表れる。
さらに、科学技術コミュニケーションを論じる第二章の冒頭では以下のように述べられている。
なぜ、ここで言わなくてもよい「一丸となって」という表現を使うのか。私はこの神経を永遠に理解できないのだが、要は、リスクがあり、個々人が異なる意見や見解をもっていることとは関係なく、「科学的」で「客観的」なデータを提供し、きちんと科学技術コミュニケーションをとれば、無知蒙昧な市民はきっと文科省の言う通りになるだろう、というような意識が見え隠れするのである。
一応、この白書ではこうした問題点が指摘されていることは認識している。56ページに以下のようなことが書かれている。
その本質とは何か。それは、文科省が科学技術の生産者側、つまり研究者や技術者の側を向いており、科学技術の消費者、つまりリスクを引き受けなければいけない側の市民の側に立っていないからである。これは経産省が電力会社の側に立って原発を再稼働させようとさまざまな形で画策するのと、構図としては同じである。
文科省は科学技術を振興するための予算をとるため、科学技術の生産者の側に立ち、彼らの利益を代弁するとともに、不確実性があり、リスクを伴う科学技術であっても、それを推進するためには、それを「安全神話」で包み込み、それを市民に飲み込ませようとする姿勢から離れられないからである。そして、数多くの研究者や技術者が、そうした「○○ムラ」に安住し、文科省と技術者とそれにかかわる産業との癒着を起こしている、という点が、この問題の本質である。
ゆえに彼らはいまだに「国民の理解と信頼と支持」を得るため、何らかの「神話」を作って、それを市民に飲み込ませることを考えるのである。しかし、市民は無知でも蒙昧でもない。専門家の中には文科省の「公式の神話」に乗らずに、別の立場や見解から発信する人たちもいる(原子力政策では明確にその存在が認識されるようになった)。市民はそういう人たちの意見も「専門家」の意見として聞き、それが文科省の「公式の神話」と異なる場合、何が正しいのかわからなくなり、混乱するのである。
それを「双方向コミュニケーション活動」や「科学技術を分かりやすく親しみやすい形で人々に伝え、対話を深めるアウトリーチ活動の推進、成人に身につけて欲しい科学技術リテラシー像の策定」(55ページ)といった小手先の活動で何とかしようとしているところに不気味さを感じるだけでなく、卑しさすら感じる。なお、断わっておくが、文科省の「公式の神話」が間違いだとか、異なる立場の専門家が正しい、というつもりはない。科学技術の見解は多様であり、一つの見解にまとめることを権力的に行うべきではない、と主張しているのである。
このように、白書は一貫して「社会」「国民」との関係に重点を置き、政策立案についても、「熟議」を重ねていることをアピールし、NPO法人などを通じて国民との対話の場が作られていることも強調している。これらの試みが悪いと言うつもりはないが、政策立案で市民の意見を参考にします、というのは、ある意味で当たり前の話であり、それ以上のことが述べられていない、ということが問題である。
つまり、科学技術と産業との関係、科学技術と安全保障との関係(もちろん原子力などは非核三原則がある、ということで終わってしまうのだが、安全保障上のリスク、たとえば核テロの問題などは含まれていくべき)、科学技術と国際関係の問題(たとえば、国際競争力や国際協力)など、科学技術の「政策立案」においては、さまざまな角度から議論されるべき問題があり、それは単に国民との対話や熟議という範疇では収まらない話である。しかし、社会に支持され、国民に理解される政策を標榜するのであれば、科学技術がただ単に科学技術という世界に閉じこもったものではなく、まさに「社会および公共のための政策」(99ページ)であるということを踏まえた議論が必要である。
しかし、この白書では、そうした問題はすべて捨象され、抽象的な「社会」や「公共」という言葉に回収されてしまっている。本来ならば、こうした問題を具体的に論じ、その中で、科学技術政策を国民がどうとらえるのか、ということを論じるべきである。しかし、そうしないのは、「社会」や「公共」のための科学技術という議論を始めると、さまざまな意見や見解が噴出し、それをまとめて「一丸となって」政策を推進するのが困難になるからではないかと思われる。確かに、文科省設置法では、文科省の所掌は研究開発や科学技術の振興であり、「社会」や「公共」のための政策をやることではない。ゆえに、法律に制約されている分、そうした具体的な議論ができない、ということもあるだろう。しかし、そうだとしても「社会および公共のための政策」というのであれば、その中身を精査する必要があり、それをしなければ「社会および公共のため」というお題目は空虚なものでしかなくなる。その辺の認識が極めて弱いのも、この白書の特徴と言えよう。
さらに理解ができないのは、第四期科学技術基本計画の策定に向けた議論の中で出てきた、「客観的根拠(エビデンス)に基づく政策の企画立案や、その評価及び検証の結果を政策に反映するため、『科学技術イノベーション政策のための科学』を推進する」という目標である(文部科学省の資料)。
第一に、政策の企画立案をするときに客観的根拠をもたない、ということがあるのか、という疑問である。客観的根拠をもたない政策立案をしてきた過去があるから、こうした目標が設定されるのだろうと思われるのだが、いったい何を言いたいのか、いまだにわからない。さまざまな資料を読む限り、ここでいう「客観的根拠」というのは、社会経済的なデータを踏まえ、社会に役立つ科学技術イノベーションをせよ、ということなのだろうということは、おぼろげながらにわかるのだが、そうしたことをやってこなかったこと自体がショッキングであり、これまで社会経済のことなど考えずに科学技術政策を行ってきた、ということはスキャンダルですらある。
また、社会経済のデータといっても、かなり恣意的に選択することが可能であり、果たしてその「客観性」をいかにして担保するのか、ということについては明確にされていない。一体何をもって「客観的」というのか、また、社会経済のデータといっても無数にあり、それをどう科学技術イノベーション政策に含めていこうとするのか、はなはだ疑問である。
第二に、「科学技術イノベーション政策のための科学」という表現に気持ち悪さを感じる。科学技術とイノベーションは必ずしも一致しないことはよく知られている。イノベーションとはシュンペーターの定義によれば「新しい価値の創造」であり、必ずしも新しい技術によってもたらされるものではない(もちろん新しい技術が新しい価値を創造することは大いにある)。なので、「科学技術イノベーション」という単語自体も無理やり感があり、あまりほめられた用語法ではない。
さらに、その「科学技術イノベーション」を導き出すための「政策」がある、ということが措定されている。まあ、政策的な措置、つまり予算をイノベーションを起こしそうな科学技術に投入するという判断をする、ということは理解できる。しかし、その後に続く、「政策のための科学」となるとわけがわからなくなる。
「科学技術イノベーション政策のための科学」というと、オセロではないが、みんな「科学」になってしまい、果たしてこの最後の「科学」が何を意味しているのかは明示的ではない。仮にこの最後の「科学」を「社会科学」として見ると、案外座りは良い。「科学技術イノベーション政策のための社会科学」となると、イノベーションを起こしそうな科学技術は何かを政策的に判断するための政治学、経済学、社会学などなどをやるべきだ、という議論がある。これは宇宙政策などをやっている私としては、ちょっと自分の利益にもなるかもしれない、という期待が持てる(まあ、これだけ科学技術政策を批判しているのだから、私に何らかのメリットが回ってくることは当初から期待していないが)。
しかし、社会科学を「客観的根拠」に基づく政策立案を行うための「科学」とするのは、結構しんどい。というのも、社会科学自体が多様で、論争的な科学であり、往々にして「客観的根拠」を「主観的な判断」で分析、理解していく科学だからである。社会科学が科学たりえるのか、というのは永遠の課題であるが、無理やり科学っぽさを出そうとして、社会科学を形式化させていったアメリカの政治学などが、結果的にどん詰まりな状態になっているのを見るにつけ(このあたりの評価も人によって大きく分かれる)、社会科学を「客観的根拠」に基づく政策立案のための道具として使うのは、なかなか難しいと思われる。
