2011年4月30日土曜日

内閣官房参与はなぜ辞めるのか

昨日、放射線安全学を専門とする小佐古・内閣官房参与が辞任したことで、メディアも国会も騒いでいます。ただでさえ逆風激しい菅政権にとって、さらなるマイナス材料であることは疑いがなく、その意味ではニュースとしての価値はあると思います。

しかし、どうもこの話は腑に落ちないというか、納得がいかないところがあります。まず、問題となるのは、意見が受け入れられないので辞めるという判断に若干の違和感があります(朝日新聞の記事)。そもそも、内閣官房参与は最終的な意思決定者ではなく、あくまでも助言者であり、その助言を聞くかどうかは意思決定者である総理大臣にゆだねられています。なので、総理大臣が参与のいうことをすべて聞く必要はありません。なので、提言が受け入れられないことがあるという前提で参与をやる、というのが通常の考え方になるはずですが、自分の判断が受け入れられないから辞めるというのは、小学生が駄々をこねているのとあまり違いがありません。

この背景には、「科学者がいうことが正しく、政治家は素人であり、判断する能力がない」というある種のおごりというか、傲慢さがあるように思います。科学技術政策ではしばしばあることですが、科学者・技術者が、その「科学的正しさ」だけで判断をしようとする、ということがあります。しかし、年間20ミリシーベルトの被ばくを上限値とするということが、本当に「科学的に正しい」と証明することは難しく、その点では議論が残るにも関わらず、「自分が正しいのに聞いてもらえない」といって辞めるのは、かなり違和感があります。

それ以上におかしな話は、内閣官房参与の数があまりにも多く(現在15人?)、誰の意見を聞き、それがどう活かされるのかということが、当事者にもわからないという仕組みを作っているということだろうと思います。危機管理に当たって、指揮命令系統が複雑になることは絶対に避けるべきなのに、トップの指導者がいろんな人の話を聞いて判断を下すというのは無理があるように思います。そんな滅茶苦茶な組織を作っているから、「話を聞いてもらえない」といって内閣官房参与が辞任するというような話になってしまうのです。そうならないためにも、きちんと指揮命令系統を一本化し、参与の数を絞って明確な政策の軸を出すのが普通の感覚だと思います。

しかも、この小佐古・東大教授という人は原爆認定訴訟で国側の証人として証言した人であり、市民運動出身の菅総理とは、そもそも対立する立場にいた人です。そんな人を内閣官房参与に招く菅さんのセンスもよくわかりません。

さらに、今回の辞任劇に深く関与したのが、東芝の労働組合出身で、小沢系といわれる空本衆議院議員だといわれています。原発メーカーであり、福島第一原発の当事者でもある東芝出身ということも気になりますが、小沢系というのも、また政局がらみの雰囲気を持っていて、なんとも怪しげな印象を受けます。

いずれにしても、今回の辞任劇は、菅政権のマネージメントの悪さ、技術者の驕り、危機を政局の道具としてもてあそぶ政治、原発メーカーの思惑などが絡んでいて、非常に居心地の悪いケースです。日本の科学技術政策というのは、どこまで落ちて行くんでしょうね。

2011年4月24日日曜日

どうしようもない岩手県の提案

昨日、復興構想会議で岩手、宮城、福島の知事が復興に向けてのビジョン・プランを示し、議論になったという(朝日新聞の記事)。宮城県の村井知事は震災直後から積極的にテレビに出演し、震災の状況や宮城県としての取り組みを広く知らしめるだけでなく、野村総研を巻き込んで、震災後1ヶ月のうちに復興計画を立てた。他方、岩手においては、そうした動きが乏しく、福島に至っては原発事故がまだ収束せず、復興のプランを立てようもない状態である。

ここで気になったのが、宮城と岩手の復興計画の差である。確かに宮城は仙台を抱え、東北6県の中では突出した県である。しかし、それ以上に知事である村井氏は、防衛大学校を卒業した元自衛隊幹部候補であり、松下政経塾から政界に転身し、改革派知事といわれた浅野氏の後継者を破って当選した人物である。こうした危機にあって、組織をまとめ、早急に行動をするという発想と行動力を持った人物であると評価できよう。

逆に、岩手県の達増知事は外務省出身で、1996年、新進党から出馬して国会議員となり、「小沢チルドレン」の第一期生のような存在となり、岩手を地盤とする小沢一郎に忠実な政治家として知られる。

この二人の知事が提示した復興プランは極めて異なるものであった。宮城県の提案は高速道路や鉄道を再建する際に盛り土構造にすることで堤防の役目を果たすといったものに代表されるように、具体的な提案が多数あった。逆に岩手県から出された提案が「平泉を世界遺産にして観光業で経済再建する」「北上山地にリニアコライダー(映画の『天使と悪魔』に出てきた、原子をぶつける加速器)を整備し、先端科学技術の集積を図る」というもの。

