2011年6月27日月曜日

役に立った宇宙システムと役に立たなかった宇宙システム

以下の文章は、震災直後に書いた文章で、ある場所に掲載するつもりで書いたものです。ただ、この記事はそこで掲載するには適切ではないとされ、また、他の雑誌にも掲載しようとしたところ、このテーマを取り上げるつもりはないと言われたものです。掲載できなかったものを再利用するのは必ずしも本意ではありませんが、人の目に触れないというのも残念なので、ブログに掲載することにしました。

====以下、未掲載原稿(4月14日脱稿)====

言葉を失うような凄惨な光景。住む場所も、愛する人も失い、途方にくれながらも生き抜こうとする人々。大津波から逃げ延びた人々は避難所に集い、必死で家族や友人の安否を確認しようとしている。3月11日に発生した東日本大震災は自然のすさまじい力の前に、人間は無力であることが思い知らされた。しかし、人間は完全に無力ではない。これだけの災害にあい、地上系のインフラが壊滅的な打撃を受けたが、人間の手で作り上げた宇宙システムは、震災の影響を受けることなく被災地にサービスを提供したのである。

通常、大規模災害において注目されるのは地球観測衛星による画像提供である(注:脱稿した時点では「だいち」は電源停止状態ではなかった。地球観測衛星に関してはブログの別の記事を参照)。しかし、今回の震災でより重要性が際立ったのが通信衛星インフラであった。地上の携帯電話基地局や固定電話ネットワークが壊滅的な打撃を受けた地域では、安否を知らせ、必要な支援を要請するために衛星電話が唯一のライフラインとして機能した。今回、主として使われたのは商業的なサービスで既に実績のあるNTT DocomoのN-Starという衛星(Widestarというサービスを提供)であり、JAXAの衛星ではなかった。

既にJAXAはWINDS(きずな)とETS-VIII(きく8号)を運用しており、高速インターネット接続、ブロードバンド通信を可能にする宇宙インフラがあったにもかかわらず、それが十分に活用されなかった。このような災害にもっとも適した能力を持っている衛星が使われなかったのはなぜなのだろうか。

JAXAは2006年にはETS-VIIIを使って災害情報収集のデモンストレーションを行い、2008年および2009年にWINDSを用いた災害時の大容量衛星通信の実証を行っている。にもかかわらず、今回の震災ではWINDSは盛岡市の岩手県庁と釜石市を結ぶだけにとどまっており、ETS-VIIIは大船渡市・大槌町とつくば宇宙センターを結ぶだけになっている。

この最大の問題は地上の可搬型通信機の数が限られ(WINDS、ETS-VIIIとも3台しかない)、多地点通信を可能にする能力を持つ衛星であるにもかかわらず、地上設備の不足で衛星が活かされていないということである。つまり、JAXAの衛星は技術実証が目的であり、実際に大災害が起こったときに衛星を活用することが目的とされていなかったため、地上の可搬型通信機を準備していなかったのである。

当然ながら、なぜ、可搬型通信機を準備していなかったのか?という疑問がわいてくる。なので、JAXAの広報に問い合わせてみると「当機構は研究開発機関であり、防災担当機関ではないため」との返事が返ってきた。確かにJAXAの存在を法的に規定する宇宙航空研究開発機構法という法律の第四条では以下のように書かれている。
第四条  独立行政法人宇宙航空研究開発機構(以下「機構」という。)は、大学との共同等による宇宙科学に関する学術研究、宇宙科学技術(宇宙に関する科学技術をいう。以下同じ。)に関する基礎研究及び宇宙に関する基盤的研究開発並びに人工衛星等の開発、打上げ、追跡及び運用並びにこれらに関連する業務を、平和の目的に限り、総合的かつ計画的に行うとともに、航空科学技術に関する基礎研究及び航空に関する基盤的研究開発並びにこれらに関連する業務を総合的に行うことにより、大学等における学術研究の発展、宇宙科学技術及び航空科学技術の水準の向上並びに宇宙の開発及び利用の促進を図ることを目的とする。(出典:http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H14/H14HO161.html
ここには「防災」の文字はなく、JAXAの機構としての目的を「学術研究」「基礎研究」「開発、打ち上げ、追跡、運用」「研究開発」をするとしか書いていない。つまり、JAXAという組織は、新しい技術を開発するための研究開発を行う機関であり、それ以外のことはやらなくてもよい、という解釈が可能となる。言い方を変えれば、自分たちがやりたい研究だけやっていれば、後は社会がどうなろうと気にしなくてよい機関、ということになる。ただし、この条項の最後に 「宇宙の開発及び利用の促進を図ることを目的とする」とあるので、「利用してください」とお願いするところまでは法律に書かれた目的となっている。

ここで言いたいのは研究開発がいけないとか、無駄だということではない。重要なことは、研究開発は「何のための技術なのか」ということを考えずにやれば無駄になる、ということである。ここで取り上げたWINDSやETS-VIIIは技術的にもコンセプトとしても優れた衛星であり、それを作り出したJAXAは評価されるべきである。しかし、これらの衛星が本当に評価されるのは、それがきちんと社会のために何らかの貢献をし、とりわけ今回の震災のように衛星通信が唯一の通信手段であるような状態において、被災地や被災者、消防、警察、自衛隊の役に立つということで評価されるべきである。にもかかわらず、「防災機関ではない」という理由、「研究開発機関だから」という理由で、そうした利用について、きちんと対応しないのは、税金の無駄遣いとしか言えない。

もちろんJAXAの側にも言い分はあるだろう。可搬型通信機は一台あたり数百万から数千万円かかると言われている。ただ、それは研究開発のための実験だからそうした値段になっているのであり、大量生産し、実際に各自治体に設置すると言ったことを進めていれば、一台あたりの単価はもっと下がっていたはずである。なので、値段だけで問題を矮小化することは議論をすり替えているともいえる。もちろん、単価が安くなっても予算がつかなければ意味がない。また、JAXAは「研究開発」が任務であるため、「利用」のための予算をつけることが難しいということもあるだろう。しかし、そのためには、たとえば総務省や警察庁、防衛省といった他の利用官庁と協力し、これらの地上設備の整備にかかる予算をとることはできたはずである(もちろん財務省が必ず首を縦に振るとは言えないが・・・)。

というのも、すでに述べたように、JAXAはこれまでコンスタントにWINDSやETS-VIIIを使った防災訓練を展開しているのである。2005年にはその前年に起こった中越地震をベースに、新潟県長岡市で通信衛星を使った震災対応の訓練を行っており(JAXAプレスリリース)、2006年にはETS-VIIIを使って高知県や三重県を結んだ防災訓練が行われている(JAXAホームページ)。2008年および2009年にWINDSを用いた災害時の大容量衛星通信の実証を行っている。また、JAXAは中央防災会議やアジア防災センターなどと連携をして、防災に関する宇宙システムの役割について、さまざまな制度的連携をとってきた。このように、JAXAは「かつては」こうした試みを行っていたのである。