ずいぶん長い記事になってしまったが、私が感じた科学技術白書がもつ不気味さ、日本の科学技術政策がもつ、ある種の政策規範、政策イメージの問題を理解してもらえれば幸いである。そして、福島原発事故を起こした日本の科学技術政策の問題の本質は、科学技術政策が「政策」として持つ権力性と、それによる「公式の神話」の必要性、さらには、多様な意見や見解を抹殺し、「一丸となって」科学技術政策を進めるための、「客観的根拠」に基づく政策という擬制をまとって、市民に向かって「科学技術コミュニケーション」を展開することであり、文科省はそれに気が付いていない、ということに対する懸念を共有してもらえれば幸いである。
この白書で明記されているように、福島原発の事故はこれまでの科学技術政策のあり方を厳しく問い直し、抜本的な見直しが必要であることは疑いない。にもかかわらず、全体を通して受ける印象は「本当に文科省(旧科技庁部分)はそのことを理解しているのか?」ということであった。
確かに、きちんと反省しているところもある。たとえば第一章の9ページで
緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムについては、放出源情報を得ることができずに大気中の放射性物質の濃度等の変化を定量的に予測するという本来の機能を発揮できなかった。放出源情報の推定や推定結果を基にした積算線量の試算、モニタリングの調査区域の設定の参考に用いられるなど様々な形で補完的に活用されたが、その活用の体制や公表の在り方にも課題を残したといったことを書いているのは評価できる(果たしてこの反省がどう活かされるかは別問題だが)。
また、第一章11ページでは
本白書第1部では、「社会とともに創り進める科学技術」という特集テーマの下、科学技術に対する国民の理解と信頼と支持を得ることができるよう関係者が進めてきている科学技術コミュニケーション活動の現状と課題について示している。しかし、こうした関係者の思いとは裏腹に、特に今回の原子力発電所事故により、国民の理解と信頼と支持という点で大きな課題を突き付けられることとなった。と問題点があるということは認識しているようである。そのため、この白書では、科学技術コミュニケーションが重要であり、社会に支持される科学技術となるべきである、ということが強く主張されている。
事故に関するコミュニケーションでは、透明性、正確性、迅速性が重要であるが、事故発生の当初の段階では、自治体への通報の遅れを含めて適時かつ的確な情報の提供が進まず、事故に関するコミュニケーションに課題を残した。
ここで、不気味さが顔を出してくる。これまでの科学技術コミュニケーションは多くの論者が明らかにしているように、「科学技術は複雑で難しく、一般の人には理解できない」という前提に立ち、「わかっている専門家が優しい言葉で説明すればわかってくれるはず」という期待が込められている。
しかし、今回の震災と原発事故で明らかになったのは、まさにこの逆だったのではないだろうか。確かに、放射能に関する技術的、科学的理解が十分ではないため、社会に大きな混乱が起きていることは確かだが、それ以上に問題なのは、「専門家」と言われる人たちがさまざまな意見と立場をもち、それらの立場に立って発言したため、「何が正しいのかわからない」という状況が生まれた、ということであった。つまり、科学技術、とりわけ社会の支持を必要とする科学技術は、しばしば専門家の間でもさまざまな意見があり、彼らの見解や彼らが「科学的データ」として示すものが、矛盾したり対立したりする、ということを、この科学技術白書は完全に無視しているのである。
これはすなわち、意見が分かれる問題であり、社会的な支持を必要としている科学技術に関して、「文科省の立場」に立って発信してくれる専門家(しばしば「御用学者」として非難される対象ともなる)を重用し、その立場に立った意見や見解を「政府の正しい見解」として発信し、十分な知識をもたない一般市民を啓蒙する、といった姿勢を変えていないのである。
この点は第一章、12ページの記述にも表れる。
研究者・技術者、政策担当者は、各々の専門分野にとらわれない俯瞰的な視点で議論を深め、科学技術のもたらすリスクの科学的な評価や社会・国民生活への影響評価を行うことにより、適切なリスク評価とリスク管理に基づくより良い科学技術マネジメントの実現を図っていく必要があるつまり、専門家が、それぞれの専門の立場ではなく「俯瞰的な視点」、すなわち政府の視点で議論を深め、「より良い科学技術マネジメントの実現」、すなわち文科省の都合のよい政策を実現していこうとする姿勢に読めてくる。
さらに、科学技術コミュニケーションを論じる第二章の冒頭では以下のように述べられている。
このような中で、科学技術イノベーション政策を国民の理解と信頼と支持を得て、一丸となって推進していくためには、科学技術に関する情報の公開、共有と、それに基づくコミュニケーションが不可欠である。(55ページ)すでに述べたように、科学技術の見解はさまざまであり、リスクをどう認識するのか、何をAcceptableリスクとしてみなすのか、というのは市民の個人的な主観によるものである(この点についてはすでに別のブログ記事で論じた)。にもかかわらず、ここで「国民の理解と信頼と支持を得て、一丸となって推進していく」と措定されているのは、大変不気味である。つまり、元々、国民の中で意見や見解が分かれるような科学技術であっても、「一丸となって推進」するために、多少の操作や情報隠しはやむを得ない、というような発想をもっていたらとんでもない話である。
なぜ、ここで言わなくてもよい「一丸となって」という表現を使うのか。私はこの神経を永遠に理解できないのだが、要は、リスクがあり、個々人が異なる意見や見解をもっていることとは関係なく、「科学的」で「客観的」なデータを提供し、きちんと科学技術コミュニケーションをとれば、無知蒙昧な市民はきっと文科省の言う通りになるだろう、というような意識が見え隠れするのである。
一応、この白書ではこうした問題点が指摘されていることは認識している。56ページに以下のようなことが書かれている。
これまで、政府は、国民に自らの取組について理解を求めるといった一方向のコミュニケーションになりがちであったと指摘されている。今後求められる科学技術に対する国民の理解と信頼と支持という地平にどのようにたどり着くのか、双方向コミュニケーション活動の一層の拡大等、対応すべき課題は多い。しかし、問題点が指摘されている、と言いながら、「対応すべき課題は多い」といって、解決を提示していない。なぜならば、文科省自身が問題点が指摘されていることには気づいていても、その問題の本質が理解できていないからである。
その本質とは何か。それは、文科省が科学技術の生産者側、つまり研究者や技術者の側を向いており、科学技術の消費者、つまりリスクを引き受けなければいけない側の市民の側に立っていないからである。これは経産省が電力会社の側に立って原発を再稼働させようとさまざまな形で画策するのと、構図としては同じである。
文科省は科学技術を振興するための予算をとるため、科学技術の生産者の側に立ち、彼らの利益を代弁するとともに、不確実性があり、リスクを伴う科学技術であっても、それを推進するためには、それを「安全神話」で包み込み、それを市民に飲み込ませようとする姿勢から離れられないからである。そして、数多くの研究者や技術者が、そうした「○○ムラ」に安住し、文科省と技術者とそれにかかわる産業との癒着を起こしている、という点が、この問題の本質である。
ゆえに彼らはいまだに「国民の理解と信頼と支持」を得るため、何らかの「神話」を作って、それを市民に飲み込ませることを考えるのである。しかし、市民は無知でも蒙昧でもない。専門家の中には文科省の「公式の神話」に乗らずに、別の立場や見解から発信する人たちもいる(原子力政策では明確にその存在が認識されるようになった)。市民はそういう人たちの意見も「専門家」の意見として聞き、それが文科省の「公式の神話」と異なる場合、何が正しいのかわからなくなり、混乱するのである。
それを「双方向コミュニケーション活動」や「科学技術を分かりやすく親しみやすい形で人々に伝え、対話を深めるアウトリーチ活動の推進、成人に身につけて欲しい科学技術リテラシー像の策定」(55ページ)といった小手先の活動で何とかしようとしているところに不気味さを感じるだけでなく、卑しさすら感じる。なお、断わっておくが、文科省の「公式の神話」が間違いだとか、異なる立場の専門家が正しい、というつもりはない。科学技術の見解は多様であり、一つの見解にまとめることを権力的に行うべきではない、と主張しているのである。
このように、白書は一貫して「社会」「国民」との関係に重点を置き、政策立案についても、「熟議」を重ねていることをアピールし、NPO法人などを通じて国民との対話の場が作られていることも強調している。これらの試みが悪いと言うつもりはないが、政策立案で市民の意見を参考にします、というのは、ある意味で当たり前の話であり、それ以上のことが述べられていない、ということが問題である。
