2019年2月23日土曜日

First man


静かな映画だった。宇宙開発映画にありがちなヒーローストーリーも、アメリカの栄光もなく(月面に星条旗を立てるシーンがないことは保守派から批判された)、ただ人類最初に月面に降り立った人物が亡くなった娘を思う父親であり、徹頭徹尾エンジニアであった人物であることが描かれていた。

派手なBGMもなく、時折大音量で流れてくるのはアームストロングの聞いていたロケットの爆音だけ。宇宙映画にありがちな過剰なまでのジャーゴンを詰め込んだ無線交信も最小限に抑えられ、あくまでもアームストロングの主観で描かれた映画である。

カメラワークも手持ちカメラの映像が多く、アームストロングの主観と心情の不安定さを描き出す演出になっていた。メディア露出が苦手で、記者との受け答えが嫌いなアームストロングの雰囲気をライアン・ゴスリングは見事に演じていた。

他方、メディア露出が好きなバズ・オルドリンは道化のように描かれ、アームストロングとの関係の悪さ(宇宙飛行士たちとの関係の悪さ)も表現していて、これもオルドリン好きの多い保守派の反発を買う一役を担っているのだろう。

ケネディのライス大学の演説は綺麗に描かれているのに、ホワイトハウスや政治家は宇宙開発よりも世論やメディアを気にする存在として描かれているのもリアリティがある。

こういう言い方が適切かどうかはわからないが、この映画は変なギミックを含まない、等身大の宇宙開発を表現しようとした映画だと思った。宇宙飛行士の悩み、家族の不安、自己顕示欲、任務遂行の義務感、職人気質な不器用さなど、綺麗事ではない宇宙開発の姿を描こうとしている。

タイミングとしては、NASAが月ゲートウェイ構想を打ち出し、21世紀の現在、また月に戻るということは何を意味するのかを改めて考える上で参考になる映画だと思う。ただ、この映画はあくまでも1960年代の話であり、ソ連と競争し、初の月面着陸に意味があったときのこと。

果たしてソ連が存在せず、初ではない月探査にどこまでの意味があるのか。その意味を考える上でも等身大の、あるがままの宇宙開発の現場の姿を見ておく必要はあるだろう。

2017年12月23日土曜日

中国のCGTN (China Global TV Network)での質問と回答

だいぶ久しぶりにブログを更新します。最近、ForesightやNewsweek、文春オンラインやJanetといったウェブ媒体に書く機会が増えたので、なかなかブログに書く時間がなくて恐縮です。

2017年の年の瀬でクリスマスの直前なのに、中国のCGTNから出演の依頼があったので、スカイプで出る事になりました。たぶんやり取りする時間は3分間くらいなので、言いたいことも言えないと思いますが、とりあえず、先方から来た質問とそれに対する私の回答を書いておきます。中国側がどんな関心を持っているかの参考にもなるかと思います。

本日(2017年12月23日)日本時間20:00からの番組で放送予定です。ライブはオンラインで試聴出来ます。https://www.cgtn.com/channel/en.do

Q1: Some experts think that the Abe administration is using the DPRK  threat as leverage to upgrade its defense system and expand the country's military power.  What's your take on Abe's intention? 

You may call it "leverage", but there is a genuine fear among Japanese people to do something for preventing DPRK's missile.  The sound of J-Alert is scary for most of people.  Japan has pledged not to repeat the atrocity of Hiroshima and Nagasaki, but we don't have means to deter DPRK's nuclear missiles.  So the best effort is to shoot them down. 

Also, there is a pressure from the United States to buy more armaments.  Japan needs to strengthen the alliance especially when the leader of the ally is so unpredictable as President Trump.  We need to make sure that the US is committed to defend Japan, otherwise we would not have assured deterrence against DPRK. 

For these two reasons, it is widely accepted to increase the spending on missile defense system such as Aegis Ashore.  I don't think it is unilateral push from the Abe Administration.  It is a government response to the demand from its own people and the US pressure.

Introducing long-range missile may be a step beyond traditional defense policy of Japan, but many Japanese feel that we don't want to DPRK and China to take advantage of the lack of Japanese offensive capability.  The government explains that the long-range missile is still a "defensive weapons" because Japanese government defines that ballistic missile, strategic bombers, and aircraft carriers are the offensive weapons to attack other countries.  So the air-to-surface missile or cruise missiles are not defined as offensive weapons.

Q2: The increase in Japan's defense spending can worsen regional tensions. Some experts suggest stepping back rather than building up the country's arms. What's your take on this? 

I think it is quite the opposite.  Deterrence needs credibility.  If Japan does not have its deterring capabilities, it won't make a credible threat to DPRK.  Since Japan does not have capability to strike DPRK's soil and it does not have intention to do so, the only possible deterrence is the deterrence by denial, which means that DPRK's missile attack on Japan will be useless because we shoot them down.  If there is a belief that DPRK's missile will be shot down by Japanese missile defense, then it would increase the cost for DPRK to attack Japan. 

This deterrence by denial capability, together with the US and South Korean forces, will constitute the deterring capability for DPRK to refrain from taking first strike.  Thus, it is reasonable for Japan to increase defense budget especially on missile defense.

本日(2017年12月23日)日本時間20:00からの番組で放送予定です。ライブはオンラインで試聴出来ます。https://www.cgtn.com/channel/en.do

2016年12月13日火曜日

宇宙開発は六次産業化を目指せ

先日、ある取材を受けている最中に出てきたアイディアだが、なかなか面白い思いつきだと思ったので、少しここにメモを残しておきたい。本当ならどこかに論文なり記事として出すべきものだが、こういうことは先にブログに書いて、アイディアの発展形成過程を可視化しておく方が良いのではないかと思っている。

このアイディアは北海道における宇宙開発についての取材の中で思いついたものだが、日本全体にも敷衍出来る話だと考えている。

そのアイディアとは「宇宙の六次産業化」である。「六次産業化」という言葉はよく農業の付加価値を高めるための施策として使われる言葉である。とりわけ北海道ではこれまで広大な土地を活用して農産物を作ってきたが、「一次産業」としての農業でとどまっており、付加価値が低い状態で農産物を出荷するだけでは北海道経済に貢献しない、これからは農産物の加工(二次産業)と、レストランなどを通じた販売(三次産業)を展開し、一次産業+二次産業+三次産業で六次産業化していくべきだ、という議論がよくなされる。

これを宇宙産業に置き換えると、打上げ射場や地上局などのインフラは不可欠ではあるが、それ自体が生む付加価値は小さい「一次産業」であり、次いでロケットや衛星の開発・製造という「二次産業」があり、さらには衛星を使った様々なサービスの提供という「三次産業」がある。これらがバラバラで存立していれば、互いに付加価値を高めることはできず、例えば北海道の大樹町で進められているロケット射場の整備だけでは、町の発展に充分寄与することはできず、二次産業であるロケットの製造(現在は小型ロケットの開発拠点がある)に加え、三次産業である衛星を使ったサービスの提供というところまで行かなければならない、ということになる。

これは現在の日本の宇宙産業全体にも当てはまる問題設定と言えるかもしれない。これまで日本の宇宙開発は、ロケット・衛星の技術開発を中心に進められており、ある意味では「二次産業中心型」の宇宙開発を行ってきた(詳細は拙著『宇宙開発と国際政治』第六章などを参考にしてください)。そのため一次産業の射場は整備はするものの、あくまでも「二次産業のおまけ」のような扱いであり、三次産業となるサービス部門はスカパーJSATのような衛星放送サービスなどが育ったとはいえ、様々な理由から二次産業と三次産業が連携した開発を進めてきたわけではなかった。その点では日本の宇宙開発は「二次産業中心型」であり、「六次産業化」に向かうポテンシャルは低かったように思える。

しかし、現在の世界の宇宙開発は大きく変わりつつある。リチャード・ブランソン率いるヴァージン・ギャラクティックは弾道飛行による無重力体験が出来るという「三次産業中心型」の開発を進めているし、GoogleはSkybox(現Terra Bella)という会社を買収してリアルタイムでGoogle Earthのサービスを展開するという「三次産業中心型」の宇宙産業を目指している。この中でカギとなるのは小型衛星の開発とそれらを結びつけるコンステレーションという概念だ。コンステレーションとは、複数の衛星を同時に制御し、それらを結びつけて運用することで全地球的なサービスを展開するという技術である。しかも小型衛星の技術が普及することでそのコストが下がっており、こうした民間主導の「三次産業中心型」の宇宙開発が進むようになってきた。

こうしたグローバルなトレンドの中、北海道における宇宙開発を考える際に重要なのは、北海道には大樹町という「一次産業」を提供する場があり、そこでインターステラテクノロジズなどがロケットを作るという「二次産業」を誘致するところまでは来たが、そこから「三次産業中心型」となる、衛星を活用したサービスを提供する企業を集めるところにある。インターステラテクノロジズは小型衛星を打ち上げるための小型ロケットの開発を進めており、その小型衛星を複数機結び付け、コンステレーションとして運用することでサービスを展開する企業にとっては大変ありがたいロケットである。というのも、小型衛星はこれまで大型ロケットに相乗りさせてもらうか、無理やり国際宇宙ステーションから放出するといった方法でしか軌道に投入することが出来ず、望んだ軌道に投入したり、望んだ時期に打ち上げることが難しかったりする。ロシアなどの小型ロケットを使う場合もあるが、それらを利用できる機会は限られている。そのため、小型衛星打ち上げに特化したインターステラテクノロジズのロケットなどは、「三次産業中心型」のサービスを提供する企業にも有益なものである。

それらの企業を集め、大樹町の射場を軸に、小型ロケットと小型衛星の開発を進め、その衛星を使ってサービスを提供することで「六次産業化」していくことが可能となり、北海道が「六次産業化」した宇宙開発の一大拠点になるという可能性すら秘めていると考えている。

新しい時代の流れの中で、これまでの「二次産業中心型」の宇宙開発から「六次産業化」していくことは、ちょうど農業が「一次産業」から「六次産業化」していくこととパラレルな現象だと思う。この流れをつかめるかどうかは、大樹町を始め、関係者が「六次産業化」を目標とし、一次産業としての射場の整備を進め、二次産業に必要な電力や設備を整備し、三次産業が求めるインフラを整えていくことであろう。それが北海道の次世代の経済を担っていくことを期待したい。

2016年9月22日木曜日

「ガラパゴス恐怖症」

先日、ある宇宙システム関連の会議に出席した。具体的な内容は詳細に示すことが出来ないが、その中で宇宙システムの開発を進める際に「ガラパゴスにはなってはいけない」ということが繰り返し議論されたことに違和感を持った。

「ガラパゴス」とは言うまでもなく、野村総研のプロジェクトチームが使い始め、瞬く間にバズワードとなった、日本の技術開発の特徴を示す言葉である。日本国内の市場における競争がオーバースペックの機能を搭載するゲームになってしまい、その結果、世界市場では見向きもされないということを端的に示す言葉として人口に膾炙するようになった。

この分析自体には異論はなく、携帯電話や家電など、日本のものづくりの「ガラパゴス化」は様々な分野で観察されるし、その理解が当てはまるところも多い。

しかし、今回の会議で気になったのは、あまりにも「ガラパゴス」に対して意識しすぎて、研究開発の場が委縮しているのではないか、という懸念であった。オーバースペックではなく、グローバル市場で売れるものを作れ、という至上命題に対し、過剰反応しすぎているのではないか、という懸念である。

というのも、オーバースペックでグローバル市場に売れなくなった家電や携帯電話は、末端のデバイスであり、ユーザーが直接お金を出して買うものである。そこには様々な合理性が働き、一種の人気投票になる。ユーザーの満足度を考えて製品を作るべきだ、という議論に異論をはさむつもりはない。

しかし、宇宙システムは末端のユーザーが直接使うものでも、選ぶものでもない。宇宙システムはインフラであり、ユーザーから見えるものではない。我々が携帯電話を選ぶときに、iPhoneにするのかAndroidにするのか、キャリアをどこのものにするのか、という選択はあっても、どんな周波数を使っているのか、どんなアンテナを使っているのか、どんな光ファイバーケーブルを使っているのかを考えて選んでいるわけではない。

こうしたインフラ部分のスペックの問題を、コンシューマー向けのデバイスを評価するときに使う「ガラパゴス」という概念を持ち出して議論することに疑問を抱くようになった。つまり、日本のものづくりは単にエンドユーザーに選んでもらうためのものだけでなく、その中間にあるキャリアやプロバイダーなどに選んでもらうものであり、そこで評価される軸は何なのか、ということを考えなければならない。

宇宙システムの場合、オーバースペックであるかどうかということよりも、むしろシステムの信頼性や利便性、さらにはそのシステムを利用する際のコストがどのくらいかかるか、といったことが重要な論点になる。その上でスペックが良いものであれば活用するし、もしオーバースペックでコストが高ければ敬遠される。

何が言いたいかというと、「ガラパゴス」という便利で使い勝手の良いバズワードが出回ってしまったために、それに縛られて何でもかんでも「ガラパゴスはいけない」という議論一色になってしまうと、問題の本質が理解できなくなる、ということである。日本における(日本だけとは限らないが)言論空間はしばしばこうしたバズワードに支配され、思考停止状態のままバズワードを唱えていれば、何かを表現した気になる、という環境にある。そのため、本来ならば「ガラパゴス」という表現を使うべきではない問題に対しても、「ガラパゴスは避けなければならない」という呪文を唱えることによって、論点がずらされ、本来議論すべき論点からずれた議論になってしまう。

政策決定は様々な要素によって構成されるが、しばしば、政策を巡る議論はメディアによる論調やバズワードといった与えられた枠組みによって無意識のうちに思考が形成され、それが議論を誘導する。そうしたバズワードやはやり言葉に振り回されることなく、政策の本質的な問題を考え、議論することを、公共政策に関わる一員として常に胸に刻んでおきたい。

2016年8月12日金曜日

トランプ氏と鳥越氏の共通点

先日、ハフィントンポストが東京都知事選に出馬し落選した鳥越俊太郎氏のインタビューを掲載し、話題になっている。

「ペンの力って今、ダメじゃん。だから選挙で訴えた」鳥越俊太郎氏、惨敗の都知事選を振り返る【独占インタビュー】 http://www.huffingtonpost.jp/2016/08/10/shuntaro-torigoe_n_11422752.html

この記事を読んで一番最初に浮かんだのは「トランプと同じじゃないか」という印象でした。かなり乱暴なまとめではありますが、いかに両者の共通点を並べてみます。
  • ボキャブラリーが貧困
    • 鳥越氏はジャーナリストであったにも関わらず、「ペンの力って今、ダメじゃん」といった表現の稚拙さが浮き彫りになる箇所が随所に見られた。
  • 討論会を避ける
    • トランプ氏も予備選の討論会を欠席したり、共和党候補になってからも大統領討論会の日程に文句をつけるなど、討論を避ける傾向にあるが、鳥越氏も「ニコニコ生放送」などを避けて登場しなかった。
  • 自分の能力に対する過剰なまでの自信
    • トランプ氏は党大会の演説でも「私だけが問題を解決できる」と言ったが、鳥越氏も何の準備をしていなくても「本当に急ごしらえでガーッと詰め込まなければいけない仕事をしてきているわけ。50年間。だから、それについてはそんなには心配なかったよ」と過剰なまでの自信を見せている。
  • 職責と権能についての理解が不足
    • トランプ氏は「壁を作ってメキシコに払わせる」といったが、大統領の権限としてそれは不可能ではないが、かなり非現実的な政策。鳥越氏は都知事に立候補していながら国政の話ばかりをしていたと本人も認めているが、都知事が国政に影響するのは不可能ではないとはいえ、かなり非現実的。
  • 発言の一貫性のなさ
    • トランプ氏の一貫性のなさは折り紙つきで、トランプの発言が矛盾していることはいろいろなところで指摘されているが(例えばYoutubeの動画)、鳥越氏もこのインタビューで「ペンの力はダメ」と言いながら、週刊文春の報道に右往左往したことなどを語り、ジャーナリストとして、かつては政治家などの説明責任を求めながら、「説明責任というのは美しい言葉だけど、実際にはこれほど難しいことはないんですよ」と語るなど、発言の一貫性のなさが目立つ。
  • 他者への責任転嫁
    • トランプ氏は支持者集会などで暴力沙汰が起こると、それは自分のせいではなく、サンダース支持者やヒラリー支持者が紛れ込んで騒動を起こそうとしていると責任転嫁するが、鳥越氏も都知事選で宇都宮氏が支援を拒んだのは「僕ではなくておそらく、共産党(に対する思いがあった)」と支持を取りやめた共産党のせいにしている。またトランプ氏は自らの批判が高まるのは反トランプメディアのせいだといっているが、鳥越氏もインタビューの中で何度となく「選対の判断だから」と選挙スタッフに責任転嫁している。
  • メディアに対する不信感
    • トランプ氏は自らを批判する新聞社やニュース局の記者に対して取材拒否や記者証の没収など強硬な措置を取っているが、鳥越氏も「僕はニコ生は基本的にメディアとして認めていない」とか「あなたたち(ハフポスト日本版)には悪いんだけれど、ネットにそんなに信頼を置いていない。しょせん裏社会だと思っている」といった発言をしている。
ざっと挙げただけでもかなりの共通点があるように思える。もちろん鳥越氏はトランプ氏と異なる点もたくさんあるし、トランプ氏のような対立候補の暗殺を示唆するような暴力性は持たない。しかし、政治家としての自覚や責任、自らの言葉に対する一貫性や論理に関しては共通する点が非常に多く、このハフィントンポストのインタビューを読んだ時はさすがに戦慄した。

