東京電力は福島第一原発の1号機は16時間以上「空だき」状態であったことが明らかになってきた。この背景には、1号機の水位計が復活し、ようやっと正確なデータを得ることができるようになったことがある(毎日新聞の記事)。これで確固たるデータを基にした状況判断ができるようなった。
これは言い方を変えれば、これまでの東電や政府機関が発表してきた内容は、基本的にデータに基づかない推測でしかなかった、ということである。確かに常識的に考えれば、地震によって計器が正常に作動しているという保証はなく、あれだけ大量の水を注入しているのに、その水がどこに行ったのかもわかっていなかったはずである。
しかし、こうしたことが伝えられていなかったのはなぜなのだろう。むしろ、我々が接していた情報は一体何に基づいて報道されていたものなのだろう。そう考えると、これまで我々が接していた情報は単なる「当て推量」だったのではないか、という気になってくる。
確かに、メディアも世論も外国政府も産業界も、みんな事故の状況の説明を求め、東電や保安院は限られたデータの中で何らかの「推測」をしなければならなかったのだろう。また、専門的な「○ミリシーベルト」といった原子炉の外から計測できる数値を可能な限り出し、できる限りの透明性を図ったものの、外国メディアなどからは「単なるデータだけでなく、それを整理して解説してほしい(英語ではContextulizeしろ、という単語を使っていた)という要望が出ていた。
そのため、きわめて限られたデータの中で「推測」をし、現在何が起こっているかということをわかる範囲で説明していたものと思われる。しかし、ここで重要な問題は、報道する側が、かなりの程度、東電や保安院から流れる情報をダダ漏れのように報道し、そこに疑問や批判を挟まなかったことにあるように思える。
このような事故の場合、重要なデータが得られていないため、東電や保安院の説明はどうしても「推測」、いや実際には「あてずっぽう」なものにならざるを得ないだろう。本来ならば、こうした事故の時でもきちんとデータをとれるような設計をしておくべきであるが、それを今から言っても仕方がないので、現時点ではわかる範囲のデータから「あてずっぽう」な話をするしかない。しかし、それを「政府発表」「東電発表」とし、あたかも「事実」であるかのように報じてきた側には一定の責任があるだろう。私はずっと「どうしてこんなに注水しているのに、水があふれてこないのだろう」ということに疑問を持っていたが、その疑問に答えるような解説、説明、報道記事は見かけたことがなかった。私のような素人でも想像がつくような問題をなぜメディアは取り上げなかったのか。どうしてもそこが解せない。
これが上杉隆氏のような論調であれば、「記者クラブ制度が悪い」という話になっていくのだろうが、事態はもう少し深刻なような気がする。それは、報道する側が「政府の言うこと、東電の言うことは事実に違いない」という思い込みが働いているような気がするからである。もちろん、記者の側には一次データがないのだから、政府や東電が提供するデータを信用するしかないのだが、そのデータが不完全なものであり、他の解釈が可能、ということは大いにあり得るはずなのに、それについてはほとんど問われていない、ということが気になる。
震災直後から東電の記者会見や保安院の記者会見などがテレビで生中継されることがあり、可能な限り見ていたが、それを見る限り、記者から出る質問は「これからどうなる」とか「誰に責任がある」というたぐいの質問が多く、東電や保安院の「推測/あてずっぽう」とは違う解釈もあり得る可能性を示唆するような質問は多くなかったように記憶している。その結果、東電や政府が出している「あてずっぽう」が、いつの間にか「事実」として独り歩きし、その「事実」に基づいて「工程表」が作られ、将来に向けての対応が進められている。
結局、何が言いたいかというと、一つは、記者や世論の間にある、政府や東電の「無謬性」に対する信頼は、あれだけの事故が起こっても変わらないのだな、ということと、もうひとつは、日本のマスコミが持つ「批判精神」の欠如である。批判精神というのは、単に文句を言うとか、他者を追い詰めるということではない。批判精神というのは、「事実」と思われることに疑問を持ち、それに対して、異なる「事実」の可能性、解釈を提示し、それをぶつけていくことで、「真実」を見出そうとする行為であると考えている。言いかえれば、批判するという作業は建設的な議論をすることであり、自分が「事実」と思われることに対する「対案」を用意することだと思う。
その点について、もう一つ気になる話が、IAEAの閣僚会議に向けて、日本政府が用意している報告書の話である(北海道新聞の記事)。これは事故直後の緊急対応が妥当であったと評価し、政府や東電の取り組みが前向きであるということを評価する内容となっているようである。少なくともこの記事の中身だけ見ると、この報告書はかなり国内世論や国際世論と評価が異なっているように思われる。また、かなり自己正当化というか、自己弁護がすぎるように感じている。まあ、政府が出す報告書であるから、政府の対応を否定するようなものが出てくることは期待できない。なので、このように自己弁護するものが出てくるのはある程度想定内のことであろう。
しかし、この記事を読んで気になったのは、事故後(Post accident)の対応が良い、悪いという評価は確かに重要であるが、もっと重要なことは、事故前(Pre accident)の対応がどうであったのか、ということである。諸外国においては、原発事故に対するさまざまな準備がなされており、事故のシナリオに基づいたマニュアルや、事故に対応するための装備が準備されている。日本にはそうした「事故前」の準備がまったくできていなかった。それは、これまで議論してきたように「安全神話」があり、事故が起こることを想定すること自体がタブー化されていたことに原因があった。
本来ならば、IAEAに提出すべき報告書には、こうした「事故前」の準備の欠如が、「事故後」の対応を遅らせ、迅速な対応ができなかった原因である、ということを真摯に認め、それを教訓として国際社会に提示することである。諸外国においては、さまざまな準備があるとはいえ、実際にこれだけのシビアなアクシデントを体験したのは、チェルノブイリのソ連(ウクライナ)を除けば日本だけである。つまり、この経験を国際公共財として提供することが、日本としての義務であり、国際社会から白い目で見られ始めている日本の立場を回復する手段と考えるべきである。間違っても、自己正当化や自己弁護でこの機会を逸してはならない。
東日本大震災を受けて、世の中が大きく変わっていく中で、日々のニュースに触れて、いろいろと考えなければならないテーマが出てきました。商業的な出版や学術的な論文の執筆にまでは至らないものの、これからの世の中をどう見ていけばよいのかということを社会科学者として見つめ、分析し、何らかの形で伝達したいという思いで書いています。アイディアだけのものもあるでしょうし、十分に練られていない文章も数多くあると思いますが、いろいろなご批判を受けながら、自分の考えを整理し、練り上げられれば、と考えています。コメントなど大歓迎ですが、基本的に自分のアイディアメモのような位置づけのブログですので、多少のいい加減さはご寛容ください。
2011年5月16日月曜日
2011年5月15日日曜日
忘れてしまう能力
近代の仕組みというのは、強い個人を前提としている。つまり民主主義にしても、資本主義にしても、法体系にしても、個人が判断し、自らがリスクを背負い、自分の行動の責任を問うことが前提となっている。原発の問題にしても、きちんと情報を明らかにし、透明性を高め、その情報をもとに個人が判断して行動することが求められている。
しかし、普通の人は原発のことも、放射線のことも、技術のこともよくわからない。なので、必然的に専門家の意見に依存するしかないし、その判断を国や政府機関に委ねるしかない。しかし、専門家は多数いて、それぞれが異なる意見を表明し、それが「透明性」をもって表に出てくるので、いったい誰の意見が正しく、誰の意見が間違っているのかを判断することができない。
そのため、何が危険で何が危険でないのかを、国や政府機関に判断してもらうしかない。それが正しいか正しくないかを見極める力がなければ、「一番信頼できそうなもの」の意見に従うのが一般的な反応であろう。
しかし、問題は、その国や政府機関が情報を隠したり、誠意をもって説明しなかったり、「自主避難」のように個人の判断にゆだねるような指示を出したりすることで、一般の人の不信感というか、戸惑いがあるのだろうと思う。
そこで国が何らかの形で判断をすれば、そこに国の責任が生じる。国は権力機構であり、その指示は強制力を伴う。そのため、何らかの判断をし、指示を出せば、それによって生じる結果に責任を持つことになる。たとえば、強制的な避難指示を出せば、その避難によって生じる損害を賠償する責任が生じる。それは、国にとっては負担となり、そうした責任を取らない、取りたがらないという反応になりがちで、よほど確証がないことは判断することを避けようとするだろう。それゆえに「役所仕事」のような官僚主義的、前例主義的な対応になっていくものと考えられる。
