2011年4月24日日曜日

どうしようもない岩手県の提案

昨日、復興構想会議で岩手、宮城、福島の知事が復興に向けてのビジョン・プランを示し、議論になったという(朝日新聞の記事)。宮城県の村井知事は震災直後から積極的にテレビに出演し、震災の状況や宮城県としての取り組みを広く知らしめるだけでなく、野村総研を巻き込んで、震災後1ヶ月のうちに復興計画を立てた。他方、岩手においては、そうした動きが乏しく、福島に至っては原発事故がまだ収束せず、復興のプランを立てようもない状態である。

ここで気になったのが、宮城と岩手の復興計画の差である。確かに宮城は仙台を抱え、東北6県の中では突出した県である。しかし、それ以上に知事である村井氏は、防衛大学校を卒業した元自衛隊幹部候補であり、松下政経塾から政界に転身し、改革派知事といわれた浅野氏の後継者を破って当選した人物である。こうした危機にあって、組織をまとめ、早急に行動をするという発想と行動力を持った人物であると評価できよう。

逆に、岩手県の達増知事は外務省出身で、1996年、新進党から出馬して国会議員となり、「小沢チルドレン」の第一期生のような存在となり、岩手を地盤とする小沢一郎に忠実な政治家として知られる。

この二人の知事が提示した復興プランは極めて異なるものであった。宮城県の提案は高速道路や鉄道を再建する際に盛り土構造にすることで堤防の役目を果たすといったものに代表されるように、具体的な提案が多数あった。逆に岩手県から出された提案が「平泉を世界遺産にして観光業で経済再建する」「北上山地にリニアコライダー(映画の『天使と悪魔』に出てきた、原子をぶつける加速器)を整備し、先端科学技術の集積を図る」というもの。

この岩手県の提案は、あまりにも旧来の田中派的な自民党政治時代の「我田引鉄」的利益誘導型の提案としか思えない。震災や津波で被害にあった地域のことなどどうでもよいかのごとく、県の単位でしかものを考えておらず、これがどう復興や災害対策になるのか、まったく理解できない。被災した状況の中で、十分な議論ができておらず、旧来から岩手県が要望している項目を並べたということだとしても、あまりにも芸がなさすぎる。

ここから明らかになってくるのは、地方分権の危うさである。今回の震災は東北地方に被害が集中し、それを自治体がどう解決していくのか、ということが試される機会となっている。宮城県の例だけ見れば、自治体が独自のアイディアと自発性で復興と災害対策に向かっていくという姿が見えてくる。村井知事が「権限と財源を与えてほしい」という話をするのもうなづける。しかし、岩手県の例を見ていると、地方分権など本当にできるのか、大いに疑問を持つ。これだけの震災にあい、多数の人の命が奪われ、多くの被災者が苦しんでいる中で、世界遺産やリニアコライダーが救いになると考えているようでは、自治体としての機能は失われているとしか言いようがない。

地方分権の難しいところは、ある特定の地方だけに権限を与えるということができないということであろう。権限と財源を国から地方に移すのであれば、それは宮城県だけでなく、岩手県にも行わなければ、国家全体の行政構造が複雑になりすぎてしまう。大阪府知事の橋下氏が主張する「大阪都構想」はまさに、そうした大阪を特殊な自治体にすることで、不均衡な権限と財源の移譲を、何とか既存の枠組みに収めて、国家全体の行政構造を維持しようという意図があると思われるが、宮城県だけがそういった特殊な存在になれるか、というと別の問題であろう。

また、今回は村井知事という特定の個人の役割が非常に大きいと感じるが、これが「もし宮城県知事が村井氏でなければ・・・」という仮定を立てると、安易に宮城県だけを特別扱いにするわけにもいかないだろう。そうなると、結局、制度的な解決として地方分権を進めなければならないということになる。

制度的に地方分権をすれば、岩手県のような自治体でも、その能力や機能を自発的に生みだしていく、ということも期待できるが、もし現在のように、自治体としての機能が失われている状態が続く中で地方分権をしたらどうなるのか、という不安もある。

いずれにしても、これだけの大震災をもってしても、これだけ多くの人の命が犠牲となっても、これだけ多くの人たちが苦しんでいても、岩手県の自治体としての発想や独自性が生まれなかった、ということは、自治体に期待することの限界が見えたような気がする(しかし、自治体が駄目だから、やっぱり国が重要だ、ともいえないのが苦しい)。

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