アメリカ大統領選という世界で最も影響力のある公職に就く選挙であり、そこにトランプ氏のような人物が二大政党の正式候補として指名されたことは、アメリカ民主主義の危機として不安視する人も多い。しかし、日本はトランプ氏を選んだアメリカを笑うことも蔑むこともできない。日本でも野党四党が統一候補として鳥越氏を担ぎ出し、人口にして1300万人、GDPにしてメキシコと同等の1兆1687億ドルの規模を持つ東京都の知事としてこうした人物を担ぎ出したということは、日本の民主主義の危機を示しているとも言えるのだから。

追伸:この記事はハフィントンポストの鳥越氏のインタビューだけを対象に見ており、彼の選挙戦や過去の発言、週刊誌が取り上げた案件などについては、私自身、きちんと見ていたわけではないので言及していません。

2016年7月1日金曜日

二日酔いに苦しむイギリス

EU離脱という答えを出したイギリスの国民投票から一週間が経った。この間、EUの諸機関や原加盟国の6ヶ国(独仏伊ベネルクス)の会合や緊急欧州理事会(サミット)が開かれ、イギリスとの事前交渉を拒否する姿勢を明確にし、リスボン条約第50条に基づくイギリスの離脱通告を早期に行うよう促すという議論の流れを作った。

他方、イギリスでは保守党が分裂し、残留を訴えてきたキャメロン首相は党大会までに辞任することを表明し、その後継を巡る保守党党首選が行われることになったが、大本命で離脱派のリーダーであったボリス・ジョンソンは党首選に出馬しないことを表明した。党内に混乱を巻き起こした張本人が、たぶん本人も想像していなかった国民投票での勝利を得てしまったことで困惑し、そこから逃げ出したという構図で、ツイッター上でも #Borisexit というハッシュタグが作られ、大喜利状態になっている。

こうした保守党分裂に乗じて党勢を挽回したい労働党も混乱に陥っている。労働党は党としては残留の立場をとったが、党首のコービンは元々労働運動の闘士であり、反EUの姿勢を明確にしてきた人物。国民投票でも労働党の存在感は小さく、残留に貢献するような活動は出来ていなかった。暴漢に射殺されたジョー・コックス議員は熱心に残留を主張していたことが、彼女が「Britain First(英国第一)」を叫ぶ暴徒の標的になったにも関わらず。こうしたコービン党首の煮え切らない態度や党員とのコミュニケーションの失敗が、彼への信頼感の喪失につながり、労働党議員団による不信任動議は8割がたの賛成を得て、不信任決議が採択されてしまった。労働党の国会議員の大多数から不信任を突き付けられたにも関わらず、コービン党首は自らを「党員によって選出された党首」として位置付け、議員による不信任を無視するという姿勢を決め込んだため、労働党執行部でもある「影の内閣」の半数が辞任するという結果になり、労働党も混迷を極めている状況である。

このような政治的大混乱を遠くで眺めていると、なんとも痴話げんかの絶えない家庭でのドタバタ劇に見える。単純化し過ぎとのそしりを覚悟の上でたとえ話風にすると、以下のようになる。

イギリスは普段から家庭に不満を持ち、いろいろな点でEUに文句を言ってきた。EUは細かいことにうるさい。自分の行動にはケチばかりつける。自分の稼いだお金を生活費だといって持って行ってしまう。そのくせうるさい子供(移民)は自分に押し付けようとする…。

ある日、日々の不満の憂さを晴らそうと一杯ひっかけ、勢いあまって大暴れし、気がついたら離婚届の書類に押すつもりのないハンコを押してしまった。

翌日眼が覚めると、自分はなんてバカなことをしたのだ、これまで自分が(経済的に)やってこれたのはEUと一緒にいたからじゃないか。EUから切り離されたら自分は生きていけなくなるんじゃないか。既に周りは大騒ぎして自分の周りから離れていこうとしている(ポンド、株式市場の下落)。

どうしよう、どうしようとあたふたする中、EUは判を押してしまった離婚届を取り上げ、この届を市役所に持って行くかどうかはあなた次第、と最後通牒を突き付けている。イギリスは何とかEUとの関係を維持したまま、穏便に離婚しようとしているが、EUは「そんな交渉には応じない」と一蹴。イギリスの混迷はさらに深まり、自らの行動に自問自答を繰り返している。

これからイギリスは酔っ払った勢いで判をついてしまったことを後悔しながら、それでも何とか離婚した後も上手くやって行けるような離婚調停を進めなければならない。しかし、二日酔いのせいで頭が回らず、酔っ払った時に「離婚するぞ!」と大胆に言い切った時の勢い(ボリス・ジョンソン)はどこかへ行ってしまった。また、酔っ払っている最中は「離婚したらまずいんじゃないか」とささやいていた理性(労働党)も、悔恨の念にさいなまされ、これからのことを考える際には全く役に立っていない。

こんな二日酔いの状況の中で、イギリスはこれからの身の振り方を考えなければいけない。離婚届は既にEUが持っている。イギリスが離婚することに同意(リスボン条約第50条に基づく通告)すれば、そこから離婚調停を行い、2年間のうちにうまく調停がまとまらなければ、慰謝料やら養育費やら財産分与が全くないまま放り出されることになる。そうならないように事前交渉をしようと思ってもEUには取りつくしまがない。

イギリスは離婚届をEUに握られたまま、正式に離婚手続きに入ることを避け、ずっと逃げながら居心地の悪い家に住み続けるか、それとも全てを失う覚悟で離婚手続きに入り、捨て身の覚悟で交渉するしかない状況にある。

二日酔いに苦しむイギリス。これから苦難の道が待っているが、日々のストレスに晒されている他の国々にとっても、他人ごとではない。他山の石とすべく、この事態を見守っていくしかない。

2016年6月26日日曜日

「デマ」時代の民主主義

イギリスの国民投票の結果を受けて、世界中が混乱している。為替相場も株式市場も投票の行方に左右され、欧州各国もその結果を受けて右往左往している。その詳細は既にあちこちで議論されているので、ここで繰り返すつもりはない。

ただ、イギリスのEU離脱の衝撃の影で大変気になることが一つある。それは、国民投票の結果が出てから24時間も経たないうちに、勝利した離脱派が、自ら主張した内容が虚偽であることを認めたということである。

ガーディアン紙はLeave campaign rows back on key immigration and NHS pledgesという記事で、離脱派のリーダーであったイギリス独立党(UKIP)のファラージュ党首は「EUに供出している3億5千万ポンドがNHS(国民保険制度)に支払われる」というのは間違いであることを認め、離脱派で保守党の欧州議会議員であるハナンは「離脱に投票した人はEUからの移民がゼロになると期待しているが、その期待は裏切られる」と発言したと伝えている。ハナンは「離脱をすることで、誰がどのくらいの人数入ってくるかのコントロールを少し強化するだけだ」とも語っている。

離脱に投票した人たちが何を期待したのか、ということを正確に知ることは難しいが、少なくとも国民投票前のキャンペーンではEUへの拠出金を国内に向けること、EUからの移民(しばしばシリアなどからの難民のイメージに重ね合わせて)を減らすことが出来る、ということを主張していたことは間違いない。それらが実現すると期待して投票した人たちから見れば、これらの発言は大きな衝撃であり、裏切りに見えるのかもしれない。

こうした「誇張された主張」、もう少し厳しく言えば「デマ」が公的な言説空間に持ち込まれ、それが政治的な決定を大きく左右するような影響力を持つことを大変危惧する。

この状況はイギリスだけでなく、アメリカでの「トランプ現象」にもみられる。メキシコとの国境に壁を築き、メキシコに支払わせる、日本や韓国の核武装を容認するといった、およそ現実的に実現可能性が低い主張を公の場で、何の確証もないまま選挙キャンペーンに用い、その結果、共和党の予備選を勝ち抜け、大統領候補としての指名を確実にするというところまで来ている。実際、大統領候補の発言のファクトチェックをしているサイトではトランプの発言は41%が「False(誤り)」であり、20%は「Pants on Fire(真っ赤なウソ)」であるとしている。

このような「デマ」がここまで力を持ちうるのはなぜか。

一つにはそうした幻想ともいえるような非現実的な政策であっても、公の場で語られることによって「本当に実現可能なのかもしれない」と思わせるような舞台設定があるからだと考えている。これまで公の場で語られることというのは、何らかのフィルターを通してチェックを受け、事実関係を押さえられた上で、実現可能という見込みがあるということが前提となっていた。そのため、「まさかそこまで嘘を言うはずはない」とか「きっと何らかの腹案があるはずだ」という期待があるため、いかに荒唐無稽なことであっても、それを信じる根拠として「公の場」で語られているということがあるように思える。

この現象は、SNS時代の政治コミュニケーションの特徴なのかもしれない、という気もしている。SNSではしばしば繰り返される「デマ」は見慣れた風景になっているが、その「デマ」が拡散され、多くの人に共有される現象を見ていると、それがSNSという場で表明されるということは「何らかの根拠があるに違いない」といった暗黙の期待があるように思う。また、その「デマ」を信じることで、自らの不満や怒りを収め、それらの感情を代弁してくれていると溜飲を下げ、それを信じ込むことで「デマ」が作り出す幻想に身を委ねることで心の安寧を獲得するということも、SNSの中では多く見られる。

こうした「デマ」への耐性の低さ、ないしは「デマ」に身を委ねることの容易さが、EU離脱派やトランプ支持者にもあるのではないかと思うのである。厳しい現実を前にして、日々の不満や鬱憤を晴らしてくれるような爽快な言説が公の場で展開されているのを見て、拍手喝采を送りたくなる気持ちというのが、こうした「デマ」への支持に転化しており、ファラージュもトランプもそれを知りながら、意図的に「デマ」を展開しているという側面もあるのだろう。

つまり、公的な場で「デマ」を繰り広げることへの自己抑制を失った政治家が、自らの権力を得る手段として「デマ」を意図的に活用するのが当たり前になった、と言うことなのだろう。

もう一つ気になるのは、こうした「デマ」を抑止する仕組みが機能していないことである。イギリスの国民投票においても、離脱派の主張を否定し、現実的ではないと指摘するメディアは数多くあった。しかし、その訴えは全くと言ってよいほど広がりを見せなかった。むしろ、現実に不満を持っている人たちから見れば、そうした「デマ」の否定は、エリートによる抑圧や既得権益の保全のための言説として見られていたのではないか、と考えている。

「デマ」を否定する人たちは、そうした合理的で理性的で冷静な分析をしたのだろうが、そうした冷静さそのものが忌避感をもって受け入れられているということは事実だろう。日々の生活にムカついている人たちにとって、「上から目線」であれこれ言われることほどムカつくことはない。その意味で、「デマ」をデマであると否定すればするほど、「デマ」が力を持つという循環が生まれてしまっている。

では、どうすればよいのか、ということについて答えはない。SNSでの「デマ」であれば、その「デマ」を否定する言説が多数現れ、それによって「デマ」が一部の人達に共有されるにとどまる、という現象も起きる。しかし、それがマスメディアを通じて拡散され、否定することが「デマ」を信じる人たちに拒否されるようになると、その先に「デマ」を否定する言説を展開する余地は無くなっていく。今回のEU離脱派のように、国民投票の直後に「デマ」であることを認めるというのは一つの方法であろうが、それは結果が出た後であり、ほとんど意味はない。つまり、現代は民主主義、とりわけ国民投票やアメリカ大統領選のような直接民主主義に近い仕組みにおいて、「デマ」が勝つ時代であり、その「デマ」を意図的に利用する政治家が存在する限り、政治が混乱する、という時代なのだ、という自覚を持つことがまずは大事だと考える。

つまり、「デマ」は元から断つことが大事なことであり、いったん「デマ」が出回ると、それを否定することは難しい。故に、政治家が「デマ」を活用しようとする誘惑をいかに断って行くか、ということが第一にやらなければいけないことである。政治家個人の倫理の問題でもあるが、同時に政治家を監視し、チェックするメディアの役目でもあるだろう。

またメディアの役目としては、もう一つ、そうした「デマ」を拡散しない、という役割もあるだろう。EU離脱派を支持したのはタブロイド紙が多かったが、これらのメディアが「デマ」を拡散することは昔からだったとはいえ、そうしたタブロイド紙による「デマ」の拡散を抑制する仕組み(それがどのようなものになるのかはわからないが…。)も考えていかなければならないだろう。

さらに、こうした「デマ」はSNSによって拡散されていく。既に述べたようにSNSで拡散されるデマは場合によっては抑制することは可能であるが、常にうまくいくとは限らない。そのため、SNSを利用する人たちが、そうした「デマ」を拡散しないことを意識していくしかない。しかし、これも容易な話ではない。

つまり、現代の政治、なかんずく直接民主主義的な環境においては、こうした「デマ」がはびこり、「悪貨が良貨を駆逐する」ような状況にある、ということは避けられないことなのであろう。しかし、避けられないからといって民主主義そのものを否定することはできないし、民主主義を否定すれば状況はさらに悪化するであろう。であるからこそ、現代の政治においては、より一層、個々人の意識、「デマ」に対する抑制的な態度が求められるようになっている。そうしたことをどのように実現するのか、ということは永遠の課題ではあるが、少なくとも、まずは現状をきちんと認識し、「デマ」がはびこる民主主義の時代に入ったことを前提に、これからの民主主義を考えていく必要があるのではないかと思うのである。

今回はEU離脱派やトランプ現象を踏まえて議論をしてみたが、良く考えれば日本でも、「最低でも県外」といった、実現性の薄い主張をして政権を取った政党があったことを思い出す。そして実現性の薄い主張が実現せず、残念な思いをしたことの記憶も新しい。「デマ」時代の民主主義は米英だけの話ではなく、日本でもすぐそこにある問題なのである。

2016年6月24日金曜日

イギリスの国民投票後の世界はどうなるかを考えてみました

大変久しぶりにブログ記事を書きます。これまで国連で仕事をしていた際には対外的な発信がなかなかできなかったこと、また、一度文章を日常的に書くことを止めてしまうと、なかなか書こうという意欲がわいてこないということもあり、しばらく放置してしまいました。

しかし、本日のイギリスにおけるEU離脱を巡る国民投票は久しぶりにブログに書くだけのまとまった思考と考察が必要な問題であり、ツイッターなどでの短文では言い尽くせないこともあるので、思いつくままにコメントしたいと思います。

第一に、今回の国民投票は必ずしも法的拘束力があるものではなく、最終的な決定は議会でなされなければならない、ということを確認しておきたいと思います。イギリスには「議会主権」という概念があり、全ての国家的な決定は議会で行うことになっています。とはいえ、今回の国民投票の結果を無視することはできず、いかに残留派が議会内には多いとはいえ、離脱する方向でこれからEUと交渉するということを決定することになると思います。

第二に、EUから離脱するためには長い時間がかかる交渉が必要となります。いみじくも離脱派が主張しているように、EUはあらゆる法律や政策の中に入り込んでおり、それらを解きほぐしながら、EUの影響を受けないようにするための調整をしていく必要があります。この時間がどのくらいかかるか全くわかりませんが、2年から3年くらいはかかるのではないかと思われます。

そうなると、今日離脱に投票をした人たちの感覚としてはせっかく国民投票をして離脱派が勝ったのに何も変わらないという状況が続く、という印象が強くなるのではないかと考えられます。今回の国民投票に先立って、離脱派はEUからの独立やイギリスの自由を謳いましたが、具体的に離脱派が勝った後何が起こるのか、というビジョンを提示していたわけではなく、離脱派が勝ったとはいえ何も変わらないという失望感や残念な思いが募るような状況が生まれる可能性は高いと思います。

第三に、国民投票で離脱派が勝ったとしても現在の議会内の主流派は残留派が多いことです。今のキャメロン首相は国民投票での敗北を受けて首相を辞任するだろうと思いますが、そうなると後継の内閣が誰になるのか。離脱派の中心であったボリス・ジョンソン議員を軸とした内閣が出来るとなると、イギリス独立党(UKIP)なども参加した内閣が出来ると思われますが、その内閣がEUと交渉をして、望ましい結論を得られるかどうか、またEUとの交渉以外の政治をきちんとマネージできるかどうかについては、やや疑問を持っています。これが離脱派に対する失望感とつながってしまう可能性も考えられます。