ただ、現在の民主党政権はかなり「無節操」に国の責任を強調する。浜岡原発にしても、震災復興にしても、首相自ら、官房長官自ら「国の責任において行う」という発言を連発する。個人が背負いきれないリスクを国が取るということを否定するつもりはないが、国が判断基準を示し、一般の人々の判断材料になるだけの理由や根拠を示しているのか、といわれると、やや怪しい気がすることがしばしばである。むしろ「思いつき」で国の責任を口にしているような印象さえ受ける。
こうした姿勢は、結果として判断をする能力のない一般の人々が、自らリスクを取って判断するしかない、という状態に追い込み、それが戸惑いを生む、という循環が起きる。今回の福島第一原発の事故は、そうした問題があからさまになったケースであろう。
ここで重要になるのは、国がきちんと信頼されているという状態でなければならない、ということである。国がきちんと専門的な知識を持ち、それに基づいて判断し、きちんと結果を出していくことに信頼感があれば、現在のような混乱や不安は起きてこないであろう。しかし、現在、国が出している基準というのは、良くわからない「暫定基準値」や「ただちに健康被害がない」というような基準であり、それが何を意味しているのか、どのように判断してよいのか、という一般の人にわかるような判断基準になっていない。その結果、不安が払しょくされていかないのである。
他方、政府は「データを出せば国民がパニックになる」と考えてデータの出し渋りや、情報隠しと思われるようなことを行い、国民に判断させることを控えさせるようなことをしてきた。そして、それが批判されると、今度は専門的なデータ(何ミリシーベルトなど)をダダ漏れさせ、そのデータを踏まえて勝手に判断しろと言わんばかりの対応をしている。
こうなると、人々は国への信頼感を失い、何を信じてよいかわからない状態になる。それゆえ、流言飛語や口コミ、デマなどに依存する可能性が高くなる。それは外国に向けても同じことであり、日本政府の言うことが信頼されなければ、変な風評被害が拡大することとなる。関東大震災の後に朝鮮人虐殺が起こったのも、そうした背景があったものと想像する。
さらに恐ろしいことは、こうした国への信頼感が失われ、何を信じてよいかわからないような状態になると、変なナショナリズム、ポピュリズム、原理主義などなどが流行りだす可能性がある。まだ日本ではそうした兆候がみられるわけではないが、人々が不安になり、国のことを信頼できなくなるようになると、どんないい加減なことであろうと、自信を持って強硬に主張するような人が妙にカリスマ化し、フォロワーが増えていくような状況が生まれる可能性はある。そうならないようにするためにも、専門的な知識がなく、不安になっている人々に向けて、信頼を得られるようなメッセージを出すことがリーダーに求められるのだろうと思う。
しかし、残念ながら、そうしたことができていない。それがゆえに、多くの人が不安のまま日々を過ごし、何とかリスクを小さくしようとして買いだめなどをしたりする。しかし、人間の能力としてさらに凄いことは、そうしたリスクを「なかったことにする」「忘れてしまう」「無視する」ということができる、ということである。毎日、リスクにおびえて生活することはしんどい。だから、それを忘れてしまうことで、つまり自分をごまかすことで、日々の生活を安定させようとする働きが起きる。そうなると、怖いことは考えない、そんなことを考えるとまた不安になる、ということから、思考停止というか、考えること自体を止めてしまう。
実は、日本の戦後65年というのは、ずっとこの連続だったのではないか、という気がする。原発のリスクも、「もんじゅ」の事故も、地下鉄サリン事件も、テポドンが飛んできたことも、「唯一の被爆国」であることも、みんな一通り忘れてしまうこと、考えないようにすることで、日々の生活を平穏に過ごしてきたのではないだろうか。そう考えると、しんどいことではあるが、常にこうしたリスクを意識し、怖いことを考えながら、不安を抱えながら生活すること、つまり、近代の仕組みにのっとって「強い個人」になることが、問題を解決していく唯一の方法なのだろう。もうひとつの方法は、国が信頼感を取り戻すことなのだが、こちらにはあまり期待していない。
しかし、普通の人は原発のことも、放射線のことも、技術のこともよくわからない。なので、必然的に専門家の意見に依存するしかないし、その判断を国や政府機関に委ねるしかない。しかし、専門家は多数いて、それぞれが異なる意見を表明し、それが「透明性」をもって表に出てくるので、いったい誰の意見が正しく、誰の意見が間違っているのかを判断することができない。
そのため、何が危険で何が危険でないのかを、国や政府機関に判断してもらうしかない。それが正しいか正しくないかを見極める力がなければ、「一番信頼できそうなもの」の意見に従うのが一般的な反応であろう。
しかし、問題は、その国や政府機関が情報を隠したり、誠意をもって説明しなかったり、「自主避難」のように個人の判断にゆだねるような指示を出したりすることで、一般の人の不信感というか、戸惑いがあるのだろうと思う。
そこで国が何らかの形で判断をすれば、そこに国の責任が生じる。国は権力機構であり、その指示は強制力を伴う。そのため、何らかの判断をし、指示を出せば、それによって生じる結果に責任を持つことになる。たとえば、強制的な避難指示を出せば、その避難によって生じる損害を賠償する責任が生じる。それは、国にとっては負担となり、そうした責任を取らない、取りたがらないという反応になりがちで、よほど確証がないことは判断することを避けようとするだろう。それゆえに「役所仕事」のような官僚主義的、前例主義的な対応になっていくものと考えられる。
ただ、現在の民主党政権はかなり「無節操」に国の責任を強調する。浜岡原発にしても、震災復興にしても、首相自ら、官房長官自ら「国の責任において行う」という発言を連発する。個人が背負いきれないリスクを国が取るということを否定するつもりはないが、国が判断基準を示し、一般の人々の判断材料になるだけの理由や根拠を示しているのか、といわれると、やや怪しい気がすることがしばしばである。むしろ「思いつき」で国の責任を口にしているような印象さえ受ける。
こうした姿勢は、結果として判断をする能力のない一般の人々が、自らリスクを取って判断するしかない、という状態に追い込み、それが戸惑いを生む、という循環が起きる。今回の福島第一原発の事故は、そうした問題があからさまになったケースであろう。
ここで重要になるのは、国がきちんと信頼されているという状態でなければならない、ということである。国がきちんと専門的な知識を持ち、それに基づいて判断し、きちんと結果を出していくことに信頼感があれば、現在のような混乱や不安は起きてこないであろう。しかし、現在、国が出している基準というのは、良くわからない「暫定基準値」や「ただちに健康被害がない」というような基準であり、それが何を意味しているのか、どのように判断してよいのか、という一般の人にわかるような判断基準になっていない。その結果、不安が払しょくされていかないのである。
他方、政府は「データを出せば国民がパニックになる」と考えてデータの出し渋りや、情報隠しと思われるようなことを行い、国民に判断させることを控えさせるようなことをしてきた。そして、それが批判されると、今度は専門的なデータ(何ミリシーベルトなど)をダダ漏れさせ、そのデータを踏まえて勝手に判断しろと言わんばかりの対応をしている。
こうなると、人々は国への信頼感を失い、何を信じてよいかわからない状態になる。それゆえ、流言飛語や口コミ、デマなどに依存する可能性が高くなる。それは外国に向けても同じことであり、日本政府の言うことが信頼されなければ、変な風評被害が拡大することとなる。関東大震災の後に朝鮮人虐殺が起こったのも、そうした背景があったものと想像する。
さらに恐ろしいことは、こうした国への信頼感が失われ、何を信じてよいかわからないような状態になると、変なナショナリズム、ポピュリズム、原理主義などなどが流行りだす可能性がある。まだ日本ではそうした兆候がみられるわけではないが、人々が不安になり、国のことを信頼できなくなるようになると、どんないい加減なことであろうと、自信を持って強硬に主張するような人が妙にカリスマ化し、フォロワーが増えていくような状況が生まれる可能性はある。そうならないようにするためにも、専門的な知識がなく、不安になっている人々に向けて、信頼を得られるようなメッセージを出すことがリーダーに求められるのだろうと思う。
しかし、残念ながら、そうしたことができていない。それがゆえに、多くの人が不安のまま日々を過ごし、何とかリスクを小さくしようとして買いだめなどをしたりする。しかし、人間の能力としてさらに凄いことは、そうしたリスクを「なかったことにする」「忘れてしまう」「無視する」ということができる、ということである。毎日、リスクにおびえて生活することはしんどい。だから、それを忘れてしまうことで、つまり自分をごまかすことで、日々の生活を安定させようとする働きが起きる。そうなると、怖いことは考えない、そんなことを考えるとまた不安になる、ということから、思考停止というか、考えること自体を止めてしまう。