この岩手県の提案は、あまりにも旧来の田中派的な自民党政治時代の「我田引鉄」的利益誘導型の提案としか思えない。震災や津波で被害にあった地域のことなどどうでもよいかのごとく、県の単位でしかものを考えておらず、これがどう復興や災害対策になるのか、まったく理解できない。被災した状況の中で、十分な議論ができておらず、旧来から岩手県が要望している項目を並べたということだとしても、あまりにも芸がなさすぎる。

ここから明らかになってくるのは、地方分権の危うさである。今回の震災は東北地方に被害が集中し、それを自治体がどう解決していくのか、ということが試される機会となっている。宮城県の例だけ見れば、自治体が独自のアイディアと自発性で復興と災害対策に向かっていくという姿が見えてくる。村井知事が「権限と財源を与えてほしい」という話をするのもうなづける。しかし、岩手県の例を見ていると、地方分権など本当にできるのか、大いに疑問を持つ。これだけの震災にあい、多数の人の命が奪われ、多くの被災者が苦しんでいる中で、世界遺産やリニアコライダーが救いになると考えているようでは、自治体としての機能は失われているとしか言いようがない。

地方分権の難しいところは、ある特定の地方だけに権限を与えるということができないということであろう。権限と財源を国から地方に移すのであれば、それは宮城県だけでなく、岩手県にも行わなければ、国家全体の行政構造が複雑になりすぎてしまう。大阪府知事の橋下氏が主張する「大阪都構想」はまさに、そうした大阪を特殊な自治体にすることで、不均衡な権限と財源の移譲を、何とか既存の枠組みに収めて、国家全体の行政構造を維持しようという意図があると思われるが、宮城県だけがそういった特殊な存在になれるか、というと別の問題であろう。

また、今回は村井知事という特定の個人の役割が非常に大きいと感じるが、これが「もし宮城県知事が村井氏でなければ・・・」という仮定を立てると、安易に宮城県だけを特別扱いにするわけにもいかないだろう。そうなると、結局、制度的な解決として地方分権を進めなければならないということになる。

制度的に地方分権をすれば、岩手県のような自治体でも、その能力や機能を自発的に生みだしていく、ということも期待できるが、もし現在のように、自治体としての機能が失われている状態が続く中で地方分権をしたらどうなるのか、という不安もある。

いずれにしても、これだけの大震災をもってしても、これだけ多くの人の命が犠牲となっても、これだけ多くの人たちが苦しんでいても、岩手県の自治体としての発想や独自性が生まれなかった、ということは、自治体に期待することの限界が見えたような気がする(しかし、自治体が駄目だから、やっぱり国が重要だ、ともいえないのが苦しい)。

試作品大国の日本

福島第一原発の事故が長引く中、東京電力と原子力保安院はアメリカのiRobot社製のロボットを導入した。iRobotというのは、自動掃除機である「ルンバ」で日本でもなじみのある会社だが、その本業は戦場で利用されるロボットを開発・製造する軍需産業である。

一方、日本はロボット大国といわれる。筑波大学発のベンチャーであるサイバーダイン社が進めるHALのロボットスーツや、自動車工場などで使われる工業用ロボットでは世界最高峰の技術水準と国際競争力のある国である。また、ロボットとしての有用性が疑われる二足歩行ロボットの分野でも世界最先端のレベルに行っていると思われる。

にも関わらず、原発事故という人々の生命や社会秩序にかかわる問題を解決するロボットは実用的なものを持っていない。実は、日本も原発事故用のロボットを開発した過去がある。かつてスリーマイル島事故があった時、また、茨城県東海村でJCOの事故があった時に原発事故対応のロボットが開発された。しかし、それが実用化されることはなかった。

しばしば、この理由が「原発は事故が起こらないから、そんなロボットは必要ない」という説明がなされる。それもその通りなのだが、他にも理由があると考えている。それは「試作品大国」としての日本という側面だ。

日本の技術開発は、主として経済産業省や文部科学省が進めている。ロボット開発についても、介護用ロボットなどは厚生労働省が支援していることもあるが、主として経産省と文科省が支援している。この二つの役所は、いうまでもなく、原発を推進し、原子力の研究開発に関与している役所でもあるが、この点はまた別の機会に話をするとして、今回問題にしたいのは、この二つの役所が目指すロボット開発は大きく二つの流れを持つということである。