第四に、イギリスの総選挙は2011年の任期固定制議会法によって5年ごとに行われることになり、先の総選挙が2015年だったので、2020年までは選挙がない状態が続きます。しかし、EUとの交渉の進捗具合や国民の離脱派に対する失望が高まると、残留派が多くいる議会では解散の動議が出る可能性があります。任期固定制議会法では下院(庶民院)の3分の2が同意すれば解散できることになるのですが、残留派だけで3分の2を取るのは難しいとはいえ、国民のムードが離脱派から離れていけば、総選挙になる可能性もあると考えています。

そうなると、離脱派の勢いが落ち、議会で残留派が3分の2をとれば総選挙となり、離脱交渉を続けるかどうかということが争点になった選挙になるかもしれない、と考えています。離脱派の勢いが落ちているのであれば残留派が優位に選挙を進め、多分政権交代を伴って、残留派が勝利するという形になるのではないかと考えます。そうなると離脱交渉が中断され、結局現状維持に戻る可能性もあるのではないかと思います。

もちろん、この間には様々なことが起こりうるので、このようなシナリオになる保証は一切ありませんが、一つの可能性として、これからのあり方を考える上での思考実験として考えてみました。

しかし、これは今回の国民投票で離脱派に票を投じた人たちの不満を解消する結果にはならないと思います。離脱派に投票しても上手くいかず、結局現状維持を選択したとはいえ、それは昨日と変わらない、不満を抱えた日常が続くだけ、と言うことになるわけです。なので、今回の国民投票で見せた国民の不満はずっとくすぶり続け、よほどのこと(例えば想定外の経済成長など)がない限り、国民投票への欲求や不満のはけ口を求める声はこれからも続くように思います。

1973年にEUの前身であるEEC(欧州経済共同体)に加盟したイギリスだが、1975年にはヒース内閣(保守党)の下で国民投票を行っていた(結果はEEC残留)。その当時からイギリス、とりわけ保守党内部にはEurosceptics(欧州懐疑派)がずっと存在し、サッチャーも、メイジャーもこの欧州懐疑派の人達との戦いで疲弊し、政権をコントロールできなくなるという状況を経験していた。今回もキャメロン首相はそうした保守党内の圧力に対抗するために国民投票に救いを求めたのだが、結局国民投票からも離脱を突き付けられ、にっちもさっちもいかなくなってしまいました。イギリスの政治はこれまでもずっと欧州懐疑派との緊張関係の下で続いており、それが今回の国民投票を経ても、まだ続くということは変わらないのだと思います。そういう意味では、今回は歴史的な出来事ではありますが、1973年からずっと続く、イギリスとEUの間で起こってきたことの延長線上にある出来事だとも言えます。

なので、今回の国民投票の結果は衝撃的ではありますが、イギリスとEUの関係はこれからも続いていくものであり、その中で、この結果がどのようにイギリスに、そしてEUに影響していくのかを見ていく必要があるのではないかと考え、このような愚考を披露させていただきました。

2014年2月21日金曜日

寺薗先生の有人宇宙推進論について

ずいぶん久しぶりの投稿になります。この間、プリンストン大学からの留学から帰国し、3ヶ月ほど日本に戻り、今度は国連で働くことになったので、ニューヨークに移るというバタバタした生活をしていました。国連での仕事はこれまでの仕事とは違うものなので、慣れるのにも時間がかかり、新しい勉強をしなければならず、なかなかブログを書く時間的・精神的余裕もありませんでした。

今も、時間的・精神的余裕はないのですが、ツイッターで会津大学の寺薗先生が大変刺激的なご意見を連投されていたので、それについてコメントしたくなり、そのコメントが長くなりそうなのでブログで展開することにしました。

寺薗先生のツイートにコメントする前に断っておきたいのは、ここでは先生のコメントに対して否定的な見解を述べますが、それは寺薗先生のご研究や人格に関わる非難でも批判でもなく、あくまでも日本が有人宇宙事業を進めるべき、 という論に対する批判ですので、その点ご了解いただければ幸いです。

さて、寺薗先生のツイートを引用しながらコメントしていきます。

ほらほら、日本はインドにも宇宙開発分野で「抜かれた」よ。松浦さんも言っているが、こうなることはわかっていたはずなのに、誰も手を打たなかったっていうのは一体どういうことなんだ。宇宙政策委員会の委員の皆さんの弁明とやらを聞いてみたい。ボコボコに叩いてやるから。
https://twitter.com/terakinizers/status/436691927744774144


寺薗先生のコメントは松浦晋也さんが書かれた「姿を現したインドの有人宇宙船」(宇宙開発の新潮流 NB Online)


もちろん、有人宇宙開発が宇宙開発の全てではない。日本は無人宇宙機で実績を積み重ねているのだから、無人のまま技術を積み重ねるべきだという意見もあるだろう。でも私はそうは思わない。
https://twitter.com/terakinizers/status/436692291395133440



大体、日本はまず有人宇宙開発にもう四半世紀も首を突っ込んでいる。アメリカとロシアに輸送手段を頼っているとはいえ、12人もの宇宙飛行士を輩出している国だということを忘れてはならない。
https://twitter.com/terakinizers/status/436692513617756160

しばしば有人宇宙開発を支持する議論として、これまでこれだけの投資をしてきたのだから、やめるべきではない、という議論がある。寺薗先生のツイートがそういう意図なのかどうかは明示的ではないが、そういう議論であるとすれば、それは経済学でいう「サンクコスト」の概念で説明されるべきであろう。企業が失敗してきた事例として、過去の業績や成功に囚われ、不採算部門を切れずにそのまま続けることで会社が傾くといったことが見られるが、有人事業についても、過去にどれだけ投資したとか、どのくらい宇宙飛行士がいるからといった議論で有人事業を継続すべきだ、という議論は積極的に支持できない。

また、無人宇宙開発が将来的に有人宇宙開発の議論になっていくというのはどの国の宇宙開発をみても明らかである。日本は有人宇宙開発についての議論を巧みに、あるいはわざと避けてきてはいるのだが、世界の趨勢を見る限りもうここから逃れることはできない。
https://twitter.com/terakinizers/status/436692733307011072

無人から有人に向かっているというのは果たして明らかなのだろうか。アメリカは国がやる有人から民間がやる有人に向かっているし、ロシアは過去の有人事業の遺産は維持しているが、新たなプロジェクトは無人が多い。中国、インド(+欧州) のトレンドだけを取り上げて「どの国も」や「世界の趨勢」というのは少し違う気はする。

なぜか。人工衛星の打ち上げを発注する側に立ってみれば、有人宇宙船の高度な(信頼性の高い)テクノロジーを有する国と、無人機しか打ち上げていない国なら、信頼性の高い国のロケットを選択するだろう。しかもインドや中国は価格の安さもある。
https://twitter.com/terakinizers/status/436693005919985664

 この点については強く反論せざるを得ない。これまで商業打ち上げで圧倒的なシェアを誇ってきたのは欧州のアリアンロケットであるが、欧州は有人宇宙船の技術を持っていない。世界で最も複雑で高度な有人技術を持っているアメリカのロケットも一時期商業打ち上げに参入していたが、顧客が全くつかず(だれもアメリカのロケットで打ち上げようとせず)、商業市場から撤退した。ロシアのロケットは商業市場でも顧客を獲得しているが、それは技術が高いからではなく、価格が安いからである。つまり、有人技術があるかどうかは関係なく、価格と信頼性(実績)でロケットの選択は決まってくる。なので、有人技術がなくても、価格と信頼性のつり合いが取れれば人工衛星の打ち上げ受注は出来るし、有人技術の有無は無関係と言わざるを得ない。

安くて信頼性の高い国のロケットをわざわざ選ばず、高くて信頼性が低い…とはいわないまでも、有人打ち上げでないロケットを選ぶという理由はない。日本が宇宙開発を国家的戦略産業として選ぶなら、必ず有人という道に進む必要がある。それも今すぐにだ。
https://twitter.com/terakinizers/status/436693352105254912

 上記のコメントから、ここで「必ず」「今すぐ」という議論は打ち上げ市場の現状から考えても、適切な判断ではないと言える。

ともかくまず、日本の宇宙開発は、中国だけではなく、インドにも抜かれたのだ、ということを前提にして立て直す必要がある。それも早急にだ。のんびりしている時間はない。いまやらなければ、5年後、10年後にもっと大きな差をつけられてしまうからだ。
https://twitter.com/terakinizers/status/436693888258932736

 繰り返しになるが、中国やインドに抜かれることに特に問題はないとみている。しかし、中国やインドが有人宇宙事業に積極的に進出する中で、日本はどうするのか、ということについては議論すべきである。

この「日本はインドにも抜かれた」という件は、昨年11月のインドのマンガルヤーン打ち上げのときにも言ったことではあるが、インドの宇宙開発動向について宇宙政策委員会では調査なり議論なりしているのだろうか? とにかく遅い、甘い、知らなすぎる。
https://twitter.com/terakinizers/status/436694863916957697

有人分野で抜かれることと、惑星探査(マンガルヤーンは火星探査)の分野で抜かれることは別次元の問題だと考えている。惑星探査の分野については、国際競争の観点から考える必要もあるし、宇宙科学全体の中での資源配分など、様々な観点から論じるべきであると考えている。しかし、惑星探査の分野で抜かれることと、有人分野で抜かれることは別の議論として論じる方が生産性が高いと思う。ただ単に「抜かれた」ということを起点として議論を起こすと、不毛な「宇宙競争」に突入し、貴重な人的・財政的資源を感情的な理由で振り向けてしまう可能性がある。それは避けたい。ゆえに「抜かれた」ということを起点に議論するのではなく、日本にとってどのように有人宇宙事業を考えるべきか、どのように惑星探査・宇宙科学を考えていくべきかについて論じるべきだと考えている。

寺薗先生のツイートはここでまとまっているが、その後「毎日宇宙」という毎日新聞の記者さんがやられているアカウントでの関連ツイートもあるので、それについてもコメントしておきたい。

松浦さんの記事と寺薗先生の連投を読了。確かに、宇宙開発委員会時代から、有人輸送に関する議論を避けてきた印象はあります。お金の問題ではなく世論形成、突き詰めて言えば、死者を出す覚悟が共有できていないことへの懸念が強かったように思います。
https://twitter.com/mainichi_cosmos/status/436711081604435968

 死者を出す覚悟が出来ていなかった、というのはその通りだと思うのだが、問題はそれだけではないようにも考えている。死者を出す覚悟がなかったのはJAXAと宇宙開発委員会の及び腰が原因で、有人宇宙事業に対する国民的支持は大きく、世論形成は出来ていたと思う。ただ、問題はそれだけではなく、政治家と財務省を説得できるだけの有人をやる正統性がなかったからだと考えている。

(続き)松浦さんや寺薗先生がご指摘のように、あと数年後には主要国がそろって有人輸送機を持つとなると、正面から議論する必要があると思います。もし有人機をやらないなら、カナダのように何かに特化した技術で、それこそ戦略的に存在感を発揮しなければなりません。
https://twitter.com/mainichi_cosmos/status/436712190410641409

最後の一文はその通りだと考えている。有人をやるかやらないか、という議論を出発点にするのではなく、日本が宇宙開発で何をやり、どのように戦略的に存在感を発揮するべきか、という議論を出発点にして、そのために有人事業が必要かどうか、という議論にしていくべきだと考えている。

間違っても、「外国がやっているから私たちもやる」という議論や、「抜かれたから追いつかなければいけない」という合理性よりも競争心を煽り、政策的な合理性があるともいえない議論に拘泥するべきではない。

2013年11月12日火曜日

宇宙ステーションの船長を巡る国際協力の枠組みの中での駆け引きについて

若田さんが国際宇宙ステーション(ISS)の船長となったことで、マスコミも久々の有人宇宙事業における朗報として、にぎわっている。私のこれまでの著作や論文、エッセイなどをご覧になった方はお分かりだろうが、私は有人宇宙事業そのものに対して批判的ではある。しかし、ISSという事業が存在し、日本がそこに参加し、国際的なコミットメントをしている以上、ISSの運用が終了するまでは、それをすぐさま止めるべきだ、と主張するつもりはない。もっともすぐ止めるという判断を政府がするなら、それは歓迎するが。

ただ、今回の若田さんのISSへの打ち上げを巡る報道を見ると、私が見た範囲でも朝日新聞や東京新聞(私のコメントも掲載)は、打上を歓迎すると同時に、有人宇宙事業を見直す問題提起をしており、これまでの歓迎ムード一辺倒ではない点が興味深かった。

さて、そんな中でツイッターを通じて一つ質問を受けたので、ここでそれにこたえたいと思う。ツイッターは思いついたことを呟くには便利なツールなのだが、まとまった意見を求められると、140字という制約の中で議論を展開するのにはあまり向いていない。なので、字数制限のないブログで書かせてもらっている。

その質問とは次のようなものであった。

日本に船長枠が少なくとも一つあることと、誰がいつ船長を務めるかについての鈴木先生が考えるあるべき姿の間に、どのような関連があるのか、よろしければお聞かせいただければと思います。

 この質問の背景には、私がツイートしたいくつかのコメントがある。それらを全部転載するのは読みづらくなるため避けるが、基礎となるコメントは次のものだと考えている。

若田さんを持ち上げるのは良いのだが、逆に言うとそれ以外の日本人宇宙飛行士は船長になるだけのレベルではなかったということを暗に示している記事になってしまっている。 / 若田さんに続け 新人宇宙飛行士、訓練に奮闘
https://twitter.com/KS_1013/status/399318089117859840
 
米ロの他にカナダ、ベルギー(欧州)も船長を出している。ISSに出資している国の中では最後の船長。
https://twitter.com/KS_1013/status/398461442472419329

さて、質問に戻るが、まずコメントしておきたいのは船長枠が確実に一つある、というわけではない、という点。これまでISSの船長(コマンダー)は宇宙飛行士の量も経験も豊富なアメリカとロシアが中心であり、それ以外のISSパートナーはベルギーとカナダが船長を1人ずつ出している。しかし、この船長枠は最初からあったわけではなく、各国間の「あうんの呼吸」で作られたものであった。ISSの運用を取り決める政府間協定にも船長の枠を参加国に平等に分配するという規定はない。ただし、そこは国際協力の枠組みなので、参加国にも当然配慮することは暗黙の了解となっている(でなければ協力関係がぎくしゃくする)。

そこでISSが完成し、運用が落ち着いてきてルーティーン化されるようになると、米ロ以外の船長も、という話になってきた。しかし、その枠も数が決まっていたわけではない。あくまでも適任者がいれば採用する、という形であった。

ベルギー出身のFrank de Winnieは2009年に船長となった人だが、彼は政治的な発言力も強く、宇宙飛行士としてEUの宇宙政策の支援や、様々な政策立案にも関わるほど、アイディアを持ち、それを押し通す個性の強さを持つ人物である。彼が初めて米ロ以外の船長になったのは、欧州(ESA)の強い働きかけもあるが、彼自身の持つ個性や「我の強さ」もあったと思われる。

カナダ出身のChris Hadfiledは宇宙ステーション滞在時にDavid Bowieの名曲であるSpace Oddityを歌い、それをカナダ宇宙庁(CSA)が編集してYoutubeに載せたことで、世界的な有名人になった人である(そのビデオはこちら。ものすごくクオリティが高いし、歌も上手い)。 彼は、この一件だけでなく、かなりの時間を教育プログラムに当てており、カナダの小中学生向けに宇宙授業を行うということで国民的な人気者でもあった(その一つがこちら。これ以外にも彼の名前で検索すれば様々な宇宙実験の映像が出てくる)。

こうした強烈な個性とリーダーシップ、人間性を備えた人となると、日本の宇宙飛行士の中では若田さんが突出していると言わざるを得ない。日本人宇宙飛行士は、厳しい試験を乗り越え、密度の濃い訓練プログラムをこなし、能力的には非常に高い。しかし、それは逆に日本人宇宙飛行士をおしなべて「優等生」化してしまい、優れてはいるけど、飛びぬけてはいない、という状況を作り出してしまったと考えている。

そんな中で若田さんはご自身の外国での生活経験などもあり、欧米社会における文化や所作を理解しており、その中でリーダーシップを発揮することの意味ということを十分踏まえて宇宙飛行士のコミュニティの中で存在感を放ってきた。彼は単なる優等生でも、経験を積んだ宇宙飛行士というだけでもなく、そうした欧米社会に受け入れられる人物としてのクオリティを持っている人だと考えている。

ここで「欧米社会」という点を強調するのは、「国際」宇宙ステーションでありながら、アメリカが圧倒的な影響力を持ち、それをカナダ、欧州がサポートするという社会であり、決して「国際社会全体」を代表するものではないからである。つまり、ISSに搭乗する宇宙飛行士、それを運用する人たちのほぼ全てが「欧米社会」の価値観を共有しているのが宇宙ステーションなのである。このことを見誤ると話がずれてきてしまうので、敢えて「欧米社会」という点を強調している。