しかし、なぜ今回の震災でJAXAは十分機能せず、「研究開発機関だから」やらない、という姿勢を見せたのか。それは、JAXAの制度的問題がある。もともと、2005-9年にJAXAが積極的に防災に関与し、さまざまな試みを進めたのは、JAXAの宇宙利用本部のスタッフがそれに熱心であったからである。この時期は、アジアレベルで「センチネル・アジア」と呼ばれる、地域レベルでの災害時の地球観測データの提供枠組みが日本のイニシアチブで作られた時期でもあり、JAXAが防災や社会貢献ということに熱心であった時期であった。しかし、それから数年たつと、JAXAの中での人事異動が起こり、一時期盛り上がった防災への意識などが受け継がれなかった結果、いつの間にか「デフォルト」の状態である「研究開発機関だから」というロジックが復活してしまったのである。

ここから明らかになることは、宇宙は利用されて初めて意味をなすものであり、それをJAXAに任せていてもなかなか実現しない、ということである。いかに素晴らしい衛星であっても、地上で役に立たなければただの宇宙ゴミでしかない。素晴らしい衛星には、相応の地上設備、運用体制、そして利用のためのプランニングが必要である。

「宇宙基本法」が目指した利用中心の宇宙開発と国民の安全保障の確保とは、今回の震災のような事態において、宇宙を利用し、1人でも多くの人を救い、多くの人に希望を与えることを意味しているのである。宇宙開発に携わるものとして、それを忘れてはならない。

2011年6月22日水曜日

ドイツの「脱原発」をめぐるつじつま合わせ

前のブログでイタリアの「脱原発」を取り上げたので、今度はドイツの「脱原発」について、いくつか思うところをまとめてみたい。

イタリアと並んでドイツが脱原発に踏み切ったことは世界に衝撃を与えただけでなく、日本でも「ドイツが脱原発したのだから、日本もするべきだ」という議論が巻き起こっている。私は将来的に脱原発を目指すべきと考えているが、今回のドイツの「脱原発」が果たしてどこまで参考になるのか、また、そのドイツが「脱原発」に失敗するリスクはないのかをあまりきちんと議論せずに、「ドイツがやっているから日本も」という議論を建てる気にはあまりならない。

イタリアと違い、ドイツは現在でも17基の原発を動かしている(イタリアは1987年以来、一つも動かしていない)。ドイツにおける発電量のうち、原発が占める割合は28%。これは日本以上の原発依存率だ。このドイツが2022年(つまり10年後)までに原発をすべて停止するという決定をしたのだから、これはやはり衝撃だ。

そもそもの問題として、ドイツの「脱原発」は既定路線であった、ということを思い出すことが大事である。2002年に社会民主党(SPD)と緑の党の連立政権が制定した「脱原発法」ですでに2020年代までに原発をすべて停止し、再生可能エネルギーの割合を30%に高めるとしている。メルケル政権は、この法律の執行延期を政策として掲げ、既存の原発の停止時期を遅らせるという方針をとっていたが、脱原発法を廃案にするということはしていない。なので、ドイツは、2002年の法律に戻った、というのが正確な理解であるべきだ。言い方を変えれば、ドイツは突然脱原発をしたわけではなく、これまで国家の方針としてもっていた脱原発を再確認したということになるだろう。これは日本の状況とは大きく異なる。

にも関わらず、ドイツの「脱原発」が大きな話題となるのは、CDUを中心とするメルケル政権が基本的には産業界よりの政策をとっているということが前提にある。つまり、産業界は2002年の脱原発法を毛嫌いしており、原発がなくなることで電力の安定供給が失われたり、電力価格が高騰することを懸念しているということを意味している。メルケル政権は、その意を受けて原発停止を延期したのだ。

ここにドイツの持つ根本的な矛盾がある。一方では国民レベルでの脱原発や環境意識の高さがある。すでにあちこちで議論されているが、ドイツの環境問題は1968年の学園紛争で頑張っていた「団塊の世代」の人たちが、1980年代前半の中距離核ミサイル(INF)配備をめぐって反核運動を展開し、1986年のチェルノブイリ事故によって反原発運動へと発展、さらに旧東ドイツを含む旧共産圏の環境問題にも関心を高め、「黒い森」の保全運動など、高い環境意識をもって活動してきた。それが緑の党という政党を生み出し、国民的な政党にまで発展しようとしている。ドイツの街を歩いていてもごみの分別や環境保護に関する意識の高さは随所にうかがえる。

しかし、同時にドイツは先進国でも有数の工業国であり、輸出大国である。多くの先進国がサービス産業化するなかで、日本と並んで製造業の輸出割合が大きいのがドイツである。当然、こうした産業には電力の安定供給が不可欠であり、また、コスト競争力をめぐる問題が大きなテーマとなる。そのため、電力料金の値上げはドイツ産業にとって大きなハードルになる。すでにドイツ産業は中東欧諸国への工場の移転などで製造業の衰退を経験しており、近年になって中国向けの輸出を中心とする製造業(特に機械産業)の成長で経済的には安定した成長を享受しているが、それが滞れば、ドイツ経済も危なくなるとの意識も高い。

なので、メルケル政権は脱原発とドイツの産業基盤の維持を同時に達成させなければならず、そのための調整(悪く言えばつじつま合わせ)が必要になる。そこでいくつか気になる点が出てきている。

第一に、この「脱原発」路線を決定するためのラウンドテーブルが公開の場で行われ、反原発運動のNGOから電力会社まで、25人の人たちが集まり、議論をした結果決定した、というコンセンサスづくりである。日本でもこの会議のことは紹介されており、これをもって「熟議の結果」と報じているケースも多いが、私が見る限り、このラウンドテーブルはそれぞれの立場で言いっぱなしの状態であったとしか見えない。そもそも11時間の討議とはいえ、これだけの人数がいると、まとまることはあり得ないわけで、メルケル政権の「脱原発」はすでに既定路線であり、それを公開の場で議論したという程度にすぎない。これを「熟議」と持ち上げるのはいささか疑問が残る。その証拠に、ドイツ産業連盟(BDI)は「脱原発」決定に強い不満を示しており、ドイツ国内にコンセンサスがないことを示した。

第二に、2022年までの過程がかなり楽観的な予測に基づいているという点である。ドイツは現在電力を輸出しているが、それは原発で作った電気に加え、再生可能エネルギーでの発電量が増えたことで、電力輸出が可能となる。つまり、原発を止めれば電力の輸出は困難となる可能性が高いが、それでもメルケル政権は、電力の輸出によって得た資金を再生可能エネルギーへの投資や送電線網の整備に充てるという。これはかなり矛盾した政策だ。また、ドイツはEUの排出権取引で、温室効果ガスの排出を減らした分を外国に売り、それによって収入を得ているが、原発を停止させる代わりにガス、石油などの火力発電を強化すると言っている。これは必然的に温室効果ガスの排出を増大させるため、排出権取引市場においても、ドイツは売る側ではなく、買う側に回る可能性がある。そうなると、排出権取引によって得た収入を再生可能エネルギーに回すという青写真も困難となる。

