2011年6月4日土曜日

ガラパゴス化した政治

ここ数日、不信任案をめぐる一連の騒動で、ブログを書くどころか、何かを考えることすら嫌になっていた。すでに前の投稿(「日本の政治はTwilight Zone」)で、足元の定まらない感覚は何なのか、少し考えてみたが、今度は日本の政治が世界との関係の中で、どう位置付けられるべきなのか、少し考えてみたい。

ここでキーワードにしたいのが「ガラパゴス化」である。この言葉は野村総研が『ガラパゴス化する日本』という本を出し、流行語となった言葉であるが、この言葉は政治の世界にも十分当てはまるように思える。

元々野村総研の議論では、日本の携帯電話などの製品が、日本国内市場特有の高度なニーズに基づいて研究開発、製造されており、そのニーズがグローバル市場のニーズとかけ離れているため、結果的に国内市場でしか通用しない製品が蔓延し、機能や製品の質・水準は高いにも関わらず、グローバル市場ではまったく競争力をもたない状況になっていることを説明している。

この定義からすると、政治の世界を「ガラパゴス化」というにはちょっと違和感がある。というのも、出発点である、国内市場の「高度なニーズ」がなく、日本の政治「製品」が質的に高度であるとは言えないからである。つまり、日本の政治が国際的に通用しないのは、日本の政治が特殊だからというよりも、その質が低いからである。

しかし、別の角度から「ガラパゴス」ということを考えると、日本政治を説明するキーワードとして、必ずしも不適切ではない、という気もしている。少し敷衍してみよう。

第一に、外界から遮断され、独自の論理で政治が動いているという点は「ガラパゴス」的であろう。もともと『ガラパゴス化する日本』の中でも、日本の市場がグローバル市場から遮断されているという点から議論をスタートさせており、その点では、日本の政治が国際的な流れから遮断されているということを「ガラパゴス化」の議論の出発点にすることはできるだろう。

こう書くと「どんな国であっても、主権国家という枠組みの中で政治をやっているのだから、政治はガラパゴス化するものである」という指摘があるかもしれない。それはその通りで、アメリカの政治も中国の政治も、あらゆる政治はガラパゴスである。しかし、日本の特殊性は、外国の動向や国際的なプレゼンスを完全に無視し、自らの特殊な論理で行動することで、他国にはまったく理解できないような状況になっている、という点で、よりガラパゴスっぽい。

国によって違いはあるが、今日の政治は外国からの視線や市場からの視線を無視して、自分勝手な論理で意思決定をすることが困難になっている。というのも、もし外国から理解できないような意思決定を行えば、それだけで批判の対象になり、市場から罰せられる(たとえば国債の価格低下など)。しかし、日本は日米同盟という枠組みの中で、アメリカから文句は言われても、おおっぴらに批判されることが少ないということがあり、また日本の側でもアメリカの言うことを聞いていれば、少なくとも国際社会で正面切って批判されることが少ない、ということを経験的に分かっているところがある。また、市場に対しても、日本はいまだに世界一の対外資産をもっており、膨大な国債もそのほとんどが国内で消化されているため、グローバル市場からの罰が届きにくい。つまり、日本はほかの国に比べても、外界からの遮断の度合いが高い。なので、ガラパゴス化しやすいのである。

第二に、ガラパゴスであると書いて、ピンと来ることがある。それは政治家の多くが世襲議員だ、ということだ。日本という国家が外界から遮断されているだけでなく、永田町という世界が閉じられた世界であり、その中で、独自の生態系がはぐくまれ、特殊な進化を遂げていると言えよう。これによって、永田町というガラパゴスで生まれ育った種は、その外に出ると途端に生存能力を失うため、できるだけ長くガラパゴスの中に閉じこもっていようとする。そのため、生き残るためには、種が分裂して新たな種を生み出したり(自民党から分離し、民主党が生まれる)、その新しい種がほかの種と交配する(民主党に旧社会党や民社党などが合流)などして生き残ろうとする。その際、外界から隔離されているため、新たな天敵に襲われる心配がないため、外敵と戦う能力がなくても(つまり、外国の政治家と渡り合うための交渉力や弁論能力)生き残っていける。結果として、自然界では考えられないような存在になってしまう。