そうなるとロシアがいるじゃないか、という反論もありそうだが、ロシアは確かにISSの参加国であり、唯一ISSに人を運ぶ手段を持っており、ISSには不可欠なパートナーである。しかし、ISSのそもそもの始まりが冷戦期にソ連の宇宙ステーションであったミールに対抗するための宇宙ステーション「フリーダム」であり、ロシアが参加するのはソ連崩壊後の1993年で、その時には既にISSの計画、運用ともアメリカが中心になることが決まっていた。つまり、ロシアはソ連崩壊後に迷走した宇宙計画の出口として、またポスト冷戦の和解の象徴としてISSに参加しているが、その中でリーダーシップを発揮し、ISSを「自分のプロジェクト」にする意思はないため、ISSの文化に影響を与えるまでに至っていない。

少し話がそれたが、このようにISSが「欧米社会」の文化的価値観によって動いている中で、日本は当然不利な地位にある。日本の宇宙開発は、これまでいろんなところで述べてきたように、キャッチアップが目標であり、ISSに参加するということはその一環であった。なので、日本はこれまで「欧米社会」に溶け込もうと努力をしてきて、その「欧米社会」の中で認められようと努力してきたのである。その努力はすさまじかったし、それを達成したことは賞賛されるべきである。

であるからこそ、若田さんが船長になるまでに日本人が船長にならなかったことを問題視するのである。日本は「欧米社会」であるISSの中で認められ、「キャッチアップ」出来る人を宇宙飛行士として選んできたのである。それは言い換えれば、「欧米社会」に認められ、ミスをせず、結果を出す人を優先的に選び、そういう訓練をしてきたのである。

しかし、その中で船長の役割を担うだけの個性や我の強さというものがなかなか出せず、結局「優秀だがリーダーではない」人たちが量産される結果となった。そんな中で若田さんは明らかに違った。彼のバックグラウンドも含め、彼は「欧米社会」でリーダーになれる存在であったし、(ここは私の推測だが)JAXAも若田さんをそういう人物として育ててきたのだと考えている。

なので、若田さんが船長として今回任務に就くことは自然の成り行きであるし、それ自体はある意味当然のことだったと言える。ただ、私が問題視するのは、日本がこれまで1980年代の「フリーダム」と呼ばれていた時代の宇宙ステーションから継続的にコミットし、アメリカや欧州が予算や国内的な事情でモジュールのデザインを何度となく変更し、計画を遅らせ、トラブルのもとになってきたのに対し、日本は極めて誠実に、真面目に宇宙ステーション事業に取り組んできた。

にもかかわらず、日本人宇宙飛行士は欧州やカナダより先に船長になることはなかった。これは上述したように、各国に船長の枠を一つ与える、という約束が明示的にない以上、いつまでたっても日本人宇宙飛行士が船長となることが出来ず、そのままISSの運用が終了してしまう、という可能性だってあった、ということである。今のところ、2016年までのISSの運用は決まっており、それを2020年までに延長するということが大筋で決まっているとはいえ、「欧米社会」においてリーダーシップを取れるとみなされる人物が若田さん以外になく、若田さんにもしものことがあってISSに行けないという事情が生まれれば、日本人船長は生まれない、という可能性だってあったと考えている(実際、病気や事故で宇宙に行けなかった宇宙飛行士は少なからずいる)。

そうなると、これまで誠実に、真面目に宇宙ステーション事業に取り組んできた日本が船長を出せない、ということになってしまう。もちろん、船長が出なくても、有人宇宙事業には意味がある、というのであれば、それでもかまわないだろう(繰り返すが私は有人宇宙事業事態に批判的である)。しかし、日本が国際社会(ISSの場合は欧米社会)に多大な貢献をしておきながら、国際的には低い地位にとどめられ、影響力を持たない存在となってしまっていることに対して不満を持つ人も多いだろう。東京新聞のコメントにも引用されているが、国連に対して多大な財政貢献をしているのに、日本は安保理の常任理事国でもなければ、国連職員が(財政貢献に比して)多いわけでもない。外務省もそれを問題視して、様々な活動をしているが、それと同じ意味で、日本人の宇宙飛行士がISSの船長にならないことは問題なのである。

なので、本来ならば、米ロ以外に船長を求める時、一番最初に名前が上がらなければならなかったのは日本人宇宙飛行士であったはずで、若田さんは2009年に最初の長期滞在をしているが、その直後にベルギーのDe Winneが船長を務めることになっていたので、彼が船長になることが出来なかった。実は、ここがJAXAの戦略的な失敗だったと考えている。この時は日本のモジュールである「きぼう」の組み立ての最中であり、「きぼう」の組み立てを優先して、船長を取りに行かなかったことに問題があった。もちろん、船長をやりながら「きぼう」の組み立てに取り組むというのはミッションとしてかなり大変であることは確かだが、それを言い出すと船長はいつも大変ということになってしまう。この最初の若田さんの滞在の時に船長を取りに行かず、そこで欧州に取られたところに、日本の国際協力の枠組みの中での駆け引きの稚拙さを感じている。

さらに、その後も「きぼう」組立ミッションは続いたが、若田さんの一回目の長期滞在の後に、野口さんが長期滞在に出た時も、船長を取りに行かなかった。これは戦略的なミスなのか、野口さんを船長に、と推す声がなかったのか、その辺は定かではない。しかし、そうしているうちに古川さん、星出さんと比較的経験の浅い宇宙飛行士が続くことになってしまったため、今回の若田さんの打ち上げまで船長の地位を得ることが出来なかった。

なので、最初の質問に戻ると、船長枠が一つある、ということが確定していない限り、出来るだけ早く、これまでの貢献と日本のコミットメントに応じた評価、すなわち船長の地位を与えられるべきであったのに、「きぼう」組立ミッションと若田さんの長期滞在が重なってしまったこと、そしてその後も船長に地位を取りに行くことをせず、比較的経験の浅い宇宙飛行士が続いてしまったことなどの戦略的なミスによって船長枠を取れないかもしれない、というリスクを抱えてしまった、ということが問題だと考えている。それが含意することは、日本の宇宙開発が「欧米社会」に追いつくことを目標としてしまい、その中でリーダーとなる、という意思に欠けていること、国際社会の中で貢献はするが表には出ない、という役割に甘んじてしまっていること、そして次に若田さんが飛ぶ時に船長を取ればよい、という甘い見通しがあったこと、といったことだと考えている。ゆえに、若田さんが船長になったことを手放しで喜ぶ前に、もう一度、何のための国際協力なのか、何のための日本人宇宙飛行士なのか、ということを考え直すことが求められていると考えている。



2013年10月4日金曜日

JAXAの応援と安全神話

本日(10月4日)の毎日新聞を読んでいたら、気になる記事があったのでコメントしておきたい。

その記事は「記者の目:JAXA10年 夢の宇宙探査、継続を」(http://mainichi.jp/opinion/news/20131004k0000m070131000c.html)という記事だ。

たぶん、科学環境部の方が書かれたオピニオン記事だと思うが、多くのメディアの科学部記者が書くように、過剰にJAXAに期待し、宇宙開発に夢や希望や未来を見出している記事である。この手の記事は既に何度も批判してきたので、それを繰り返すつもりはないし、それ自体を否定するつもりはない。

しかし、問題と思ったのは、そうした価値観に基づいて書いている記事を支えるファクトファインディングが明らかにおかしいことである。おかしいと思ったことをいくつか挙げておこう。

まずウェブ版の一ページ目に書かれている「完全に旧機関の壁がなくなったとは言えないが、技術面では統合の効果は感じられる」という点だが、きちんとJAXAを取材していれば、こうした結論にはならないはずだ。というのも、三機関統合の結果、旧NASDAと旧ISAS(宇宙科学研究所)の統合プロジェクトとして進められた月・惑星探査は、結局、元のNASDAとISASの組織に戻る形となり、統合の効果どころか、統合そのものが後戻りしている。

次は評価の分かれるところであるが、「宇宙探査に向けられる目は厳しい。特に年間400億円を投じる国際宇宙ステーション計画は「成果が見えない」とやり玉に挙げられ、経費縮小や参加形態の再検討すら求められている」という表現には疑問が残る。通常、有人宇宙事業は「探査」ではないからだ。探査というのは「はやぶさ」のように未知なる天体や空間に赴き、文字通り「探査」をして新たな知見を得ることが目的であるが、国際宇宙ステーションは、その中で実験をしているとはいえ、新たな場所に行ってまだ見ぬ何かを見に行く事業ではない。そのため、多くの国で宇宙ステーションは「探査」には含められていない。有人で「探査」という場合は月や火星、小惑星などに行くことを指すのが一般的だ。

この記事の中で一番問題に感じたのは「宇宙政策の司令塔である内閣府宇宙戦略室の西本淳哉室長は「宇宙は利用してナンボ」と言い、これまでの宇宙開発を「研究のための研究だった」と断じた。 「予算の半分は有人探査に当て、宇宙科学がもう一つの柱だ」と語った米航空宇宙局(NASA)のチャールズ・ボールデン長官とは好対照だった」という表現だ。そもそも、NASAは米国の宇宙開発すべてを担当しているわけではなく、有人宇宙飛行と宇宙科学(に加えて地球科学と航空技術開発)を行うことに特化した組織である。米国における宇宙利用は国防総省(DoD)、海洋大気局(NOAA)、アメリカ地質調査所(USGS)といった組織が進めているものである。

それに対し、JAXAは全ての宇宙事業に関わり、有人事業や宇宙科学だけでなく、宇宙利用に関するアプリケーション衛星も開発する使命を帯びている。これはJAXAの前身である宇宙開発事業団(NASDA)が「実利用」を促進するための組織として発足したことからも明らかだろう。米国ほどの巨大な宇宙予算がなく、限られた予算の中で効率的な宇宙開発を進めるためにはNASAのような特権を持っていないのがJAXAであり、それを「好対照」と言い切る記者の姿勢には大きな疑問を持った。

最後に、もう一点、記者の勉強不足を指摘すれば、「米国は将来の火星有人探査を視野に、小惑星を目指しているし、ロシアや欧州は月を志向しているとされる」という一文はほとんどが間違い。米国は(というよりもNASAは)小惑星から火星への有人探査というロードマップを描いているが、その計画に対して、ホワイトハウスも議会も支持をしていない。正確に言うと、ホワイトハウスは月や火星の有人探査は無理だから、有人をやるとすれば小惑星という消極的な目標設定しかしておらず、火星を視野に入れるということにはなっていないし、議会(特に下院)に関しては小惑星への探査そのものを否定している。なので「米国は」と一括りにするのは大間違い。

さらにロシアは月面探査の計画もあると伝えられているが、しかし、それに対する具体的なプロジェクトはほとんど進んでいない。本気で月に行こうとしているかどうかは誰にもわからないというレベルである話。欧州は有人探査の目的地として(注1)月を目指したことは一度もない。欧州が進めようとしている有人探査を視野に入れた無人探査計画であるオーロラ計画は、火星に行くことを目指している。
(注1)ツイッターでご指摘があったので、誤解のないように付記しました(10月4日11:25JST)

このように、この記事には多数の認識不足、勉強不足が見られる。にもかかわらず、全国紙に堂々とJAXAに夢を託し、応援する記事を書いている。そこには更なる大きな問題が隠れていると考えている。

それは「科学部記者の『原発安全神話』に対する反省の無さ」だ。 宇宙開発と原発は全く違うと思われる方も多いだろう。もちろんJAXAの事業は特に人の命にかかわるものではなく(宇宙ステーションの機材が壊れて宇宙飛行士が危険にさらされる可能性はあるが原発ほどの大規模な被害とは言えない)、ロケットの打ち上げでもしっかり安全確保がなされ、安全で夢のある事業に見えるのだから、原発と結びつけるのは無理のある論理だ、という批判もあるだろう。

しかし、私が問題にしたいのは、これまで「原発安全神話」の片棒を担いできたメディアの科学部記者が、相も変わらず「宇宙(原発)は素晴らしい」という価値観に基づいた記事を書き、中途半端なファクトファインディングしかしておらず、思い込みで記事を書いていることである。生地に価値観を含めてはいけない、というつもりはない。しかし、少し調べればすぐにわかることを、価値観(主観)の主張を優先するあまり、きちんと調査せず、印象論だけで書いているということが大いに気になるのである。

原発の問題は、事故が起きて初めてその重大さに気が付き、原発報道に関しては毎日新聞も極めて厳しい姿勢に転じた。しかし、その他の科学では、相も変わらず同じことが繰り返されている。そのことに問題を感じているのである。つまり、今や反原発、脱原発路線の報道姿勢を取っている毎日新聞も、一歩皮をむいたら、大して変わっていないのではないか。その変わっていないなかで原発報道だけが変わる、ということは、基本的に福島原発事故への単なるリアクションでしかなく、本質的な科学技術報道の変化に結び付いていないのではないか。もう少し厳しく言えば、原発事故の記憶が風化されていけば、また「安全神話」に戻ってしまうのではないか、という懸念を持っている。

もちろん、こんな心配は杞憂に過ぎない、ということであれば、それは結構な話だ。しかし、今日の記事を見る限り、どうも科学部記者のメンタリティが変わっていないような印象しか受けなかったので、敢えてコメントさせていただいた。

2013年9月14日土曜日

軍事技術に無邪気に近づいていくJAXA

昨日、イプシロンに関するコメントを掲載したが、もう一つ気になっていることがあるので、連日の投稿になりますがご容赦ください。

その気になっていることとは、来年度の概算要求で文科省から出された、超低高度衛星技術試験機(SLATS)と呼ばれる衛星です。

この衛星は高度200-300kmと、宇宙空間とはいえ、地球の重力と大気の影響を受ける軌道を周回する衛星で、地球に近いところから画像を撮るため、非常に高い分解能(解像度)を持つ衛星になると考えられています。

地球に近いと、すぐに重力に引っ張られ、大気に寄る空気抵抗を受けるため、すぐに大気圏に突入してしまいそうなのですが、そこで「はやぶさ」で実証されたイオンエンジン(太陽光パネルによって発電された電気で推進力を得るエンジン)を活用し、軌道位置を維持するということが想定されています。イオンエンジンは電力で動くため、軌道位置を維持するための燃料を積む必要がなく、長期間にわたって燃料切れの心配なく運用できるという特徴があるとのことです。

これ自体は技術的に興味深い計画であり、実際に打ち上げることになれば、世界にもインパクトを与えることが出来る衛星だと思います。しかし、イプシロンと同様、この衛星は安全保障という観点から見ると、色々と問題があるように思っています。

というのは、これだけ低高度の軌道を飛翔し、分解能の高い画像を撮ることができるということは、偵察衛星の機能と全く変わりがない、ということです。まだどの程度の分解能にするのかは決まっていないのですが、有効開口径(簡単に言えば望遠鏡のサイズ)が30センチだと40-60センチの分解能、50センチだと20-40センチの分解能、70センチだと15-25センチの分解能という想定がなされています。分解能とは、どのくらいの大きさのものを識別できるか、という能力を計る尺度で、現在使われている情報収集衛星が60センチ(一辺が60センチの物体であれば認識できる)なので、このSLATSは、それよりもはるかに高い分解能を持ち、アメリカなどが偵察衛星として使っている衛星とほとんど同じ性能を目指していると言えます。

果たして、これだけ高分解能の衛星をもって、何に使うのでしょうか。JAXAの資料(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/059/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2013/09/06/1338400_8.pdf)によれば、技術実証の他、大気密度に関するデータの取得、原子状酸素に関するデータの取得、小型高分解能光学センサによる高分解能撮像、というミッションがある、と措定されています。

つまり、JAXAはそれだけの高分解能画像を取得することについての問題意識というか、安全保障上のインプリケーションについて、何も示しておらず、ただ「高い能力を持った衛星を作ったぜ!」ということだけを目指しているとしか読み取れません。その技術が持ちうる、政治的・社会的問題について、全く無頓着に高性能の衛星を開発するということは、果たして国の政策として適切なのか、疑問が残ります。

私はJAXAが安全保障目的の衛星を開発することに反対するわけではありません。宇宙基本法では、日本と世界の平和と安全にかかわる衛星を作ることは認められています。なので、原理的に「安全保障・防衛に関連する衛星を作るべきではない」という主張をするつもりはありません。

しかし、このSLATSを打ち上げた時、世界はこの衛星をどう見るのか、と考えると、変な誤解を生む可能性があるということは懸念しています。世界の宇宙コミュニティ、安全保障コミュニティ、諜報機関は「日本は高性能の偵察衛星を打ち上げた」と認識することは容易に想像できます。さらに「日本はなぜこれだけの高性能の偵察衛星を打ち上げる必要があるのだろうか?ひょっとして、関係が悪化している国に対して軍事攻撃を仕掛けるつもりなのではないか」という疑問が生まれる可能性も否定できません。

