本日(2012年7月15日)の朝日新聞で「日本のロケット技術、旧ユーゴで軍事転用 元軍幹部証言」との記事が出された(記事を読むには登録が必要)。これは拙著『宇宙開発と国際政治』でも取り扱った事柄なので、興味をもって読んだ。
この記事では1960年代(正確には1950年代)から糸川英夫博士率いる宇宙科学研究所が開発した固体燃料を推進剤とするロケットが当時のユーゴスラビアに輸出され、それがミサイルとして転用されたことを、当時のユーゴ軍関係者が証言したという。
こうした証言が具体的に出てくるのは、私が知る限り初めてであり、その意味ではこの記事の資料的価値は大きい。しかし、記事およびその解説でも、拙著で取り上げた問題点が議論されず、やや歪曲した理解になっているような印象も受けたので、ここでコメントしておく。
まず、当時の宇宙科学研究所による宇宙開発は、明示的ではないが、科学者が行うものであるから、「平和利用」であるという大前提が共有されていた(大前提というよりは思い込みに近い)。また、ユーゴへのロケット技術の輸出は、解説記事でも書いてある通り、「平和技術によって外貨を稼ぐ有力な手段としても、ロケット輸出を肯定的にみる風潮が国内にはあった」。
つまり、当時はロケット(とりわけ固体燃料ロケット)がミサイルに転用されるということについて、ほとんどといってよいほど懸念されることはなく、政治的なイシューとして取り上げられた形跡はない。
しかし、当時アメリカは日本が独自でロケットを開発することで、自力で弾道ミサイルの開発が可能になること、また、その技術が第三国に移転されることを恐れていた。それゆえ、アメリカは日本に対して、ミサイルへの転用がより難しい液体燃料ロケットの技術移転を申し入れたのである。
ところが、その時に突如として反応したのが社会党であった。アメリカのロケット技術は軍事目的で開発されたミサイル技術の応用であり、アメリカの技術が導入されることになれば、日本もロケット技術をミサイル技術に転用する恐れがある、として、1969年に「宇宙の平和利用決議」を提唱し、ロケット開発を進めるために自民党も含め、この提案を受け入れ、全会一致で決議が採択された。それ以来、宇宙の「平和利用原則」は日本に定着したのである。
なお、「宇宙の平和利用原則」は日本だけでなく、例えば欧州各国が協力して設立した欧州宇宙機関(ESA)の憲章にも「もっぱら平和的目的のみ(exclusively peaceful purpose)」との文言が入れられている。
しかし、ESAの平和利用は、日本の平和利用と解釈が異なる。1969年の決議では、日本の平和利用は、防衛省や自衛隊の予算を使うことも、宇宙技術を開発することも、宇宙機器を保有することも、宇宙政策に口を出すことも認められなかった。すなわち「非軍事」という解釈であった。他方、ESAでは、加盟各国の安全保障政策が異なっていることもあり、軍事目的の技術開発は行わなかったが、加盟国の軍がESAで開発した衛星通信や地球観測の技術を応用することを止めることはなかった。しかも、冷戦後には、安全保障の概念が変化したとして、ESAが積極的に安全保障問題に関与し、GMES(Global Monitoring for Environment and Security)、すなわち環境と安全保障のグローバル監視というプログラムを実施し、各国の軍隊と協力して衛星開発や衛星データを平和維持活動や海賊対処活動などへの利用できるような体制を整えている(この点に関しては2012年7月8日の毎日新聞の『論点』で議論したのでそちらもご参照ください)。
さて、話は脱線したが、朝日新聞の記事を手がかりに、かつて拙著で論じた日本における平和利用の問題を改めて考えてみたい。1969年の「宇宙の平和利用原則」決議がアメリカの技術移転によって引き起こされたことは、二つの点で日本の政治と技術と安全保障の問題でおかしな点を感じる。