つまり、科学技術と産業との関係、科学技術と安全保障との関係(もちろん原子力などは非核三原則がある、ということで終わってしまうのだが、安全保障上のリスク、たとえば核テロの問題などは含まれていくべき)、科学技術と国際関係の問題(たとえば、国際競争力や国際協力)など、科学技術の「政策立案」においては、さまざまな角度から議論されるべき問題があり、それは単に国民との対話や熟議という範疇では収まらない話である。しかし、社会に支持され、国民に理解される政策を標榜するのであれば、科学技術がただ単に科学技術という世界に閉じこもったものではなく、まさに「社会および公共のための政策」(99ページ)であるということを踏まえた議論が必要である。
しかし、この白書では、そうした問題はすべて捨象され、抽象的な「社会」や「公共」という言葉に回収されてしまっている。本来ならば、こうした問題を具体的に論じ、その中で、科学技術政策を国民がどうとらえるのか、ということを論じるべきである。しかし、そうしないのは、「社会」や「公共」のための科学技術という議論を始めると、さまざまな意見や見解が噴出し、それをまとめて「一丸となって」政策を推進するのが困難になるからではないかと思われる。確かに、文科省設置法では、文科省の所掌は研究開発や科学技術の振興であり、「社会」や「公共」のための政策をやることではない。ゆえに、法律に制約されている分、そうした具体的な議論ができない、ということもあるだろう。しかし、そうだとしても「社会および公共のための政策」というのであれば、その中身を精査する必要があり、それをしなければ「社会および公共のため」というお題目は空虚なものでしかなくなる。その辺の認識が極めて弱いのも、この白書の特徴と言えよう。
さらに理解ができないのは、第四期科学技術基本計画の策定に向けた議論の中で出てきた、「客観的根拠(エビデンス)に基づく政策の企画立案や、その評価及び検証の結果を政策に反映するため、『科学技術イノベーション政策のための科学』を推進する」という目標である(文部科学省の資料)。
第一に、政策の企画立案をするときに客観的根拠をもたない、ということがあるのか、という疑問である。客観的根拠をもたない政策立案をしてきた過去があるから、こうした目標が設定されるのだろうと思われるのだが、いったい何を言いたいのか、いまだにわからない。さまざまな資料を読む限り、ここでいう「客観的根拠」というのは、社会経済的なデータを踏まえ、社会に役立つ科学技術イノベーションをせよ、ということなのだろうということは、おぼろげながらにわかるのだが、そうしたことをやってこなかったこと自体がショッキングであり、これまで社会経済のことなど考えずに科学技術政策を行ってきた、ということはスキャンダルですらある。
また、社会経済のデータといっても、かなり恣意的に選択することが可能であり、果たしてその「客観性」をいかにして担保するのか、ということについては明確にされていない。一体何をもって「客観的」というのか、また、社会経済のデータといっても無数にあり、それをどう科学技術イノベーション政策に含めていこうとするのか、はなはだ疑問である。
第二に、「科学技術イノベーション政策のための科学」という表現に気持ち悪さを感じる。科学技術とイノベーションは必ずしも一致しないことはよく知られている。イノベーションとはシュンペーターの定義によれば「新しい価値の創造」であり、必ずしも新しい技術によってもたらされるものではない(もちろん新しい技術が新しい価値を創造することは大いにある)。なので、「科学技術イノベーション」という単語自体も無理やり感があり、あまりほめられた用語法ではない。
さらに、その「科学技術イノベーション」を導き出すための「政策」がある、ということが措定されている。まあ、政策的な措置、つまり予算をイノベーションを起こしそうな科学技術に投入するという判断をする、ということは理解できる。しかし、その後に続く、「政策のための科学」となるとわけがわからなくなる。
「科学技術イノベーション政策のための科学」というと、オセロではないが、みんな「科学」になってしまい、果たしてこの最後の「科学」が何を意味しているのかは明示的ではない。仮にこの最後の「科学」を「社会科学」として見ると、案外座りは良い。「科学技術イノベーション政策のための社会科学」となると、イノベーションを起こしそうな科学技術は何かを政策的に判断するための政治学、経済学、社会学などなどをやるべきだ、という議論がある。これは宇宙政策などをやっている私としては、ちょっと自分の利益にもなるかもしれない、という期待が持てる(まあ、これだけ科学技術政策を批判しているのだから、私に何らかのメリットが回ってくることは当初から期待していないが)。
しかし、社会科学を「客観的根拠」に基づく政策立案を行うための「科学」とするのは、結構しんどい。というのも、社会科学自体が多様で、論争的な科学であり、往々にして「客観的根拠」を「主観的な判断」で分析、理解していく科学だからである。社会科学が科学たりえるのか、というのは永遠の課題であるが、無理やり科学っぽさを出そうとして、社会科学を形式化させていったアメリカの政治学などが、結果的にどん詰まりな状態になっているのを見るにつけ(このあたりの評価も人によって大きく分かれる)、社会科学を「客観的根拠」に基づく政策立案のための道具として使うのは、なかなか難しいと思われる。
ずいぶん長い記事になってしまったが、私が感じた科学技術白書がもつ不気味さ、日本の科学技術政策がもつ、ある種の政策規範、政策イメージの問題を理解してもらえれば幸いである。そして、福島原発事故を起こした日本の科学技術政策の問題の本質は、科学技術政策が「政策」として持つ権力性と、それによる「公式の神話」の必要性、さらには、多様な意見や見解を抹殺し、「一丸となって」科学技術政策を進めるための、「客観的根拠」に基づく政策という擬制をまとって、市民に向かって「科学技術コミュニケーション」を展開することであり、文科省はそれに気が付いていない、ということに対する懸念を共有してもらえれば幸いである。
川口淳一郎先生の宇宙基本法の誤解
今日の読売新聞の朝刊の『論点』で、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャーの川口淳一郎先生の議論が掲載されていたが、残念ながらオンラインで公開されていないので、著作権を侵害しない程度に引用しながら話を進めていきたい。
川口先生はもう知らない人がいないほどの有名人になってしまい、今や国民的ヒーローなので、なかなかコメントしづらいところもあるが、彼とは国際宇宙アカデミー(International Academy of Astronautics)の会員同士で、毎年食事のテーブルが一緒になるので、許していただけるかな、と期待しながらコメントしたい。
川口先生の議論はシャトル後の宇宙開発は「新世界につながるような輸送機を目指すべき」という論点から始まる。これはロケットと飛行機の中間みたいな存在で、第二次大戦後には構想としては存在しており、1980年代にはドイツやイギリスで本格的に開発をしようという段階にまで至ったが、まだ実現していない技術である。
このような新型の輸送機は、これまで宇宙開発の考え方とは決定的に異なるものであり、是非とも進めるべきである。これまでの宇宙開発は、スペースシャトルに代表されるように、A地点から出発してA地点に帰ってくる、というものであった。宇宙ステーションを建設し、そこに人が滞在することになって、ようやっとA地点から出発し、宇宙ステーションに滞在して、A地点にもどってくるという仕組みになったが、これも本質的にはあまり違いがない。つまり、A地点からA地点にもどってくる乗り物でしかない、ということなのである。
地球上でA地点からA地点に帰ってくるものは、観覧車やジェットコースターといった遊園地の乗り物が典型であろう。つまり「乗っていることが楽しい」という乗り物である。これは乗っている人のエンターテイメントとしては良いが、それ自体が生み出す付加価値はあまり大きくない。言いかえれば、飛行機のようにA地点からB地点に「移動」し、B地点において何らかの行動(たとえば観光やビジネス)をするという付加価値を高めるようなことにはなっていない。
しかし、川口先生の提案しているロケットと飛行機の相の子のような輸送機であれば、A地点からB地点に移動するということを目的としているため、それを観光で利用する人、ビジネスで利用する人に大きな付加価値を提供する。これまで12時間かかっていた大陸間飛行を1-2時間で済むようになるのだから、それは人々の考え方や世界観をも変えるものになるだろう。