この排出権取引についても一言言っておきたい。確かにドイツは環境先進国であり、すでに発電量の16%以上を再生可能エネルギーで賄っている。また排ガス規制などEU全体の規制もドイツが引き上げている部分があり、その点で、ドイツが温室効果ガスを削減する先頭に立っていることを否定するつもりはない。しかし、ドイツは排出権の基準設定で大変有利な立場にあるということも覚えておく必要があるだろう。現在の排出権取引の基準年は1990年。これは東西ドイツが再統一した年である。つまり、この時は東ドイツの大変効率の悪い石炭や石油の発電所や、環境にまったく配慮しない工場から出る温室効果ガスがたっぷりあった時代である。当然、これらの非効率な工場や発電所はドイツ統一後、ほとんどが廃止となっており、現在は稼働していないか、取り壊されている。つまり、1990年を基準にすると、当時の東西ドイツを合わせた温室効果ガスの排出量はべらぼうに大きく、そこから減らすことはとても簡単なことなのである。ゆえに、ドイツは1990年を基準に40%の削減と言っているが、その40%のかなりの部分は東ドイツの滅茶苦茶な排出分を減らすことで達成できる(といっても40%はなかなか厳しい数字で、ドイツの誠実さが表れていると思うが)。

第三に、火力発電、とりわけドイツの場合は天然ガスによる発電が増加することになるが、これはドイツの脆弱性ないしは欧州全体の脆弱性に影響が及ぶ話となるだろう。これはすでに比較政治学会で報告した内容にかぶるので、改めて書くのはちょっとしんどいが(今年度の終わりに『年報公共政策学』という紀要に載る予定の文章なので、改めてそちらをご覧ください)、簡単に言うと、ドイツの天然ガスは日本のように液化天然ガスとして輸入されているわけではなく(ドイツはほとんど国内で天然ガスをとることはできない)、ロシアからパイプラインを通って液化されていない(つまり気体のままの)ガスを輸入している。なので、ドイツが「脱原発」を推し進め、火力発電を増やすとなれば、当然天然ガスの需要は伸びることとなり、その供給元はロシアということになる。そのため、ロシアはドイツに対して絶対的に有利な立場となり、ロシアの国営ガス会社であるガスプロムはさまざまな形でドイツとの駆け引きを行っている。もちろん、ドイツはこうした脆弱性を理解しており、ロシア以外からもガスを供給できるよう、EU全体でロシアを経由しないガスパイプライン建設などを進めてはいるが、その完成も当面先であるため、ロシアへの依存度の高さは変わらない。ロシアも大切なお客さんであるドイツに無理をすることは考えにくいが、ドイツに限らず日本も天然ガスの需要が高まっており、アメリカでシェールガスの開発が進んでいったんは値下がりした天然ガスも徐々に値段が上がってきている。こうした状況を踏まえ、「脱原発」を進めるドイツの発電コストが増大することは必至であろう。そうなると、上述した「楽観的な」見通しと合わせて、ドイツの「脱原発」が産業界や国民生活に与える影響は、予想よりも大きいと考えられる。

第四に、ドイツが「脱原発」に進むことで、最終的に電力不足に陥り(特にドイツの再生可能エネルギーの主力は太陽光と風力なので発電量が不安定)、外国から電気を買わなければいけない状況になる、ということが問題となる。すでに知られているように、EU域内の送電網はかなりの程度、国境を越えた接続がなされ(日本のように国内でも周波数が違うため送電できないというアホな状況はない)、フランスやチェコから電力を輸入することが可能となる。しかし、すでに知られているように、フランスもチェコも原発大国であり、ドイツは自国で原発をとめたとしても他国の原発で生産した電気を買うという矛盾に直面する。

この点で、大きく問題になるのは二点ある。そのひとつは倫理的な問題である。ドイツにおける「脱原発」の動きは、国民の感情的な反原発意識からして、ドイツ国内で原発がなくなり、原発によって発電された電気を使っていないという「安心感」を担保するためにも、外国から輸入する電気は原発で使われていないということを証明する必要がある。それが見事に表れているのが、ドイツ政策当局者の次のような発言である。
我々は7つの原子力発電所を停止し、フランスから電力を輸入しました。しかし、フランスの原子力発電所は既に最大レベルで稼働していたので、より多くの電気を発電するということはありせんでした。従って我々が輸入したものはおそらく、確信を持って言えないのですが、オランダで石炭から発電した電力であると思います。当時ドイツとオランダの間の送電網は最大の容量に達していたので、フランスを経由する必要がありました。(出典はこちら

この理屈はかなり怪しげである。まず第一に原子力発電所というのは定期点検に入っているもの以外は常にフル稼働状態となる。というのも、電力需要に応じて発電量を増減することが難しい発電方法だからである。すでに良く知られている通り、原子力発電所の発電は制御棒を入れて核分裂をおこし、そこから生まれた熱によって水を過熱させ、その蒸気でタービンを回す(これは沸騰水型と加圧水型で多少異なるが原理は同じく水を沸騰させること)。また制御棒を入れても急速に核燃料が冷えるわけではないので沸騰は続き、その間、水蒸気は出続ける(タービンを止めることは可能)。なので、柔軟に電気を作ったり止めたりすることが難しく、通常原子力発電というのは発電量の基礎部分(ベースロード)をなす(下図参照。フランスが100%原発で発電できないのも、原発が需要に合わせて変動できないため)。つまり、フランスの原子力発電がフル稼働しているからといって、その分がドイツに来てない、という論理はおかしな論理である。

(出典はこちら

また、電気に色が付いているわけではないため、フランス国内を経由した場合、どうしたって電気はフランス国内で発電した電気を買うわけで、その電気は原発で発電されたものが混じっているのが当然のことである。しかし、このドイツの政策担当者は「フランスの原発で作った電気は使っていない」という主張をし、ドイツ国内の反原発世論への配慮をしようとしている。これは、かなり怪しい。

もうひとつの問題は原発事故のリスクに対する考え方である。仏独国境にはフランス側にフェッセンハイムという原発があり、その原発が仮に事故を起こせば、ドイツに原発がまったくなくても、ドイツ国内に放射性物質が飛散する可能性は非常に高くなる。しかし、ドイツは正面切ってフランスに脱原発を求めることはなく(市民レベルで独仏国民が連携して反原発運動を展開しているが、フランス側では十分な盛り上がりにはなっていない)、あくまでもフランスの原発政策はフランスが決定するという姿勢を見せている。

これは統合が進んだEUとはいえ、各国のエネルギー政策はそれぞれの国家の運営に重大な問題として理解されており、他国の政策に干渉することはできない、という前提があるからである。したがって、ドイツはいかに自国の中の原発がなくし、原発事故のリスクが減ったとしても、他国で原発事故が起こることを未然に防げるわけではない。さらに言えば、ドイツの東側には旧共産主義時代に原発を建設したチェコやスロヴァキア、ハンガリーがあり、ポーランドも新たに6基の原発を建設しようとしている。フランスだけでなく、チェコからも電力を輸入しているドイツとしては、こうした国々で原発によって生産された電気を輸入しているということは、国内の反原発世論に矛盾する結果となり、結果的に「脱原発」のつじつまが合わなくなってきている。