一つは、日本はそれまで軍事的に転用可能な技術を保有しており、それが具体的に他国に輸出され、軍事転用されているにも関わらず、「科学者がやっていることだから平和利用だ」という思い込みに基づいて、問題提起がなされなかったことである。
もう一つは、アメリカの技術だから軍事的である、という決めつけが幅を利かせたということである。アメリカの技術は悪であり、日本の独自技術は善であるという、全く根拠のない善悪の判断がベースにあった、ということがいえる。
この二点によって導き出されたのが「宇宙の平和利用」原則であるとすれば、そのおかしな解釈や基礎となっている思い込みを一度払拭し、新たに問題を立てなおして、安全保障と科学技術の関係を考えなければならないだろう。これが毎日新聞に寄稿した文章のメッセージである。
しかし、せっかく、「日本人が独自で開発した技術=善」という思い込みを払拭する記事を朝日新聞が取り上げたのに、その解説記事は、そうした問題点に切り込むことをせず、おかしな方向に議論を展開している。
ここでは、まず「海外からは軍事転用の懸念を抱かれてきた」として、ガイアツによって宇宙科学研究所のロケットが輸出されたことが批判され、その結果、武器輸出三原則につながった、という議論にしている。確かに、武器輸出三原則をもたらしたガイアツは存在したが、それでもなお、国内では「宇宙の平和利用」原則についての議論がなされていなかった、ということが重要な問題なのである。つまり、日本は自発的に宇宙開発研究所のロケット開発の軍事転用可能性について懸念を示したことはなく、「日本人が独自で開発した技術=善」という図式を、ガイアツを受けた後でも持ち続け、外国に輸出さえしなければ、国内で軍事転用可能な技術を開発することは問題ない、という判断をしていたのである。
むしろ、問題にしたのは別のガイアツである、アメリカからの技術移転であった。その結果、生まれた「宇宙の平和利用原則」決議は、故に、日本の国内から生まれた宇宙の平和利用への歯止めではない。アメリカの技術が移転されるから、それは軍事転用される危険がある、という論理で作られたものである。
しかし、朝日新聞の解説記事では、突如「だが近年、ロケット以外の軍事転用可能な技術の開発や利用の歯止めを緩和する動きが国内で相次ぐ」と議論を展開し、ユーゴへの技術移転に伴う軍事転用の問題とは関係のない、衛星利用の問題についての議論を始める。
この点については、既に毎日新聞に寄稿した文章でも書いたし、上述したように「宇宙の平和利用」の考え方は様々である、ということは述べているので、繰り返さない。しかし、ここで問題にしたいのは、せっかく歴史的な史料価値のある記事を書いておきながら、つまらない「ロケット以外」の話に展開し、日本の「宇宙の平和利用原則」が抱える闇に切り込んでいない、という点である。
「宇宙の平和利用原則」を大事にしたいという気持ちはわかる。しかし、それは、日本人が独自で軍事転用可能な技術を開発したことに目をつぶり、アメリカから技術移転をされることで突如として生み出されたものであること、また、原則として当時の「平和利用」はロケット技術に関する議論であり、衛星の利用については十分な議論がなされないまま、なし崩し的に衛星の利用も禁じてきたことの問題性などを問わずに、ただ「宇宙の平和利用」というきれいな言葉だけを守る意味はない。宇宙の平和利用とはどういうことなのか、平和のために宇宙を利用するということはどういうことなのか、改めて考える時に来ていると思う。
東日本大震災を受けて、世の中が大きく変わっていく中で、日々のニュースに触れて、いろいろと考えなければならないテーマが出てきました。商業的な出版や学術的な論文の執筆にまでは至らないものの、これからの世の中をどう見ていけばよいのかということを社会科学者として見つめ、分析し、何らかの形で伝達したいという思いで書いています。アイディアだけのものもあるでしょうし、十分に練られていない文章も数多くあると思いますが、いろいろなご批判を受けながら、自分の考えを整理し、練り上げられれば、と考えています。コメントなど大歓迎ですが、基本的に自分のアイディアメモのような位置づけのブログですので、多少のいい加減さはご寛容ください。