ただし、一つ留保をつけておきたいのは、かつてコンコルドという超音速旅客機が同じような付加価値を目指して開発されたが、結果的に経済性や騒音対策など、さまざまな問題を抱えて事業としては失敗した。ロケットと飛行機の相の子のような輸送機も同じ轍を踏まないとは言い切れないので、そうした教訓をしっかり踏まえておく必要があるだろう。
さて、川口先生の議論は、突如、日本の宇宙開発は「大きな誤解をしている」という議論に突入し、宇宙基本法の「考え方に少し疑問がある」と論じている。宇宙基本法では技術開発中心から利用中心にシフトするということは「悪いとは思わない」が、「宇宙開発が最も宇宙開発らしいのは、新たな空間、つまり人類のフロンティアを開拓することだ」と述べている。
ここに猛烈な違和感を感じる。というのも、先に論じたロケットと飛行機の相の子は、技術的なフロンティアを目指すものではあるが、その技術自体は「利用中心」のものである。A地点からB地点まで移動するための手段として新しい輸送機を開発するということは、空間的なフロンティア(火星に行くとか小惑星を探査する)ということとは何の関係もない。
つまり、川口先生は、自ら「政府の宇宙開発が議論すべきことはそういう(新しい輸送機-引用者註)ことだ」とおっしゃっているのに、自らの発言を否定するように、「利用中心」では宇宙開発らしくない、もっと「開拓」せよ、とおっしゃっているのである。
さらに、気になるのは、宇宙基本法をきちんと読めば、川口先生のおっしゃる「(宇宙)空間の開拓」を止めろとか、重要でない、という設定になっていない。むしろ、宇宙空間の開拓はどんどんやれ、という法律になっている。
宇宙基本法の第五条では、「宇宙開発利用は、宇宙に係る知識の集積が人類にとっての知的資産であることにかんがみ、先端的な宇宙開発利用の推進及び宇宙科学の振興等により、人類の宇宙への夢の実現及び人類社会の発展に資するよう行われなければならない」と書いてある。この条文の中には「利用のために宇宙空間の開拓を止めろ」というニュアンスは一切含まれていない。むしろ素直に読めば、宇宙基本法は新しい技術に挑戦し、人類の夢の実現や人類社会の発展に資することをやれ、と書いてある。
川口先生は「宇宙開発とは即物的利用だけではない」とおっしゃっているが、それはその通りで、それは宇宙基本法に書いてある。この第五条をまったく無視してお話をされているのか、それとも、この第五条をご存じないのか、それとも、何らかの理由で、この第五条に書かれていることを信じていないのか、どれかであろう。
勝手な解釈をすれば、川口先生はきちんと法律を読まないまま、印象論だけで議論されているのではないか、という疑念がぬぐえない。国民的ヒーローである川口先生に向かってこういうのも気が引けるが、やはり、川口先生ほどの影響力のある方が、世界でも有数の発行部数を誇る読売新聞で、きちんと法律を読まずに印象論だけで語られることは、ちょっといただけない。宇宙基本法を批判するとしても、せめて法律に書かれていることに基づいて議論するべきなのではないだろうか。
川口先生は、論稿の結論部で「大事なのはバランスだ」とおっしゃっている。これはその通りで、まったく異論はない。利用中心のプログラム(たとえば準天頂衛星)と、宇宙空間を開拓し、人類の宇宙の夢を実現しようとするプログラム(たとえば「はやぶさ」)とは別物である。後者については、保守的にならず、研究者、技術者の自由度を高めて創造的な活動を進めることが前提となっている。つまり、利用する宇宙開発を進めつつ、宇宙を開拓し、人類の夢の実現を目指すプログラムもバランスよくやる、というのが宇宙基本法の考え方なのである。
ゆえに川口先生のように影響力のある方が、きちんと宇宙基本法の考え方を理解し、その影響力と社会への訴求力を用いて、宇宙基本法第五条に基づいて、自らがベストと思われるプログラムをどんどん進め、「保守的」になることなく、宇宙空間の開拓を進めていってほしいと願っている。
川口先生はもう知らない人がいないほどの有名人になってしまい、今や国民的ヒーローなので、なかなかコメントしづらいところもあるが、彼とは国際宇宙アカデミー(International Academy of Astronautics)の会員同士で、毎年食事のテーブルが一緒になるので、許していただけるかな、と期待しながらコメントしたい。
川口先生の議論はシャトル後の宇宙開発は「新世界につながるような輸送機を目指すべき」という論点から始まる。これはロケットと飛行機の中間みたいな存在で、第二次大戦後には構想としては存在しており、1980年代にはドイツやイギリスで本格的に開発をしようという段階にまで至ったが、まだ実現していない技術である。
このような新型の輸送機は、これまで宇宙開発の考え方とは決定的に異なるものであり、是非とも進めるべきである。これまでの宇宙開発は、スペースシャトルに代表されるように、A地点から出発してA地点に帰ってくる、というものであった。宇宙ステーションを建設し、そこに人が滞在することになって、ようやっとA地点から出発し、宇宙ステーションに滞在して、A地点にもどってくるという仕組みになったが、これも本質的にはあまり違いがない。つまり、A地点からA地点にもどってくる乗り物でしかない、ということなのである。
地球上でA地点からA地点に帰ってくるものは、観覧車やジェットコースターといった遊園地の乗り物が典型であろう。つまり「乗っていることが楽しい」という乗り物である。これは乗っている人のエンターテイメントとしては良いが、それ自体が生み出す付加価値はあまり大きくない。言いかえれば、飛行機のようにA地点からB地点に「移動」し、B地点において何らかの行動(たとえば観光やビジネス)をするという付加価値を高めるようなことにはなっていない。
しかし、川口先生の提案しているロケットと飛行機の相の子のような輸送機であれば、A地点からB地点に移動するということを目的としているため、それを観光で利用する人、ビジネスで利用する人に大きな付加価値を提供する。これまで12時間かかっていた大陸間飛行を1-2時間で済むようになるのだから、それは人々の考え方や世界観をも変えるものになるだろう。
ただし、一つ留保をつけておきたいのは、かつてコンコルドという超音速旅客機が同じような付加価値を目指して開発されたが、結果的に経済性や騒音対策など、さまざまな問題を抱えて事業としては失敗した。ロケットと飛行機の相の子のような輸送機も同じ轍を踏まないとは言い切れないので、そうした教訓をしっかり踏まえておく必要があるだろう。
さて、川口先生の議論は、突如、日本の宇宙開発は「大きな誤解をしている」という議論に突入し、宇宙基本法の「考え方に少し疑問がある」と論じている。宇宙基本法では技術開発中心から利用中心にシフトするということは「悪いとは思わない」が、「宇宙開発が最も宇宙開発らしいのは、新たな空間、つまり人類のフロンティアを開拓することだ」と述べている。
ここに猛烈な違和感を感じる。というのも、先に論じたロケットと飛行機の相の子は、技術的なフロンティアを目指すものではあるが、その技術自体は「利用中心」のものである。A地点からB地点まで移動するための手段として新しい輸送機を開発するということは、空間的なフロンティア(火星に行くとか小惑星を探査する)ということとは何の関係もない。
つまり、川口先生は、自ら「政府の宇宙開発が議論すべきことはそういう(新しい輸送機-引用者註)ことだ」とおっしゃっているのに、自らの発言を否定するように、「利用中心」では宇宙開発らしくない、もっと「開拓」せよ、とおっしゃっているのである。
さらに、気になるのは、宇宙基本法をきちんと読めば、川口先生のおっしゃる「(宇宙)空間の開拓」を止めろとか、重要でない、という設定になっていない。むしろ、宇宙空間の開拓はどんどんやれ、という法律になっている。
宇宙基本法の第五条では、「宇宙開発利用は、宇宙に係る知識の集積が人類にとっての知的資産であることにかんがみ、先端的な宇宙開発利用の推進及び宇宙科学の振興等により、人類の宇宙への夢の実現及び人類社会の発展に資するよう行われなければならない」と書いてある。この条文の中には「利用のために宇宙空間の開拓を止めろ」というニュアンスは一切含まれていない。むしろ素直に読めば、宇宙基本法は新しい技術に挑戦し、人類の夢の実現や人類社会の発展に資することをやれ、と書いてある。
川口先生は「宇宙開発とは即物的利用だけではない」とおっしゃっているが、それはその通りで、それは宇宙基本法に書いてある。この第五条をまったく無視してお話をされているのか、それとも、この第五条をご存じないのか、それとも、何らかの理由で、この第五条に書かれていることを信じていないのか、どれかであろう。
