若田さんが国際宇宙ステーション(ISS)の船長となったことで、マスコミも久々の有人宇宙事業における朗報として、にぎわっている。私のこれまでの著作や論文、エッセイなどをご覧になった方はお分かりだろうが、私は有人宇宙事業そのものに対して批判的ではある。しかし、ISSという事業が存在し、日本がそこに参加し、国際的なコミットメントをしている以上、ISSの運用が終了するまでは、それをすぐさま止めるべきだ、と主張するつもりはない。もっともすぐ止めるという判断を政府がするなら、それは歓迎するが。
ただ、今回の若田さんのISSへの打ち上げを巡る報道を見ると、私が見た範囲でも朝日新聞や東京新聞(私のコメントも掲載)は、打上を歓迎すると同時に、有人宇宙事業を見直す問題提起をしており、これまでの歓迎ムード一辺倒ではない点が興味深かった。
さて、そんな中でツイッターを通じて一つ質問を受けたので、ここでそれにこたえたいと思う。ツイッターは思いついたことを呟くには便利なツールなのだが、まとまった意見を求められると、140字という制約の中で議論を展開するのにはあまり向いていない。なので、字数制限のないブログで書かせてもらっている。
その質問とは次のようなものであった。
日本に船長枠が少なくとも一つあることと、誰がいつ船長を務めるかについての鈴木先生が考えるあるべき姿の間に、どのような関連があるのか、よろしければお聞かせいただければと思います。
この質問の背景には、私がツイートしたいくつかのコメントがある。それらを全部転載するのは読みづらくなるため避けるが、基礎となるコメントは次のものだと考えている。
若田さんを持ち上げるのは良いのだが、逆に言うとそれ以外の日本人宇宙飛行士は船長になるだけのレベルではなかったということを暗に示している記事になってしまっている。 / 若田さんに続け 新人宇宙飛行士、訓練に奮闘 http://s.nikkei.com/1evGlB4
(https://twitter.com/KS_1013/status/399318089117859840)
米ロの他にカナダ、ベルギー(欧州)も船長を出している。ISSに出資している国の中では最後の船長。
(https://twitter.com/KS_1013/status/398461442472419329)
さて、質問に戻るが、まずコメントしておきたいのは船長枠が確実に一つある、というわけではない、という点。これまでISSの船長(コマンダー)は宇宙飛行士の量も経験も豊富なアメリカとロシアが中心であり、それ以外のISSパートナーはベルギーとカナダが船長を1人ずつ出している。しかし、この船長枠は最初からあったわけではなく、各国間の「あうんの呼吸」で作られたものであった。ISSの運用を取り決める政府間協定にも船長の枠を参加国に平等に分配するという規定はない。ただし、そこは国際協力の枠組みなので、参加国にも当然配慮することは暗黙の了解となっている(でなければ協力関係がぎくしゃくする)。
そこでISSが完成し、運用が落ち着いてきてルーティーン化されるようになると、米ロ以外の船長も、という話になってきた。しかし、その枠も数が決まっていたわけではない。あくまでも適任者がいれば採用する、という形であった。
ベルギー出身のFrank de Winnieは2009年に船長となった人だが、彼は政治的な発言力も強く、宇宙飛行士としてEUの宇宙政策の支援や、様々な政策立案にも関わるほど、アイディアを持ち、それを押し通す個性の強さを持つ人物である。彼が初めて米ロ以外の船長になったのは、欧州(ESA)の強い働きかけもあるが、彼自身の持つ個性や「我の強さ」もあったと思われる。
カナダ出身のChris Hadfiledは宇宙ステーション滞在時にDavid Bowieの名曲であるSpace Oddityを歌い、それをカナダ宇宙庁(CSA)が編集してYoutubeに載せたことで、世界的な有名人になった人である(そのビデオはこちら。ものすごくクオリティが高いし、歌も上手い)。 彼は、この一件だけでなく、かなりの時間を教育プログラムに当てており、カナダの小中学生向けに宇宙授業を行うということで国民的な人気者でもあった(その一つがこちら。これ以外にも彼の名前で検索すれば様々な宇宙実験の映像が出てくる)。
こうした強烈な個性とリーダーシップ、人間性を備えた人となると、日本の宇宙飛行士の中では若田さんが突出していると言わざるを得ない。日本人宇宙飛行士は、厳しい試験を乗り越え、密度の濃い訓練プログラムをこなし、能力的には非常に高い。しかし、それは逆に日本人宇宙飛行士をおしなべて「優等生」化してしまい、優れてはいるけど、飛びぬけてはいない、という状況を作り出してしまったと考えている。
そんな中で若田さんはご自身の外国での生活経験などもあり、欧米社会における文化や所作を理解しており、その中でリーダーシップを発揮することの意味ということを十分踏まえて宇宙飛行士のコミュニティの中で存在感を放ってきた。彼は単なる優等生でも、経験を積んだ宇宙飛行士というだけでもなく、そうした欧米社会に受け入れられる人物としてのクオリティを持っている人だと考えている。
ここで「欧米社会」という点を強調するのは、「国際」宇宙ステーションでありながら、アメリカが圧倒的な影響力を持ち、それをカナダ、欧州がサポートするという社会であり、決して「国際社会全体」を代表するものではないからである。つまり、ISSに搭乗する宇宙飛行士、それを運用する人たちのほぼ全てが「欧米社会」の価値観を共有しているのが宇宙ステーションなのである。このことを見誤ると話がずれてきてしまうので、敢えて「欧米社会」という点を強調している。
そうなるとロシアがいるじゃないか、という反論もありそうだが、ロシアは確かにISSの参加国であり、唯一ISSに人を運ぶ手段を持っており、ISSには不可欠なパートナーである。しかし、ISSのそもそもの始まりが冷戦期にソ連の宇宙ステーションであったミールに対抗するための宇宙ステーション「フリーダム」であり、ロシアが参加するのはソ連崩壊後の1993年で、その時には既にISSの計画、運用ともアメリカが中心になることが決まっていた。つまり、ロシアはソ連崩壊後に迷走した宇宙計画の出口として、またポスト冷戦の和解の象徴としてISSに参加しているが、その中でリーダーシップを発揮し、ISSを「自分のプロジェクト」にする意思はないため、ISSの文化に影響を与えるまでに至っていない。
少し話がそれたが、このようにISSが「欧米社会」の文化的価値観によって動いている中で、日本は当然不利な地位にある。日本の宇宙開発は、これまでいろんなところで述べてきたように、キャッチアップが目標であり、ISSに参加するということはその一環であった。なので、日本はこれまで「欧米社会」に溶け込もうと努力をしてきて、その「欧米社会」の中で認められようと努力してきたのである。その努力はすさまじかったし、それを達成したことは賞賛されるべきである。
であるからこそ、若田さんが船長になるまでに日本人が船長にならなかったことを問題視するのである。日本は「欧米社会」であるISSの中で認められ、「キャッチアップ」出来る人を宇宙飛行士として選んできたのである。それは言い換えれば、「欧米社会」に認められ、ミスをせず、結果を出す人を優先的に選び、そういう訓練をしてきたのである。
しかし、その中で船長の役割を担うだけの個性や我の強さというものがなかなか出せず、結局「優秀だがリーダーではない」人たちが量産される結果となった。そんな中で若田さんは明らかに違った。彼のバックグラウンドも含め、彼は「欧米社会」でリーダーになれる存在であったし、(ここは私の推測だが)JAXAも若田さんをそういう人物として育ててきたのだと考えている。
なので、若田さんが船長として今回任務に就くことは自然の成り行きであるし、それ自体はある意味当然のことだったと言える。ただ、私が問題視するのは、日本がこれまで1980年代の「フリーダム」と呼ばれていた時代の宇宙ステーションから継続的にコミットし、アメリカや欧州が予算や国内的な事情でモジュールのデザインを何度となく変更し、計画を遅らせ、トラブルのもとになってきたのに対し、日本は極めて誠実に、真面目に宇宙ステーション事業に取り組んできた。
にもかかわらず、日本人宇宙飛行士は欧州やカナダより先に船長になることはなかった。これは上述したように、各国に船長の枠を一つ与える、という約束が明示的にない以上、いつまでたっても日本人宇宙飛行士が船長となることが出来ず、そのままISSの運用が終了してしまう、という可能性だってあった、ということである。今のところ、2016年までのISSの運用は決まっており、それを2020年までに延長するということが大筋で決まっているとはいえ、「欧米社会」においてリーダーシップを取れるとみなされる人物が若田さん以外になく、若田さんにもしものことがあってISSに行けないという事情が生まれれば、日本人船長は生まれない、という可能性だってあったと考えている(実際、病気や事故で宇宙に行けなかった宇宙飛行士は少なからずいる)。
そうなると、これまで誠実に、真面目に宇宙ステーション事業に取り組んできた日本が船長を出せない、ということになってしまう。もちろん、船長が出なくても、有人宇宙事業には意味がある、というのであれば、それでもかまわないだろう(繰り返すが私は有人宇宙事業事態に批判的である)。しかし、日本が国際社会(ISSの場合は欧米社会)に多大な貢献をしておきながら、国際的には低い地位にとどめられ、影響力を持たない存在となってしまっていることに対して不満を持つ人も多いだろう。東京新聞のコメントにも引用されているが、国連に対して多大な財政貢献をしているのに、日本は安保理の常任理事国でもなければ、国連職員が(財政貢献に比して)多いわけでもない。外務省もそれを問題視して、様々な活動をしているが、それと同じ意味で、日本人の宇宙飛行士がISSの船長にならないことは問題なのである。
なので、本来ならば、米ロ以外に船長を求める時、一番最初に名前が上がらなければならなかったのは日本人宇宙飛行士であったはずで、若田さんは2009年に最初の長期滞在をしているが、その直後にベルギーのDe Winneが船長を務めることになっていたので、彼が船長になることが出来なかった。実は、ここがJAXAの戦略的な失敗だったと考えている。この時は日本のモジュールである「きぼう」の組み立ての最中であり、「きぼう」の組み立てを優先して、船長を取りに行かなかったことに問題があった。もちろん、船長をやりながら「きぼう」の組み立てに取り組むというのはミッションとしてかなり大変であることは確かだが、それを言い出すと船長はいつも大変ということになってしまう。この最初の若田さんの滞在の時に船長を取りに行かず、そこで欧州に取られたところに、日本の国際協力の枠組みの中での駆け引きの稚拙さを感じている。
さらに、その後も「きぼう」組立ミッションは続いたが、若田さんの一回目の長期滞在の後に、野口さんが長期滞在に出た時も、船長を取りに行かなかった。これは戦略的なミスなのか、野口さんを船長に、と推す声がなかったのか、その辺は定かではない。しかし、そうしているうちに古川さん、星出さんと比較的経験の浅い宇宙飛行士が続くことになってしまったため、今回の若田さんの打ち上げまで船長の地位を得ることが出来なかった。
なので、最初の質問に戻ると、船長枠が一つある、ということが確定していない限り、出来るだけ早く、これまでの貢献と日本のコミットメントに応じた評価、すなわち船長の地位を与えられるべきであったのに、「きぼう」組立ミッションと若田さんの長期滞在が重なってしまったこと、そしてその後も船長に地位を取りに行くことをせず、比較的経験の浅い宇宙飛行士が続いてしまったことなどの戦略的なミスによって船長枠を取れないかもしれない、というリスクを抱えてしまった、ということが問題だと考えている。それが含意することは、日本の宇宙開発が「欧米社会」に追いつくことを目標としてしまい、その中でリーダーとなる、という意思に欠けていること、国際社会の中で貢献はするが表には出ない、という役割に甘んじてしまっていること、そして次に若田さんが飛ぶ時に船長を取ればよい、という甘い見通しがあったこと、といったことだと考えている。ゆえに、若田さんが船長になったことを手放しで喜ぶ前に、もう一度、何のための国際協力なのか、何のための日本人宇宙飛行士なのか、ということを考え直すことが求められていると考えている。
東日本大震災を受けて、世の中が大きく変わっていく中で、日々のニュースに触れて、いろいろと考えなければならないテーマが出てきました。商業的な出版や学術的な論文の執筆にまでは至らないものの、これからの世の中をどう見ていけばよいのかということを社会科学者として見つめ、分析し、何らかの形で伝達したいという思いで書いています。アイディアだけのものもあるでしょうし、十分に練られていない文章も数多くあると思いますが、いろいろなご批判を受けながら、自分の考えを整理し、練り上げられれば、と考えています。コメントなど大歓迎ですが、基本的に自分のアイディアメモのような位置づけのブログですので、多少のいい加減さはご寛容ください。