2012年7月15日日曜日
2012年7月2日月曜日
リスクは客観的に評価しうるか
昨日のブログ(「官邸前原発再稼働反対デモに感じた違和感」)を書いたところ、様々なコメントをツイッターやブログのコメント欄でいただいた。ツイッターでいただいた一つのコメントに対する返答が長くなったので、ブログを使って返答させてもらいたいと思います。
その質問は次のようなものでした。
疑問の一つはリスクの客観性の度合いにある、と思います。むろんリスクは完全な客観や主観はなく、その間だと思うのですが。
リスクは発生確率×社会的インパクトですが、客観的に確率を測ることは難しく「明日にでも津波が来る」と思う人と「1000年に1度なのだから明日は来ない」と思う人の間で間主観的な確率の合意はできません。
なので、可能な限り社会的合意を得ようとするなら、科学的な根拠を基礎に客観的な判断をする必要がありますが、複数の科学的根拠が利用可能な場合、主観によって客観的情報を選択せざるを得なくなります。リスクに関する社会的合意を客観的に作ることは難しく、複数の主観によるリスク評価を付きあわせて「最も合理的と思える」評価をしていくしかないと思います。
その際、一番問題なのは変なデマや不正確な客観的情報を出してリスク評価を混乱させることです。なので、そうした不正確な情報を排除し、客観的合意ができる範囲を拡大しながら、リスク評価の幅を狭めていくことで「社会的に合理的」と思える評価を作っていくことが大事だと思います。
またもう一つ問題なのは「客観的情報は一つ」と考える思考方法です。ある客観的な情報が正しいと認定してしまうと、他の情報は間違っており、科学的に断定できない事象について他のリスク評価を排除する結果となってしまいます。そうなると「社会的に合理的」なリスク評価を定めることができず、混乱が収まりにくくなります。
したがって、リスク評価をする場合、可能な限り客観的に合意できる範囲を拡大するために、デマや不正確な情報を排除すること、そして主観的な合意を形成していくために、他者の主観的なリスク評価を排除せず、互いにコミュニケーションを開放して議論を交わしていくチャンネルをなくさないことが一番重要だと考えています。
「リスクの客観性」という言葉は、個人的にはあまりなじまないと考えています。リスクを評価する際の「発生確率」は一般的な客観性を得られるとしても(たとえば飛行機が事故を起こす確率は10のマイナス6乗)、実際、自分が乗っている飛行機が落ちないという保障はないからです。リスクの引き受け手からすれば、どんなに確率が低くても、その事象が自分の身に起これば、それは100%になってしまいます。なので、リスクの引き受け手から見ると「リスクの客観性」など意味のないことになってしまいます。
しかし、それでも人間は全くリスクフリーの状態の中で生きていくことはできません。街を歩けば交通事故にあうリスクもありますし、リスクを減らすためにずっと家にいたって地震でタンスの下敷きになったり、火事になったりします(私は阪神淡路大震災で何人か知人を失ってます)。
つまり、生きていることそのものがリスクだらけであり、どのようなリスクをどうやって取っていくか、ということはその人の生き方を決めることなのだろうと考えています。すべてのリスクを回避することはできない以上、何をAcceptable Riskとして考えるか、ということが重要になってきます(Acceptable Riskについては過去のブログ記事をご参照ください)。自分にとって、そのリスクを引き受けることで得られること(便益)と、そのリスクを回避するための費用を計算し、リスク<費用<便益という式が成り立つのであれば、リスクを取る意味は十分ありますし、費用<リスク<便益でもリスクを取ろうとする人はいるでしょう。ただ、費用<便益<リスクという式になってしまうと、そのリスクを取る意味はない、という判断になります。
