2014年2月21日金曜日

寺薗先生の有人宇宙推進論について

ずいぶん久しぶりの投稿になります。この間、プリンストン大学からの留学から帰国し、3ヶ月ほど日本に戻り、今度は国連で働くことになったので、ニューヨークに移るというバタバタした生活をしていました。国連での仕事はこれまでの仕事とは違うものなので、慣れるのにも時間がかかり、新しい勉強をしなければならず、なかなかブログを書く時間的・精神的余裕もありませんでした。

今も、時間的・精神的余裕はないのですが、ツイッターで会津大学の寺薗先生が大変刺激的なご意見を連投されていたので、それについてコメントしたくなり、そのコメントが長くなりそうなのでブログで展開することにしました。

寺薗先生のツイートにコメントする前に断っておきたいのは、ここでは先生のコメントに対して否定的な見解を述べますが、それは寺薗先生のご研究や人格に関わる非難でも批判でもなく、あくまでも日本が有人宇宙事業を進めるべき、 という論に対する批判ですので、その点ご了解いただければ幸いです。

さて、寺薗先生のツイートを引用しながらコメントしていきます。

ほらほら、日本はインドにも宇宙開発分野で「抜かれた」よ。松浦さんも言っているが、こうなることはわかっていたはずなのに、誰も手を打たなかったっていうのは一体どういうことなんだ。宇宙政策委員会の委員の皆さんの弁明とやらを聞いてみたい。ボコボコに叩いてやるから。
https://twitter.com/terakinizers/status/436691927744774144


寺薗先生のコメントは松浦晋也さんが書かれた「姿を現したインドの有人宇宙船」(宇宙開発の新潮流 NB Online)


もちろん、有人宇宙開発が宇宙開発の全てではない。日本は無人宇宙機で実績を積み重ねているのだから、無人のまま技術を積み重ねるべきだという意見もあるだろう。でも私はそうは思わない。
https://twitter.com/terakinizers/status/436692291395133440



大体、日本はまず有人宇宙開発にもう四半世紀も首を突っ込んでいる。アメリカとロシアに輸送手段を頼っているとはいえ、12人もの宇宙飛行士を輩出している国だということを忘れてはならない。
https://twitter.com/terakinizers/status/436692513617756160

しばしば有人宇宙開発を支持する議論として、これまでこれだけの投資をしてきたのだから、やめるべきではない、という議論がある。寺薗先生のツイートがそういう意図なのかどうかは明示的ではないが、そういう議論であるとすれば、それは経済学でいう「サンクコスト」の概念で説明されるべきであろう。企業が失敗してきた事例として、過去の業績や成功に囚われ、不採算部門を切れずにそのまま続けることで会社が傾くといったことが見られるが、有人事業についても、過去にどれだけ投資したとか、どのくらい宇宙飛行士がいるからといった議論で有人事業を継続すべきだ、という議論は積極的に支持できない。

また、無人宇宙開発が将来的に有人宇宙開発の議論になっていくというのはどの国の宇宙開発をみても明らかである。日本は有人宇宙開発についての議論を巧みに、あるいはわざと避けてきてはいるのだが、世界の趨勢を見る限りもうここから逃れることはできない。
https://twitter.com/terakinizers/status/436692733307011072

無人から有人に向かっているというのは果たして明らかなのだろうか。アメリカは国がやる有人から民間がやる有人に向かっているし、ロシアは過去の有人事業の遺産は維持しているが、新たなプロジェクトは無人が多い。中国、インド(+欧州) のトレンドだけを取り上げて「どの国も」や「世界の趨勢」というのは少し違う気はする。

なぜか。人工衛星の打ち上げを発注する側に立ってみれば、有人宇宙船の高度な(信頼性の高い)テクノロジーを有する国と、無人機しか打ち上げていない国なら、信頼性の高い国のロケットを選択するだろう。しかもインドや中国は価格の安さもある。
https://twitter.com/terakinizers/status/436693005919985664

 この点については強く反論せざるを得ない。これまで商業打ち上げで圧倒的なシェアを誇ってきたのは欧州のアリアンロケットであるが、欧州は有人宇宙船の技術を持っていない。世界で最も複雑で高度な有人技術を持っているアメリカのロケットも一時期商業打ち上げに参入していたが、顧客が全くつかず(だれもアメリカのロケットで打ち上げようとせず)、商業市場から撤退した。ロシアのロケットは商業市場でも顧客を獲得しているが、それは技術が高いからではなく、価格が安いからである。つまり、有人技術があるかどうかは関係なく、価格と信頼性(実績)でロケットの選択は決まってくる。なので、有人技術がなくても、価格と信頼性のつり合いが取れれば人工衛星の打ち上げ受注は出来るし、有人技術の有無は無関係と言わざるを得ない。