一つは、経産省が進めるロボット開発は、基本的に将来的な商業的価値や産業的なインプリケーションのあるものに焦点が当たっている。さまざまなロボット開発がすすめられ、経産省傘下の産業総合研究所(産総研)がメッカとなっている。ここでは、新しいロボット技術が商業的、工業的に役に立つことを目的としている。そのため、原発事故など、滅多に起こらない事態に対処するような研究開発は積極的には行われない。なぜなら、それはあまり売れないものだからだ。

逆に、文科省が進めるロボット開発は、基本的に「研究開発のための研究開発」で終わることが多い。つまり、文科省が進めるプロジェクトとは、「ほかの国ではやっていないもの」「技術的にチャレンジングであるもの」であれば予算がつくが、「このロボットが役に立つ」ということでは予算はつかない。そのため、大量の試作品ができ、技術水準ばかり上がっていくが、実用に足るロボットはついぞ生産されない。

まさに、今回の原発事故を受けて、そうした「役に立つ」ロボットが存在せず、技術はあるのに実用に足らないのは、こうした試作品の山ばかり作ってきた結果なのである。

宇宙開発でもそれが見事に表れている。先日、電源が停止した「だいち」という地球観測衛星は、震災直後の東北地方の画像を撮影し、災害の復興に貢献していると豪語している(JAXAのプレスリリース)。しかし、その「だいち」は震災から一カ月たった4月22日に電源が止まり、使えなくなっている(JAXAのプレスリリース)。これでは、災害からの復興に貢献できない。

「だいち」はもともと「技術試験衛星」として開発され、その寿命は3年とされていた。すでに「だいち」は打ち上げから5年となっており、その意味では良く頑張った衛星であり、優れた衛星である。しかし問題は、実用に役に立つ衛星であるなら、最初から3年という設計寿命の設定にはならないはずである。その設計寿命の設定は「研究開発衛星だから打ち上げて動くことが確認できれば、もうそれで目的は達成され、それ以上の運用はお金の無駄」という理由で設定されている。つまり、実用に足る衛星として作る気が最初からないのである。

にもかかわらず、JAXAは「社会に貢献している」ということを前面に出している。確かに、「だいち」が提供する2.5メートルの分解能(解像度)の衛星画像は社会に貢献するデータである。しかし、本当に社会に貢献するつもりであれば、なぜ3年という短い設計寿命にしたのか、という問いに答えることはできない。

その問いに対する答えは「JAXAは研究開発機関であり、実利用のための運用をする機関ではない」ということがあるだろう。しかし、それであれば「社会に貢献する」などという必要はないのである。この辺のあいまいさ、中途半端さが気になる。

また、仮に研究開発のために作った衛星で、3年で寿命が終わることが想定されているとしても、社会に貢献する衛星であれば、なぜそのあとに「だいち2号」や「だいち3号」ができないのか?実は、こうした衛星の計画はすでに2009年の「宇宙開発基本計画」で出されている。しかし、政権交代があったことや、日本の財政事情、そして何よりも、文科省とJAXAは同じような衛星を作るよりも新しい衛星を作りたい、という理由で反対した結果、「社会に貢献する」だいち2号やだいち3号はいまだに着手されていない。

要するに、ここで言いたいことは、研究開発を進めたい技術者や、それによって予算を得ようとする文部科学省は、役に立つものを作るための予算よりも、これまでに存在しない、新しい技術を得るための予算がほしいのであり、そのため、試作品はたくさん作るが、実用に足るものは全く作らない、という結果になるのである。

経産省は実用に足るものしか作らないが、それは商業的・産業的な影響があるものに限られ、文科省は役に立つという建前をかざしながら、新しいものを作るということしか興味を持たない。それが「試作品大国」としての日本を生み、今回の原発事故のように肝心なところで、「ロボット大国」でありながら、アメリカの軍需産業によって鍛えられたロボットに依存しなければならなくなっているのである。本当にこれでよいのだろうか?

2011年4月21日木曜日

ブログ始めました

東日本大震災を受けて、世の中が大きく変わっていく中で、日々のニュースに触れて、いろいろと考えなければならないテーマが出てきました。商業的な出版や学術的な論文の執筆にまでは至らないものの、これからの世の中をどう見ていけばよいのかということを社会科学者として見つめ、分析し、何らかの形で伝達したいという思いから、ブログを始めました。

アイディアだけのものもあるでしょうし、十分に練られていない文章も数多くあると思いますが、いろいろなご批判を受けながら、自分の考えを整理し、練り上げられれば、と考えています。コメントなど大歓迎ですが、基本的に自分のアイディアメモのような位置づけのブログですので、多少のいい加減さはご寛容ください。

では、今後ともよろしくお願いいたします。