2013年11月12日火曜日
2013年10月4日金曜日
JAXAの応援と安全神話
本日(10月4日)の毎日新聞を読んでいたら、気になる記事があったのでコメントしておきたい。
その記事は「記者の目:JAXA10年 夢の宇宙探査、継続を」(http://mainichi.jp/opinion/news/20131004k0000m070131000c.html)という記事だ。
たぶん、科学環境部の方が書かれたオピニオン記事だと思うが、多くのメディアの科学部記者が書くように、過剰にJAXAに期待し、宇宙開発に夢や希望や未来を見出している記事である。この手の記事は既に何度も批判してきたので、それを繰り返すつもりはないし、それ自体を否定するつもりはない。
しかし、問題と思ったのは、そうした価値観に基づいて書いている記事を支えるファクトファインディングが明らかにおかしいことである。おかしいと思ったことをいくつか挙げておこう。
まずウェブ版の一ページ目に書かれている「完全に旧機関の壁がなくなったとは言えないが、技術面では統合の効果は感じられる」という点だが、きちんとJAXAを取材していれば、こうした結論にはならないはずだ。というのも、三機関統合の結果、旧NASDAと旧ISAS(宇宙科学研究所)の統合プロジェクトとして進められた月・惑星探査は、結局、元のNASDAとISASの組織に戻る形となり、統合の効果どころか、統合そのものが後戻りしている。
次は評価の分かれるところであるが、「宇宙探査に向けられる目は厳しい。特に年間400億円を投じる国際宇宙ステーション計画は「成果が見えない」とやり玉に挙げられ、経費縮小や参加形態の再検討すら求められている」という表現には疑問が残る。通常、有人宇宙事業は「探査」ではないからだ。探査というのは「はやぶさ」のように未知なる天体や空間に赴き、文字通り「探査」をして新たな知見を得ることが目的であるが、国際宇宙ステーションは、その中で実験をしているとはいえ、新たな場所に行ってまだ見ぬ何かを見に行く事業ではない。そのため、多くの国で宇宙ステーションは「探査」には含められていない。有人で「探査」という場合は月や火星、小惑星などに行くことを指すのが一般的だ。
この記事の中で一番問題に感じたのは「宇宙政策の司令塔である内閣府宇宙戦略室の西本淳哉室長は「宇宙は利用してナンボ」と言い、これまでの宇宙開発を「研究のための研究だった」と断じた。 「予算の半分は有人探査に当て、宇宙科学がもう一つの柱だ」と語った米航空宇宙局(NASA)のチャールズ・ボールデン長官とは好対照だった」という表現だ。そもそも、NASAは米国の宇宙開発すべてを担当しているわけではなく、有人宇宙飛行と宇宙科学(に加えて地球科学と航空技術開発)を行うことに特化した組織である。米国における宇宙利用は国防総省(DoD)、海洋大気局(NOAA)、アメリカ地質調査所(USGS)といった組織が進めているものである。
それに対し、JAXAは全ての宇宙事業に関わり、有人事業や宇宙科学だけでなく、宇宙利用に関するアプリケーション衛星も開発する使命を帯びている。これはJAXAの前身である宇宙開発事業団(NASDA)が「実利用」を促進するための組織として発足したことからも明らかだろう。米国ほどの巨大な宇宙予算がなく、限られた予算の中で効率的な宇宙開発を進めるためにはNASAのような特権を持っていないのがJAXAであり、それを「好対照」と言い切る記者の姿勢には大きな疑問を持った。
最後に、もう一点、記者の勉強不足を指摘すれば、「米国は将来の火星有人探査を視野に、小惑星を目指しているし、ロシアや欧州は月を志向しているとされる」という一文はほとんどが間違い。米国は(というよりもNASAは)小惑星から火星への有人探査というロードマップを描いているが、その計画に対して、ホワイトハウスも議会も支持をしていない。正確に言うと、ホワイトハウスは月や火星の有人探査は無理だから、有人をやるとすれば小惑星という消極的な目標設定しかしておらず、火星を視野に入れるということにはなっていないし、議会(特に下院)に関しては小惑星への探査そのものを否定している。なので「米国は」と一括りにするのは大間違い。
さらにロシアは月面探査の計画もあると伝えられているが、しかし、それに対する具体的なプロジェクトはほとんど進んでいない。本気で月に行こうとしているかどうかは誰にもわからないというレベルである話。欧州は有人探査の目的地として(注1)月を目指したことは一度もない。欧州が進めようとしている有人探査を視野に入れた無人探査計画であるオーロラ計画は、火星に行くことを目指している。
(注1)ツイッターでご指摘があったので、誤解のないように付記しました(10月4日11:25JST)
このように、この記事には多数の認識不足、勉強不足が見られる。にもかかわらず、全国紙に堂々とJAXAに夢を託し、応援する記事を書いている。そこには更なる大きな問題が隠れていると考えている。
それは「科学部記者の『原発安全神話』に対する反省の無さ」だ。 宇宙開発と原発は全く違うと思われる方も多いだろう。もちろんJAXAの事業は特に人の命にかかわるものではなく(宇宙ステーションの機材が壊れて宇宙飛行士が危険にさらされる可能性はあるが原発ほどの大規模な被害とは言えない)、ロケットの打ち上げでもしっかり安全確保がなされ、安全で夢のある事業に見えるのだから、原発と結びつけるのは無理のある論理だ、という批判もあるだろう。
しかし、私が問題にしたいのは、これまで「原発安全神話」の片棒を担いできたメディアの科学部記者が、相も変わらず「宇宙(原発)は素晴らしい」という価値観に基づいた記事を書き、中途半端なファクトファインディングしかしておらず、思い込みで記事を書いていることである。生地に価値観を含めてはいけない、というつもりはない。しかし、少し調べればすぐにわかることを、価値観(主観)の主張を優先するあまり、きちんと調査せず、印象論だけで書いているということが大いに気になるのである。
原発の問題は、事故が起きて初めてその重大さに気が付き、原発報道に関しては毎日新聞も極めて厳しい姿勢に転じた。しかし、その他の科学では、相も変わらず同じことが繰り返されている。そのことに問題を感じているのである。つまり、今や反原発、脱原発路線の報道姿勢を取っている毎日新聞も、一歩皮をむいたら、大して変わっていないのではないか。その変わっていないなかで原発報道だけが変わる、ということは、基本的に福島原発事故への単なるリアクションでしかなく、本質的な科学技術報道の変化に結び付いていないのではないか。もう少し厳しく言えば、原発事故の記憶が風化されていけば、また「安全神話」に戻ってしまうのではないか、という懸念を持っている。
もちろん、こんな心配は杞憂に過ぎない、ということであれば、それは結構な話だ。しかし、今日の記事を見る限り、どうも科学部記者のメンタリティが変わっていないような印象しか受けなかったので、敢えてコメントさせていただいた。
その記事は「記者の目:JAXA10年 夢の宇宙探査、継続を」(http://mainichi.jp/opinion/news/20131004k0000m070131000c.html)という記事だ。
たぶん、科学環境部の方が書かれたオピニオン記事だと思うが、多くのメディアの科学部記者が書くように、過剰にJAXAに期待し、宇宙開発に夢や希望や未来を見出している記事である。この手の記事は既に何度も批判してきたので、それを繰り返すつもりはないし、それ自体を否定するつもりはない。
しかし、問題と思ったのは、そうした価値観に基づいて書いている記事を支えるファクトファインディングが明らかにおかしいことである。おかしいと思ったことをいくつか挙げておこう。
まずウェブ版の一ページ目に書かれている「完全に旧機関の壁がなくなったとは言えないが、技術面では統合の効果は感じられる」という点だが、きちんとJAXAを取材していれば、こうした結論にはならないはずだ。というのも、三機関統合の結果、旧NASDAと旧ISAS(宇宙科学研究所)の統合プロジェクトとして進められた月・惑星探査は、結局、元のNASDAとISASの組織に戻る形となり、統合の効果どころか、統合そのものが後戻りしている。
次は評価の分かれるところであるが、「宇宙探査に向けられる目は厳しい。特に年間400億円を投じる国際宇宙ステーション計画は「成果が見えない」とやり玉に挙げられ、経費縮小や参加形態の再検討すら求められている」という表現には疑問が残る。通常、有人宇宙事業は「探査」ではないからだ。探査というのは「はやぶさ」のように未知なる天体や空間に赴き、文字通り「探査」をして新たな知見を得ることが目的であるが、国際宇宙ステーションは、その中で実験をしているとはいえ、新たな場所に行ってまだ見ぬ何かを見に行く事業ではない。そのため、多くの国で宇宙ステーションは「探査」には含められていない。有人で「探査」という場合は月や火星、小惑星などに行くことを指すのが一般的だ。
この記事の中で一番問題に感じたのは「宇宙政策の司令塔である内閣府宇宙戦略室の西本淳哉室長は「宇宙は利用してナンボ」と言い、これまでの宇宙開発を「研究のための研究だった」と断じた。 「予算の半分は有人探査に当て、宇宙科学がもう一つの柱だ」と語った米航空宇宙局(NASA)のチャールズ・ボールデン長官とは好対照だった」という表現だ。そもそも、NASAは米国の宇宙開発すべてを担当しているわけではなく、有人宇宙飛行と宇宙科学(に加えて地球科学と航空技術開発)を行うことに特化した組織である。米国における宇宙利用は国防総省(DoD)、海洋大気局(NOAA)、アメリカ地質調査所(USGS)といった組織が進めているものである。
それに対し、JAXAは全ての宇宙事業に関わり、有人事業や宇宙科学だけでなく、宇宙利用に関するアプリケーション衛星も開発する使命を帯びている。これはJAXAの前身である宇宙開発事業団(NASDA)が「実利用」を促進するための組織として発足したことからも明らかだろう。米国ほどの巨大な宇宙予算がなく、限られた予算の中で効率的な宇宙開発を進めるためにはNASAのような特権を持っていないのがJAXAであり、それを「好対照」と言い切る記者の姿勢には大きな疑問を持った。
最後に、もう一点、記者の勉強不足を指摘すれば、「米国は将来の火星有人探査を視野に、小惑星を目指しているし、ロシアや欧州は月を志向しているとされる」という一文はほとんどが間違い。米国は(というよりもNASAは)小惑星から火星への有人探査というロードマップを描いているが、その計画に対して、ホワイトハウスも議会も支持をしていない。正確に言うと、ホワイトハウスは月や火星の有人探査は無理だから、有人をやるとすれば小惑星という消極的な目標設定しかしておらず、火星を視野に入れるということにはなっていないし、議会(特に下院)に関しては小惑星への探査そのものを否定している。なので「米国は」と一括りにするのは大間違い。
さらにロシアは月面探査の計画もあると伝えられているが、しかし、それに対する具体的なプロジェクトはほとんど進んでいない。本気で月に行こうとしているかどうかは誰にもわからないというレベルである話。欧州は有人探査の目的地として(注1)月を目指したことは一度もない。欧州が進めようとしている有人探査を視野に入れた無人探査計画であるオーロラ計画は、火星に行くことを目指している。
(注1)ツイッターでご指摘があったので、誤解のないように付記しました(10月4日11:25JST)
このように、この記事には多数の認識不足、勉強不足が見られる。にもかかわらず、全国紙に堂々とJAXAに夢を託し、応援する記事を書いている。そこには更なる大きな問題が隠れていると考えている。
それは「科学部記者の『原発安全神話』に対する反省の無さ」だ。 宇宙開発と原発は全く違うと思われる方も多いだろう。もちろんJAXAの事業は特に人の命にかかわるものではなく(宇宙ステーションの機材が壊れて宇宙飛行士が危険にさらされる可能性はあるが原発ほどの大規模な被害とは言えない)、ロケットの打ち上げでもしっかり安全確保がなされ、安全で夢のある事業に見えるのだから、原発と結びつけるのは無理のある論理だ、という批判もあるだろう。
しかし、私が問題にしたいのは、これまで「原発安全神話」の片棒を担いできたメディアの科学部記者が、相も変わらず「宇宙(原発)は素晴らしい」という価値観に基づいた記事を書き、中途半端なファクトファインディングしかしておらず、思い込みで記事を書いていることである。生地に価値観を含めてはいけない、というつもりはない。しかし、少し調べればすぐにわかることを、価値観(主観)の主張を優先するあまり、きちんと調査せず、印象論だけで書いているということが大いに気になるのである。
