その記事は「記者の目:JAXA10年 夢の宇宙探査、継続を」(http://mainichi.jp/opinion/news/20131004k0000m070131000c.html)という記事だ。
たぶん、科学環境部の方が書かれたオピニオン記事だと思うが、多くのメディアの科学部記者が書くように、過剰にJAXAに期待し、宇宙開発に夢や希望や未来を見出している記事である。この手の記事は既に何度も批判してきたので、それを繰り返すつもりはないし、それ自体を否定するつもりはない。
しかし、問題と思ったのは、そうした価値観に基づいて書いている記事を支えるファクトファインディングが明らかにおかしいことである。おかしいと思ったことをいくつか挙げておこう。
まずウェブ版の一ページ目に書かれている「完全に旧機関の壁がなくなったとは言えないが、技術面では統合の効果は感じられる」という点だが、きちんとJAXAを取材していれば、こうした結論にはならないはずだ。というのも、三機関統合の結果、旧NASDAと旧ISAS(宇宙科学研究所)の統合プロジェクトとして進められた月・惑星探査は、結局、元のNASDAとISASの組織に戻る形となり、統合の効果どころか、統合そのものが後戻りしている。
次は評価の分かれるところであるが、「宇宙探査に向けられる目は厳しい。特に年間400億円を投じる国際宇宙ステーション計画は「成果が見えない」とやり玉に挙げられ、経費縮小や参加形態の再検討すら求められている」という表現には疑問が残る。通常、有人宇宙事業は「探査」ではないからだ。探査というのは「はやぶさ」のように未知なる天体や空間に赴き、文字通り「探査」をして新たな知見を得ることが目的であるが、国際宇宙ステーションは、その中で実験をしているとはいえ、新たな場所に行ってまだ見ぬ何かを見に行く事業ではない。そのため、多くの国で宇宙ステーションは「探査」には含められていない。有人で「探査」という場合は月や火星、小惑星などに行くことを指すのが一般的だ。
この記事の中で一番問題に感じたのは「宇宙政策の司令塔である内閣府宇宙戦略室の西本淳哉室長は「宇宙は利用してナンボ」と言い、これまでの宇宙開発を「研究のための研究だった」と断じた。 「予算の半分は有人探査に当て、宇宙科学がもう一つの柱だ」と語った米航空宇宙局(NASA)のチャールズ・ボールデン長官とは好対照だった」という表現だ。そもそも、NASAは米国の宇宙開発すべてを担当しているわけではなく、有人宇宙飛行と宇宙科学(に加えて地球科学と航空技術開発)を行うことに特化した組織である。米国における宇宙利用は国防総省(DoD)、海洋大気局(NOAA)、アメリカ地質調査所(USGS)といった組織が進めているものである。
それに対し、JAXAは全ての宇宙事業に関わり、有人事業や宇宙科学だけでなく、宇宙利用に関するアプリケーション衛星も開発する使命を帯びている。これはJAXAの前身である宇宙開発事業団(NASDA)が「実利用」を促進するための組織として発足したことからも明らかだろう。米国ほどの巨大な宇宙予算がなく、限られた予算の中で効率的な宇宙開発を進めるためにはNASAのような特権を持っていないのがJAXAであり、それを「好対照」と言い切る記者の姿勢には大きな疑問を持った。
最後に、もう一点、記者の勉強不足を指摘すれば、「米国は将来の火星有人探査を視野に、小惑星を目指しているし、ロシアや欧州は月を志向しているとされる」という一文はほとんどが間違い。米国は(というよりもNASAは)小惑星から火星への有人探査というロードマップを描いているが、その計画に対して、ホワイトハウスも議会も支持をしていない。正確に言うと、ホワイトハウスは月や火星の有人探査は無理だから、有人をやるとすれば小惑星という消極的な目標設定しかしておらず、火星を視野に入れるということにはなっていないし、議会(特に下院)に関しては小惑星への探査そのものを否定している。なので「米国は」と一括りにするのは大間違い。
さらにロシアは月面探査の計画もあると伝えられているが、しかし、それに対する具体的なプロジェクトはほとんど進んでいない。本気で月に行こうとしているかどうかは誰にもわからないというレベルである話。欧州は有人探査の目的地として(注1)月を目指したことは一度もない。欧州が進めようとしている有人探査を視野に入れた無人探査計画であるオーロラ計画は、火星に行くことを目指している。
