2012年6月21日木曜日

事故調乱立は民主主義の証

本日のテレビ朝日系列「報道ステーション」で、東京電力の社内事故調査の報告書を受けて、コメンテーターの三浦氏が、政府、国会、東電、民間事故調の四つを挙げ、事故調が乱立気味であり、真実が何かわからない、という趣旨の発言をしていた。また、キャスターの古舘氏もそれに同意するコメントをしていた。

この発言を聞いたとき、さすがに恐ろしい気分になった。元々朝日新聞の論説委員であり、自身がジャーナリストである三浦氏が、「真実は一つであり、事故調査は一元化するべき」と考えているようであれば、それはジャーナリストとしての自殺と言わざるを得ない。

なぜなら、彼自身が所属する朝日新聞も含め、新聞は全国紙として5紙(読売、朝日、毎日、産経、日経)があり、彼自身が出演しているテレビ局も民放5社(日テレ、TBS、フジ、テレ朝、テレ東)とNHKがある。もし世の中に真実が一つしかなく、それを報道する組織も一つであればよい、というのであれば、日本にこれだけの新聞社もテレビ局も必要ないはずである。

世の中に真実が一つであり、故に報道機関も一つであればよいと考えている国はあるし、かつてもあった。有名なところでは「プラウダ(真実)」という名の新聞を唯一の公的な報道として認めていたソ連や、現在でも「労働新聞」のみを公的な新聞としている北朝鮮などは代表的なケースであろう。

つまり、三浦氏がいう「真実は一つ、事故調は一つ」という考え方は、全体主義のそれと全く変わりがない。そのことに気が付かず、平気で数百万人は視聴すると思われるニュース番組で発言してしまうことの愚を考えてほしい。

ただ、彼の言いたいことをやや好意的に解釈するとすれば、「現在の事故調はたくさんあるが、どれも同じようなことばかりをやっていて新味がない。そんなことであれば事故調など複数いらない」という発言としてとることもできる(かなり無理はあるが)。

私自身が民間事故調に関わったから、というわけではないが、国会事故調が東電の撤退問題や官邸の介入に関して強い関心を持つのも、また、今日発表された東電の報告書でこの問題に対する反論(ないしは言い訳)めいた記述が出てきたのも、ある意味では民間事故調が福島原発事故の背景となった政治的、歴史的、構造的要因に切り込む報告書を出したからであり、そこで掲げられた論点を受けて、複数の事故調がそれぞれに意見を出した結果、こうした「横並び」のような状況を生んでしまったのではないかと考えている。

もちろん、ここで取り上げられている論点はいずれも事故を理解する上で重要なポイントであり、それぞれの事故調が独自の調査と分析をすべきものだろうと思う。しかし、それぞれの事故調は異なった目的やミッションを担っており、何も民間事故調と同じ論点で議論をする必要はない。

国会事故調は、その設置法にも書かれている通り、事故の真相を究明し、今後の原子力行政や原子力法規制に向けての提言をすることが目的である。であるならば、事故の真相究明は最終的に政策や立法の提言に結び付くものでなければならない。東電の撤退問題や官邸の介入は、確かにその後の原子力規制のあり方や原子力災害時の体制を考える上で重要な論点ではあるが、本当にそれだけが問題なのか、と言われるとそうではないように思う。その意味で、国会事故調が何を目指して調査をしているのか、今一つ明確ではない点が気になる。

また東電事故調は、サイトのデータや事故時の福島第一原発と本店の間のやり取りなどを知る唯一の存在であり、そうした立場から徹底した資料の提出と事故の経緯の解明をすることが将来の原子力事故を防ぐための教訓となるため、そうした資料の提出と将来につながる報告書を書くことが目的であるべきである。しかし、今日発表された東電事故調の報告書を見る限り、東電の自己保身、言い訳、自己正当化の部分が目立った。もちろんサイトで起こったことの分析やデータの提供もなされているが、どうしても報告書全体が自己保身を目的としているようなバイアスがかかっており、将来的に教訓を残そうという意図を強く感じない報告書に見える。

こうなってしまったのは、それぞれの事故調が本来の目的を見失い、社会的に注目を浴びる論点に意識を強く持ってしまった結果として考えることが出来、その意味では民間事故調も含めて、事故調が複数存在し、本来拡散されるべき論点が、収斂してしまったことに問題があるとは言える。

しかし、それは複数の事故調が乱立していることが問題なのではなく、それぞれの事故調が自らの目的とミッションを明確に定義せず、調査・検証の軸が固まりきっていなかったこと、そしてメディアを含め、社会的関心が官邸の介入などに集中してしまったことが原因と考えられる。

まだ国会事故調の中間・最終報告、政府事故調の最終報告は出ていないが、民間事故調、東電事故調、政府事故調の中間報告を見る限り、それぞれが広範な論点に言及し、それぞれの立場から有益な分析をしていると思う。これらの報告書の中には将来の原子力のあり方に向けての示唆が多数含まれており、それらをうまく活かしながら新たな規制機関や法制度の整備をしていけば、今回の事故の教訓を踏まえた危機管理の仕組みができていくことは期待できる。

しかし、政府事故調も国会事故調も最終報告を出さないまま、原子力規制委員会、規制庁の設立を決める法案は国会を通ってしまい、そうした知見を活かした法制度整備や安全規制整備になっているとは言い難い状況になってしまった。

様々なことが後手に回り、夏が来る前に電力不足を解消しようと焦る政府は、早急に原発再稼働を進めようとした結果、過去の教訓が活かされた体制作りができなかったことは大変残念である。

すでに述べたように、複数の事故調が「乱立」し、それぞれの立場や目的から様々な提言を行うことは民主主義国家ならではの出来事である。「真実は一つ」ではなく、様々な角度から見える「複数の真実」を突き合わせ、政府や国民は複数ある分析や解釈の中で何を選び取っていくのか、ということこそ、民主主義的な営みなのである。それを強権的に一つの事故調、一つの分析による、「かりそめの一つの真実」にまとめてしまうことは、原子力ムラの介入や政治的な介入によって「真実」が捻じ曲げられてしまう危険すら伴う。

であるがゆえに「事故調乱立」は民主主義の証であり、それを否定するどころか、事故調が乱立していることを歓迎し、その中で、政府や国民が「何が真実か」を自ら掴み取っていくことが民主主義の成熟にとって重要なのである。