この三つの式は、それぞれ個人的に判断する費用や便益によっても変化します。また、リスク評価によっても変化します。なので、リスクに対する考え方=その人の生き方ということであれば、それは主観的なものだと考えます。
その際、客観的な情報がどのような意味を持つかというと、それは単なる目安、指標だと思います。個人がリスク評価をすることは非常に難しいです。何がどのくらい危険なのかということを直感的に判断することができることもあります。たとえば車通りの多い道で急いでいる(便益が高い)ので赤信号を無視するというのは、いくら便益が高くても直感的にリスクは大きい(つまり発生確率は高く、それによるインパクトも大きい)と考えることができます。その時、別に客観的情報(赤信号を無視した場合の交通事故発生件数などのデータ)は必要ありません。
しかし、原発事故のリスクや飛行機事故のリスクなどは直感的にはわからないものです。確かにあれだけ巨大なシステムがなんの事故もなく動くこと自体、直感的には不思議な感じがします。私も飛行機にはよく乗りますが、あんな鉄の塊(最近は複合材の塊というべきか)が空を飛ぶこと自体、直感的には違和感があります。しかし、それでも飛行機に乗らなければ、得られる便益が得られないので、仕方なく乗ります。その際、参考にするのが、先ほど紹介した10のマイナス6乗、つまり100万分の1という数字です。ざっくり言ってしまえば、世界中で飛んでいる飛行機の100万回のフライトのうち1度の確率で機体を失うような事故が起こる、という情報です。これは航空安全の規制によってこの確率が担保されているだけでなく、実績として、これだけの確率で事故が起こるということを実感することができるので、信頼できる「社会的に合理的」な情報だと考えています。
しかし、それでも人によっては、客観的なリスク評価が確立していても、やはり飛行機に乗るのは怖い、という人はいると思います。それは直感的に怖いと思う気持ちが、便益よりも大きく感じる(便益<リスク)のであり、そのリスクを回避する費用が小さい(費用<便益<リスク)と考えているからだろうと思います。
飛行機の場合、個人的な判断で乗る、乗らないを選択できるという点で、原発事故のリスクとは異なります。原発事故は個人で回避することができず、社会的にリスクを引き受けなければいけないからです。そうなると、複数の主観によって構成される社会において、そのリスクを「社会的に合理的」に評価することは極めて難しいと思います。また、すでに述べたように、客観的情報ですら確定しておらず、地震や津波の発生確率、ヒューマンエラーの発生確率などを正確に出すことは現代の科学では難しいことと思います。さらに、そのリスクを社会的にAcceptable Riskとすることは難しいと考えています。
故に、上述したように可能な限り客観的なデータを提供し(デマや不正確な情報を排除し)、社会的にオープンなリスク評価のコミュニケーションをしていくしかないと考えています。その際、「社会的に合理的」なリスク評価を出していくに当たって、「安全神話」の罠に陥らないようにすることは大事かと思います。この点については、先日東大のシンポジウムで話をさせてもらったので、ここでは割愛します(その時の内容がウェブ上に記事となって出ていますので、ご参照ください)。
なので、「リスクの客観性」という表現はなじめないのです。リスクの評価は主観的なものであり、客観的な情報はその判断をする際のリファレンスであること、そしてそのリファレンスを「社会的に合理的」なものにしていく努力(デマなどを排除する)を続けること、そして、そのうえで「社会的に合理的」なリスク評価(何をAcceptable Riskとするか)をするためのコミュニケーションをしていくことが大事なのだろうと考えています。拙い返答ですが、私の思うところを書かせていただきました。
官邸前原発再稼働反対デモに感じた違和感