第三に、外来種(たとえば松下政経塾出身者)が入ってきても、ガラパゴスの楽園の論理にはまり込み、在来種との交配が進み、ガラパゴスの秩序が維持され、独自の進化を遂げているという点である。ガラパゴスの中では、本来ならば外来種が弱者である旧来種の政治家を食いつくしてしまうところが、逆に外来種が旧来種と交配しないと生きていけない状況になるため(小選挙区制のため、既存の政党に入り込まないと選挙に勝てないため)、外来種がガラパゴスの論理に取り込まれ、いつの間にか旧来種と共存するようになり、ガラパゴスの秩序が安定する。

第四に、ガラパゴスの秩序は適者生存の論理が徹底しており、ガラパゴスの秩序に適合しない種は排除されていく。 たとえば小泉純一郎という政治家はガラパゴスの中で生まれた突然変異であるが、その突然変異がガラパゴスの種の保存のために有益であるうちは活用するが、そうした突然変異がガラパゴスの秩序を乱すほど影響力をもつようになると、自然に古い秩序が回復し、「小泉新自由主義は格差を拡大させ、日本をダメにした」といった論理が蔓延し、その突然変異を排除するような動きとなる。

ゆえにガラパゴスの秩序に適合したものが生存するという仕組みになっており、そこには外敵と戦う能力(交渉力や論理的な説明能力など)よりは、秩序に適合し、秩序に適合しないものを排除する能力(たとえば足を引っ張る、相手のスキャンダルを暴露するなど)が重要な能力となる。

今回の不信任案を巡る騒動も、不信任を提出した自民党や公明党は「首相の人間性に問題がある」という情緒的で、おおよそ合理的とは思えない理屈だけしかなく、ただ単に民主党の支持率が下がり、菅政権に対する国民の不満が高まっているという状況に悪ノリした権力闘争でしかない。また、民主党内で造反しようとした小沢派と呼ばれる人たちは、「菅政権では原発事故は収束せず、がれきも撤去されていない」ということを理由に不信任案に同調しようとした。しかし、常識的に考えればわかるが、ここで首相が変わったところで原発から汚染水がなくなるわけでも、メルトダウンした燃料が元に戻るわけでもない。ここでも権力闘争をしかけるという状況の悪ノリである。さらに、最初は不信任案に同調するとしながら、中途半端な口約束だけで不信任案の反対に回り、そのあと「ペテン師だ」「ウソをついた」といっているレベルになると、もう論理や合理性という言葉とはかけ離れたTwilight Zoneである。このような、永田町の外で理解できないような論理しか通用せず、外国からみても全く理解ができないような政治の世界は、間違いなくガラパゴス化していると言えるだろう。

このガラパゴス化から抜け出すためには、日本の政治が、少なくとも永田町や日本というコンテキストでのみ認められる論理で動くのではなく、グローバルに理解できるような論理で動く必要がある。グローバルに理解できる論理というのは、一言でいえば合理的に説明がつく論理である。なぜ震災復興の途中で、原発事故の最中に不信任案を提出し、それに同調するようなことになるのか、不信任をして解散総選挙をやれば問題が解決するのか、菅政権が総辞職すれば問題が解決するのか、ということをきちんと論理的に説明する必要がある。「菅さんじゃだめだ」という論理ではなく、「菅さんではなく、○○であれば問題を~~のようにして解決できる」という論理で行動しなければ、おおよそ永田町の外の人間には理解できない。そういうものなしに、永田町という狭い世界の中で権力闘争をやっているだけでは、ガラパゴス状態から脱却することはできない。

こうしたガラパゴス状況から脱却するためには、今のガラパゴスに巣食う旧来種を排除するだけでは不十分である。旧来種が作り出したガラパゴスの秩序を破壊し、世界に通じる論理で政治を行う外来種を永田町に送り込み、その外来種が旧来型のガラパゴスの秩序に染まる前に、旧来種を駆逐するしかない。幸いなことに、ガラパゴスを陸続きにし、外来種を送り込む方法ははっきりしている。それは民主主義であり、選挙である。

6 件のコメント:

  1. 故元助手A.T.2011年6月7日 10:18

    国外にいるとなぜこの時期に不信任案の話になったのか全くわからなかったのですが
    国内にいても政治家以外にはわからないということみたいですね...
    (産経新聞のネット版によると常に不信任は当然らしいですが:D)
    要は、いくらなんでも管さんは解散総選挙を現状で選択できないので
    民主党内の小沢さん派にとってこのタイミングでの不信任は都合がよく
    自民党と利害が一致しただけだったということでしょうか。
    権力闘争という観点からは非常に合理的で外国でも説明しやすい行動な気がしますけど
    それにしても、今回は鳩山さんの謎の友愛パワーで失敗?しましたが小沢一郎さんの政治手腕ってのは本当にほれぼれする凄さですね。
    それとも今回の行動も消費者本位(でしたっけ?)が故なんでしょうかね。