そういう疑問に対して、JAXAはどう答えるつもりなのか、全く明らかにされていません。仮に内閣府の宇宙戦略室が、将来にわたって日本が高性能の偵察衛星を保有し、それによって地域の平和と安全を守ることをめざし、その衛星が撮影した画像は公開する、といったことを表明するのであれば、他の国々の人達も、ある程度納得するかもしれません。ないしは、純粋に「現在、日本は外国からの脅威にさらされているから、それを監視する必要がある。しかし、これは外国を攻撃することを目的とせず、監視をするためだけに使う」という言い方でもよいかもしれません。

しかし、今回、概算要求に出された資料からは、その衛星が撮った画像をどう使うかもはっきりせず、内閣府からも、宇宙政策委員会からも具体的な説明はなされていません。 こうした透明性の欠如というか、どのような意図をもって衛星の開発をするのかという説明の欠如は、不要な憶測を呼び、日本に対する信頼を失う可能性もあります。

私が想像するに、今回のSLATSが概算要求に入れられたのは、宇宙基本法が出来て以来、JAXAは「研究開発ばかりしていて役に立つ衛星を作っていない」という批判にこたえるため、何とか役に立ちそうな衛星を開発しよう、と意気込んだからなのだろうと思っています。その意気は良いのですが、しかし、そうして頑張って高い性能の衛星を開発しても、それが「何のために使われるのか」ということがはっきりしなければ、余計な心配を招く結果になります。

つまり、問題は、JAXAが研究開発機関として、無邪気に技術開発に邁進した結果、意図せざる結果として、諸外国から不信感を招くというところにあります。JAXAも文科省も予算がなければ生きていけない組織ですから、何とかして予算を獲得するよう努力していると思います。しかし、予算を取るために何をやってもよいというわけではありません。きちんと、その技術を何の目的で、どのように使うのか、ということをはっきり想定した上で、そうしたニーズに合わせて技術開発をするのだ、ということを明確にする必要があります。

JAXAはこれまで研究開発機関として存在しており、新しい技術、素晴らしい技術を開発していればよい、という組織でした。日本の宇宙開発が半人前で、諸外国が持っている技術にキャッチアップするという時代であれば、それでも良かったでしょう。実際、JAXA(その前身のNASDA時代も含め)が急速な勢いで技術を取得し、日本の宇宙開発をリードしてきたことは素晴らしいことだと思います。

しかし、もう時代は変わりました。日本の宇宙開発は立派に世界で通用するものになり、一人前の宇宙開発を進める段階に来ています。そうした中で、無邪気に技術開発して、新しいもの、素晴らしいものを作ればよい、というだけでは生きていけない時代になったと考えています。

いま必要なことは、JAXAが無邪気に技術開発をすることではなく、日本がどのような衛星を、どのような目的で必要としているのかを精査し、その衛星を実現するために研究開発をする、という仕組みにしていくことです。

つまり、これまでは「衛星を開発しました。どうぞ使ってください」という技術開発→利用、という流れだったのですが、これからは「こんな衛星が必要だ。だから作ってください」という利用→技術開発という流れにしなければいけないのです。2008年に成立した宇宙基本法はまさにそれを目指しているものだと考えています。

無邪気に技術開発を続け、知らない間に軍事技術と同等のものを作り、諸外国から不審に思われるようなことは避けなければなりません。 そのためにも、利用目的と手段をはっきり定めた上で技術開発をするということが大事になります。言い方を変えれば、JAXAが無邪気に技術開発をすることは、技術者の暴走と取られても仕方がないことであり、日本という国のイメージ、信頼を損ねる結果になる可能性を秘めているということです。そうならないようにするためにも、利用目的を定め、JAXAの技術開発プログラムをコントロールするための司令塔である、宇宙開発担当大臣(現在は山本一太大臣)、宇宙政策委員会、内閣府宇宙戦略室が宇宙開発計画をしっかりと策定し、それに従ってJAXAは研究開発をする、という政策の流れを作ることです。JAXAが予算欲しさに無邪気に衛星を作ることは、その流れに反することであり、宇宙政策のあり方として適切な流れではないと考えております。

2013年9月13日金曜日

イプシロンを巡る諸問題



大変長い間、ブログの更新をサボっていましたが、アメリカでの研究生活を終え、帰国してようやっと元の生活に戻りつつある中で、そろそろ再開しなければと思い、久しぶりに筆をとっております。といっても、今回は、あるメディアの方から頂いた、イプシロンに関する質問にメールで答えたものを転載しているだけなので、「筆をとる」というほど大げさなものではないのですが…。

8月末の打ち上げが「中止」となったことで、ブログに出すタイミングを失っていましたが、9月14日に打ち上げが予定されており、うまくいけば当日のテレビや翌日の新聞にはイプシロンを巡る記事が溢れると思うので、今のうちに掲載しておこうと思います。以下のメディアへの回答は長いので、全文が掲載されることはないと思います。なので、ここで発表してしまっても問題はないと判断しています。

では、以下にメディアへの回答を転載しておきます。

・イプシロンの評価について

イプシロンについては、これまでのM-Vのコスト高を是正するという一点に集中して開発され、モバイル管制を含む、様々な革新的技術を実現するロケットとして、評価することはできます。

しかし、それは単なる技術面での評価であり、日本のロケット戦略、宇宙政策全体から見ると、果たして日本に固体ロケットが必要なのか、H-IIA/Bおよび新型基幹ロケットが開発される中で、日本にそれだけ多くのロケットを持つ必要があるのか、商業市場に参入するとしても、果たしてイプシロンが内之浦から打ち上げられることを前提にするとそうした商業的な競争力は射場設備も含めて十分なのか、さらにはミサイルと同等の技術であり、人工知能による打ち上げ管理など、極めて自律性の高い技術を導入する固体ロケットは、外国から見てミサイルの開発と疑われることはないのか、とりわけ中韓との関係が悪化している中で、また北朝鮮が核・ミサイル開発をしている中で、日本がイプシロンを今、この時期に打ち上げることが外国に対してどのようなメッセージとして伝わるか考えているのか、など、様々な点で疑問が残るロケットだと思っています。

ですので、個人的にはイプシロンは技術先行型の優秀なロケットではあるが、政策的にきちんと位置付けられておらず、むしろマイナスの側面もあるロケット、と評価しております。

・他国のロケットとの競争について

ドニエプルだけでなく、ロコットなどもあり、小型ロケット市場で勝負するのは難しいと思います。ドニエプルもロコットも元々はソ連のICBM技術の応用ないしは、ICBMそのものの流用であり、コスト面ではどう頑張っても太刀打ちできないところがあると思います。また、小型ロケットの市場となると、科学衛星や安全保障に絡む偵察衛星などが中心となるかと思いますが、日本にはそれだけの数の科学衛星がなく、仮に、現在、開発を検討している海洋監視衛星をイプシロンで上げるとしても、十分な実績を積むほどのチャンスはないかもしれないと考えています。時折、イプシロン関係者からは、コストの削減による商業市場への参入、といったことが聞かれますが、きちんとした市場調査をした形跡もなく、どのくらいの需要を見込んでいるのか、ということも定かではありません。ですので、現時点ではロシアのロケットと勝負するのは難しい状況にあると考えています。

・将来の打ち上げ計画について

最終的に、このイプシロンがどのような意図や目的をもって開発されたのか、ということを考えると、搭載する衛星が日本国内で2機しかなく、将来的に海洋監視衛星を打ち上げるとしても、極めて限られた数しかない、ということは、このロケットに実績を与え、国際市場で競争させるという意図はあまり感じません。

むしろ、イプシロンは、ISASJAXA宇宙科学研究所)がM-Vを失ってから、何とかISASのロケットを復活させたいと考えている人たちによって強くロビイングされ、文科省もそれを受けて開発していったものと見ています。また、それを支えた論理として「固体ロケット技術は将来のミサイル技術になりうるものだから、維持しなければならない」というものがあり、この論理で考えている政治家や産業界の方々によって支持されてきた結果であるともいえます。確かに固体ロケット技術はミサイル技術に転用可能な技術ですので、将来、日本が弾道ミサイルを開発するという戦略的なビジョンがあるなら、そうした技術を保持することは大事だろうと思います。しかし、現在進んでいる憲法改正の議論においても、敵基地攻撃に弾道ミサイルを使うといったところまで議論が進んでおらず、先制攻撃の手段であり、また抑止の手段である弾道ミサイルの技術の維持という論理は、かなり危ういものがあると考えております。

技術開発をしたいと願う人達が、こうした危うい論理をおもちゃにして固体ロケット開発をしているということであれば、ちょっと危険な火遊びのようにも思います。もちろん、これはあくまでも憶測ではありますが、全く根拠のない話ではないと考えています。

・今後の課題

イプシロンの持つ、革新的な技術は、これからのロケット開発において、大変有用なものであり、これをどう生かしていくかということが課題になると思います。しかし、上述したように、ミサイル技術としての性格を持つ固体ロケット技術を深化させていくとなると、無用な誤解を与える可能性もあり、ただでさえ、近隣諸国との関係がうまくいっていない現在、こうした無用な誤解が変な方向に発展する可能性もあります。それゆえ、きちんと政策的な意図をはっきり打ち出し、他国の懸念を払しょくする、ないしは、他国に懸念を抱かれないようにするための政治的なアクション(ジェスチャー)が必要だと思います。これまで宇宙開発は、ややもすれば技術者の論理が優先し、そうした国際政治や安全保障の文脈が見過ごされてきた側面があると考えています。宇宙基本法が成立して、宇宙と外交、宇宙と安全保障のリンクが強まった現在、そうした側面からの分析、考慮というのも必要になると考えています。これはイプシロンの課題というよりは、今後の日本の宇宙政策の課題だと思っています。

2013年4月13日土曜日

カーネギー財団主催、核・原子力政策国際会議でのパネルディスカッション

しばらくブログの更新をサボっていてすみません。サバティカルでアメリカにいるのは良いのですが、サバティカルであるがゆえに暇だと思われているのか、それとも授業などの理由で断ることが出来ないからなのか、とにかく出張が多く、また論文や原稿の締め切りにも追われており、ブログでまとまった文章を書く時間がありませんでした。

そのような出張の中で、記録に残し、皆さんにも見ていただきたいと思うものがあったので、久しぶりにブログに書き込む決意をいたしました(そのくらい気合を入れないと書けないわけではないのですが…)。しばらくお付き合いいただければ幸いです。

さて、その出張とは、4月8日にワシントンDCで行われたカーネギー国際平和財団(Carnegie Endowment for International Peace)主催の核・原子力政策国際会議(Carnegie International Nuclear Policy Conference)で、民間事故調(福島原発事故独立検証委員会)の報告書の紹介をするよう、カーネギー側からお誘いがあり、たまたまアメリカにいるという理由で私が民間事故調委員長の北澤先生やプロジェクト・リーダーの船橋洋一さんの名代として発表するということになり、2日間にわたって会議に参加した件です。

元々、船橋さんから連絡をいただいた時は私が一人で報告して質疑に答えるという形だと思って安請け合いしたのですが、その後、カーネギー側から「パネルディスカッションの形式にしてほしい」という要望があり、しかも向こうから誘っておきながら「すでに会議のプログラムは決定しているので、サイドイベント(プログラムの正式なパネルではなく、その場を借りて自発的に開催するパネル)としてやってほしいとのこと。しかも、サイドイベントなので朝早く、7:45から一時間という枠しかない、という話になり、ちょっと困ってしまいました。

そんな中で、どうせパネルを組むのであれば、福島原発事故当時にアメリカ側で対応した当時のNRC委員長のヤツコさんに頼んでみてはどうだろう、ということになり、私が窓口になってお誘いしました。また、ヤツコさんだけでなく、私が現在所属しているプリンストン大学で原子力政策、特にインドの原子力政策をやっているM.V.ラマナ研究員にもお願いして、「福島原発事故の検証:国際的視点から」ということで、私とヤツコさんとラマナさんの三人でパネルを組むことになりました。

すでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、ヤツコさんは2012年5月に任期を満了する前にNRC委員長の職を辞し、今はどの組織にも所属していない状態です。彼の辞任については、様々な風評も含め、色々な憶測があるようですが、それについては私からあれこれ言うこともできないので、ここでは控えておきます。ただ、一部の報道にあるようなパワハラやエキセントリックな性格といった評価は、かなり違和感があります。私がお会いし、議論をしたヤツコさんは大変誠実な人であることは確かで、人の話をよく聞き、頭の回転の速い人であることも確かです。なので、私は最初から変な先入観もなく、大変有意義な議論をさせていただきました。

パネルディスカッションの前に打ち合わせも兼ねてパネルを組んだ三人と民間事故調の事務局を務めてくれた北澤桂さん(パネルの司会もしていただきました)などと一緒に会食した時の議論については、すでにツイッターでつぶやいており、それをまとめていただいているので、そちらをご参照ください(http://togetter.com/li/484921)。

さて、パネルディスカッションですが、初日の朝7:45、まだ会議の開会式が始まる前のセッションであったにも関わらず、立ち見が出るほどの盛況ぶりでした。元々この会議は核不拡散問題を中心に、軍縮畑の人たちが集まる世界最大の会議で、それが核戦略や原子力安全、核燃料サイクルなどなど、核と原子力(英語にすると両方ともNuclearですが)にかかわる政策的な問題を専門にしている研究者と実務家、ジャーナリストが集まる会議で、50ヶ国ちかくから800人以上が参加する会議です。我々のセッションの部屋は70-80人くらいの収容規模だったので、参加者の一割に当たるわけですが、朝早くそんなに人はいないだろうと思っていたら、立ち見がでて、延べ150人近くの方に来ていただいたのは完全に想定外でした。

とはいえ、その人たちがみんな福島原発事故に関心があるのか、と言われると少しためらってしまうところがあります。もちろん核・原子力政策に関心がある人は福島原発事故に関心があるので、関心があって当然ともいえるのですが、朝早くからそれだけの人を集めることが出来たのは、やはりNRC委員長を辞任して以来、ほとんど公の場に姿を現さなかったヤツコさんの話を聞きたいというモチベーションがあったからなのだろうと思います。その意味で、多くの人に民間事故調の報告書の紹介が出来たのは良かったと思いますが、皆さんの関心がヤツコさんにあったとなると、少し歯がゆい感じもします。

さて、パネルディスカッションですが、本当はパネルのディスカッションにしたかったのですが、一時間という枠しかなく、しかも想像以上にオーディエンスが多かったので、三人のオープニング・リマークスを終えた後、すぐに質疑応答に入るという段取りに変更しました。オープニング・リマークスとして、私は民間事故調の報告書の論点を取り上げ、特に「絶対安全神話」が原発安全規制の基礎となる考え方にあり、それが結果的に「備え」の欠如や複雑な規制ガバナンス体制、さらにはスリーマイルアイランド事故やチェルノブイリ事故の教訓を受け入れなかった理由となった、という話をし、官邸の対応が遅れたことはそうしたガバナンスの問題であったことや日米協議が当初スムーズに進まなかったことについても、責任の所在が不明なことが多く、東電と政府の間の情報共有が不足していたため、アメリカ側のフラストレーションがたまり、それが日米で異なる判断に結びついて、適切な危機管理コミュニケーションが出来なかった点などを指摘しました。

その次にヤツコさんにお話しいただいたのですが、非常に興味深い話で、ニューヨークタイムズの記事(http://www.nytimes.com/2013/04/09/us/ex-regulator-says-nuclear-reactors-in-united-states-are-flawed.html)としても取り上げられました。まず彼は、福島の事故は「日本の事故」として受け止めるべきではなく、原子力安全規制にかかわる者全てが自分の問題として捉えるべきである、という発言から始めました。直接言及はしていませんでしたが、国会事故調が福島原発事故を"made in Japan"の事故として描いたことに対する批判でもあったかと思います(今のところ、日本から出されている英語の報告書としては国会事故調の英文抄訳が一番流通している)。

ヤツコさんは私の報告を受けて、「アメリカにも『安全神話はある』」として、これまでの規制者としての経験から、日本のようにシステムレベルでの安全神話はなくとも、アメリカの原発のオペレーターにも、規制者にも自発的にどこかで事故は起こらないもの、事故が起こっても一定の想定の中で起こるものという認識がある、という話をしていました。特に問題として挙げたのは、アメリカにおける確率論的リスクの考え方で、それぞれの機器が同時に壊れることはない、という想定から、一つ一つの機器が壊れるリスクを掛け算してリスクが低いと結論付けることに疑問を呈しました。これは、福島第一原発が津波によって電源を失い、本来個別に壊れていくと想定されていたものが一気に同時に壊れるというのを間近で見ていた実感なのだろうと思いました。

