今日は2001年のアメリカ同時多発テロ(9.11)の10周年に当たり、また、東日本大震災(3.11)から半年という節目の日。すでに新聞、テレビなどで多くの特集が組まれ、9.11からの10年の移り変わりや、あのテロの意味を考え直す企画が並び、3.11の震災から現在までの復興の遅れや原発事故の現状などを取り上げるものも多い。
これらの特集などで取り上げられた論点は幅広く、私が改めて繰り返し論じる必要もないほど網羅的である。しかし、何か画竜点睛を欠くというか、全体像のある部分が抜けている感じも受けている。それは、9.11後の世界に顕著に見られ、3.11後には日本でも現実的に感じられる、ある種の社会的変化というか、心情の変化というものである。
これを言葉に表すならば「ナイーブさ」という表現がぴったりくるような心情の変化かもしれないと感じている。
日本では「ナイーブ」というと、繊細である、とか、純粋である、といった意味に取られやすく、ある意味肯定的なニュアンスを含んでいる。しかし、言葉の由来はフランス語のnaif(iはウムラート)という形容詞からきており(女性形になるとnaive、iはウムラート)、英語でもフランス語のスペル、アクセントをそのまま使い、naiveないしはnaivite(eはアクサンテギュ)という表現が使われる。
ここで使われるnaiveという言葉には肯定的な意味は少なく、むしろ「世間知らず」「お人よし」「バカ正直」「浅はかさ」といったような意味で使われる。日本語で「ちょっとナイーブ過ぎる」といった時に使う「弱弱しさ」というのも含まれるだろう。この記事で使う「ナイーブ」というのは、こうした英語、フランス語で使われるようなニュアンスに近いと思ってもらって構わない。
さて、9.11後のアメリカを中心にテロに対する脅威への敏感度が高まり、これまでのテロに対するセキュリティの甘さを反省し、極めて厳しいテロの取り締まりや過剰なまでの警戒感が高まったことは多くの人がアメリカ入国の際に経験したところだろう。しかし、そうした目に見える緊張感だけでなく、外国人、とりわけイスラム教徒に対する偏見や、テロそのものよりも、テロリストと思われる属性を持つ人たちに対する異様なまでの警戒感がアメリカ社会を大変住みにくく、閉塞感のある場所に変えてしまった。
この社会の空気というか雰囲気は、3.11後の日本でも見られる。放射能に対する極端なまでの警戒感や東電、経産省ないしは政府に対する不信感、そして福島県から避難してきた人たちや福島ナンバーの車に対するいわれのない偏見、さらに科学技術やその専門家に対する不信感。こうしたものは9.11後のアメリカにおける閉塞感や住みにくさに通じるものがあると感じている。
テロと放射能の共通点は、(1)目に見えない脅威である、(2)目に見える形で現れた時は命にかかわる問題となっている、(3)予防したくても、目に見えないため、どうやって予防していいかわからない、という三点ある。
これらの共通点を踏まえて考えると、テロと放射能の脅威に直面した社会というのは「ナイーブ」にならざるを得ない。なぜならば、テロの場合、ある人物がテロリストかどうかを判断する絶対的な証拠というのはなかなか見つけ出すことができず、テロリストと確定できるのは、本当にテロを行った瞬間、ないしは、テロを行おうとして爆破スイッチに手をかけた瞬間や飛行機をハイジャックするために凶器を持ちだした瞬間である。しかし、その瞬間を見つけ、テロを食い止めることはかなり困難である。そのため、テロは「未然に予防する」ということが第一となる。
かつては、極左テロ(日本赤軍や赤い旅団など)や民族テロ(IRAやETAなど)集団が、強固な組織を持って、テロを計画し、実行してきた。そのため、ある特定の組織を監視していれば、テロを未然に防ぐことができると考えられていた。
しかし、現代のテロリストは、アルカイダのように極めて緩い連帯しかしていないテロリストグループやノルウェーのテロような単独で行うテロリストすら存在するため、特定の組織を監視しているだけではテロを防ぐことはできない。普段は一般市民として普通に生活していながら、ある日突然テロを起こす、ということだってあり得ることになる。
そうなると、テロを未然に防ぐためには、テロリストと推測できるような疑わしい行為や思想を持っている人たちを監視し、そうした監視を続ける中で、テロリストとしての可能性が高くなっていった段階(つまり、明らかにテロを計画していると判断できるような状況になった段階)で逮捕するということしか未然に防ぐ方法はない。
そのためには、テロリストと推測できるような疑わしい行為や思想を持っている人たちを一通り検査し、テロリストになりそうなのかどうか、ということを判断していかなければならない。しかし、その「疑わしい行為や思想」というものの実体が明確ではないため、かなり広範囲で網をかけ、疑わしい人物を割り出していかなければならない。