原発の問題は、事故が起きて初めてその重大さに気が付き、原発報道に関しては毎日新聞も極めて厳しい姿勢に転じた。しかし、その他の科学では、相も変わらず同じことが繰り返されている。そのことに問題を感じているのである。つまり、今や反原発、脱原発路線の報道姿勢を取っている毎日新聞も、一歩皮をむいたら、大して変わっていないのではないか。その変わっていないなかで原発報道だけが変わる、ということは、基本的に福島原発事故への単なるリアクションでしかなく、本質的な科学技術報道の変化に結び付いていないのではないか。もう少し厳しく言えば、原発事故の記憶が風化されていけば、また「安全神話」に戻ってしまうのではないか、という懸念を持っている。
もちろん、こんな心配は杞憂に過ぎない、ということであれば、それは結構な話だ。しかし、今日の記事を見る限り、どうも科学部記者のメンタリティが変わっていないような印象しか受けなかったので、敢えてコメントさせていただいた。
2013年9月14日土曜日
軍事技術に無邪気に近づいていくJAXA
昨日、イプシロンに関するコメントを掲載したが、もう一つ気になっていることがあるので、連日の投稿になりますがご容赦ください。
その気になっていることとは、来年度の概算要求で文科省から出された、超低高度衛星技術試験機(SLATS)と呼ばれる衛星です。
この衛星は高度200-300kmと、宇宙空間とはいえ、地球の重力と大気の影響を受ける軌道を周回する衛星で、地球に近いところから画像を撮るため、非常に高い分解能(解像度)を持つ衛星になると考えられています。
地球に近いと、すぐに重力に引っ張られ、大気に寄る空気抵抗を受けるため、すぐに大気圏に突入してしまいそうなのですが、そこで「はやぶさ」で実証されたイオンエンジン(太陽光パネルによって発電された電気で推進力を得るエンジン)を活用し、軌道位置を維持するということが想定されています。イオンエンジンは電力で動くため、軌道位置を維持するための燃料を積む必要がなく、長期間にわたって燃料切れの心配なく運用できるという特徴があるとのことです。
これ自体は技術的に興味深い計画であり、実際に打ち上げることになれば、世界にもインパクトを与えることが出来る衛星だと思います。しかし、イプシロンと同様、この衛星は安全保障という観点から見ると、色々と問題があるように思っています。
というのは、これだけ低高度の軌道を飛翔し、分解能の高い画像を撮ることができるということは、偵察衛星の機能と全く変わりがない、ということです。まだどの程度の分解能にするのかは決まっていないのですが、有効開口径(簡単に言えば望遠鏡のサイズ)が30センチだと40-60センチの分解能、50センチだと20-40センチの分解能、70センチだと15-25センチの分解能という想定がなされています。分解能とは、どのくらいの大きさのものを識別できるか、という能力を計る尺度で、現在使われている情報収集衛星が60センチ(一辺が60センチの物体であれば認識できる)なので、このSLATSは、それよりもはるかに高い分解能を持ち、アメリカなどが偵察衛星として使っている衛星とほとんど同じ性能を目指していると言えます。
果たして、これだけ高分解能の衛星をもって、何に使うのでしょうか。JAXAの資料(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/059/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2013/09/06/1338400_8.pdf)によれば、技術実証の他、大気密度に関するデータの取得、原子状酸素に関するデータの取得、小型高分解能光学センサによる高分解能撮像、というミッションがある、と措定されています。
つまり、JAXAはそれだけの高分解能画像を取得することについての問題意識というか、安全保障上のインプリケーションについて、何も示しておらず、ただ「高い能力を持った衛星を作ったぜ!」ということだけを目指しているとしか読み取れません。その技術が持ちうる、政治的・社会的問題について、全く無頓着に高性能の衛星を開発するということは、果たして国の政策として適切なのか、疑問が残ります。
私はJAXAが安全保障目的の衛星を開発することに反対するわけではありません。宇宙基本法では、日本と世界の平和と安全にかかわる衛星を作ることは認められています。なので、原理的に「安全保障・防衛に関連する衛星を作るべきではない」という主張をするつもりはありません。
しかし、このSLATSを打ち上げた時、世界はこの衛星をどう見るのか、と考えると、変な誤解を生む可能性があるということは懸念しています。世界の宇宙コミュニティ、安全保障コミュニティ、諜報機関は「日本は高性能の偵察衛星を打ち上げた」と認識することは容易に想像できます。さらに「日本はなぜこれだけの高性能の偵察衛星を打ち上げる必要があるのだろうか?ひょっとして、関係が悪化している国に対して軍事攻撃を仕掛けるつもりなのではないか」という疑問が生まれる可能性も否定できません。
そういう疑問に対して、JAXAはどう答えるつもりなのか、全く明らかにされていません。仮に内閣府の宇宙戦略室が、将来にわたって日本が高性能の偵察衛星を保有し、それによって地域の平和と安全を守ることをめざし、その衛星が撮影した画像は公開する、といったことを表明するのであれば、他の国々の人達も、ある程度納得するかもしれません。ないしは、純粋に「現在、日本は外国からの脅威にさらされているから、それを監視する必要がある。しかし、これは外国を攻撃することを目的とせず、監視をするためだけに使う」という言い方でもよいかもしれません。
しかし、今回、概算要求に出された資料からは、その衛星が撮った画像をどう使うかもはっきりせず、内閣府からも、宇宙政策委員会からも具体的な説明はなされていません。 こうした透明性の欠如というか、どのような意図をもって衛星の開発をするのかという説明の欠如は、不要な憶測を呼び、日本に対する信頼を失う可能性もあります。
私が想像するに、今回のSLATSが概算要求に入れられたのは、宇宙基本法が出来て以来、JAXAは「研究開発ばかりしていて役に立つ衛星を作っていない」という批判にこたえるため、何とか役に立ちそうな衛星を開発しよう、と意気込んだからなのだろうと思っています。その意気は良いのですが、しかし、そうして頑張って高い性能の衛星を開発しても、それが「何のために使われるのか」ということがはっきりしなければ、余計な心配を招く結果になります。
つまり、問題は、JAXAが研究開発機関として、無邪気に技術開発に邁進した結果、意図せざる結果として、諸外国から不信感を招くというところにあります。JAXAも文科省も予算がなければ生きていけない組織ですから、何とかして予算を獲得するよう努力していると思います。しかし、予算を取るために何をやってもよいというわけではありません。きちんと、その技術を何の目的で、どのように使うのか、ということをはっきり想定した上で、そうしたニーズに合わせて技術開発をするのだ、ということを明確にする必要があります。
JAXAはこれまで研究開発機関として存在しており、新しい技術、素晴らしい技術を開発していればよい、という組織でした。日本の宇宙開発が半人前で、諸外国が持っている技術にキャッチアップするという時代であれば、それでも良かったでしょう。実際、JAXA(その前身のNASDA時代も含め)が急速な勢いで技術を取得し、日本の宇宙開発をリードしてきたことは素晴らしいことだと思います。
しかし、もう時代は変わりました。日本の宇宙開発は立派に世界で通用するものになり、一人前の宇宙開発を進める段階に来ています。そうした中で、無邪気に技術開発して、新しいもの、素晴らしいものを作ればよい、というだけでは生きていけない時代になったと考えています。
いま必要なことは、JAXAが無邪気に技術開発をすることではなく、日本がどのような衛星を、どのような目的で必要としているのかを精査し、その衛星を実現するために研究開発をする、という仕組みにしていくことです。
つまり、これまでは「衛星を開発しました。どうぞ使ってください」という技術開発→利用、という流れだったのですが、これからは「こんな衛星が必要だ。だから作ってください」という利用→技術開発という流れにしなければいけないのです。2008年に成立した宇宙基本法はまさにそれを目指しているものだと考えています。
無邪気に技術開発を続け、知らない間に軍事技術と同等のものを作り、諸外国から不審に思われるようなことは避けなければなりません。 そのためにも、利用目的と手段をはっきり定めた上で技術開発をするということが大事になります。言い方を変えれば、JAXAが無邪気に技術開発をすることは、技術者の暴走と取られても仕方がないことであり、日本という国のイメージ、信頼を損ねる結果になる可能性を秘めているということです。そうならないようにするためにも、利用目的を定め、JAXAの技術開発プログラムをコントロールするための司令塔である、宇宙開発担当大臣(現在は山本一太大臣)、宇宙政策委員会、内閣府宇宙戦略室が宇宙開発計画をしっかりと策定し、それに従ってJAXAは研究開発をする、という政策の流れを作ることです。JAXAが予算欲しさに無邪気に衛星を作ることは、その流れに反することであり、宇宙政策のあり方として適切な流れではないと考えております。
その気になっていることとは、来年度の概算要求で文科省から出された、超低高度衛星技術試験機(SLATS)と呼ばれる衛星です。
この衛星は高度200-300kmと、宇宙空間とはいえ、地球の重力と大気の影響を受ける軌道を周回する衛星で、地球に近いところから画像を撮るため、非常に高い分解能(解像度)を持つ衛星になると考えられています。
地球に近いと、すぐに重力に引っ張られ、大気に寄る空気抵抗を受けるため、すぐに大気圏に突入してしまいそうなのですが、そこで「はやぶさ」で実証されたイオンエンジン(太陽光パネルによって発電された電気で推進力を得るエンジン)を活用し、軌道位置を維持するということが想定されています。イオンエンジンは電力で動くため、軌道位置を維持するための燃料を積む必要がなく、長期間にわたって燃料切れの心配なく運用できるという特徴があるとのことです。
これ自体は技術的に興味深い計画であり、実際に打ち上げることになれば、世界にもインパクトを与えることが出来る衛星だと思います。しかし、イプシロンと同様、この衛星は安全保障という観点から見ると、色々と問題があるように思っています。
というのは、これだけ低高度の軌道を飛翔し、分解能の高い画像を撮ることができるということは、偵察衛星の機能と全く変わりがない、ということです。まだどの程度の分解能にするのかは決まっていないのですが、有効開口径(簡単に言えば望遠鏡のサイズ)が30センチだと40-60センチの分解能、50センチだと20-40センチの分解能、70センチだと15-25センチの分解能という想定がなされています。分解能とは、どのくらいの大きさのものを識別できるか、という能力を計る尺度で、現在使われている情報収集衛星が60センチ(一辺が60センチの物体であれば認識できる)なので、このSLATSは、それよりもはるかに高い分解能を持ち、アメリカなどが偵察衛星として使っている衛星とほとんど同じ性能を目指していると言えます。
果たして、これだけ高分解能の衛星をもって、何に使うのでしょうか。JAXAの資料(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/059/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2013/09/06/1338400_8.pdf)によれば、技術実証の他、大気密度に関するデータの取得、原子状酸素に関するデータの取得、小型高分解能光学センサによる高分解能撮像、というミッションがある、と措定されています。
つまり、JAXAはそれだけの高分解能画像を取得することについての問題意識というか、安全保障上のインプリケーションについて、何も示しておらず、ただ「高い能力を持った衛星を作ったぜ!」ということだけを目指しているとしか読み取れません。その技術が持ちうる、政治的・社会的問題について、全く無頓着に高性能の衛星を開発するということは、果たして国の政策として適切なのか、疑問が残ります。
私はJAXAが安全保障目的の衛星を開発することに反対するわけではありません。宇宙基本法では、日本と世界の平和と安全にかかわる衛星を作ることは認められています。なので、原理的に「安全保障・防衛に関連する衛星を作るべきではない」という主張をするつもりはありません。
しかし、このSLATSを打ち上げた時、世界はこの衛星をどう見るのか、と考えると、変な誤解を生む可能性があるということは懸念しています。世界の宇宙コミュニティ、安全保障コミュニティ、諜報機関は「日本は高性能の偵察衛星を打ち上げた」と認識することは容易に想像できます。さらに「日本はなぜこれだけの高性能の偵察衛星を打ち上げる必要があるのだろうか?ひょっとして、関係が悪化している国に対して軍事攻撃を仕掛けるつもりなのではないか」という疑問が生まれる可能性も否定できません。