勝手な解釈をすれば、川口先生はきちんと法律を読まないまま、印象論だけで議論されているのではないか、という疑念がぬぐえない。国民的ヒーローである川口先生に向かってこういうのも気が引けるが、やはり、川口先生ほどの影響力のある方が、世界でも有数の発行部数を誇る読売新聞で、きちんと法律を読まずに印象論だけで語られることは、ちょっといただけない。宇宙基本法を批判するとしても、せめて法律に書かれていることに基づいて議論するべきなのではないだろうか。
川口先生は、論稿の結論部で「大事なのはバランスだ」とおっしゃっている。これはその通りで、まったく異論はない。利用中心のプログラム(たとえば準天頂衛星)と、宇宙空間を開拓し、人類の宇宙の夢を実現しようとするプログラム(たとえば「はやぶさ」)とは別物である。後者については、保守的にならず、研究者、技術者の自由度を高めて創造的な活動を進めることが前提となっている。つまり、利用する宇宙開発を進めつつ、宇宙を開拓し、人類の夢の実現を目指すプログラムもバランスよくやる、というのが宇宙基本法の考え方なのである。
ゆえに川口先生のように影響力のある方が、きちんと宇宙基本法の考え方を理解し、その影響力と社会への訴求力を用いて、宇宙基本法第五条に基づいて、自らがベストと思われるプログラムをどんどん進め、「保守的」になることなく、宇宙空間の開拓を進めていってほしいと願っている。
2011年7月10日日曜日
「ストレステスト」は国際的な監視の下で行うべし
先週、菅首相が突然のように言い出した「ストレステスト」。これをめぐって大きな騒ぎになった。佐賀県の玄海原発の再開を巡って、原子力保安院の責任者である海江田経産大臣が「国が責任をもって」原発再開に伴う安全を保証する、という話をし、それを立地自治体である玄海町が受け入れ、佐賀県知事も受け入れることで原発再開にあと一歩という段階にまで至った。しかし、そこで突如として菅首相が国会答弁で、これまでの安全基準では不十分であり、「ストレステスト」を行うということを発言したため、結局、玄海原発が再開できるのかどうか、閣内で意思統一ができているのかどうか、政府の「思いつき」で原子力政策を進めてよいのかどうか、など、さまざまな論点が挙げられている。一方では、首相の思いつきで重要な政策決定が行われていることに対する不信感や、政治的なリーダーシップの欠如を避難する議論が多いが、他方で、ストレステストによって原発の安全性をより高いレベルで確保するのだから、菅首相の判断は正しいと擁護する議論もある。
ここで問題にしたいのは、いったい「ストレステスト」とは何なのか、そして、海江田大臣が口にした「国の責任で」ということが何を意味しているのか、ということについて考えてみたい。
まず、菅首相が発言した「ストレステスト」の具体的な中身については、まだ何も決まっていない。これまでの政府発表を踏まえれば、EUのストレステストをモデルにしながら、日本の実情に合ったものにする、とのことである。では、EUのストレステストとはどのようなものなのだろうか。
EUが採用しているストレステストは欧州原子力安全規制グループ(European Nuclear Safety Regultors Group: ENSREG)の中の西欧原子力規制連盟(Western European Nuclear Regulators Association: WENRA)が福島原発事故が起こってから10日後に提案したものである。EUは即座にストレステストを実施することに合意し、すでに5月には詳細な検査項目が定められ、6月からテストが始められている。最終的にこのテストは2012年の4月に完了することが目指されているが、その間も各国の原発は稼働している。
というのも、すでに日本でも報じられている通り、EUのストレステストは、基本的にはシミュレーションであり、原発を止めて機械的に検査をするのではなく、さまざまな極限状態を想定し、そこで想定される物理的、制度的なストレスにどの程度耐えられるのか、ということを検査するものである。仮に、この検査で安全性に疑問が出たとしても、それは何らかの罰則の対象や稼働停止につながるのではなく、あくまでもそうした命令を出すのは各国の規制当局であり、EUはその規制当局が判断するための材料を提供すると言う立場である。
このストレステストでは、以下の項目が検討されることになっている。これもすでに報道されているので詳細は割愛し、EUのウェブページ(英語)にあるので、こちらを参考にしてほしい。基本的には、地震や洪水が起こった際、電源喪失や冷却機能の喪失が起こったことを想定し、その際に、原発施設や危機対応の制度がきちんと機能するかどうか、どの程度の余裕があるのかを検査することになっている。
また、原発テロなどについては、安全保障上の懸念があるため、ENSREGなどで扱わず、各国の規制当局が個別に対応するということになっている。これについては、原発に対して最も厳しい態度をとっているオーストリアが強硬に主張してテロや航空機の衝突といった「意図された破壊」に対する備えも取らなければならない、ということが定められている。
しかし、これはあくまでも「机上の空論」である。どのような災害を想定するのか、どのような事故を想定するのかによって、ストレステストは「操作可能」になっている。そのため、各国の規制当局(その国の「原子力ムラ」の一部となっている場合もある)が甘い設定をすることを防止するため、EUのストレステストで重視されているのがピアレビューである。
日本の議論で最も欠けているのは、このピアレビューの問題だと考えている。というのも、ピアレビューを実施することによって、一国の規制当局が自国の原子力産業や電力会社に甘いハードルを設定することを難しくさせるからである。EUは市場統合が進んでいるとはいえ、原子力の分野や電力市場の統合はまだ不完全である。原子力に関しては、日本でも有名になったフランスのアレバ社の株の90%は政府が保有する実質的な国有会社であり、政府と原子力関連企業との関係は密接である。また、電力に関しては、自由化を認めているイギリスのような国もあるが、いまだに国営の電力会社が独占しているフランスのような国もある。そのため、一国の規制当局が自国のストレステストだけをやると、甘い結果を出す政府が出てくる可能性があるため、ENSREGや他国の規制当局がレビューすることで、いい加減なテストができないということと、ストレステストに関する情報の透明性を確保するということを徹底することで、各国の「原子力ムラ」の好きなようにはさせない、という決意が見える。
というのも、この背景には、金融部門のストレステストの失敗の経験がある。リーマン・ショックによって欧州も大きな衝撃を受け、EUの加盟国ではないがアイスランドが破たんし、イギリスやアイルランド、そして欧州大陸の大銀行も大きなダメージを受けた。さらに、ギリシャが政権交代を機に財政破たんしたことを明らかにすると、ギリシャ国債を大量に保有する欧州の銀行が多数あったため、欧州の金融システムの危機が叫ばれるようになった。そのため、2010年に主要銀行91行の健全性をテストするということで「ストレステスト」を実施し、そのうち7行のみが不合格とする検査内容を発表した。
しかし、このストレステストは大きな疑問を残すテストであり、本当にこれで銀行の健全性が証明されたことにはならない、ということが明らかにされている。たとえば、ギリシャ国債を保有している銀行(ドイツやフランスに多い)は、その時価で評価するのではなく、もしギリシャ国債を満期まで保有し続けるとすれば、それは健全債務として扱う、という条件が付いている。これは、ギリシャの財政が破たんせず、満期が来たらギリシャはきちんと国債を償還できるということを前提としているが、すでに明らかになっているように、ギリシャが本当にデフォルト(リスケジュール)せず、債務をきちんと履行できるのかについては、大きな疑問がある。
要するに、EUが行った金融のストレステストは、表向き欧州の金融システムは健全だ、ということを宣伝するために「操作され」ていたといっても過言ではないだろう。この教訓があるからこそ、EUの原発のストレステストでは、各国が都合の良い形で操作することなくテストを行えるような仕組みを作るということに腐心したのである。
ここで、金融のストレステストと、原発のストレステストの原理的な違いを抑えておく必要がある。というのも、EU域内では金融システムは密接に連動しているだけでなく、すべての国が「欧州の金融システムは健全である」ことを証明したいと言うインセンティブをもっている。そのため、EU全体で行い、一国レベルではなく、EUレベルで基準を設定したストレステストであっても、すべての銀行に甘い設定になったのである。
それに対し、EU各国の原発への姿勢は大きく異なる。すでに述べたオーストリアや「脱原発」を決めたドイツなど、明白に原発から距離を置く国もあれば、フランスや中東欧諸国のように原発に依存する国々もある。つまり、金融の時とは異なり、EUのすべての国が一致した利害をもっているわけではない、という点が大きな違いである。そのため、ピアレビューという、異なる利害をもった国々が、原発事故が起きた場合の自国への影響などを考えながらレビューをするということが、検査を甘くさせない抑止力になっているのである。