EUのエネルギー政策について、もうひとつコメントしておくと、現在、EU域内では電力の自由化が進んでいる。将来的にはEU加盟国すべてで電力の自由化を進め、たとえばドイツの電力会社がフランスで電力を供給する(日本でいえば東京電力が大阪で電力を供給する)ことを可能にしようとしている。まだEU全域ではそれは実現していないが、電力自由化をすでに進めているイギリスなどでは、すでにドイツの電力会社であるE.ONが主要な電力会社として業務を行っている。つまり、ドイツの電力会社はすでに多国籍化しつつあり、ドイツ国内で原発停止になっても何とかやっていけるよう、収入源の多元化を進めている。この点は日本と大きく違う点であり、十分に理解しておきたいところだ。

以上、ドイツの「脱原発」路線が抱える矛盾と、それをめぐるつじつま合わせがうまくいきそうもない、という分析をしてみた。個人としてはドイツの「英断」を評価し、将来的な脱原発を目指すモデルとなってほしい気は十分にあるが、やや拙速であるとともに、「脱原発」が引き起こす矛盾を無理やり隠そうとしている点が気になる。原発推進派が事故情報を隠したりすることは言語道断であり、許されることではないが、同時に「脱原発」派が現実をきちんと分析せず、矛盾を隠して前に進もうとすることも望ましいことではない。ゆえに、本稿が脱原発を求める人たちの冷静な議論を進めるため、また矛盾を隠すことなく議論をするための材料となってもらえれば幸いである。

2011年6月14日火曜日

イタリアは本当に「脱原発」するのか?(6月14日12:00修正)

現在、イタリアで原発を巡る国民投票が行われている。日本でも多く取り上げられ、ドイツに続いてイタリアも脱原発路線に進んでいることを受け、「21世紀の日独伊三国脱原発同盟」のような話も出てきている。なんとなく、脱原発の話を日独伊三国同盟にひっかけて議論をするのは気が進まないというか、センスがないような感じもするが、まあ、それは置いておこう。

このイタリアの国民投票をめぐる日本での報道は、「脱原発」カラーに染め上げられているが、このイタリアの国民投票は実は原発の話ばかりをしているわけではない。同時に「水道民営化」「水道事業に関する料金値上げ」「国の要職者の政治訴追の可否」という四つの問題についての投票が行われている。確かに原発問題は一つの大きなイシューだが、イタリア政治で一番問題になるのは、実は四番目の要職者の訴追の問題だ。

ここは重要なポイントであるが、今回のイタリアにおける国民投票は福島原発の事故を受けて行ったわけではなく、2011年1月からすでに準備されていたものであった。ベルルスコーニ首相の原発再稼働政策については、福島原発事故以前からイタリア国内では問題視されていたため、国民投票となったのである。しかし、1月の時点では、今回の国民投票が政府要職者の政治訴追の可否に関する問題が最も重要なイシューとして考えられており、原発の問題は水道民営化などとならぶ公益事業のあり方を巡る問題として見られていた。つまり、必ずしも重要なイシューとして国民投票にかけられたということではない、ということである。

この政府要職者の政治訴追が重要なイシューになったことは、改めて説明するまでもないだろう。イタリアはベルルスコーニ首相が未成年の女性を買春した問題や脱税疑惑で刑事訴追されており、ベルルスコーニが自ら作った、政治的要職者の免責を議会が葬ったため、国民投票に訴えかけて、その免責を再度勝ち取ろうとしている。日本でも政権に固執する首相への批判が高まっているが、イタリアのそれはレベルが違う。刑事事件になっていても、国民投票にかけてでも政権に居座ろうとする根性は見上げたものだが、ほめられたものではない。

また、イタリアの「脱原発」路線という表現にもやや違和感がある。というのも、イタリアでは稼働している原発は一つもない(G8で唯一原発がない)。そのため、すでに「脱原発」しているのである。今回国民投票で問われているのは、ベルルスコーニ首相が提案した、チェルノブイリ事故以来、停止している原発を再稼働させ、新たに原発を建設するという計画に対する投票である。つまり、すでに脱原発しているイタリアが、原発推進に動こうとしようとするのを止める、ということである。

ただ、イタリアはすでに電気料金がヨーロッパで一番高く、火力発電を継続するとしても、石油の輸入先であるリビア(イタリアの原油輸入量の23%がリビアから)が内戦で混乱しており、石油の供給が不安定になっている状態である。今後、どのようなエネルギー政策を展開するのか、しっかりした展望がないなかで、原発の再稼働を封印したイタリアに残されている選択肢は少ない。

果たして、イタリア国民が電気代の上昇を受け入れる覚悟で原発再稼働拒否を選択したのか、それとも、イタリアにおける原発稼働は拒否しつつも、フランスから電力を購入するということで「自国だけは原発がない」という状態に満足しようとしているのか、明らかではない。少なくとも、今回明らかになったことは、福島第一原発の事故が原発の危険性への意識を高め、それが電気料金の上昇や、フランスの原発への依存を高める結果となるとしても、目の前の原発が再稼働し、新しく目の前に原発ができることを拒否したということであろう。

これは言い方を換えれば、イタリアにおける国民投票の選択は、必ずしも冷静な議論や科学的な分析評価や、選択の帰結に関する熟慮の結果ということではなく、あくまでも感情的、感覚的な判断をしたということであろう。考えてみれば、イタリアが1987年に原発をすべて停止し、「脱原発」を決定したのもチェルノブイリ事故があったからであり、それに対する反射的な対応であった。しかし、資源価格が高騰し、イタリアの電気料金が上がってきたため、原発再稼働をベルルスコーニが提起し、東日本大震災までは、それなりに現実的な政策として論じられてきた。しかし、日本での原発事故の結果、再度、反射的な反応をし、原発再稼働を止めるという結論に達したのである。そこには冷静で科学的な熟慮があったとは言い難い。

しかし、政治は理屈だけで動くものではなく、恐怖や不安といった心理や感情によっても動くものである。ゆえに、イタリアの「脱原発」という選択が間違っているわけでも、おかしいわけでもない。ただ、こうした感情的な判断によって政策を動かす結果、その後に国民にとって「不都合な真実」(たとえば電気料金の値上げや近隣諸国での原発事故)が起こったとしても、それに対しては文句を言うことはできない、ということである。感情的であれ、計算づくであれ、それがイタリア国民の下した判断なのだから。

2011年6月12日日曜日

北大は有人宇宙開発の中心?