(注1)ツイッターでご指摘があったので、誤解のないように付記しました(10月4日11:25JST)
このように、この記事には多数の認識不足、勉強不足が見られる。にもかかわらず、全国紙に堂々とJAXAに夢を託し、応援する記事を書いている。そこには更なる大きな問題が隠れていると考えている。
それは「科学部記者の『原発安全神話』に対する反省の無さ」だ。 宇宙開発と原発は全く違うと思われる方も多いだろう。もちろんJAXAの事業は特に人の命にかかわるものではなく(宇宙ステーションの機材が壊れて宇宙飛行士が危険にさらされる可能性はあるが原発ほどの大規模な被害とは言えない)、ロケットの打ち上げでもしっかり安全確保がなされ、安全で夢のある事業に見えるのだから、原発と結びつけるのは無理のある論理だ、という批判もあるだろう。
しかし、私が問題にしたいのは、これまで「原発安全神話」の片棒を担いできたメディアの科学部記者が、相も変わらず「宇宙(原発)は素晴らしい」という価値観に基づいた記事を書き、中途半端なファクトファインディングしかしておらず、思い込みで記事を書いていることである。生地に価値観を含めてはいけない、というつもりはない。しかし、少し調べればすぐにわかることを、価値観(主観)の主張を優先するあまり、きちんと調査せず、印象論だけで書いているということが大いに気になるのである。
原発の問題は、事故が起きて初めてその重大さに気が付き、原発報道に関しては毎日新聞も極めて厳しい姿勢に転じた。しかし、その他の科学では、相も変わらず同じことが繰り返されている。そのことに問題を感じているのである。つまり、今や反原発、脱原発路線の報道姿勢を取っている毎日新聞も、一歩皮をむいたら、大して変わっていないのではないか。その変わっていないなかで原発報道だけが変わる、ということは、基本的に福島原発事故への単なるリアクションでしかなく、本質的な科学技術報道の変化に結び付いていないのではないか。もう少し厳しく言えば、原発事故の記憶が風化されていけば、また「安全神話」に戻ってしまうのではないか、という懸念を持っている。
もちろん、こんな心配は杞憂に過ぎない、ということであれば、それは結構な話だ。しかし、今日の記事を見る限り、どうも科学部記者のメンタリティが変わっていないような印象しか受けなかったので、敢えてコメントさせていただいた。
鈴木先生、このたびは私の「記者の目」への批評をいただき、ありがとうございます。ブログの場をお借りして恐縮ですが、ご指摘の点について、少々、私の考えを書かせていただきたいと思います。
返信削除まず「統合の効果」のところですが、私は「技術面では」と断った上で統合の効果があったと書いております。プロジェクトを支える技術的なサポートのリソースが大幅に増えたのは事実で、それが最近の安定した成績につながっていると考えています。打ち上げが安定してきたからこそ、次のステップとして利用の拡大という話ができるのです。
二つ目の「ISSは探査ではないのではないか」という点ですが、人間の活動領域を広げるという意味で新しいチャレンジなのではないでしょうか。人間が自然を理解する上で、人が行けるところには行き、人が行けないところには無人のロボットを飛ばし、ロボットも行けないところは光や電磁波で観測する、という切り分けで私はとらえています。
三つ目のNASAとの比較の部分は、私も実は同感でして、日本の他の省庁がもっと宇宙にお金を出して利用すればいいのに、と思っています。準天頂衛星は別ですが、文科省の予算だけで全部やれということになると無理が出てくると思います。
四つ目の有人探査の国際協力のところの認識の差は、鈴木先生と私の主たる情報源の違いではないかと思います。ここ1、2年で議論が出てくるのではないかと思いますので、保留させてください。ただし米国がOrionの開発を継続し、JAXAの協力を求めている点は重要な要素かと思います。
最後に「安全神話」の下りですが、安全神話は原子力の「利用」の中で生まれてきたと思います。人類の知の拡大のための宇宙探査が、どうして安全神話と結びつくのか理解できません。「JAXAの応援」と言われますが、日本で宇宙探査をやってくれるのがJAXAしかないので、忘れずにやってくれよと言っているだけです。
私は宇宙利用の拡大は否定していませんし、この記事にもそう書いています。一方、大きな流れとして、国際協力で太陽系探査(有人を含め)をやっていくことになると思いますが、先生は日本はどうすべきだと思われますか?