実は、日本の戦後65年というのは、ずっとこの連続だったのではないか、という気がする。原発のリスクも、「もんじゅ」の事故も、地下鉄サリン事件も、テポドンが飛んできたことも、「唯一の被爆国」であることも、みんな一通り忘れてしまうこと、考えないようにすることで、日々の生活を平穏に過ごしてきたのではないだろうか。そう考えると、しんどいことではあるが、常にこうしたリスクを意識し、怖いことを考えながら、不安を抱えながら生活すること、つまり、近代の仕組みにのっとって「強い個人」になることが、問題を解決していく唯一の方法なのだろう。もうひとつの方法は、国が信頼感を取り戻すことなのだが、こちらにはあまり期待していない。
2011年5月14日土曜日
投稿の喪失(嘉手納統合案はアメリカの「請求書」と心得るべし)
24時間ほど前、「嘉手納統合案はアメリカの「請求書」と心得るべし」というタイトルで長めの文章を書いたのですが、サイトの不具合で原稿が消滅してしまいました。バックアップを取っていなかったので、改めて書き直す元気もなく、がっかりです。
要点だけ改めてまとめておくと、嘉手納統合案を出したレビン、マケイン、ウェッブはいずれも議会の大物。日本政府は「立法府の発言だから」といって、当面出方を見るような姿勢を見せていますが、この提案はオバマ大統領と近いウェッブ議員が記者会見を行ったところを見ても、ホワイトハウスとのすり合わせをしていると考えるのが妥当。なのに、日本は「現行案のみ」という立場を明らかにしているので、ちょっとセンスが悪いかな、という気がしています。
今回の嘉手納統合案については、原則賛成。沖縄の問題は生煮えの議論をしてはいけないと思っているが、基本的な考え方としては「消去法的選択」しかないと考えている。優先順位から言うと、まず最悪のシナリオは普天間の固定化。辺野古にしても嘉手納統合案にしても、地元が反対する限り、普天間は必ず残る。それだけは避けるべきである。
次に消去法の対象となるのは県外移設。何といっても沖縄の米軍基地の問題は日本の問題であると同時に、アメリカの問題でもある。動く主体であるアメリカが反対する限り、何も起こらない。アメリカが納得する提案をしなければならないが、グアムにすべて海兵隊の部隊を移すことはアメリカにとって何のメリットもないだけでなく、デメリットばかりである(財政支出も含めて)。なので、県外、国外という選択肢は極めて弱く、結果的に沖縄県内での移設という選択肢しかなくなる。元の文章では、鳩山発言についていろいろと文句をつけ、民主党の「思いつきの大英断」の馬鹿らしさを書いていたが、それは繰り返さない。
消去法で沖縄県内の移設ということになると、候補になりうるのが現行案の辺野古ということになるが、ここも選択肢としてはかなり厳しい。名護市長選以降、現実味がなくなった話であろう。これも鳩山発言で条件が変わってしまったため、2009年以前であれば選択肢としてはありえたが、現在ではもう無理と判断するしかない。
なので、嘉手納統合案は消去法的にいうと一番ハードルが低いと感じている。というのも、これまで嘉手納統合案を否定する理由として乱暴にまとめると(1)空軍と海兵隊が基地をシェアすることを嫌っている、(2)嘉手納町が騒音問題で反対している、(3)沖縄県民感情として県内移設に反対している、ということになろう。
このうち、(3)については、どうしようもない状況なので、(2)と合わせて地元が納得いくオファーをするしかないであろう。それは騒音の軽減など、すでに仲井真知事が条件を出しているが、それらの条件が出てくるということは、事態が前進する芽があるということである。
また、今回は(1)の問題がクリアできそうな予感がある。というのも、そもそも嘉手納案を否定してきたのは米軍であるが、上院軍事委員会の重鎮が嘉手納統合案を提案しているということは、軍のレベルで反対できるような状況ではなくなった、ということが言える。今のところ、ホワイトハウスからのメッセージはなく、ペンタゴンなどは当面現行案を重視するという立場をとっているが、それも不変のものではない。なので、嘉手納統合案の大きなネックであった(1)が解決すれば、その分ハードルは下がる。
普天間の問題を何とか解決するために、ベストの策でないことは明らかだが、Lesser evilという選択で考えていくと嘉手納統合案は有力であろう。
しかし、もうひとつ嘉手納統合案が有力だと思う理由がある。それは、東日本大震災で米軍が「トモダチ作戦」を展開し、アフガニスタン、イラク、リビアと紛争を抱えているにも関わらず、2万の兵力を出し、空母一隻を出して救援活動をしたことは、何にも代えがたい支援であった。これはアメリカの善意からでたものであるが、同時に、それは「タダ」ではない。アメリカとしては、救助、復興支援をした善意の見返りとして、日本の善意を求めている。この「請求書」をきちんと支払わなければ、日米関係はどうしようもない問題に直面することになるだろう。この場合の「請求書」はもちろん普天間問題の解決である。この時期に嘉手納統合案が出されたのも、そういうニュアンスで受け取るべきである。
したがって、日本政府はアメリカの善意にこたえるべく、何としてでも普天間問題を解決しなければならず、今回の嘉手納統合案はそのためのサジェスチョンとして見るべきである。議員の提案だから関係ない、というのはアメリカの政府の構造から言っておかしな話である。日本では「政府=行政府」というイメージがあるが、アメリカでは「政府=行政、立法、司法府」を指す。軍事委員会の委員長と重鎮、そして東アジア太平洋州小委員会の委員長が連名で提案した嘉手納統合案を日本政府が一顧だにしないというようなことがあれば、議会は日米関係に影響を与えるようなさまざまなことをやってのける権限を持っている。なので、この「請求書」を無視するということはあり得ない選択である。
果たして民主党政権はアメリカの意図をくみ取ることができるか、それにこたえることができるか。この問題の解決いかんでは、日本の将来を大きく左右する問題にもなりかねない。
要点だけ改めてまとめておくと、嘉手納統合案を出したレビン、マケイン、ウェッブはいずれも議会の大物。日本政府は「立法府の発言だから」といって、当面出方を見るような姿勢を見せていますが、この提案はオバマ大統領と近いウェッブ議員が記者会見を行ったところを見ても、ホワイトハウスとのすり合わせをしていると考えるのが妥当。なのに、日本は「現行案のみ」という立場を明らかにしているので、ちょっとセンスが悪いかな、という気がしています。
今回の嘉手納統合案については、原則賛成。沖縄の問題は生煮えの議論をしてはいけないと思っているが、基本的な考え方としては「消去法的選択」しかないと考えている。優先順位から言うと、まず最悪のシナリオは普天間の固定化。辺野古にしても嘉手納統合案にしても、地元が反対する限り、普天間は必ず残る。それだけは避けるべきである。
次に消去法の対象となるのは県外移設。何といっても沖縄の米軍基地の問題は日本の問題であると同時に、アメリカの問題でもある。動く主体であるアメリカが反対する限り、何も起こらない。アメリカが納得する提案をしなければならないが、グアムにすべて海兵隊の部隊を移すことはアメリカにとって何のメリットもないだけでなく、デメリットばかりである(財政支出も含めて)。なので、県外、国外という選択肢は極めて弱く、結果的に沖縄県内での移設という選択肢しかなくなる。元の文章では、鳩山発言についていろいろと文句をつけ、民主党の「思いつきの大英断」の馬鹿らしさを書いていたが、それは繰り返さない。
消去法で沖縄県内の移設ということになると、候補になりうるのが現行案の辺野古ということになるが、ここも選択肢としてはかなり厳しい。名護市長選以降、現実味がなくなった話であろう。これも鳩山発言で条件が変わってしまったため、2009年以前であれば選択肢としてはありえたが、現在ではもう無理と判断するしかない。
なので、嘉手納統合案は消去法的にいうと一番ハードルが低いと感じている。というのも、これまで嘉手納統合案を否定する理由として乱暴にまとめると(1)空軍と海兵隊が基地をシェアすることを嫌っている、(2)嘉手納町が騒音問題で反対している、(3)沖縄県民感情として県内移設に反対している、ということになろう。
このうち、(3)については、どうしようもない状況なので、(2)と合わせて地元が納得いくオファーをするしかないであろう。それは騒音の軽減など、すでに仲井真知事が条件を出しているが、それらの条件が出てくるということは、事態が前進する芽があるということである。
また、今回は(1)の問題がクリアできそうな予感がある。というのも、そもそも嘉手納案を否定してきたのは米軍であるが、上院軍事委員会の重鎮が嘉手納統合案を提案しているということは、軍のレベルで反対できるような状況ではなくなった、ということが言える。今のところ、ホワイトハウスからのメッセージはなく、ペンタゴンなどは当面現行案を重視するという立場をとっているが、それも不変のものではない。なので、嘉手納統合案の大きなネックであった(1)が解決すれば、その分ハードルは下がる。
普天間の問題を何とか解決するために、ベストの策でないことは明らかだが、Lesser evilという選択で考えていくと嘉手納統合案は有力であろう。