前のブログ投稿で紹介させていただいたように、6月10日の毎日新聞の「論点」に拙稿が掲載されました。もともとは4月12日のガガーリンによる初の有人宇宙飛行から50年を記念した特集になるはずだったのですが、東日本大震災から一カ月ということで、紙面の構成が大きく変わってしまい、6月10日まで延期という形になっていました。ちょうど古川さんが宇宙ステーションに向かって飛び立った時期でもあったので、それなりに意味のあるタイミングにはなりましたが。

他の寄稿者を知らなかったのですが、毛利衛さん、伊藤献一さんと並んで掲載されたので、ちょっとびっくり。毛利さんはご存知の通り、日本で二番目の宇宙飛行士(一番目は秋山豊寛さん、元TBS記者)で、知らない人は少ないと思います。伊藤さんは北大の工学部の名誉教授で、現在は北大が進めている小型ロケットを事業化しようとするHASTICというNPOの理事長をされています。私は北大勤務、伊藤先生は北大名誉教授、そして毛利さんは北海道の余市で生まれ、北大理学部出身。この毎日新聞の特集は、有人宇宙飛行と北海道を意図的に結び付けようとしているのか?とちょっとうがった見方をしたくなりました。北海道の人間としてはうれしいところですが、他の地域の人が見たら引いてしまうのでは?とちょっと心配。

また、この特集で驚いたのは、意外にも毛利さんの議論が有人宇宙飛行推進一辺倒ではなかった、という点です。最初から「有人宇宙開発が今後、同じように日本社会を豊かにするために必要だろうか」という問題提起をし、「この50年を区切りとして、世界にとって有人宇宙開発は新しい段階に突入しなければならないと思う」と述べ、社会が有人宇宙飛行の「大義」を共有するか、宇宙観光ビジネスへの道を進むかの二つの道しかない、と論じたうえで、日本は「単独での有人宇宙開発には向いていない」と断じている。その理由として、有人宇宙開発の意義が社会で理解されていないからだと述べる。ただ、「人類が持続するために国際協力で行う有人宇宙開発への挑戦には、日本人の生命を賭してでも一緒に参加する志が社会になければならない」としている。

これまでJAXAが発信する「有人宇宙飛行は夢や希望だ」といったフワフワした言説に飽き飽きしていたところに、JAXAの宇宙飛行士であった毛利さんから、日本には有人宇宙飛行を支える社会的な大義がないという話が出てくるとは想定していなかった。その意味では大きなサプライズである。有人宇宙飛行全体を否定しているわけではないとしても、これまでの日本の有人宇宙飛行のあり方に一石を投じる文章であり、うれしく思った。ただ、この文章が、これまで「有人宇宙飛行のアイコン」としてJAXAのPRをしてきた「毛利宇宙飛行士」という立場とどう整合性をつけているのか、ちょっと気になるところ。すでにJAXAの職員ではないとはいえ、JAXAが有人宇宙飛行のPRのトーンを変更したというメッセージと受け止めるべきなのかどうか、思案している。

伊藤さんの論稿は、国に依存せずにロケット開発を進めるHASTICならでは、という議論になっており、興味深い。「宇宙開発はすべて国家の責任で推進し、国が目的を定め安全を保証するという神話から脱却する」という新しい視点を強調する。伊藤さんも「有人宇宙飛行を進めるにあたって、大きなリスクを伴うことを是とする文化の醸成が必要」と述べ、有人宇宙飛行には社会的な支持がなければいけないという認識を示している。また「現状の研究開発の延長上では新たな大義を有人宇宙開発に設けることは難しい」と暗に研究開発機関であるJAXAが有人宇宙飛行を推進することを批判している。結論として「手の届く宇宙」にする必要があると訴え、低コストによる打ち上げを目指すHASTICの目的に重ね合わせた有人宇宙飛行論を展開している。ただ、最後には「有人宇宙飛行は(中略)エンターテイメントであり、難しい大義は必要ない。楽しいから宇宙へ行く。思い切った原点復帰がいま必要だ」と論じ、やや矛盾した結論となっている。

毛利、伊藤両氏の議論に共通するのは、有人宇宙飛行は社会的な支持と、リスクを許容する文化が必要という点であり、そうした支持と新しい文化は努力すれば獲得できるというニュアンスをもって話をしている点である。実は、日本の宇宙開発の歴史の中では、常にこの社会的支持と宇宙への挑戦とその失敗を受け入れる文化が必要という議論がずっとなされており、それ自体は新しいものではない。しかし、過去40年間同じことを言い続け、結局、社会的支持も盛り上がらず、新しい文化も生まれていない点から考えると、そうした社会的変化を期待することは難しい。言いかえれば、毛利氏の議論を踏まえて言えば、そうした社会的変化が起きなければ、結局、日本は有人宇宙開発をする意義は持てない、ということになるだろう。

すでにスペースシャトルの打ち上げはあと一回となり、2020年には宇宙ステーションの運用が終了しようとしている。アメリカも有人宇宙開発の方向性を見失っており、官民を挙げて宇宙開発の新たな方向性を模索する研究が進められている。日本と同様、独自の有人宇宙ロケットをもたないヨーロッパも、宇宙ステーションの運用終了をにらんだ新たな戦略の組み立ての議論を始めている。中国は独自の有人宇宙飛行計画を続けつつ、アメリカの方針転換を受けて、中国の戦略的目標の再定義の議論を始めている。しかし、日本でそうした議論を進めようという機運は見られない。

東日本大震災の復旧・復興と、厳しくなる一方の財政状況の中で、日本が取ることができる選択肢の幅は少ない。日本が有人宇宙飛行の議論を進めないということは、もうすでに有人宇宙飛行を諦めた、ということなのだろうか?それとも、真剣に有人宇宙飛行を進めようという意思が政府にもJAXAにもないということなのだろうか?いずれにしても、日本が有人宇宙開発を止めることになれば、これまでの投資は何だったのか、という問いに答えなければならなくなる。誰かその答えを用意しているのだろうか?

2011年6月8日水曜日

こんな時に宇宙に行っている場合だろうか

本日、古川飛行士を乗せたソユーズが無事打ち上げられた。それ自体はめでたい話であり、失敗するよりは良いニュースである。しかし、ちょっと気になったのは、主要メディアだけでなく、ツイッターなどの空間でも、古川飛行士の打ち上げを喜ぶ声ばかりで、「この時期に、国家予算=国民の税金を使って宇宙に行く」ことを意味を取り上げる話がどこにも出てこないのはかなり気になる。

ソユーズを有人で打ち上げると4億ルーブル(約11億5千万円)の費用がかかる。もちろん、それ以外にも訓練などにかかる費用はたくさん付随しており、古川飛行士自身が宇宙飛行士として選抜されてからずっとかかっている費用もある。過去の支出について、あれこれ議論をし始めるとキリがないが、少なくとも、これから170日間古川飛行士は国際宇宙ステーションに滞在する費用もかかる。JAXAの予算を見ても、個別の飛行士にかかる経費が明示的に出てくるわけではないため、正確な費用を算出することは難しいが、古川飛行士の滞在中にかかる費用は数十億の単位になるだろう。

一方、地上では「税と社会福祉の一体化改革」で消費税を10%にするだとか、第二次補正予算にいくらかかるとか、被災地の復興のための増税だとかが議論されている。そんな時期に、震災復興にはあまり貢献しなさそうな宇宙ステーションに行く意味はどこまであるのだろうか?そのために、数十億円という安からぬ費用を国家予算で支出することに、どれだけの正義があるのだろうか?