6月29日に行われた官邸前の原発再稼働反対デモは主催者発表で15万人とも20万人とも言われ、警察発表では1万7千人と言われる大規模なものであった。これだけ多くの人が集まり、自らの立場を主張するということは、注目に値するし、その政治的な影響力についての関心が向く。
しかし、私はこの原発再稼働反対デモに対して、何とも言えない違和感を持った。それは、このデモが「関西電力大飯原子力発電所」の再稼働を具体的な対象としているデモだったからだ。この違和感を説明するのに、少しこれまでの経緯を整理しておこう。
大飯原発の再稼働についてのこれまでの経緯を振り返ると、定期点検で1年3ヶ月前に停止していた大飯原発3、4号機の再稼働に関して、関西電力がストレステストの一次評価を提出し、それを原子力安全保安院が承認し、原子力安全委員会は「ストレステストの一次評価だけでは不十分」という立場を取りながらも、この再稼働について抵抗も阻止もせず、関係閣僚の決定によって政府は再稼働の立場をとった。その上で「地元の理解」を得るため、大飯町と福井県に諮り、大飯町議会は再稼働を認めたが、福井県知事は「消費地の理解を得ること」を条件にした。
この時、福井県知事が求めた「消費地の理解」というのは、大飯原発再稼働に反対の立場をとっていた大阪府市エネルギー戦略会議、そして「被害地元」という概念を生み出して、再稼働に必要な「地元の理解」に関与することを求めた京都府と滋賀県の理解を得ることを意味していた。これらの自治体は関西電力管内の自治体であり、大飯原発の電気を消費する自治体であることから、原発が再稼働しない場合、その影響を被る自治体でもある。
その「消費地」たる大阪府市や京都府・滋賀県が反対するのに、わざわざ原発のリスクに直面する福井県が積極的に消費地の反対を押し切って再稼働する意味はない、という理屈はわからないでもない。原発を再稼働することは福井県にとっては雇用や財政という観点からすればメリットがあるが、原発事故のリスクが福井県よりも小さい遠隔地のために、自らが大きなリスクを取る必要はない、と判断するのはやぶさかではないだろう。
しかし、結果として、大飯原発の再稼働をしなければ、消費地における電力不足は深刻なものになりかねないという計算結果が出て、それを踏まえて大阪府市や京都府・滋賀県を含む、関西広域連合は、最終的に再稼働を容認する立場をとった。その結果、福井県も再稼働に応じる方向で、最終的な再稼働の条件として、野田総理に対し、総理の口から国民を説得してほしいとの要請があり、それにこたえる形で野田総理は6月8日に記者会見を行った。これにより、すべての条件が満たされたとして、大飯原発の再稼働に至ったのである。
この経緯を振り返って、何に違和感を感じたかというと、大飯原発の再稼働は、関西の問題(より正確には関西電力管内の問題)であり、首相官邸前に集まった多くの非関西居住者(もちろんその中には関西出身の人もいるだろうし、関西から来た人もいるだろう)が口を出してよいものなのかどうか、という点であった。
仮に野田総理が原発再稼働反対デモを見て、自らの決断を覆し、再稼働を中止するという判断をした場合、関西電力はもちろんのこと、福井県の原発関連の従業員や、関西電力管内の消費者にとって大きな影響をもたらす結果となる(電力不足が起こらない可能性もあるが、それでもより厳しい節電は必然の状態となる)。しかし、大飯原発が再稼働しても、しなくても、電力供給に影響のない多くの非関西居住者が、関西の人たちの運命を決めることは正しいのだろうか、という違和感である。
誤解のないように書いておけば、私は原発再稼働に反対する人たちが、その意思を表現することは正しいことだと思っているし、それは積極的になされるべきだと考えている。デモが否定される社会、自らの意見を表明することができない社会には断固として戦う意思もある。しかし、今回の官邸前で行われたデモについては、どうしても納得できない部分があった。