そのための方法として、空港における全身スキャンや指紋による身元確認などを行い、大量の農薬を購入した人(農薬は爆発物に転用できる)や、高度な科学技術を学ぼうとする外国人に一通りの疑いをかけるようになる。そしてテロリストが誰かということを絞り込んでいくのだ。
しかし、こうした人物の情報を収集することは一般市民には到底できない。そのため、彼らはより簡単に隣人がテロリストかどうかを判断する基準を作ってしまう。それが「イスラム教徒かどうか」ということなのだ。もちろん、イスラム教徒=テロリストという考え方は全く間違っている。私の知り合いでも数多くのイスラム教徒がいるが、テロリストになるどころか、テロという行為に対して強い怒りを持っている人たちが圧倒的である。にもかかわらず、「明日、私の街でテロが起きるかもしれない」という恐怖にさらされている人々は、そうならないようにするための自衛策として、何とか「テロリストになりそうな人」を見つけ出し、テロリストになりそうな人がいないので、明日はテロは起きないだろう、という安心感を得たいという気になる。
こうした市民が自らの守ろうとするために「イスラム教徒=テロリスト」のような、単純化され、簡便であり、同時にある種の説得力を持つ(9.11のテロリストはすべてイスラム教徒であった)図式で世界を見、自分の社会を理解しようとするのである。それが結果として、現実とは異なる、ゆがんだ世界観を助長し、その世界観に基づいてテロリストを恐れるのである。
こうした図式は3.11後の日本における放射能に対する意識とも共通するところがあると考えている。確かに、原発の事故は起こり、その事故の対応や政府の発表などが後手に回り、加えて多くの専門家が「原発事故は大きな問題にはならない」「ただちに健康に害はもたらさない」「多少の放射能なら大丈夫」といった発言をしていた。
しかし、現実は、政府や専門家は混乱した中で情報を十分に受け取らない中での拙速な判断をしていたことが明らかになっており、その判断を下すための十分な情報が事態の混乱の中で伝わらなかったのか、あるいは原子力事業の将来を考えて、不都合な情報を出さなかったといったことが加わり、市民の政府や東電や専門家に対する不信感は頂点を極めている。
こうした過去の対応に対する批判とは別に、日々の生活を守ろうとする人々にとって、放射能の問題はアメリカにおけるテロの問題と同じように、自分たちの生活に深くかかわる問題として対応しなければならないにもかかわらず、放射線防護学などの分野はあまりにも専門的すぎていて、市民のレベルでは判断できない状況にある。
また、科学者や政府に対する不信感から、政府が出す放射線の数値などに対する信頼感を持たず、自己防衛のためにガイガーカウンターなどを購入し、自宅の周辺や通学路などの放射線の値を測定して安心感を得ようとしている。
しかし、放射能は外部被曝だけでなく、内部被曝の問題もあり、飲料水や食品の放射線も測定しなければならない、となるとかなり難しい問題になる。というのも、食品などが含む放射線は、専門的な機械にかけて分析しなければならないからである。また、放射線を測定するための時間もかかり、市場に出回る食品のすべてに放射線検査をかけることも実質的に不可能である。
そのため、福島県産の食品を避けるという行動が一般的に見られるようになり、また、地方によっては放射能の汚染が広範囲に広がっているという認識を持っているため、東日本全域の食品などを避けようとする傾向を持つ(あごひげ海賊団というサイトに面白い画像が掲載されていたので、紹介しておく)。
これが京都における大文字の送り火に岩手県の松を使うことに極端に反応した市民による抗議を受けて、その使用をやめたことや、福岡における福島県支援のためのショップが一部の市民からの抗議によって出店中止にならざるを得なくなった原因と考えている。
こうした不安感は、一般市民の間で様々な形で受容されていき、場合によっては合理的でない偏見や警戒感を生み出している。それがしばしば福島ナンバーの車に対する暴力であったり、福島県出身者に対する差別であったりする。これらの差別や偏見は全く科学的な根拠を持たず、市民の自己防衛という言い訳も成り立たない話であるが、それでも「目に見えない脅威」であるということから発する、自己防衛が極端な形になって現れている点は、9.11のケースと共通しているようにも思える。
さらに、科学に対する不信感から、こうした社会的な問題だけでなく、個人の自己防衛が行き過ぎているというケースも見られる。たとえばホメオパシーやコメのとぎ汁などを使った「放射能解毒作用」のような似非科学が一部の人に受け入れられ、それが実際には健康を害するものであっても、こうした放射能への恐怖から、自分や自分の子供を守ろうとして、わらをもすがる思いで似非科学にはまり込んでしまう人たちも見受けられる(放射能を解毒するという似非科学については、片瀬さんという理学博士の書いたものがまとまっているので紹介しておく)。