多分、PR活動の得意な文科省、JAXAは宇宙から古川飛行士のメッセージを被災地に向けて流し続けるだろう。有人宇宙飛行は夢であり、希望であり、未来である、という手垢のついたメッセージが繰り返されることは想像に難くない。

これまで、日本はTBSの記者として会社が費用を負担してくれた秋山さんを除く、6人(毛利、向井、若田、土井、野口、山崎飛行士)は全てJAXAの職員として訓練を受け、国家予算で宇宙に行っている。彼らはいずれも理系の大学教育を受け(文系は宇宙飛行士にはなれない)、厳しい選抜を潜り抜けたエリートである。被災地の子供たちが宇宙飛行士からのメッセージを受け、懸命に勉強し、理系の大学に入り、一流の人材になろうという希望を持つことは素晴らしいことである。子供がプロ野球やサッカー選手にあこがれて練習に励むように、宇宙飛行士にあこがれて勉強に励むことを否定するつもりはない。

しかし、そのためのコストとして、国家予算で一回のフライトと宇宙ステーションへの滞在に数十億円かけることが果たして被災地のためになるのか、と考えると、疑問が残る。もちろん、日本の宇宙開発は被災地のためにやっているわけではない。しかし、何のために有人宇宙飛行をやっているのか、はっきりしているわけではない。日本が有人宇宙飛行事業を行うことが、日本の経済を成長させるわけでも、日本の技術力を国際的に優位にさせるわけでも(すでに有人技術を持っている国は米中ロがあり、日本の技術は二番煎じ)、日本が抱える課題を解決するわけでもない。正直なところ、私も長いこと宇宙開発の勉強をしているが、日本が有人宇宙飛行をやることを意義をしっかり、説得力のある理由で説明してくれた人は誰もいない。

こうした、目的もはっきりしないような有人宇宙事業を延々と続けていること自体に意味を見出せないだけでなく、震災復興でいくらでも予算が必要な時期に宇宙に行っている場合なのだろうか?この疑問がずっと解けないまま、一日が過ぎていく・・・。

(追伸)6月10日の毎日新聞朝刊の「論点」に拙稿が掲載される予定です。このブログの記事とは内容は異なっていますが、基本的には同じトーンの記述になっています。

2011年6月7日火曜日

補論:20ミリシーベルトは高すぎるか?

以前、ブログ(「年間1ミリシーベルト」で安心できるのか?)で以下のようなことを書いたのだが、ちょっと気になったので、もう少し正確に議論をしておきたく、ここで若干の補完をしたい。

確かに、子供の放射線被曝に関しては、その影響がどのように出るのかということは明白ではなく、チェルノブイリ事故の時も、子供の甲状腺ガンが異常に多くなったため、子供への放射性ヨウ素の蓄積は大きなリスクになるということは確かである。しかし、本当に年間20ミリシーベルトが高いのかどうかは、科学的に立証する方法がない。あくまでも、「子供はリスクが高い」というところからの推測でしかない。もちろん、そのリスクがある限り、予防的な措置はとられるべきである。
子供にとって、年間20ミリシーベルトという数値は、基本的には高いと考えるべきである。多分、それをはっきり見て取れるのは、原発で働く作業員の平時の許容被曝線量が年間18ミリシーベルトであるということから推察してもわかるだろう。原発で働く人であっても年間18ミリシーベルトなのに、子供に年間20ミリシーベルトとは!と驚く数字かもしれない。しかし、これは放射線とは何か、ということの基本を理解したうえで議論しなければいけないものである。

まず、原発で働く作業員がなぜ年間18ミリシーベルトなのか、というと、彼らは長い期間(十年~数十年単位)原発に関わる仕事をする=放射線被曝の恐れが常にある仕事をする、という前提がある。そのため、一年間では18ミリシーベルトであっても、十年、二十年と仕事を続けていけば、当然のことながら累積被曝線量は増えていく。そうなると、低被曝線量であっても人体に影響の出るレベルになっていく。「年間18ミリシーベルト」とはいっても、一年経ったらリセットされるわけではない。そのため、一年で18ミリシーベルト、二年で36ミリシーベルト・・・と加算されていく。

放射線は細胞を突然変異させるリスクがあり、低線量の被曝であっても、細胞が突然変異して悪性腫瘍(ないしは癌や白血病)になる可能性がある。特に、細胞分裂の活発な子供はそうした突然変異が生まれる確率が高くなる。そのため、大人であっても、年間18ミリシーベルトを何年も浴び続ければ、その分、細胞が突然変異する可能性が高くなる。

では、子供が「年間20ミリシーベルト」の被曝をするとどうなるのか、ということだが、これは実は原発事故がどの程度続くか、ということによって変わってくる。現状では、放射線量が高い(年間換算して20ミリシーベルトくらい)場所が「ホットスポット」として話題になっているが、原発事故が続く限り、福島県内や茨城、千葉県の放射線量の高い地域には継続的に放射性物質が飛来する可能性があり、その意味では、継続的に被曝が続き、それによって細胞の突然変異が起こる確率が高くなる。

つまり、原発事故が早期に収束すれば、今後、福島第一原発周辺の避難指定区域や計画的避難区域以外の福島県内や茨城、千葉県の線量の高い場所でも、土壌の改良などによって蓄積された放射性物質を除去することで、それほど問題にはならない。

しかし、原発事故が収束せず、今後長期にわたって放射性物質が放出されるような状況が継続するようであれば、現時点で土壌改良をしたところで、また新たに放射性物質が降り、土壌に蓄積されるようなことになれば、それはリスクを高めることになる。原発作業員のように、長期にわたって低線量の被曝をすることを前提として考えなければならなくなる。そうなると「年間20ミリシーベルト」はかなり高い数値に思える。特に、原発作業員は大人であり、細胞分裂が不活発な人であることを前提にすると、子供が数年にわたって被曝するという前提に立てば、「年間20ミリシーベルト」は高いのである。

文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」といい、一回限りの土壌改良作業をするくらいでは、現時点では必ずしも効果的とはいえない。原発事故はまだ解決していないのである。これから考えなければいけないのは、果たしてこの原発事故がどのくらい続くのか、そして収束した後もどの程度放射性物質が残るのか、そしてその核種(放射性ヨウ素やセシウムなど)が何であり、その半減期(放射能が半分になる期間。放射性ヨウ素は8日間なので、80日たてばほとんど存在しなくなる)がどの程度になるか、ということである。

ただ、原発事故が続く限り、放射性物質がガンガン降ってくるというわけでもない。というのも、現在、福島県内や茨城、千葉県内で見られる放射性物質のほとんどは、福島第一原発の1、3、4号機の水素爆発によって巻き上げられたものが多く、そうした爆発による放射性物質の飛散ということは今のところ想定されていないからである。福島第一原発の格納容器は「メルトスルー」の可能性、つまり、溶けた核燃料が格納容器を突き破っている可能性も出てきているので、放射性物質は外部に漏れ続けているが、それが広範囲に拡散することになるかどうかは定かではなく、さまざまな気象条件や、今後の事故の展開によっても変わりうる。現時点では、悪いながらも安定した状態にあるので、すぐに大量の放射性物質が飛び散るとは考えにくい。

また、既に書いたように、年間20ミリシーベルトといっても、子供にどのような影響が及ぶのかについては、正確な科学的知見がない。なので、確実なことは、年間20ミリシーベルトも数年被曝することになれば、リスクが高まることだけであり、それが必ずがんや白血病につながるとは限らない。あくまでも確率論的なものでしかない。