というのも、関西の人たちは、関西広域連合という民主的に選ばれた代表によって構成される会議において、起こるかもしれない電力不足のリスクを回避するために、大飯原発の再稼働を容認するという決定をしているからである。もちろん、最終的な決定は政府でなされているが、その決定に至るまでの重要な要素して、地元、つまり原発立地自治体である福井県と、消費地である関西広域連合が「民主的に」決定したことを、なぜ大飯原発のリスクの引き受け手でもなく、電力不足のリスクの引き受け手でもない非関西居住者の人たちが覆せるのか、ということが理解できなかった。
確かに、最終的な決定をしたのは政府であり、野田総理は「私の責任において」再稼働すると言っているのだから、当然、再稼働を止めることができるのは野田総理ということになる。なので、大飯原発の再稼働に反対する人は総理に働きかけるというロジックは成立する。
しかし、それならば、なぜ関西広域連合で再稼働を容認した時に、同じように大阪市庁舎の前でデモをやらなかったのか。私が知らないだけかもしれないが、少なくとも、もしデモが行われたとしても今回の官邸前デモ程の規模ではなかったことは確かだろう。また、関西広域連合で大飯原発の再稼働を容認した後の大阪府の世論調査では、再稼働の決定に賛成する人が49%にのぼり、反対の18%を大きく上回っている ( 毎日新聞2012年6月5日 ) 。この世論調査はあくまでも大阪府の住民が対象であるが、それにしても、関西に住んでいる人たちが再稼働に賛成したという傾向を示すものであることは間違いない。
なぜ関西に住む人が賛成していることを、そして民主的な手続きを経て選ばれた人たちが決めたこと(関西広域連合での決定が制度的な正当性を持つかどうかは別として)を、リスクの引き受け手でない人たちが決めることができるのだろうか、という疑問はいまだに解消されていない。
この違和感を考えていた時、何かに似ていると思ったのが、北九州における震災瓦礫の受け入れに反対する運動であった。こちらの方は規模は小さかったが、様々なトラブルを起こしたこともあり、かなり知られることとなった。この時の論点は、①放射性物質を含んでいるとは思えない、震災瓦礫をあたかも放射性物質の塊のように扱ったことに対する問題、②北九州市議会も民主的な手続きを経て承認した瓦礫の受け入れを否定することの是非、③瓦礫を運搬する業者を止めようとする手段の是非、④逮捕者を含め、運動に加わった人が北九州の人たちではなかったこと、といったことであった。このうち、①と③については、官邸前デモとは一致しないが、②と④については、官邸前デモと共通する問題なのではないか、と考えている。
あの時に感じた違和感(それは①に対しても③に対しても感じていたが)は、やはり民主的な手続きを経て、当事者が合意したことを、当事者でない人たちが反対することに対するものであった。その違和感を今回の官邸前デモでも感じている。
民主主義とは、本来、当事者が自らのことを自らで決めることができる仕組みであるべきである。イギリスの名誉革命も、アメリカの独立戦争も、フランス革命も、当事者である人々が、自己決定権を得るために戦い、勝ち取ったものだと認識している。その自己決定権を奪うことは、どのような方法であれ、非民主的な行為のように思えるのだ。独裁政権が非民主的なのは、当事者である市民が決定に参加することができず、特定の権力者だけが決定に参加できるという仕組みだから問題なのだ。形式的な民主主義(北朝鮮にだって選挙はある)が民主主義的と思えないのは、それが自己決定につながらないからである。自らの運命を自らが決定することが民主主義の本義だとするならば、関西広域連合で決定したこと、福井県が決定したこと、大飯町が決定したことを尊重すべきなのではないだろうか。もちろん、彼らは選挙の争点として原発再稼働を掲げたわけではない。しかし、現代の間接民主制の仕組みである限り、民主的に選ばれた為政者が判断したことは、民主的な決定と言ってよいだろう。
そう考えれば、やはり、当事者たる関西広域連合、福井県、大飯町の決定を尊重するべきなのだと考える。それを当事者ではない人たちが介入し、その結果生まれるかもしれない電力不足のリスクを引き受けないということは、やはりおかしな感じがするのである。