    それとは別に、今回の行動が本当に国内での政治家集団のガラパゴス化が原因なんでしょうかね。国民の中にも、政治家同様の情緒的な理由・合理的とは言えない理由で管さんへの不信任提案に賛成していた人が結構多くはないのでしょうか?それだと、最後の処方箋である選挙が効用を有する可能性も低いのではないかと危惧しています

    返信削除
  2. A.T.さん、コメントありがとうございます。とりあえず、政局についてはあれこれコメント、解説する気にならないので、なんとも言えませんが、権力闘争というフレームで説明すれば、説明はつきます。ただ、権力闘争というのは、その権力を「誰が」握り、そして「何を」成すか、ということがはっきりしていないと、権力闘争になりません。今回は自民党も、小沢派も「誰が」「何を」という話を一切せず、「菅さんじゃだめだ」の一点張りで権力闘争らしきものを仕掛けおり、この震災復興・原発危機のさなかににやるようなことなのか?という疑問は世界中にあったとみています。

    私の書き方が悪かったと思いますが、永田町が国民から乖離し「ガラパゴス化」している、という側面と、日本政治全体が「ガラパゴス化」している、という側面を混ぜて書いています。なので、おっしゃる通り、日本国民も日本政治の中に含まれており、選挙で「永田町ガラパゴス」を変えるということだけでは不十分で、「日本政治ガラパゴス」を変えなければいけない、ということも言わなければ、選挙が処方箋になるという結論にはならないと思います。その点ではご指摘の通りです。

    若干の希望的観測で言えば、今回の不信任騒ぎでメディアは騒ぎましたが、国民はしらけていました。菅さんではダメだ、という感覚は共有されていましたが、だからと言って、こんな時期に権力闘争らしきものを仕掛ける自民党も小沢派もダメだ、ましてや自分がペテン師のようなことをしながら、人をペテン師呼ばわりするような人物が政治を動かしているようではダメだ、という感覚も強かったと思います。なので、楽観的な観測としては、こうした政治にうんざりし「外来種」を送り込まなければだめだ、という風になるのではないか、と思いたいところです。とはいえ、「外来種」となるような人物がどの程度いるのかはなはだ疑問ですが。

    逆に悲観的な観測としては、国民がこうした政治にうんざりし、そのうんざり感の中で、政治に対する希望や期待を一切失うような状況になった時、妙なポピュリストが出てくるようなことが起こるのが怖いです。しかし、その可能性は十分にあると思っています。

    返信削除
  3. お久しぶりです。自分は、筑波大学で先生の授業を拝聴いたした者です。忘れておられると思いますが、模擬国連で核テロのディレクをした際にはご挨拶に伺ったこともありました。ブログ上ではありますが、再び先生のご意見に触れることが出来、嬉しく思います。今後も更新を楽しみにしております。

    自分も日本の政治に漂う閉塞感というか、いっそ興味関心を失いたくなってしまうような感覚を覚えるのですが、「ガラパゴス化」という説明は、それを説明する上で面白いアイデアでだと感じました。

    自分が最も問題視しているのは、永田町にせよ、日本全体にせよ、一体誰が、決定権を持ち、それにともなって責任をとっているのかがわからないことです。そもそも結局何をしたいのかがわからないまま、「首相」と言う座それ自体が目的化しているように思います。時々の政局によって政治が右往左往するために、国民は強いメッセージでヴィジョンを掲げられる人であれば、半ば反射的に期待してしまう状況にあると思います(小泉元首相のように)。

    かつて、自民党政治では、一党優位体制の元で、次の総裁選を見据えた派閥間での調整等によって生まれる、共通意識や信頼関係のようなものがあったと思います。「首相」という座は比較的時期さえ待てば手に入るために、政策本位の議論を先にしやすい空間があり、傍から見ても合理的だと言える部分があったのではないでしょうか。

    しかし、現在の二大政党制においては、首相と言うポストを巡っての権力争はより激しくなり、首相の座が自己目的化の傾向を強めたように思います。とりあえず自分の党が政権をとるために、党内の対立を一旦棚上げにしてしまったところは、特に民主党内ではあったと思います。