長々と済みませんが、議論の一助になれば幸いです。
西川様、
削除ご本人からコメントをいただくとのこと、大変光栄です。これまで何度か取材もしていただき、その意味ではこのブログ記事を書くにあたって、西川さんの記事の批判をするのはいかがなものかと思うところもあったのですが、仕事上の付き合いがあるからこそ、きちんと批判すべきものは批判すべきだと思ってブログを書かせていただきました。
コメントいただいた第一点ですが、技術的なサポートが出来るようになったという点は確かだと思いますが、しかし、それが安定した実績につながっているという評価は少し疑問が残ります。一つはJAXAの開発はJAXA内部で完結するものではなく、開発を委託する企業との関係があり、その中でJAXAはプロジェクトマネージメントの部分が大きいと理解しています。ブログ記事の中でも書きましたが、月・惑星探査グループ(JSPEC)でも、統合というよりは旧NASDA、旧ISASの分業によるプロジェクトマネージメントに移行しているように理解しており、その意味でも、統合の「技術面」での効果がどの程度出ているのか、疑問は残っています。
二番目のISSが探査かどうかというのは定義や理解の違いだとは思いますが、「探査=新しいチャレンジ」という意味として読むのはちょっと無理があるような気がしています。ISSで宇宙飛行士が行っているのは実験の管理やISSの運行の管理であって、何か新しいチャレンジをしているというわけではないと思っていますし、それ自体「新しいチャレンジ」ですら無いのではないか、と考えています。確かにISSでの実験を通じて新たな知見を得られることは多いと思いますが、それは地上における実験とどう違うのか、と言われると、なかなか説明がつかないところであり、微重力環境という環境が異なる実験室という位置づけであるのが適切で、やはり「探査」とは言い難いと考えています。
四つ目に挙げられた有人探査の国際協力についてですが、情報源の違いというよりも、西川さんの記事が各国宇宙機関の出している「希望」に近いものを取り上げられていて、その実現性については疑問が残るところもありますし、また、ESAに関しては月面有人探査ということは想定されていないと理解しています。Orionに関してはESAもNASAに協力していますが、これはESAがNASAに対して負っている負債(ISSにかかる費用)を支払うための協力の仕組みで、ATVの打ち上げを止めることに対する補償措置です。また、私の著書でも書きましたが、Orion自身、シャトルを止めることに対して、技術者に仕事を与えると言う性格が強いプログラムであり、行き先が決まっていて、その行き先に最適な宇宙船を開発している、という状況ではない、ということも申し添えておきます。
安全神話とJAXAの話ですが、これは本文に書いた通りなので、これをご理解いただけないというのは、ちょっと残念です。宇宙探査(ISSは探査ではありませんが…)も原子力開発も、かつては「夢の宇宙旅行」とか「夢のエネルギー」と言われ、ある種無批判な状態で議論され、報じられてきたと考えています。それが結果として安全神話の片棒を担ぐ結果になってしまったと私は考えています。科学技術の分野は、そのスケールや可能性が大きいだけに、夢を託したくなる気持ちはわかりますが、それがゆえに批判的な視点を失ってしまうというのが問題だ、と考えています。その批判的な視点を西川さんの記事から感じなかったので、安全神話が作り上げられていくプロセスと同じトーンを感じました。
私は見通しうる将来において、無人による太陽系探査は続くと思いますが(日本もⅡ年ほどするとESAとの協力でベピ・コロンボを打ち上げるのは楽しみにしています)、有人に関しては、国際協力であれ、一国単独であれ、実現するのは難しいと思います。多分中国は有人での月面探査をやるでしょうが、日本にその余裕はないと考えています。なので、大きな流れとしては、日本は有人を止めていくという方向にあると考えています。
それが私の望むことなのかどうか、ということはこの際どうでもよい話だと考えています。というのも、自分の価値観に基づいて文章を書いてしまうと、それでバイアスがかかってしまい、適切な政策が何なのかという判断が出来なくなってしまうからです。私はあくまでも政治学者ですので、そうした視点で事象を観察し、分析します。もちろん、何らかの形で自分の主観が入ることは確かですが、しかし、自分の価値観に身をゆだねて、それに基づいて文章を書こうとは考えていません。出来る限り、バランスを取って批判的な視点をもち、政策の是非を評価していこうと考えています。
そういう立場から見ると、西川さんのようにご自身の価値観(これは「記者の目」というコーナーなので、ご自身の価値観に基づいて書くコーナーだとは理解していますが)で文章を書くことができるのは、ある意味羨ましいと思っています。しかし、その文章が多くの人に読まれ、多くの人に影響を与えるものであるからこそ、私のようにひねくれた批判的なものの見方をする人間がいないと、バランスが悪くなると考えています。安全神話がいつの間にか国民の間に浸透し、それが結果として不適切な原子力行政を生み出したことを糧にすれば、宇宙政策に関して、そうしたJAXAの応援(のように私には見える)ばかりが蔓延すると、不適切な宇宙政策を生み出すのではないかと思い、敢えて批判的なコメントをさせていただいた次第です。ご理解いただければ幸いです。