しかし、私はこの原発再稼働反対デモに対して、何とも言えない違和感を持った。それは、このデモが「関西電力大飯原子力発電所」の再稼働を具体的な対象としているデモだったからだ。この違和感を説明するのに、少しこれまでの経緯を整理しておこう。
大飯原発の再稼働についてのこれまでの経緯を振り返ると、定期点検で1年3ヶ月前に停止していた大飯原発3、4号機の再稼働に関して、関西電力がストレステストの一次評価を提出し、それを原子力安全保安院が承認し、原子力安全委員会は「ストレステストの一次評価だけでは不十分」という立場を取りながらも、この再稼働について抵抗も阻止もせず、関係閣僚の決定によって政府は再稼働の立場をとった。その上で「地元の理解」を得るため、大飯町と福井県に諮り、大飯町議会は再稼働を認めたが、福井県知事は「消費地の理解を得ること」を条件にした。
この時、福井県知事が求めた「消費地の理解」というのは、大飯原発再稼働に反対の立場をとっていた大阪府市エネルギー戦略会議、そして「被害地元」という概念を生み出して、再稼働に必要な「地元の理解」に関与することを求めた京都府と滋賀県の理解を得ることを意味していた。これらの自治体は関西電力管内の自治体であり、大飯原発の電気を消費する自治体であることから、原発が再稼働しない場合、その影響を被る自治体でもある。
その「消費地」たる大阪府市や京都府・滋賀県が反対するのに、わざわざ原発のリスクに直面する福井県が積極的に消費地の反対を押し切って再稼働する意味はない、という理屈はわからないでもない。原発を再稼働することは福井県にとっては雇用や財政という観点からすればメリットがあるが、原発事故のリスクが福井県よりも小さい遠隔地のために、自らが大きなリスクを取る必要はない、と判断するのはやぶさかではないだろう。
しかし、結果として、大飯原発の再稼働をしなければ、消費地における電力不足は深刻なものになりかねないという計算結果が出て、それを踏まえて大阪府市や京都府・滋賀県を含む、関西広域連合は、最終的に再稼働を容認する立場をとった。その結果、福井県も再稼働に応じる方向で、最終的な再稼働の条件として、野田総理に対し、総理の口から国民を説得してほしいとの要請があり、それにこたえる形で野田総理は6月8日に記者会見を行った。これにより、すべての条件が満たされたとして、大飯原発の再稼働に至ったのである。
この経緯を振り返って、何に違和感を感じたかというと、大飯原発の再稼働は、関西の問題(より正確には関西電力管内の問題)であり、首相官邸前に集まった多くの非関西居住者(もちろんその中には関西出身の人もいるだろうし、関西から来た人もいるだろう)が口を出してよいものなのかどうか、という点であった。
仮に野田総理が原発再稼働反対デモを見て、自らの決断を覆し、再稼働を中止するという判断をした場合、関西電力はもちろんのこと、福井県の原発関連の従業員や、関西電力管内の消費者にとって大きな影響をもたらす結果となる(電力不足が起こらない可能性もあるが、それでもより厳しい節電は必然の状態となる)。しかし、大飯原発が再稼働しても、しなくても、電力供給に影響のない多くの非関西居住者が、関西の人たちの運命を決めることは正しいのだろうか、という違和感である。
誤解のないように書いておけば、私は原発再稼働に反対する人たちが、その意思を表現することは正しいことだと思っているし、それは積極的になされるべきだと考えている。デモが否定される社会、自らの意見を表明することができない社会には断固として戦う意思もある。しかし、今回の官邸前で行われたデモについては、どうしても納得できない部分があった。
というのも、関西の人たちは、関西広域連合という民主的に選ばれた代表によって構成される会議において、起こるかもしれない電力不足のリスクを回避するために、大飯原発の再稼働を容認するという決定をしているからである。もちろん、最終的な決定は政府でなされているが、その決定に至るまでの重要な要素して、地元、つまり原発立地自治体である福井県と、消費地である関西広域連合が「民主的に」決定したことを、なぜ大飯原発のリスクの引き受け手でもなく、電力不足のリスクの引き受け手でもない非関西居住者の人たちが覆せるのか、ということが理解できなかった。