また、ヤツコさんが指摘した重要な点は、これまでアメリカでも世界中でも、事故が起こった時の直接のインパクト(Immediate Impact)についてはしっかり規制してきたが、長期的なインパクト、特に社会経済的なインパクトについては十分考慮してこなかった、ということです。これまで原子力安全の考え方は、あくまでも施設の安全を考えるということが第一であったわけで、周辺住民が避難し、長期的に家に帰れない、これまでの財産や仕事を全て失うという状況は、アメリカでは想定されてこなかったと指摘。特に放射性物質による汚染をいかに軽減するのか、ということを考えるべきだ、ということを指摘しました。

そして、これが新聞などで大きく取り上げられる発言となったのですが、アメリカも世界もこれからは「より安全な電源」を考えなければならない、という話をしました。すぐに全ての原発を止めるのは合理的ではないが、すでに40年以上の運転をしている原発の安全性は十分とはいえず、1979年のスリーマイルアイランド事故以来、新規原発を作ってこなかったのだから、現在稼働中の原発は全て何らかの問題があるとして見直していくべきであり、事故が起こったとしても長期的な社会経済へのインパクトを下げるための準備が必要だ、という話をしました。このカーネギー財団の会議は核不拡散や原子力政策の専門家が集まる会議なので、核兵器をいかに使わないようにするか、原発をいかに安全に使うか、ということは議論しても、極端な核廃絶論や原発廃止論という議論は出てこない会議なので、ヤツコさんの発言はかなり驚きを持って受け止められました。もちろんヤツコさんも即座に原発をなくせと言っているわけではなく、より安全な小型原子炉への移行や新しい安全措置を施した原発へのリプレイスといったことを話していたのですが、過去のいきさつもあり、ヤツコさんがかなり過激な発言をしたということで話題を集めました。

その後、ラマナさんはインドにおける原子力安全規制の問題について報告したのですが、これも実は重要なメッセージがたくさん入った良い報告でした。彼は2013年の2月にThe Power of Promise: Examining Nuclear Energy in India(http://www.amazon.com/Power-Promise-Examining-Nuclear-Energy/dp/0670081701/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1365801732&sr=1-1)という本を出版したばかりで、まさにインドにおける経済成長に必要な電源を原子力で賄おうとしている中で、政府が原子力推進一辺倒の立場に立っていることに警告を発し、インドの市民団体が原発建設反対運動をしている最中に福島原発事故が起こったことで、インドの多くの人が原発建設を推し進めることに疑問を持ち始めているとの話を紹介していました。その中で、インド政府は何とかして反対する市民団体を説得するために、日本における「絶対安全神話」を持ちだし、福島原発事故を「日本の事故であり、インドでは同じことは起こらない」という、かつて日本がスリーマイルアイランド事故やチェルノブイリ事故を無視したのと同じ状態が起きていることを指摘しました。

質疑応答ではやはりヤツコさんの発言に質問が集中し、アメリカの原発の中でもどこが問題があるのか、といったことや彼がユッカ・マウンテンの決定を遅らせたのも福島原発事故の影響だったのか、といった質問が多くありました。福島原発事故に関連するものとしては、当時の日本政府の対応のまずさがなぜそうなったのか、情報発信が適切でなかったのはなぜか、どうすれば適切な情報が提供できるか、また日本が原発安全規制のガバナンスを変えていく中で、今、何が問題なのかという質問がありました。情報発信については、いろんな人があれこれ言うことを止めることはできないが、政府がきちんと「権威を持って説得力のある情報提供」をすることが大事なのに、福島では東電、官邸、保安院がバラバラで説明し、枝野官房長官が取りまとめをしようとして結果的に情報が出にくくなったことが問題であると指摘しました。また、新しい体制は安全規制についてはしっかりしようという努力が見られるが、核のセキュリティ(原発施設や核燃料の防護)などについてはまだ十分な措置が取られていないという点についてを説明しました。

このように、大変中身の濃いパネルディスカッションとなりましたが、民間事故調が2013年末に英文の報告書を出すこともあり、それへの関心も持ってもらえるようになったので、とりあえず私に与えられた役目は果たしたかな、と思っています。

ここからは余談ですが、今回、このカーネギー国際平和財団の会議に出たのですが、予想していたよりもはるかに人が多くてびっくりしました。しかも、その中で女性が多いことが特に驚きでした。半分とまでは行かないですが、3割くらいは女性で、アメリカだけでなく各国から来ている参加者も女性が多かったです。普段、宇宙関係の国際会議に良く出ますが、宇宙は男性が圧倒的に多く、女性もいないわけではないですが、やはり1割程度。なぜ核不拡散や原子力政策にこんなに女性が集まるのか、ちょっと不思議ではあります。なお、ヤツコさんの後任の現在のNRC委員長も女性ですね。

それと、元々核不拡散の問題を扱う会議なので、ロシアの存在感が非常に大きかったということです。宇宙でもロシアは十分存在感があるはずなのですが、それほど目立つという感じではありません。しかし、核戦略や不拡散の問題となると、どうしてもロシアを外すわけにはいかないのと、このカーネギー財団の会議がある意味では、米ソ冷戦時代の対話のチャンネルとして機能していた(いわゆるトラック2)ということもあり、パネルにはアメリカ+ロシア+もう一人、といった感じの組み合わせが多かったのではないかと思います。

もう一つ、雑感として持ったのが、それでも核が一番重要、という議論はどこまで現実を反映しているのか、ということへの疑問でした。参加したセッションの一つに「サイバー攻撃や対衛星攻撃に核は報復として使えるか」というタイトルのセッションがあり、さすがにパネリストも無理な設定だと苦笑いしていましたが、それでもかなり真面目に核兵器が最終的な抑止力になるという前提で議論を進めていたので、かなり違和感がありました。核不拡散の問題に取り組む人たちは、当然、核兵器の恐ろしさを良く認識しているだけに、その核兵器が持つ圧倒的な力を使って、リスクをどう抑止するのか、という発想になりがちになるところに、普段から核問題をやっているわけではない立場から見ると強い違和感を覚えるところがありました。

だいぶ長くなってしまいましたが、カーネギーでの会議は大変有意義だったので、それが皆さんとシェアできれば幸いです。

2013年1月17日木曜日

ARGOとZero Dark Thirty

今回のブログはちょっと趣向を変えて、今年のゴールデン・グローブ賞受賞作であり、アカデミー賞の有力候補でもある二つの映画についてコメントしたい。なお、日本での公開はまだだと思うので、内容を知りたくない人は読まないでほしい(わざわざ読みに来ていただいているのに読むな、というのも変な話ですが…)。

=====ネタバレ注意=====

さて、この二つの映画だが扱っている時代が大きく異なるとはいえ、実話をもとにした脚本であり、CIAの活動がストーリーの中心であり、アメリカとイスラムとの関係を考える上では共通点も多い映画である。

ご存知の方も多いと思うが、ARGOは1979年のイラン・イスラム革命でアメリカ大使館が占拠された際、難を逃れた6人の大使館員をイラン国外に退出させるオペレーションの話であり、Zero Dark Thirtyは9.11後にCIAがオサマ・ビン・ラディンの居場所を突き止め、最終的に海軍の特殊部隊がオサマ・ビン・ラディン(UBL)を殺害するというストーリーである。

まず映画としての評を述べておこう。ゴールデン・グローブでは作品賞、監督賞がARGOと、その監督のベン・アフレック、主演女優賞がZero Dark Thirtyのジェシカ・チャスティンであった。いずれも受賞に値する見ごたえのある映画であり、映画館で見る価値のある映画である。

ただ、やはり作品賞をとっただけあり、ARGOの方が出来は良かった。コメディもやるベン・アフレックが監督をしただけあって、ストーリー展開は脚色が強く、ハリウッド的なストーリー展開(問題発生→問題解決→予期せぬ出来事でハラハラ→何とか英雄的な努力でギリギリ解決、の繰り返し)にきっちりはめてきたという感じ。台詞回しが洒落ていたり、ちょっと笑いを誘うものでもありながら、個人の力ではどうすることもできない時代の流れの中で苦悩しながら生きていく人々の姿を大変生き生きと描いていた。

それに対し、Zero Dark Thirtyは、あまりにも事実に忠実であろうとし、それゆえにエンターテイメントというよりも、ドキュメンタリーを見ているような印象が残る映画であった。CIAが全面的に協力したと言われているが、CIAはこの映画で使われた拷問による情報収集を否定しており、その辺が様々な憶測や議論を呼ぶところでもある。Heart Lockerを作った、キャサリン・ビゲローが監督したということもあって、大きな社会的コンテキストよりは、現場そのものを精密に描いていくというテイストが前面に出ていたこともあるだろう。

このように、二つとも見ごたえのある映画であったが、個人的にはやはりARGOが面白かった。というのも、やはり世界史的に大きな事件の中で、アメリカが有り余る力とアセットを持ちながら、結局、アメリカが世界とどう向き合うのか、コンスタントに悩んでおり、アメリカとイラン、アメリカとイスラム原理主義との関係が現時点に至るまでこじれ続けている姿が非常によく見えるからである。

イランで人質になった大使館員を救出することが最優先事項になってしまったことで、アメリカとイスラム世界との関係を再構築しなければならない転換点に戦略的な思考ではなく、目の前の人質救出からイランとの関係を考えなければならなかったことが痛いほどARGOから伝わってきた。最初から妥協と問題解決が優先され、イランへの反撃(制裁)が優先され、その結果、イラクを支援し、イラン・イラク戦争をけしかけていったことでアメリカの中東政策、対イスラム原理主義戦略がねじれてしまい、イラク戦争、そして「アラブの春」やリビア・シリアへの対策に至るまでの、アメリカの頭痛の種になりつづけた。その点で、ARGOが描いた姿は、単に「突拍子もない人質救出作戦を成功させた」というハッピーエンドの話だけでなく、その後のCIAやアメリカ外交の方向性も示唆するものであったように感じた。

その点、Zero Dark Thirtyは、ジェシカ・チャスティン演じるMaya(実在の人物ではなく、複数の人物を組み合わせたキャラクターのようです)が中心となってストーリーが展開しており、UBLの追跡にかける熱意と上司との軋轢、政権の無理解、情報の不正確さとの戦いに焦点があてられていて、あくまでもCIAという組織の枠組みの中での描写という側面が強かった。1979年よりもはるかに高度な技術を駆使し、より精細な情報が手に入るといっても、結局、諜報活動は人間が行うことであり、CIAという組織の論理の中で進んでいくことを明らかにしている点では面白かった。しかし、話がそこで止まってしまっているという印象も強かった。ARGOで見られた苦悩は影をひそめ、テロとの戦い、UBLの追跡と大きな戦略的目標は決まっているのに、その方法論でもめている、という印象が強いのだ。そこが今一つ、ARGOよりも共感というか、面白さを感じなかった理由かもしれない。

しかし、二つの映画を並べてみると、1979年も2011年も、政治は常に世論の圧力の中で、目標を達成するための手段を選ばなければならず、その手段の倫理性や正当性が問われるのだな、ということを強く感じる。1979年の時点では、まだCIAが国民の目の届かないところで活動し、結果を出すということができたが、2011年の時点では、全てがオンタイムで公開され、ネットを通じて情報が流通してしまうため、より一層、世論の圧力が大きくなっているような印象もある。もちろん、民主主義である以上、それは望ましいし、そうあるべきなのだが、実際に結果を出し、政策目標を実現しなければならないCIAの人たちは大変だなぁ、と同情をする余地もあるように思える。

いずれにしても、この二つの作品は見る価値のある映画だし、今年のアカデミー賞の有力候補なので、今後も見続けられる映画となるだろう。これから見ようと思っている方は是非両方とも見て、比べてみてほしい。

2013年1月3日木曜日

誰に向けた平和主義だったのだろうか

皆様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

さて、現在、日本の宇宙政策についての英語原稿を執筆している最中なのだが、書きながらふと疑問に思ったことがあるので、少し展開してみたい。

これまで日本の宇宙政策は1969年の「宇宙の平和利用原則」を定めた国会決議によって、防衛省・自衛隊が宇宙システムを開発・保有・運用・利用することは認められておらず、1985年のいわゆる「一般化理論」によって、商業的に提供されるものと同等の機能を持つ宇宙システムであれば利用することが可能とされてきた。

その後、2008年に宇宙基本法が策定され、国会決議の定義が緩められ、「日本国憲法の平和主義に則り」「国際の平和と安全および我が国の安全保障」に資する宇宙開発をすることが可能となった。

ここで思ったのが、これまでの「宇宙の平和利用原則」というのは一体どこまで世界的に理解されてきたのか、ということである。

論文を書くためにいろいろな文献に目を通していると、しばしば「日本の宇宙開発は将来的に軍事利用を目的としたものである」という、あまり根拠が定かでない決めつけに基づいて書かれているものが多く、かなり辟易してくる。

これは、冷戦期から現在に至るまで、宇宙開発が軍事利用と分かちがたく発展してきた結果であり、とりわけアメリカ、ロシア、中国などの論者はこうした「宇宙=軍事利用」を疑うことなき前提として捉えている傾向がみられる。宇宙政策の専門家であれば、日本の状況に対する理解を示すものも少なからずあるが、とりわけ軍事戦略や軍事技術開発を専門とする人たちから見ると、日本の宇宙開発は表面的には平和利用を謳っているが、その本心には軍事利用があると見る人が大半である。

このこと自体は特に驚くことでもないのだが、私が気になったのは、果たして日本の「平和利用原則」は誰に向けられたものだったのか、ということである。

宇宙政策に詳しい人なら改めて言う必要もないが、1969年の国会決議が採択された背景には、アメリカのロケット技術を導入して日本の国産ロケットを作るという話があった。アメリカのロケットは軍事的な目的で開発された技術だから、日本政府も軍事的な目的で技術導入をするのではないかといった疑いがあり、そうではないことを証明するために、全会一致で衆議院で採択したのが「宇宙の平和利用原則」決議である。

この決議の下敷きになったのは原子力基本法における「平和の目的に限り」という文言の解釈であり、ここには自衛隊が開発・運用・利用してはならないという解釈があった。それをロケット技術に当てはめたのが「宇宙の平和利用原則」決議ということになる。

つまり、この決議は国民に向けた、政府は宇宙開発を軍事的な目的に利用せず、完全に自衛隊を排除した宇宙開発をするという宣言という性格を持っている。

ここまでは特に違和感なく理解できるのだが、この決議が「国民に向けた」ものでしかなく、「世界に向けた」宣言になっていないというところに違和感を持つのである。つまり、「平和」という国際システムの中で実現しなければならない事象を、国内に向けてしか考えていなかった、という点に違和感を持つのである。

平和の定義は案外難しいのだが、とりあえず現存の国際秩序が維持され、武力紛争の無い状態とするとしても、「宇宙の平和利用原則」すなわち、日本の宇宙開発が平和の目的に限り行われると宣言し、他国に対して攻撃的な意図を持たないだけでなく、他国の軍事活動を偵察したり、自衛隊の部隊運用のために通信衛星を使うと言ったこともしない、という宣言は、外国から見れば、奇妙なものと映るであろう。というのも、平和を守り、現存の国際秩序を守るためには、他国の情勢を監視し、紛争に至る可能性のある出来事を、紛争に至る前に解決するのが当然と考えるからである。にもかかわらず、日本の「宇宙の平和利用原則」は、そうした偵察などの行為すら否定するものとして解釈されてきたのである。これでは、外国の軍事戦略の専門家が、日本の「平和利用」の概念を疑ってかかっても仕方がない。

つまり、日本の「宇宙の平和利用原則」というのは、自衛隊を宇宙開発から遠ざけて、国民がとりあえず安心するという、国内向けにのみ取られた宣言であり、外国から訝しく思われることには注意を払わず、外国に対して「日本にとっての平和利用とはこういうものである」といった訴えかけをすることもない宣言であったのである。言い換えれば、「宇宙の平和利用原則」は、国民を満足させるだけの自己満足のための規定であったと言わざるを得ないということである。

既に、2008年の宇宙基本法で、これまでの「宇宙の平和利用原則」の解釈は変更され、こうした自己満足という要素が取り除かれ、「国際の平和と安全および我が国の安全保障」に資する宇宙開発が出来るようになったということは諸外国から見ると、よりわかりやすい定義になったと考えている。実際、アメリカ、欧州、中国の研究者や外交官などと話していると、宇宙基本法の立場の方がよく理解されることが実感できる。