そういう疑問に対して、JAXAはどう答えるつもりなのか、全く明らかにされていません。仮に内閣府の宇宙戦略室が、将来にわたって日本が高性能の偵察衛星を保有し、それによって地域の平和と安全を守ることをめざし、その衛星が撮影した画像は公開する、といったことを表明するのであれば、他の国々の人達も、ある程度納得するかもしれません。ないしは、純粋に「現在、日本は外国からの脅威にさらされているから、それを監視する必要がある。しかし、これは外国を攻撃することを目的とせず、監視をするためだけに使う」という言い方でもよいかもしれません。
しかし、今回、概算要求に出された資料からは、その衛星が撮った画像をどう使うかもはっきりせず、内閣府からも、宇宙政策委員会からも具体的な説明はなされていません。 こうした透明性の欠如というか、どのような意図をもって衛星の開発をするのかという説明の欠如は、不要な憶測を呼び、日本に対する信頼を失う可能性もあります。
私が想像するに、今回のSLATSが概算要求に入れられたのは、宇宙基本法が出来て以来、JAXAは「研究開発ばかりしていて役に立つ衛星を作っていない」という批判にこたえるため、何とか役に立ちそうな衛星を開発しよう、と意気込んだからなのだろうと思っています。その意気は良いのですが、しかし、そうして頑張って高い性能の衛星を開発しても、それが「何のために使われるのか」ということがはっきりしなければ、余計な心配を招く結果になります。
つまり、問題は、JAXAが研究開発機関として、無邪気に技術開発に邁進した結果、意図せざる結果として、諸外国から不信感を招くというところにあります。JAXAも文科省も予算がなければ生きていけない組織ですから、何とかして予算を獲得するよう努力していると思います。しかし、予算を取るために何をやってもよいというわけではありません。きちんと、その技術を何の目的で、どのように使うのか、ということをはっきり想定した上で、そうしたニーズに合わせて技術開発をするのだ、ということを明確にする必要があります。
JAXAはこれまで研究開発機関として存在しており、新しい技術、素晴らしい技術を開発していればよい、という組織でした。日本の宇宙開発が半人前で、諸外国が持っている技術にキャッチアップするという時代であれば、それでも良かったでしょう。実際、JAXA(その前身のNASDA時代も含め)が急速な勢いで技術を取得し、日本の宇宙開発をリードしてきたことは素晴らしいことだと思います。
しかし、もう時代は変わりました。日本の宇宙開発は立派に世界で通用するものになり、一人前の宇宙開発を進める段階に来ています。そうした中で、無邪気に技術開発して、新しいもの、素晴らしいものを作ればよい、というだけでは生きていけない時代になったと考えています。
いま必要なことは、JAXAが無邪気に技術開発をすることではなく、日本がどのような衛星を、どのような目的で必要としているのかを精査し、その衛星を実現するために研究開発をする、という仕組みにしていくことです。
つまり、これまでは「衛星を開発しました。どうぞ使ってください」という技術開発→利用、という流れだったのですが、これからは「こんな衛星が必要だ。だから作ってください」という利用→技術開発という流れにしなければいけないのです。2008年に成立した宇宙基本法はまさにそれを目指しているものだと考えています。
無邪気に技術開発を続け、知らない間に軍事技術と同等のものを作り、諸外国から不審に思われるようなことは避けなければなりません。 そのためにも、利用目的と手段をはっきり定めた上で技術開発をするということが大事になります。言い方を変えれば、JAXAが無邪気に技術開発をすることは、技術者の暴走と取られても仕方がないことであり、日本という国のイメージ、信頼を損ねる結果になる可能性を秘めているということです。そうならないようにするためにも、利用目的を定め、JAXAの技術開発プログラムをコントロールするための司令塔である、宇宙開発担当大臣(現在は山本一太大臣)、宇宙政策委員会、内閣府宇宙戦略室が宇宙開発計画をしっかりと策定し、それに従ってJAXAは研究開発をする、という政策の流れを作ることです。JAXAが予算欲しさに無邪気に衛星を作ることは、その流れに反することであり、宇宙政策のあり方として適切な流れではないと考えております。
2013年9月13日金曜日
イプシロンを巡る諸問題
大変長い間、ブログの更新をサボっていましたが、アメリカでの研究生活を終え、帰国してようやっと元の生活に戻りつつある中で、そろそろ再開しなければと思い、久しぶりに筆をとっております。といっても、今回は、あるメディアの方から頂いた、イプシロンに関する質問にメールで答えたものを転載しているだけなので、「筆をとる」というほど大げさなものではないのですが…。
8月末の打ち上げが「中止」となったことで、ブログに出すタイミングを失っていましたが、9月14日に打ち上げが予定されており、うまくいけば当日のテレビや翌日の新聞にはイプシロンを巡る記事が溢れると思うので、今のうちに掲載しておこうと思います。以下のメディアへの回答は長いので、全文が掲載されることはないと思います。なので、ここで発表してしまっても問題はないと判断しています。
では、以下にメディアへの回答を転載しておきます。
・イプシロンの評価について
イプシロンについては、これまでのM-Vのコスト高を是正するという一点に集中して開発され、モバイル管制を含む、様々な革新的技術を実現するロケットとして、評価することはできます。
しかし、それは単なる技術面での評価であり、日本のロケット戦略、宇宙政策全体から見ると、果たして日本に固体ロケットが必要なのか、H-IIA/Bおよび新型基幹ロケットが開発される中で、日本にそれだけ多くのロケットを持つ必要があるのか、商業市場に参入するとしても、果たしてイプシロンが内之浦から打ち上げられることを前提にするとそうした商業的な競争力は射場設備も含めて十分なのか、さらにはミサイルと同等の技術であり、人工知能による打ち上げ管理など、極めて自律性の高い技術を導入する固体ロケットは、外国から見てミサイルの開発と疑われることはないのか、とりわけ中韓との関係が悪化している中で、また北朝鮮が核・ミサイル開発をしている中で、日本がイプシロンを今、この時期に打ち上げることが外国に対してどのようなメッセージとして伝わるか考えているのか、など、様々な点で疑問が残るロケットだと思っています。
ですので、個人的にはイプシロンは技術先行型の優秀なロケットではあるが、政策的にきちんと位置付けられておらず、むしろマイナスの側面もあるロケット、と評価しております。
・他国のロケットとの競争について
ドニエプルだけでなく、ロコットなどもあり、小型ロケット市場で勝負するのは難しいと思います。ドニエプルもロコットも元々はソ連のICBM技術の応用ないしは、ICBMそのものの流用であり、コスト面ではどう頑張っても太刀打ちできないところがあると思います。また、小型ロケットの市場となると、科学衛星や安全保障に絡む偵察衛星などが中心となるかと思いますが、日本にはそれだけの数の科学衛星がなく、仮に、現在、開発を検討している海洋監視衛星をイプシロンで上げるとしても、十分な実績を積むほどのチャンスはないかもしれないと考えています。時折、イプシロン関係者からは、コストの削減による商業市場への参入、といったことが聞かれますが、きちんとした市場調査をした形跡もなく、どのくらいの需要を見込んでいるのか、ということも定かではありません。ですので、現時点ではロシアのロケットと勝負するのは難しい状況にあると考えています。
・将来の打ち上げ計画について
最終的に、このイプシロンがどのような意図や目的をもって開発されたのか、ということを考えると、搭載する衛星が日本国内で2機しかなく、将来的に海洋監視衛星を打ち上げるとしても、極めて限られた数しかない、ということは、このロケットに実績を与え、国際市場で競争させるという意図はあまり感じません。
むしろ、イプシロンは、ISAS(JAXA宇宙科学研究所)がM-Vを失ってから、何とかISASのロケットを復活させたいと考えている人たちによって強くロビイングされ、文科省もそれを受けて開発していったものと見ています。また、それを支えた論理として「固体ロケット技術は将来のミサイル技術になりうるものだから、維持しなければならない」というものがあり、この論理で考えている政治家や産業界の方々によって支持されてきた結果であるともいえます。確かに固体ロケット技術はミサイル技術に転用可能な技術ですので、将来、日本が弾道ミサイルを開発するという戦略的なビジョンがあるなら、そうした技術を保持することは大事だろうと思います。しかし、現在進んでいる憲法改正の議論においても、敵基地攻撃に弾道ミサイルを使うといったところまで議論が進んでおらず、先制攻撃の手段であり、また抑止の手段である弾道ミサイルの技術の維持という論理は、かなり危ういものがあると考えております。
技術開発をしたいと願う人達が、こうした危うい論理をおもちゃにして固体ロケット開発をしているということであれば、ちょっと危険な火遊びのようにも思います。もちろん、これはあくまでも憶測ではありますが、全く根拠のない話ではないと考えています。
・今後の課題
イプシロンの持つ、革新的な技術は、これからのロケット開発において、大変有用なものであり、これをどう生かしていくかということが課題になると思います。しかし、上述したように、ミサイル技術としての性格を持つ固体ロケット技術を深化させていくとなると、無用な誤解を与える可能性もあり、ただでさえ、近隣諸国との関係がうまくいっていない現在、こうした無用な誤解が変な方向に発展する可能性もあります。それゆえ、きちんと政策的な意図をはっきり打ち出し、他国の懸念を払しょくする、ないしは、他国に懸念を抱かれないようにするための政治的なアクション(ジェスチャー)が必要だと思います。これまで宇宙開発は、ややもすれば技術者の論理が優先し、そうした国際政治や安全保障の文脈が見過ごされてきた側面があると考えています。宇宙基本法が成立して、宇宙と外交、宇宙と安全保障のリンクが強まった現在、そうした側面からの分析、考慮というのも必要になると考えています。これはイプシロンの課題というよりは、今後の日本の宇宙政策の課題だと思っています。
2013年4月13日土曜日
カーネギー財団主催、核・原子力政策国際会議でのパネルディスカッション
しばらくブログの更新をサボっていてすみません。サバティカルでアメリカにいるのは良いのですが、サバティカルであるがゆえに暇だと思われているのか、それとも授業などの理由で断ることが出来ないからなのか、とにかく出張が多く、また論文や原稿の締め切りにも追われており、ブログでまとまった文章を書く時間がありませんでした。
そのような出張の中で、記録に残し、皆さんにも見ていただきたいと思うものがあったので、久しぶりにブログに書き込む決意をいたしました(そのくらい気合を入れないと書けないわけではないのですが…)。しばらくお付き合いいただければ幸いです。
さて、その出張とは、4月8日にワシントンDCで行われたカーネギー国際平和財団(Carnegie Endowment for International Peace)主催の核・原子力政策国際会議(Carnegie International Nuclear Policy Conference)で、民間事故調(福島原発事故独立検証委員会)の報告書の紹介をするよう、カーネギー側からお誘いがあり、たまたまアメリカにいるという理由で私が民間事故調委員長の北澤先生やプロジェクト・リーダーの船橋洋一さんの名代として発表するということになり、2日間にわたって会議に参加した件です。
元々、船橋さんから連絡をいただいた時は私が一人で報告して質疑に答えるという形だと思って安請け合いしたのですが、その後、カーネギー側から「パネルディスカッションの形式にしてほしい」という要望があり、しかも向こうから誘っておきながら「すでに会議のプログラムは決定しているので、サイドイベント(プログラムの正式なパネルではなく、その場を借りて自発的に開催するパネル)としてやってほしいとのこと。しかも、サイドイベントなので朝早く、7:45から一時間という枠しかない、という話になり、ちょっと困ってしまいました。
そんな中で、どうせパネルを組むのであれば、福島原発事故当時にアメリカ側で対応した当時のNRC委員長のヤツコさんに頼んでみてはどうだろう、ということになり、私が窓口になってお誘いしました。また、ヤツコさんだけでなく、私が現在所属しているプリンストン大学で原子力政策、特にインドの原子力政策をやっているM.V.ラマナ研究員にもお願いして、「福島原発事故の検証:国際的視点から」ということで、私とヤツコさんとラマナさんの三人でパネルを組むことになりました。
すでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、ヤツコさんは2012年5月に任期を満了する前にNRC委員長の職を辞し、今はどの組織にも所属していない状態です。彼の辞任については、様々な風評も含め、色々な憶測があるようですが、それについては私からあれこれ言うこともできないので、ここでは控えておきます。ただ、一部の報道にあるようなパワハラやエキセントリックな性格といった評価は、かなり違和感があります。私がお会いし、議論をしたヤツコさんは大変誠実な人であることは確かで、人の話をよく聞き、頭の回転の速い人であることも確かです。なので、私は最初から変な先入観もなく、大変有意義な議論をさせていただきました。
パネルディスカッションの前に打ち合わせも兼ねてパネルを組んだ三人と民間事故調の事務局を務めてくれた北澤桂さん(パネルの司会もしていただきました)などと一緒に会食した時の議論については、すでにツイッターでつぶやいており、それをまとめていただいているので、そちらをご参照ください(http://togetter.com/li/484921)。
さて、パネルディスカッションですが、初日の朝7:45、まだ会議の開会式が始まる前のセッションであったにも関わらず、立ち見が出るほどの盛況ぶりでした。元々この会議は核不拡散問題を中心に、軍縮畑の人たちが集まる世界最大の会議で、それが核戦略や原子力安全、核燃料サイクルなどなど、核と原子力(英語にすると両方ともNuclearですが)にかかわる政策的な問題を専門にしている研究者と実務家、ジャーナリストが集まる会議で、50ヶ国ちかくから800人以上が参加する会議です。我々のセッションの部屋は70-80人くらいの収容規模だったので、参加者の一割に当たるわけですが、朝早くそんなに人はいないだろうと思っていたら、立ち見がでて、延べ150人近くの方に来ていただいたのは完全に想定外でした。
とはいえ、その人たちがみんな福島原発事故に関心があるのか、と言われると少しためらってしまうところがあります。もちろん核・原子力政策に関心がある人は福島原発事故に関心があるので、関心があって当然ともいえるのですが、朝早くからそれだけの人を集めることが出来たのは、やはりNRC委員長を辞任して以来、ほとんど公の場に姿を現さなかったヤツコさんの話を聞きたいというモチベーションがあったからなのだろうと思います。その意味で、多くの人に民間事故調の報告書の紹介が出来たのは良かったと思いますが、皆さんの関心がヤツコさんにあったとなると、少し歯がゆい感じもします。
さて、パネルディスカッションですが、本当はパネルのディスカッションにしたかったのですが、一時間という枠しかなく、しかも想像以上にオーディエンスが多かったので、三人のオープニング・リマークスを終えた後、すぐに質疑応答に入るという段取りに変更しました。オープニング・リマークスとして、私は民間事故調の報告書の論点を取り上げ、特に「絶対安全神話」が原発安全規制の基礎となる考え方にあり、それが結果的に「備え」の欠如や複雑な規制ガバナンス体制、さらにはスリーマイルアイランド事故やチェルノブイリ事故の教訓を受け入れなかった理由となった、という話をし、官邸の対応が遅れたことはそうしたガバナンスの問題であったことや日米協議が当初スムーズに進まなかったことについても、責任の所在が不明なことが多く、東電と政府の間の情報共有が不足していたため、アメリカ側のフラストレーションがたまり、それが日米で異なる判断に結びついて、適切な危機管理コミュニケーションが出来なかった点などを指摘しました。
その次にヤツコさんにお話しいただいたのですが、非常に興味深い話で、ニューヨークタイムズの記事(http://www.nytimes.com/2013/04/09/us/ex-regulator-says-nuclear-reactors-in-united-states-are-flawed.html)としても取り上げられました。まず彼は、福島の事故は「日本の事故」として受け止めるべきではなく、原子力安全規制にかかわる者全てが自分の問題として捉えるべきである、という発言から始めました。直接言及はしていませんでしたが、国会事故調が福島原発事故を"made in Japan"の事故として描いたことに対する批判でもあったかと思います(今のところ、日本から出されている英語の報告書としては国会事故調の英文抄訳が一番流通している)。
ヤツコさんは私の報告を受けて、「アメリカにも『安全神話はある』」として、これまでの規制者としての経験から、日本のようにシステムレベルでの安全神話はなくとも、アメリカの原発のオペレーターにも、規制者にも自発的にどこかで事故は起こらないもの、事故が起こっても一定の想定の中で起こるものという認識がある、という話をしていました。特に問題として挙げたのは、アメリカにおける確率論的リスクの考え方で、それぞれの機器が同時に壊れることはない、という想定から、一つ一つの機器が壊れるリスクを掛け算してリスクが低いと結論付けることに疑問を呈しました。これは、福島第一原発が津波によって電源を失い、本来個別に壊れていくと想定されていたものが一気に同時に壊れるというのを間近で見ていた実感なのだろうと思いました。
また、ヤツコさんが指摘した重要な点は、これまでアメリカでも世界中でも、事故が起こった時の直接のインパクト(Immediate Impact)についてはしっかり規制してきたが、長期的なインパクト、特に社会経済的なインパクトについては十分考慮してこなかった、ということです。これまで原子力安全の考え方は、あくまでも施設の安全を考えるということが第一であったわけで、周辺住民が避難し、長期的に家に帰れない、これまでの財産や仕事を全て失うという状況は、アメリカでは想定されてこなかったと指摘。特に放射性物質による汚染をいかに軽減するのか、ということを考えるべきだ、ということを指摘しました。
そして、これが新聞などで大きく取り上げられる発言となったのですが、アメリカも世界もこれからは「より安全な電源」を考えなければならない、という話をしました。すぐに全ての原発を止めるのは合理的ではないが、すでに40年以上の運転をしている原発の安全性は十分とはいえず、1979年のスリーマイルアイランド事故以来、新規原発を作ってこなかったのだから、現在稼働中の原発は全て何らかの問題があるとして見直していくべきであり、事故が起こったとしても長期的な社会経済へのインパクトを下げるための準備が必要だ、という話をしました。このカーネギー財団の会議は核不拡散や原子力政策の専門家が集まる会議なので、核兵器をいかに使わないようにするか、原発をいかに安全に使うか、ということは議論しても、極端な核廃絶論や原発廃止論という議論は出てこない会議なので、ヤツコさんの発言はかなり驚きを持って受け止められました。もちろんヤツコさんも即座に原発をなくせと言っているわけではなく、より安全な小型原子炉への移行や新しい安全措置を施した原発へのリプレイスといったことを話していたのですが、過去のいきさつもあり、ヤツコさんがかなり過激な発言をしたということで話題を集めました。
その後、ラマナさんはインドにおける原子力安全規制の問題について報告したのですが、これも実は重要なメッセージがたくさん入った良い報告でした。彼は2013年の2月にThe Power of Promise: Examining Nuclear Energy in India(http://www.amazon.com/Power-Promise-Examining-Nuclear-Energy/dp/0670081701/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1365801732&sr=1-1)という本を出版したばかりで、まさにインドにおける経済成長に必要な電源を原子力で賄おうとしている中で、政府が原子力推進一辺倒の立場に立っていることに警告を発し、インドの市民団体が原発建設反対運動をしている最中に福島原発事故が起こったことで、インドの多くの人が原発建設を推し進めることに疑問を持ち始めているとの話を紹介していました。その中で、インド政府は何とかして反対する市民団体を説得するために、日本における「絶対安全神話」を持ちだし、福島原発事故を「日本の事故であり、インドでは同じことは起こらない」という、かつて日本がスリーマイルアイランド事故やチェルノブイリ事故を無視したのと同じ状態が起きていることを指摘しました。
質疑応答ではやはりヤツコさんの発言に質問が集中し、アメリカの原発の中でもどこが問題があるのか、といったことや彼がユッカ・マウンテンの決定を遅らせたのも福島原発事故の影響だったのか、といった質問が多くありました。福島原発事故に関連するものとしては、当時の日本政府の対応のまずさがなぜそうなったのか、情報発信が適切でなかったのはなぜか、どうすれば適切な情報が提供できるか、また日本が原発安全規制のガバナンスを変えていく中で、今、何が問題なのかという質問がありました。情報発信については、いろんな人があれこれ言うことを止めることはできないが、政府がきちんと「権威を持って説得力のある情報提供」をすることが大事なのに、福島では東電、官邸、保安院がバラバラで説明し、枝野官房長官が取りまとめをしようとして結果的に情報が出にくくなったことが問題であると指摘しました。また、新しい体制は安全規制についてはしっかりしようという努力が見られるが、核のセキュリティ(原発施設や核燃料の防護)などについてはまだ十分な措置が取られていないという点についてを説明しました。
このように、大変中身の濃いパネルディスカッションとなりましたが、民間事故調が2013年末に英文の報告書を出すこともあり、それへの関心も持ってもらえるようになったので、とりあえず私に与えられた役目は果たしたかな、と思っています。
ここからは余談ですが、今回、このカーネギー国際平和財団の会議に出たのですが、予想していたよりもはるかに人が多くてびっくりしました。しかも、その中で女性が多いことが特に驚きでした。半分とまでは行かないですが、3割くらいは女性で、アメリカだけでなく各国から来ている参加者も女性が多かったです。普段、宇宙関係の国際会議に良く出ますが、宇宙は男性が圧倒的に多く、女性もいないわけではないですが、やはり1割程度。なぜ核不拡散や原子力政策にこんなに女性が集まるのか、ちょっと不思議ではあります。なお、ヤツコさんの後任の現在のNRC委員長も女性ですね。
それと、元々核不拡散の問題を扱う会議なので、ロシアの存在感が非常に大きかったということです。宇宙でもロシアは十分存在感があるはずなのですが、それほど目立つという感じではありません。しかし、核戦略や不拡散の問題となると、どうしてもロシアを外すわけにはいかないのと、このカーネギー財団の会議がある意味では、米ソ冷戦時代の対話のチャンネルとして機能していた(いわゆるトラック2)ということもあり、パネルにはアメリカ+ロシア+もう一人、といった感じの組み合わせが多かったのではないかと思います。
もう一つ、雑感として持ったのが、それでも核が一番重要、という議論はどこまで現実を反映しているのか、ということへの疑問でした。参加したセッションの一つに「サイバー攻撃や対衛星攻撃に核は報復として使えるか」というタイトルのセッションがあり、さすがにパネリストも無理な設定だと苦笑いしていましたが、それでもかなり真面目に核兵器が最終的な抑止力になるという前提で議論を進めていたので、かなり違和感がありました。核不拡散の問題に取り組む人たちは、当然、核兵器の恐ろしさを良く認識しているだけに、その核兵器が持つ圧倒的な力を使って、リスクをどう抑止するのか、という発想になりがちになるところに、普段から核問題をやっているわけではない立場から見ると強い違和感を覚えるところがありました。
だいぶ長くなってしまいましたが、カーネギーでの会議は大変有意義だったので、それが皆さんとシェアできれば幸いです。
そのような出張の中で、記録に残し、皆さんにも見ていただきたいと思うものがあったので、久しぶりにブログに書き込む決意をいたしました(そのくらい気合を入れないと書けないわけではないのですが…)。しばらくお付き合いいただければ幸いです。
さて、その出張とは、4月8日にワシントンDCで行われたカーネギー国際平和財団(Carnegie Endowment for International Peace)主催の核・原子力政策国際会議(Carnegie International Nuclear Policy Conference)で、民間事故調(福島原発事故独立検証委員会)の報告書の紹介をするよう、カーネギー側からお誘いがあり、たまたまアメリカにいるという理由で私が民間事故調委員長の北澤先生やプロジェクト・リーダーの船橋洋一さんの名代として発表するということになり、2日間にわたって会議に参加した件です。