ただ、はっきりしていることは一つある。それは文科省が「年間1ミリシーベルトを目指す」といってもそれを実現することは困難であり、原発事故が続く限り、リスクは常に高まっているということである(といっても急激に高まるわけではなく、ダラダラ高まっていくのだが)。また、「年間20ミリシーベルトまで許容する」という評価をした文科省は、事故が継続していることを前提にせず、単にICRPが認めているからという安易な理由で判断していた、ということである。

2011年6月4日土曜日

ガラパゴス化した政治

ここ数日、不信任案をめぐる一連の騒動で、ブログを書くどころか、何かを考えることすら嫌になっていた。すでに前の投稿(「日本の政治はTwilight Zone」)で、足元の定まらない感覚は何なのか、少し考えてみたが、今度は日本の政治が世界との関係の中で、どう位置付けられるべきなのか、少し考えてみたい。

ここでキーワードにしたいのが「ガラパゴス化」である。この言葉は野村総研が『ガラパゴス化する日本』という本を出し、流行語となった言葉であるが、この言葉は政治の世界にも十分当てはまるように思える。

元々野村総研の議論では、日本の携帯電話などの製品が、日本国内市場特有の高度なニーズに基づいて研究開発、製造されており、そのニーズがグローバル市場のニーズとかけ離れているため、結果的に国内市場でしか通用しない製品が蔓延し、機能や製品の質・水準は高いにも関わらず、グローバル市場ではまったく競争力をもたない状況になっていることを説明している。

この定義からすると、政治の世界を「ガラパゴス化」というにはちょっと違和感がある。というのも、出発点である、国内市場の「高度なニーズ」がなく、日本の政治「製品」が質的に高度であるとは言えないからである。つまり、日本の政治が国際的に通用しないのは、日本の政治が特殊だからというよりも、その質が低いからである。

しかし、別の角度から「ガラパゴス」ということを考えると、日本政治を説明するキーワードとして、必ずしも不適切ではない、という気もしている。少し敷衍してみよう。

第一に、外界から遮断され、独自の論理で政治が動いているという点は「ガラパゴス」的であろう。もともと『ガラパゴス化する日本』の中でも、日本の市場がグローバル市場から遮断されているという点から議論をスタートさせており、その点では、日本の政治が国際的な流れから遮断されているということを「ガラパゴス化」の議論の出発点にすることはできるだろう。

こう書くと「どんな国であっても、主権国家という枠組みの中で政治をやっているのだから、政治はガラパゴス化するものである」という指摘があるかもしれない。それはその通りで、アメリカの政治も中国の政治も、あらゆる政治はガラパゴスである。しかし、日本の特殊性は、外国の動向や国際的なプレゼンスを完全に無視し、自らの特殊な論理で行動することで、他国にはまったく理解できないような状況になっている、という点で、よりガラパゴスっぽい。

国によって違いはあるが、今日の政治は外国からの視線や市場からの視線を無視して、自分勝手な論理で意思決定をすることが困難になっている。というのも、もし外国から理解できないような意思決定を行えば、それだけで批判の対象になり、市場から罰せられる(たとえば国債の価格低下など)。しかし、日本は日米同盟という枠組みの中で、アメリカから文句は言われても、おおっぴらに批判されることが少ないということがあり、また日本の側でもアメリカの言うことを聞いていれば、少なくとも国際社会で正面切って批判されることが少ない、ということを経験的に分かっているところがある。また、市場に対しても、日本はいまだに世界一の対外資産をもっており、膨大な国債もそのほとんどが国内で消化されているため、グローバル市場からの罰が届きにくい。つまり、日本はほかの国に比べても、外界からの遮断の度合いが高い。なので、ガラパゴス化しやすいのである。

第二に、ガラパゴスであると書いて、ピンと来ることがある。それは政治家の多くが世襲議員だ、ということだ。日本という国家が外界から遮断されているだけでなく、永田町という世界が閉じられた世界であり、その中で、独自の生態系がはぐくまれ、特殊な進化を遂げていると言えよう。これによって、永田町というガラパゴスで生まれ育った種は、その外に出ると途端に生存能力を失うため、できるだけ長くガラパゴスの中に閉じこもっていようとする。そのため、生き残るためには、種が分裂して新たな種を生み出したり(自民党から分離し、民主党が生まれる)、その新しい種がほかの種と交配する(民主党に旧社会党や民社党などが合流)などして生き残ろうとする。その際、外界から隔離されているため、新たな天敵に襲われる心配がないため、外敵と戦う能力がなくても(つまり、外国の政治家と渡り合うための交渉力や弁論能力)生き残っていける。結果として、自然界では考えられないような存在になってしまう。

第三に、外来種(たとえば松下政経塾出身者)が入ってきても、ガラパゴスの楽園の論理にはまり込み、在来種との交配が進み、ガラパゴスの秩序が維持され、独自の進化を遂げているという点である。ガラパゴスの中では、本来ならば外来種が弱者である旧来種の政治家を食いつくしてしまうところが、逆に外来種が旧来種と交配しないと生きていけない状況になるため(小選挙区制のため、既存の政党に入り込まないと選挙に勝てないため)、外来種がガラパゴスの論理に取り込まれ、いつの間にか旧来種と共存するようになり、ガラパゴスの秩序が安定する。

第四に、ガラパゴスの秩序は適者生存の論理が徹底しており、ガラパゴスの秩序に適合しない種は排除されていく。 たとえば小泉純一郎という政治家はガラパゴスの中で生まれた突然変異であるが、その突然変異がガラパゴスの種の保存のために有益であるうちは活用するが、そうした突然変異がガラパゴスの秩序を乱すほど影響力をもつようになると、自然に古い秩序が回復し、「小泉新自由主義は格差を拡大させ、日本をダメにした」といった論理が蔓延し、その突然変異を排除するような動きとなる。

ゆえにガラパゴスの秩序に適合したものが生存するという仕組みになっており、そこには外敵と戦う能力(交渉力や論理的な説明能力など)よりは、秩序に適合し、秩序に適合しないものを排除する能力(たとえば足を引っ張る、相手のスキャンダルを暴露するなど)が重要な能力となる。

今回の不信任案を巡る騒動も、不信任を提出した自民党や公明党は「首相の人間性に問題がある」という情緒的で、おおよそ合理的とは思えない理屈だけしかなく、ただ単に民主党の支持率が下がり、菅政権に対する国民の不満が高まっているという状況に悪ノリした権力闘争でしかない。また、民主党内で造反しようとした小沢派と呼ばれる人たちは、「菅政権では原発事故は収束せず、がれきも撤去されていない」ということを理由に不信任案に同調しようとした。しかし、常識的に考えればわかるが、ここで首相が変わったところで原発から汚染水がなくなるわけでも、メルトダウンした燃料が元に戻るわけでもない。ここでも権力闘争をしかけるという状況の悪ノリである。さらに、最初は不信任案に同調するとしながら、中途半端な口約束だけで不信任案の反対に回り、そのあと「ペテン師だ」「ウソをついた」といっているレベルになると、もう論理や合理性という言葉とはかけ離れたTwilight Zoneである。このような、永田町の外で理解できないような論理しか通用せず、外国からみても全く理解ができないような政治の世界は、間違いなくガラパゴス化していると言えるだろう。