    議員個人個人も馬鹿ではないと思うので、自分のビジョンを持っている人もおられるでしょうが、民主党全体として何をしたいのかはよくわからず、実際首相になったはいいが…、という状況になってしまっているのはそういった背景があるからだと思います。制度的にも、議員たちが自分の政党を離れて政策本位の議論をすることが出来ない状況があり、そうならせざるを得なかった気もします。

    二大政党と言う新しい枠組みの中でどのように政策本位の議論をしていけるか、ということが未だ模索中なのに、こういった大災害が起きてしまったのは、非常に不幸である感じます。現在大連立が模索中とのことで、そうなれば少しは改善するでしょうか。願わくばこのもやもやした政治状況がTwillightではなく、Dawnであったと思えるときが早く来てほしいと切実に思います。

    返信削除
  4. masahiroさん、非常に重厚なコメント、ありがとうございます。私は記憶力が悪いほうなので、筑波時代にお会いした記憶がなかなか呼び起こせず、お名前も下の名前だけなので、ちょっとピンと来ておりません。大変申し訳ない。でも、卒業しても関心を持ってくれていること、また、大変しっかりした議論を展開しているのを見ると、わずかではあれ、masahiroさんの教育に関わった者としてはうれしく思います。

    さて、論点がいくつかあるのですが、問題提起を受けて、私なりに考えたことを書いていきます。

    まず、日本政治における決定権の問題ですが、これは戦前から問題になっていた点で、日本の政治文化の中に深く刻み込まれているものと考えるしかない問題のように思います。丸山真男を代表として、日本の政治分析の主たる論点として、日本の権力構造の中で誰が(実質的な)決定権を持っているのか、ということは議論されてきましたが、最近では飯尾潤さんの『日本の統治構造』が目立った分析かな、と思います。

    ただ、小選挙区制と二大政党制が曲がりなりにも定着し始め、政権交代が起きるようになると、日本の政治のあり方も大きな変化を始めました。現在は、旧い自民党一党支配時代の仕組みがかなり残りながら、民主党がそれを破壊しようと努力し、結局、中途半端なままでいるために、自民党時代の悪いところが残り、民主党時代の悪いところが重なっているような印象を受けます。この組み合わせが、結果として「首相という座を目指すことが自己目的化している」という風な印象を与えるものなのだろうと思います。

    ただ、政治家というのはどの国でもトップの地位を目指します。アメリカでは大統領、イギリスでは首相の地位を目指し、権力闘争をするのが当たり前です。しかし、日本はその権力闘争が根回しや年功序列や一時的な人気取りなど、おおよそ権力闘争の武器にはならないようなもので競い合ってきたことの弊害が多く、討論や政策やアイディアや人望といった、他の国で見られるような権力闘争の武器があまり使われない、というところに問題があるように思います。これが「ガラパゴス」である所以かな、と思っています。

    なので、自民党時代にも「政策本位の議論がしやすい空間」があったとはあまり思っていません。政策は官僚が作るものであり、政治家は官僚が作った政策を自分のものとして推進するか、それとも放っておくか、という選択をしてきただけのように考えています。自民党時代(特に田中角栄以降の自民党政治)でも権力闘争は結局のところ「数の力」であったり、派閥順送りの「年功序列制度」であったので、今の民主党がやっている政治とあまり大きな違いはないような気がします。

    二大政党制が問題となるのは、選挙での勝ち負けがはっきりするため、弱弱しいリーダーであったり、政策の失敗が目立つと、すぐにそのリーダーを変えようというインセンティブが政党の中に働くということだと思います。というのも、二大政党制は政党のリーダーが首相になる確率が高く、そのリーダーに「ダメ」という烙印を押されると、次の選挙で自分の党が支持されなくなり、結果的にその党の議員が落選する確率が高まるからです。つまり、二大政党制で政党のリーダーがへまをすると、とにかく新しいリーダーに首を挿げ替えて、「今度は大丈夫だから我が党=私に投票してください」と言えるようになりたい、と思うようになるわけです。今回の不信任案で小沢派の人たちや中間派といわれる人たちも、一時は不信任案に賛成しようとしたのは、こうした背景があります。