元々、船橋さんから連絡をいただいた時は私が一人で報告して質疑に答えるという形だと思って安請け合いしたのですが、その後、カーネギー側から「パネルディスカッションの形式にしてほしい」という要望があり、しかも向こうから誘っておきながら「すでに会議のプログラムは決定しているので、サイドイベント(プログラムの正式なパネルではなく、その場を借りて自発的に開催するパネル)としてやってほしいとのこと。しかも、サイドイベントなので朝早く、7:45から一時間という枠しかない、という話になり、ちょっと困ってしまいました。
そんな中で、どうせパネルを組むのであれば、福島原発事故当時にアメリカ側で対応した当時のNRC委員長のヤツコさんに頼んでみてはどうだろう、ということになり、私が窓口になってお誘いしました。また、ヤツコさんだけでなく、私が現在所属しているプリンストン大学で原子力政策、特にインドの原子力政策をやっているM.V.ラマナ研究員にもお願いして、「福島原発事故の検証:国際的視点から」ということで、私とヤツコさんとラマナさんの三人でパネルを組むことになりました。
すでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、ヤツコさんは2012年5月に任期を満了する前にNRC委員長の職を辞し、今はどの組織にも所属していない状態です。彼の辞任については、様々な風評も含め、色々な憶測があるようですが、それについては私からあれこれ言うこともできないので、ここでは控えておきます。ただ、一部の報道にあるようなパワハラやエキセントリックな性格といった評価は、かなり違和感があります。私がお会いし、議論をしたヤツコさんは大変誠実な人であることは確かで、人の話をよく聞き、頭の回転の速い人であることも確かです。なので、私は最初から変な先入観もなく、大変有意義な議論をさせていただきました。
パネルディスカッションの前に打ち合わせも兼ねてパネルを組んだ三人と民間事故調の事務局を務めてくれた北澤桂さん(パネルの司会もしていただきました)などと一緒に会食した時の議論については、すでにツイッターでつぶやいており、それをまとめていただいているので、そちらをご参照ください(http://togetter.com/li/484921)。
さて、パネルディスカッションですが、初日の朝7:45、まだ会議の開会式が始まる前のセッションであったにも関わらず、立ち見が出るほどの盛況ぶりでした。元々この会議は核不拡散問題を中心に、軍縮畑の人たちが集まる世界最大の会議で、それが核戦略や原子力安全、核燃料サイクルなどなど、核と原子力(英語にすると両方ともNuclearですが)にかかわる政策的な問題を専門にしている研究者と実務家、ジャーナリストが集まる会議で、50ヶ国ちかくから800人以上が参加する会議です。我々のセッションの部屋は70-80人くらいの収容規模だったので、参加者の一割に当たるわけですが、朝早くそんなに人はいないだろうと思っていたら、立ち見がでて、延べ150人近くの方に来ていただいたのは完全に想定外でした。
とはいえ、その人たちがみんな福島原発事故に関心があるのか、と言われると少しためらってしまうところがあります。もちろん核・原子力政策に関心がある人は福島原発事故に関心があるので、関心があって当然ともいえるのですが、朝早くからそれだけの人を集めることが出来たのは、やはりNRC委員長を辞任して以来、ほとんど公の場に姿を現さなかったヤツコさんの話を聞きたいというモチベーションがあったからなのだろうと思います。その意味で、多くの人に民間事故調の報告書の紹介が出来たのは良かったと思いますが、皆さんの関心がヤツコさんにあったとなると、少し歯がゆい感じもします。
さて、パネルディスカッションですが、本当はパネルのディスカッションにしたかったのですが、一時間という枠しかなく、しかも想像以上にオーディエンスが多かったので、三人のオープニング・リマークスを終えた後、すぐに質疑応答に入るという段取りに変更しました。オープニング・リマークスとして、私は民間事故調の報告書の論点を取り上げ、特に「絶対安全神話」が原発安全規制の基礎となる考え方にあり、それが結果的に「備え」の欠如や複雑な規制ガバナンス体制、さらにはスリーマイルアイランド事故やチェルノブイリ事故の教訓を受け入れなかった理由となった、という話をし、官邸の対応が遅れたことはそうしたガバナンスの問題であったことや日米協議が当初スムーズに進まなかったことについても、責任の所在が不明なことが多く、東電と政府の間の情報共有が不足していたため、アメリカ側のフラストレーションがたまり、それが日米で異なる判断に結びついて、適切な危機管理コミュニケーションが出来なかった点などを指摘しました。
その次にヤツコさんにお話しいただいたのですが、非常に興味深い話で、ニューヨークタイムズの記事(http://www.nytimes.com/2013/04/09/us/ex-regulator-says-nuclear-reactors-in-united-states-are-flawed.html)としても取り上げられました。まず彼は、福島の事故は「日本の事故」として受け止めるべきではなく、原子力安全規制にかかわる者全てが自分の問題として捉えるべきである、という発言から始めました。直接言及はしていませんでしたが、国会事故調が福島原発事故を"made in Japan"の事故として描いたことに対する批判でもあったかと思います(今のところ、日本から出されている英語の報告書としては国会事故調の英文抄訳が一番流通している)。
ヤツコさんは私の報告を受けて、「アメリカにも『安全神話はある』」として、これまでの規制者としての経験から、日本のようにシステムレベルでの安全神話はなくとも、アメリカの原発のオペレーターにも、規制者にも自発的にどこかで事故は起こらないもの、事故が起こっても一定の想定の中で起こるものという認識がある、という話をしていました。特に問題として挙げたのは、アメリカにおける確率論的リスクの考え方で、それぞれの機器が同時に壊れることはない、という想定から、一つ一つの機器が壊れるリスクを掛け算してリスクが低いと結論付けることに疑問を呈しました。これは、福島第一原発が津波によって電源を失い、本来個別に壊れていくと想定されていたものが一気に同時に壊れるというのを間近で見ていた実感なのだろうと思いました。
また、ヤツコさんが指摘した重要な点は、これまでアメリカでも世界中でも、事故が起こった時の直接のインパクト(Immediate Impact)についてはしっかり規制してきたが、長期的なインパクト、特に社会経済的なインパクトについては十分考慮してこなかった、ということです。これまで原子力安全の考え方は、あくまでも施設の安全を考えるということが第一であったわけで、周辺住民が避難し、長期的に家に帰れない、これまでの財産や仕事を全て失うという状況は、アメリカでは想定されてこなかったと指摘。特に放射性物質による汚染をいかに軽減するのか、ということを考えるべきだ、ということを指摘しました。
そして、これが新聞などで大きく取り上げられる発言となったのですが、アメリカも世界もこれからは「より安全な電源」を考えなければならない、という話をしました。すぐに全ての原発を止めるのは合理的ではないが、すでに40年以上の運転をしている原発の安全性は十分とはいえず、1979年のスリーマイルアイランド事故以来、新規原発を作ってこなかったのだから、現在稼働中の原発は全て何らかの問題があるとして見直していくべきであり、事故が起こったとしても長期的な社会経済へのインパクトを下げるための準備が必要だ、という話をしました。このカーネギー財団の会議は核不拡散や原子力政策の専門家が集まる会議なので、核兵器をいかに使わないようにするか、原発をいかに安全に使うか、ということは議論しても、極端な核廃絶論や原発廃止論という議論は出てこない会議なので、ヤツコさんの発言はかなり驚きを持って受け止められました。もちろんヤツコさんも即座に原発をなくせと言っているわけではなく、より安全な小型原子炉への移行や新しい安全措置を施した原発へのリプレイスといったことを話していたのですが、過去のいきさつもあり、ヤツコさんがかなり過激な発言をしたということで話題を集めました。
その後、ラマナさんはインドにおける原子力安全規制の問題について報告したのですが、これも実は重要なメッセージがたくさん入った良い報告でした。彼は2013年の2月にThe Power of Promise: Examining Nuclear Energy in India(http://www.amazon.com/Power-Promise-Examining-Nuclear-Energy/dp/0670081701/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1365801732&sr=1-1)という本を出版したばかりで、まさにインドにおける経済成長に必要な電源を原子力で賄おうとしている中で、政府が原子力推進一辺倒の立場に立っていることに警告を発し、インドの市民団体が原発建設反対運動をしている最中に福島原発事故が起こったことで、インドの多くの人が原発建設を推し進めることに疑問を持ち始めているとの話を紹介していました。その中で、インド政府は何とかして反対する市民団体を説得するために、日本における「絶対安全神話」を持ちだし、福島原発事故を「日本の事故であり、インドでは同じことは起こらない」という、かつて日本がスリーマイルアイランド事故やチェルノブイリ事故を無視したのと同じ状態が起きていることを指摘しました。
質疑応答ではやはりヤツコさんの発言に質問が集中し、アメリカの原発の中でもどこが問題があるのか、といったことや彼がユッカ・マウンテンの決定を遅らせたのも福島原発事故の影響だったのか、といった質問が多くありました。福島原発事故に関連するものとしては、当時の日本政府の対応のまずさがなぜそうなったのか、情報発信が適切でなかったのはなぜか、どうすれば適切な情報が提供できるか、また日本が原発安全規制のガバナンスを変えていく中で、今、何が問題なのかという質問がありました。情報発信については、いろんな人があれこれ言うことを止めることはできないが、政府がきちんと「権威を持って説得力のある情報提供」をすることが大事なのに、福島では東電、官邸、保安院がバラバラで説明し、枝野官房長官が取りまとめをしようとして結果的に情報が出にくくなったことが問題であると指摘しました。また、新しい体制は安全規制についてはしっかりしようという努力が見られるが、核のセキュリティ(原発施設や核燃料の防護)などについてはまだ十分な措置が取られていないという点についてを説明しました。
このように、大変中身の濃いパネルディスカッションとなりましたが、民間事故調が2013年末に英文の報告書を出すこともあり、それへの関心も持ってもらえるようになったので、とりあえず私に与えられた役目は果たしたかな、と思っています。
ここからは余談ですが、今回、このカーネギー国際平和財団の会議に出たのですが、予想していたよりもはるかに人が多くてびっくりしました。しかも、その中で女性が多いことが特に驚きでした。半分とまでは行かないですが、3割くらいは女性で、アメリカだけでなく各国から来ている参加者も女性が多かったです。普段、宇宙関係の国際会議に良く出ますが、宇宙は男性が圧倒的に多く、女性もいないわけではないですが、やはり1割程度。なぜ核不拡散や原子力政策にこんなに女性が集まるのか、ちょっと不思議ではあります。なお、ヤツコさんの後任の現在のNRC委員長も女性ですね。
それと、元々核不拡散の問題を扱う会議なので、ロシアの存在感が非常に大きかったということです。宇宙でもロシアは十分存在感があるはずなのですが、それほど目立つという感じではありません。しかし、核戦略や不拡散の問題となると、どうしてもロシアを外すわけにはいかないのと、このカーネギー財団の会議がある意味では、米ソ冷戦時代の対話のチャンネルとして機能していた(いわゆるトラック2)ということもあり、パネルにはアメリカ+ロシア+もう一人、といった感じの組み合わせが多かったのではないかと思います。
もう一つ、雑感として持ったのが、それでも核が一番重要、という議論はどこまで現実を反映しているのか、ということへの疑問でした。参加したセッションの一つに「サイバー攻撃や対衛星攻撃に核は報復として使えるか」というタイトルのセッションがあり、さすがにパネリストも無理な設定だと苦笑いしていましたが、それでもかなり真面目に核兵器が最終的な抑止力になるという前提で議論を進めていたので、かなり違和感がありました。核不拡散の問題に取り組む人たちは、当然、核兵器の恐ろしさを良く認識しているだけに、その核兵器が持つ圧倒的な力を使って、リスクをどう抑止するのか、という発想になりがちになるところに、普段から核問題をやっているわけではない立場から見ると強い違和感を覚えるところがありました。