私は、日本国憲法の平和に対する考え方は素晴らしいものがあると思っているし、その理念は守られるべきだと考えている。しかし、その平和憲法の考え方を歪めて解釈し、「宇宙の平和利用=自衛隊が使わないこと」といった、現実に合わない原則にまで展開することには異議がある。私は宇宙の平和利用とは自衛隊を遠ざけることではなく、政府が積極的に宇宙を利用し、紛争が起きる兆候を早期に発見し、紛争に至らないための交渉を行って、武力行使をせずに国際紛争を解決するという意味だと理解している。そのためには、偵察や国連平和維持活動などのために自衛隊が宇宙システムを利用することは積極的に行うべきだと考えている。大事なことは、その自衛隊をきちんと管理し、日本が他国と武力によって紛争を解決するようなことが起こらないように政治が働き、国民がそれを監視することだと思う。その意味では、宇宙システムを自衛隊から遠ざけるだけで安心するのは単なる思考停止でしかなく、本当の意味で平和を求める姿ではないと考える。その点から考えても、宇宙基本法の考え方は積極的に評価したい。

いずれにしても、平和は自己満足からは生まれない。平和を維持し、平和を作り出すためにどうするべきかを真剣に考え、自らが行動を起こすことで平和は成立する。いかにして武力行使をしないで国際的な紛争を解決するのか、という点に目標をおいて、その上でどのような防衛政策、宇宙政策を取るべきかを考えていくのが、これからの日本にとって重要と考える。

その意味では、昨年末に政権交代が起こり、憲法改正を勇ましく叫ぶ自民党政権、安倍政権には若干の不安を感じる。平和憲法を歪めて解釈し、自己満足で平和が成立すると考えるのも愚かだが、逆に憲法を改正して、それで平和が成立すると考えるのも愚かである。この両者は、平和を守るという行為を単純化し、内向きな自己満足だけで平和が成立すると考えている点で、コインの裏表でしかなく、思考停止状態から一歩も踏み出していないとしか言いようがない。政権交代後、安倍政権は勇ましい言説を鉾に収め、現実主義的な政策を展開しているように見えるので、当面、この傾向が継続することが望ましいとは思うが、今年夏の参院選で自民党が勝利し、憲法改正の条件が整ってくると、そうともいかないような気もしている。この不安が的中しないことを望むしかない。

2012年11月21日水曜日

宇宙政策委員会の「公開」について

ツイッター上で科学ジャーナリストの松浦氏(@ShinyaMatsuura)が提起した、宇宙政策委員会の公開について、ちょっとした議論になったので、ここで私の考えをまとめておきたい。なおツイッター上の議論はhttp://togetter.com/li/410648にまとめてあるので、こちらを読んでいただくと議論の流れがわかりやすくなるかと思います。

基本的な論点は、宇宙政策委員会の議論は公開すべきであるという松浦氏の意見に対し、私はその必要はないと考えているというところにあります。松浦氏と私は当然立場も違えば考え方も違うので、議論がかみ合わないのも仕方がないのですが、やはり宇宙政策委員会での審議は公開すべきではないというのが私の結論です。

私はすでに「原子力安全委員会の公開について」というテーマでブログに書いているので、そちらとも議論が重複するところはありますが、宇宙(や原子力)のように安全保障に関連する技術であり、国家が深く関与している技術政策を巡る審議をどう取り扱うかは難しい問題だと思っています。それだからこそ、安易に公開することに抵抗があります。なお、ここで「公開」と言っているのは、審議をオンタイムで公開するということを意味しており、事後的に議事録を公開することを指しているわけではありません。

その理由として、第一に審議を公開することは審議そのものを形骸化させる懸念があるからです。原子力安全委員会もそうでしたが、審議を公開し、人々の前でライブで公開するということは、審議を担当する委員が、周りの目を気にし、自分の発言を当たり障りのないものにしようとする意識が働く可能性を高めます。それは必然的に、事前の打ち合わせや水面下での交渉でだいたいの落とし所を決め、表に出てくるときはすでに大方の流れが決まった中で審議をするという形になってしまう可能性があると考えています。なので、結局、公開をしても、それが形骸化したものであれば、闊達な議論や審議プロセスの透明化に資するものにはならないのではないかと考えています。

第二に、宇宙政策委員会と宇宙開発委員会の性格の違いを踏まえた上で考えると、審議の内容がより複雑な利害関係者を巻き込むため、より一層公開の場での審議にふさわしくないと考えています。かつての宇宙開発委員会は、簡単に言えば「宇宙ムラ」の中の議論であり、関係者は文科省を中心に、わずかな数の省庁と部局にかかわり、多くの審議事項がJAXAの活動を巡るものでした。しかし、宇宙政策委員会が扱う内容は、単なる宇宙技術の研究開発のプロジェクトだけでなく、安全保障の問題も含めた、幅広い利用の問題を取り扱い、関連する省庁も非常に多くなります。また、宇宙政策委員会で審議し、決定する内容は必然的に他の省庁の予算や権限にも影響するため、本気で審議をするとなると、各省庁のエゴや利害が見えてくるようになります。そうしたことを見せたくない省庁は、どんどん水面下に潜ってしまい、国民の知らないところで政策決定がなされるようになり、表に出てくるのは台本で書かれた表向きの議論しかない、という状況になります。

第三に、安全保障も含む宇宙利用ということになると、宇宙政策自体が外交的、対外的な意味合いを持ってくるようになります。一般に外交政策を公開の場で決めることはしないのと同様に、宇宙政策も公開の場で決めるような性質のものではなくなってきていると考えています。外国との駆け引きや戦略的な調整が必要になってくる中で、公開の場で審議しなければならないということになると、日本に情報がもたらされなくなる、というリスクもあると考えています。

これは宇宙開発委員会の時代にもあった話で、たとえばロケットの失敗に関する報告が公開されると、詳細なエンジンの設計や不具合の報告が公開されることになりますが、これは輸出管理規制における「みなし輸出」と呼ばれる規制に引っ掛かる話になってしまいます。「みなし輸出」とは、実際の物品の輸出ではなく、技術情報や設計図など無形の技術が流出することを指し、こうした技術が良からぬ国家にわたることで、その国の軍事的能力を高める可能性を阻止するための規制です。

また、宇宙政策委員会でも宇宙状況監視(SSA)や滞空型無人航空機などの問題が議論されますが、そうしたプログラムについては、日本だけでなく関係する他国の問題にもなってきますので、日本の安全保障政策やグローバルガバナンスのための情報共有の問題などが含まれてきます。こうしたテーマを議論するに当たり、公開の場で審議をするのは適切ではないと考えています。

このように、公開をすることによってマイナスの側面が大きく出てくるということを懸念しているため、宇宙政策委員会での議論は公開にしない方が良いと思っています。

ただし、先にも述べたように、ここでの「公開」というのはオンタイムで、目の前にジャーナリストや国民がいる状態での「公開審議」を指しています。このようなオンタイムの公開はしない方がよいと思っていますが、最終的な議事録の公開はすべきだと思っています。政策決定を判断するうえで、議事録をきちんと誠実につけ、それを公開することは民主主義国家の責務だと考えています。

しかし、議事録の公開も全てを即時に公開する必要はないと思っています。安全保障や各省庁間の利害調整と言った、表に出しにくいものの基準を明示的に決め、その基準に該当するものは3年とか5年といった時間を置いて公開するが、それ以外のものは審議の一週間後に公開する、といった原則で運用することは可能だと考えています。

なので、結論として、このようなオンタイムの公開をせずに一定の基準を設けた上での議事録の公開という形であれば、より闊達に審議が行えると考えており、また、そうした一定の時間を置くことによって、より適切な議論の場を作り出すことが出来るのではないかと考えています。

2012年11月5日月曜日

暗闇で考えたこと

日本でも大きく報道されたハリケーン・サンディは私が住むニュージャージー州を直撃し、大きな被害を出した。日本での報道はニューヨークの被害に関するものが多いが(経済的、政治的インパクトや記者の所在地を考えれば当然だが)、ニュージャージーも沿岸部を中心に大きな被害が出ており、浸水や停電、物資の不足など全域にわたって被害が出ている。

私個人はハリケーンが接近する直前にカリフォルニア州にあるスタンフォード大学での会議に出るため、東海岸を離れており、直接ハリケーンの猛威を目にすることはなかったが、出張中も気が気ではなく、カリフォルニアでは「全く役に立たない」と言われているWeather Channelにくぎ付けであった(カリフォルニアは常に天気が良いので、天気予報が不要)。

ハリケーンが過ぎ去った直後に空港が再開したため、ちょうど帰りの便に間に合い、予定通り東海岸に戻ってきたが、鉄道が止まっていたため、空港から家まではタクシーで帰るしかない状態であった。しかも、主要な幹線道路でも倒木のため通行止めになっている区間が多く、住宅街の中をカーナビを頼りに行ったり来たりしながらの帰り道となった。

家にたどり着いた時には既に家は停電していた。家にいた妻と娘は日曜日の夜から嵐の吹きすさぶ中、停電した家で留守番をしていたのだが、その間、傍にいれなかったのを申し訳なく思うと、「むしろいない方が食糧の減りが少ないから良かった」と、頼もしくも悲しい一言をいただいた。いずれにしても、この嵐と停電の中を切り盛りしてくれた妻には感謝してもしきれない。

さて、出張から帰ったのが水曜日だったが、金曜日の夜まで電気は復旧せず、オール電化の家であるのが災いして、急激に下がる気温の中でも暖を取ることができず、かろうじて蝋燭が明かりと火力と暖房の役割を果たすという状況であった。幸い、近所のスーパーマーケットが自家発電で営業していたため、食料や水の補給の心配はあまりなかったが、凍えるような室内で、蝋燭の火だけを使ってお湯(といってもひと肌より少し暖かい程度)を作り、缶詰の食糧を温め、その明かりだけを頼りに本を読むといった生活が2日続いた。

【東日本大震災の被災者の方々を想って】

こんな環境の中で真っ先に思いが至ったのは、昨年の東日本大震災で津波の被害にあった人たちのことであった。私も昨年の3月11日には東京に出張しており、帰ることもままならなかったのでホテルの宴会場の床で一晩寝るという経験をしたが、電気も食糧も暖房もある状況だったので、一晩だけの問題で済んだが、津波で家や家族を失った人たちが真っ暗な中、この先どうなるかもわからない状況に置かれて、かろうじて避難している姿をテレビで見たことが、今回の停電でいやでも頭によぎった。

今回のハリケーンは震災と異なり、いつ上陸するのかがある程度わかっており、どの程度の備えをしておけばよいかわかっていただけに、心の準備も物資の準備も出来ていたわけだが、東日本大震災の被災者の方々は、突然襲ってきた地震と津波ですべてを失ってしまったわけだから、その衝撃ははるかに大きいものだろうと思う。また、ハリケーンで家を失った人たちも多くいたが、多くの被災者は停電や物資の不足といった被害でとどまっており、時間が経てば復旧することが見込める被害であっただけに、先の見えない不安という点でも、それほど大きなものではなかった。

とはいえ、停電の中で生活することは不便であると同時に、自力で問題を解決できない苛立ちやいつ復旧するかわからないという不安、さらには「本来ならば○○であるのに、それができない」という不満は募っていくものである。特に暖房が止まっていたことで摂氏で5度を下回る気温になる朝晩は厳しいものであった。

東日本大震災の被災者と比べれば、全く問題にならないほどの被害であっても、これだけ精神的にも負担がかかると考えると、震災の被害者の方々の心中を推し量ることは果てしなく難しいということを強く感じた。それは、軽度であれ被害者の立場になって、被害のない地域(特に日本からの仕事のメールなどもこちらの状況はお構いなしにやってくる)との断絶感のようなものを感じながら、きっと震災の被害者ではないところに立っていた自分は、震災の被災者の方々のことを考えているつもりでも、実感を伴ったものではないのだ、ということを痛感することになった。

【大統領選への影響】

さて、停電で何もすることがない状態(実際は限られた資源を使って、何とか最低限の情報収集や生活をしなければいけないのでやることは多かったが、頭を使うことはそれほどなく、労働集約的な仕事が多かった)で、色々とアメリカにおける危機管理の問題について考えを巡らしていた。

まず気になったのは大統領選真っただ中にいるオバマ大統領の影が薄く、ニュージャージー州の知事であるクリス・クリスティが前面に出ていたこと。これは災害対策の中心には州知事が座ることになっており、連邦レベルの機関であるFEMA(連邦緊急事態管理庁)は側面の支援をするという形式になっているからなのだが、数年前のハリケーン・カトリーナではブッシュ大統領とFEMAの動きが遅く、被害への対応が出来ていなかったということで強く批判されていただけに、今回のハリケーンでは大統領が前面に出てくるものと想定していた。

しかも、大統領選の直前、いわゆるOctober Surpriseのタイミング(October surpriseについてはブログに書いたのでご参照ください)であり、大統領選自体が極めて僅差の激戦になっているだけに、オバマ大統領はこれを機会に「大統領らしさ(Presidential)」を押し出し、颯爽と事態を裁いていけば指示を高めることができると思っていた。確かにオバマ大統領は選挙キャンペーンを一時中断し、被害の大きかったニュージャージーのアトランティック・シティ(カジノの街として有名)を訪れたし、共和党出身でロムニー支持だったクリスティ知事と協力することで、「大統領らしさ」は多少演出していた。しかし、「FEMAの予算は削る」とか「災害対策は州で十分」と言っていたロムニーを攻撃するには絶好の機会であるにも関わらず、そうした発言は一切なされなかった(民主党寄りのメディアはこぞってロムニー攻撃の材料を見つけてきたが)。

このオバマの対応は第一回の大統領討論会でも感じた、オバマの稚拙さ、ナイーブさ、優等生過ぎる態度につながっているような印象を受けた。一方でオバマの姿勢は紳士的であり、相手のミスに付け込んだり、被災者を政治の道具のように扱うということをしなかった、という評価もできるだろう。しかし、そうした甘さがロムニーのようにコロコロと発言を翻し、しばしば事実でもないことを担ぎ出してオバマを攻撃するという相手の前に、何となくひ弱な印象を与えてしまうような気がする。

こうしたオバマの甘さ、おとなしさはどこから来るのか、と言う話はまたゆっくり考えてみたいが、少なくとも今回のハリケーン災害でオバマは失点もしなかったが得点もしなかったという印象だった。結果として、このハリケーンは大統領選の行方には大きく影響しないだろう。ただ、被災地での投票が困難になったり、電子投票が出来なくなったため、紙の投票用紙が用いられ、その結果、開票が遅れるといった選挙事務上の影響はある。

【アメリカにおける危機管理とResilience】

今回のハリケーンではアメリカにおける危機管理の一端を垣間見ることができて、その点ではいろいろと考えさせられるところがあった。

まず背景として押さえておかなければいけないのは、昨年にハリケーン・アイリーンがアメリカ北東部に上陸し、大きな被害を出していたということ。ニュージャージーでも3-5日間の停電があったため、すでにハリケーン対策を昨年から始めていたことは大きな違いを生んでいる。アイリーンが直撃した際は、準備が出来ていないところが多く、電源を失って命を失った人や商業施設にも大きな被害が出たが、その教訓から多くの家で自家発電機が準備されており、スーパーなどでも発電設備を備えているところが多かった。

しかし、問題はガソリンスタンドだった。自家発電機の多くはガソリンで動くが(ガスで動くものもある)、タンクを満タンにしていても、一日くらいしか持たない。そのため、ガソリンスタンドには発電機用のガソリンを得るためのタンクを持った人が長蛇の列を作ったが、ガソリンスタンド自体が停電していて、地下のガソリンタンクからポンプでくみ上げることができない、という状態のスタンドが多く見られた。それらのスタンドも自家発電機を用意していたが、それでも不十分という状況であったようだ。

このような対処を見ていると、アメリカにおける危機管理というのは、リスクの発生確率を軽減するというところに向けられているのではなく、被害が起きても、その社会的インパクトを軽減するというところに向けられているように感じた。それは日本における危機管理とは大きく異なるものである。

日本における危機管理は、できるだけ被害が生まれないようにするため、リスクの発生確率を下げることに重点が置かれているように思う。建物の耐震設計やインフラの災害への耐性は、アメリカのそれとは大きく異なる。アメリカのインフラの方が圧倒的に脆弱であり、今回のハリケーンによる停電や変電所の事故、鉄道の運休、地下鉄の浸水防止など、発生確率を下げるための努力がなされていれば防げるものも数多く散見された。しかし、そうしたインフラへの投資が様々な理由で後手に回っており、それだけに災害に対してインフラが大変脆弱であることを身をもって感じた。

もちろん、日本のインフラも災害に対して完璧に対応できているわけではない。その代表例は福島第一原発であろう。津波に対する脆弱性に対する手当をしていなかったために、あれだけの大災害が起きたわけだが、同時に、より震源に近かった女川原発がなんとか事故にならなかったのは、津波の被害に合わない対策が出来ていたのと同時に、地震に対する耐性は高かったことの証明と言えよう。また、インフラの脆弱性といえば、関東地方で雪が降るとすぐに鉄道が止まるというのも、その脆弱性の一端といえるだろう。これは北海道に住まいのある身からすると、考えられないことだが、普段から雪が降る確率が低い地域である関東地方では、降雪対策をするよりは、雪が降った時には電車を止めてしまう方がよい、という考え方である、ということを意味している。