    しかし、結局、不信任案に反対し、菅内閣を支えたのは「党が分裂することになると、党から公認を受けられず、無所属で選挙に臨まなければならなくなる。そうなると、小選挙区制では勝ち目がない」という恐怖があったからです。小選挙区制は一つの選挙区で最大得票を取った候補が当選しますから、当然、多くの票を動員できる大政党が有利になります。よほどの有名人や強い支持基盤が選挙区内にある人でなければ、無所属では戦えません。なので、党から公認を受けられない、除名されるといったことは極めて厳しい状況になります。なので、嫌々ながら菅内閣を支持するといわざるを得なくなるのです。

    こうした嫌々さ加減が強く出ているので、内閣不信任案を葬った(つまり内閣を信任した)にも関わらず、菅総理の早期退陣論が出てくるわけです。党から除名はされたくない。でも、菅さんでは次の選挙に勝てない、というジレンマが、今の政治に現れています。

    このような制度的な状況の中で、個人的な政策ビジョンや政策アイディアが表に出てくるのか、といわれると、極めて難しいと思います。政治家は1人では何も出来ません。法律を通し、予算をつけ、物事を実現していくためには、政党という仕組みと権力が必要で、それを実現するためには選挙で勝たなければならず、自分のビジョンを実現するためには、それなりのポスト(政務三役や総理大臣)につかなければなりません。

    問題は、そうした政策のアイディアやビジョンを議論する場がなく、政党という仕組みが極めて脆弱で、そうしたアイディアやビジョンを鍛錬し、国民の前にしっかり提示できるような能力がない、ということが「政策本位ではない政治」を作り出しています。

    そのような政策本位ではない政治のベースを作ったのは、自民党時代の派閥順送りの仕組みであり、官僚依存の仕組みでした。民主党はそこで、自民党時代の仕組みを破壊しようとして「政治主導」を導入したわけですが、それがあまりにも稚拙で、民主党内でも、また官僚や財界や国民にも全く理解されず、ただ政務三役が好き勝手なことを思いつきでしゃべることと同意義のコンセプトになってしまったがゆえに、今のような混乱があるのだと思います。

    民主党がきちんと政党として議員のアイディアを取りまとめる仕組みを持ち、官僚に依存せず、様々なルートから政策のアイディアを集め、それを与党という権力的地位を使って実現していく、という仕組みになっていれば、事態はもう少し良いほうにいったのだろうと思います。

    なので、菅さんが総理を続けようが、辞めようが、こうした仕組みのところがしっかり出来ていない限り、誰がリーダーになっても代わり映えのしない、「もやもやした政治状況」が続くことになるでしょう。

    返信削除
  5. 丁寧なレスポンスありがとうございました。恐らく、直接お話をさせていただいたのは一度だけでしたが、先生の授業は大学の中で一番刺激的で面白かったので、未だに時々HPにお邪魔しておりました。

    『日本の統治構造』についてはだいぶ昔に読んだ記憶がありますが、先生の議論を踏まえて、改めて目を通すとその中の議論がよりわかりやすく思います。そして、自分の思考の混乱のために何かを間違って書いてしまったと思いました。「日本の政治はTwillight Zone」の中で、かつての自民党政治ではまだ政治学として分析することができるが、現代の政治状況はそれすら出来ないというようなことを書かれていたと思います。この違いは何であろうかという点から、政党制を軸にして自分なりに議論しようとしたつもりでしたが、「何故今の日本政治は政策本位ではないのか」という風に最初の問題意識自体が変化してしまってますね。汗

    ただ、特に民主党政権成立以後、ますます、通常の限度を超えて、政策ないがしろのまま権力闘争に走っている状況について、先のコメントである程度の説明は出来るかなとも思います。もちろん、自民党政権でも政治家が一から政策を考え、それを相互に戦わせるということさえなかったと言えるかと思います。しかし、首相の座を巡って過度に足の引っ張り合いをせずに(少なくとも総裁選などによって制度的に決定されつつ)、「官僚内閣制」「省庁代表制」「政府・与党二元体制」と言える体制の下で、政策を通してきたのは確かです。

    現在は首相そのものの地位を巡っての闘争が激しいために、それすら出来ない、ということだと思います。しかし、そういった政策決定過程が不透明だからこそ、先生のおっしゃるように政治改革や自民党政治の終わりを望んだはずだったんですね。それなのに民主党がもう一つの自民党のようになってしまったがために、現在のような足の引っ張り合いのような状況があるとするなら、民主党がそうなってしまったのも「ガラパゴス」ゆえなんでしょうか。