確かに、最終的な決定をしたのは政府であり、野田総理は「私の責任において」再稼働すると言っているのだから、当然、再稼働を止めることができるのは野田総理ということになる。なので、大飯原発の再稼働に反対する人は総理に働きかけるというロジックは成立する。
しかし、それならば、なぜ関西広域連合で再稼働を容認した時に、同じように大阪市庁舎の前でデモをやらなかったのか。私が知らないだけかもしれないが、少なくとも、もしデモが行われたとしても今回の官邸前デモ程の規模ではなかったことは確かだろう。また、関西広域連合で大飯原発の再稼働を容認した後の大阪府の世論調査では、再稼働の決定に賛成する人が49%にのぼり、反対の18%を大きく上回っている ( 毎日新聞2012年6月5日 ) 。この世論調査はあくまでも大阪府の住民が対象であるが、それにしても、関西に住んでいる人たちが再稼働に賛成したという傾向を示すものであることは間違いない。
なぜ関西に住む人が賛成していることを、そして民主的な手続きを経て選ばれた人たちが決めたこと(関西広域連合での決定が制度的な正当性を持つかどうかは別として)を、リスクの引き受け手でない人たちが決めることができるのだろうか、という疑問はいまだに解消されていない。
この違和感を考えていた時、何かに似ていると思ったのが、北九州における震災瓦礫の受け入れに反対する運動であった。こちらの方は規模は小さかったが、様々なトラブルを起こしたこともあり、かなり知られることとなった。この時の論点は、①放射性物質を含んでいるとは思えない、震災瓦礫をあたかも放射性物質の塊のように扱ったことに対する問題、②北九州市議会も民主的な手続きを経て承認した瓦礫の受け入れを否定することの是非、③瓦礫を運搬する業者を止めようとする手段の是非、④逮捕者を含め、運動に加わった人が北九州の人たちではなかったこと、といったことであった。このうち、①と③については、官邸前デモとは一致しないが、②と④については、官邸前デモと共通する問題なのではないか、と考えている。
あの時に感じた違和感(それは①に対しても③に対しても感じていたが)は、やはり民主的な手続きを経て、当事者が合意したことを、当事者でない人たちが反対することに対するものであった。その違和感を今回の官邸前デモでも感じている。
民主主義とは、本来、当事者が自らのことを自らで決めることができる仕組みであるべきである。イギリスの名誉革命も、アメリカの独立戦争も、フランス革命も、当事者である人々が、自己決定権を得るために戦い、勝ち取ったものだと認識している。その自己決定権を奪うことは、どのような方法であれ、非民主的な行為のように思えるのだ。独裁政権が非民主的なのは、当事者である市民が決定に参加することができず、特定の権力者だけが決定に参加できるという仕組みだから問題なのだ。形式的な民主主義(北朝鮮にだって選挙はある)が民主主義的と思えないのは、それが自己決定につながらないからである。自らの運命を自らが決定することが民主主義の本義だとするならば、関西広域連合で決定したこと、福井県が決定したこと、大飯町が決定したことを尊重すべきなのではないだろうか。もちろん、彼らは選挙の争点として原発再稼働を掲げたわけではない。しかし、現代の間接民主制の仕組みである限り、民主的に選ばれた為政者が判断したことは、民主的な決定と言ってよいだろう。
そう考えれば、やはり、当事者たる関西広域連合、福井県、大飯町の決定を尊重するべきなのだと考える。それを当事者ではない人たちが介入し、その結果生まれるかもしれない電力不足のリスクを引き受けないということは、やはりおかしな感じがするのである。
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