しかし、もうひとつ嘉手納統合案が有力だと思う理由がある。それは、東日本大震災で米軍が「トモダチ作戦」を展開し、アフガニスタン、イラク、リビアと紛争を抱えているにも関わらず、2万の兵力を出し、空母一隻を出して救援活動をしたことは、何にも代えがたい支援であった。これはアメリカの善意からでたものであるが、同時に、それは「タダ」ではない。アメリカとしては、救助、復興支援をした善意の見返りとして、日本の善意を求めている。この「請求書」をきちんと支払わなければ、日米関係はどうしようもない問題に直面することになるだろう。この場合の「請求書」はもちろん普天間問題の解決である。この時期に嘉手納統合案が出されたのも、そういうニュアンスで受け取るべきである。
したがって、日本政府はアメリカの善意にこたえるべく、何としてでも普天間問題を解決しなければならず、今回の嘉手納統合案はそのためのサジェスチョンとして見るべきである。議員の提案だから関係ない、というのはアメリカの政府の構造から言っておかしな話である。日本では「政府=行政府」というイメージがあるが、アメリカでは「政府=行政、立法、司法府」を指す。軍事委員会の委員長と重鎮、そして東アジア太平洋州小委員会の委員長が連名で提案した嘉手納統合案を日本政府が一顧だにしないというようなことがあれば、議会は日米関係に影響を与えるようなさまざまなことをやってのける権限を持っている。なので、この「請求書」を無視するということはあり得ない選択である。
果たして民主党政権はアメリカの意図をくみ取ることができるか、それにこたえることができるか。この問題の解決いかんでは、日本の将来を大きく左右する問題にもなりかねない。
2011年5月13日金曜日
嘉手納統合案はアメリカの「請求書」と心得るべし
ある意味、唐突な感じも受けたが、アメリカ議会の軍事委員会の重鎮である民主党のレビン、共和党のマケイン、そして東アジア太平洋小委員長の民主党のウェブによる普天間基地の嘉手納基地への統合案が提案された(朝日新聞の記事)。
個人的には、この案は最善ではないとしても、もっとも現実的な判断だと考えている。沖縄の米軍基地問題は専門ではないので、あまり深入りしたことは言えないが、とりあえず、この問題を私なりに整理してみたい。
沖縄の問題を考えるのは、どうしても消去法的考え方で整理せざるを得ない。というのも、「理想の解決」をいくら声高に叫んでも、それが現実的な選択として有効でないなら、結局鳩山さんと同じ轍を踏むことになるからである。
なので、まず消去法として考えていくのは沖縄からの米軍基地の完全なる撤退である。もちろん、それは不可能ではない。しかし、現実的とも思えない。米軍再編を進める中で、これだけ巨大なインフラを持つ沖縄を手放す選択をアメリカがするとは思えないからである。米軍再編のポイントは、一言でいえば、バラバラになっている米軍の能力を集約し、効率化するということである。そのためには、大きなところにまとめる、という話になり、西太平洋ではグアムと沖縄、ということになる。また、目の前の中国のことを考えれば、米軍にとって沖縄の重要性は冷戦期以上に高まっているともいえよう。なので、「最低でも県外、国外」というオプションは現実的とは思えない。
では、米軍基地が沖縄に残るということを踏まえて考えると、沖縄と日本にとって最も悪い選択肢は何か、と考えると、普天間の固定化である。「世界一危険な基地」といわれる普天間が存続されることは全く望ましいとは思えない。すでにリスクが高く、沖縄の人々の生活を傷つけているだけでなく、普天間が「悪の米軍」というイメージの象徴になってしまっているレピュテーション・リスクも大きい。したがって、現状維持という選択肢も消去法的に消さなければならない。
普天間の固定化を避けるためには、必ずどこかに普天間の能力を移転させなければならない。辺野古や嘉手納に移すに反対することは、すなわち普天間の固定化につながる(少なくとも、動けない間は暫定的に使い続け、それがいつ終わるか分からない状態になる)。なので、どこかに移すという選択肢しかない、というのが現状であり、第一の消去法的議論から出された結論として、アメリカの意向を無視して決定することができない(むしろ動く主体はアメリカなので、アメリカが納得しない限り、海兵隊は普天間を使い続ける)ので、アメリカが沖縄に基地を維持するということであれば、普天間以外の沖縄県内という選択肢しかなくなってくる。
その中で、現実的な選択肢として残っていたのが辺野古のキャンプ・シュワブに移転させる選択肢である。しかし、これもSACO合意、2006年の合意がありながらも、結局、強い反対に合って、前に進まない状態になっている。この点についてはさまざまな議論がなされており、改めて私がそれを論じても仕方がないので、ここでは割愛するが、少なくとも辺野古に作るということには多少の合理性はあったと思う。海兵隊のキャンプに隣接している飛行場であれば、即応性を問われる海兵隊としては無駄な時間をかけずに出動することができるので、米軍としてもAcceptableであると思われる。日本政府(東京)としても普天間が移設されるということであれば、何らかの手柄になる。沖縄の現地にも補助金や公共事業が発生し、経済的なプラスがある。その意味では、少なくともSACO合意の段階では、何らかの合理性(かなり無理をした結論ではあったと思うが)が成立していたように思える。
しかし、鳩山発言が飛び出し、民主党政権が成立し、そこで新しい未来、つまり米軍基地のない沖縄を想定することができる、という希望が生まれてしまい、そこから状況は大きく変化した。すでに述べたように、沖縄における米軍基地の問題は、日米沖の政治的現実性ではなく、沖縄の現実の問題としての米軍基地問題という議論になってしまい、米軍基地の撤退を求める沖縄と、沖縄から離れることを考えていない米軍、そしてその間を無責任に行き来し、問題を解決できない民主党政権、という構図が出来上がってしまった。それを立証するかのように、ウィキリークスの記事が流れ、民主党政権の無責任さが際立ってしまったため、さらに問題を解決することが難しくなった(ウィキリークスの記事:朝日新聞の特集ページ)。その結果、辺野古への移設は現実的に実現不可能な状況になってしまった(それまでも十分、移設は不可能に近かったと思うが)。
そんな中で、アメリカのサイドから嘉手納統合案が出された意味は大きい。提案したのが大物であるレビン、マケインであるというだけでなく、オバマと関係の深いウェブも提案者として入っており、間違いなくホワイトハウスとすり合わせをしたうえでの提案とみるべきであろう。つまり、行政府の人間が嘉手納統合案を発表するということは、さまざまな意味で差支えがあるため、立法府の人間、しかもかなりのニュースバリューのある人たちが提案するという形にすることで日本に向けてメッセージを送っているものと考えられる。
この提案が、このタイミングで出てきたのは、いろいろな意味があるだろう。一つは、2010年の中間選挙で共和党、とりわけティーパーティーと呼ばれる減税主義者、財政均衡主義者、財政支出削減派の圧力が高まったことがある。米軍再編に伴う様々な支出が困難となり、できるだけ財政支出(軍事支出)を削るという圧力があるなかで、普天間移設の問題を放置しておくわけにはいかない、という状況になってきたことがあるだろう。
しかし、もっと重要なのは、アメリカが日本に対して「請求書」を突き付けてきた、というニュアンスだろう。震災後、米軍はアフガニスタン、イラク、リビアの問題を抱えながら、2万人の部隊と空母を日本に送り、「トモダチ作戦」を展開した。日本人として、この支援を忘れるわけにはいかないが、同時に、これは「無料」ではない。アメリカももちろん善意で派遣していると信じているが、同時に、日本の善意を期待していることも確かだと考えている。つまり、アメリカは日本が今アメリカに対してできる感謝と誠意を見せることを求めていると考えられるのである。
そのため、嘉手納統合案をレビン、マケイン、ウェブが提案し、日本に決断を迫っているのである。とりあえずの日本の対応は、枝野官房長官が「日米合意を遵守する」というものであり、アメリカの意図をきちんと理解しているような発言ではなかったように思われるが、これから大使館やさまざまなチャンネルを使って、アメリカとやり取りしていく中で、アメリカの真意を理解し、その対応に迫られることになるだろう。
嘉手納統合案はこれまで何度も出てきては消えていた案であった。そのひとつの理由は、新しく箱モノを作るわけではないため、うまみが少ない、ということがあるだろう。嘉手納基地を訪れたことがある人はわかると思うが、きわめて広大な敷地があり、新たに建物を建てるといったことはあっても、大規模な開発ではないため、公共事業に伴う利権はあまり発生しない。そのため、嘉手納統合案に熱心にならない政治家もいるだろう。
しかし、嘉手納統合案を阻んでいたのは、米軍内部の問題である。嘉手納は空軍の基地であり、普天間は海兵隊の基地である。空軍が自分たちの場所に海兵隊が来ることをきわめて嫌がっていて、それが嘉手納案を葬っていた理由の一つでもあった。日本からみるとあまりピンとこないかもしれないが、アメリカの四軍(陸、海、空、海兵隊)の関係はあまり良くない、というか、お互いライバル視しており、自分たちの基地、自分たちのテリトリーを荒らされることを好まない。そのため、無駄な重複が多く、米軍再編はそうした重複を減らし、統合運用(陸軍と海軍といった異なる軍種を一つの指揮系統の中で運用すること)を進めていく、という方向性を示している。この統合運用はあくまでも運用、つまり戦地や訓練の時に他の軍種と合わせて行動することを意味しており、彼らの寝床である基地を統合するというところまでは行っていない。それだけに、嘉手納統合案はかなり「アバンギャルド」な案なのである。