原発の事故と降雪時の鉄道運休を並べて議論するのはいささか問題があるかもしれないが、日本のインフラが常に災害に対して完璧に対応しているわけではない、という例として見ておいてほしい。福島第一原発の場合は、完全な瑕疵による脆弱性の表出であったのに対し、降雪時の運休は意図的に脆弱性を維持している状態であり、この両者が全く違うことも改めて指摘しておく。

さて、このようにある程度の脆弱性を抱えながらも、主として事故が起こることを未然に防ぐことにエネルギーを注ぐ日本では、逆に想定を超えた災害に直面した時の備えが決定的に欠けるという悪い面がある。その一つの例が津波に対する10メートルの防潮堤を二つも持っていたがゆえに、避難が遅れ、大きな被害が出た宮古市の田老地区であろう。津波による事故を防ぐために巨大な防潮堤を作ったことで、被害が出ないということを想定してしまったため、想定を超えた災害の場合の備えが欠けており、その結果、大きな被害がでた。同じことは福島第一原発のケースでもいえるだろう。「安全神話」の下、原発事故は起こらない、と想定してしまったことで、実際に事故が起きた際の対応が滅茶苦茶な状況になってしまったのである。

それに比べると、アメリカは最初からインフラが脆弱と言うことが想定されており、被害が出ることはある程度織り込んだうえで、いかに事故に対応していくのか、ということを常に考えているという点で、日本における危機管理とは考え方が大きく異なるという印象を受けた。つまり、発生確率を下げるための投資をするよりも、実際に被害が生じた際に、その被害を耐え、早急に復旧するということに全力を注ぐという考え方である。もちろん、アメリカも可能な限り、事故の発生確率を下げようという努力はしている。しかし、電線網の地中化のように巨大な投資が必要とされるような案件については、それだけの投資をするよりも、何年に一回か生じる被害に対処する方が合理的という判断なのかもしれない。いずれにしても、アメリカの場合、発生確率を下げるということ自体に重点が置かれていないことが多くの人に理解されているため、その事故や災害が起こっても何とか生き延び、そして復旧するというところに重点が置かれているのだと理解している。

その対処として発達しているのが保険である。アメリカにいると生命保険、医療保険の他、損害保険の広告などを多数見かけるが、様々なリスクに対する保険が充実しており、様々な事故や災害が起こるという前提で保険をかける人が多い。特に今回被害が多く出たニュージャージー州の沿岸部の住宅ではほとんどの人が洪水や浸水の保険をかけていたようである。

また、上記でも述べた自家発電機が多くの家庭や商業施設、公共施設に備えられているというのも、被害を限定するための備えと言えるだろう。昨年のアイリーンの時にはそうした備えが十分ではなかった(停電が想定よりも長かった)という意味では、アメリカでも災害の発生確率が高いということが十分認識されていなかったということになるが、それでも昨年の教訓から、今年はしっかり自家発電機を備えている家庭が多いというのは、災害に対する対処が学習によって向上したということになるだろう。

こうした、災害や事故に対する対処から回復するしていくことを英語でResilienceという。日本語にすれば「回復力」という訳になるだろうが、この回復力の強さというのが災害や事故の際には重要になってくる。アメリカの場合、事故や災害の発生確率が高いことが見込まれているため、それに対する備えがあり、そこからのResilienceが強くなる。逆に日本は発生確率を極力低くしようとするため、何かが起きたときのResilienceが弱い、という言い方ができるだろう。

しかし、Resilienceというのは、単なる物質的な備えというだけではない。災害や事故が起きても、それに耐えられるだけのメンタルというか、精神力も大きなポイントになる。実際、東日本大震災で被害にあった方々が、上記で述べたように、我々が想像できないほどの辛さと精神的な負担を背負いながらも、助け合い、整然と、そして厳粛に避難所での生活に耐え、復興に向かっていくというエネルギーに変えていくだけの精神力を発揮したことは、まさに日本のResilienceと言えるだろう。

さらに、Resilienceは個々人のレベルの問題ではなく、社会全体、政治の問題ともいえるだろう。アメリカのハリケーンの被害は大きかったが、かなり被害が大きかった電力網も順次復旧していったし、高潮と高波のせいで線路にヨットや多くのがれきが覆いかぶさっていた鉄道の路線も一週間もたたずに復旧し、水没したニューヨークの地下鉄も部分的ながら復旧している。こうした復旧に向けての資源の動員や人材の投入といったことができるかどうか、というのは社会全体のResilienceと言えるだろう。

それを考えると、東日本大震災の後のがれき撤去までは良くても、その後の復興庁の設置からがれき処分の問題、そして最近問題になっている復興予算の使い道まで含め、日本のResilienceには疑問の残るところが多い。確かに、個々人のレベルでは素晴らしいResilienceを見せた日本の人々が、いざ復興という段階に入るに当たり、そのResilienceを発揮できないのは、外国から見ると不可思議なものに見えるように思う。それだけ日本の政治行政の問題があるということなのだろう。

【最後に】

今回のハリケーン被害で一番役に立ったのはラジオとソーシャルネットワーク(SNS)であった。渡米する際、すぐに家具や家財道具が揃わないことを前提に、非常用の手回し充電式のラジオと懐中電灯が一体となったものを妻が荷物に入れて持ってきていたのが、こんな時にものすごい役に立った。東日本大震災の時にも確認されたことだが、停電している中でテレビを見ることもできず、唯一の情報源はラジオだった。やはり被災者の立場になるとローカルな情報を提供するラジオは不可欠なアイテムと言えよう。

また、携帯電話(スマホ)でツイッターやフェイスブックを通じて地元の情報を提供するアカウントをフォローしていたことで、ミクロレベルの情報(どこに電気が来ているとか、避難所がどこにある、どのお店が開いているなど)を逐一得ることができた。また、より広い範囲でのハリケーン情報も得られることができ、災害時のSNSの有効性を強く認識した。

日本でも報道されていたが、確かにSNSにはデマやガセ情報も流れていたが、これも東日本大震災の時と同様、すぐに否定されるようなデマやガセであり、緊急時の情報の信頼性を保とうとするSNS自体の自浄作用が働いていたように思う。

また、物資の点でいうと蝋燭の威力を改めて認識することになった。既に述べたように明かりとしても、火力としても、暖房としても機能した蝋燭だが、さすがに自宅周辺ではすぐに売り切れてしまっていたため、私が出張先で買い込んできた蝋燭が役に立った(その意味では出張していたことがまんざら悪いわけでもなかった)。しかし、大量に蝋燭をカバンに入れたまま飛行機に乗ろうとしたため、保安検査場では不信に思われ、念入りに荷物が検査されたことは言うまでもない。

また、手に入る蝋燭がいわゆる蝋の白いものばかりではなく、どうしても香りのついた、いわゆるアロマキャンドルが半分近くになったため、停電中は猛烈なアロマの中で生活する羽目となった。今後もシナモンアップルの香りをかぐたびに、あの停電を思い出すことになるだろう。

2012年10月23日火曜日

第三回大統領候補討論会

先ほど、第三回の大統領候補討論会が終わった。今回は外交・安全保障がテーマであったにもかかわらず、かなりの時間が国内政策、経済政策に割かれ、本来議論すべきテーマからどんどん外れていく討論会だった。

全体の印象としては、勝ち負けがつけられるような討論会ではなく、グダグダな討論会という印象。ただ、ロムニーは過去に発言した内容とずいぶん立場を変え、なんだかいい加減な印象を受けた。外交・安全保障は一般的に現職大統領が事実関係を押さえていて、有利に進められる討論会だが、今回もそうだったといえよう。オバマは「信憑性(Credibility)」という話を持ち出したが、ロムニーの発言がコロコロ変わるという点を踏まえていえば、オバマはきちんと自分の立場がはっきりしており、実績もあるので、この攻め方は適切だったように思える。

とはいえ、中身がグダグダで、何とも評価しにくい討論会だった。以下は討論会を見ながらメモ代わりに発信したツイートです。

第三回大統領討論会が始まった。オバマはいきなりロムニーの過去の発言に攻撃をかけた。確かに過去のロムニーの発言はいい加減なものが多かったが、ロムニーが「私を攻撃することで事態は良くならない」として反撃。最初の質問はロムニーが取った感じだが、あまり中身のない議論になってしまった。

二問目はシリア問題。ロムニーはアメリカがもっとリーダーシップを発揮すべきだといったところで、オバマは「まさしく我々がやっていることだ。この問題に両者の違いはない」と切り返し、引き分け。

三問目はエジプトの問題。ムバラク大統領に執着すべきだったか、アラブの春にどう対処すべきか、という質問だったが、ロムニーは過去にオバマの立場を支持していたので、議論にならず、いきなり「世界は平和なところになるべきだ」とアメリカ外交の一般論を展開。ロムニーは攻め手がない感じ。

次の質問は世界におけるアメリカの役割。オバマはロムニーがブッシュ政権の人たちからアドバイスを受けていることを指摘。ロムニーは強力なアメリカには強い経済が必要、と経済政策を滔々と語りだす。

この第三回討論会は外交・安保がテーマなのに、ロムニーが経済の話をはじめ、オバマがそれに応じ、今度はロムニーが教育政策について語りだした。司会の人は「外交政策に戻りたいんですけど…」といっても両者は止まらない。なんだかグダグダ。

司会は「ロムニー候補は海軍の拡張を主張していますが」という質問に対し、「軍の予算は削らない。私が削る予算は…」といってオバマの医療保険制度の批判。オバマはロムニーの減税プランを批判。誰も外交・安保の話をしていない…。

ようやっとロムニーが海軍拡張の話をし始めた。ロムニーは今は海軍の船が少ないから増やすと言い、オバマは今の時代、船の数で戦争するわけではない。馬の数で戦争するわけでもない。能力が問題と切り返す。これはオバマの勝ち。

今度は同盟に関する質問で、日本との同盟も質問には入っていたが、オバマはイスラエルとの同盟とイラン情勢についてのみ語る。ロムニーはイランへの制裁強化を主張するが、オバマの議論とそれほど変わらず、インパクトに欠ける。

オバマはNYTの米イラン核協議のニュースを否定。制裁を継続し、それが効果を上げていると主張。ロムニーはオバマ政権が国際協調路線やカイロ演説などを批判し、アメリカの弱さを見せたと主張。ロムニーの話はなんとなくネオコン的なナイーブさを感じる。

オバマは中東地域における外交で誰がCredibilityを持っているか、という問題設定。イラン制裁、対テロ対策、中東の人権などの実績を強調し、オバマがCredibilityがあると強調。面白い議論になってきた。

アフガン、パキスタン問題について、オバマ政権がやっていることを基本的に承認するロムニー。しかし、テロをなくすための包括的な政策を行っていないと主張。強いアメリカのリーダーシップでテロをなくす政策を展開すると言っている。強いアメリカに皆ついてくるという世界観がにじみ出ている。

司会が「アメリカにとっての脅威は?」という質問に対し、オバマはテロリストの次に中国を挙げた。中国に甘いという姿を見せたくないのだろうか?その後の話は経済の話になり、国内の経済(雇用)政策になっている。ロムニーはそれに応じ、中国を為替操作国にすると主張。

オバマは「ロムニーは中国をパートナーだというが、その通りだ。中国への投資で儲けていたからだ」と批判。この批判は今日二度目。

中国の話をしていたのに、自動車会社の救済の話にすり替わって行ってしまった…。中国=雇用=産業政策というのはわかるが、外交の話じゃないよぉ…。しかも、雇用、産業政策についての議論に一番力が入っている…。

もう討論会終了。司会のシーファーは何をやってるんだ。外交安保の話は全体の半分もなかった。日本、欧州、南米、エネルギー、温暖化もほとんどなかった。オバマ、ロムニーの締めの言葉も経済の話。それだけアメリカが内向きになっているということなのだろう。

以上です。

October Surpriseの失敗?

アメリカ大統領選も佳境に入ってきたが、オバマ、ロムニーとも支持率が拮抗しており、かなりの接戦が繰り広げられている。

現在(10月22日時点)で、オバマがほぼ押さえている選挙人の数は230人余り、ロムニーは208人という状況で、オバマが有利である(270人の選挙人を獲得すれば当選)。まだどちらに転ぶかわからないフロリダ、オハイオ州などでの選挙戦は壮絶な状況になっている。

今年の大統領選は、連邦最高裁の判決により、これまで制限が多かった政治活動団体(PAC)が中心ではなく、Super PACと呼ばれる、それぞれの陣営を応援する団体がフル稼働している。このSuper PACは気の遠くなるような巨額の資金を集め、それを選挙活動、特にテレビCMの資金に大量投入されている。たぶんフロリダ州の人たちはニュースでオバマ、ロムニーの顔を見るだけでなく、コマーシャルの時間まで彼らの顔を見なければいけないので、相当うんざりしているように思う。

さて、こうした激しい選挙戦を繰り広げている両陣営だが、大統領選の行方を占う大統領討論会も今日(22日)で三回目を迎え、これを最後に候補者は11月6日の投票日に向かって最後の追い込みに入る。

しばしばアメリカ大統領選の最終版には"October Surprise"と呼ばれる、大統領選に影響のある出来事が起きると言われている。1972年の選挙では、先日亡くなったジョージ・マクガバン候補と争っていたニクソン大統領は、10月にキッシンジャー安全保障担当補佐官が「平和はわが手にある」といってベトナム戦争の終結を訴え、選挙戦に影響を与えた。また、1980年のレーガン・カーターの選挙では、当時イラン・イスラム革命の影響でアメリカ大使館が占拠され、大使館員が人質になっていたが、カーターはイランに戦争を仕掛けるとワシントンポストが報じたことが"October Surprise"となった(結果としては戦争をせず、レーガンの大統領就任式の直後に人質解放)。

このような歴史があるなかで、今年の選挙の"October Surprise"になるかもしれない記事が10月21日付のNew York Timesに掲載された。それはU.S. Officials Say Iran Has Agreed to Nuclear Talksという記事で、アメリカがイランと核開発に関する協議を1対1で行うという話を匿名の政府高官がリークしたという話であった。これは外交・安保をテーマとする第三回大統領討論会の直前に流すニュースとしては非常に大きな意味があり、イランの核開発問題に対してオバマ政権が成果を上げたことになるため、ロムニー陣営は大きく動揺した。

しかし、本日(22日)の紙面では、U.S. and Iran Deny Plan for Nuclear Talksという記事を出し、アメリカ、イラン両政府とも、この協議に対する合意はないと否定している。

ウェブで読むと違いがわかりにくいが、紙面で読むと興味深い。21日の記事が一面右肩(重要記事が掲載される場所)にあり、誰もが目をやる場所に書かれているが、22日の記事は国際面の中に埋もれていて、気がつかなければ見過ごす記事になっている。

果たして、この21日の記事は"October Surprise"になりえただろうか?私はやや疑問を持っている。21日は日曜日であり、日本同様、アメリカでも日曜日に政治討論番組などがあるが、そこではほとんどこの記事が取り上げられなかった。それは、外交安全保障問題が、今の選挙戦にさして大きな影響を与える議題ではないこと、そして外交安全保障問題の中でも、アメリカが派兵しているアフガニスタンや、先月大使以下4人のアメリカの外交官が殺されたリビアの問題などは関心があるが、イランの核開発については、国民的な関心が十分にない、ということもあるだろう。

なので、もしNew York TimesがOctober Surpriseを狙って21日の記事を出したとしたら、ちょっと失敗したと言わざるを得ないだろう。選挙戦が拮抗している中で、民主党支持の立場を取ることが多いNew York Timesとしてはオバマ政権に得点を与えようとしたのかもしれないが、それは私が見る限り、失敗に終わったと言わざるを得ない。

とはいえ、オバマ政権はOctober Surpriseに頼らなくても、外交・安保問題ではそれなりの成果を挙げており、特にオサマ・ビン・ラディン殺害はアメリカ国民に「強く、能力のある大統領」というイメージを作ったと考えている。その後、ビン・ラディン殺害にかかわった海軍の特殊部隊(SEALS)の隊員がオバマ大統領を批判する発言などを発表し、普段、秘密のベールに覆われた部隊の隊員が最高司令官を批判したということで話題にはなったが、選挙戦に大きなインパクトを与えたわけではなく、この話はいつの間にか消えてしまった。

本日の夜には第三回目の大統領討論会が行われるが、オバマがここで自らの実績を前面に出して勝負をつけるか、それともロムニーがリビアの大使館員殺害事件などを材料にオバマを攻撃し、その信憑性を落とすことができるか、という勝負になるだろう。その勝負の行方が大統領選を決定づけるとは思わないが、第一回討論会でロムニーが作った流れを副大統領討論会、第二回討論会でオバマが食い止めた、という流れの中で、再びロムニーが勢いを取り戻せるか、それともオバマが押し返せるか、という流れを作る分岐点になるとは言えるだろう。