安くて信頼性の高い国のロケットをわざわざ選ばず、高くて信頼性が低い…とはいわないまでも、有人打ち上げでないロケットを選ぶという理由はない。日本が宇宙開発を国家的戦略産業として選ぶなら、必ず有人という道に進む必要がある。それも今すぐにだ。
https://twitter.com/terakinizers/status/436693352105254912

 上記のコメントから、ここで「必ず」「今すぐ」という議論は打ち上げ市場の現状から考えても、適切な判断ではないと言える。

ともかくまず、日本の宇宙開発は、中国だけではなく、インドにも抜かれたのだ、ということを前提にして立て直す必要がある。それも早急にだ。のんびりしている時間はない。いまやらなければ、5年後、10年後にもっと大きな差をつけられてしまうからだ。
https://twitter.com/terakinizers/status/436693888258932736

 繰り返しになるが、中国やインドに抜かれることに特に問題はないとみている。しかし、中国やインドが有人宇宙事業に積極的に進出する中で、日本はどうするのか、ということについては議論すべきである。

この「日本はインドにも抜かれた」という件は、昨年11月のインドのマンガルヤーン打ち上げのときにも言ったことではあるが、インドの宇宙開発動向について宇宙政策委員会では調査なり議論なりしているのだろうか? とにかく遅い、甘い、知らなすぎる。
https://twitter.com/terakinizers/status/436694863916957697

有人分野で抜かれることと、惑星探査(マンガルヤーンは火星探査)の分野で抜かれることは別次元の問題だと考えている。惑星探査の分野については、国際競争の観点から考える必要もあるし、宇宙科学全体の中での資源配分など、様々な観点から論じるべきであると考えている。しかし、惑星探査の分野で抜かれることと、有人分野で抜かれることは別の議論として論じる方が生産性が高いと思う。ただ単に「抜かれた」ということを起点として議論を起こすと、不毛な「宇宙競争」に突入し、貴重な人的・財政的資源を感情的な理由で振り向けてしまう可能性がある。それは避けたい。ゆえに「抜かれた」ということを起点に議論するのではなく、日本にとってどのように有人宇宙事業を考えるべきか、どのように惑星探査・宇宙科学を考えていくべきかについて論じるべきだと考えている。

寺薗先生のツイートはここでまとまっているが、その後「毎日宇宙」という毎日新聞の記者さんがやられているアカウントでの関連ツイートもあるので、それについてもコメントしておきたい。

松浦さんの記事と寺薗先生の連投を読了。確かに、宇宙開発委員会時代から、有人輸送に関する議論を避けてきた印象はあります。お金の問題ではなく世論形成、突き詰めて言えば、死者を出す覚悟が共有できていないことへの懸念が強かったように思います。
https://twitter.com/mainichi_cosmos/status/436711081604435968

 死者を出す覚悟が出来ていなかった、というのはその通りだと思うのだが、問題はそれだけではないようにも考えている。死者を出す覚悟がなかったのはJAXAと宇宙開発委員会の及び腰が原因で、有人宇宙事業に対する国民的支持は大きく、世論形成は出来ていたと思う。ただ、問題はそれだけではなく、政治家と財務省を説得できるだけの有人をやる正統性がなかったからだと考えている。

(続き)松浦さんや寺薗先生がご指摘のように、あと数年後には主要国がそろって有人輸送機を持つとなると、正面から議論する必要があると思います。もし有人機をやらないなら、カナダのように何かに特化した技術で、それこそ戦略的に存在感を発揮しなければなりません。
https://twitter.com/mainichi_cosmos/status/436712190410641409

最後の一文はその通りだと考えている。有人をやるかやらないか、という議論を出発点にするのではなく、日本が宇宙開発で何をやり、どのように戦略的に存在感を発揮するべきか、という議論を出発点にして、そのために有人事業が必要かどうか、という議論にしていくべきだと考えている。

間違っても、「外国がやっているから私たちもやる」という議論や、「抜かれたから追いつかなければいけない」という合理性よりも競争心を煽り、政策的な合理性があるともいえない議論に拘泥するべきではない。