しかし、大きな目で見れば、日米関係の問題を解決する上で、米軍内のごちゃごちゃした関係はあまり大きな問題にならない。そのため、嘉手納に統合するというのは、アメリカサイドががんばれば、実現可能性は高い、と考えることができる案だったのである。
もちろん、日本にも嘉手納統合に反対する人たちはいる。地元の嘉手納町は徹頭徹尾反対している。それは当然のことであろう。しかし、嘉手納に反対し続ければ普天間が残る。嘉手納の人々に苦労をかけることが良いのか、普天間を残すことが良いのか。民主党政権はこの「悪魔の選択」をしなければならない状況に追い込まれている。しかし、この「悪魔の選択」を回避する方法はない。東日本大震災であれだけの善意を見せたアメリカに対して、何も答えないことは、日本の将来をかなり危うくする。ゆえに、いよいよ、決着をつけなければいけない時がきたのである。
個人的には、この案は最善ではないとしても、もっとも現実的な判断だと考えている。沖縄の米軍基地問題は専門ではないので、あまり深入りしたことは言えないが、とりあえず、この問題を私なりに整理してみたい。
沖縄の問題を考えるのは、どうしても消去法的考え方で整理せざるを得ない。というのも、「理想の解決」をいくら声高に叫んでも、それが現実的な選択として有効でないなら、結局鳩山さんと同じ轍を踏むことになるからである。
なので、まず消去法として考えていくのは沖縄からの米軍基地の完全なる撤退である。もちろん、それは不可能ではない。しかし、現実的とも思えない。米軍再編を進める中で、これだけ巨大なインフラを持つ沖縄を手放す選択をアメリカがするとは思えないからである。米軍再編のポイントは、一言でいえば、バラバラになっている米軍の能力を集約し、効率化するということである。そのためには、大きなところにまとめる、という話になり、西太平洋ではグアムと沖縄、ということになる。また、目の前の中国のことを考えれば、米軍にとって沖縄の重要性は冷戦期以上に高まっているともいえよう。なので、「最低でも県外、国外」というオプションは現実的とは思えない。
では、米軍基地が沖縄に残るということを踏まえて考えると、沖縄と日本にとって最も悪い選択肢は何か、と考えると、普天間の固定化である。「世界一危険な基地」といわれる普天間が存続されることは全く望ましいとは思えない。すでにリスクが高く、沖縄の人々の生活を傷つけているだけでなく、普天間が「悪の米軍」というイメージの象徴になってしまっているレピュテーション・リスクも大きい。したがって、現状維持という選択肢も消去法的に消さなければならない。
普天間の固定化を避けるためには、必ずどこかに普天間の能力を移転させなければならない。辺野古や嘉手納に移すに反対することは、すなわち普天間の固定化につながる(少なくとも、動けない間は暫定的に使い続け、それがいつ終わるか分からない状態になる)。なので、どこかに移すという選択肢しかない、というのが現状であり、第一の消去法的議論から出された結論として、アメリカの意向を無視して決定することができない(むしろ動く主体はアメリカなので、アメリカが納得しない限り、海兵隊は普天間を使い続ける)ので、アメリカが沖縄に基地を維持するということであれば、普天間以外の沖縄県内という選択肢しかなくなってくる。
その中で、現実的な選択肢として残っていたのが辺野古のキャンプ・シュワブに移転させる選択肢である。しかし、これもSACO合意、2006年の合意がありながらも、結局、強い反対に合って、前に進まない状態になっている。この点についてはさまざまな議論がなされており、改めて私がそれを論じても仕方がないので、ここでは割愛するが、少なくとも辺野古に作るということには多少の合理性はあったと思う。海兵隊のキャンプに隣接している飛行場であれば、即応性を問われる海兵隊としては無駄な時間をかけずに出動することができるので、米軍としてもAcceptableであると思われる。日本政府(東京)としても普天間が移設されるということであれば、何らかの手柄になる。沖縄の現地にも補助金や公共事業が発生し、経済的なプラスがある。その意味では、少なくともSACO合意の段階では、何らかの合理性(かなり無理をした結論ではあったと思うが)が成立していたように思える。
しかし、鳩山発言が飛び出し、民主党政権が成立し、そこで新しい未来、つまり米軍基地のない沖縄を想定することができる、という希望が生まれてしまい、そこから状況は大きく変化した。すでに述べたように、沖縄における米軍基地の問題は、日米沖の政治的現実性ではなく、沖縄の現実の問題としての米軍基地問題という議論になってしまい、米軍基地の撤退を求める沖縄と、沖縄から離れることを考えていない米軍、そしてその間を無責任に行き来し、問題を解決できない民主党政権、という構図が出来上がってしまった。それを立証するかのように、ウィキリークスの記事が流れ、民主党政権の無責任さが際立ってしまったため、さらに問題を解決することが難しくなった(ウィキリークスの記事:朝日新聞の特集ページ)。その結果、辺野古への移設は現実的に実現不可能な状況になってしまった(それまでも十分、移設は不可能に近かったと思うが)。
そんな中で、アメリカのサイドから嘉手納統合案が出された意味は大きい。提案したのが大物であるレビン、マケインであるというだけでなく、オバマと関係の深いウェブも提案者として入っており、間違いなくホワイトハウスとすり合わせをしたうえでの提案とみるべきであろう。つまり、行政府の人間が嘉手納統合案を発表するということは、さまざまな意味で差支えがあるため、立法府の人間、しかもかなりのニュースバリューのある人たちが提案するという形にすることで日本に向けてメッセージを送っているものと考えられる。
この提案が、このタイミングで出てきたのは、いろいろな意味があるだろう。一つは、2010年の中間選挙で共和党、とりわけティーパーティーと呼ばれる減税主義者、財政均衡主義者、財政支出削減派の圧力が高まったことがある。米軍再編に伴う様々な支出が困難となり、できるだけ財政支出(軍事支出)を削るという圧力があるなかで、普天間移設の問題を放置しておくわけにはいかない、という状況になってきたことがあるだろう。
しかし、もっと重要なのは、アメリカが日本に対して「請求書」を突き付けてきた、というニュアンスだろう。震災後、米軍はアフガニスタン、イラク、リビアの問題を抱えながら、2万人の部隊と空母を日本に送り、「トモダチ作戦」を展開した。日本人として、この支援を忘れるわけにはいかないが、同時に、これは「無料」ではない。アメリカももちろん善意で派遣していると信じているが、同時に、日本の善意を期待していることも確かだと考えている。つまり、アメリカは日本が今アメリカに対してできる感謝と誠意を見せることを求めていると考えられるのである。
そのため、嘉手納統合案をレビン、マケイン、ウェブが提案し、日本に決断を迫っているのである。とりあえずの日本の対応は、枝野官房長官が「日米合意を遵守する」というものであり、アメリカの意図をきちんと理解しているような発言ではなかったように思われるが、これから大使館やさまざまなチャンネルを使って、アメリカとやり取りしていく中で、アメリカの真意を理解し、その対応に迫られることになるだろう。
嘉手納統合案はこれまで何度も出てきては消えていた案であった。そのひとつの理由は、新しく箱モノを作るわけではないため、うまみが少ない、ということがあるだろう。嘉手納基地を訪れたことがある人はわかると思うが、きわめて広大な敷地があり、新たに建物を建てるといったことはあっても、大規模な開発ではないため、公共事業に伴う利権はあまり発生しない。そのため、嘉手納統合案に熱心にならない政治家もいるだろう。
しかし、嘉手納統合案を阻んでいたのは、米軍内部の問題である。嘉手納は空軍の基地であり、普天間は海兵隊の基地である。空軍が自分たちの場所に海兵隊が来ることをきわめて嫌がっていて、それが嘉手納案を葬っていた理由の一つでもあった。日本からみるとあまりピンとこないかもしれないが、アメリカの四軍(陸、海、空、海兵隊)の関係はあまり良くない、というか、お互いライバル視しており、自分たちの基地、自分たちのテリトリーを荒らされることを好まない。そのため、無駄な重複が多く、米軍再編はそうした重複を減らし、統合運用(陸軍と海軍といった異なる軍種を一つの指揮系統の中で運用すること)を進めていく、という方向性を示している。この統合運用はあくまでも運用、つまり戦地や訓練の時に他の軍種と合わせて行動することを意味しており、彼らの寝床である基地を統合するというところまでは行っていない。それだけに、嘉手納統合案はかなり「アバンギャルド」な案なのである。
しかし、大きな目で見れば、日米関係の問題を解決する上で、米軍内のごちゃごちゃした関係はあまり大きな問題にならない。そのため、嘉手納に統合するというのは、アメリカサイドががんばれば、実現可能性は高い、と考えることができる案だったのである。