このように、9.11後と3.11後のアメリカと日本で見られるようになった、社会的な変化は、一言でいえば、社会が「ナイーブ」になったということであろう。確かにテロリストを見抜くことも、放射能を避けることも、一般市民には簡単にできないことである。そのため、自分たちの住む町にテロが起きないためには、自分たちの子供が将来ガンにならないためには、可能な限りの手を打とうとする。しかし、そのための手段は限られているため、どうしても手近で簡単な方法を取らざるをえなくなる。それが、ある種の図式(イスラム教徒=テロリストであったり、東日本産食品=放射性廃棄物)に陥ってしまう。
こうした単純化された図式が生み出す副産物は、その図式に当てはめて「リスクがゼロになる状態」を追求するために、この世の中には他にもたくさんリスクがある、ということが見失われてしまうことである。たとえばイスラム教徒でなくてもテロリストになる可能性はあるし、東日本産の食品でなくても、添加物や農薬などで健康を害する可能性だってある。しかし、そうしたリスクを不問にしながら、一部のリスクだけを過剰に取り上げて、そのリスクをゼロにしようとすることで、非常に高いストレスをため込み、社会全体がギスギスしたものとなっていく結果をもたらしているような印象を受けている。
では、テロや放射能のリスクに対して、どう対処すれば良いのか。「ナイーブ」でない対処の仕方はあるのか、ということを最後に考えておきたい。私が個人的に心を打たれたのは、2005年7月7日のロンドン同時多発テロの後のイギリス人の人たちとのやり取りであった。彼らは「かつてIRAがテロをやっていた時もあるので、それに恐れてはいけない」「テロよりも交通事故で死ぬ人の方が多い」「テロに恐れることこそ、テロリストの思うつぼ」といった反応を示していた。私はこうした言葉が最も力強いものに感じた。同じことは読売新聞に同僚の遠藤乾氏が書いたことにも共通する。
要するに、大事なことはテロや放射能のリスクを「正しく怖がること」だと考えている。「正しく怖がる」というのは、本当にどの程度のリスクがあるのか、そのリスクは実際に害が及ぶほどのものなのか、そしてそのリスクを上回るベネフィットがあるのか、ということを考える必要がある、ということである。たとえば、イスラム教徒であるだけではリスクが高いとは言えない。東日本産の食品であるだけではリスクが高いとはいえない。ゆえに単純にそうした図式だけで自己防衛をしようとすることは社会的に正当化されるべきではない。
しかし、たとえばイスラム教徒の隣人と生活することになった場合、彼らが本当にテロリストでないかどうかというのは、ある程度付き合っていけば、判断できる場合もある。東日本産の食品を買う場合、それが放射能を帯びたものなのかどうかということは、現時点ではある程度のサンプリングが行われ、多分大丈夫というレベルのものが市場に出回っていると考えるべきだろう。
しかし、それでも、すべてのリスクを見通すことはできない。仲良くなった隣人が突如テロリストに変わる可能性もある(これはイスラム教徒でなくてもありうる)。たまたま購入した食品が放射線が高い可能性もある(これは東日本産に限らない)。そうしたリスクは確率論的にはかなり低く、それを恐れていては、まともな社会関係や消費生活を送ることが難しくなってしまう。逆に、できるだけリスクを避けようとするために、テロを恐れ、放射能を恐れすぎることで抱えるストレスや社会関係の悪化が結果的にはより悪い効果を生み出す可能性すらある。
ゆえに、私は、こうした「ナイーブ」な反応を避け、できるだけ「正しく怖がる」ようにし、一定程度の「Acceptableリスク(受容可能なリスク)」を考え、普通の生活をするようにしていきたい。そして社会全体が「ナイーブ」になっていることを受けとめながら、その「ナイーブさ」を理解しつつ、社会を見ていきたいと考えている。
9.11や3.11はすでに過去の出来事となった。あれから10年がたち、6ヶ月が経った。それによって日米の社会は大きく変わり、社会は「ナイーブさ」を増していった。そういう社会が今後どうなっていくのか、それが世界の他の部分にどのような影響を及ぼしていくのか。日米社会が「ナイーブ」になっているということを踏まえてみていくと、ティーパーティの問題や、政治家の失言を捉えるマスコミの対応などもよりよく理解できるのではないかと考えている。
