静かな映画だった。宇宙開発映画にありがちなヒーローストーリーも、アメリカの栄光もなく(月面に星条旗を立てるシーンがないことは保守派から批判された)、ただ人類最初に月面に降り立った人物が亡くなった娘を思う父親であり、徹頭徹尾エンジニアであった人物であることが描かれていた。
派手なBGMもなく、時折大音量で流れてくるのはアームストロングの聞いていたロケットの爆音だけ。宇宙映画にありがちな過剰なまでのジャーゴンを詰め込んだ無線交信も最小限に抑えられ、あくまでもアームストロングの主観で描かれた映画である。
カメラワークも手持ちカメラの映像が多く、アームストロングの主観と心情の不安定さを描き出す演出になっていた。メディア露出が苦手で、記者との受け答えが嫌いなアームストロングの雰囲気をライアン・ゴスリングは見事に演じていた。
他方、メディア露出が好きなバズ・オルドリンは道化のように描かれ、アームストロングとの関係の悪さ(宇宙飛行士たちとの関係の悪さ)も表現していて、これもオルドリン好きの多い保守派の反発を買う一役を担っているのだろう。
ケネディのライス大学の演説は綺麗に描かれているのに、ホワイトハウスや政治家は宇宙開発よりも世論やメディアを気にする存在として描かれているのもリアリティがある。
こういう言い方が適切かどうかはわからないが、この映画は変なギミックを含まない、等身大の宇宙開発を表現しようとした映画だと思った。宇宙飛行士の悩み、家族の不安、自己顕示欲、任務遂行の義務感、職人気質な不器用さなど、綺麗事ではない宇宙開発の姿を描こうとしている。
タイミングとしては、NASAが月ゲートウェイ構想を打ち出し、21世紀の現在、また月に戻るということは何を意味するのかを改めて考える上で参考になる映画だと思う。ただ、この映画はあくまでも1960年代の話であり、ソ連と競争し、初の月面着陸に意味があったときのこと。
果たしてソ連が存在せず、初ではない月探査にどこまでの意味があるのか。その意味を考える上でも等身大の、あるがままの宇宙開発の現場の姿を見ておく必要はあるだろう。