だいぶ長くなってしまいましたが、カーネギーでの会議は大変有意義だったので、それが皆さんとシェアできれば幸いです。
2013年1月17日木曜日
ARGOとZero Dark Thirty
今回のブログはちょっと趣向を変えて、今年のゴールデン・グローブ賞受賞作であり、アカデミー賞の有力候補でもある二つの映画についてコメントしたい。なお、日本での公開はまだだと思うので、内容を知りたくない人は読まないでほしい(わざわざ読みに来ていただいているのに読むな、というのも変な話ですが…)。
=====ネタバレ注意=====
さて、この二つの映画だが扱っている時代が大きく異なるとはいえ、実話をもとにした脚本であり、CIAの活動がストーリーの中心であり、アメリカとイスラムとの関係を考える上では共通点も多い映画である。
ご存知の方も多いと思うが、ARGOは1979年のイラン・イスラム革命でアメリカ大使館が占拠された際、難を逃れた6人の大使館員をイラン国外に退出させるオペレーションの話であり、Zero Dark Thirtyは9.11後にCIAがオサマ・ビン・ラディンの居場所を突き止め、最終的に海軍の特殊部隊がオサマ・ビン・ラディン(UBL)を殺害するというストーリーである。
まず映画としての評を述べておこう。ゴールデン・グローブでは作品賞、監督賞がARGOと、その監督のベン・アフレック、主演女優賞がZero Dark Thirtyのジェシカ・チャスティンであった。いずれも受賞に値する見ごたえのある映画であり、映画館で見る価値のある映画である。
ただ、やはり作品賞をとっただけあり、ARGOの方が出来は良かった。コメディもやるベン・アフレックが監督をしただけあって、ストーリー展開は脚色が強く、ハリウッド的なストーリー展開(問題発生→問題解決→予期せぬ出来事でハラハラ→何とか英雄的な努力でギリギリ解決、の繰り返し)にきっちりはめてきたという感じ。台詞回しが洒落ていたり、ちょっと笑いを誘うものでもありながら、個人の力ではどうすることもできない時代の流れの中で苦悩しながら生きていく人々の姿を大変生き生きと描いていた。
それに対し、Zero Dark Thirtyは、あまりにも事実に忠実であろうとし、それゆえにエンターテイメントというよりも、ドキュメンタリーを見ているような印象が残る映画であった。CIAが全面的に協力したと言われているが、CIAはこの映画で使われた拷問による情報収集を否定しており、その辺が様々な憶測や議論を呼ぶところでもある。Heart Lockerを作った、キャサリン・ビゲローが監督したということもあって、大きな社会的コンテキストよりは、現場そのものを精密に描いていくというテイストが前面に出ていたこともあるだろう。
このように、二つとも見ごたえのある映画であったが、個人的にはやはりARGOが面白かった。というのも、やはり世界史的に大きな事件の中で、アメリカが有り余る力とアセットを持ちながら、結局、アメリカが世界とどう向き合うのか、コンスタントに悩んでおり、アメリカとイラン、アメリカとイスラム原理主義との関係が現時点に至るまでこじれ続けている姿が非常によく見えるからである。
イランで人質になった大使館員を救出することが最優先事項になってしまったことで、アメリカとイスラム世界との関係を再構築しなければならない転換点に戦略的な思考ではなく、目の前の人質救出からイランとの関係を考えなければならなかったことが痛いほどARGOから伝わってきた。最初から妥協と問題解決が優先され、イランへの反撃(制裁)が優先され、その結果、イラクを支援し、イラン・イラク戦争をけしかけていったことでアメリカの中東政策、対イスラム原理主義戦略がねじれてしまい、イラク戦争、そして「アラブの春」やリビア・シリアへの対策に至るまでの、アメリカの頭痛の種になりつづけた。その点で、ARGOが描いた姿は、単に「突拍子もない人質救出作戦を成功させた」というハッピーエンドの話だけでなく、その後のCIAやアメリカ外交の方向性も示唆するものであったように感じた。
その点、Zero Dark Thirtyは、ジェシカ・チャスティン演じるMaya(実在の人物ではなく、複数の人物を組み合わせたキャラクターのようです)が中心となってストーリーが展開しており、UBLの追跡にかける熱意と上司との軋轢、政権の無理解、情報の不正確さとの戦いに焦点があてられていて、あくまでもCIAという組織の枠組みの中での描写という側面が強かった。1979年よりもはるかに高度な技術を駆使し、より精細な情報が手に入るといっても、結局、諜報活動は人間が行うことであり、CIAという組織の論理の中で進んでいくことを明らかにしている点では面白かった。しかし、話がそこで止まってしまっているという印象も強かった。ARGOで見られた苦悩は影をひそめ、テロとの戦い、UBLの追跡と大きな戦略的目標は決まっているのに、その方法論でもめている、という印象が強いのだ。そこが今一つ、ARGOよりも共感というか、面白さを感じなかった理由かもしれない。
しかし、二つの映画を並べてみると、1979年も2011年も、政治は常に世論の圧力の中で、目標を達成するための手段を選ばなければならず、その手段の倫理性や正当性が問われるのだな、ということを強く感じる。1979年の時点では、まだCIAが国民の目の届かないところで活動し、結果を出すということができたが、2011年の時点では、全てがオンタイムで公開され、ネットを通じて情報が流通してしまうため、より一層、世論の圧力が大きくなっているような印象もある。もちろん、民主主義である以上、それは望ましいし、そうあるべきなのだが、実際に結果を出し、政策目標を実現しなければならないCIAの人たちは大変だなぁ、と同情をする余地もあるように思える。
いずれにしても、この二つの作品は見る価値のある映画だし、今年のアカデミー賞の有力候補なので、今後も見続けられる映画となるだろう。これから見ようと思っている方は是非両方とも見て、比べてみてほしい。
=====ネタバレ注意=====
さて、この二つの映画だが扱っている時代が大きく異なるとはいえ、実話をもとにした脚本であり、CIAの活動がストーリーの中心であり、アメリカとイスラムとの関係を考える上では共通点も多い映画である。
ご存知の方も多いと思うが、ARGOは1979年のイラン・イスラム革命でアメリカ大使館が占拠された際、難を逃れた6人の大使館員をイラン国外に退出させるオペレーションの話であり、Zero Dark Thirtyは9.11後にCIAがオサマ・ビン・ラディンの居場所を突き止め、最終的に海軍の特殊部隊がオサマ・ビン・ラディン(UBL)を殺害するというストーリーである。
まず映画としての評を述べておこう。ゴールデン・グローブでは作品賞、監督賞がARGOと、その監督のベン・アフレック、主演女優賞がZero Dark Thirtyのジェシカ・チャスティンであった。いずれも受賞に値する見ごたえのある映画であり、映画館で見る価値のある映画である。
ただ、やはり作品賞をとっただけあり、ARGOの方が出来は良かった。コメディもやるベン・アフレックが監督をしただけあって、ストーリー展開は脚色が強く、ハリウッド的なストーリー展開(問題発生→問題解決→予期せぬ出来事でハラハラ→何とか英雄的な努力でギリギリ解決、の繰り返し)にきっちりはめてきたという感じ。台詞回しが洒落ていたり、ちょっと笑いを誘うものでもありながら、個人の力ではどうすることもできない時代の流れの中で苦悩しながら生きていく人々の姿を大変生き生きと描いていた。
それに対し、Zero Dark Thirtyは、あまりにも事実に忠実であろうとし、それゆえにエンターテイメントというよりも、ドキュメンタリーを見ているような印象が残る映画であった。CIAが全面的に協力したと言われているが、CIAはこの映画で使われた拷問による情報収集を否定しており、その辺が様々な憶測や議論を呼ぶところでもある。Heart Lockerを作った、キャサリン・ビゲローが監督したということもあって、大きな社会的コンテキストよりは、現場そのものを精密に描いていくというテイストが前面に出ていたこともあるだろう。
このように、二つとも見ごたえのある映画であったが、個人的にはやはりARGOが面白かった。というのも、やはり世界史的に大きな事件の中で、アメリカが有り余る力とアセットを持ちながら、結局、アメリカが世界とどう向き合うのか、コンスタントに悩んでおり、アメリカとイラン、アメリカとイスラム原理主義との関係が現時点に至るまでこじれ続けている姿が非常によく見えるからである。
イランで人質になった大使館員を救出することが最優先事項になってしまったことで、アメリカとイスラム世界との関係を再構築しなければならない転換点に戦略的な思考ではなく、目の前の人質救出からイランとの関係を考えなければならなかったことが痛いほどARGOから伝わってきた。最初から妥協と問題解決が優先され、イランへの反撃(制裁)が優先され、その結果、イラクを支援し、イラン・イラク戦争をけしかけていったことでアメリカの中東政策、対イスラム原理主義戦略がねじれてしまい、イラク戦争、そして「アラブの春」やリビア・シリアへの対策に至るまでの、アメリカの頭痛の種になりつづけた。その点で、ARGOが描いた姿は、単に「突拍子もない人質救出作戦を成功させた」というハッピーエンドの話だけでなく、その後のCIAやアメリカ外交の方向性も示唆するものであったように感じた。
その点、Zero Dark Thirtyは、ジェシカ・チャスティン演じるMaya(実在の人物ではなく、複数の人物を組み合わせたキャラクターのようです)が中心となってストーリーが展開しており、UBLの追跡にかける熱意と上司との軋轢、政権の無理解、情報の不正確さとの戦いに焦点があてられていて、あくまでもCIAという組織の枠組みの中での描写という側面が強かった。1979年よりもはるかに高度な技術を駆使し、より精細な情報が手に入るといっても、結局、諜報活動は人間が行うことであり、CIAという組織の論理の中で進んでいくことを明らかにしている点では面白かった。しかし、話がそこで止まってしまっているという印象も強かった。ARGOで見られた苦悩は影をひそめ、テロとの戦い、UBLの追跡と大きな戦略的目標は決まっているのに、その方法論でもめている、という印象が強いのだ。そこが今一つ、ARGOよりも共感というか、面白さを感じなかった理由かもしれない。
しかし、二つの映画を並べてみると、1979年も2011年も、政治は常に世論の圧力の中で、目標を達成するための手段を選ばなければならず、その手段の倫理性や正当性が問われるのだな、ということを強く感じる。1979年の時点では、まだCIAが国民の目の届かないところで活動し、結果を出すということができたが、2011年の時点では、全てがオンタイムで公開され、ネットを通じて情報が流通してしまうため、より一層、世論の圧力が大きくなっているような印象もある。もちろん、民主主義である以上、それは望ましいし、そうあるべきなのだが、実際に結果を出し、政策目標を実現しなければならないCIAの人たちは大変だなぁ、と同情をする余地もあるように思える。
いずれにしても、この二つの作品は見る価値のある映画だし、今年のアカデミー賞の有力候補なので、今後も見続けられる映画となるだろう。これから見ようと思っている方は是非両方とも見て、比べてみてほしい。
2013年1月3日木曜日
誰に向けた平和主義だったのだろうか
皆様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
さて、現在、日本の宇宙政策についての英語原稿を執筆している最中なのだが、書きながらふと疑問に思ったことがあるので、少し展開してみたい。
これまで日本の宇宙政策は1969年の「宇宙の平和利用原則」を定めた国会決議によって、防衛省・自衛隊が宇宙システムを開発・保有・運用・利用することは認められておらず、1985年のいわゆる「一般化理論」によって、商業的に提供されるものと同等の機能を持つ宇宙システムであれば利用することが可能とされてきた。
その後、2008年に宇宙基本法が策定され、国会決議の定義が緩められ、「日本国憲法の平和主義に則り」「国際の平和と安全および我が国の安全保障」に資する宇宙開発をすることが可能となった。
ここで思ったのが、これまでの「宇宙の平和利用原則」というのは一体どこまで世界的に理解されてきたのか、ということである。
論文を書くためにいろいろな文献に目を通していると、しばしば「日本の宇宙開発は将来的に軍事利用を目的としたものである」という、あまり根拠が定かでない決めつけに基づいて書かれているものが多く、かなり辟易してくる。