東日本大震災を受けて、世の中が大きく変わっていく中で、日々のニュースに触れて、いろいろと考えなければならないテーマが出てきました。商業的な出版や学術的な論文の執筆にまでは至らないものの、これからの世の中をどう見ていけばよいのかということを社会科学者として見つめ、分析し、何らかの形で伝達したいという思いで書いています。アイディアだけのものもあるでしょうし、十分に練られていない文章も数多くあると思いますが、いろいろなご批判を受けながら、自分の考えを整理し、練り上げられれば、と考えています。コメントなど大歓迎ですが、基本的に自分のアイディアメモのような位置づけのブログですので、多少のいい加減さはご寛容ください。
2011年9月11日日曜日
2011年9月9日金曜日
武器輸出三原則について
ツイッター上で武器輸出三原則における「武器」とは何か、ということで@kankimuraさんとやり取りしていたのですが、やや込み入った複雑な話になってしまうので、ブログで説明させてもらいたいと思います。
まず、武器輸出三原則ですが、1967年に佐藤栄作内閣が定めたもので、それは以下の三つの原則によって成り立っています。なお、これは1967年4月21日の国会答弁で出されたもので、質問主意書のように閣議決定を経たものではない形で出されました(のちに閣議了解事項)。
しかし、この三つの原則は三木政権の時に「平和国家としての立場」から、以下の原則に読み替える、ということになりました。
つまり、この考え方によると、共産主義国、国連によって武器禁輸が課されている国、紛争当事国には武器の輸出を「禁止する」という原則があり、そのうえで、それ以外の地域に対しては武器の輸出を「慎む」となっています。また、武器製造関連設備も含めて「武器」とする、ということになっています。
では、この「武器」とは何を意味するのか、という定義の問題が出てきます。それは以下のように定義されます。
まず一般論として:
(1)武器輸出三原別における「武器」とは、「軍隊が使用するものであって、直接戦闘の用に供されるもの」をいい、具体的には、輸出貿易管理令別表第1の第197の項から第205の項までに掲げるもののうちこの定義に相当するものが「武器」である。
(2)自衛隊法上の「武器」については、「火器、火薬類、刀剣類その他直接人を殺傷し、又は武力闘争の手段として物を破壊することを目的とする機械、器具、装置等」であると解している。なお、本来的に、火器等をとう載し、そのもの自体が直接人の殺傷又は武力闘争の手段としての物の破壊を目的として行動する護衛艦、戦闘機、戦車のようなものは、右の武器に当たると考える。(出典:経産省HP)
となっています。ここでの要件は「軍隊が使う」という使用者が規定され、「直接戦闘の用に供される」という使用目的が規定されています。で、その具体的なリストとして外為法輸出貿易管理令別表第1の第197-205項までのアイテムを指します。
また、それ以外の「武器」の定義として自衛隊法における「武器」の定義も援用し、外為法輸出管理令別表のアイテム以外のものもカバーしています。
さらに「「武器輸出三原則」上の「武器」には輸出貿易管理令別表第1に「部分品」又は「附属品」が規定されている場合は、その「部分品」又は「附属品」も含まれる。」ということにもなっており、この「部分品」ないしは「附属品」という範囲は定めがないので、ちょっとややこしいのですが、上記のように定義される「武器」に直接かかわる部品や付属品(たとえば戦車のキャタピラと大砲の砲身とか)を指すということになっています。
ここまでは、私がツイートした「大型武器の輸出はしてこなかった」ということの意味です。
ここでちょっとややこしいのが「平成3年11月の輸出貿易管理令の一部改正により、1-(3)の「第109の項」及び2-(1)の「第197の項から第205の項」は、「第1の項」に変わっております。」という注です。経産省のHPで見ていただくとわかるのですが、別表第1の「第1の項」というのは「武器」となっていて、その中には「銃砲・銃砲弾」という項目があるのです。
これを見ると、ライフルなども「武器」のカテゴリーの中に含まれる、ということになってしまい、これが混乱の元になっています。
つまり、一方で「軍隊が使う」「直接戦闘の用に供される」という規定だけで判断すると、狩猟用のライフルなどの輸出は可能という判断が可能であり、逆に「別表第1の第1の項」という要件で見れば狩猟用であってもライフルの輸出はできない、ということになります。
この点は、武器輸出三原則が持っている矛盾なのですが、具体的に解決する措置が取られることもなく、矛盾した状況のまま現在に至っています。政府としては、「別表第1の第1の項」という規定で判断しているようですが、政府がすべての輸出品を検査しているわけではないので、輸出者が「軍隊が使う」「直接戦闘の用に供される」という基準だけで判断すると、外国に輸出してしまう、という可能性が高くなる、ということになります。
それ以外にも、武器輸出三原則はいろいろな矛盾を孕んでいるのですが、それについては、また別の機会に議論したいと思います。