もちろん、日本にも嘉手納統合に反対する人たちはいる。地元の嘉手納町は徹頭徹尾反対している。それは当然のことであろう。しかし、嘉手納に反対し続ければ普天間が残る。嘉手納の人々に苦労をかけることが良いのか、普天間を残すことが良いのか。民主党政権はこの「悪魔の選択」をしなければならない状況に追い込まれている。しかし、この「悪魔の選択」を回避する方法はない。東日本大震災であれだけの善意を見せたアメリカに対して、何も答えないことは、日本の将来をかなり危うくする。ゆえに、いよいよ、決着をつけなければいけない時がきたのである。
2011年5月11日水曜日
なぜ日本は原子力を始めたのか
福島原発の事故以来、原子力政策について様々な議論がなされているが、どうも腑に落ちないというか、誰もはっきり説明していないことがあるような気がしてならない。それは、「なぜ被爆国である日本が、地震多発国である日本が、原子力をやっているのか」ということである。
この話を考えるにあたり、頭を1950年代初頭に戻す必要がある。第二次大戦直後には唯一の核技術=原子力技術の保有国であったアメリカは、当然のことながら、原爆という決定的な兵器となる技術を独占しようとしていた。しかし、1949年にはソ連が原爆実験に成功した。ここから話が大きく展開する。
ソ連の核技術=原子力技術を何とか管理しないと、第三次世界大戦は核戦争となり、世界は破滅するという恐怖が生まれた。そのひとつの答えが「核技術の国際管理」であった。これを提唱したのが、アイゼンハワー政権であり、「Atoms for Peace(核の平和利用)」というコンセプトで、核技術を「平和利用」である発電と、「軍事利用」である核兵器と二つに分け、「平和利用」に限ってどの国でも原子力技術を持つことを認めることを推奨し、世界に広がった核技術を国際機関(これがのちにIAEA、国際原子力機関となる)によって管理し、ソ連の核も含めて国際的に管理する、という仕組みを作ろうとした。
これに乗っかる形で日本に原子力を導入しようとしたのが、当時若手の政治家であった中曽根康弘とその友人であった正力松太郎(読売新聞社主)であった。そこで、日本は日米原子力協定を結び、総理府に原子力局を作る(のちに科学技術庁となる)。中曽根、正力といった名前を見ればある程度想像がつくであろうが、日本が原子力を導入するのは「平和利用」だけに限って利用するということだけが目的ではなかったといえよう。彼らは「Atoms for Peace」を絶好のチャンスととらえ、「平和利用」を前面に押し出し、日本が核技術を手にすることで、実際に「軍事利用」せずとも、「潜在的な抑止力」を手に入れることができる、と考えたと思われる。
ところが、この日米原子力協定が結ばれた1955年というのは、ビキニ環礁の水爆実験で第五福竜丸が被曝した事件と同じ年である。なので、この年に原子力基本法が定められ、そこでは「民主、自主、公開」という原則を付し、密室で「平和利用」の技術を「軍事利用」できないように歯止めをかけようとしたのである。
当然、「平和利用」であっても、原子力を導入することに反対する勢力は強かった。1950年代というと、1960年安保に向かっていく、左翼運動のもっとも盛り上がっていた時期であり、原子力の導入を阻止するという意味では一番チャンスがあったように思われる。しかし、それは結果的に実現せず、原子力の導入はその後ずるずると続き、現在にいたっている。
その背景には、当時の高度経済成長期において、増大する電力需要を賄うためには、外国に依存する石油による火力発電だけでは十分ではなく、独自のエネルギーを持つ必要がある、という認識が強かったからであった。また、当時の「科学技術」に対する絶対的な信念というか、日本の経済成長を支えるものは科学技術であるという無条件の承認があったように思われる。当時、「平和利用」としての原子力技術の目標は高速増殖炉(現在、トラブル続きで動いていない「もんじゅ」で実験されている)であり、この当時「夢のエネルギー」と言われていた(今でもそう言っている人は多い)。1964年にオリンピックを開催し、東海道新幹線が「夢の超特急」と呼ばれ、首都高が整備されている時代、原子力に対しても、ある種の盲目的な信頼があったと思われる。
そうした一般の認識が、反原発の運動を制約し、反原発がある種の「イデオロギー的ゲットー」に閉じ込められてしまったことに問題がある。これまで述べてきたように、こうしてイデオロギー的なコーナーに追い込まれた反原発運動は、より純化し、原発推進派と対話することができなくなっていった。その結果、原子力の導入が「多数決」によって進められ、イデオロギー的に純化した反原発運動が自己主張をしても多数決の数の力の前に無力化され、現実的な政策論議をすることができなくなっていってしまった。
こうした歴史的な流れがあって、現在の福島第一原発に至っている。そこには「被爆国」や「地震多発国」である日本で原子力をやることのまともな議論がなかったことを示している。こうした歴史的なコンテキストが、後々の原子力の政策論議の欠如をもたらし、外国からみると理解できないような原子力政策を紡ぎだしていったのである。
この話を考えるにあたり、頭を1950年代初頭に戻す必要がある。第二次大戦直後には唯一の核技術=原子力技術の保有国であったアメリカは、当然のことながら、原爆という決定的な兵器となる技術を独占しようとしていた。しかし、1949年にはソ連が原爆実験に成功した。ここから話が大きく展開する。
ソ連の核技術=原子力技術を何とか管理しないと、第三次世界大戦は核戦争となり、世界は破滅するという恐怖が生まれた。そのひとつの答えが「核技術の国際管理」であった。これを提唱したのが、アイゼンハワー政権であり、「Atoms for Peace(核の平和利用)」というコンセプトで、核技術を「平和利用」である発電と、「軍事利用」である核兵器と二つに分け、「平和利用」に限ってどの国でも原子力技術を持つことを認めることを推奨し、世界に広がった核技術を国際機関(これがのちにIAEA、国際原子力機関となる)によって管理し、ソ連の核も含めて国際的に管理する、という仕組みを作ろうとした。
これに乗っかる形で日本に原子力を導入しようとしたのが、当時若手の政治家であった中曽根康弘とその友人であった正力松太郎(読売新聞社主)であった。そこで、日本は日米原子力協定を結び、総理府に原子力局を作る(のちに科学技術庁となる)。中曽根、正力といった名前を見ればある程度想像がつくであろうが、日本が原子力を導入するのは「平和利用」だけに限って利用するということだけが目的ではなかったといえよう。彼らは「Atoms for Peace」を絶好のチャンスととらえ、「平和利用」を前面に押し出し、日本が核技術を手にすることで、実際に「軍事利用」せずとも、「潜在的な抑止力」を手に入れることができる、と考えたと思われる。
ところが、この日米原子力協定が結ばれた1955年というのは、ビキニ環礁の水爆実験で第五福竜丸が被曝した事件と同じ年である。なので、この年に原子力基本法が定められ、そこでは「民主、自主、公開」という原則を付し、密室で「平和利用」の技術を「軍事利用」できないように歯止めをかけようとしたのである。
当然、「平和利用」であっても、原子力を導入することに反対する勢力は強かった。1950年代というと、1960年安保に向かっていく、左翼運動のもっとも盛り上がっていた時期であり、原子力の導入を阻止するという意味では一番チャンスがあったように思われる。しかし、それは結果的に実現せず、原子力の導入はその後ずるずると続き、現在にいたっている。
その背景には、当時の高度経済成長期において、増大する電力需要を賄うためには、外国に依存する石油による火力発電だけでは十分ではなく、独自のエネルギーを持つ必要がある、という認識が強かったからであった。また、当時の「科学技術」に対する絶対的な信念というか、日本の経済成長を支えるものは科学技術であるという無条件の承認があったように思われる。当時、「平和利用」としての原子力技術の目標は高速増殖炉(現在、トラブル続きで動いていない「もんじゅ」で実験されている)であり、この当時「夢のエネルギー」と言われていた(今でもそう言っている人は多い)。1964年にオリンピックを開催し、東海道新幹線が「夢の超特急」と呼ばれ、首都高が整備されている時代、原子力に対しても、ある種の盲目的な信頼があったと思われる。
そうした一般の認識が、反原発の運動を制約し、反原発がある種の「イデオロギー的ゲットー」に閉じ込められてしまったことに問題がある。これまで述べてきたように、こうしてイデオロギー的なコーナーに追い込まれた反原発運動は、より純化し、原発推進派と対話することができなくなっていった。その結果、原子力の導入が「多数決」によって進められ、イデオロギー的に純化した反原発運動が自己主張をしても多数決の数の力の前に無力化され、現実的な政策論議をすることができなくなっていってしまった。
こうした歴史的な流れがあって、現在の福島第一原発に至っている。そこには「被爆国」や「地震多発国」である日本で原子力をやることのまともな議論がなかったことを示している。こうした歴史的なコンテキストが、後々の原子力の政策論議の欠如をもたらし、外国からみると理解できないような原子力政策を紡ぎだしていったのである。
2011年5月8日日曜日
エコはどうなる?電気自動車はどうなる?