さて、翻って日本のストレステストは、こうした抑止力をもっているのだろうか。現時点で、まだ詳細が明らかになっていないだけに、簡単に断定することはできないが、これまでの議論を見ている限り、どうやらノーである。日本のストレステストの基準の設定を行うのは、どうやら原子力保安院と原子力安全委員会ということになりそうだが、これらの組織はいずれも「前科」がある。彼らはこれまで「日本の原発は安全」と言い続け、「安全神話」を作り上げてきたが、実際はそうではなかったということは福島原発の事故が証明している。つまり、保安院や原子力安全委員会、もっといえば日本政府がこれまで作ってきた安全基準の延長としてのストレステストでしかない。
すでに「原子力ムラ」としての排他的な専門家集団を作り出し(保安院に関しては、経産省の出身者が多いため、原子力の専門家と言えない人も多い)、原発を推進する立場からの監督を行ってきたとみられてきた原子力保安院や原子力安全委員会が設計したストレステストは、欧州における金融のストレステストのようなものになりかねない恐れがある。
では、どうしたら良いのか。一言でいえば、日本でもピアレビュー、もっといえば、外国の規制当局やIAEAに全面的に情報を開示し、そのうえでストレステストを実施することである。日本の政府機関、規制当局が行うストレステストの抑止力を高めるためにも、こうした国際的な監視は必要であろう。あたかも、独裁国家が始めて行う民主主義的選挙のように、日本の原発の安全検査も、外国の監視を受け入れるのが最適な選択だと思われる(残念ながらそのような議論は管見の限り見受けられない)。
そこで、ややこしい話になるのが、海江田大臣が発言した「国が責任をもって」というセリフである。すでに信頼感をなくし、原発管理の正当性すら疑われかねない政府が、どのように責任をもって原発の安全を保証できるのか。これまで「安全神話」を作り、原発は大丈夫だと言ってきた、その同じ口で、玄海原発は安全だ、国が保証すると言ったところで、本当に福島原発のような事故が起きないと信じることができるのだろうか。
しかも、「国が責任をもつ」ということは、外国に依存しない、ということも意味する。最終的な責任(アメリカでいうところのThe buck stops here)を国が取るということは、他の誰にもその責任を委譲しない、ということを意味する。実際のところ、「国が責任をとる」といっても、どのような責任をとるのか、福島原発の賠償についても法案が通っていないような状況で、もし玄海原発に何かが起こった時、国はきちんと賠償できるのか、SPEEDiのデータは開示するのか、適切な避難指示はできるのか、という疑問を立地自治体は考えるわけだが、福島でそれができていないのに、どうして玄海原発で「国が責任をもって」それが実施できるのか、ということは明らかにされていない。
経産省、保安院が何としてでも原発を再開し、電力を安定供給させたい、という意図をもっていることは理解できるし、安全が確保されるのであれば、将来的な脱原発を目指すとしても、現時点では、既存の原発を再開させるという選択肢が一つの選択肢として存在することは認めたい。しかし、国が空虚な「責任」を主張し、立地自治体の住民から信用されず、しかも永田町のつまらない政争や権力争いや役所の縦割りや政官のごたごたなどで日替わりメニューのように原子力政策がコロコロ変わる中で、安心して既存原発の再開をすべきだ、と主張する気にはならない。
そのためにも、「国の責任」などという、見栄と虚勢を捨て去り、政府が立地自治体の住民のみならず、国民から信頼されなくなっていることを真摯に受け止め、自らの能力の不足とこれまでの原子力政策を猛省し、国際機関や外国規制当局の力を借りて、日本の原子力政策を根本から見直すこと、そして最終的に、既存原発をどこまで動かし、いつ脱原発を成し遂げるかという工程表を作ることが重要なことである。福島の住民のみならず、多くの人々の生活を傷つけ、人々の心を傷つけた政府の責任の取り方は、こうあるべきである。
ここで問題にしたいのは、いったい「ストレステスト」とは何なのか、そして、海江田大臣が口にした「国の責任で」ということが何を意味しているのか、ということについて考えてみたい。
まず、菅首相が発言した「ストレステスト」の具体的な中身については、まだ何も決まっていない。これまでの政府発表を踏まえれば、EUのストレステストをモデルにしながら、日本の実情に合ったものにする、とのことである。では、EUのストレステストとはどのようなものなのだろうか。
EUが採用しているストレステストは欧州原子力安全規制グループ(European Nuclear Safety Regultors Group: ENSREG)の中の西欧原子力規制連盟(Western European Nuclear Regulators Association: WENRA)が福島原発事故が起こってから10日後に提案したものである。EUは即座にストレステストを実施することに合意し、すでに5月には詳細な検査項目が定められ、6月からテストが始められている。最終的にこのテストは2012年の4月に完了することが目指されているが、その間も各国の原発は稼働している。
というのも、すでに日本でも報じられている通り、EUのストレステストは、基本的にはシミュレーションであり、原発を止めて機械的に検査をするのではなく、さまざまな極限状態を想定し、そこで想定される物理的、制度的なストレスにどの程度耐えられるのか、ということを検査するものである。仮に、この検査で安全性に疑問が出たとしても、それは何らかの罰則の対象や稼働停止につながるのではなく、あくまでもそうした命令を出すのは各国の規制当局であり、EUはその規制当局が判断するための材料を提供すると言う立場である。
このストレステストでは、以下の項目が検討されることになっている。これもすでに報道されているので詳細は割愛し、EUのウェブページ(英語)にあるので、こちらを参考にしてほしい。基本的には、地震や洪水が起こった際、電源喪失や冷却機能の喪失が起こったことを想定し、その際に、原発施設や危機対応の制度がきちんと機能するかどうか、どの程度の余裕があるのかを検査することになっている。
また、原発テロなどについては、安全保障上の懸念があるため、ENSREGなどで扱わず、各国の規制当局が個別に対応するということになっている。これについては、原発に対して最も厳しい態度をとっているオーストリアが強硬に主張してテロや航空機の衝突といった「意図された破壊」に対する備えも取らなければならない、ということが定められている。
しかし、これはあくまでも「机上の空論」である。どのような災害を想定するのか、どのような事故を想定するのかによって、ストレステストは「操作可能」になっている。そのため、各国の規制当局(その国の「原子力ムラ」の一部となっている場合もある)が甘い設定をすることを防止するため、EUのストレステストで重視されているのがピアレビューである。
日本の議論で最も欠けているのは、このピアレビューの問題だと考えている。というのも、ピアレビューを実施することによって、一国の規制当局が自国の原子力産業や電力会社に甘いハードルを設定することを難しくさせるからである。EUは市場統合が進んでいるとはいえ、原子力の分野や電力市場の統合はまだ不完全である。原子力に関しては、日本でも有名になったフランスのアレバ社の株の90%は政府が保有する実質的な国有会社であり、政府と原子力関連企業との関係は密接である。また、電力に関しては、自由化を認めているイギリスのような国もあるが、いまだに国営の電力会社が独占しているフランスのような国もある。そのため、一国の規制当局が自国のストレステストだけをやると、甘い結果を出す政府が出てくる可能性があるため、ENSREGや他国の規制当局がレビューすることで、いい加減なテストができないということと、ストレステストに関する情報の透明性を確保するということを徹底することで、各国の「原子力ムラ」の好きなようにはさせない、という決意が見える。
というのも、この背景には、金融部門のストレステストの失敗の経験がある。リーマン・ショックによって欧州も大きな衝撃を受け、EUの加盟国ではないがアイスランドが破たんし、イギリスやアイルランド、そして欧州大陸の大銀行も大きなダメージを受けた。さらに、ギリシャが政権交代を機に財政破たんしたことを明らかにすると、ギリシャ国債を大量に保有する欧州の銀行が多数あったため、欧州の金融システムの危機が叫ばれるようになった。そのため、2010年に主要銀行91行の健全性をテストするということで「ストレステスト」を実施し、そのうち7行のみが不合格とする検査内容を発表した。