これは、冷戦期から現在に至るまで、宇宙開発が軍事利用と分かちがたく発展してきた結果であり、とりわけアメリカ、ロシア、中国などの論者はこうした「宇宙=軍事利用」を疑うことなき前提として捉えている傾向がみられる。宇宙政策の専門家であれば、日本の状況に対する理解を示すものも少なからずあるが、とりわけ軍事戦略や軍事技術開発を専門とする人たちから見ると、日本の宇宙開発は表面的には平和利用を謳っているが、その本心には軍事利用があると見る人が大半である。
このこと自体は特に驚くことでもないのだが、私が気になったのは、果たして日本の「平和利用原則」は誰に向けられたものだったのか、ということである。
宇宙政策に詳しい人なら改めて言う必要もないが、1969年の国会決議が採択された背景には、アメリカのロケット技術を導入して日本の国産ロケットを作るという話があった。アメリカのロケットは軍事的な目的で開発された技術だから、日本政府も軍事的な目的で技術導入をするのではないかといった疑いがあり、そうではないことを証明するために、全会一致で衆議院で採択したのが「宇宙の平和利用原則」決議である。
この決議の下敷きになったのは原子力基本法における「平和の目的に限り」という文言の解釈であり、ここには自衛隊が開発・運用・利用してはならないという解釈があった。それをロケット技術に当てはめたのが「宇宙の平和利用原則」決議ということになる。
つまり、この決議は国民に向けた、政府は宇宙開発を軍事的な目的に利用せず、完全に自衛隊を排除した宇宙開発をするという宣言という性格を持っている。
ここまでは特に違和感なく理解できるのだが、この決議が「国民に向けた」ものでしかなく、「世界に向けた」宣言になっていないというところに違和感を持つのである。つまり、「平和」という国際システムの中で実現しなければならない事象を、国内に向けてしか考えていなかった、という点に違和感を持つのである。
平和の定義は案外難しいのだが、とりあえず現存の国際秩序が維持され、武力紛争の無い状態とするとしても、「宇宙の平和利用原則」すなわち、日本の宇宙開発が平和の目的に限り行われると宣言し、他国に対して攻撃的な意図を持たないだけでなく、他国の軍事活動を偵察したり、自衛隊の部隊運用のために通信衛星を使うと言ったこともしない、という宣言は、外国から見れば、奇妙なものと映るであろう。というのも、平和を守り、現存の国際秩序を守るためには、他国の情勢を監視し、紛争に至る可能性のある出来事を、紛争に至る前に解決するのが当然と考えるからである。にもかかわらず、日本の「宇宙の平和利用原則」は、そうした偵察などの行為すら否定するものとして解釈されてきたのである。これでは、外国の軍事戦略の専門家が、日本の「平和利用」の概念を疑ってかかっても仕方がない。
つまり、日本の「宇宙の平和利用原則」というのは、自衛隊を宇宙開発から遠ざけて、国民がとりあえず安心するという、国内向けにのみ取られた宣言であり、外国から訝しく思われることには注意を払わず、外国に対して「日本にとっての平和利用とはこういうものである」といった訴えかけをすることもない宣言であったのである。言い換えれば、「宇宙の平和利用原則」は、国民を満足させるだけの自己満足のための規定であったと言わざるを得ないということである。
既に、2008年の宇宙基本法で、これまでの「宇宙の平和利用原則」の解釈は変更され、こうした自己満足という要素が取り除かれ、「国際の平和と安全および我が国の安全保障」に資する宇宙開発が出来るようになったということは諸外国から見ると、よりわかりやすい定義になったと考えている。実際、アメリカ、欧州、中国の研究者や外交官などと話していると、宇宙基本法の立場の方がよく理解されることが実感できる。
私は、日本国憲法の平和に対する考え方は素晴らしいものがあると思っているし、その理念は守られるべきだと考えている。しかし、その平和憲法の考え方を歪めて解釈し、「宇宙の平和利用=自衛隊が使わないこと」といった、現実に合わない原則にまで展開することには異議がある。私は宇宙の平和利用とは自衛隊を遠ざけることではなく、政府が積極的に宇宙を利用し、紛争が起きる兆候を早期に発見し、紛争に至らないための交渉を行って、武力行使をせずに国際紛争を解決するという意味だと理解している。そのためには、偵察や国連平和維持活動などのために自衛隊が宇宙システムを利用することは積極的に行うべきだと考えている。大事なことは、その自衛隊をきちんと管理し、日本が他国と武力によって紛争を解決するようなことが起こらないように政治が働き、国民がそれを監視することだと思う。その意味では、宇宙システムを自衛隊から遠ざけるだけで安心するのは単なる思考停止でしかなく、本当の意味で平和を求める姿ではないと考える。その点から考えても、宇宙基本法の考え方は積極的に評価したい。
いずれにしても、平和は自己満足からは生まれない。平和を維持し、平和を作り出すためにどうするべきかを真剣に考え、自らが行動を起こすことで平和は成立する。いかにして武力行使をしないで国際的な紛争を解決するのか、という点に目標をおいて、その上でどのような防衛政策、宇宙政策を取るべきかを考えていくのが、これからの日本にとって重要と考える。
その意味では、昨年末に政権交代が起こり、憲法改正を勇ましく叫ぶ自民党政権、安倍政権には若干の不安を感じる。平和憲法を歪めて解釈し、自己満足で平和が成立すると考えるのも愚かだが、逆に憲法を改正して、それで平和が成立すると考えるのも愚かである。この両者は、平和を守るという行為を単純化し、内向きな自己満足だけで平和が成立すると考えている点で、コインの裏表でしかなく、思考停止状態から一歩も踏み出していないとしか言いようがない。政権交代後、安倍政権は勇ましい言説を鉾に収め、現実主義的な政策を展開しているように見えるので、当面、この傾向が継続することが望ましいとは思うが、今年夏の参院選で自民党が勝利し、憲法改正の条件が整ってくると、そうともいかないような気もしている。この不安が的中しないことを望むしかない。
さて、現在、日本の宇宙政策についての英語原稿を執筆している最中なのだが、書きながらふと疑問に思ったことがあるので、少し展開してみたい。
これまで日本の宇宙政策は1969年の「宇宙の平和利用原則」を定めた国会決議によって、防衛省・自衛隊が宇宙システムを開発・保有・運用・利用することは認められておらず、1985年のいわゆる「一般化理論」によって、商業的に提供されるものと同等の機能を持つ宇宙システムであれば利用することが可能とされてきた。
その後、2008年に宇宙基本法が策定され、国会決議の定義が緩められ、「日本国憲法の平和主義に則り」「国際の平和と安全および我が国の安全保障」に資する宇宙開発をすることが可能となった。
ここで思ったのが、これまでの「宇宙の平和利用原則」というのは一体どこまで世界的に理解されてきたのか、ということである。
論文を書くためにいろいろな文献に目を通していると、しばしば「日本の宇宙開発は将来的に軍事利用を目的としたものである」という、あまり根拠が定かでない決めつけに基づいて書かれているものが多く、かなり辟易してくる。
これは、冷戦期から現在に至るまで、宇宙開発が軍事利用と分かちがたく発展してきた結果であり、とりわけアメリカ、ロシア、中国などの論者はこうした「宇宙=軍事利用」を疑うことなき前提として捉えている傾向がみられる。宇宙政策の専門家であれば、日本の状況に対する理解を示すものも少なからずあるが、とりわけ軍事戦略や軍事技術開発を専門とする人たちから見ると、日本の宇宙開発は表面的には平和利用を謳っているが、その本心には軍事利用があると見る人が大半である。
このこと自体は特に驚くことでもないのだが、私が気になったのは、果たして日本の「平和利用原則」は誰に向けられたものだったのか、ということである。
宇宙政策に詳しい人なら改めて言う必要もないが、1969年の国会決議が採択された背景には、アメリカのロケット技術を導入して日本の国産ロケットを作るという話があった。アメリカのロケットは軍事的な目的で開発された技術だから、日本政府も軍事的な目的で技術導入をするのではないかといった疑いがあり、そうではないことを証明するために、全会一致で衆議院で採択したのが「宇宙の平和利用原則」決議である。
この決議の下敷きになったのは原子力基本法における「平和の目的に限り」という文言の解釈であり、ここには自衛隊が開発・運用・利用してはならないという解釈があった。それをロケット技術に当てはめたのが「宇宙の平和利用原則」決議ということになる。
つまり、この決議は国民に向けた、政府は宇宙開発を軍事的な目的に利用せず、完全に自衛隊を排除した宇宙開発をするという宣言という性格を持っている。
ここまでは特に違和感なく理解できるのだが、この決議が「国民に向けた」ものでしかなく、「世界に向けた」宣言になっていないというところに違和感を持つのである。つまり、「平和」という国際システムの中で実現しなければならない事象を、国内に向けてしか考えていなかった、という点に違和感を持つのである。
平和の定義は案外難しいのだが、とりあえず現存の国際秩序が維持され、武力紛争の無い状態とするとしても、「宇宙の平和利用原則」すなわち、日本の宇宙開発が平和の目的に限り行われると宣言し、他国に対して攻撃的な意図を持たないだけでなく、他国の軍事活動を偵察したり、自衛隊の部隊運用のために通信衛星を使うと言ったこともしない、という宣言は、外国から見れば、奇妙なものと映るであろう。というのも、平和を守り、現存の国際秩序を守るためには、他国の情勢を監視し、紛争に至る可能性のある出来事を、紛争に至る前に解決するのが当然と考えるからである。にもかかわらず、日本の「宇宙の平和利用原則」は、そうした偵察などの行為すら否定するものとして解釈されてきたのである。これでは、外国の軍事戦略の専門家が、日本の「平和利用」の概念を疑ってかかっても仕方がない。
つまり、日本の「宇宙の平和利用原則」というのは、自衛隊を宇宙開発から遠ざけて、国民がとりあえず安心するという、国内向けにのみ取られた宣言であり、外国から訝しく思われることには注意を払わず、外国に対して「日本にとっての平和利用とはこういうものである」といった訴えかけをすることもない宣言であったのである。言い換えれば、「宇宙の平和利用原則」は、国民を満足させるだけの自己満足のための規定であったと言わざるを得ないということである。
既に、2008年の宇宙基本法で、これまでの「宇宙の平和利用原則」の解釈は変更され、こうした自己満足という要素が取り除かれ、「国際の平和と安全および我が国の安全保障」に資する宇宙開発が出来るようになったということは諸外国から見ると、よりわかりやすい定義になったと考えている。実際、アメリカ、欧州、中国の研究者や外交官などと話していると、宇宙基本法の立場の方がよく理解されることが実感できる。
私は、日本国憲法の平和に対する考え方は素晴らしいものがあると思っているし、その理念は守られるべきだと考えている。しかし、その平和憲法の考え方を歪めて解釈し、「宇宙の平和利用=自衛隊が使わないこと」といった、現実に合わない原則にまで展開することには異議がある。私は宇宙の平和利用とは自衛隊を遠ざけることではなく、政府が積極的に宇宙を利用し、紛争が起きる兆候を早期に発見し、紛争に至らないための交渉を行って、武力行使をせずに国際紛争を解決するという意味だと理解している。そのためには、偵察や国連平和維持活動などのために自衛隊が宇宙システムを利用することは積極的に行うべきだと考えている。大事なことは、その自衛隊をきちんと管理し、日本が他国と武力によって紛争を解決するようなことが起こらないように政治が働き、国民がそれを監視することだと思う。その意味では、宇宙システムを自衛隊から遠ざけるだけで安心するのは単なる思考停止でしかなく、本当の意味で平和を求める姿ではないと考える。その点から考えても、宇宙基本法の考え方は積極的に評価したい。
いずれにしても、平和は自己満足からは生まれない。平和を維持し、平和を作り出すためにどうするべきかを真剣に考え、自らが行動を起こすことで平和は成立する。いかにして武力行使をしないで国際的な紛争を解決するのか、という点に目標をおいて、その上でどのような防衛政策、宇宙政策を取るべきかを考えていくのが、これからの日本にとって重要と考える。
その意味では、昨年末に政権交代が起こり、憲法改正を勇ましく叫ぶ自民党政権、安倍政権には若干の不安を感じる。平和憲法を歪めて解釈し、自己満足で平和が成立すると考えるのも愚かだが、逆に憲法を改正して、それで平和が成立すると考えるのも愚かである。この両者は、平和を守るという行為を単純化し、内向きな自己満足だけで平和が成立すると考えている点で、コインの裏表でしかなく、思考停止状態から一歩も踏み出していないとしか言いようがない。政権交代後、安倍政権は勇ましい言説を鉾に収め、現実主義的な政策を展開しているように見えるので、当面、この傾向が継続することが望ましいとは思うが、今年夏の参院選で自民党が勝利し、憲法改正の条件が整ってくると、そうともいかないような気もしている。この不安が的中しないことを望むしかない。