一昨日、菅首相は唐突に中部電力の浜岡原発の停止を要請することを発表した。大地震が発生する確率の高い場所にある原発を停止するというのはリスク管理の考え方からすれば当然のことなので、その決定自体は違和感もなく、納得のいくものである。一部には「大英断」という評価をする向きもあるが、これは英断というよりも「常識」の部類に入る話であろう。
それはともかく、福島第一原発の事故以降、気になっていることが一つある。それは、原発による発電がなくなり、休眠中の火力発電所の再開やガスタービン発電などの導入が積極的に行われている点である。揚水発電なども導入される予定だが、この揚水発電も、もともとは火力発電所で作られた電気を、使用の少ない夜間に使って水をポンプでくみ上げ、電力需要の高い時間帯に水を落としてタービンを回して発電するというものだから、電気エネルギーを使って位置エネルギーを獲得しているだけであり、火力発電の量が減るわけではない。
となると、これまで地球温暖化の「悪者」として見られてきた火力発電が、今後の電力供給の中心になっていくということになる。果たして、それはどういう問題を抱えることになるのだろうか。
第一に、民主党政権が掲げた「1990年に比べて温室効果ガスを25%削減する」という公約は確実に破棄されることになるだろう。すでに京都議定書の第一約束期間(2012年まで)に6%の温室効果ガス削減を約束しているにも関わらず、現時点で1990年に比べて7%も増えている(つまり差引13%も約束を破っている)ことを考えると、25%という数字は現実的ではない。さらに、民主党政権が目指してきた目標を達成するためには、原子力発電を圧倒的に進めていくという政策が柱としてありました。エネルギー基本計画では2020年までに9基、2030年までに14基の原子炉の新規建設が計画されており、再生可能エネルギー(太陽光発電など)は2020年までに10%程度にするとは言っていますが、基本的には原発に寄りかかった計画になっています(平成22年度エネルギー基本計画)。しかし、すでに被災して停止している福島第一、第二、女川原発に加え、浜岡原発の停止は明らかに原発に依存した温室効果ガスの削減にマイナスになっているほか、不足している電力を火力発電によってカバーするということになると、温室効果ガスの排出はさらに増加することになり、とてもではありませんが、25%削減などは不可能になります。
これは日本だけの問題だけでなく、世界的にそうした問題に直面しています。ドイツやイタリアだけでなく、世界的に反原発の運動が進んでいくと、原発を止める代わりに火力発電を推進するという話になっていくので、結果として温室効果ガスはどんどん排出され、温暖化は進むということになるでしょう。まあ、要は原発のリスクをとるか、温暖化のリスクをとるか、ということになってくるわけですが、その温暖化のリスクのほうがリスクとして小さい(または意識しにくい)ので、後回しになっているということなのだろうと思います。
さて、そうなると、どのようなエネルギー政策を進めるべきか、という問題がこれから出てくると思います。一つは無理やりにでも原発を推進し、温暖化を止めようという動きがあり得ます。アメリカのオバマ政権やフランスはそうした立場をとっています。つまり、今回の福島第一原発の問題は日本の問題であり、自分の国ではそうしたリスクは大きくないと考えている場合、こういう判断になるのだと思います。もうひとつは、再生可能エネルギーの割合をどんどん増やしていくべきだ、という考え方です。これは一番「正しい」議論ではありますが、再生可能エネルギーのコストはいまだに高く、それを実用に足るレベルに引き下げるまで国家が補助し続けるというのはかなりの財政負担になります。それができる国というのは極めて限られており、再生可能エネルギーを積極的に使っているアイスランド(火山があるので地熱発電が盛ん)やデンマーク(風力発電が盛ん)といった、比較的小さな国や人口が少ない国では可能であっても、日本のような国では難しいだろうと思います。三つ目の考え方は、電力の消費を極力少なくしていくということです。すでに東京電力管内では、かなり節電の努力がなされ、明るすぎた東京の街がかなり暗くなったり、エスカレーターが止まっていたりする光景はすでに見慣れてきた感があります。これでもまだまだ電力消費が減ったとは言い難いところはありますが、火力発電を減らし、再生可能エネルギーだけで何とかなるほどの省エネというのは非常に大変だろうと思います。
この点から敷衍して考えると、電気自動車がどうなるのか、ということについても気になっています。これまで電気自動車(EV)は地球温暖化のホープとして見られており、ガソリンを燃焼しないので、温室効果ガスを発生させない、ということが期待されていたわけですが、その基本には、「原発で発電した電気を使った電気自動車であれば、発電のCO2もガソリン燃焼のCO2も発生しない」という考え方があったのだと思います。
しかし、結局、車を走らせるエネルギーが火力発電によって作られたものであるとすれば、結果的にCO2の排出にはそれほど大きな効果がないのではないか、という問題が出てきます(実際はガソリン燃焼の分が大きかったので、それが減る分は大きいのですが)。それ以上に問題となるのは、電力不足の中で、電気自動車を走らせるための電気が十分得られるのか、ということがあります。電気自動車の普及がまだ進んでいないこともあり、電気自動車向けの電力需要はそれほど大きくないので、大きな問題にはなっていませんが、電気自動車が普及していくと、この辺もどうなっていくのか、気になるところです。
ただ、スマートグリッドといわれる、新たな電力需給管理の仕組みでは、電気自動車を「大きな蓄電池」として考え、太陽光発電などで生んだ電気を自動車の中にため込み、夜はそこから電気を取り出して使う、といったことが考えられてきました。そうなると、電気自動車は大きな蓄電池という位置づけとなり、新しい電力事情の中で、新しい役割を担うことになります。ただ、残念ながら、現在の電気自動車は電気をため込むことはできても、ためた電気を引き出す仕組みというのが整っていないので、そこをどうするのか、という技術的な課題が生まれてきます。
いずれにしても、当面は火力発電に依存する限り、温暖化問題は脇に追いやられていくことは間違いないでしょう。その間、再生可能エネルギーへのシフトを進めると同時に、スマートグリッドを実用化し、電気自動車を「大きな蓄電池」として活かしながら、節電が当たり前となるようなライフスタイルを確立していく、ということが求められるのだろうと思います。
残念ながら、菅首相が浜岡原発を停止するという発言をした時、こうしたビジョンを持って話をしていたとはちょっと考えにくく、なんとなく目の前に浜岡原発の問題があるから、それについてとりあえず停止を要請した、という風にしか見えませんでした。浜岡原発を止めることには異論はありませんが、それにしても、近視眼的というか、場当たり的というか、ビジョンのなさというか、そういうところが目に付いてしまい、良いニュースであるのにもかかわらず、残念な思いです。
それはともかく、福島第一原発の事故以降、気になっていることが一つある。それは、原発による発電がなくなり、休眠中の火力発電所の再開やガスタービン発電などの導入が積極的に行われている点である。揚水発電なども導入される予定だが、この揚水発電も、もともとは火力発電所で作られた電気を、使用の少ない夜間に使って水をポンプでくみ上げ、電力需要の高い時間帯に水を落としてタービンを回して発電するというものだから、電気エネルギーを使って位置エネルギーを獲得しているだけであり、火力発電の量が減るわけではない。
となると、これまで地球温暖化の「悪者」として見られてきた火力発電が、今後の電力供給の中心になっていくということになる。果たして、それはどういう問題を抱えることになるのだろうか。
第一に、民主党政権が掲げた「1990年に比べて温室効果ガスを25%削減する」という公約は確実に破棄されることになるだろう。すでに京都議定書の第一約束期間(2012年まで)に6%の温室効果ガス削減を約束しているにも関わらず、現時点で1990年に比べて7%も増えている(つまり差引13%も約束を破っている)ことを考えると、25%という数字は現実的ではない。さらに、民主党政権が目指してきた目標を達成するためには、原子力発電を圧倒的に進めていくという政策が柱としてありました。エネルギー基本計画では2020年までに9基、2030年までに14基の原子炉の新規建設が計画されており、再生可能エネルギー(太陽光発電など)は2020年までに10%程度にするとは言っていますが、基本的には原発に寄りかかった計画になっています(平成22年度エネルギー基本計画)。しかし、すでに被災して停止している福島第一、第二、女川原発に加え、浜岡原発の停止は明らかに原発に依存した温室効果ガスの削減にマイナスになっているほか、不足している電力を火力発電によってカバーするということになると、温室効果ガスの排出はさらに増加することになり、とてもではありませんが、25%削減などは不可能になります。
これは日本だけの問題だけでなく、世界的にそうした問題に直面しています。ドイツやイタリアだけでなく、世界的に反原発の運動が進んでいくと、原発を止める代わりに火力発電を推進するという話になっていくので、結果として温室効果ガスはどんどん排出され、温暖化は進むということになるでしょう。まあ、要は原発のリスクをとるか、温暖化のリスクをとるか、ということになってくるわけですが、その温暖化のリスクのほうがリスクとして小さい(または意識しにくい)ので、後回しになっているということなのだろうと思います。