しかし、このストレステストは大きな疑問を残すテストであり、本当にこれで銀行の健全性が証明されたことにはならない、ということが明らかにされている。たとえば、ギリシャ国債を保有している銀行(ドイツやフランスに多い)は、その時価で評価するのではなく、もしギリシャ国債を満期まで保有し続けるとすれば、それは健全債務として扱う、という条件が付いている。これは、ギリシャの財政が破たんせず、満期が来たらギリシャはきちんと国債を償還できるということを前提としているが、すでに明らかになっているように、ギリシャが本当にデフォルト(リスケジュール)せず、債務をきちんと履行できるのかについては、大きな疑問がある。
要するに、EUが行った金融のストレステストは、表向き欧州の金融システムは健全だ、ということを宣伝するために「操作され」ていたといっても過言ではないだろう。この教訓があるからこそ、EUの原発のストレステストでは、各国が都合の良い形で操作することなくテストを行えるような仕組みを作るということに腐心したのである。
ここで、金融のストレステストと、原発のストレステストの原理的な違いを抑えておく必要がある。というのも、EU域内では金融システムは密接に連動しているだけでなく、すべての国が「欧州の金融システムは健全である」ことを証明したいと言うインセンティブをもっている。そのため、EU全体で行い、一国レベルではなく、EUレベルで基準を設定したストレステストであっても、すべての銀行に甘い設定になったのである。
それに対し、EU各国の原発への姿勢は大きく異なる。すでに述べたオーストリアや「脱原発」を決めたドイツなど、明白に原発から距離を置く国もあれば、フランスや中東欧諸国のように原発に依存する国々もある。つまり、金融の時とは異なり、EUのすべての国が一致した利害をもっているわけではない、という点が大きな違いである。そのため、ピアレビューという、異なる利害をもった国々が、原発事故が起きた場合の自国への影響などを考えながらレビューをするということが、検査を甘くさせない抑止力になっているのである。
さて、翻って日本のストレステストは、こうした抑止力をもっているのだろうか。現時点で、まだ詳細が明らかになっていないだけに、簡単に断定することはできないが、これまでの議論を見ている限り、どうやらノーである。日本のストレステストの基準の設定を行うのは、どうやら原子力保安院と原子力安全委員会ということになりそうだが、これらの組織はいずれも「前科」がある。彼らはこれまで「日本の原発は安全」と言い続け、「安全神話」を作り上げてきたが、実際はそうではなかったということは福島原発の事故が証明している。つまり、保安院や原子力安全委員会、もっといえば日本政府がこれまで作ってきた安全基準の延長としてのストレステストでしかない。
すでに「原子力ムラ」としての排他的な専門家集団を作り出し(保安院に関しては、経産省の出身者が多いため、原子力の専門家と言えない人も多い)、原発を推進する立場からの監督を行ってきたとみられてきた原子力保安院や原子力安全委員会が設計したストレステストは、欧州における金融のストレステストのようなものになりかねない恐れがある。
では、どうしたら良いのか。一言でいえば、日本でもピアレビュー、もっといえば、外国の規制当局やIAEAに全面的に情報を開示し、そのうえでストレステストを実施することである。日本の政府機関、規制当局が行うストレステストの抑止力を高めるためにも、こうした国際的な監視は必要であろう。あたかも、独裁国家が始めて行う民主主義的選挙のように、日本の原発の安全検査も、外国の監視を受け入れるのが最適な選択だと思われる(残念ながらそのような議論は管見の限り見受けられない)。
そこで、ややこしい話になるのが、海江田大臣が発言した「国が責任をもって」というセリフである。すでに信頼感をなくし、原発管理の正当性すら疑われかねない政府が、どのように責任をもって原発の安全を保証できるのか。これまで「安全神話」を作り、原発は大丈夫だと言ってきた、その同じ口で、玄海原発は安全だ、国が保証すると言ったところで、本当に福島原発のような事故が起きないと信じることができるのだろうか。
しかも、「国が責任をもつ」ということは、外国に依存しない、ということも意味する。最終的な責任(アメリカでいうところのThe buck stops here)を国が取るということは、他の誰にもその責任を委譲しない、ということを意味する。実際のところ、「国が責任をとる」といっても、どのような責任をとるのか、福島原発の賠償についても法案が通っていないような状況で、もし玄海原発に何かが起こった時、国はきちんと賠償できるのか、SPEEDiのデータは開示するのか、適切な避難指示はできるのか、という疑問を立地自治体は考えるわけだが、福島でそれができていないのに、どうして玄海原発で「国が責任をもって」それが実施できるのか、ということは明らかにされていない。
経産省、保安院が何としてでも原発を再開し、電力を安定供給させたい、という意図をもっていることは理解できるし、安全が確保されるのであれば、将来的な脱原発を目指すとしても、現時点では、既存の原発を再開させるという選択肢が一つの選択肢として存在することは認めたい。しかし、国が空虚な「責任」を主張し、立地自治体の住民から信用されず、しかも永田町のつまらない政争や権力争いや役所の縦割りや政官のごたごたなどで日替わりメニューのように原子力政策がコロコロ変わる中で、安心して既存原発の再開をすべきだ、と主張する気にはならない。
そのためにも、「国の責任」などという、見栄と虚勢を捨て去り、政府が立地自治体の住民のみならず、国民から信頼されなくなっていることを真摯に受け止め、自らの能力の不足とこれまでの原子力政策を猛省し、国際機関や外国規制当局の力を借りて、日本の原子力政策を根本から見直すこと、そして最終的に、既存原発をどこまで動かし、いつ脱原発を成し遂げるかという工程表を作ることが重要なことである。福島の住民のみならず、多くの人々の生活を傷つけ、人々の心を傷つけた政府の責任の取り方は、こうあるべきである。
2011年7月4日月曜日
My revolutionと科学技術
このタイトルは別に"My Revolution"という曲をうたった渡辺美里さんや、作詞家の川村真澄さん、作曲家の小室哲也さんが科学技術の専門家だとか、この曲が何らかの科学技術的知見と関係があるということを言いたいわけではない。ただ、ふとこの曲が頭に浮かんだ時、なぜ原子力推進派が、そのリスク・危険性・事故が起こった時のコストを承知しながらも、原子力を推進したのか、ということに通ずるものがある、ということを感じたので、少しそれを考えてみたい。
"My Revolution"(断わっておくが、私はこの曲が好きである。カラオケなどには滅多に行かないが、この曲なら人前で歌うこともいとわない)の歌詞はこちらのページで読むことができる。1960-70年代生まれの人なら、たぶん歌詞を見なくても口ずさむことができるだろう。著作権上、どこまで引用してよいかわからないが、特にここで重要なフレーズとして以下の部分だけ抜き出しておこう。
そう、これまで科学技術は常に「夢」という単語とセットになっていたのだ。「夢」である限り、そこにチャレンジをすることが認められ(許され)、「夢」を追い求めている姿は耽美的であり、「かっこいい」とされてきたのだ。「夢」であるからこそ、失敗することも想定されており、「夢」であるから成功することの偉大さが生まれてくるのである。
そして、「夢」を追いかけるなら、たやすく泣いてはいけないのである。あらゆる批判や罵詈雑言を浴びても、「夢」である限り、それを追い求めることは正当化され、そして批判されることの「Fears」があっても、それを押しのける勇気をもって走りだすことができるのである。
さらに、この"My Revolution"という曲は、直訳すれば「私の革命」ということであり、一種の現状打破を奨励する曲となっている。そのため「明日を乱す」ことが推奨されている。乱すということが何を意味しているかは、この曲の中では明示的ではないが、少なくとも、今日とは違う明日をもたらすことが良いこととされている。その革命を実現することこそが「夢」であり、今日、反原発運動が高まっていても、明日を乱し、新しい世界がやってくれば「夢」を実現することが正当化される日がくる、という風に読み取ることができる。