このガラパゴス化から抜け出すためには、日本の政治が、少なくとも永田町や日本というコンテキストでのみ認められる論理で動くのではなく、グローバルに理解できるような論理で動く必要がある。グローバルに理解できる論理というのは、一言でいえば合理的に説明がつく論理である。なぜ震災復興の途中で、原発事故の最中に不信任案を提出し、それに同調するようなことになるのか、不信任をして解散総選挙をやれば問題が解決するのか、菅政権が総辞職すれば問題が解決するのか、ということをきちんと論理的に説明する必要がある。「菅さんじゃだめだ」という論理ではなく、「菅さんではなく、○○であれば問題を~~のようにして解決できる」という論理で行動しなければ、おおよそ永田町の外の人間には理解できない。そういうものなしに、永田町という狭い世界の中で権力闘争をやっているだけでは、ガラパゴス状態から脱却することはできない。

こうしたガラパゴス状況から脱却するためには、今のガラパゴスに巣食う旧来種を排除するだけでは不十分である。旧来種が作り出したガラパゴスの秩序を破壊し、世界に通じる論理で政治を行う外来種を永田町に送り込み、その外来種が旧来型のガラパゴスの秩序に染まる前に、旧来種を駆逐するしかない。幸いなことに、ガラパゴスを陸続きにし、外来種を送り込む方法ははっきりしている。それは民主主義であり、選挙である。

日本の政治はTwilight Zone

かつてアメリカで「Twilight Zone」というSFドラマがあった。日本では『未知の世界』とか『ミステリー・ゾーン』という名前で放送され、円谷プロの『ウルトラQ』や、今でも放送されている『世にも不思議な物語』のモデルになったドラマである。

日本の政治は、まさにTwilight Zoneに入っているような錯覚を覚える。Twilight Zoneが人気を博したポイントは、現実の生活風景の中に、一つだけ現実にはあり得ない条件が挿入され、それによって、人間の理解を超えた出来事が起こっていくという点にある。見慣れた風景が突如、違うものになり、「常識」が通用しなくなり、日常生活の平衡感覚を失うことで不条理なめまいを覚えるというのが、このTwilight Zoneの持ち味であった。

Twilight Zoneというのは、文字通り「黄昏時の時間帯」という意味である。日本では「逢魔時(おおまがとき、大過時とも書く)」とも呼ばれる、この日没前の時間帯は不思議な魔力があり、普段では起きないような出来事が起こる、という意味が込められている。

ここ数日の日本の政治(と呼べるような代物ではないが)で起こっていたこと、もしくは、ここ数年の日本の政治で起こっていた出来事は、ずっとTwilight Zoneに入っていた状態だったのではないかと感じている。「一定のメドが経ったら辞任する」「二次補正予算が通れば辞任する」「そんな期限を設けてはいない」「ペテン師だ」云々カンヌン・・・。官僚の世界でも「隠すつもりはないが国民に公表することは考えなかった」「官邸の空気を読んで海水注入を止めた」・・・。もう、論評する気にもなれない。

とりあえず誰が嘘をついたとか、何が正しいかとか、そういうことを判断する気力さえ失うような状況で、何をコメントしてよいかもわからない状況に漂っている浮遊感だけが残る。この不思議な感覚はTwilight Zoneのようだ、と感じている。

その感覚はどこから来るのか、と考えているうちに、Twilight Zoneへの入り口を開いたのは、あの「Trust me」という言葉だったのではないだろうか、と思うようになった。

曲がりなりにも政治学を勉強する人間として、これまで言葉の大切さというのは痛切に感じてきた。政治で使われる言葉がどのような現実を示し、どのような行動を表象しているのかを考え、そこから行為者の意図や思惑、利害などを推量し、そこから論理を組み立てていくというのが政治学の学び方だろうと思う。自然科学とは異なり、政治の営みを分析するには、表に出てくる「言葉」が最も重要であり、その「言葉」を手がかりに、どのような意図と認識と利害をもって意思決定がなされていくのかを見ていくのが政治学だと考えていた。

しかし、その「言葉」があまりにもいい加減で、何を表象しているのかがまったく明らかにならなくなり、その「言葉」からは類推できないような現実が現れてくると、政治学者はまったくの無力となる。それは自然科学にとって太陽が西から上がってくるとか、酸素と水素を化合すると二酸化炭素が出てくるような驚きである。そのような驚きというか無力感を痛烈に感じたのは、やはりあの「Trust me」だった。

もちろん、これまで政治の世界では「ウソ」とも「方便」ともとれる言葉は無数にあった。しかし、なぜそこでウソをつくのか、なぜそんな方便を使うのか、ということが、なんとなくではあってもわかるような使いかたをしていた。たとえば、中曽根政権時代の衆参同日選挙で「売上税は導入しない」と言いながら消費税の論議をしたり、「米は一粒たりとも輸入しない」と言いながらウルグアイ・ラウンドでコメのミニマムアクセスを受け入れたり、といった類の話は、十分政治学的に説明のつく「ウソ」であった。政治学者もバカではないので、言葉を額面通り受け取ったりはしない。

しかし、鳩山の「Trust me」だけは、どうしても「ウソ」でしかなく、そこに利害や意図や目的があってウソをついているのではなく、何の根拠や見通しや戦略や利害や駆け引きなしにウソをついていた。ということになると、政治学的に理解することが不可能になってくる。

しかも、そうした「ウソ」をさらなる「ウソ」で塗り固め、結局、沖縄の問題はどうにも解決できないような状況に陥ってしまい、彼は首相を辞めることとなった。しかし、その時に「首相経験者は影響力を行使してはならない」と自ら述べ、政治家を引退すると言いながら、結局、次の選挙で出馬し、まだ国会議員をやっているだけでなく(この点で北海道9区の有権者にも責任はある)、自らの言に反して力いっぱい影響力を行使しようとした。しかも、その企てが失敗すると、「あいつはペテン師だ」「先方はウソをついている」などと言う。もう、政治学者はお手上げだ。

今日も永田町には国会議事堂が立ち、「内閣」と呼ばれるものは存在し、「国会議員」と呼ばれる、国の税金で雇っている人たちがいる。また、「政党」と名のつく集団があり、政党助成金なるお金が国民の税金から投入されている。こうした日常の風景の中で、本来、自分の言葉に責任をもち、「言ったことは実現する、ないしは実現するよう最大限努力する」ことを職業とする政治家が、その自覚を失い、「言った」「言わない」「ウソをついた」「ウソはついていない」という政治家として使うべきではない言葉しかしゃべらなくなった時、この国はTwilight Zoneに入り込み、そしてそこから出られなくなってしまうのだろう。Twilight Zoneに入ってしまった以上、我々は平衡感覚を失ったまま、吐き気をもよおしながら、この「人類の知らない第五次元」を漂うしかないのだろうか。