さて、そうなると、どのようなエネルギー政策を進めるべきか、という問題がこれから出てくると思います。一つは無理やりにでも原発を推進し、温暖化を止めようという動きがあり得ます。アメリカのオバマ政権やフランスはそうした立場をとっています。つまり、今回の福島第一原発の問題は日本の問題であり、自分の国ではそうしたリスクは大きくないと考えている場合、こういう判断になるのだと思います。もうひとつは、再生可能エネルギーの割合をどんどん増やしていくべきだ、という考え方です。これは一番「正しい」議論ではありますが、再生可能エネルギーのコストはいまだに高く、それを実用に足るレベルに引き下げるまで国家が補助し続けるというのはかなりの財政負担になります。それができる国というのは極めて限られており、再生可能エネルギーを積極的に使っているアイスランド(火山があるので地熱発電が盛ん)やデンマーク(風力発電が盛ん)といった、比較的小さな国や人口が少ない国では可能であっても、日本のような国では難しいだろうと思います。三つ目の考え方は、電力の消費を極力少なくしていくということです。すでに東京電力管内では、かなり節電の努力がなされ、明るすぎた東京の街がかなり暗くなったり、エスカレーターが止まっていたりする光景はすでに見慣れてきた感があります。これでもまだまだ電力消費が減ったとは言い難いところはありますが、火力発電を減らし、再生可能エネルギーだけで何とかなるほどの省エネというのは非常に大変だろうと思います。
この点から敷衍して考えると、電気自動車がどうなるのか、ということについても気になっています。これまで電気自動車(EV)は地球温暖化のホープとして見られており、ガソリンを燃焼しないので、温室効果ガスを発生させない、ということが期待されていたわけですが、その基本には、「原発で発電した電気を使った電気自動車であれば、発電のCO2もガソリン燃焼のCO2も発生しない」という考え方があったのだと思います。
しかし、結局、車を走らせるエネルギーが火力発電によって作られたものであるとすれば、結果的にCO2の排出にはそれほど大きな効果がないのではないか、という問題が出てきます(実際はガソリン燃焼の分が大きかったので、それが減る分は大きいのですが)。それ以上に問題となるのは、電力不足の中で、電気自動車を走らせるための電気が十分得られるのか、ということがあります。電気自動車の普及がまだ進んでいないこともあり、電気自動車向けの電力需要はそれほど大きくないので、大きな問題にはなっていませんが、電気自動車が普及していくと、この辺もどうなっていくのか、気になるところです。
ただ、スマートグリッドといわれる、新たな電力需給管理の仕組みでは、電気自動車を「大きな蓄電池」として考え、太陽光発電などで生んだ電気を自動車の中にため込み、夜はそこから電気を取り出して使う、といったことが考えられてきました。そうなると、電気自動車は大きな蓄電池という位置づけとなり、新しい電力事情の中で、新しい役割を担うことになります。ただ、残念ながら、現在の電気自動車は電気をため込むことはできても、ためた電気を引き出す仕組みというのが整っていないので、そこをどうするのか、という技術的な課題が生まれてきます。
いずれにしても、当面は火力発電に依存する限り、温暖化問題は脇に追いやられていくことは間違いないでしょう。その間、再生可能エネルギーへのシフトを進めると同時に、スマートグリッドを実用化し、電気自動車を「大きな蓄電池」として活かしながら、節電が当たり前となるようなライフスタイルを確立していく、ということが求められるのだろうと思います。
残念ながら、菅首相が浜岡原発を停止するという発言をした時、こうしたビジョンを持って話をしていたとはちょっと考えにくく、なんとなく目の前に浜岡原発の問題があるから、それについてとりあえず停止を要請した、という風にしか見えませんでした。浜岡原発を止めることには異論はありませんが、それにしても、近視眼的というか、場当たり的というか、ビジョンのなさというか、そういうところが目に付いてしまい、良いニュースであるのにもかかわらず、残念な思いです。
2011年5月5日木曜日
不気味な沈黙
昨日の朝日新聞でウィキリークスが暴露した米国公電の記事が掲載された(朝日新聞の特集コーナー)。自民党政権の末期と民主党政権の初期(つまり麻生政権と鳩山政権)を中心とした駐東京米国大使館からの公電が主なものであり、沖縄・普天間基地に関するものや、民主党政権に関するものが解説されている。
いずれ出てくるものだろうと思っていたので、ウィキリークスの公電が出てきたことには驚かなかった。公電の中身についても、ある程度想像できる範囲の話であり、その意味ではスクープ感はあまり強くなかった。民主党政権の発言がバラバラでブレまくっていることは、すでに良く知られていたことだし、自民党政権時代に何とか密約で問題を解決しようとしてきたのも、かなり想像できる。嘉手納統合案も早いうちから岡田外務大臣(当時)が明らかにしていたので、珍しいというものではなかった。
ただ、今回の朝日新聞の報道に対し、驚きというか、気になることが何点かある。そのひとつは、朝日新聞が原文を紹介していない、ということである。ウェブには日本語訳は出ているが、原文へのリンクなどがまったくない。ウィキリークスと協力する欧米のメディアはウェブ版では必ず原文を載せている。朝日新聞の翻訳能力を信頼するとしても、やはり原文を掲載しなければ、朝日新聞の解釈の入った情報だけで議論せねばならず、どうも居心地が悪い。
もうひとつ、気になる点は、ほとんどのメディアが朝日新聞の「スクープ」をスルーしていることである。確かに、他社の特ダネを後追いするのもなんだし、現在進行中の話ではないので、後追いをする必要はないとしても、どうもこの沈黙が不気味だ。特に、朝日新聞系列のテレビ朝日でほとんど扱われておらず、『報道ステーション』でも一言も触れられていなかった点は疑問が残る。翌日(今日)の新聞でも読売新聞が記事にしていたが、日経新聞は一切触れていなかった(それ以外の新聞は確認していないが、ウェブ版で見る限り毎日新聞は比較的詳細にフォローしているが、産経新聞は一切触れていない)。
ウィキリークスの情報をどう見るかについては、いまだに論争があり、それを丸ごと信頼するのにもためらいがある。しかし、こうした記事が出たことで、日米関係や沖縄問題がどう変化するか、ということについては検討する価値があると思われる。しかし、記事そのものが「朝日新聞の勝手にやっていること」というところに閉じ込められてしまうと、議論がゆがんだものになってしまいそうな気がする。
なんとなく、今回朝日新聞が抜いたウィキリークスの公電そのものを無視し、なかったことにしてしまおうという流れができているような気がする。確かに、震災関連のニュースやオサマ・ビン・ラディンの殺害など、ニュースの価値の高い話は無数にあり、この時期に朝日新聞がウィキリークスの記事を出すのもよくわからないが、なかったことにしてしまうような記事ではないような気がしている。少なくとも、将来、日米関係を研究する歴史家が30年後にやるであろう仕事を、今できる、ということだけでも意味があるような気がする。歴史家の人たちからの声が聞きたいところだが、その第一人者は復興構想会議でお忙しそうなので、いずれ誰かが発言するのではないかと期待している。
いずれ出てくるものだろうと思っていたので、ウィキリークスの公電が出てきたことには驚かなかった。公電の中身についても、ある程度想像できる範囲の話であり、その意味ではスクープ感はあまり強くなかった。民主党政権の発言がバラバラでブレまくっていることは、すでに良く知られていたことだし、自民党政権時代に何とか密約で問題を解決しようとしてきたのも、かなり想像できる。嘉手納統合案も早いうちから岡田外務大臣(当時)が明らかにしていたので、珍しいというものではなかった。
ただ、今回の朝日新聞の報道に対し、驚きというか、気になることが何点かある。そのひとつは、朝日新聞が原文を紹介していない、ということである。ウェブには日本語訳は出ているが、原文へのリンクなどがまったくない。ウィキリークスと協力する欧米のメディアはウェブ版では必ず原文を載せている。朝日新聞の翻訳能力を信頼するとしても、やはり原文を掲載しなければ、朝日新聞の解釈の入った情報だけで議論せねばならず、どうも居心地が悪い。
もうひとつ、気になる点は、ほとんどのメディアが朝日新聞の「スクープ」をスルーしていることである。確かに、他社の特ダネを後追いするのもなんだし、現在進行中の話ではないので、後追いをする必要はないとしても、どうもこの沈黙が不気味だ。特に、朝日新聞系列のテレビ朝日でほとんど扱われておらず、『報道ステーション』でも一言も触れられていなかった点は疑問が残る。翌日(今日)の新聞でも読売新聞が記事にしていたが、日経新聞は一切触れていなかった(それ以外の新聞は確認していないが、ウェブ版で見る限り毎日新聞は比較的詳細にフォローしているが、産経新聞は一切触れていない)。
ウィキリークスの情報をどう見るかについては、いまだに論争があり、それを丸ごと信頼するのにもためらいがある。しかし、こうした記事が出たことで、日米関係や沖縄問題がどう変化するか、ということについては検討する価値があると思われる。しかし、記事そのものが「朝日新聞の勝手にやっていること」というところに閉じ込められてしまうと、議論がゆがんだものになってしまいそうな気がする。
なんとなく、今回朝日新聞が抜いたウィキリークスの公電そのものを無視し、なかったことにしてしまおうという流れができているような気がする。確かに、震災関連のニュースやオサマ・ビン・ラディンの殺害など、ニュースの価値の高い話は無数にあり、この時期に朝日新聞がウィキリークスの記事を出すのもよくわからないが、なかったことにしてしまうような記事ではないような気がしている。少なくとも、将来、日米関係を研究する歴史家が30年後にやるであろう仕事を、今できる、ということだけでも意味があるような気がする。歴史家の人たちからの声が聞きたいところだが、その第一人者は復興構想会議でお忙しそうなので、いずれ誰かが発言するのではないかと期待している。
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