私は必ずしも原子力の専門家ではなく、宇宙開発について政策的な側面から勉強してきた立場であるため、原子力に携わる人たちが果たしてこのように考えているのか、ということについては直感的には分からない。しかし、宇宙開発に携わる人たちとの付き合いを通じて感じるのは、彼らが、まさに上記のような「夢」を追いかけることへの執念というか、自己正当化というか、世界観をもっており、私のような政治学を勉強しているような門外漢が何か言おうとも、それは「Sweet pain」くらいにしか感じず、私の言うことなど全く気にせず「明日を乱す」ために「走りだせる」人たちなのだ、ということである。
そう思った時、日本における原子力政策や宇宙政策の根深さというか、安定性というか、批判に対する抵抗力の強さを感じたのである。これは、一方で継続的な研究開発を必要とし、多くの研究者や技術者の能力を総動員して一つの技術を開発していくというためには必要なことであり、高く評価されるべき規範である。しかし、他方で、自らの「夢」を実現することが目的化し、それが社会へのインプリケーションや原発事故のような大惨事を招くことから目を遠ざけ、他者の批判に耳を貸さなくなるということの表れでもある。まさに「○○ムラ」と揶揄される世界では、「夢」の実現のために「走りだせる」人たちが、「一人の夜はつらい」がゆえに、手を携えて「明日を乱す」ために努力してきたのである。
もし宇宙政策における私の直感が正しく、それが原子力政策にも応用できると考えると、これから「脱原発」を進めようとする人たちも大変な苦労に直面するだろう。「○○ムラ」が単なる「利益共同体」ではなく、「私の革命」を進めるための連帯組織であるとするなら、単に利益の問題ではなく、信念の問題となる。多少、予算が減ろうとも、多少、賠償金を払おうとも、その信念の共同体が揺るがない限り、「脱原発」は成立しない。つまり、「脱原発」を進めるためには、巨大科学技術が「夢」であることを止めなければならないのである。
すでに福島第一原発の事故を目の当たりにし、日々ガイガーカウンターとにらめっこしている人たちにとって、原子力は「夢のエネルギー」どころか「悪夢のエネルギー」でしかない。しかし、これまで原子力政策を推進してきた人たちにとって「悪夢」になっているかどうかは定かではない。
過去にドイツやイタリアの「脱原発」について、過大評価をすべきではないというコラムをこのブログでも書いてきたが、少なくとも、日本と比べれば、これらの国々において、原発が「悪夢だ」と思う人が多くなってきていることは事実であろうし、また、ドイツやイタリアの「原子力ムラ」に「夢」という価値観や"My Revolution"のような技術者を後押しするような曲がない、ということも言えるだろう。
このように考えると、日本における科学技術政策のあり方、そして科学技術をめぐる価値規範のあり方について、しっかりと考察をしなければ、おいそれと「脱原発」が進むともいえないであろうし、場合によっては、「夢」を追いかける人たちが、その勢いを取り戻してくる可能性もある。それを十分認識したうえで、これからの科学技術政策、エネルギー政策を考えていく必要があるのではないだろうか。
改めて断わっておきますが、ここで書いた内容は"My Revolution"という曲とは全く関係なく、ただ、私が強引にこじつけて議論を展開するための触媒として使っているだけです。この曲のファンの皆様の気分を害することがあったとしたら、伏してお詫び申し上げます。
"My Revolution"(断わっておくが、私はこの曲が好きである。カラオケなどには滅多に行かないが、この曲なら人前で歌うこともいとわない)の歌詞はこちらのページで読むことができる。1960-70年代生まれの人なら、たぶん歌詞を見なくても口ずさむことができるだろう。著作権上、どこまで引用してよいかわからないが、特にここで重要なフレーズとして以下の部分だけ抜き出しておこう。
夢を追いかけるならこの歌詞を思い浮かべた時、「原子力は夢のエネルギー」と「宇宙開発は人類の夢」というフレーズが同時に思い起こされ、ある種の連関があるのではないか、とふと思ったのである。
たやすく泣いちゃだめさ
君が教えてくれた
My Fears My Dreams 走りだせる
そう、これまで科学技術は常に「夢」という単語とセットになっていたのだ。「夢」である限り、そこにチャレンジをすることが認められ(許され)、「夢」を追い求めている姿は耽美的であり、「かっこいい」とされてきたのだ。「夢」であるからこそ、失敗することも想定されており、「夢」であるから成功することの偉大さが生まれてくるのである。
そして、「夢」を追いかけるなら、たやすく泣いてはいけないのである。あらゆる批判や罵詈雑言を浴びても、「夢」である限り、それを追い求めることは正当化され、そして批判されることの「Fears」があっても、それを押しのける勇気をもって走りだすことができるのである。
さらに、この"My Revolution"という曲は、直訳すれば「私の革命」ということであり、一種の現状打破を奨励する曲となっている。そのため「明日を乱す」ことが推奨されている。乱すということが何を意味しているかは、この曲の中では明示的ではないが、少なくとも、今日とは違う明日をもたらすことが良いこととされている。その革命を実現することこそが「夢」であり、今日、反原発運動が高まっていても、明日を乱し、新しい世界がやってくれば「夢」を実現することが正当化される日がくる、という風に読み取ることができる。
私は必ずしも原子力の専門家ではなく、宇宙開発について政策的な側面から勉強してきた立場であるため、原子力に携わる人たちが果たしてこのように考えているのか、ということについては直感的には分からない。しかし、宇宙開発に携わる人たちとの付き合いを通じて感じるのは、彼らが、まさに上記のような「夢」を追いかけることへの執念というか、自己正当化というか、世界観をもっており、私のような政治学を勉強しているような門外漢が何か言おうとも、それは「Sweet pain」くらいにしか感じず、私の言うことなど全く気にせず「明日を乱す」ために「走りだせる」人たちなのだ、ということである。
そう思った時、日本における原子力政策や宇宙政策の根深さというか、安定性というか、批判に対する抵抗力の強さを感じたのである。これは、一方で継続的な研究開発を必要とし、多くの研究者や技術者の能力を総動員して一つの技術を開発していくというためには必要なことであり、高く評価されるべき規範である。しかし、他方で、自らの「夢」を実現することが目的化し、それが社会へのインプリケーションや原発事故のような大惨事を招くことから目を遠ざけ、他者の批判に耳を貸さなくなるということの表れでもある。まさに「○○ムラ」と揶揄される世界では、「夢」の実現のために「走りだせる」人たちが、「一人の夜はつらい」がゆえに、手を携えて「明日を乱す」ために努力してきたのである。
もし宇宙政策における私の直感が正しく、それが原子力政策にも応用できると考えると、これから「脱原発」を進めようとする人たちも大変な苦労に直面するだろう。「○○ムラ」が単なる「利益共同体」ではなく、「私の革命」を進めるための連帯組織であるとするなら、単に利益の問題ではなく、信念の問題となる。多少、予算が減ろうとも、多少、賠償金を払おうとも、その信念の共同体が揺るがない限り、「脱原発」は成立しない。つまり、「脱原発」を進めるためには、巨大科学技術が「夢」であることを止めなければならないのである。
すでに福島第一原発の事故を目の当たりにし、日々ガイガーカウンターとにらめっこしている人たちにとって、原子力は「夢のエネルギー」どころか「悪夢のエネルギー」でしかない。しかし、これまで原子力政策を推進してきた人たちにとって「悪夢」になっているかどうかは定かではない。
過去にドイツやイタリアの「脱原発」について、過大評価をすべきではないというコラムをこのブログでも書いてきたが、少なくとも、日本と比べれば、これらの国々において、原発が「悪夢だ」と思う人が多くなってきていることは事実であろうし、また、ドイツやイタリアの「原子力ムラ」に「夢」という価値観や"My Revolution"のような技術者を後押しするような曲がない、ということも言えるだろう。
このように考えると、日本における科学技術政策のあり方、そして科学技術をめぐる価値規範のあり方について、しっかりと考察をしなければ、おいそれと「脱原発」が進むともいえないであろうし、場合によっては、「夢」を追いかける人たちが、その勢いを取り戻してくる可能性もある。それを十分認識したうえで、これからの科学技術政策、エネルギー政策を考えていく必要があるのではないだろうか。
改めて断わっておきますが、ここで書いた内容は"My Revolution"という曲とは全く関係なく、ただ、私が強引にこじつけて議論を展開するための触媒として使っているだけです。この曲のファンの皆様の気分を害することがあったとしたら、伏してお詫び申し上げます。