    ここまで書いてみて、先生の言われる「仕組み」を変えていくことの意味がわかった気がして、勝手にすっきりしております。ところで、官僚以外に政策のアイディアを集める様々なルートは、日本にはどれほどあると言えるのでしょうか。

    返信削除
  6. masahiroさん、改めてありがとうございます。私が北大に移ってから、もう3年が過ぎましたが、それでもHPなどチェックしてくれていたとは、感激です。教壇に立って教えていると、学生に何がどの程度伝わっているのか、いつもわからず、悶々とすることも多いのですが、こうして時が経ってもコメントをいただけるというのは、とてもうれしく思いますし、自信になります。

    私の「日本の政治はTwilight Zone」の投稿の中で、「自民党時代」としてしまったのがよくなかったですね。正確には「中選挙区時代+小泉政権以前の小選挙区時代」というようなニュアンスで書いたつもりでした。なので、政党の問題というよりも、制度の問題だと考えています。

    民主党の今の政治が限度を超えているという評価には同意します。これは、自民党時代には小選挙区制でもかろうじて党の中の制度が存在し、それがいかに時代遅れであったとしても、何とか秩序を保つことができた、ということが重要なポイントだろうと思います。

    現在の民主党はそもそも「非自民」「政権交代」という空虚なコンセプトで結党した党であり、党綱領もない政党ですから、一旦内輪でモメ始めると、それに歯止めをかける仕組みがないのです。これまでは民主党の「元老」とでもいえる創設者の鳩山、菅、そして民主党の躍進を可能にした小沢という「トロイカ体制」というのが存在していて、ユルユルの政党を何とか形にしてきましたが、与党になって、いざ権力を行使する、という段階になると、そのユルさが仇となって、結局「俺の言うことを聞け」という人たちが勝手に権力闘争をし始めるようになったのです。

    そういうユルい政党であっても政権をとれるのが日本政治なので、それは「ガラパゴス」ですね。(本物の)ガラパゴス諸島にはいろいろな珍しい動物がいますが、彼らは攻撃能力や防御能力がなくても生きていけます。というのも、天敵がいないからです。なので、ユルい動物がたくさんいるわけですが、日本の政治も同じく「ガラパゴス」であるがゆえに、ユルい政党でも生き延び、政権を取るまでに至ったのです。

    さて、最後の質問ですが、官僚以外に政策のアイディアを集めるルートというのは可能だと思います。それぞれの分野で、それなりの専門家というのが存在していて、役所とは異なるアイディアを出す人たちはたくさんいます。

    ただ、問題は政治家に専門家の目利きが出来るか、というところが問題です。目利きが出来る政治家は、官僚が提案する政策の問題点を見抜き、それとは異なる、現実的なアイディアを提案している人を探し出し、そしてその専門家のアイディアを自分のものとして政治に反映させることが出来る人です。

    そのためには、きちんとその政策分野の専門家が何を言っているのかを幅広く勉強し、今、直面している問題を解決できそうな提案をしている人が誰なのか、その提案は現実的に実現可能なのか、ということを判断できる能力が必要です。

    そうした能力を持っている人は、民主党の中にもいないわけではありません(個人的に知っている範囲でいえば、細野豪志や長嶋昭久という人たちは案外その能力を持っています)。しかし、多くの政治家は「この先生は有名だから」とか「この先生は○○さんの知り合いだから」とか、そういった理由で専門家を選ぶか、もしくは「この先生が言っていることはこれまでにはない斬新なアイディアだから」という理由で選ぶ場合もあります。通常、政治家が思う「斬新なアイディア」というのは、我々の世界でいえば「トンデモ系」というやつで、実現可能性がないばかりか、そんなことをしたらいろんなところにしわ寄せがいくような話が多いです。

    こういう「トンデモ系」が好きだったのが鳩山さん。「知り合いだから」という理由で選ぶのは菅さん。いずれも目利きが出来ない人たちです。

    なので、霞ヶ関を通さずに政策のアイディアを集めることはできます。私も自分が宇宙基本法の策定にかかわるプロセスで「やればできるじゃん」と思ったことが少なからずありました。大事なことは政治家がきちんと目利きをすること、専門家は自分の専門知識を現実に実現可能なアイディアに変えていくこと、そして政治家はそのアイディアをきちんと理解し、それを実現するために動くことだろうと思います。

    返信削除