まず、武器輸出三原則ですが、1967年に佐藤栄作内閣が定めたもので、それは以下の三つの原則によって成り立っています。なお、これは1967年4月21日の国会答弁で出されたもので、質問主意書のように閣議決定を経たものではない形で出されました(のちに閣議了解事項)。
(1)共産圏諸国向けの場合
(2)国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
(3)国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合
しかし、この三つの原則は三木政権の時に「平和国家としての立場」から、以下の原則に読み替える、ということになりました。
(1)三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない。
(2)三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」の輸出を慎むものとする。
(3)武器製造関連設備の輸出については、「武器」に準じて取り扱うものとする。
つまり、この考え方によると、共産主義国、国連によって武器禁輸が課されている国、紛争当事国には武器の輸出を「禁止する」という原則があり、そのうえで、それ以外の地域に対しては武器の輸出を「慎む」となっています。また、武器製造関連設備も含めて「武器」とする、ということになっています。
では、この「武器」とは何を意味するのか、という定義の問題が出てきます。それは以下のように定義されます。
まず一般論として:
(1)武器輸出三原別における「武器」とは、「軍隊が使用するものであって、直接戦闘の用に供されるもの」をいい、具体的には、輸出貿易管理令別表第1の第197の項から第205の項までに掲げるもののうちこの定義に相当するものが「武器」である。
(2)自衛隊法上の「武器」については、「火器、火薬類、刀剣類その他直接人を殺傷し、又は武力闘争の手段として物を破壊することを目的とする機械、器具、装置等」であると解している。なお、本来的に、火器等をとう載し、そのもの自体が直接人の殺傷又は武力闘争の手段としての物の破壊を目的として行動する護衛艦、戦闘機、戦車のようなものは、右の武器に当たると考える。(出典:経産省HP)
となっています。ここでの要件は「軍隊が使う」という使用者が規定され、「直接戦闘の用に供される」という使用目的が規定されています。で、その具体的なリストとして外為法輸出貿易管理令別表第1の第197-205項までのアイテムを指します。
また、それ以外の「武器」の定義として自衛隊法における「武器」の定義も援用し、外為法輸出管理令別表のアイテム以外のものもカバーしています。
さらに「「武器輸出三原則」上の「武器」には輸出貿易管理令別表第1に「部分品」又は「附属品」が規定されている場合は、その「部分品」又は「附属品」も含まれる。」ということにもなっており、この「部分品」ないしは「附属品」という範囲は定めがないので、ちょっとややこしいのですが、上記のように定義される「武器」に直接かかわる部品や付属品(たとえば戦車のキャタピラと大砲の砲身とか)を指すということになっています。
ここまでは、私がツイートした「大型武器の輸出はしてこなかった」ということの意味です。
ここでちょっとややこしいのが「平成3年11月の輸出貿易管理令の一部改正により、1-(3)の「第109の項」及び2-(1)の「第197の項から第205の項」は、「第1の項」に変わっております。」という注です。経産省のHPで見ていただくとわかるのですが、別表第1の「第1の項」というのは「武器」となっていて、その中には「銃砲・銃砲弾」という項目があるのです。
これを見ると、ライフルなども「武器」のカテゴリーの中に含まれる、ということになってしまい、これが混乱の元になっています。
つまり、一方で「軍隊が使う」「直接戦闘の用に供される」という規定だけで判断すると、狩猟用のライフルなどの輸出は可能という判断が可能であり、逆に「別表第1の第1の項」という要件で見れば狩猟用であってもライフルの輸出はできない、ということになります。
この点は、武器輸出三原則が持っている矛盾なのですが、具体的に解決する措置が取られることもなく、矛盾した状況のまま現在に至っています。政府としては、「別表第1の第1の項」という規定で判断しているようですが、政府がすべての輸出品を検査しているわけではないので、輸出者が「軍隊が使う」「直接戦闘の用に供される」という基準だけで判断すると、外国に輸出してしまう、という可能性が高くなる、ということになります。
それ以外にも、武器輸出三原則はいろいろな矛盾を孕んでいるのですが、それについては、また別の機会に議論したいと思います。